ツキノワ 6話
熊とヒトとハートブレイク
断髪式(?)を終え、私とウルさんは夕食の準備に取り掛かった。
「…なんか食べてばっかの気がするんですけど」
「気にすんなー。食の充実は幸せな人生の基本だかんな、はっはっは」
「誰ですかウルさんにそんな事吹き込んだの。絶対ヒトでしょ」
「お、勘が鋭い」
「だっていかにも日本人的発想ですもん」
そうは言いながらも、昼食はあのネコ野郎どもに中断されたため、少々もの足りないと思っていたのは事実だ。
談笑しながらポリバケツの水を鍋に移し、石でつくった竈の上に乗せる。
渡されたいくつかの壜の中から、計量スプーン(これも落ち物)でウルさんの指定通りに得体の知れない色の粉を入れていく。
…大丈夫なのか、これ。
私の不安に反し、ふつふつと煮立ってくるスープからは和風とも中華とも洋風ともエスニックとも、ましてやカレーともシチューともつかない、でも猛烈に食欲をそそる香りが立った。
「…うわ…なんて言ったらいいんでしょうね、この新感覚」
「ヒトはみんなそう言うな。今まで嗅いだことないニオイだっつって」
「いや、でも、なんでしょ。すっごく美味しそうな感じはするんですけど。ていうかお腹鳴って来たんですけど!」
「まあ待て。具がまだねっから」
手刀でパカパカといとも簡単に薪を割っていたウルさんは、立ちあがって小屋の軒先につるしてあった大きな肉の塊を外す。
ついでに、水を張った大きなたらいに浮かせた野菜をいくつか取り出して小脇に抱え、のしのしと戻って来た。
その中できゃべつに似た玉状の、葉の緑も鮮やかな野菜をバリッと手で真っ二つに割り、無造作に放りこんだ。
「こいつを入れっと、また違ったダシが出んだな」
「…ご、豪快ですね」
「ほれ、香りが変わってくんぞ。よーく観察してみれ?」
「えー…あー…本当だー。ちょっと爽やかな感じ。レモン入れたみたいな…」
続いて肉の塊を大きめに裂き、ぽいぽいと放っていく。
人差し指と親指でらくらくやってのけてるけど、干し肉ってこんな簡単に裂けないよね。ビーフジャーキーのカタマリだと思えばわかりやすいんだけど。
やっぱ力、強いんだなあ。…ていうか何の肉なんですかってコレ、訊いてもいいんだろうか。
「わあ、お肉入れたらきれいな金色になりましたね、スープが」
「まあな。アッチじゃカガクハンノウ? っていうんだろ? なんかこういうの」
「ちょ、ちょっと違う気もしますけど」
「一応言っとくと、この肉はそこの山ん中で獲れたなんか得体のしれん食用獣のだ」
「ええー…」
「だいじょぶだ、俺はもう何万回と食ってるし。ヒトにも毒性ないのは実証済みだから問題ナシ!」
「……いちおう覚悟だけはしときます、はい…」
まあ、私も元サバイバー(笑)だ。胃腸の丈夫さには自分でも呆れるくらい自信あるし、死ぬほどのことにはならないだろう。
冷たい水に浸して耳の火傷を冷やしていた布を片づけ、私もお手伝いする。
小さなまな板の上で残りの野菜をひとくち大に切り、ざらざらと鍋にあけた。
じゃがいもやサトイモに似た、でもデンプン質ではないらしい根菜。ネギに似た香りの、でも真っ赤な太い茎の野菜。あとはハーブみたいな小さい色とりどりの葉っぱもちぎって入れる。
木でつくった大きな匙で軽くかきまぜ、ウルさんは火加減をみながら、鍋の位置を上げたり下げたりした。
「…あれ」
そうしている間に、徐々に日は暮れていった。
異世界で初めての夜が来る。
たった半日で随分いろんな事があった。今日という一日を惜しみたくなる、夕方に付きものの寂寥。
良い匂いの湯気に巻かれながら、ある種の感慨をもって黄色とオレンジと紫のグラデーションに彩られた空を見上げた私は、思わず声を上げた。
「あの、ウルさん…あれは月ですか?」
この世界でも太陽は東から昇って西に沈むのか、そもそも東西南北の概念があるのかどうかさえ私はまだ知らない。
それは後で訊けばいいことで、それよりも今、目に見えて明らかな疑問がぽっかりと空に浮かんでいる。白くて丸い、あちらの世界でもなじみのもの。
月だ。
――それが、2つある。
「あ? ああ、そうだ。おめぇさんらヒトの世界じゃひとつなんだもんな、月って」
「なんか、ずいぶん大きいんですけど…」
あちらの月は、一円玉を1m離したときの大きさと同じぐらいに見えているらしい。そんな話をどこかで聞いたことがある。
でもこちらはそれ以上だ。たった今まで気がつかなかったのが不思議なくらい大きい。私の拳大くらい?
ひとつは満月、そしてもうひとつはあちらで落ちる直前に見たのと同じ、三日月。
「大陸で見るのと比べても、そうらしいな。でっかく見えんのはたぶん、この国が半異世界にあるからじゃねっかな?」
「はあ」
「月の神は、ふたりでひとり」
傾けた(例の)ポリバケツから零した水で指先を洗っていたウルさんが、歌うようにそう言った。
鍋はぐつぐつと盛大に音をたてている。惜しげもなく美味しいにおいを巻き上げる湯気すら勿体ないような気になって、私はそっと木蓋をかぶせた。
閉じ込めたせいで騒がしかった音が籠る。顔にあたる湯気もなくなり、少し冷たくなった夕風を頬に心地よく感じながら、ウルさんを見上げた。
「…ふたりで、ひとり?」
「人間だってそうだろ? 男と女がいて、人間だ」
「ああ、そういう意味ですか。それならそうですね」
「それから、『クマ』と『ヒト』も」
鍋がおとなしくなってしまったせいで、風のたてる自然音が耳につく。
淀みなく流れる川のせせらぎ。揺れて擦れあい奏でる梢の歌。夕暮れ独特の、泣きたくなるような空気。
その静けさの底で、ウルさんの太い声が確とした芯を持って立つ。
「クマとヒトも、この国ではふたつでひとつ。決して離して考えることは出来ねぇ」
「…ヒトも?」
「そうだ。あの月のひとつは女で、クマを表す。もうひとつは男で――ヒト、を表してる」
ヒトは『奴隷』で、『家畜』で、『ペット』で、『仲間』で。
クマの中でのヒトの価値がよくわからない。決して悪く思われていない、むしろ尊重されているということだけしか。
「これはさっき途中になってた話とも繋がるんだけどな。…この世界では虐げられてるヒトを、クマがどうして優遇するのか、隣人として大切にしているのかっていうとだ」
「はあ」
「ひとりぼっちの『ウル』を助けて、その短い寿命の最期までを共に過ごしてくれたのは、他でもないヒトだからなんだよな」
「ああ、なるほど。そういう事なんですねえ」
「『ラウ』がシロクマの国を建国したように、『ウル』はこのクマの国を全く新しい形で作り直した、そん時に『ウル』の支えになってくれたのが、『ジンタ』っていうオスヒトだ」
2つの月は寄り添い、例えるなら時計の長針と短針みたいな関係に見えた。
やっぱり時間の経過とともに近づいたり、遠ざかったりするんだろうか。
「…だからあの月が『ウル』で、あっちの小さいほうが『ジンタ』だと、俺たちは考えてる」
「へえ。あっちの世界で言う星座みた――」
――ウルさま、ウルさま、しっかりしなせぇ。
夢と現のあわいを漂うばかりのウルさまを、細い声が呼んでいます。
――ウルさま、ウルさま、おねがいだ。
よく知った声でした。細い、高い、弱い、哀れなほど小さき者の声。
全身を針で突き刺されているように冷たいのに、腕に抱いたその者と触れているところだけをほのかに温かく感じて、ウルさまはかすかに安堵の息を吐きました。
――(ああ、生きている)
しかし、知っていました。この得難い温もりさえも、じきに意味をなさなくなることを。
同じ事をもう何千、何万回も繰り返してきたのですから。
――ウルさま、ウルさま…
――(…聞こえているわ、お願いだからすこし黙って)
口の中は喉まですっかり凍って、舌は張り付いて、意味のある言葉はおろか、ただの一音も発することは出来ません。
瞼も上と下がくっついて、睫毛も合わせてくっついて、目を開けることさえ出来ません。
これが、ウルさまに与えられた罰なのです。
「…っ!!??」
突然身に覚えのない感覚が襲ってきて、私はびくん! と思い切り跳ねた。
ウルさんはちょうど背を向けて鍋の中身をかきまわしていたので、それには気づかなかったと思う。
「ほれ、できたぞー。たんと食えな」
「あ…ありがとうございま…ってうっわぁいいにおい!! 超おいしそおおおお!!!」
「だろー」
ウルさんが自分で彫ったという木のお椀にたっぷりとよそってくれたスープは、お世辞じゃなく、しみじみと美味しかった。
野菜もひとつひとつ美味しいけど、何より少し固さを残したままの干し肉の歯ごたえがまた良い。噛むと中からじゅるりと熱い汁が出てきてまたも火傷をしそうになり、ウルさんに笑われたりもした。
これほど美味しいものを食べたことがないという気もしたし(それはウルさんが作ってくれたからというのもある)、どこかで食べたことがあるような、懐かしいような感じもした。
いずれにしてもこれからこの国で、こんな感じの料理で生きていくのだと覚悟を決めながら私は、本当に遠慮なくお腹いっぱい食べた。
「美味しかったー。ごちそうさまでしたー!」
「や、お粗末さん。…よく食ったなあ」
「ほんとめっちゃ美味しかったです! 良かったー私ここでの生活なんの心配もないなー!」
「そうか?」
「はい! もう、ごはんが美味しいっていうそれだけで!!」
「…そんなんでいいのかよ」
親指を突き出す私に、ふっとウルさんが笑った。
…うん、笑った。
苦笑いとか呆れたって感じじゃない、単純におもしろいなと思っての笑いっぽくて、安心したのと同時に私は、だいぶウルさんの感情を読めるようになってきたことを嬉しく思った。
まあね。ほんとはそれだけじゃないけどね!!
言えやしない! 言えやしないよ!!
2人できれいに平らげた鍋と器を洗い流し、やれやれと腰を上げたときにはもう、あたりはすっかり夜になっている。
なのに真上で煌々と光を放つ2つの月と、負けないくらい大量にちりばめられた星々のせいで、灯りなんか全然いらなかった。
川向うの森はさすがに影絵みたいに見えたけど、足元でやわらかく揺れる花たちの鮮やかな色彩は、白々と降り注ぐ月光の中で、より神秘的に見えた。
それは昼間、陽光を弾いて眩しく輝いていた川面も同じだ。今は月光を浴びて、静かに、息をひそめるように流れている。
――思わず息を飲むほどの美しさで。
「あ…明るいですよねぇ。夜だってのに…」
「まあなぁ。あっちじゃ月がいっこで星もそんなにないから、デンキ? だかなんだかっていう灯りが必要なんだろ?」
「…ええ、まあ」
月の個数の問題でもないんだけど、どう説明していいものかわからなかったので、とりあえず頷いた。
すんませんテキトーで。
でもこんなつまらない話題でも振ってみなければ、何だか魅入られてしまいそうだったのだ。
恐るべし大自然。修行が足らんぞ都会っ子。
お腹が満たされて、片付けも終わって、ふと会話が途切れた。
なんていうんだろう。この『外のにおい』。風が運んでくる夜特有の湿った冷たい空気の中、草の上に足を投げ出して座って、ただ静かに呼吸をしてみる。
そうしていると、なんとなく昨日までの日常が思いだされてきた。
夜。会社からの帰り道。駅までは少し遠い。
私は繁華街の通りを歩いている。
あちらこちらの店の換気扇から漏れる熱い空気には当然おいしそうな料理の匂いがまじっていて、いつでもお腹をおさえずにはいられなかった。
(…今日はなんかいろいろありすぎて疲れたなあ)
(でも帰ってごはんつくってあげなきゃ)
(何にしよう。やっぱりお肉かな。今日ぐらいひさしぶりにガッツリ自分の食べたいものを食べたいけど)
(でも鶏ササミくらいしか食べないんだよね、あのひと)
(そうだ。じゃあササミの中にチーズ入れて揚げてみようかなあ。海苔とか巻いて)
(あ、でも脂肪がつく! とか言って怒るかなぁ)
(プロテインと鶏ササミで生きてるようなもんなのに、なんで私に料理しろなんて言うのかな?)
(私が自分に尽くしてるっていう実感が欲しいんだろうけど)
(正直ちょっとめんどくさいから外食にしたいけど、これからのことを考えると節約しないといけないし)
買ったばかりのパンプスのかかとが痛い。まだ足の形に慣れていない。
それでもガツガツと歩いた。下を向いて、せわしなく動く雑踏の脚だけを見ながら。
(あっちは休みだったけど、一日家にいたのかな)
(出かけるとしてもジムくらいだと思うけど)
(…ていうか今日、会社で何があったかも知らないんだろうな)
(いや、もう知ってるかな。さすがにこんなことになってんだから、同僚の誰かからメールくらい行ってると思うけど…)
(でも知らなかったら、私が教えてあげなきゃいけないんだよね)
(気が重いなあ。…凹んじゃったら、どうやって慰めてあげたらいいんだろう)
コートを着るのは少し早すぎたかもしれない。脇目もふらずに歩いているせいで、少し汗ばんできた。
その時、内ポケットの携帯が震えた。
短く3度ならメールだ。
…違う。長い。4、5、6…
誰かからなんてわかりきってる。折り畳み式のそれを乱暴に開けて、画面も見ずに即拒否の上、電源ごと落とした。ばちんと閉じてバッグに放りこむ。
それきり忘れる事に努めた。
こういう感情の殺し方には慣れている。
(ああ…どうしよう。これから暇になるなあ。このご時世、次の仕事なんかすぐ見つかるわけもないし)
(まずはぱーっと気晴らしにどっか出かけたいなあ)
(できれば、そうだなあ…海が見たいな)
(もうどれだけ行ってないだろう。お父さんとお母さんが生きてた時だから…)
止めよう。哀しくなってくる。
メインストリートから左に折れると、途端に静かな住宅街になる。古くからここに住んでいる人々の歴史を感じる家並みだ。
力ないスポットライトのような街灯。電柱の下の不法投棄の壊れたテレビの前を通り過ぎる。
侘しい風景に、自分のかかとの音だけが響いている。どこか腹立たしげなそれが規則的に鼓膜を叩く。
不愉快な音だ。
(それよりあのひとが私のために車出してくれるかどうかのほうが問題だよね)
(デートだって、付き合ってから全然してない)
(付き合う前だって全然してない)
(ひたすら家に来い家に来いって、そればっかり)
(で、掃除だ洗濯だごはん作れだって、私それしかしてない気がする)
濃い藍色の夜の中、赤いトタン屋根の安アパートが徐々に見えて来た。
最近ようやく通い慣れ始めたとはいえ、まだ強く余所者を拒む雰囲気に圧されながら、錆の浮いた鉄の階段を静かに上がる。
他の住人は寝ているかもしれない。爪先で段を踏み、バッグのファスナーを開けて、そっと鍵を取り出す。
冷たい、かたい手触り。
考えて見れば私は、この鍵にキーホルダーのひとつも付けなかった。愛着を持つ事を無意識に抑えていたのかもしれない。
(こんなの付き合ってるって言えるのかな?)
(でもこんなこと言ったら、まだカラダの関係にもなってないのに付き合ってるなんて言えない、とか言われそう)
(そうかもしれないけど)
(でも、違うんだよ)
(好きだけど、なんか、…なんか…違う――)
鍵穴を見た瞬間、鍵を持った親指と人差し指がまず、反応した。
突きあたりから2番目のそのドアの中がどうなっているのか、私は不思議とその時点ですでに察していた。
「ほい、これ」
「…えっ?」
にゅっと目の前に差しだされたものに、思考が遮られた。
それは湯気のたつカップで、どうやらウルさんが淹れてくれたらしいお茶のような液体が入っている。
「ありがとうございます。…これ、何ですか? なんか甘いにおいがする」
「干した果物に熱い湯ぶっかけただけのモンだよ。でも美味ぇから飲んでみ、びびるぞ」
受け取ったカップの中身は透き通った綺麗なルビー色だった。表面に真上の月が映り込んでゆらゆら揺れている。
(月を飲む、か)
なんて風流なんだろうと思いながら、ふうふうと息を吹きかけて心もち冷まし、ゆっくり唇をつけた。
傾けたカップの底で、梅くらいの大きさの実がごろんと転がる。
「…あー、本当だぁ」
「だろ」
甘さ8、酸っぱさ2ぐらいの絶妙な味わいが舌の上を滑って食道を通り、胃に届いてじんわりと体に染みていく。
美味しいけれどがっつきたくはない。熱いせいじゃなくて、ほんとに大切に大切に、少しずつ味わって体の中に入れたい感じ。
とても、優しい味だ。
「何を思い出してた?」
「えっ?」
隣に腰かけたウルさんが、たぶん何の気なしにそう言った。
私は咄嗟に言葉が出なくて、しばらくカップの底の実をごろごろと意味もなく転がしていた。
かきまわされた月が渦を白く染める。
特に答えを期待していなかったのか、それともまずい事を聞いたのかと思ったのか、ただ待っていたのかはわからない。それきりウルさんは何も言わなかった。
「…人生で初めて、ちょっとほんとに死にたいと思った時の事を思い出してました」
言ったその時にはもう「くだらないなあ」と思っていた。
それでもウルさんは笑ったりしないだろうことも、馬鹿にしたりしないだろうことも、もうわかっていた。不思議と。
「浮気されてたんです、私」
だからあっさりとそう言えた。
ウルさんはやっぱり何も言わず、たぶん私に淹れてくれたのと同じものをひと口すすり、ただこちらを見下ろした。
なんでそんなことがわかってしまったのかはわからない。
ただ、その鍵穴から、何か、そういった匂いの空気が漏れていたのだとしか言えない。
薄い木造の扉の向こうから聞こえる声も、幻聴なんかでは決してなかった。
(大丈夫なの? カノジョ、そろそろ来るんでしょう)
(いいんだよ。ていうか、見せつけたいんだよ。早くそのドア開けて入って来てくんねぇかなあって思ってる)
(えー? もしかしてそういう趣味なの?)
(違ぇよバカ。ぶっちゃけもう別れてぇの。何の情もねぇの。こうしてるとこ見せつけて、ひどいわあなたこんな人だったのねって、ひとりで勝手に傷付いて、二度とここに来ないようにしたいんだよ)
(可哀想。じゃあちゃんと別れようって言ってあげたらいいのに)
(嫌だよ。なんで1ヶ月も付き合ってヤラせもしなけりゃキスもさせないよーな女にそんな親切にしてやらなきゃいけないんだよ)
(今どき珍しいくらい純粋な子じゃない。悪くないわよ?)
(俺はおまえみてぇに純粋じゃない女がいーの)
(じゃあどうしてつきあってあげたの?)
(処女とヤッたことないから)
(それだけ?)
(それだけ)
(酷い男)
(こんな酷い男が好きでたまらないおまえって、何)
(―――…)
そこから先は、とても聞く事が出来なかった。
速やかにしっぽを巻いて、その場から逃げだしたからだ。
「…私、そこで怒っても良かったと思うんですよねえ。
中に踏み込んで、この最低男って怒鳴って、たぶん素っ裸だったそいつらのこと、そのまま外に叩きだしても良かったんだと思うんです。
私は裏切られた立場なんだから、そうしても良かったんですよね、きっと」
答えを期待したわけではなかったけど、ウルさんはやっぱり黙っている。
それで私は心の底から情けなくなった。
今は、ドアに耳を押し付けていた自分の姿を思い返して死にたい気持ちだ。
「私、何も出来なかったんですよねぇ…。
なんていうか…ちゃんと『誰かのもの』になれない、っていうんでしょうか…
『彼女』だったはずなのに、『彼氏』の裏切りに対しても、ちゃんと怒れなかったというか…。
や、そもそも、向こうは私のことを彼女とも思ってなかったわけだから、なんていうか」
(ほんっとに馬鹿だ、私は)
カップの湯気の中に顔をつっこんで、ゆっくりと鼻で呼吸した。
優しいあたたかい香りの中で、眼球が湿っていく。
そうだ、これは涙なんかじゃない。
ただの湯気だ。
「えっと、…その足で、ひとりで海に行って。…で、落ちて…」
本当に死ぬつもりだったのかどうかはわからない。でも、少しだけ本気ではあった。
『恥ずかしい』というか、『いたたまれない』というか、とにかく自分というものの存在がこの上なく薄っぺらいものに感じていた。
そうだ。それこそみじめで、情けなくて、体じゅうが痛くて寒くて、このまま縮んで縮んで縮んで跡形もなく消えてしまいたいと――そう、願ったのだ。
「や、うん、でも、今考えたら私これで良かったんですよね。
考えて見たらあの日だけじゃなくて、ずっと前からそーいうことやってたんだと思うんですよ。
そりゃ制裁を与えてやれなかったのは心残りですけども、何も私が直接手を下さなくたって、いつか誰かに刺されて死にますよあんなやつぁ、ねえ。
それにどうせあのままアッチにいたって、再就職先も見つからなくて、結局餓死してたかもしんないし、それに、そ…」
威勢よく強がりを言いながら、いつのまにか膝をかかえていた私の頭に、あたたかい大きな手が乗せられた。
「ごめんな、言わして」
(違いますよ、私が勝手にぺらぺらしゃべっただけで)
「俺が悪かった。…だから」
(いやいや、ウルさんは何も悪くないですってば)
「おめぇさん、これからはずっとここにいろ。その…」
(え、あれ?)
「俺が、守ってやっから」
(それは、違う)
それは、本当だったら嬉しくて飛びはねたくなってもおかしくなかったはずの言葉だ。
なのにどうしてだろう。私の心はその瞬間、自分でも驚くぐらい酷く沈んだ。
意識がブラックアウトするほどのそれは、たぶん。
(絶望、だ)
------------------------
あの日。ひとつの国が滅び、歴史が暗黒に塗りつぶされた日のお話。
ウル姫はうつぶせに倒れ込み、その黒く美しい鼻を土に埋めながら、閉じた瞼の裏が徐々に真っ赤に染まるのを感じていました。
草一本残らず真っ黒に焼け焦げた土の下から、たっぷりと染み込んだ熱い血の匂い。
――わたくしはここで死ぬのかしら。
濃く熱く立ち昇るその強い鉄の匂いは、数日前までこの国で生きていた人々の流した血液の匂いでした。
肉片ひとつも、骨のひと欠片も、毛の一本すら残さずに、あとかたもなく消滅した。
これが姫を虐げ、罵り、嘲っていた人たちのなれのはて。
――それがいい。きっと、ここで終わるのが一番、いい。彼らも、わたくしも。
誰ひとり優しくなどしてくれなかった、誰ひとり認めてなどくれなかった。
誰ひとり、愛してなどくれなかった。
ここはそんな人たちばかりがしあわせに暮らしていた国でした。何不自由なく。何も知らず。何も――
――起きなさい、ウル。
頭の上から声を掛けられて、まどろみかけていた姫はカッと瞼を開きました。
じろりと見上げると、新雪よりも美しかった白銀の毛皮を無残に煤けさせたラウ王子が、困ったような顔で見下ろしておられます。
――…傷は、どうだ。
――この程度、大したものではありませんわ。
仮にも王太子に向かって不遜であると知りながら、ウル姫は目玉だけを向けたまま動きませんでした。
いまさらこの方に礼を取る必要などどこにありましょう。
国は滅んだのです。
他ならぬこのラウ王子と、ウル姫とで、滅ぼしたのです。
――神は…残酷な結末をわれらにおあたえになったな。
――因果応報ですわ。
ウル姫は間髪入れずに答えました。
茫洋とした視線を焦土と化した国土に向けていたラウ王子は、そんなウル姫に苦笑めいた声音で言いました。
――国民を、…我らを、憎んでいるか、ウル。
――何故です?
ウル姫の返答はラウ王子に、随分と挑戦的に響いた事でしょう。
王宮で、戦場で、市井で。ラウ王子はウル姫と違い、その美しさを、その武勲を常に褒め讃えられていました。
疎まれたり、馬鹿にされたり、時には暴力を持って虐げられたりなど、一度だってされたことなど無いのです。
立場の違いを理由に、9日前闘技場で相見えるまでほとんど言葉を交わしたことすらない妹に対し、それは酷く無神経な問いではなかったでしょうか。
――確かに彼らはわたくしを軽んじました。妬みか蔑みか存じませんが、随分言いたいことを仰った。
ウル姫は淡々と、無感情に努めました。
腹の底では、言いようのない怒りが渦巻いています。
その怒りは兄王子に対してかもしれません。未だ収まらぬ故人たちへの恨みかもしれません。ただ、姫自身にも判然としないものでした。
そんなものよりももっと、混沌としたものでした。
――ですが、それが何です。わたくしはわたくしであり、それ以上でも以下でもないのです。今更何者にもなれやしないのです。誰に何を言われたとしても。
嗚呼、ほんとうにそう思いきれていたなら!
ウル姫は思わず目をきつく閉じ、やりきれなさを押し殺した細い息を漏らしました。
嘘を吐いた、と瞬時に自覚していたのです。
恨んでいないはずが、ないではありませんか。
王子には到底理解出来ないでしょう。血を見る事すら嫌だというのに、戦場では常に前に押し出され、盾にならねばならなかったウル姫の苦痛など。
心折れそうになりながら、背に庇った者たちを死なせまいと奮闘しても、戦が終われば、当の彼らからでくのぼうと罵倒される痛みなど。
好きでこんな色に生まれたわけではないのに、汚い色ぞと石を投げられ。
母には忌み子と、不吉の子と、今すぐに殺せと、生かすのならば一生妾の前に連れて来るなと靴を投げられ。
父に生まれた意味を問われ、誠実にお答えしたにも関わらず、された扱いは畜生以下で。
――皆、わたくしが傷付かぬ身だからといって、心まで傷付かないとでも思っていたのですか、兄上。
――………。
誰の目にも明らかだったではありませんか。王が推し進める侵略と略奪の非道ぶりは目に余り、これ以上続ければ力の源たる母神によって罰される日が必ずくると。
それを悟って欲しい一心で、今からでも改めて欲しくて、正直に申し上げたのです。
周りの者が誰もそれを父王に悟らせないのなら、娘であるウル姫がやるしかありませんでした。
ただひとりであったとしても。
いいえ、ただひとりであったればこそ。
どれほど恐ろしくとも、逃げ出したくとも。
――ですが、もう、全てがどうでも良い事です。皆死んでしまった。神々の思惑通りに。
ウル姫はお育ちに合わぬ舌打ちをしたい気持ちで、吐き捨てるように言いました。
今さら恨み事など言ったところで何になりましょうか。それもラウ王子に対して。
自分とはまるで正反対の扱いを受けて来た、眩しいほどに清廉な兄になど、理解されるはずがないではありませんか。
――私だよ。
その王子は灰と血の混じった風に掻き消されるほどの微かな声で、まるでひとりごとのように言いました。
――何がです。
――王を…父上を殺したのは、私だよ、ウル。
ウル姫は思わず、兄の顔を仰ぎ見ました。
晴天を映したようなラウ王子の碧い瞳を、今は周囲に立ちこめる赤い不吉な血霞が暈していました。
――…いいえ、そんなはずは。
――私だよ、ウル。
――違います。この有様は、兄上とわたくしの相反する力が大規模な反発を起こして……
――違うんだよ。私は、明確な意思をもって、父上を殺した。
――嘘です。
――この拳で、心臓を貫いた。
――嘘です!!
自分でも驚くほど強い口調で、ウル姫は否定しました。
確かに、王子の純白だった右手は赤茶色に染まり、乾ききった瘡蓋のようになってはいました。
しかしそれが王のものとは限りません。
俄かに信じられるような話ではありませんでした。
――そんな…はずは。
だって、そんなはずがないではありませんか。
ラウ王子ほど父王に愛されていた子供はいなかったのです。
ウル姫が恨みに思って殺すならまだわかります。よりによって何故、ラウ王子が、父を手に掛けなければならないというのでしょう。
――私は、父を、母を、きょうだいを、民を…愛していたよ。
――……そうでしょうとも。
ラウ王子のその言葉で先ほどの驚愕がみるみるうちに萎んでいくのを、ウル姫は苦く意識しました。
鼻先で燻る焼けた血肉の臭いがひときわ強くなったような気がしたその時、ラウ王子はこう言ったのでした。
――ウル。私は生まれる前から知っていた。そして、一時も忘れることは無かった。
――なにをです。
――彼らがどれだけ私を愛してくれても、私は彼らを殺すために神から遣わされたのだということをだ。
――!!
ウル姫の本当の『親』は、大地と太陽の子にして、世界に夜と闇を齎す者――月神です。
その嘆きより生れし王女は、王に『滅び』を与えるため、この世に生まれました。
太陽神の苛烈な怒りが火を噴いてしまう前に、王自身ではなく、侵略と暴力の権化と化した<国>をこそ滅ぼすために。
クマたちをもう一度原点に、森の奥で営む慎ましくも平和な暮らしに戻すために。
しかし、ラウ王子の本当の『親』は、大地の神の伴侶にして世界に朝と光を齎す者――太陽神でした。
その怒りより生れし王子は、増長した王を『死』を持って止め、破壊と権力への渇望から『救い』を与えるために、この世にやって来たのではなかったでしょうか。
太陽神の御心のままに王子は父を、――王を、その手にかけたのでしょうか。
ならば、それは道理です。
悲しいほどに、残酷に。
今更ながらその事に気付いた瞬間、ウル姫の身の裡で凝固していた積年の暗黒がするすると溶けてゆく音がしました。
何かの弾みで固い結び目があっさりと解けるような、その手触りまでもはっきりと感じたようにさえ思われました。
――…申し訳…ありません、兄上。
――何を謝る。
――わたくしは己ばかりを憐れんでおりました。兄上の境遇を羨み…
――謝ることではない。
――全てわたくしがすべき事でした。兄上に手を下させる前に、いいえこのような事になる前にわたくしが父上を、国を。
――それで良いのだ。
――なぜです! この事態はわたくしが王をお止めすることが叶わなかったからこそ!!
――それで良いのだ、ウル。
兄はすべてわかっていたのだと、ウル姫は悟りました。
しかしだからといって、ウル姫の苦しみも、ラウ王子の悲しみも、決して終わりはしないのでした。
抗えぬ圧倒的な存在によってこの世に生み落とされ、容易く死ぬことすら許されない。
それが人ならぬ、神の子のさだめ。
――私は、北へ行く。
ラウ王子の唐突とも言える宣言を、ウル姫は脱力したまま受け止めました。
――そうですか。
――妻と子と、配下を数人、それとヒト奴隷を隠しておいた。
――そうですか。
――彼らを連れ、北へ行き、新しい国を興す。
――そうですか。
――お前はどうする、ウル。
問われても、答えられるはずがありません。
たった今まで、この国の終焉とともに果てようとしていたのですから。
――わたくしには何もありませんわ。…何の、用意も。
――ならば、私たちと共に。
――兄上。わたくしは何処にも参りません。何も要りません。何も欲しくなどありません。
地に倒れ伏したまま、ウル姫は矢継ぎ早に言いました。
心の中は空っぽでした。何の未来さえも思い浮かびません。例えばいつどうやって起き上がろうかという事さえも。
だというのに、たったひとつだけはっきりしていることがありました。
そして、それだけでもはや、ウル姫には充分でした。
――わたくしは、ここに残ります。
ウル姫の出した結論は、ラウ王子をさほど驚かせなかったようでした。
ほとんど想定内であったかのように、何の感情の揺らぎもなくそこに立ったまま穏やかに問われました。
――なぜだ、ウル。
――異な事を仰る。わたくしが残らなければ、誰がこの国を護るのです。
――…。
――兄上。いくら民に蔑まれ、疎まれていようとも、わたくしはこの国の姫です。
――……。
――わたくしを疎む者はもう誰もいません。生き残った王族はわたくしと兄上だけです。その兄上も北へ行きなさる。
――………。
――それならば、この国はもう、わたくしのものです。
兄の穏やかさに励まされ、ウル姫は思うままをすらすらと口に出しました。
笑みさえ浮かべて大胆に言ってのけたウル姫に、ラウ王子はどこかせつなそうな顔で言いました。
――民がいなくば国は成り立たぬ。王族もまた然り。
――もうここに民は住めませぬ。大地の神の加護を失い、他族の怨嗟に塗れた我らクマ族とこの地の未来には、ただ毒と瘴気が満ちるのみ。
――では、もうここは国とは呼べぬ。
――だから何だというのです。
焦げ付き、荒れ果て、もはや腐ってゆくばかりの土。
神の慈愛も守護も祝福も、何もかも失って。
――お喜びください兄上。…わたくしはようやく、心から、この国を愛することが出来そうです。
ウル姫は伏したまま腕をいっぱいに伸ばしました。
まるで大地を抱くように、目を閉じたそのお顔は、深い深い慈愛に満ちて、まるで女神のよう。
反対にラウ王子のお顔は深い深い憐憫に満ちて、そんなウル姫のお姿からそっと目を逸らされます。
――長い…時間がかかるぞ。
――はい。
――お前がいくら不死身であっても、これからこの地を覆う災厄を乗りきれるかどうか。
――必ずや、乗りきってみせましょう。
ウル姫はそのまま、二度と目を開けませんでした。決然と。
逡巡した末にラウ皇子がゆっくりと踵を返し、歩みさらんとするその瞬間。
――さようなら、兄上。
――…さようなら、ウル。
彼らは、朝の申し子と、夜の落し子。
どこまでも相反する神の子たちの道は完全に断たれ、そこから生涯、再びめぐりあうことは無かったのでした。
------------------------
ふっと意識が浮上して、まぶたを開けたその時、最初に目に入ったのはウルさんの顔だった。
「…気ィついたか」
あからさまにほっとしたように言われて、状況を把握しきれない私は首をめぐらせ、あたりを見回した。
薄暗い木造の建物の中だ。
見た事がある。
…そうだ、ここは『コッチ』に来て初めて入れてもらった、ウルさんの小屋の中だ。
違和感というか、今の現実をどうにも受け入れがたかったのはベッドに寝かされていたせいだろう。
「…『コッチ』にもあったんですね…ベッドって…」
「お察しの通りこれも落ちモノだけどな」
「だからですねぇ。一瞬、なんで『アッチ』の世界にウルさんがいるのかと思っちゃって…」
それでも、目覚めて最初に見たのがウルさんで、やっぱり嬉しかった。…悲しいくらいに。
いかにも目がかすむのだと言わんばかりの仕草で、右腕を両目の上に置いた。
出て来るな、涙め。
鼻水もだ馬鹿。
「…あー…あ、すみません、えっとー、私どうしました? よく憶えてなくてぇ」
努めて明るい口調で言ったのに、ウルさんは答えない。
それどころか、見えないはずのその気配は明らかに緊張していた。
緊張、というのとはまた違うのかもしれない。ばつが悪い、というか、申し訳ない、というか、気まずい、というか。
そのどれもがごちゃまぜになっていて、でももっと私にはなじみのない、未知の感情も含まれているような気がした。
私は別に人の心を読めるような特殊な能力なんて持ち合わせてないはずなんだけど、何故かそれに関しては自信があった。
「その…さっきよぉ、言ったろ、俺が…」
「ええー?」
なにをですかぁ、と馬鹿みたいに明るく続けようとしたのに、ウルさんの口調は真剣だった。
「俺は、おめぇさんを、…傷つけたろ?」
(そうじゃないんですって、本当に)
「でも、本当に悪ィと思うのは、…それが何でなのか、いくら考えても全然わかんねぇってことなんだわ」
(いや、謝られる方がつらいっていうか…)
「頼む。俺のことを…嫌い、に、なってもいいから。…だから、おめぇさんが」
「嫌いになんか、なるわけないじゃないですかッ!!」
もうウルさんの最初の一言で泣いてた。最後のためらいがちの「嫌いになってもいいから」で号泣だった。
なんでだ。なんでなんだ。
なんでウルさんってこんなに優しいんだ。
――ひどいじゃないか。
たまらずぐわっと上半身を起こしたとき、濡れたタオルみたいなものが膝の上に落ちた。
ああ、これ、ウルさんがおでこに乗せてくれたのかなあと思ったとたん、口からとんでもない音量で感情があふれ出た。ほとんどウルさんの鼻に自分の鼻先をくっつけるようにして怒鳴った。
「私言ったじゃないですか、ウルさんはすごく素敵だって!
ああそうですよ、私はウルさんが好きですよ、惚れてますよ!! 失恋したことなんかもう何十億年前のことみたいですよ!!
ぶっちゃけ一目ぼれみたいなもんですよ!!
あーそうですよ、どうせ異常性癖の持ち主ですよ! 私はヒトなのに!! ヒトのくせにッ!!!」
ちょ、なんだこれ、と頭の中の冷静な部分が驚愕しているのがわかった。
何しろ私はこう見えて、一度たりとも激昂したことなんかなかった。もって生まれた不幸体質のせいか、どんな状況にあっても自分の心を冷静に見つめるくせがついていたからだ。
感情に流されたところでいいことなんかひとつもないということを、身を持って知っていた。
だからまさかこんなにも感情的に人に想いをぶつける日が来るなんて、思ってもみなかったのだ。
「わ…わかってますよ、ウルさんはほんとに優しい人ですよ! わかってるんですそんなことぐらい最初に逢った時から!!
でもその優しさも、な…撫でてくれるのも、守ってやるって言ってくれたのも、全部、ぜんぶ…!!」
私は臆病者だ。
どうしても、その後の言葉を言いきることが出来なかった。
(私を――ヒトを、ただのペットだとしか思ってないからでしょう!?)
【つづく】