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 「どうあがいても、無駄だよ」

 無駄だと分かると、嫌でも意地を張りたくなる。

 薄い手で金剛石にも似た壁を叩いている黒咲あかねは、手を止めようとする声も気にしていなかった。
 部活を終えて家路を急ぐ逢魔ヶ時、誰にもすれ違わずに廊下を駆ける一日の帳が降りる頃。黒咲あかねの行くてを阻む
一枚の壁がずんとそびえいた。見様には咎人を隔離するかの要塞にも見える。ただ、この地上に存在しえない物質で
この壁は固められているような感触だった。
 見上げれば見上げるほど空が高く感じる。左右を振り向けば振り向くほど先が霞んで見える。
 例えようのない世界にあかねはすんのあいだ思考を止めた。

 この壁に出会う前に親友と別れた。
 名は久遠荵。同じ部活、仔犬のような娘だ。

 「あかねちゃんはもっと大胆になった方がいいよっ」

 ころころした声があかねの中で響く。あどけなさと、イヌを掛け合わせたような娘だと、あかねは荵を評する。
 だが、忘れ物を取りに校舎に戻った荵がいつまでたっても戻ってこない。どこへいったのだろう。
 あかねは荵を探しに歩き始めた途端、これだ。

 壁。
 壁。

 ちっぽけな自分を思い知らされる、硬い壁に阻まれた。

 「……あがいてもって……。あがかせてくださいっ」

 壁伝いに歩けば、出入り出来る場所はあるはず。あかねは壁の根本を注意深く眺めつつ、再び状況を捉らえようと試みていた。
歩き慣れた校庭が、見慣れた立木が、今や異質に見える。

 「誰もいない……」

 そうだ。

 一番疑うべきは、自分以外の者を見かけないこと。荵と別れて、今まで誰とも会っていない。
 あかねは巨大なる壁に気を取られて、気付くべきことを見事なまでにスルーをしていたことに呆れた。
 さっきまで部室で共にいた先輩の迫ですら見かけないこと。あかねは迫をほんの僅かでも忘れかけた事実に後悔をしていた。

 あかねと迫は演劇部だ。
 ちょっと前まで部室で演劇論について意見を交わしていた。
 ちょっと前まで迫の理屈にあかねは閉口していた。
 ちょっと前まであかねは夢を語っていた。


 「迫先輩。ロミオとジュリエットは女の子の夢ですっ」
 「いろんな解釈も出来ると思うんだ。ロミオは二十歳過ぎた青年、ジュリエットはあどけなさ残る6歳児。
  歳の差離れてるといえども、乗り越えられる障害が大きいほど胸打つと思わないか。いや、これは問題提起だ」
 「そんなジュリエットいやですっ。こんな舞台、出ませんっ」
 「勝手にしろ」

 そんな頃が懐かしい。ほんのちょっと前のことなのに。長針が360度も廻らないうちなのに。
 あかねの中で駆け巡る記憶とともに壁の間際を歩き続けていると、久方振りに人の声がした。

 違う。
 あかねには届かなかった、希望の絶望の声。

「どうあがいても無駄だよ」

 あかねにその声が聞こえたのは、声だけでなく、ギターの弦の音と共にだから。
 校庭を横切る渡り廊下の屋根の上、波打つ鉄板に腰掛けてギターを鳴らす一人の少女があかねを見下ろしていた。
 高校一年生のあかねよりかは年上、落ち着いたたたずまい、白いシュシュで束ねた黒髪、そして涼しげな目元と片側を隠す前髪。
彼女は旅する吟遊詩人だと称しても疑われようはないだろう。ただし、彼女はあかねと同じ制服に身を包んでいるのが残念だ。

 「ぼくも『魔壁』に阻まれた。見下ろそうとも、それさえ許されない」
 「『魔壁』ですか?」
 「校舎の屋上からさえも見上げる『魔壁』だ。まるで何かを恐れているように」

 ギターの少女は脚を組み替えた。ちらと白い太ももがあかねの目を奪う。

 「ぼくの名前は天月音菜。また、君に出会うかもしれない」
 「分かるんですか?」
 「なぜなら、この学園は鎖されているからね。チョココロネが食べたいんだけど、学園には売っていないからね」
 「出口がないなんて、にわかに信じられませんっ」
 「ぼくも君を追って、気付かれないことに信じられないけどね」
 「え……」
 「面白い、実に。この状況を楽しめればだけど」

 口惜しいから、甘い洋菓子を。
 残念そうに音菜は前髪をかき上げた。
 ちらりと見える音菜の涼しげな瞳にあかねは吸い込まれそうになり、背筋を凍らせていた。

 音菜のセリフの後に『魔壁』を一瞥したことで、あかねは信じられないことを許されない状況の破片を握った。
 見れば見るほど『魔壁』が得体のしれない魔獣に見える。自分が演劇の台本を書くならば、そんな演技をさせる……
あかねの鼓膜に迫の言葉が蘇っていた。再び渡り廊下の屋根に目を向けたあかねには、天月音菜の姿もギターも捉えることはできなかった。

 孤独。
 孤独という言葉を繰り返せば繰り返すほど身震いをする。

 荵は?
 迫は?

 誰も教えてくれない恐怖、そして『魔壁』。

 「どうしようなか」

 天月音菜に気を取られている間に周りもすっかり暗くなり、光を求めてあかねは校舎に戻った。
 同じ境遇に合っているはずの迫に会うために。そして、屋上から学園を見渡すためだ。
 まだ、教員たちや部活生たちもいるはずであろうのに、誰ひとりとも出会わない。よその次元に吸い取られたかのように、
あかね一人だけが廊下に足音響かせる。

 「何がおこったのか、さっぱり」

 案の定……いや、またしても目当ての演劇部部室には、迫の姿はなかった。
 裏切りの後には救いあり。あかねの目の前に人影が再び現れたのだから、堪らず声をかけたくなる。
 あかねから話し掛けようと近寄った瞬間。

 ……求めていたのはあかねの方ではないのか。
 そうだ。話を仕掛けられたのだ。

 「ここにもいたね」
 「こ、ここに?」
 「『ケモノツキ』たち。ようこそ、宇宙の楽園へ」

 初めて耳にするフレーズであかねを迎え撃つのは、キツネ耳を生やし、秋の穂にも勝る尻尾を揺らしていた少女だった。
 コスプレでもなく、どうやら本物のよう。脳内がなんだか理解することを拒否し始めるから、ぐるぐると目が廻る。

 「戦いの準備は徐々に整い始めてますね。神がお気に召す戦果となれば……」

 服の上からも分かるナイスバディ、黒髪が良質な墨のごとく艶やかで、落ち着いた物腰がキツネの威厳を引き立ている。

 「間もなく戦いが始まります。愚かなる人間どもよ、裁きは終わったのだから。ですの」
 「え?え?」

 夢か、現か。

 キツネ耳の少女がはたと姿を消した。
 キツネにつままれるとは、まさにこのこと。何かにすがることも出来ず、ただただなすすべく。
 キツネ耳の少女でもいい、天月音菜でもいいから、あかねは人影を探しに校内を走った。
 廊下の窓からは依然としてそびえ立つ『魔獣』。普段は気にもしなかった街が急に恋しくなる。
 じりじりとタイマーが回る時限爆弾を抱えている気分だ。今にもあかねの不安が破片を散らして火を噴きそうなのだ。
 保健室、職員室、科学準備室、体育館、図書館。人が集うのに考えうる場所は探し尽くした。

 「久遠っ。迫先輩っ」

 部室で意見が違い、経験差を見せつけられたことさえも懐かしい。
 パソコンルームの液晶モニタは沈黙を保って知らん顔。
 迫を思い出すからと、あかねは迫と荵の名を呼ぶことを諦めた。
 しかし、諦めきれないからもう一度。

 「先輩っ」
 「せ・ん・ぱ・い?先輩はどこですか!閑花ちゃんはここです!がおっ」

 扉の開く音以上に喧しい声を張り上げてやって来た一人の少女。おかっぱ黒髪はロリっぽく、薄暗いモノクロームな部屋を
パステルカラーに染め上げた。

 「あっ!?あかねちゃんがいる?先輩!先輩!先崎先輩がいないんです!尻尾ががびょん!」

 あかねと同級生がいてくれた幸せ。後鬼閑花が救った、あかねの孤独。
 いつもは学園を先輩、先輩ととある男子を追い回している、恋に恋する恋する少女。後鬼閑花という少女だ。
 先輩のことを話さない日がないぐらい、閑花は先輩、先輩と色めき立っていることは、この学園に通うものなら皆知っている。
 オオカミの尻尾を得ようとも、オオカミの耳を持とうとも、閑花の恋心は変わっていなかった。
 閑花はオオカミの大きな尻尾でミニスカートを跳ね上げて、オオカミ耳をくるりと回した。

 「後鬼も……ケモノツキ?」

 あかねは一歩退いて、閑花の姿を目に焼き付けた。

 突然。

 意思を持ったのごとく一斉にパソコンのモニタに光が灯る。電撃を受けたのごとくHDが起動する。
チカチカとLEDが瞬き、物理的にディスクが削れる音にあかねと閑花は戦慄を覚えると、一歩足りとも身動き出来なくなった。
 電脳が全てを支配した仮想現実の世界。だと、解釈しても間違わないだろう。

 それは、一人の声で打ち破られた。

 「戦いの時間です」

 あかねには聞き覚えのある声。
 そして、見覚えのあるキツネ耳の少女。
 全てのモニタが操られているのか、同じ顔が寸分違わずに映し出され、二人に語りかけてきた。

 「わたしは『神乃狐(かみのこ)』ですの」

 あかねはもう一度、モニターの中の少女の名を繰り返した。

 「神は人間を見放しました。天地開闢以来、愚かなる生業の繰り返しだと。大地の支配者に人間を選んだことを悔やみました」

 無機質に淡々とした、灰色がかった言葉。
 あかねは息を飲み、閑花は目を見開いた。

 「『このまま人間どものほしいままにしておくにはならない』。神は人間に太刀打ちすべく、動物たちに魔力を与えようとしました。
  しかし、動物たちとはいえ、彼らは獣。魔力を持てど操るすべはありません。そこで、人間たちに憑依させることで意思を持たせ、
  優性なる獣をえり抜き、新たなる支配者として大地に君臨させることにしました」

 キツネ耳の少女・神乃狐は機械的な話を淀みなく続けた。

 「神はこの学園に『魔壁』を築くことで結界を張り、『ケモノツキ』としての能力を保持する者だけを『魔壁』の内側に残したのです。
  後は自然の摂理……闘争本能と理性知性を兼ね備えた『ネオ・サピエンス』が生き残るだけ。さあ。倒しなさい、生き残りなさい。
  戦いの始まりです。獣の底からみなぎる魔法の叫びが聞こえませんか。覚醒するときですのよ」

 薄暗い部屋に閑花を囲んで浮かぶ魔法陣。発光した幾何学模様が意味するものを理解は出来なかったが、
閑花は獣の尻尾から得たい知れぬ力を手に入れた感触を掴んだ。ただ、それは……戦うためのものだ。

 ガシャンとけたたましいガラスの悲鳴が静けさを裂き、共に部屋の扉を薙ぎ倒して来襲した一人の……獣。

 「久遠っ」
 「わおっ」

 あかねが校内を血の滲む思いで探していた久遠荵とこんな形で再会するなんて。
 イヌの耳と尻尾を携えた荵がもんどり打ってパソコンルームに飛び込んできたのだから。

 「荵!」

 目の色が緋色に変わった閑花は荵から『ケモノツキ』の臭いを感じた。あかねには荵の周りに閑花と同じ
幾何学模様が浮かんでいることで、荵はもはや久遠荵ではないことを動物的に察知した。

 「イヌはイヌ。オオカミなんぞには……。オオカミの血を絶つときだっ」
 「何もできやしない人間に擦り寄る裏切りの獣に断種の裁きを!」

 荵の口上を受けて、閑花が手を振りかざすと青白い炎が現れる。蛍が纏わり付く幻想を見ているようだ。
 対して荵は尻尾を巨大なる鎌に見立て、ぶんと振りかざすと菜の花にも似た黄色い炎を尻尾の先から放った。

 「わおっ」

 荵が操る炎はやがて弧を描き、弓矢を形作る。きらきらと黄色い輝きを増しつつ、一つの武器に成り代わった。ぴんと張った
弦が冷酷なる武器としての指命を物語り、矢を携えた荵を一人のアーチャーとして成長させていた。それほどの霊力を弓矢は持っていた。
 一方、閑花も同じく炎は一振の剣へと姿を変えていた。制服姿で刃を片手に構えるオオカミ耳の少女。息の音すら聞こえない。
どこで剣の心得を知ったのかなど、疑問に感じることすら愚かしい。二人が武器を持つ空気が全てを支配していた。

 じりじりと間合いを計り、お互いに攻撃を仕掛けるタイミングを伺う。緊張と、そして、あかねにとってはクラスメイトたちが
なぜ武器を手に取らなければならないのかという、声にもならない疑問で部屋は糸が張り巡らされていた。
 とにかく、あかねとしては二人の手を止めたい気持ちだが、人間の言葉を受け入れることなど出来ない二人の状況になすすべなどない。

 「がおっ」

 攻撃を仕掛けたのは閑花だった。
 返り討ちを恐れぬ一撃は、まさにオオカミの威厳そのもの。光の筋さえ、冷厳なる畏怖をあかねに与える。
 幸か不幸か刃は荵の手を掠めた。ただ、荵は弦を掴む手を緩めることさえ拒んだ。閑花が体勢を整えるまでに一矢報いたい。
 荵は閑花の尻尾に向かい矢を放った。

 「久遠っ」
 「わうっ」

 閑花の目の前に飛び出したあかねは無我夢中だ。荵は弓矢を一度下ろし、あかねの動きを冷静に緋色の目で見つめていた。
 この空間を匂いに例えると、焦げ臭く、錆の匂いが立ち込めると言えようか。

 「演劇のことだけどっ」

 油断させようとあかねは荵に近づいてゆく。しかし、あかねの声などものとせず、位置を変えた荵はまた一つ矢を携えて閑花の脚を狙う。
動きを封じるつもりだ。しかし、二人とも、今やケモノツキ。ケモノの勘に揺すぶられ、閑花の剣で矢はたたき落とされてしまった。

 「はっ!?」
 「こっち。こっちだよ」

 あかねの眼球に見覚えのある姿。
 黒髪を束ねた、涼しげな目元の少女。
 天月音菜が閑花の肩越しに手招きをしているのだ。どうやって、ここに?そんな疑問など後回し。あかねは天月音菜に駆け寄った。
そんなあかねの行動に怯んだのは閑花だった。ぐらりと足をふらつかせ、隙という隙を荵に見せたミステイク。
 荵がそれを射ない理由などない。

 「とにかく、見せたいものがある」

 あかねを呼ぶ天月音菜は校庭の見える廊下の窓辺に走った。

 窓からは今だにそびえ立つ『魔壁』が不気味さを夜空に描く。ただ、一つ変化が。不気味さも不変でないという希望か、
はたまた気まぐれという不気味さか。不気味さを打ち消すのは、音菜の手に収まるチョココロネ。甘ったるそうで、香ばしい。

 「見てくれ。『魔壁』に揺らぎが」

 確かに音菜が指差す先はゆらゆらと白く光るもやが『魔壁』に掛かる部分が見える。あかねの記憶が確かならば、
閑花と荵の戦いまでには確認出来なかった事象だ。

 「神が全知全能だと信じているのかい?」
 「わかりませんっ」
 「ぼくは見つけたんだ。ケモノツキたちの戦いが始まると、一時的に神の魔力の影響が薄くなることを」

 確かに『魔壁』は神の力でそびえ立っているのだろう。だからか、ケモノツキたちが魔力を発動するにあたって質量保存の法則が
当て嵌まる……と、音菜は言う。

 「神の目を盗め……か。そう思わないか」

 あかねは音菜が髪をかきあげる姿に心奪われていた。そして、ちょっとの隙に荵と閑花のことを忘れかけていたことが恥ずかしくなった。
音菜は落ち着いた物腰で、チョココロネを一口かじる。

 「わかるかい。あのもやは……外界と通じているのさ」

 裏づけはチョココロネ。
 学内では売っていない物だ。だとすれば、外界に出ることが可能だとする一筋の光とも言える。

 「もしかしてっ」
 「今しかない。神の目を盗め!」

 閑花。
 荵。
 そして、今だに出会わぬ迫。
 ケモノツキに選ばれね運命を持とうとも、選ばれる宿命を持とうとも、あかねにとっては大切な人。
 彼らを見捨てて自分だけが甘い蜜を吸えというのか。あかねの頬は赤らんだ。

 「もやが薄らいできた。戦いが終結しているんだ。あと、ながくて5分……」

 天月音菜が窓を背に俯くと、あかねはその姿を見ていることが辛くなってきた。

 「あと4分」

 体の奥が熱い。何も出来ない悲劇の王女を演じているつもりか。
 なんの為の感情だ。哀れんでもらう為のちっぽけなプライドか。

 「あと3分」
 「行きますっ」

 あかねは走る。首輪を外されたイヌのようだ。
 廊下を駆け、階段をすっ飛ばし、パソコンルームに馳せ参じる。
 扉を開けると消えかけた魔法陣の中、苦悶の表情でうずくまる荵の姿があった。

 「久遠っ。今、外界に連れ出してあげるからっ」

 夢中になると重さなど関係ない。荵をお姫様抱っこで部屋から連れ出し、消えかけるもやへ走る。
 見慣れた校内がラビリンスにも似ている魔を誘う。今、あかねが抱えているのは少女だ。ケモノでもない、血の通った少女だ。
外界に連れ出し助かる保障はないが、このまま神に弄ばれるよりかはマシだ。

 あと2分。

 校庭の土が見える。
 玄関のコンクリートなど冷たくはない。

 あと1分。

 ざっざっと砂埃が闇に舞う。
 だんだんとあかねの腕が荵の体重で痺れてきた。血が薄らぐ。

 あと30秒。

 「わおっ……」

 荵が目を覚まして跳ね起きる。
 あかねの腕が悲鳴を上げて、荵を大地に落としてしまった。二人共に外界へのもや目前で地面に倒れ込む。
 大地の冷たさは神への反逆の罰か。

 あと15秒。

 音菜はチョココロネをもう一口。

 「また、外界で会おう」

 と、言葉を残した。

 あと10秒。

 「久遠っ。許してっ」
 「わ、わおーっ」

 あかねは両手で荵を脇から抱え上げ、もやへと放り投げた。

 あと5秒。

 もやに吸い込まれたかのごとく、荵はそのまま姿を消し、同じくもやも消えて、再び『魔壁』が厳めしくそびえ立っていた。

 いいんだ。
 これでいいんだ。

 もう、神など信じない。
 だけど、ちょっとは神を信じていいかも。だって、奇跡が起きたんだから。
 あかねは息を切らせながら冷たい大地に両膝を付いていた。


     #


 『魔壁』が現れて二日目。
 依然として校内は閑散としていた。
 あかねは誰かの姿を求め、敬虔な信者に負けないぐらい再び校内を巡礼するように歩く。

 閑花も。
 音菜も。
 そしてキツネ耳の少女・神乃狐も。

 どこに失せた。

 そしてわかっていることは、ケモノツキたちはお互いに戦うこと。ケモノツキにはならない体質もあること。

 「すごいですね~。烏丸も憧れちゃいます~」

 無い物ねだりは幸せの証。
 昨夜の出来事をあかねから聞いた烏丸アリサは、のほほんとさた返事で事態を甘い綿菓子のようにぱくつく。
 あかねが烏丸アリサと出会ったのは生徒会室でのことだ。立ち寄った生徒会室が紙屑で埋まっていた。黒い墨が滲んだ半紙が
辺り一面に転がって、今までの魔法の世界と違い、一種異様な背景だったからあかねも肝を潰した。

 「上手く書けないんです~」

 烏丸アリサは書道の筆を摘んだまま、自分の鼻を擦っていた。まるでケモノツキたちの戦いなどなかったのような、
烏丸だけの時間が流れていた。
 制服姿で床に正座しているアリサには、獣の耳や尻尾がない所からあかねはケモノツキではないと判断し、軽く彼女の肩を叩いてみた。
 あまりにも緊張感のないアリサは百年の眠りから覚めたぐらいに驚いて筆を真っ白な半紙に落とした。書きかけの文字が台なしに伏す。

 「ご、ごめんなさいっ。せっかく書き上げていたのに」
 「あうー。……いいんです~。ゴミにしようか迷っていた所なので、むしろ諦めがつきました~」

 アリサは惜しそうにただの紙屑と化した半紙を丸め、後ろ手でぽんと塵芥の海に葬った。
 黒髪を束ねた後ろ姿は純和風、前にまわればハーフのような顔立ちがエキゾチック。というスペックを持つ烏丸アリサは、
自覚しているのか、否か、書道の世界に再びふける。

 「烏丸。外界に出られるチャンスがあれば出てみたい?」
 「どうかなあ~」
 「ケモノツキの姿のまま倒れると、消えてしまうんだけど」
 「それは嫌ですね~」

 いまいちはっきりしないアリサに半ばあかねは呆れつつ、迷い多いアリサの筆を見守った。
 息遣いすら手に取れる気迫のなか、あかねはアリサの異変に気付いた。筆を動かす間と休める間、明らかにアリサの体がおかしい。
 アリサが息を吐いて筆を止める刹那、微かにイヌの耳や尻尾が生えているように目に映るのだ。

 「もしかしてっ」
 「はい?烏丸、おかしいですか~?」

 あかねの言葉の続きを想像するのは容易だ。

 ケモノツキになりかけている。


     #


 「まだまだ。地球の新たな担い手はまだね」

 キツネ耳の少女は、校舎の屋上の柵に腰掛けて、学園をぐるりと囲む『魔壁』を眺めていた。
戦いの終焉まで待ちきれない様子で流れゆく雲を数えた。
 数えれば数えるほど、自分が過ごした年数がバカになってくる。ぴょんとスカートを翻し、柵から飛び降りた神乃狐は、
自分の尻尾を膨らませた。同時に胸の大きな二つのものがやゆんよゆんと揺らいでいた。

 「黒咲あかねは……保険ですの。あれほどのケモノツキになり易い子はいないし。お楽しみは取っておかなければね」


     #


 鏡を前に自分のイヌ耳に違和感を覚える。
 反してか尻尾はぶんぶんと揺れ動く。

 「烏丸っ」

 完全完璧ではないが、烏丸アリサはケモノツキになった。可能性は非常に高い。
 さっきまで羨望の目で見ていたケモノツキ、いざ自分の身に降り懸かると動揺を隠すことなんかできやしない。
それに対してあかねは一つの希望を見出だした。

 「完全なるケモノツキでないとしたら、神を倒すことが出来るかもっ」
 「ふぇっ?烏丸、そんなことできませんよ~」
 「神はケモノツキ同士を戦わせている。神もまたケモノツキだ。ケモノツキの戦いに倒れたケモノツキは姿を失せる。
  ただ、ケモノツキを倒す為だけに」

 アリサの書き損じを拾い上げ、アリサの前で広げると、お世辞にも上手いと言えない『ほむら』という文字が現れた。
ただでさえ紅顔したアリサが更に赤らめる。

 「ひらがなは難しいんです~」
 「上手く書けるときもあるんでしょ?」
 「勘ですよ~、大抵は。烏丸、勘だけはいいんです~」

 それだけでも凄いのに、あっけらかんとしている烏丸にあかねはちょっとだけ興味を抱いた。

 「そうだっ。外界に出れたなら……一緒に演劇を見に行こうっ。楽しいですっ。それにウチの部……演劇部の公演もあるし、
  迫先輩の演技は凄いですっ。公演は……」
 「どうしようかな~」

 迫先輩。
 再び、演劇論を交わすことを誓う為に敢えてこの場で名前を出したあかねはつばきを飲んだ。
 その為には……外界に出る方法を考えること。正攻法はダメだった。物理的に『魔壁』を破壊することは不可能。
重機はおろか、自分は魔力を扱うことなど出来ないからだ。せめてケモノツキにでもなれれば……と、弱気がよぎる。
 もし、自分が荵だったら、どれだけ楽になれたか。

 荵?

 「わおっ」

 荵の真似をしてもただ、やるせないだけ。
 恋することと似た感情があかねの胸をちくちくと突き刺す。
 痛くて、痛くて、何かに縋りたくなるし。目の前にある物なんでもいいから、藁でもいいから掴んでみる。
 藁はないけれど、再びアリサの書き損じを摘み上げたあかねは頭上に電球を灯した。


 「荵との戦いで気付いたんだけど、ケモノツキ同士の戦いは人間に決して危害を加えないのっ」

 アリサの書き損じをみくじを結ぶように折りたたみ、一つの結び目をあかねは作った。無意識的に手を動かしていたのだ。
 お節料理のこぶまきみたいな結び目をひょいとアリサに投げ渡した。

 「もしかして神を倒せるのは人間かもっ。でも人間は非力、ケモノツキの力をわたしにっ」

 ぼんっ。
 アリサの手に結び目が乗ると黒い炎が湧いて出た。一瞬の出来事にみな息を飲む。

 「火?」

 部屋の壁にまですっ飛んだアリサは身を縮ませて、黄色く輝く弓矢を手に震えていた。

 それは荵が武器として携えていたものと同じもの。アリサからイヌ耳と尻尾が消えると、弓矢も後を追うように消えた。

 「そうかっ」

 あかねは確信した。神のきまぐれか、荵に憑依させていたケモノをアリサに託したことを。そして、火を操れるのは人間と、
ケモノツキと人間のはざまで揺れ動く烏丸アリサだけ。という希望のすき間風。賭けだ。百パー確実なことなどない。ましてや、
神でもない人間が考えること。それに神もまたドジを踏む。あの『魔壁』のもやがそうだ。魔力がひるんだことを人間に見せたことで
神が何者でもないということを露にしたに等しいのだ、とあかねは言う。

 「この紙屑、みんな折るよっ。日が落ちる前にっ」


     #


 「先輩!先輩!先輩がいないから寂しくって!オオカミは寂しいと死んでしまいます!」

 再び夜がやって来たから、オオカミの遠吠えは止まらない。
 がおーっと天高く雄叫びを上げても、返事は返らず、ただただ力を消耗するだけ。一人ぼっちの閑花は先輩の姿を校舎の上の
神乃狐に重ねた。その背後にはあまりにも大きな満月が重なっていた。

 「まだまだ人間を捨てきれないようね。閑花にオオカミを託したのは失敗立ったかしら」

 上からの眺めは気分がよい。何もかも神が思し召すものなら、血を流すことさえも構わないから。
 キツネ耳の少女……神乃狐の次の一手は決まったようなもの。

 「オオカミに罰を」

 ケモノに成りきれなかったから、恋心を抱いているから、そして荵を仕留められなかったから。
 理由は掘り返せばいくらでもある。地上の閑花が気を許した隙を突いて、神乃狐は尻尾を大きく薙ぎ払った。稲妻が走り、
曇天に包まれる。火花散る校舎はまさに修羅の門。月の明かりが冷ややかに学園を照らしていた。

 「うきゃあっ!」

 頭を抱えて閑花がしゃがみ込んだ後、真っ白な世界に陥り、聴覚が侵された。キツネの魔力、極まり。
 そして、閑花が正気を戻すと、自分がたくさんのオオカミに囲まれていたことに絶望を感じた。

 「うそ……。たすけて!せ、せんぱーい!」

 じりじりと忍び寄るオオカミたちは四つの足で閑花を追い詰め、恐怖に陥れ、そして『魔壁』を背に逃げ場を奪っていった。

 「やだやだ!オオカミさんたち!しっし!しっし!ハウス!ハウス!先輩が、お前らを倒しちゃうんだから!
  やだやだ!やだ!失せろ!消えろ!バカバカ!わおおおおおお!せんぱーーーーーーい!」


 オオカミが憑依しているはずなのに、オオカミに仕留められるなんて。後悔するものはあるのかと閑花に尋ねても答はなし。
背中から脊髄に渡って冷気が駆け登るのは、まだ人間の世に未練があるからなのか。聞いたこともない脈を打つ音が、喉の奥から
聞こえてくる。頸動脈がこれでもかと異常なまでに氾濫していた。

 「裁きの時間は過ぎた。オオカミたち、処刑人の剣を振り下ろせ!」

 一匹のオオカミが弧を描いて閑花に飛び掛かるとき、閃光のように烈火が走った。オオカミは怯み地上にたたき付けられる。
 そして、目を疑うべきか……あれだけ強固な『魔壁』に炎が燃え移り始めていたのだ。


 「神の目を盗んで、人間の英知で刃を突き立てる。だよねっ、烏丸」
 「烏丸の矢が当たりました~」

 遥か遠く、弓矢を従えたイヌ耳尻尾の烏丸アリサが、夜中に太陽のような笑顔を見せていた。
 側にはアリサの書き損じを結んだ矢を多数携えた、黒咲あかねの姿があった。

 ケモノには扱えず、人間だけが扱える、長年の知恵。
 火、そして、文字。
 ケモノの魔力を僅かながら持つアリサが書いた文字に、火の魔力が宿ったのだ。
 アリサは矢を片手に弓に装着する。荵のものと同じ弓だが、アリサのものには新たな魔力が加わっている。

 「神様、人間なめちゃダメです~」

 ぼうっと鏃に結ばれた書き損じに黒炎が点る。それを見たオオカミたちは怯み、後退り、中には逃げ出したものも。
 炎の矢を放つと『魔壁』に垂直に当たり、今まで以上に火勢を増していった。オオカミたちを蹴散らしたアリサは次々と
『魔壁』に炎の矢を打ち込み続ける。黒炎がぼうぼうと、煙を立てて灼熱とともに焼き尽くす。

 「なんですって……。神としたことが」

 屋上で立ちすくむ神乃狐の茫然自失加減に、地上の閑花は牙を剥きはじめた。
 何が神だ。
 名ばかりの神は木でこしらえとけばいい。
 存在もしない神は踏みつけられればいい。
 周りは炎で顔が熱い。もう、なにもかも振り乱して、言葉の刃を首に突きつける。

 「ちょ、ちょっと!所詮、あんたは神の使いっぱしりじゃない!」
 「黙せ!ケモノの存在で意見すると言うのか」
 「先輩が黙ってません!」

 炎は止まるすべを知らず、学園を炎の輪が包んでいた。陽炎のように閑花がゆらゆらと炎を背にして立つ。
その姿は見た者誰も忘れられないだろう。そして、あかねが閑花の異常を察知して校舎の屋上を指差した。
余りにもとっさの行動だ。思考が脳に伝わる前に、つられてアリサが指先の先へと矢を放ったのだ。
 雷電を間近で見るがごとくの瞬間、炎の矢は神乃狐の尻尾に当たった。

 「烏丸。凄いよ……」
 「あかねちゃんの方がもっと凄いです~。あんな大胆なこと、烏丸は出来ません~」


 ぼうと身を焼き尽くす炎が神乃狐を包み、神の無力さを表す火の柱が屋上に立つ。
 同時に神の魔力が全て失われて『魔壁』の存在も地上から否定されたこととなった。

 つまり、神の力など赤子同然。

 「……面白いですわ。オオカミもイヌもキツネも何もかも、神を信じぬなんてね。よろしい。
  わたしの姿を最後まで焼き付けなさい。愚獣たちよ。それに黒咲あかね……もっと殻を打ち破れ……」

 あかねもよいケモノツキになれたかもしれない。
 神乃狐の夢は潰えた。
 業火の中、神乃狐の炎は何故か、神々しく、そして気高く見えた。
 遠い異国で死者が土に返る儀式を行うのならば、それよりも神秘に満ちた煌きが闇夜を切り裂いていた。
 あかねたちが聞いた、最後のお告げ。
 神乃狐が消えし頃、炎のほしいままにされた『魔壁』が音を立てて崩れ落ちた。
 アリサと閑花のケモノもすっと息を吐くように消えた。

 「勘だけはいいんですよ~」

 弓矢の腕前を勘のせいにしたアリサはあかねの背後に隠れた。


    #


 学園に現れた『魔壁』の存在が記憶から薄らいで、誰もかもが日常を取り戻した頃。それを象徴するかのように、
講堂の中では演劇部による公演で静まり返っていた。演目は『ロミオとジュリエット』。迫が書き上げた内容だった。
劇は恙無く進行し、一つの見せ場に入る頃、舞台袖であかねはカーテンに隠れて迫と荵の演技を覗いていた。

 「こんな内容なら、わたし出ません」

 迫の台本に不満を持ったあかねのせめてもの抵抗。
 あかねは不名誉を浴びるぐらいなら、役を捨てた方がマシだと言い放ったのだ。

 「勝手にしろ」

 させて頂きます。
 後悔はなかった。

 「ジュリエットはいちどでいいから、ぶとうかいにでてみたいなっ」
 「ほう。随分とませたことを言うではないか」
 「もう6さいだよっ。ロミオはジュリエットのことをずっとこどもあつかいするんだからっ」

 ただでさえ幼く見える荵が演じるジュリエットに違和感を覚える者はいなかった。それはあかねでさえもだ。だから、悔しくて。
 わざわざ繕ったドレスも荵の為に、劇の為に、と精一杯に場を盛り上げる。

 「ロミオっ。イヌになれっ。イヌになってわたしをうばいされっ」
 「よし。わんっ」

 ロミオ役の迫が荵を両腕で抱え上げた。……お姫様だっこ。女子の憧れを台本を理由に迫はためらいなく掻っ攫った。
荵も劇を忘れて頬赤らめるほど。舞台袖からの眺めはさぞかし辛いだろうと、あかねはそのシーンを観劇することは見送って
舞台奥からの階段を降りた。背中越しに聞こえる舞台の声に未練はなかった。

 「黒咲さーん。烏丸からの差し入れです~」

 黒髪ポニーテールの少女が階段の下でチョココロネの山を抱えて息巻いていた。
 寸志・烏丸アリサ。お世辞にも上手いとは言えない毛筆の手紙がチョココロネを一級上にランクアップさせる。
 あかねは遠慮なく一つ頂くと、『魔壁』で出会った少女の事をふと思い出した。

 「えっと、天月さんってお姉さんがよろしくねって~。天月さんに教えてもらったんですよ~」
 「はっ」

 彼女だ。天月音菜だ。

 そばにいるようで姿を見せず、姿が見えないと思いきやそばにいたりする。なんとも天月音菜らしいな、とあかねはチョコの糖分で
平常心に戻る。あかねからは舞台が高く見える。いつもそばにいるはずの荵でさえ、手に届かないもどかしさ。
 ドレスに身を包んだ荵をお姫様だっこをしたまま、ロミオ役の迫が舞台袖にやって来た。
舞台では暗転に入る。シーンのひとくぎりだった。

 「……」
 「どうしましたか~」
 「なんでもないですっ」

 『魔壁』に囲まれた校内で魔力に操られた荵を抱き抱え、疾走したことがふと蘇る。

 迫よりも早く荵をお姫様だっこしたのは黒咲あかねですっ。ただ、荵さえも覚えていないだろう記憶を抱えたままなど、
あかねにはちょっと悔しい。

 「もうひとつっ」

 食べてわすれてしまえ。
 チョココロネを手に入れることさえ阻む『魔壁』は、すでにないんだから遠慮はいらない。


     おしまい。





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お題:「学校に突如出現した魔壁によって世界と隔絶されてしまう生徒達が魔壁を破壊し生還するまでの物語」

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