――――レイド、イマミレイ、銀鶏、フィリン……どこにいる!?
焦りが胸を突き上げる。もはや事態は致命的な局面を迎えつつある。ひたすら前へと進む足は、止まる事も緩む事も許してくれそうもない。
失われた、左目の奥が、キリキリと痛むような気がした。
――――ラギデュース、アストラ、
ラベンダァイス、ヴァルター!! 気が付け……早く、早く気が付けッ!!
今ここにはいない、どこにいるのかも分からない仲間たちに、走りながら必死で警句を叫ぶ。『それ』はもう、容赦なく自分たちを襲おうとしているのだ。
一刻の猶予もない暗闇の中、それに気づいているのは自分だけ――――だからこそ、走り、仲間たちを招集しなければならない。
背後から迫る闇が、なおも膨れ上がるような気がした。振り返りたい衝動を振り切るようにして、ひたすらに走る――――後は是か非か、それだけだ。
――――敵は俺たちを、待ってはくれないぞ! もう、もう時間はない……!
変化は急に、そして当たり前のようにそっけなく訪れた。背後から撃ち込まれた火炎弾が、その身体を吹き飛ばす。つんのめるようにして倒れ込み、土の味を味わう。
背後を振り返った先に――――見えたのは、1つの『絶望』だった。
――――
カノッサ機関、蜂の軍勢、そして得体の知れないディストピア信奉者たち。
みんな一様に、侮蔑の嘲笑を浮かべながら、それぞれに武器を向けてくる。足元には――――仲間たちの、亡骸。すでに、全ては終わった後だった。
闇から、光が迸る。全てに終止符を打つ、破滅の光が――――――――。
「――――ッッッ」
いつの間にかまどろんでしまっていたワーキャットは、弾かれたように顔を上げた。穏やかな喧騒と笑い声、そして食器のなる音が、場に満ちている。
どうやら今は、何事もなく時間を流していた様で――――居眠りという失敗も、どうやらそれ以上の大事にはならなかった様だ。
――――ダイニングバー『Crystal Labyrinth』。
ホールとカウンターの隣接した、少しガラが悪い大衆店は、今日も賑わいを見せていた。居酒屋ノリそのままの客も、レストランとして利用する客も、そしてオーセンティックに酒をたしなむ客も、ここでは受け入れる。
ルールはただ1つ――――この用心棒、アーディンの目に余る行為をしない事、それだけだ。
「あら、起きたのねアーディン。少しばかり疲れている様だったから、寝かせてあげてたんだけど……ひょっとして魘されちゃった?」
カウンターの中、バーテンドレスがアーディンに声をかける。彼女こそ、この店のオーナーでマスターで、そしてバーテンドレス。要するに、アーディンの雇い主だ。
ざっと後ろ髪を短く束ねた、すっきりとした姿に、ブラウスとフォーマルベスト、そして紅葉色の蝶ネクタイを着用した、マニッシュな女。
まだ30代にして店の切り盛りをしている、どことなくスタイリッシュな印象の女だ。
「……余計なお世話だ。気づいていたなら起こしてくれたら良かったものを……」
「今日は、順当に順調だものね。荒事も『来客』もないみたいだと思って――――何か、飲む? すぐに用意するわよ」
「……じゃあ、気付けにトロージャンホースをいただこうか……少し頭を覚まさなきゃならん……」
苦笑しながらも、アーディンは黒ビールとコーラのカクテルで満たされたジョッキを受け取り、軽く口にする。さわやかな甘みと爽快な炭酸、そしてアルコールの苦みと辛みが口に広がる。
少し休息に入っていた身体も、それで切り替える事が出来たようだった。
(――――思えば、時代も移り変わってしまった……奴ら、今は野垂れ死んでいるんだろうか……)
店内の喧騒を振り返りながら、ふとアーディンは先ほどの夢を思い出す。今まで、自分を頼ってきた、そして頼りにしていた仲間たちは多い。
だが、時の流れと共に、彼らとの関わりも水の様に流れて行ってしまった。店の看板さえ、掛け変わってしまって――――。
変わらないのはただ、この店の中の喧騒だけだ。そしてそれを、いつも自分は見守り、そして実力行使で守ってきた。
(昔を思い出す、か――――そいつは頼もしい昔話だ……)
夢の世界から現実へと帰ってきたアーディンだが、その頭の中は、まだ過去をさまよっていた。どうやら、寝起きの不安定な頭は、思っていたよりも切り替え切れていなかったらしい――――。
「――――アーディン、荷物の運び込み終わったぞ。これから、見回りに行ってくる……」
「あぁ、それが済んだら、控室のシャワーでも浴びて帰っていい。すまんな、ラギデュース」
――――まだ前のオーナーの元、店の名前も『八福尽星』だった頃、アーディンはさほど今と変わらない生活をしていた。
違う事と言えば、今よりも店の客層がガラの悪いものだった事、そして――――周りにいる、仲間たちの顔ぶれだ。
赤くツンツンした短髪に、くたびれたコートを着込んだ青年を見送りながら、アーディンはなおもカウンターに陣取っていた。
店内を一望できるこの場所は、いわば特等席なのだ。そしてその隣に座るのは、いつも――――特別な意味を持つ人間たちだった。
「旦那、いるかしら?」
≪お久しぶりっす、アーディンさん!≫
「ん……おぉ、確かに久しぶりだ。レイド、ジェム……今日はどうした、魔玉の持ち込みか?」
店内、そして周辺の界隈で、既に恐怖と共に名の知れた存在となっていたアーディンの隣に、遠慮なく腰を下ろす女がいた。
赤のジャケットをしゃんと着こなした、青い長髪が印象的な高校生程度の少女、そしてその連れている、青い炎で覆われた、デフォルメされた頭蓋骨の様な使い魔。
主に手製のマジック
アイテムを換金に訪れるお得意様、レイドとジェムだ。酒場には似つかわしくない姿だが、その所作は颯爽としていて大人びている。思ったほどには浮いていなかった。
「えぇ、『火炎玉』が5つ、『暴風玉』と『突風玉』が3つ、あと、上手い事に『電撃玉』が1つだけ作れたの。どう、買いだと思うけど?」
「なるほどな……いいだろう。65,000出そう。いつも助かっているぞ……」
取り出された、ビー玉の様な色とりどりの球体を受け取って、アーディンはレイドに金を差し出す。こうしたやり取りは、既に何度も成されているのだろう。実にスムーズなものだった。
本題はあっけなく終わり、そこからは軽い雑談が始まる。気心の知れた者同士だが、その関係性は親子の様なものだった。
「――――こうやって稼げているのだから、もう身売りなどしていないのだろう?」
「流石にね……あたしだって、やりたくてやってる訳じゃないもの。でも、あの糞兄貴との決着をつけるまでは……軽々に、家に帰る訳にもいかないし」
≪俺としては、やめて欲しいんっすけどね……んな事より、リイロさんに、ちゃんと会ってやって欲しいんっすよ……≫
「大事な存在だからこそ……か。全く、難儀なものだな、お前たち兄妹は……」
いつの間にかワインを口に含みながら、レイドは遠い目をしてアーディンと語らう。未成年飲酒だが、こういう店では別に珍しくもない事だった。
深い事情にまで立ち入るつもりはなかったのだが――――大きな資産家の家に生まれながらに、数奇な運命を辿る事になったレイドに、アーディンも思うところがったのだろう。
――――その後、さらに数奇な運命が待っているとは、流石に誰も思っていなかったのだが――――。
「――――あら、あの子……可愛いじゃない。知ってる子?」
「ん? ……いや、初めて見る顔だな。…………まさかレイド」
「ジェム……あんたは今日は適当に時間潰してなさい。言っとくけど、勝手に顔を出したら、エルボーじゃすまないわよ……?」
≪ま、またっすか姉貴……はぁ、程ほどにしてくださいよ、全く……≫
どうやら、カウンターにいる1人の少女を目にとめたらしく、レイドの表情が変わる。
――――ガラの悪い服と赤い短髪、そして派手な化粧と服飾。一目でわかる不良少女だ。何かあったのか、悲しげな表情でビールを傾け、慣れない調子で飲んでいる。
得てして、そうした振る舞いやこの場所は、逃げ込むための場所として機能するものなのだが――――レイドはどうやら、悪い病気を発症したらしい。
テーブルを立つと、つかつかとその少女の元へと歩み寄っていった。睨みあげられる視線を、そよ風の様に受け流して。
「――――そんな下手な飲み方してないで、ちょっとあたしに付き合いなさい。なんか今日は、誰かと一緒に居たい気分なの」
「あぁ? 失せろ……オレは今気が立ってるんだ、余計な真似をすると――――ッ!」
ジョッキを手放し、少女はまっすぐにパンチを放つ。顔面を狙ったそれは、中々に打ち込み慣れた鋭い打撃で。
しかし――――レイドはそれを、右手で逸らし、左手で抑え込む。そしてぐっと顔を近づけると――――少女の唇に、無理やりに自分の唇を重ねた。
「んぅッ――――!?」
完全に虚を突かれ、驚愕に目を見開く少女。咄嗟に身を退こうとするその所作を、頭の後ろに回した右手で制して、レイドは緩やかに、ゆっくりと深いキスへと持ち込んでいく。
10秒ほどの静止の後、2人の少女の唇は離れた。はぁっ――――と、満足げなため息が、レイドの口から漏れ出る。
「な、ぁ……ぁ……!?」
「っふふ……案外、悪いものでもないでしょ? さぁ、そんな下手な突っ張り方してないで……来てよ。なんだかあたし、今日はたまんないの……!」
ショックのあまり――――なのだろう。完全に目を白黒させている少女に、レイドは勝気な微笑みを浮かべ、我を見失っている少女の身体を引き寄せた。
そうして、いつの間にか保持していた2枚の会計伝票を手に、出口へと歩いていく。その騒動に気づけた客は、ごくわずかだった。
「――――アレさえなければ、な……」
≪俺がもっとしっかりしてれば……姉貴、歪みすぎっすよ……あぁ、何やってるんっすかね俺……≫
「……あまり、一時的な温もりに身を任せるのは、良い事じゃないんだが――――はぁ、後であの少女に、フォローを入れておかなければならんか……?」
――――本当ならば、店内の客を巻き込んだ、用心棒として咎めなければならない
出来事なのだが、アーディンは呆れた様子でそれを見送っていた。
レイドもまさか、あの後でさらに拒絶されるなら、無理強いもしないだろう。それは分かっているからこそ、わざと放任したのだが。
それでも、その出来事そのものには呆気に取らざるを得ない――――置いて行かれた使い魔もろとも、2人でため息をつくしかなかった。
「――――なんだあいつ? 俺の『性愛滅却薬』、無理やり口にねじ込んでやれば良かったか?」
「ぁ……ぅあぁ、お前か、イマミレイ……いや、それは大事なものなんだろう? 無駄遣いをするものじゃないさ……」
――――いつの間にか、アーディンのそばで表情をいら立たせている、次の来客の姿があった
黒の質素なドレスの下に、わざとズボンを履くという、珍妙な格好をした、腰まで届く長い銀髪が印象的な、レイドよりはやや小柄な少女。
彼女も、アーディンの得意先の1人――――特別な、裏の客である。
「まぁ良いさ。確かにこれは、ルティンの奴の為に用意した訳で……ほれ旦那。『赤』と『青』、4本ずつ持ってきたぜ? 値段は1本で10,000だ!」
「……相変わらずだな。まぁ良いだろう。物の確かさは折り紙付きだ。さて……少し仕舞ってくる。待っていてくれ……」
どこから取り出したのか、イマミレイは赤い液体と青い液体で満たされた丸底フラスコを、ゴロゴロと取り出してアーディンに押し付けるように渡す。
苦笑しせりのアーディンは、それを店の奥へとしまい込み、代金の封筒を差し出した。
「で、お前……元の身体に戻るアテはついたのか? ……いつまでも、女の身体では居たくないんだろう?」
「あぁ……さっぱりだぜ。なんだかなぁ……嫌なんだ、自分が自分じゃないみたいで……まぁ、そういう危ない事をやらかしたのは、俺の方なんだけどよ……」
やはり、品の受け渡しの後の、軽い雑談――――だが、イマミレイとのそれは、また違った特別な意味のあるものだった。
やや小柄で、銀の長髪の映える、愛くるしい見かけの少女だが――――実は、魔術の失敗で肉体が変容してしまった『少年』であり、つまりは『男』なのである。
ただでさえ、そんな歪な肉体でいる事は、ストレスのたまる事で。その『事情』を知ったうえで、心許せる会話ができるアーディンは、貴重な話し相手だったのである。
「ってか――――さっきのあの女なんだよ。女なのに、明らかに女に手を出そうとしてたじゃねぇか……!」
「相変わらずだな……そういうのは、やはり嫌いかお前は……まぁ、分からんでもないが」
「ったく、愛だの恋だの反吐が出るってんだ! 所詮性欲と虚栄心と自己保存欲求を、都合よく言い換えただけの話だろうが!
……女の身体でいるせいで、同じ男にスケベ心丸出しの調子で声をかけられる、俺の身にもなってくれよ旦那……!」
「いや、俺は御免だがな……だが、そんなにも『愛』は信じられんか……?」
「あぁ嫌だね。聞きたくもない。そんなもののせいで、母さんは振り回されて死んじまったんだ。おまけに女は女で、つまらねぇ物差しで男の品評会…………世界中にぶちまけてやりたいよ、俺の『性愛滅却薬』……!」
流石に彼女は酒は嗜まない。だがその代わりというべき勢いで、苛立ちは言葉となって次々とアーディンへとぶつけられる。
人の精神から熱愛を奪い去る自作の魔法薬を、苛立たし気にチャポチャポと鳴らしていた。アーディンのそばは、そうした不満を口にできる数少ない機会だったのだ。
「……まぁお前に、人の愛というのも悪いものじゃないっていうのは、野暮というものか……だが、あまり人をとやかく言うものじゃないぞ……」
「……あぁ、それくらいの分別は俺にもあるよ。でも、あまり黙ってるのも癪で――――」
「愛というのは、2人の間で『育まれる』ものだ……そこはもう、外野がとやかく言うもんじゃないぞ。もしも過ちなら、自分たちから離れていくだろう……それがこじれた時、初めてお前は口を出してやればいい
お前の役目というのは、そういうものなんじゃないのか? ……そういうのが、お前の母さんに一番必要なものだったんじゃないのか?」
「あ、あぁ……すまねぇ旦那。なんか……そうだな、言う通りだと思うよ。当人たちが好き合ってるなら、別に言う事じゃないんだよな……」
イマミレイの激昂に、アーディンは静かに諫めの言葉を口にする。これもいつもの事だった。父親に裏切られたイマミレイにとっては、アーディンは正に父親代わりだったのだろう。
そこのところを承知の上で、アーディンは言葉を選びながら、イマミレイにじっくりと説いて聞かせる。愛の形に眉を顰めるなら、それこそあってはならない愛のみを批判すればよいのだと。
愛がすべての元凶などと、そんな極論はさすがに認める訳にもいかなかった。だが、イマミレイは人生経験故の答えである以上、容易にそれを翻せない。
――――そこをやんわりと説くのが、大人の役目だと、そうアーディンは心得ていた。
「……まぁ、今度ルティンも連れて少し飲みに来い。その時は、俺からも少しサービスしてやるとな……」
「あ、あぁ……そうだな。あいつ、寂しいんだよやっぱり……誰か、友達でもいれば少しは変わるんだろうな……」
「お前は友達じゃないのか……?」
「いや、そうなんだけども……俺じゃ、あいつを埋めてやる事はできねぇ……誰か、良い人がいれば良いんだけどな……って、それが恋人ってか?」
ハタと気づいて苦笑いするイマミレイを、アーディンは肩をすくめて見送っていた。
「――――旦那、レイドを、レイドを助けてくれ!」
「っ、お前……アストラか、レイドの言っていた兄の……!」
「あぁそうだ。俺たちゃ狙われてるんだ、父親から……そして妹のクローンから!」
「……話は大体、お前の使い魔から聞いている。とにかく、レイドを奥の控えのベッドに……!」
"すまない、恩に着る、アーディンさん……!"
――――完全な『裏』の出来事では、流石に酒場を巻き込む訳にもいかない。時折あるそうした事態では、もはや日常とはかけ離れたところに営みは置かれていた。
その日、裏口から飛び込んできたのは、レイドと敵対していた兄の、アストラ――――短く刈り上げた髪に、左目の周りの古い火傷の跡が目立つ、不吉な気配を湛えた男だった。
その男が――――レイドを背負って踏み込んでくる。背中のレイドはぐったりとしており、おろおろとジェムが漂っていた。
「レイド……大丈夫か?」
「うぅ、旦那……助け、ないと……昴を、助けないと……っ」
「胸をレーザーで打ち抜かれたのだろう、まずは体を休めるんだ!」
≪姉貴……そうっすよ。その傷、治らなきゃ……姉貴は戦えないんっす! 身を守ることだって!≫
レイドの顔は青白く、ぐったりとしていた。一応の手当てはされているようだったが、発汗がひどく、呼吸が浅い。
ともあれ、控室に用意していた仮眠スペースに、レイドを横たえさせるアーディン一行。非常事態である以上、まずはこうするしかなかった。
「……ようやく『卵』を破壊する当てが出来たというのに、父親の手勢から狙われるとは……不運だったな、お前たち……」
「ったくだ……やっと、やっと俺たちゃ、リイロの事で……また、兄妹に戻れたってのによぉ……父上は、なんでこんな真似を……リイロの、クローン兵士なんて……!」
"……我々は、あまりに身内で争い過ぎたのかもしれない……全ては、遅きに失してしまった。当主も、リイロも……みんなだ、我が主よ……"
――――後に、カノッサ機関と組んで、一時世間を騒がせた『暴蜂』の萌芽だった。その最初の矛先となったのは、あろう事か、実の子供たちであるレイドたち。
アストラの袖から顔を覗かせる、蛇の姿をした使い魔、ダハルの言葉は、彼らの家庭が修復不可能な罅に覆われてしまった事を、これ以上なく示していた。
絶望的な状況の中、彼らは間一髪のところでアーディンの元を頼り、そして落ち延びてきたのだ。
「しかし……流石にそんな軍勢相手となると、いつまでも匿ってばかりもいられないぞ……。流石に、俺の手にも余る事だ」
「わ……分かってるわ、旦那……いよいよと、なったら、Justiceを、頼る、つもり……」
「けど、それでJusticeに迷惑かけたら、とんでもねぇ事になっちまうからよ……悪いが、これでしばらく……」
「……まぁ、事情が事情だから金の多寡は、多少目を瞑ってやるが……アテは、用意しておけよ。これは明確な、組織の守りが必要だ……」
アストラの差し出してきた金一封を、重々しく受け取るアーディン。そこに込められた意味は重い。命の懸かっている金なのだ。
身の回りの世話と、徹底した秘匿。そして――――ささやかな反抗。渡された金には、そうした思いが込められている。そうアーディンは解釈していた。
「しかし……分からんものだな」
"……?"
「華麗なる一族、というのは少し大げさかもしれないが、お前たち……
水の国でも有数の、力を持った家の一員だというのに……
お前たちの間で確執があったのは、まぁ俺だって聞いている……だが、その党首がこんな真似をするとは……」
「……父上の、上に立つ人間としての気構えなんだってよ……俺たちゃ、目に余る存在なんだと……」
"家に、そして一族を中心とした共同体に、損害を与えるようなものは、例え実の子供であろうと、許さないそうだ……あの人らしい……"
「……だが、それで自分の子供をクローン兵器に使う様な真似をするのは……ハッキリというと、許せんな。その男……父である資格がない。そして父でありながら父である資格がないというのは――――人間の資格がないという事だ……!」
レイドを通じて彼らを見てきたからこそ、アーディンは今の事態が我慢ならなかった。はした金ではないが、決して十分でもない金で、動く事に決めたのは――――怒りが、あったからだ。
部屋に彼らを残すと、アーディンはすぐさま通信端末を取り出す――――。
「――――あぁ探偵、俺だ……少し、厄介な事を調べてもらいたいんだ。あぁそうだ、イマミレイの件とは別にだ……!」
「……『八福尽星』を手放す? 何故だ、マスター……」
左目に包帯を厳重に巻き付けた面容で、アーディンは店のマスターと面談していた。
額に皺の寄った、つるりと禿げ上がった頭に口ひげ、そして全てを見抜くと言わんばかりの、眼窩の深く鋭い目――――痩せた壮年の男は、閉店後で人気のないカウンターで、アーディンと相対する。
「いや、なに……深い意味はない。ただわしもそろそろ、ゆっくりしようと思っただけなのさ……」
「……枯れるには、まだ早いと思うのだが。この店は、どうなるのだ?」
「心配はいらんさ……若いが腕が立ち、意欲もある、そんな女がこの店の地所と権利を欲しいと言ってきてな……
お前さんたちの事も、みんなまとめて引き受けてくれるそうだ。看板は掛け変わり、少しばかり空気も変わるだろうが……特に変わりはせんよ」
「そうか……決めたのだな、マスター」
――――この店には、色々な事があった。粗忽な荒くれ者の乗り込みなど、何度も経験した事だし、時には機関の議員が――――2度も襲撃を掛けてきたりした。
そのたびに、アーディンは負傷し、そして店を守り――――そしてこの店は、また人々に酒と、つかの間の休息を提供する。時に密やかな取引を内包して。
その移ろいの中で、恐らくマスターは、疲れてしまったのだろう。考えてみれば、このバーテンダーを務めるマスターも、良い年なのだ。
「……アーディン、わしが言うのは僭越かもしれんが。お前さんも、そろそろ自分の人生を見直してみても良いんじゃあないか?」
「ッ……随分と唐突だな。どういう事か?」
「その左目を失って、何を言っているか……お前さんも、随分と疲れてしまっている。責任を感じておるんだろう、あの子たちの力になり切れなかった事……」
「……」
勿論――――アーディンの活動を、一番そばで見守り続けてきたのは、雇い主でもあるこの男なのだ。
彼は知っていた。レイドが人としての両腕を失い、アストラが両足を失って心砕けて廃人と化し、イマミレイは『卵』を喰らって行方不明。そして最後に残ったリイロを守るためにと、その左目を失ったことを。
更に、一時期縁のあったラギデュースの拾い子であるラベンダァイスは、傷心のまま姿を消してしまった。果たせなかった仕事は、そのまま後悔となっていたのだ。
「所詮人間なんて、みんな同じだ。だからそんな人生から、一時的にでも目を逸らすために、こうした場所に酒を求めてやってくる……
だが、お前さんのそれはもう、たかが酒の力でどうこうできる程度の後悔じゃない……そのまま、『仕置きの猫又』を続けていたら、お前さん、潰れるぞ?」
「……今更別の生き方など」
「そう言い続けて、嫁さんの死に目にも会えず、娘さんには逃げられてしまったんじゃないか……逃げたところで、後悔はついて回る
だが、逃げずに向き合ったって、もう無駄だ。それは清算などできはしない。そして――――それは膨らみ、お前さんを引きずり回す事になる……」
「……それでもだ。俺は所詮死ぬまで『仕置きの猫又』だ。下積み時代に面白半分で裂かれたこの尾は、もはや俺の誇りなんだ……
……マスター。俺は死ぬよ。この名前を背負ったまま、どこかで誰かの手に掛かって……そうして、死んでいくよ」
「……それも、お前さんらしいのかもしれんな」
何か、滑らかなため息が2人の口から漏れた様な気がした。そのままマスターは、黙ってギムレットを用意し、アーディンに差し出す。
軽い渋みの利いた、酸味と辛みの碧いカクテル。かつては海の男たちの、そして今は、陰を背負った男たちの象徴となったカクテル。
誰もいない店の、ただ1人の客として、アーディンはそれを口に運んだ。
(――――すまなかった、レイド、アストラ、イマミレイ、ラベンダァイス、フィリン……ラギデュース、銀鶏。俺はどうやら、思っていたよりもずっと、弱い男だったようだ……)
自分を頼ってきた面々は、今は自分を頼りないと思っているだろうか?
中には、命まで落としてしまった奴までいるのだ。所詮自分にできる事は、この店を――――これを機に看板の掛け変わるこの店を、ただ守り続ける事だけなのかもしれない。
別れの盃は静かに、喉を流れ落ちていった――――。
「――――そうやって、あなたからゆっくりと話を聞くのも、思えば初めてね、アーディン」
「…………」
気が付けば、その追憶はついつい口に出てきたようだ。マスターは――――今のマスターは、どこか遠い目をした笑顔で、それに聞き入っていた。
今日も今日とて『Crystal Labyrinth』は繁盛している。『八福尽星』だった頃より、少しだけ明るくなった雰囲気、あからさまに未成年と思しき客層の減った顔ぶれ。だが――――その光景は、あの頃とほとんど変わらない。
「……でも、どうやらあなたは変わっていないようね。今だって、あんな子たちに慕われてるんだもの」
かるく顎でテーブルを示すマスター。微笑ましく見守るその視線の先には――――時にアーディンの隣に腰を下ろす事になる、特別な顔ぶれがあった
「……すみません、ピンク・ジンを一つ」
「またきついの飲むんだー……あたしはミード、無ければカルーアミルクね!」
「……ローストの焼き串……そうだな、4人前貰おう。それくらいじゃなきゃ腹は満ちない……」
「おぅ、俺はスタウト1パイント!」
「……手前はフレッシュサンドイッチを頂くよ。酒は……今日は結構」
あの時の様な、切実な事情を抱えたわけではないが、逆に言うならば……まだ気軽に顔を出していた頃の、レイドやイマミレイの様な、そんな付き合いになっている面々たち。
何やら意気投合したようで、同じテーブルでワイワイと盛り上がっている。その異様な風体を周囲から奇異の目で見られていることなど、お構いなしといった様子だ。
「……アーディン。今日は裏取引の類は、何もなかったみたいだよ……ただ、どうやら殴り込みをかけてくるらしい集団がいたねぇ……」
「そうか……すまんなシャッテン。なら後は、俺に任せろ……」
そして、足元の影からゆっくりと這い出して来る、水色の髪の青年、シャッテンの報告を受けて――――アーディンの表情が切り替わる。
「――――皆さん、聞いてくれ! どうやら厄介事がこの店に向かってきているようだ。悪いがしばらくの間、このホールから離れないようにお願いしたい!」
「なんだなんだ、また親分さんに殴り込み掛けようって無茶な奴が出たのか?」
「マスター、そういう訳だ。悪いんだが、俺のポケットマネーから、客たちに何か振舞ってやってくれ……!」
「しょうがないわね……あまり店を傷つけさせないでよ。――――皆さん、聞いた通りです! ここはこの店の用心棒が引き受けますので、店のおごりで少し、時間を下さいな……!」
表情を切り替え、手の甲から爪を剥き出し、アーディンは店の正面入り口前へと向かう。不可侵領域と化したこの周辺の利権を食い荒らそうという、浅はかな連中は時折現れるのだ。
そして、そうした連中の為に、店は安価な酒を提供できなくなり、客は安心して飲む事が出来なくなる――――それを防ぐのが、アーディンの役目だ。
「――――アーディンさん、手を貸すよ」
「あたしら、いっつもご馳走になってるんだからね。こんな時ぐらい、少し還元させてよ!」
「あまり大っぴらに力を振り回す気はないが、脅かすぐらいならいいだろう……」
「……仕事だからね。請け負ったのなら、最後までやるよ……」
「おぅオヤジ、少しばかり軽い運動と行くか!」
「……邪魔されるのは、鼻持ちならないんだ。わがままだけど、少し噛ませてほしい……」
店の入り口で仁王立ちして待ち構えるアーディンの背後から、先の『目立つ客』たちが助力を申し出る。遠目に、荒々しく走る車のエンジン音が、5台ほど近寄ってきている中の事だ。
「お前たち……――――怪我しても知らんぞ……!」
数を頼みに攻めてくる相手に、少々難儀するかもしれないと、立ち回りを考えていたアーディンは、呆れたように苦笑しながらも、小さく頷いてみせた。
(やるぞ、カエデ!)(うん、お父さん!!)
「……ッ」
(旦那、悪いけど黙って見ているつもりはないわよ……!)(当たり前っすよね、姉貴!)
「……!?」
(丁度良いじゃねぇか、また誰かの骨を折って、血を浴びてみたいって思ってたところなんだよ……!)(程ほどにな、我が主よ……)
「……」
(この世界一の血筋の戦い、よぉっく見ておけよ!)(マジニックの試作型の調子を確かめるに、丁度良いんじゃないかしら?)
「……お前たち」
(俺の商売邪魔すんなら、容赦はしねぇってんだよ!)(ヒーローは休息中だ……生身で割り込むけど、頼んだぜ旦那?)
ふと、そんな声が聞こえてきた気がする。アーディンは思わず中空を凝視する。
――――見えた気がした。ラベンダー色の髪の少女を伴った、赤い短髪の男を。青い炎を纏った骸骨を伴った、赤いジャケットの少女を。
袖口から蛇を覗かせる、血まみれのハンマーを手にした男を。『東』とでかでかと背に書かれた、白いコートを着込んだ青年を。
白衣に丸眼鏡で、いつもごつい機械の手甲をはめていた女を。銀髪に、金の悪魔の冠と赤と青のリバーシブルマントを着用した少女を。そしてサングラスの金髪男を。
――――時は移ろい、人は変わった。だがこの店と、そこに染みついた時間は――――変わらないのだ。
変わらないのは、この店の中の喧騒だけだけではない。そしてそれを、いつも自分は見守り、そして実力行使でこれからも守っていく。
荒事の前だというのに、この時のアーディンはなぜか、懐かしい感慨で胸が暖かくなっていた。
「――――おらぁ、一気にぶち殺せぇ! ――――な、ッ……!?」
「出来るなら……やってみるがいい。今日は珍しく、ほぼフルメンバーの状態にあった……歓迎してやるぞ、盛大にな――――ッ!!」
乗り込んできた黒塗りの車から、わらわらとギャングの類が下りてくる。だが、すぐにその表情は凍り付くことになる。
爪が閃き、牙が剥かれる――――今日こそ、『仕置きの猫又』の、最大の力が発揮される日だったのだろう。彼らの運命は、この瞬間、既に決まっていた――――。
「……そういやお前、見なかったか?」
「何を?」
店の中、かすかな緊張感を保ちながらも、客たちはとりあえずパニックを起こす事もなく、酒を楽しんでいた。
本来なら、そういううわさ話に耳をそば立てるのも、アーディンの大事な仕事なのだが、今はより大事な仕事の真っ最中で、それどころではなかった。
「いや、最近なんか水の国で、金色の蜂のバッジをした連中が時々いるそうなんだけどよ……俺も見たんだよ、この前」
「なんだそりゃ。その蜂のバッジがなんだって?」
「分からねぇけど……いるんだよ。そんな連中が」
「――――それよか、あの銀色の髪の怪物の方はどうなんだ? あっちの方がずっと不気味でよ……」
「お前っ、それこそ与太話じゃねぇか。あまり笑わせるなよ!」
「良いじゃねぇかよ、こんな世の中――――そうやって、馬鹿やって笑ってられるのって……ここぐらいしかないだろ?」
――――人は移ろい、時は流れる。だが、そこで行われる営みは、どれだけ周りが変わろうとも、大して変化する事はない。
――――どれだけ人が移ろおうとも、その行いは、繰り返されるのだ――――飽きる事無く。
最終更新:2018年06月07日 20:03