『魔人』
ストム卿というのは真っ当な氏も素性も知れないような男で、目は鷹のように鋭いし
まるで悪党の大親玉のような見た目をして自慢気に大仰な剣をぶら下げているが
それでいて話してみるとこれが存外に親しみやすく、なんとも食えない爺(じじい)である――
というのは、彼の古い友人の談であった。ドイツがまだ帝国だった頃からの知り合いで
ナチス政権下に入っても未だそれは変わらず、また友人である当人も同様に帝国から
今に至るまで国に忠を尽くし、己の研究に心血を注いできた奇特な老人であった。
老人はそれほど長い付き合いなのに、
ストム・エアという男をよく知らないのだ。
肌が褐色で髪はプラチナブロンド。背丈はまあ平均的な西欧人というところで
そのくせ所作は東洋の人間のようにキビキビとして、苛立つほどしっかりとしている。
国籍も知らなければ本当の名前も分からない(ストム・エアというのが本当の名前だとはまさか老人も思っていない)し
なにより馴れ初めすらも覚えていない、霞のような相手だと認識していた。
「それでは、当時はアフリカで副総督をしていたと?」
『その通り。しかし名誉な職だったが、待遇は良いとは言えなかった。
なにせ周囲一体はサバンナというやつだし、少し行けば密林もあるんだが
そこはそこで居心地が悪い。何処にいたって蝿が出て来て
おまけに美しい女性も居やしない!私に残されたのは酒だけだった。
それからだよ、私が酒と毎晩を共にするようになったのは』
「それはまた……では嫌な思い出を忘れるためにも
酒という君の女神に、酒という君の女神で乾杯というのはどうかな?」
『あぁ、それは最高だ。是非とも……ぁ。スマンがストム卿
実は今日はな、紹介したい者を待たせてあるんだが――』
――ヴィルヘルム・フォン・グライツという若者と出会ったのはそれが初めてのことだった。
初期のナチス政権下、ある研究所で長を務める老人の秘蔵っこ――もとい才能あふれる若きホープが彼であった。
彼は言ってしまえば陰気な性格で、人と会話をするのを好まず
才能だけは余らせているようなタイプだった。いわゆる天才肌というやつか。
だがそれでも、ストム・エアとて伊達にお喋りが趣味だと自覚するだけはあり
また馬も合ったのか、友である老人のもとを訪れる度に彼にも会い
ある時にはその研究について話す事もあった。薬ひとつでヒトを特別に――
つまり、非凡な存在に。能力を持った存在にすることが彼の研究課題であった。
その点、ストムはまさに人間でないし、そのことは老人もヴィルヘルムも分かっていたので
研究に協力する所は数多くあり、それが更に皆の仲を深めていく事となったのである。
ヴィルヘルムの薬品による人への作用は、何と言っても脳への影響を与える一点が
突出して強烈だった。肉体改造や病巣を攻撃するのとは違い、ゆっくりと――
ストムには何処をどう弄るのかまでは分からなかったが――馴染ませるようにして
脳の構造自体を変えるのだと云う。どうしてそう気長に時をかけるやり口なのかを聞いてみると
以前は一度の注射で実験を行っていたが、人によっては効果を確かめる以前に死ぬこともあり
また、ただ一人の成功と思われる人物が〝暴走〟したことがあるからだ、ということだった。
その暴走したのが、アーライン・アオスガング。
生きていれば既に三十路を超えるが、『それはない』とヴィルヘルムは言っていた。
何でも当時の実験施設はオーストリア山中にあり、時節もまた冬であり
何より警備の面々が手にしたライフル銃で彼を蜂の巣にして渓谷に追いやったからだ、という。
この話でストムが一番気にかかったのは、一体どうして、そしてどのように暴走し
何故『殺処分』しなければならなかったのかということだったが
ヴィルヘルムは自分から何かを言おうとはしなかったし
生憎とこの話をする数カ月前には事情を知るはずの老人も亡くなっていたのだった。
『半魔』
赤髪の少女がただ一人、ソファに腰掛けて温かなココアの入ったマグカップを両手に持ち
暖を取って、火傷しないようにと辿々しくそれを口に運んでいる。
少し離れた場所には暖炉もあったが、窓を見れば強烈な吹雪が視界を覆っており
窓辺に置かれた机の上、万年筆と思われる銀色のペンが冷たい輝きを発している。
少女は10代前半といった所か。温かな格好をしていて、顔立ちは将来が楽しみだ
なんて言われそうな可愛らしい物。ただしその耳元は怪我でもしているのか包帯を巻いており
ただ一人で本と紙とに囲まれた狭い部屋に居るのは何とも囚人のようですらある。
彼女はしばらくすると窓際の机にマグカップを置き、筆を執って一冊の本に向かった。
白紙の本だ。既に終わりは近く、彼女は時折窓を見上げて考えをまとめながら一節
また一節と書き進めていき、ものの10分かそこらで本は仕上がった。
その文字は人が読める物ではなかったが、それが当然のように彼女は側に積んでいた
何冊かと合わせて手に取り、引き出しを開けてそこにしまおうとした。
この作業は、彼女の仕事なのだった。翻訳――やや特殊な内容だったが大筋そんな所で
ノルマは大体、月に一冊。既にここ一週間で三冊仕上げていたから
彼女としては本を引き出しに隠して、毎月のんびりと提出すればそれでいいだろうという考えだった。
だが、開かない。ガタガタと音を立てて何度か引くが
奥になにかつっかえているような感じがして――ふと『やられた』と思った時に部屋の扉が開いた。
「そこなら無駄だ。この間、使い魔に調べさせておいたが……気付かなかったようだな。
まあ無理もない。元より年並外れた魔力に魔術にその才能にと
そちらに頼りきりだったのだからな。さあ諦めて全ての本を寄越せ
そして来月からも同じ量を書いてもらうぞ―――
リリア。」
2m近い巨体。はちきれんばかりの筋肉を、狒々のような体毛と黒い皮膚が覆っている。
しかし頭部だけは峻烈な様相が想像できる頭蓋骨で、彼は名をマモンといった。
此処は魔界の、まさにそのマモンが領する極北の大地である。
窓の隙間から零れた雪のひとひらがリリアと呼ばれた少女の赤髪に触れると
その属性を吸収して彼女の色という色が白に染まっていった。
場所は変わって同魔界の〝老海〟――ラオハイ、と呼ばれるこの土地には
かつて海が広がっていたが、急激な地殻変動と猛烈な火山活動により海水は減退、消失。
海盆には水の代わりに溶岩が溜まり、地平線の果てに見える険峻な火山群にはドラゴンすら棲息している。
「キサマは十数年前にこの地でドノという、牛の姿をした悪魔に〝保護〟された。そうだな?」
『…………、……。』
「更にその後数年間に渡って奴隷のような扱いを受けた。具体的には子供に向かない水汲みや
日々繰り返される過度な掃除といった無為な重労働に、ドノを慕う町の面々から
好きなように扱われた等、など……老海近辺の街は何処も枯れている。
衣食住は大方、満足とか、足りていないとか、そういう程度ではなかったのだろうな?」
『…………。』
「それで、ある時キサマはいつもの様に意味もなく殴られた挙句
悪ふざけの一つとして崖の上から〝海〟に落とされる事になった。
タバコの火を押し付けても怪我をしなかったから、では溶岩ならどうなんだと
酔った一人が言ったのが始まりだったとか。」
『……。』
「そしてキサマは覚醒した。自分でも理解していなかった自身の能力で
対流する溶岩の魔力を吸い集め、十年後の姿――人間どもに見せた姿を、虚像を作り出し
怒りのままに街を焼き払うことにした。すべてが終わった後、同じような境遇にあった
二人の半魔を拾い上げ、貴様らはこの地を後にした……そうだな?」
『……それが、何か悪い?』
「悪くはない。悪魔らしい正当な仕返しだと感嘆するほどだが、事実関係は確認せねばならんだろう。
今の事実を逐一儂に教えてくれた、老海の主どもにもその通りであった、と報告しなければならんのだし」
『あのドラゴンども、ね……フン、爬虫類め。やっぱり見てたんだ?
いつも遠くから物珍しげにこっちを見て、いざ飛んできたかと思えば
何もしないで過ぎ去るだけ。小狡そうな眼で馬鹿にしたように見下ろしてたのも気付いてた。
あいつらが……名前を云うのもいやな、あの牛野郎を食ってくれてたら、私の人生だって狂わずに済んだのに』
「半魔で親なし、という境遇を哀れと見るか格好の奴隷と見るかは悪魔次第だ。
しかし大半は後者だし、それゆえに誰も彼もがそれに違和感を抱くことはない。
こんな辺鄙な場所に中央の連中が気を払うはずもなく、ドラゴンも己の生活を
賑やかそうというタイプの生き物でもない。……運が無かったのを人のせいにするな、小むすめ、ッ…ムゥ……!」
大きな狒々姿のマモンの脛を蹴っ飛ばして廃墟の中に駆けていく少女。
別に涙を零していたとか、そういういじらしい所は全くなかったのだが
溶岩によく似た色合いの髪が揺れ、それをはるか遠くから幾つもの瞳が捉えていた。
その龍の視線上にマモンは立つと、〝爬虫類〟を一瞥し、じんわりと痛む足を引いて廃墟に向かった。
そこら中、建物は木製も鉄筋製もなく、全てが燃えるか溶けるかした異様な廃墟だった。
『被験体AA』
巨大な穴が空いている。彼はそれを見下ろして記憶の奥底を引っ掻き回していた。
彼には真っ当な人と違って記憶力がない。人間の頭脳を引き出しに例えればわかりやすいが
彼の引き出しには記憶という
アイテムが僅かに数個、強烈なものが転がっていたに過ぎない。
ようやく掴みとった記憶からすると、どうも異様に熱かったような事を覚えているが、それだけだった。
『十年くらい前だったかな……?』
時の感覚も確かではなかった。彼はジーンズとパーカーという
如何にも若者らしいファッションをしていたし、その奥に見える風貌も端正な出で立ちの青年に見える。
彼はとある辺境の山中に居た。山中と言っても周囲50kmに背の高い木すらも無いような荒野で
彼自身何故自分がここにいるのかも憶えていなかったが、別に良いかと思いつつ
また穴に目を落としていた。奥底で紅く何かが光っている。溶岩だろうか
それとも地下のガスに火でも付いて、何十年と燃え続けるような事故のあった場所なのかもしれない。
青年はどちらでも面白そうだなと思ったかにこりと笑って
しかし何かが足りないような気がして周囲を見回した。――やはり何もない。
離れた岩の上にトカゲが暖でも取りに来たのかちょこんと座っていたが
舌をちろりと見せただけで暗がりに逃げてしまった。空には満天の星。
他に何も無い。誰もいない。気のせいかなと呟いた時に、一枚の紙が目に付いて、拾い上げる。
『〝現代美術展〟……新進気鋭の若手芸術家達が腕を競うこの一幕を見逃すな……?』
開催地は
水の国――何処から飛んできたのか、それはチラシだった。
どこそこのミュージアムで、ジャンルを問わずに若手を呼び集めて展覧会をやるとかどうとか。
青年は特にやることもなかったので、其処に行こうかなと思いながら
また穴を覗き込み、やはり何も無いことを理解すると、周囲に転がった大小の石塊を
そこにどうやってか放り込んで、穴を埋めてしまった。
トカゲの一匹がその隙間を縫うようにして、穴の底に降りていった。
『或いはメイドとして。』
『いいですか皆さん。家政婦にとって大事なのは第一に礼儀
そしてそれを基としたお客様との信頼関係です。例え仕事の手際が完璧であっても
一時の主人となる方に不審を抱かれてはその仕事自体が頂けないのです。
いいですね?……なんですアマンダ、さっきからウロウロと落ち着きようのない』
「あ、いえその、すみません婦長さん。ただ、あのう……あの人が、また外に……。」
『まあ、また……―――』
レテリック家政婦紹介所では、家政婦たるものこうあるべき、という
訓戒地味た講義を日々行っている。家政婦長兼紹介所所長のレテリック女史が
主たる教授だったが、その婦長が近頃頭を悩ませているのが
紹介所の表で勝手に座り込みを続ける一人のメイドだった。
紺色の髪に同色の瞳。多少背は低く童女のようだったが、落ち着いた雰囲気と顔立ち
そしてロングスカートの裾までピシっと着こなしたメイド服姿が実に大人びた様子で
見た目だけであれば婦長としても家政婦の鑑として紹介したいくらいなものである。
だがその彼女が自分の紹介所に登録しているわけでもなく、建物の敷地から出たすぐそこに
ボロボロのトランクケースを置き、そこに座って本を読まれては話が別だった。
何と言っても、紹介所を建てたのは家政婦を求める人々に平等な条件の下で
一人ひとりを選んでもらうためなのである。家政婦たちは自分から売り込んだりしない代わりに
選んでもらったら一生懸命に働き、その評判が彼女たち全体の仕事を増やすことにつながっているのだ。
だから一人だけ建物の外で雇ってくださいと言わんばかりに座っているのは
迷惑千万だったし、それが冷やかしでも嫌がらせでも無く
当人は『雇用者募集』の立て札すらせずにこれまた古そうなメガネをかけて本を読んでいるのだから
もう婦長としてはこれを悩みと言わずしてなんとするか、という状況だった。
婦長が表に出ると彼女は相変わらずそこに居たが、もう一人、老齢の男性が
彼女の前に立って本を覗きこんでいた。話がある、という様子なのは一目瞭然だったが
当の小さなメイドはもう少しで終わるからという一言も無く本を一挙に読み終えようとしている。
『失礼だ』――婦長がそう思うのも無理は無い。
だが老紳士は婦長に気付いていたようで、今にも声を張り上げそうな彼女を手で制し
全て分かっているから任せてほしい、と云うように優しく微笑みを向けたのである。
そうなってしまうと、お客様との信頼を大事にする婦長のことである。
何をすることも出来ずに綺麗な角度を保って頭を下げ、すごすごと紹介所に引き下がっていった。
さて、ふと紳士が『……君は興味深い本を読んでいるようだが』と尋ねれば
「面白いかは人によると思いますが、この本を読む私が何か」とメイドが返す。
『君はメイドで間違いないのかね?』と、紳士が彼女の反問を無視し
続けて聞けば「紹介所を介さないフリーの、ですが。」と返事。
では――と、老人は早速契約に向けての話に入る。
『君は何が出来るのかね』、「家事全般は無論のこと、子守、夜伽も可能です」
『他に仕事は出来るかね。良いブーツを履いているが』「お給金を頂けるならですが」
『偵察はどうだろうか』「出来ないと言った覚えはありません」
『では私の下で様々な記録の蒐集を手伝ってくれないか』「それがお仕事なのでしたら」
そうやって二人して、話を決めるのは早かった。
老人が微笑み、メイドは中々話のわかる人が来たな、とでも云うように
本をしまってから契約書を取り出して、互いに納得の行く形で契約も済み
二人は用も無いので、紹介所に入るまでもなく、その場を後にした。
ストム・エアと、そして
エリザベス・カーライル――
両者の出会いと運命の交わりは、僅かに12分程度で決まっていたのだった。
時に、現在よりおよそ〝20年前〟の
出来事である。
『半魔の娘』
マモンとリリアは揃って老海の淵に腰掛けて、遠くに見える火山群を眺めていた。
周囲は恐ろしく熱く、人であればつま先から燃え上がりそうなものだが
流石に両者とも魔族である。リリアは特に熱には強いこともあって
ぼうっとするのに不都合な点は何一つ無いらしかった。
「それで……キサマはその後、どうしたのだ。憎らしい連中を焼き殺して、それから……?」
『……やだ、言わない。』
狒々の大きな手が少女の襟首を掴み、いともたやすくその身体を持ち上げて
頭蓋骨の前に引き寄せる。リリアも負けじと虹色に色を変える多重円の瞳を向けていたが
まさか幻術が効く相手でもない。「叩きこむぞ」と溶岩を指して低く脅されれば
少しそっぽを向いてから『話すから下ろして』という声が漏れる。
『……それで?』
「出せる限りまで温度を上げて、そこら中に火を点けたの。
家畜小屋も、家も、寝床扱いされてた汚い毛布も燃やしてやった。
それからキルフェと弟クンを拾って……『向こうの世界』に行った。
偶然だけどね?次元の壁とか、そういうのを私の放った光熱でぶち抜いちゃったみたいで」
『うむ、む……ではその後は十年近く人間どもの世界に居たというのか。
その間何をしていた?六罪王として身を偽る以前は、一体?』
「子作りとか……痛ッ!何するのよ、この老いぼれ!馬鹿猿っ!」
『ふン、儂とて飽きるほど生きて居るのだ。如何にキサマが淫魔とは言え
齢十にも満たぬうちからは子供を持てぬことなど知っておるわ。
第一相手が要るだろうが、相手が』
ニヤリと笑い、リリアはふと廃墟街の郊外まで足を運んだ。
岩場の影、枯れた草葉の裏側。そこには地面をまっすぐに繰り抜いたような穴があり
縁が全周囲、黒く焦げているので、マモンにはすぐにこれが
リリアの開けた次元の穴なのだということが理解できた。
紅く光る奥底から一匹のトカゲが這い出して、リリアの足を伝い、腹を伝い
器用に肩まで上り詰める。が、それを気に留めるほど易い話の内容ではなかった。
「私が此処を通ってたどり着いたのは、〝20年前〟の世界……無理やり開けたからね
きっと時間軸とか、そういうのが狂ってたんだ。でも出た先には一人の男が居て
魔術も使えて、話が合った。彼、結構良い人でさ。私が人を呼ぶときに〝クン〟ってつけるのも
私が私を〝私〟って呼ぶのも、向こうの世界での常識とか、全部彼の受け売り。」
『儂も悪魔だ、荒唐無稽な話の百や二百は信じてやる。
だが例の子供がどうというのは何だ、まさかごっこ遊びでした、とは今更言わせないが――』
「お互いの魔力をね、寄せ合うの。それはもう、身体を重ねるくらいに濃く
深いところまで……それこそ、個人の情報が全て詰まった深層の域まで
全部を出しきって交わらせないといけない。だから人間にはほぼ確実に出来ないし
出来てもやらない奴ばっかり。でも彼は違ったし、私も違った。出来上がったのは
人間だけど人間じゃない、魔力の塊のような生き物とも使い魔ともつかない存在……
子育てなんて出来ないから、人里に置いていったけど――」
『―――その子供の名前は。』
リリアがようやく気付いたように肩のトカゲをひっつかみ
尻尾を持ってぶら下げて、嫌味そうに睨めつける。飽きたかと思えば穴に放り
「塞いだほうがいいんじゃない」と言って、元来た方へと戻って行った。
脅しても意味はあるまいと踏んだマモンは、一瞬で穴を平地に変えると
彼女の後を追い、やがて己の根城へと姿を晦ましたのだった。
『被験体AB』
時は現実のそれより10年ほど前。ヴィルヘルム・フォン・グライツは艱苦していた。
実験が遅々として進まないのである。あのストム卿に救われて落ち目のドイツから
この新世界に根を下ろして早9年、
カノッサ機関という
あの世界で一番気が狂っていると思ったナチスよりも更にイカレた連中が集う組織に彼は居た。
役職名は〝
APO研究所第三研究主任〟。薬学担当で、もっぱら一般兵士を如何にして容易く
屈強な面々に変えるか、というのを主題とした新薬の開発に勤しんでいたが
当のヴィルヘルムからすれば糞食らえというような日々だった。
身体を鍛えたければ勝手に鍛えればいいし、そんなのプロテインだのアミノ酸だのを取ればいい。
第一、筋肉や発達した神経だけでは究極の兵器には程遠い。
天才というのは大体どこか方向性がおかしいのだが、ヴィルヘルムもその類に漏れず
考えがややおかしかった。彼の目的はあくまでも薬物による能力開発――
それも以前の失敗を活かして、錠剤で、誰にでも効果をもたらせる薬の研究だったのだ。
錠剤ならば体格によって投与量を変えるにしても然程大きな差は出ないし、なにより手軽だ。
一度生産方法を確立してしまえば持ち運びも容易だし、カノッサ機関なんて
大仰な名前を付ける割にやり方が旧時代的だ、なんて批判も公然としていた。
だからこそ研究の機会も、そのための素体や時間も与えられていないことに気付かないあたり
やはりヴィルヘルムはどこか欠落しているのだった。だが既にこの時点で
後にベイゼ・べケンプフェンという形で一種大成する〝人間兵器〟の構想はできていたと見える。
さて、そんな彼を時折慰めるのもまた旧来の友、ストム・エアである。
こちらに来ても彼は相変わらず神出鬼没で、いつまでも貴族らしかったし
気付けばメイドまで雇っていた。「少女趣味だったのか」と言ったら
そのメイドに嫌というほど睨まれたのだが、まあ細かい事情まで知ったことではない。
問題はそのストム卿がさっき来て、一人の少女を置いていったことだった。
『冗談じゃない……僕がこの手で養ったことがあるのは
すぐに死んでもいいようなマウス共だけなんだぞ、あの爺さま……
「私の家を富裕と見込んだ誰某が置き去りにしていったようなので
面白かったから連れてきた。後は任せたよ」――って、やっぱり冗談じゃないのか?
僕はこんなガキ相手に……おいやめろ!裾を引っ張るなよ、チビが!
……くそっ、聞いてるのか、このっ……!?』
髪は鮮やかな桃色で、瞳は暮れなずむ夕日のような赤。10歳位の少女で――
名前はなんというのだろう、分からなかったが、どうもお転婆な娘のようだった。
事が起きたのは、裾を引っ張り続ける彼女に向かって威嚇のつもりで
力など微塵もない細腕を、ヴィルヘルムが頭上に掲げた時である。
何か見えない男に突き飛ばされたように、彼は自分の意志と無関係に数歩後退したのである。
少女は「なにしてるの?」なんて不思議そうに見ていたが
薬学者には何が起きたのか何となく予測がついた。
元の世界とこの世界とで全く違うのはやはり魔術だ。
能力はストム卿しかり、時折居るものだったし、こちらの世界では尚多い。
何か実像があったり、彼女の意志で何かが起きたのではないところを見ると
どうも防衛魔術でも発動したらしい。それも一介の少女が無自覚に
それも魔力の消費をした様子もなく――とんでもない才能があるのではないか
とヴィルヘルムは直感し、同時にストムの慧眼に頭が下がる思いだった。
『AB計画』は翌日から開始された。ヴィルヘルムの〝処女作〟はAllein Ausgangだったので
それをもじってAngel Bergelonとコードナンバー風に名を付けた。
手探りのうちに兵器として大事なことを教えていく。知性と教養、礼儀作法や
兵器に関する知識、実技能力。薬物は憚らなかった。ヴィルヘルムには自身の作る増強剤に
絶対の自信があったし、事実アンジェルはすくすくと育っていった。
彼は彼女を酷くかわいがった。傍からは皮肉にも彼が以前言った「少女趣味」と貶されたが
それを気にする性格でもなかったし、彼は彼なりに一生懸命に研究に打ち込んでいるだけで
何故馬鹿にされるのか全く理解できていなかった。
教育の軸には「世間的悪こそ普遍的正義である」というのを置いた。
下手に難しいことよりも、一途に強烈なことを言ったほうが人は覚える。
子供なら尚然りで、これは実に上手くいった。1年もするとヴィルヘルムは
もう何人かの研究対象を身内に加えるなど、気付けば人生は順風満帆だった。
この何人かの中から次の候補体、BBが選び出されることになるのだがそれはまた別の話。
さてしかし、人生は中々上手く行かないものだった。アンジェルが大熱を発したのである。
思えば彼の研究を気に食わない小人の盛った毒が元なのだろうが
ヴィルヘルムにはそれが察せられず、看病に徹した。しかし薬剤を扱うクセに
彼というのは医学の知識が疎く、ちょっとした肺炎を治す薬を作るのに3日もかかった。
その時にはもう遅かった。41度の熱を3日も発せば、人はやはり障害を負うことも多分にある。
少女がまさにそれであり、全てが裏返っていたのだった。
ヴィルヘルムへの慕情はあったが、悪を軸にした教育は全て裏目に出た。
彼女が思う真実とは正義に置き換わり、悪は憎むべき対象となった。
ヴィルヘルムは慚愧した。己にもっと知識があったなら。
天才にあるまじき挫折と苦悩だった。この折ばかりはストムも声をかけることはせず
彼の判断に全てを委ね、結果として、アンジェルは人知れない場所へ里子に出された。
その後、更に施設へ送られたともいうが、誰もその正確な行方を知るものは居ない。
ヴィルヘルムが彼女に与えた最後の薬は、強引に海馬に干渉し
記憶を曖昧なものに変える一錠だったので、向こうから居場所を知らせるようなことも起き得なかった。
『―――で、それを俺に聞かせてどうしようってんだよ、おっさん』
「どうもしない。だがヴィルヘルムに頼まれたことだ、彼の娘とも云うべき……
まして唯一まともに現状を把握している君には伝えるべきかと思ってね。」
『……ヴィルヘルム・フォン・グライツか。良い名前してんじゃねェか、アイツ』
初耳だったのかね、とストムが聞くと、『BB』ことベイゼ・べケンプフェンはコクリと頷いた。
場所は病室であった。先日路地裏で倒れていたアンジェル・ベルジュロンその人の個室であり
その見舞いに来たベイゼを訪れてストム卿が姿を見せたのである。
『アイツは天才だったが、変人だったからな。死ぬまで呼び方はドクターかアンタだったし……
でもまあ、やっぱり異世界の人間なんだな。何となくそうじゃないかとは思ってたんだ
なんせ世間知らずだし、他の連中とは方向性が違ってたしよ』
「彼女の……アンジェルの事はいいのかね。まあその様子だと
同じ研究所に居たのは知っているようだったが」
『どうもしねェって。大体の事情は分かったし、いずれ世話になってる奴には
俺から伝えりゃいいだけの話だからな。……強いて言うなら俺の後
居るはずのない完成品の野郎が最近になって出て来たのは気になるケドな』
「ふむ、彼女か。まああれは正直いって、私の方としても予想外だった。
どうも長期睡眠に入っていたのが、偶然にも施設の崩壊に巻き込まれず今日に至るまで
継続されていたようでね。……どうするのだね、君は。中立の立場で、姉と妹の抗争を眺めるのかね」
『気持ち悪ィ言い方するなよおっさん。俺に肉親はいねー、他の連中も一緒だ。
一方が正義で一方が悪だろうが、俺には関係ねェさ。』
ストム卿は一つ頷いて、横に侍していたエリザベス・カーライルに「帰ろうか」と言い
腰を上げた。ベイゼは何をするでもなくそれを見送って、やがて病室は静まり返る。
此処は水の国だ、当然病院施設のレベルは高く、定期的に機械の電子音が聞こえる以外
物音も無い。当のアンジェルも意識は無かった。ベイゼは老紳士の持ってきた
季節外れのガーベラのフラワーアレンジをそっと置いて、静かに部屋を出て行った。
―――同室、深夜。
その部屋には男が居た。ジーンズ、パーカー、手には汚れたチラシが一枚。
訪問者だったが見舞い客ではなく、看護婦たちも気付いてはおらず
彼も見舞いのつもりで来たのではなかった。なんで来たのかは憶えていなかったし
どうやって来たかも分からなかったが、ただ何となくこの若い、朱い髪をした女性に
縁があるような気がして立ち入ったのだった。彼はぼうっと20分ばかりベッドの側に居たが
やがて何を思ったか窓から出て行った、それだけだった。病室は5階に位置していた。
『凶水鳥テナーと長尾の妖狼』
長尾銀狼が
櫻の国に帰るのはおよそ夏以来の事である。
以前にお稲荷様の真似事をして叱られて以来、何となく戻りづらいところがあったのだが
他の国をうろうろとするうちに櫻の知り合いが増えたりと
また奇縁を感じ、また先日、ちょっとした重大事があったので気分転換に戻ってみたのだった。
しかしまあ、彼女ほど街道を歩いていて目立つものも無い。
冬だというのに腹回りは肌色が見えていたし、裸足だった。
その上両手足には鉄の輪などをつけていて、腰には瓢箪、背には龍笛を秘めた帯を襷掛けにして背負っていたのだ。
ただ何より目立つのは狼同然の獣の耳と、2m程もある長い尻尾。
銀色の髪に毛並みは黒髪が大半のこの国において異常なほどに浮いていたし
そもそも妖怪が当然のように往来を歩くのがさぞ珍しいのだろうと見えた。
彼女は奇異の視線を知ってか知らずか行きたい場所に行き
ある場所では和菓子を食べ、ある場所では季節の魚を貰って、知己の友と会い
数年か数十年来かで夜更けまで語り合ったりなどしたのだった。
親族を尋ねると既に子から孫、その下にも子供が居るほどで、人から見れば20代の銀狼も
狼の一族からすれば完全に『大祖母様』なのだった。
そうする中でふと尋ねたのがある山中の集落である。
自身が子供の頃からよくちょっかいを出していたところで、何もないが
田んぼと畑と果樹と、そして山々のなにもかもが風光明媚で心惹かれる田舎だった。
――だったのだが、どうも様子がおかしかった。家々は荒れ果て、田畑は耕された様子が無い。
昔から自分を知るおババ様を探してみても、彼女はおろか、人っ子一人出てこない。
これは――と土匪の害でもあったか、と考えを巡らせる銀狼の頭上で
この世のものとは思えない、甲高くも野太い鳥の声が聞こえたかと思うと
巨大な鉤爪が彼女を掻っ攫おうと一挙に肉薄してきたのである。
だが銀狼もさる者、その鳥のあまりの大きさに驚いたが
寧ろこちらから飛び掛かって胸元に爪を立て、共に空へと舞い上がる。
――大きい。羽を広げると15mにもなり、くちばしから尾羽根までは
優に20mはあるかと思われた。妖怪か、これは否だった。
銀狼も妖怪だから、そのあたりの機敏は容易にわかる。では唯の鳥かとも思えず
目に止まったのが黒いマフラーのような何かであった。
これも長い。鳥の首もとを二巻きほどして、尚も遊々と宙に舞っているのである。
怪鳥はやがて山を超え、奥の湖へとやってきた。此処には銀狼も覚えがある。
何でも以前は火山だったとかで、峰々の間にひっそりと佇む小湖。
中央にはちょっとした島があるのだが、どうもそこに巨大な巣がある様子。
直感したのは、アソコに村民が居るのだろうということで、銀狼は即座にその解放を考え、行動に移した。
巨大な鳥は、確かにその鉤爪、くちばし共に脅威である。
だが人ならざる銀狼だからこそ出来た今の肉薄には抗する策が無いと見えて
藻掻きつつも攻めあぐねている。銀狼は爪を伸ばし、更に繰気術でそれを強化し
気を見て一挙に踏ん張ると、怪鳥の左の翼、その付け根を深々と斬り付けそのまま巣の中へと落ちていった。
降下200m足らず。足下が柔からな木組みの巣となれば
妖怪たる銀狼に着地できないことはなく、背後に山並みに消える怪鳥を見遣りながら
彼女は村民が捕らえられた場所に降り立ったのだった。
それから―――もう怪鳥は帰ってこなかった。銀狼は見知ったおババ様を探し出し
己の格好に畏怖する村民を鎮撫させ、一先ず全員を村へと連れ帰った。
その後聞いた話によるとやはり全員があの怪鳥に連れ去られていたらしく
中には食われたものも居たという。だが幸いにして巣の一部は湖に浸かっており
そこから小魚を取ることで何とか露命を繋いていたとのこと。
銀狼からすれば不憫だったし、子作りをするでもなく
巨大化した鳥一匹が人を攫ってどうするつもりだったのかというのが無性に気になっていた。
やがて夜。人々は一度家に戻り、やがてなけなしの食料や酒を取り出して
枯れ木を集め、村の広場でちょっとした宴会をやった。
銀狼は親族の面々に言って獣を何頭かもってこさせ、それを肴に大いににぎわいあった。
始めたばかりの上手くもない龍笛を披露したり、おババ様が嫌というほど物語したり
やはり最後は怪鳥に付いての話になり、明日は死体を探しに行こうとなったが
ついぞ3日してもその遺骸は見つからなかった。
やがて銀狼も長いするタチでもないから此処を離れ、郷里である櫻の国も去った。
帰り際、ある思い出の山に立ち寄ったが精々用事もそのくらいで
戻りの船に乗る時などは雪に降られ、風流ながらも散々であった、とか。
一妖怪の話はこれで終わり。けれども、怪鳥の話は同じではなく
後に別な場所で人を苦しませることになる――これもまた、別の話であった。
最終更新:2015年03月07日 06:13