01.人とヒトの違い
「――ふむ」
ネコの国、北の要衝ノーザンカッツェ。
イヌの国との国境沿いに位置するこの街で、巨大な羽毛の塊はひとつ頷いた。
「ええっと……」
「要するに、しばらく足止めだね。まあ仕方がないか」
金髪のヒト少女の疑問を制し、羽毛の塊は答える。場所は門前広場。
城壁沿いに座り込むその一組は、何か独特のオブジェのようにも見えた。
「そんなに危険な生き物なんですか? その――」
「ヨグロークは普段温厚なんだけれど、冬季だけは別なんだ。群れで行動する性質は変わらないけれど、動くものを見境なく襲って食べてしまう。あの巨体がチーターの陸上選手もかくやという速度で突っ込んでくる様は圧巻だよ」
その話を聞いて、セレンはヨグロークなる生き物の外見を想像する。しかし彼女に出来たのは、サイやゾウが凄まじい速度で走っている光景ぐらいのものだった。
変な想像を払い、セレンは恐る恐る司祭に問う。
「ちなみに、どれぐらい……?」
「まあ長くて一週間と少しかな。それだけあれば別のところに行くと思うよ。そうしたら改めてシュバルツカッツェを目指そうか」
言って、司祭はよいしょと腰を上げ、セレンを頭の上に乗せたままのっしのっしと歩き出す。
「取り敢えずはお昼ご飯にしようか。何か食べたいものはあるかい?」
「え、あ、ええと…… 特には」
しばしの逡巡の末、セレンはそう返した。遠慮したのが半分、何が食べれるのか分からなかったのが半分だ。
猫の国の食事、と考えて、生魚が丸々一尾、などと発想してしまう彼女には少々酷な質問だったろう。司祭はそんな少女の思考に気付いたかどうか定かではないが、言葉を続ける。
「――ああ。ちなみに落ち物文化というものがあってね。らあめん、とか、かれえらいす、というものも食べられるよ。そういうのでいいかな?」
「あ、はい。それでしたら」
「じゃあ向こうの方かな」
言って、司祭はその行き先を人の流れが多い方向へと変える。
セレンは司祭の角に掴まりながら、ちらちらと人の流れを、正確には人を見ていた。
そして呟くように言う。
「あの…… 凄く、見られてる気が」
事実、道行く人や路端で話している人の殆どの視線を、司祭とセレンの二組は集めていた。
「半分は私。半分はセレン、君かな」
「え、そ、そうなんです、か?」
「多分。君は贔屓目に見ても顔が良い方だからね。加えて幼いし、あと首輪を付けてないからかな」
「く、首輪、ですか」
「うん。首輪は所有の証だからね。今の君は路傍の宝石のようなものだよ。拾っても誰も咎めない。誰が拾うかで諍いにはなるかもしれないけれど」
司祭は視線を集めていることなど慣れているかのように、気にすることなくその巨体を人の流れの中に滑り込ませていく。
セレンもかつては人の視線を集めた方だが、流石にこれほど注視されたのは初めてで、しかもそれが獣面ばかりなのだから、多少の恐怖は仕方のないことと言えた。
加えて司祭がのんびりと話す首輪云々のことが、セレンの恐怖を煽る。
「ほら、正面左の建物の壁沿い。ああいうのがこの世界でのヒトのあるべき姿だよ」
言われて、視線に耐えつつもセレンは正面左を見遣る。
そこにいたのは男性のヒト。歳は二十前後だろうか。服はその辺りの人が着ているものとそう変わりはないが、首に無骨な革の首輪を巻いている。両手に荷物を抱えており、側に立つのは妖艶なネコの女性。
瞬間、そのネコ女と青年の両方と視線が合ってしまい、慌ててセレンは視線を逸らす。
「あ、あの。 ……こんなこと聞くのもなんですけど」
「何?」
「司祭さんは私に、首輪、付けないんですか?」
その単純な質問に、司祭はしばし沈黙してから答える。
「――うん。奴隷とか召使いを持つ必要も趣味もないしね」
「そ、そうなんですか」
「それにセレンには悪いけれど、ヒトは面倒くさいっていうのもあるんだ。色々とね」
「そう、ですか……」
何が面倒くさいのかは分からなかったが、たっぷりと貶されたような気がしてセレンは陰鬱な息をひとつ吐いた。
割と優しそうな司祭でこれなのだからと思うと、どうしても明るい未来など考えることが出来ずに、セレンは暗澹とした思いに駆られる。
「世の中にはその面倒くささや儚さが良いって言う人も多いけれどね。私は各地を割と転々とする身だから、ちょっと勘弁かな。盗賊団に襲われることもあるし、そうなったら流石に自分で生きられないヒトは連れていけないね。無くしちゃったら勿体無いし」
「も、勿体無い、ですか」
「うん。高いんだよ、ヒト。オスヒトならよっぽど状態の酷いものでもない限り、最低でも五千セパタ――楽に三年はのんびり食べて暮らせるぐらいする。
メスヒトはその十分の一ぐらいに安いけれど、それでも結構な額だよ。路銀にはしばらく困らない――っと、ここでいいかな?」
絶句するしかない話にセレンがやや呆然としていると、司祭が足を止めた。
慌てて見遣ると、そこには小さな屋台があった。暖簾にはセレンが見慣れた日本語で「らあめん屋」とある。
「あ、は、はい」
「じゃあ親父さん、らあめんふたつ」
「あいよー」
そんな声がして、しばらくの後に司祭が暖簾の中に手を突っ込む。出てきた手には湯気立つ丼がふたつ。
「はい」
「あ、ありがとうございます。――っ、熱っ」
「ああ、少しだけ熱いから気を付けて」
言って、司祭はその巨大な爪のついた手で器用に箸を操り、嘴へつるつると麺を運んでいく。
セレンもそれを見てから、恐る恐る食べ始めた。味は醤油に似ていないこともないが、少し違和感がある。独特のものだろうか。
そんなことを考えていると、暖簾の中からひょこりと猫顔――屋台の主人が出て、セレンを見て笑う。
「ほう、拾ったのかい。こりゃまた珍しい。どうするつもりだい?」
「うん。まあ、売って路銀の足しにしようかなと。あまり長くは連れていけないしね」
さらりと会話を交わす屋台の主人と司祭。
悪気はないのだろうが、司祭の言葉の端々がセレンに突き刺さる。
「ま、そりゃそうか。見るからに小さいし細っこいし、司祭さんが連れ回したらすぐ死んじまうわな」
「まあ、そうだねえ」
「それにしても、なんというか。何処かから逃げ出してきた養殖ヒトなんじゃないのかい? ちょっと雰囲気が違うし、人形みたいに綺麗じゃないか」
「多分違うんじゃないかな。ぱっと見てそれらしい印章が何処にもないし」
「へえ……」
セレンを眺め、最後にふと笑う屋台の主人。
別に悪意を感じるものではなかったが、セレンはそれに愛想笑いさえ返すことが出来ずに、さっと司祭の角の後ろに身を隠す。
「可愛いもんだ。観賞用には悪くないね」
「買うかい?」
「まさか。手伝い兼としても欲しいけど、まずはもっと立派な店を構えねえとな」
「それもそうか。 ――ご馳走様。美味しかったよ」
「毎度。メスヒトのお嬢ちゃんはどうだった? 美味かったかい?」
「は、はい。美味しかった、です」
「ヒトにそう言われるなら俺っちの腕前もなかなかだな。縁があればご贔屓に頼むよ」
実際には話の節々に出てくる単語があまりにも衝撃的で、ラーメンの味など途中からまるで分からなかったのだが、何とか無難に返すと屋台の主人はその猫面をやや満足気な笑みに変えた。
ネコの国、北の要衝ノーザンカッツェ。
イヌの国との国境沿いに位置するこの街で、巨大な羽毛の塊はひとつ頷いた。
「ええっと……」
「要するに、しばらく足止めだね。まあ仕方がないか」
金髪のヒト少女の疑問を制し、羽毛の塊は答える。場所は門前広場。
城壁沿いに座り込むその一組は、何か独特のオブジェのようにも見えた。
「そんなに危険な生き物なんですか? その――」
「ヨグロークは普段温厚なんだけれど、冬季だけは別なんだ。群れで行動する性質は変わらないけれど、動くものを見境なく襲って食べてしまう。あの巨体がチーターの陸上選手もかくやという速度で突っ込んでくる様は圧巻だよ」
その話を聞いて、セレンはヨグロークなる生き物の外見を想像する。しかし彼女に出来たのは、サイやゾウが凄まじい速度で走っている光景ぐらいのものだった。
変な想像を払い、セレンは恐る恐る司祭に問う。
「ちなみに、どれぐらい……?」
「まあ長くて一週間と少しかな。それだけあれば別のところに行くと思うよ。そうしたら改めてシュバルツカッツェを目指そうか」
言って、司祭はよいしょと腰を上げ、セレンを頭の上に乗せたままのっしのっしと歩き出す。
「取り敢えずはお昼ご飯にしようか。何か食べたいものはあるかい?」
「え、あ、ええと…… 特には」
しばしの逡巡の末、セレンはそう返した。遠慮したのが半分、何が食べれるのか分からなかったのが半分だ。
猫の国の食事、と考えて、生魚が丸々一尾、などと発想してしまう彼女には少々酷な質問だったろう。司祭はそんな少女の思考に気付いたかどうか定かではないが、言葉を続ける。
「――ああ。ちなみに落ち物文化というものがあってね。らあめん、とか、かれえらいす、というものも食べられるよ。そういうのでいいかな?」
「あ、はい。それでしたら」
「じゃあ向こうの方かな」
言って、司祭はその行き先を人の流れが多い方向へと変える。
セレンは司祭の角に掴まりながら、ちらちらと人の流れを、正確には人を見ていた。
そして呟くように言う。
「あの…… 凄く、見られてる気が」
事実、道行く人や路端で話している人の殆どの視線を、司祭とセレンの二組は集めていた。
「半分は私。半分はセレン、君かな」
「え、そ、そうなんです、か?」
「多分。君は贔屓目に見ても顔が良い方だからね。加えて幼いし、あと首輪を付けてないからかな」
「く、首輪、ですか」
「うん。首輪は所有の証だからね。今の君は路傍の宝石のようなものだよ。拾っても誰も咎めない。誰が拾うかで諍いにはなるかもしれないけれど」
司祭は視線を集めていることなど慣れているかのように、気にすることなくその巨体を人の流れの中に滑り込ませていく。
セレンもかつては人の視線を集めた方だが、流石にこれほど注視されたのは初めてで、しかもそれが獣面ばかりなのだから、多少の恐怖は仕方のないことと言えた。
加えて司祭がのんびりと話す首輪云々のことが、セレンの恐怖を煽る。
「ほら、正面左の建物の壁沿い。ああいうのがこの世界でのヒトのあるべき姿だよ」
言われて、視線に耐えつつもセレンは正面左を見遣る。
そこにいたのは男性のヒト。歳は二十前後だろうか。服はその辺りの人が着ているものとそう変わりはないが、首に無骨な革の首輪を巻いている。両手に荷物を抱えており、側に立つのは妖艶なネコの女性。
瞬間、そのネコ女と青年の両方と視線が合ってしまい、慌ててセレンは視線を逸らす。
「あ、あの。 ……こんなこと聞くのもなんですけど」
「何?」
「司祭さんは私に、首輪、付けないんですか?」
その単純な質問に、司祭はしばし沈黙してから答える。
「――うん。奴隷とか召使いを持つ必要も趣味もないしね」
「そ、そうなんですか」
「それにセレンには悪いけれど、ヒトは面倒くさいっていうのもあるんだ。色々とね」
「そう、ですか……」
何が面倒くさいのかは分からなかったが、たっぷりと貶されたような気がしてセレンは陰鬱な息をひとつ吐いた。
割と優しそうな司祭でこれなのだからと思うと、どうしても明るい未来など考えることが出来ずに、セレンは暗澹とした思いに駆られる。
「世の中にはその面倒くささや儚さが良いって言う人も多いけれどね。私は各地を割と転々とする身だから、ちょっと勘弁かな。盗賊団に襲われることもあるし、そうなったら流石に自分で生きられないヒトは連れていけないね。無くしちゃったら勿体無いし」
「も、勿体無い、ですか」
「うん。高いんだよ、ヒト。オスヒトならよっぽど状態の酷いものでもない限り、最低でも五千セパタ――楽に三年はのんびり食べて暮らせるぐらいする。
メスヒトはその十分の一ぐらいに安いけれど、それでも結構な額だよ。路銀にはしばらく困らない――っと、ここでいいかな?」
絶句するしかない話にセレンがやや呆然としていると、司祭が足を止めた。
慌てて見遣ると、そこには小さな屋台があった。暖簾にはセレンが見慣れた日本語で「らあめん屋」とある。
「あ、は、はい」
「じゃあ親父さん、らあめんふたつ」
「あいよー」
そんな声がして、しばらくの後に司祭が暖簾の中に手を突っ込む。出てきた手には湯気立つ丼がふたつ。
「はい」
「あ、ありがとうございます。――っ、熱っ」
「ああ、少しだけ熱いから気を付けて」
言って、司祭はその巨大な爪のついた手で器用に箸を操り、嘴へつるつると麺を運んでいく。
セレンもそれを見てから、恐る恐る食べ始めた。味は醤油に似ていないこともないが、少し違和感がある。独特のものだろうか。
そんなことを考えていると、暖簾の中からひょこりと猫顔――屋台の主人が出て、セレンを見て笑う。
「ほう、拾ったのかい。こりゃまた珍しい。どうするつもりだい?」
「うん。まあ、売って路銀の足しにしようかなと。あまり長くは連れていけないしね」
さらりと会話を交わす屋台の主人と司祭。
悪気はないのだろうが、司祭の言葉の端々がセレンに突き刺さる。
「ま、そりゃそうか。見るからに小さいし細っこいし、司祭さんが連れ回したらすぐ死んじまうわな」
「まあ、そうだねえ」
「それにしても、なんというか。何処かから逃げ出してきた養殖ヒトなんじゃないのかい? ちょっと雰囲気が違うし、人形みたいに綺麗じゃないか」
「多分違うんじゃないかな。ぱっと見てそれらしい印章が何処にもないし」
「へえ……」
セレンを眺め、最後にふと笑う屋台の主人。
別に悪意を感じるものではなかったが、セレンはそれに愛想笑いさえ返すことが出来ずに、さっと司祭の角の後ろに身を隠す。
「可愛いもんだ。観賞用には悪くないね」
「買うかい?」
「まさか。手伝い兼としても欲しいけど、まずはもっと立派な店を構えねえとな」
「それもそうか。 ――ご馳走様。美味しかったよ」
「毎度。メスヒトのお嬢ちゃんはどうだった? 美味かったかい?」
「は、はい。美味しかった、です」
「ヒトにそう言われるなら俺っちの腕前もなかなかだな。縁があればご贔屓に頼むよ」
実際には話の節々に出てくる単語があまりにも衝撃的で、ラーメンの味など途中からまるで分からなかったのだが、何とか無難に返すと屋台の主人はその猫面をやや満足気な笑みに変えた。
それからすぐに司祭が会計を済ませ、屋台の主人に見送られて司祭とセレンはそこを離れた。
セレンが思わず陰鬱な溜息を吐くと、司祭が反応する。
「疲れたかい?」
「いえ、その…… はい。ちょっとだけ」
「まあ基本的にどこでもこんな感じだから慣れた方がいいよ。身が持たない」
「そうみたい、ですね」
何とか答えを返し、しかし先行きの暗さに沈むセレン。
「じゃあ、ひとまずは宿を探そうか。その辺で寝転がってもいいけれど、迷惑になるといけないし」
「はい。 ――あの、司祭さん」
「何だい?」
意を決して、セレンは少し前、シカの集会の時にこの世界でのヒトの扱いを聞いた時から薄々考えていたことを口に出した。
「その、こんなこと言うのもなんですけど…… 私を、その、飼って頂けませんか?」
「自分から奴隷志願かい?」
「っ…… その、どうせなら司祭さんがいいな、って…… 駄目、ですか」
自分でも人としてどれぐらい変なことを言ったのか理解しているセレンは羞恥に顔を赤くしながらそれでも続けるが、司祭はあまり興味が無さそうに、んー、と呟く。
「さっきも言ったけれど、私は召使いや奴隷を持つ必要も趣味もないし、旅をする上では非常に面倒が多いからね」
「その、私、お役に立てるように頑張りますから…… 自分の身も、出来るだけ自分で守りますし」
「難しいと思うけど…… セレンが役に立てること、か。私は朝弱いから、目覚ましは助かるんだけれどね」
難色を示す司祭。しかし彼もセレンの為に考えてくれているのか、少しだけ歩く速度を緩め、顎と思しき辺りに爪の付いた手を添える。
――その瞬間、司祭の巨体に猛烈な勢いで何かが衝突した。
「お、っと」
「きゃ、あっ!?」
司祭は一歩だけたたらを踏むに留まったが、セレンはそうはいかなかった。司祭の説得に身を入れていたせいで司祭の角に掴まるのが疎かになっており、結果、身長の三倍近い高さから落下する羽目になってしまったのだ。
ぐらりと身体が宙に投げ出され――どさり、と思ったよりも大したことのない衝撃に身を竦めながらも疑問に思い、しかしすぐに状況に気付く。
セレンは獣面の男――カモシカの男に抱えられ、人混みの中を急速に司祭から引き離されつつあったのだ。
「え、あ、え……!?」
「暴れるな」
どすの効いた声でそう脅されるも、素直に頷く訳には行かなかった。
これは誘拐――いや、強盗か。自分はきっとお金目当てに司祭から盗まれたのだとセレンは早々に気付き、理解した。
見れば、司祭との距離が徐々に離れ始めている。このままでは角を二つか三つも曲がればセレンも司祭もお互いを見失ってしまうだろう。それはセレンとしては絶対に避けなければならなかった。
ならば、とセレンは抱えられた体勢から軽く身を捻り、カモシカの男がその動きを押さえ込むためにセレンの二の腕から手を離したその瞬間、眉間に肘打ちを叩き込んだ。
「くっ!?」
全力で打ち込んだにも関わらず、男は声を上げただけで大した痛みを受けていない様子にセレンは驚きつつも、男が視界を奪われている間に足を振り、男が掴んでいる足首を支点にしてその太い首に身体を寄せる。そして両腕を絡め、全力に自身の体重を足して首を締め上げた。
「――っ!?」
流石にこれは効くようで、カモシカの男は足を止めた。セレンは男の首からぶら下がり、背中に覆い被さるような形になる。
獣じみた、しかし人型の手がセレンの締め上げに抵抗しようと彼女の細腕を掴む。瞬間、腕を引き千切られそうな痛みを感じて、慌ててセレンは男の背骨に膝蹴りを入れると、その反動を活かして男から離れた。
「メスヒトのガキがっ……!」
悪態を吐くカモシカの男が、すぐさま襲いかかって来る。
セレンはひとつ深呼吸をして、吐く息を止めた。こちらを掴もうとする手をすんでのところで避け、身体の小ささを活かして懐に潜り込むと、がら空きの顎を打ち上げる。
十分に手応えはあったが、しかしカモシカの男は動きを止めない。続く掴みを転がって避け、お返しに足裏を顔面に叩き込む。続いて内太股や鳩尾、側頭部にさえ手か足による一撃を食らわせた。
だが――まるで効いている様子がない。
「この、ちょこまかと――!」
カモシカの男は素人という感じではなかったが、セレンを捕まえるためなのか動きに遠慮がある。それ故に祖父の厳しい稽古をこなしてきたセレンには何とか避けることが出来ていた。
しかし回避はそれで良くとも、反撃が駄目。
身体の丈夫さや筋肉の量がまるで違うため、普通の人間男性なら有効打になりうる的確な打撃でも、この世界ではまるで力にならない。
「っ!」
これはまずい。攻めあぐねているセレンがそう思いながらも男の掴み掛かりをまた避けた瞬間だった。
「なかなかやるね」
司祭の声がセレンの後ろから聞こえた。恐らくは自分のすぐ後ろに立っているのだろうとセレンは思いつつも、カモシカの男から視線を逸らすことはしない。
「――っち!」
流石に形勢不利と見たか、カモシカの男が脱兎の如く逃げ出す。反射的に追おうとセレンの足は動きかかったが、締め以外は何をしても有効打にはならないのだ。追ったところでどうにもなるものでもないと足を止め――背後から更に声が掛かる。
「加護をあげるから、あれを捕まえてご覧」
「え? ――っ!?」
爪を備えた巨大な手が頭に触れた瞬間、セレンの身体は異常な熱量に包まれ始めた。
まるで身体の芯から力が際限なく湧いてくるような異常な感覚。戸惑うも、これなら行けると鍛えた勘は訴えていて――
「捕まえられたら、私の奴隷にすることも考えてあげるよ」
その言葉に、一も二もなく駆け出した。
地面すれすれを飛ぶような速度に、かなり離れていたカモシカの男との距離が刹那で詰まる。その無防備な背中をセレンの鋭い眼光が捉え、地面を蹴り、身体を捻りつつ、猛烈な膝蹴りを叩き込んだ。
「げはっ!?」
カモシカの男が妙な叫びを上げ、吹き飛ぶ。
もんどり打って地面に倒れ伏した男に、セレンは更に追い打ちを掛ける。速度と体重を活かした背中への踵落とし。
「ぐえっ!?」
それでカモシカの男はあっさりと沈黙した。
「っ、はっ、はあっ」
捕まえてみせたという喜びと共に、セレンは荒い息を吐きながら不快感を感じていた。
原因は身体から湧いてくる熱のせいだ。まるで夏日に直射日光に曝され続けているかのような苛立ち。しかし疲労感はまるでなく、それが故に苛立ちが暴力的な衝動へと変わる。
――どうして私がこんな目に。こんなことを。この男のせいだ。もっとこの男を痛めつけてやらないと。
「っ!」
どこからか流れ込んでくるようなかつてない衝動に流されるままに、セレンはもう一度足を振り上げた。
しかしすんでのところで、振り下ろされたその足を羽毛に包まれた爪付きの手が受け止める。邪魔者は誰かと振り向けば、当然と言うべきかそこには司祭の姿があった。
邪魔をするな。とばかりにセレンが司祭を睨み付ける。その鬼気迫る視線を受けて、しかし司祭は平然としたものだ。
「効き過ぎているのかな。ちょっと落ち着いて」
「でも……!」
「仕方ないな」
溜息のようなものを嘴からひとつ吐き出して、司祭は再びその手でセレンの頭に触れた。
瞬間、身体の熱はそのままに、無尽蔵に湧き出していた力の感覚がさっと消え失せる。同時に立ち眩みがして、セレンは堪らず路上に尻餅を付いた。
「あ、あれ……?」
気付けば、思考を苛んでいた苛立ちも消えていた。あるのは熱病に冒された時のような倦怠感。
「魔法抵抗が低すぎる弊害かな。そんなに強くしたつもりはなかったんだけれど」
言いながら、司祭はセレンをひょいと小脇に抱え、のしのしと歩き始めた。
「ともかく場所を移そうか。ちょっと注目を集めすぎてるし」
「え……」
その言葉にセレンが周囲を見回せば、その近くの人間はほぼ皆、セレンと司祭を――特にセレンを見ていた。
当然と言えば当然かもしれない。幼く小柄なメスヒトが、頭ふたつ以上身長差のあるカモシカの男を圧倒的と言っていいほどに打ち倒したのだから。
最後の瞬間は司祭が魔法を使ったのだと分かった者も多いだろうが、それにしても十分に有り得ない光景であったことには間違いない。
「ご、ごめんなさい」
「別に謝ることはないよ。私の不注意でもあったしね」
自分のしたことをよく思い出して羞恥に頬を染めながら謝るセレンをそう制し、司祭は通りから細い路地に入って二つ三つと角を曲がる。
そうして人々の視線から逃れると、司祭とセレンはほぼ同時に、はあ、と息を吐いた。
セレンが思わず陰鬱な溜息を吐くと、司祭が反応する。
「疲れたかい?」
「いえ、その…… はい。ちょっとだけ」
「まあ基本的にどこでもこんな感じだから慣れた方がいいよ。身が持たない」
「そうみたい、ですね」
何とか答えを返し、しかし先行きの暗さに沈むセレン。
「じゃあ、ひとまずは宿を探そうか。その辺で寝転がってもいいけれど、迷惑になるといけないし」
「はい。 ――あの、司祭さん」
「何だい?」
意を決して、セレンは少し前、シカの集会の時にこの世界でのヒトの扱いを聞いた時から薄々考えていたことを口に出した。
「その、こんなこと言うのもなんですけど…… 私を、その、飼って頂けませんか?」
「自分から奴隷志願かい?」
「っ…… その、どうせなら司祭さんがいいな、って…… 駄目、ですか」
自分でも人としてどれぐらい変なことを言ったのか理解しているセレンは羞恥に顔を赤くしながらそれでも続けるが、司祭はあまり興味が無さそうに、んー、と呟く。
「さっきも言ったけれど、私は召使いや奴隷を持つ必要も趣味もないし、旅をする上では非常に面倒が多いからね」
「その、私、お役に立てるように頑張りますから…… 自分の身も、出来るだけ自分で守りますし」
「難しいと思うけど…… セレンが役に立てること、か。私は朝弱いから、目覚ましは助かるんだけれどね」
難色を示す司祭。しかし彼もセレンの為に考えてくれているのか、少しだけ歩く速度を緩め、顎と思しき辺りに爪の付いた手を添える。
――その瞬間、司祭の巨体に猛烈な勢いで何かが衝突した。
「お、っと」
「きゃ、あっ!?」
司祭は一歩だけたたらを踏むに留まったが、セレンはそうはいかなかった。司祭の説得に身を入れていたせいで司祭の角に掴まるのが疎かになっており、結果、身長の三倍近い高さから落下する羽目になってしまったのだ。
ぐらりと身体が宙に投げ出され――どさり、と思ったよりも大したことのない衝撃に身を竦めながらも疑問に思い、しかしすぐに状況に気付く。
セレンは獣面の男――カモシカの男に抱えられ、人混みの中を急速に司祭から引き離されつつあったのだ。
「え、あ、え……!?」
「暴れるな」
どすの効いた声でそう脅されるも、素直に頷く訳には行かなかった。
これは誘拐――いや、強盗か。自分はきっとお金目当てに司祭から盗まれたのだとセレンは早々に気付き、理解した。
見れば、司祭との距離が徐々に離れ始めている。このままでは角を二つか三つも曲がればセレンも司祭もお互いを見失ってしまうだろう。それはセレンとしては絶対に避けなければならなかった。
ならば、とセレンは抱えられた体勢から軽く身を捻り、カモシカの男がその動きを押さえ込むためにセレンの二の腕から手を離したその瞬間、眉間に肘打ちを叩き込んだ。
「くっ!?」
全力で打ち込んだにも関わらず、男は声を上げただけで大した痛みを受けていない様子にセレンは驚きつつも、男が視界を奪われている間に足を振り、男が掴んでいる足首を支点にしてその太い首に身体を寄せる。そして両腕を絡め、全力に自身の体重を足して首を締め上げた。
「――っ!?」
流石にこれは効くようで、カモシカの男は足を止めた。セレンは男の首からぶら下がり、背中に覆い被さるような形になる。
獣じみた、しかし人型の手がセレンの締め上げに抵抗しようと彼女の細腕を掴む。瞬間、腕を引き千切られそうな痛みを感じて、慌ててセレンは男の背骨に膝蹴りを入れると、その反動を活かして男から離れた。
「メスヒトのガキがっ……!」
悪態を吐くカモシカの男が、すぐさま襲いかかって来る。
セレンはひとつ深呼吸をして、吐く息を止めた。こちらを掴もうとする手をすんでのところで避け、身体の小ささを活かして懐に潜り込むと、がら空きの顎を打ち上げる。
十分に手応えはあったが、しかしカモシカの男は動きを止めない。続く掴みを転がって避け、お返しに足裏を顔面に叩き込む。続いて内太股や鳩尾、側頭部にさえ手か足による一撃を食らわせた。
だが――まるで効いている様子がない。
「この、ちょこまかと――!」
カモシカの男は素人という感じではなかったが、セレンを捕まえるためなのか動きに遠慮がある。それ故に祖父の厳しい稽古をこなしてきたセレンには何とか避けることが出来ていた。
しかし回避はそれで良くとも、反撃が駄目。
身体の丈夫さや筋肉の量がまるで違うため、普通の人間男性なら有効打になりうる的確な打撃でも、この世界ではまるで力にならない。
「っ!」
これはまずい。攻めあぐねているセレンがそう思いながらも男の掴み掛かりをまた避けた瞬間だった。
「なかなかやるね」
司祭の声がセレンの後ろから聞こえた。恐らくは自分のすぐ後ろに立っているのだろうとセレンは思いつつも、カモシカの男から視線を逸らすことはしない。
「――っち!」
流石に形勢不利と見たか、カモシカの男が脱兎の如く逃げ出す。反射的に追おうとセレンの足は動きかかったが、締め以外は何をしても有効打にはならないのだ。追ったところでどうにもなるものでもないと足を止め――背後から更に声が掛かる。
「加護をあげるから、あれを捕まえてご覧」
「え? ――っ!?」
爪を備えた巨大な手が頭に触れた瞬間、セレンの身体は異常な熱量に包まれ始めた。
まるで身体の芯から力が際限なく湧いてくるような異常な感覚。戸惑うも、これなら行けると鍛えた勘は訴えていて――
「捕まえられたら、私の奴隷にすることも考えてあげるよ」
その言葉に、一も二もなく駆け出した。
地面すれすれを飛ぶような速度に、かなり離れていたカモシカの男との距離が刹那で詰まる。その無防備な背中をセレンの鋭い眼光が捉え、地面を蹴り、身体を捻りつつ、猛烈な膝蹴りを叩き込んだ。
「げはっ!?」
カモシカの男が妙な叫びを上げ、吹き飛ぶ。
もんどり打って地面に倒れ伏した男に、セレンは更に追い打ちを掛ける。速度と体重を活かした背中への踵落とし。
「ぐえっ!?」
それでカモシカの男はあっさりと沈黙した。
「っ、はっ、はあっ」
捕まえてみせたという喜びと共に、セレンは荒い息を吐きながら不快感を感じていた。
原因は身体から湧いてくる熱のせいだ。まるで夏日に直射日光に曝され続けているかのような苛立ち。しかし疲労感はまるでなく、それが故に苛立ちが暴力的な衝動へと変わる。
――どうして私がこんな目に。こんなことを。この男のせいだ。もっとこの男を痛めつけてやらないと。
「っ!」
どこからか流れ込んでくるようなかつてない衝動に流されるままに、セレンはもう一度足を振り上げた。
しかしすんでのところで、振り下ろされたその足を羽毛に包まれた爪付きの手が受け止める。邪魔者は誰かと振り向けば、当然と言うべきかそこには司祭の姿があった。
邪魔をするな。とばかりにセレンが司祭を睨み付ける。その鬼気迫る視線を受けて、しかし司祭は平然としたものだ。
「効き過ぎているのかな。ちょっと落ち着いて」
「でも……!」
「仕方ないな」
溜息のようなものを嘴からひとつ吐き出して、司祭は再びその手でセレンの頭に触れた。
瞬間、身体の熱はそのままに、無尽蔵に湧き出していた力の感覚がさっと消え失せる。同時に立ち眩みがして、セレンは堪らず路上に尻餅を付いた。
「あ、あれ……?」
気付けば、思考を苛んでいた苛立ちも消えていた。あるのは熱病に冒された時のような倦怠感。
「魔法抵抗が低すぎる弊害かな。そんなに強くしたつもりはなかったんだけれど」
言いながら、司祭はセレンをひょいと小脇に抱え、のしのしと歩き始めた。
「ともかく場所を移そうか。ちょっと注目を集めすぎてるし」
「え……」
その言葉にセレンが周囲を見回せば、その近くの人間はほぼ皆、セレンと司祭を――特にセレンを見ていた。
当然と言えば当然かもしれない。幼く小柄なメスヒトが、頭ふたつ以上身長差のあるカモシカの男を圧倒的と言っていいほどに打ち倒したのだから。
最後の瞬間は司祭が魔法を使ったのだと分かった者も多いだろうが、それにしても十分に有り得ない光景であったことには間違いない。
「ご、ごめんなさい」
「別に謝ることはないよ。私の不注意でもあったしね」
自分のしたことをよく思い出して羞恥に頬を染めながら謝るセレンをそう制し、司祭は通りから細い路地に入って二つ三つと角を曲がる。
そうして人々の視線から逃れると、司祭とセレンはほぼ同時に、はあ、と息を吐いた。
取った宿のベッドの上で、セレンは金糸のような髪を広げて横になっていた。
大立ち回りからそろそろ一時間になるが、身体の熱と気怠さがまだ消えていないからだった。身体にまるで力が入らず、満足に身じろぎをすることもできない。
「ふ、う」
熱い吐息と共に、寝苦しそうに寝返りを打つセレン。
「多分、あと五時間ぐらいは身体が熱いままだと思うから。あの加護は強制解除するとそういう副作用があるんだ。ゆっくり休んでるといいよ」
「はい……」
司祭はそんなセレンの寝ているベッドの横で、先程から手元で何か小さなものを弄っている。
大きく長い爪の付いた手でそんなことが出来るとは、箸の件といい意外に器用なのかも知れない、とセレンはそれを眺めて思う。
「――よし、こんなものかな」
そう司祭が声を上げたのは、更に一時間後のことだった。
すっと立ち上がってセレンの方に向き直ると、その手をセレンの首元に伸ばしてくる。長く鋭い爪を備えた凶悪な獣の手。カモシカ男のものとは違い、完全に人の形を成していないその手が自分に伸びてくるのは、実のところセレンにとってあまり慣れるものではなかった。
司祭さんだから大丈夫、と恐怖を押し殺していると、首に何かが巻かれ、少しだけ締まる感覚があった。ひょっとして、とセレンが自身で首元に触れると、柔らかい革の感触があった。
セレンから視線を向けられた司祭が、事もなげに答える。
「奴隷用の首輪。まあ、仮だけれど」
「じゃあ――」
「いや、まだ決定じゃないよ。取り敢えず首輪がないと今日みたいな面倒が頻発しそうだからね。それさえあれば、幾らか頻度は下がるかな、と思って」
「そ、そうですか……」
思わず溜息を吐いてしまうセレン。
自分から奴隷志願というのはどうなのかと思うが、先程のようなことがあった後では抵抗感も失せていた。今はただ、一刻も早く誰かの――出来れば今一番見知っている司祭の庇護が欲しかった。
しかしそれはまだ叶わないようで、少なくない落胆があった。
「ところで、セレンのはてっきり護身ぐらいのものかと思っていたけれど、ヒトの中ではかなり強い方に入るのかな?」
「いえ…… 私なんか、まだまだです」
「へえ」
謙虚に答えたセレンに、司祭はどこか興味深そうな色を声に乗せる。
実際、セレンは自分の実力がどれほどのものなのかはよく分かっていない。格闘技の大会などに出場したことはないし、人助けと正当防衛以外で技を使うことを祖父に強く禁じられていたからだ。
学校でしつこいちょっかいを掛けてきた乱暴者をものの二、三秒で叩き伏せたことがあるぐらいで、カモシカ男相手に身体が動いたのはひとえに祖父との鍛錬の賜物だった。
「でも私の見た感じでは十分に強いように見えたけれどね。闘技場でもそれなりにやっていけるんじゃないかな?」
「闘技場?」
「シュバルツカッツェにあるのさ。セレンよりもう少し年上ぐらいのヒト奴隷がそこで見世物と殺し合いを足して割ったような催しをやってるんだ。怪我は絶えないし、寿命も縮むけれど、それなりに裕福な暮らしは出来るらしいよ」
「い、いえ。結構です、そんなの」
「そうかい? あとは―― ん、お客さんかな」
司祭がなおも話を続けようとしたその瞬間、部屋の扉をノックする音が響いた。
のっしのっしと司祭が入口に向かい、セレンの視界から消える。扉を開ける音の後、少し落ち着きのない見知らぬ声と、それに冷静に応じる司祭の声が聞こえる。
しばしの後、扉を閉める音がして司祭が戻ってきた。
「どなたでしたか?」
「官憲さんだったよ。窃盗事件の事情聴取に。仕事熱心でいいことだ」
「窃盗、ですか。 ……やっぱり、そういうことになるんですね」
「まあね。基本的にモノ扱いだってことは覚えておいた方がいいよ。要らない問題や面倒を起こすからね」
司祭はセレンの声に応えつつ、ふあ、と欠伸のようなものをして、ごろりと床の上に寝転がった。
「私が司祭さんの奴隷になったら、司祭さんも、私をそういう風に扱うんですか?」
「んー? うん、まあね。だからと言って君を遊び壊したりする趣味はないけれど。興味がないわけじゃないし、それらしいことはして貰おうかな」
「それらしいこと、ですか」
「うん。色々あるらしいよ」
言いながら、寝転んだ司祭は身体を丸め、羽毛団子へと変身していく。
最後にその立派な角を団子の上に直立させ、司祭は安らかな寝息を立て始めた。
それをしばし見つめて、セレンはまたひとつ寝返りを打つ。
熱のせいでしばらくは眠れそうになかった。
大立ち回りからそろそろ一時間になるが、身体の熱と気怠さがまだ消えていないからだった。身体にまるで力が入らず、満足に身じろぎをすることもできない。
「ふ、う」
熱い吐息と共に、寝苦しそうに寝返りを打つセレン。
「多分、あと五時間ぐらいは身体が熱いままだと思うから。あの加護は強制解除するとそういう副作用があるんだ。ゆっくり休んでるといいよ」
「はい……」
司祭はそんなセレンの寝ているベッドの横で、先程から手元で何か小さなものを弄っている。
大きく長い爪の付いた手でそんなことが出来るとは、箸の件といい意外に器用なのかも知れない、とセレンはそれを眺めて思う。
「――よし、こんなものかな」
そう司祭が声を上げたのは、更に一時間後のことだった。
すっと立ち上がってセレンの方に向き直ると、その手をセレンの首元に伸ばしてくる。長く鋭い爪を備えた凶悪な獣の手。カモシカ男のものとは違い、完全に人の形を成していないその手が自分に伸びてくるのは、実のところセレンにとってあまり慣れるものではなかった。
司祭さんだから大丈夫、と恐怖を押し殺していると、首に何かが巻かれ、少しだけ締まる感覚があった。ひょっとして、とセレンが自身で首元に触れると、柔らかい革の感触があった。
セレンから視線を向けられた司祭が、事もなげに答える。
「奴隷用の首輪。まあ、仮だけれど」
「じゃあ――」
「いや、まだ決定じゃないよ。取り敢えず首輪がないと今日みたいな面倒が頻発しそうだからね。それさえあれば、幾らか頻度は下がるかな、と思って」
「そ、そうですか……」
思わず溜息を吐いてしまうセレン。
自分から奴隷志願というのはどうなのかと思うが、先程のようなことがあった後では抵抗感も失せていた。今はただ、一刻も早く誰かの――出来れば今一番見知っている司祭の庇護が欲しかった。
しかしそれはまだ叶わないようで、少なくない落胆があった。
「ところで、セレンのはてっきり護身ぐらいのものかと思っていたけれど、ヒトの中ではかなり強い方に入るのかな?」
「いえ…… 私なんか、まだまだです」
「へえ」
謙虚に答えたセレンに、司祭はどこか興味深そうな色を声に乗せる。
実際、セレンは自分の実力がどれほどのものなのかはよく分かっていない。格闘技の大会などに出場したことはないし、人助けと正当防衛以外で技を使うことを祖父に強く禁じられていたからだ。
学校でしつこいちょっかいを掛けてきた乱暴者をものの二、三秒で叩き伏せたことがあるぐらいで、カモシカ男相手に身体が動いたのはひとえに祖父との鍛錬の賜物だった。
「でも私の見た感じでは十分に強いように見えたけれどね。闘技場でもそれなりにやっていけるんじゃないかな?」
「闘技場?」
「シュバルツカッツェにあるのさ。セレンよりもう少し年上ぐらいのヒト奴隷がそこで見世物と殺し合いを足して割ったような催しをやってるんだ。怪我は絶えないし、寿命も縮むけれど、それなりに裕福な暮らしは出来るらしいよ」
「い、いえ。結構です、そんなの」
「そうかい? あとは―― ん、お客さんかな」
司祭がなおも話を続けようとしたその瞬間、部屋の扉をノックする音が響いた。
のっしのっしと司祭が入口に向かい、セレンの視界から消える。扉を開ける音の後、少し落ち着きのない見知らぬ声と、それに冷静に応じる司祭の声が聞こえる。
しばしの後、扉を閉める音がして司祭が戻ってきた。
「どなたでしたか?」
「官憲さんだったよ。窃盗事件の事情聴取に。仕事熱心でいいことだ」
「窃盗、ですか。 ……やっぱり、そういうことになるんですね」
「まあね。基本的にモノ扱いだってことは覚えておいた方がいいよ。要らない問題や面倒を起こすからね」
司祭はセレンの声に応えつつ、ふあ、と欠伸のようなものをして、ごろりと床の上に寝転がった。
「私が司祭さんの奴隷になったら、司祭さんも、私をそういう風に扱うんですか?」
「んー? うん、まあね。だからと言って君を遊び壊したりする趣味はないけれど。興味がないわけじゃないし、それらしいことはして貰おうかな」
「それらしいこと、ですか」
「うん。色々あるらしいよ」
言いながら、寝転んだ司祭は身体を丸め、羽毛団子へと変身していく。
最後にその立派な角を団子の上に直立させ、司祭は安らかな寝息を立て始めた。
それをしばし見つめて、セレンはまたひとつ寝返りを打つ。
熱のせいでしばらくは眠れそうになかった。