「嘘……もうこんな時間になってる……?」
なにげなく視線を落とした手首の上で。
腕時計の針が指し示す時刻を、何の気なしに確認したミナリは、思わず呆然と呟いていた。
紫帆たちが魔王の月匣から解放された後のこと。
門限はとうに過ぎ、当たり前のようにしっかりと鉄柵の閉められた学生寮の門前へ、ようやく帰り着いたのが、たったいまである。
時刻はすでに深夜零時を回り、部屋の灯が漏れている寮の窓は、ひとつもない。
「あれ、いつの間にカレンダー変わっちゃったの?」
ミナリにつられて携帯電話のディスプレイを見た紫帆も、同様に目を見張っていた。
それは、普段の彼女たちにしてみれば、あまりにも遅い帰宅時間である。
ショッピングモールから寮のある住宅街まではそう離れてはいないというのに、どうしてこんなに時間がかかってしまったのかと、二人はしきりに首を捻っていた。
腕時計の針が指し示す時刻を、何の気なしに確認したミナリは、思わず呆然と呟いていた。
紫帆たちが魔王の月匣から解放された後のこと。
門限はとうに過ぎ、当たり前のようにしっかりと鉄柵の閉められた学生寮の門前へ、ようやく帰り着いたのが、たったいまである。
時刻はすでに深夜零時を回り、部屋の灯が漏れている寮の窓は、ひとつもない。
「あれ、いつの間にカレンダー変わっちゃったの?」
ミナリにつられて携帯電話のディスプレイを見た紫帆も、同様に目を見張っていた。
それは、普段の彼女たちにしてみれば、あまりにも遅い帰宅時間である。
ショッピングモールから寮のある住宅街まではそう離れてはいないというのに、どうしてこんなに時間がかかってしまったのかと、二人はしきりに首を捻っていた。
しかし、考えてみれば無理もない話であろう。
今夜はとにかく、いろいろなことが一度に起こりすぎた。
魔王との邂逅。
次第に明かされていく敵たちの正体、そして目論見。
UGNにしてみれば宿敵とも言える、大物の中の大物、“プランナー”の事件への介在。
外面は強気に、または陽気に、もしくは平然と振舞ってはいても、紫帆たちの心に垂れ込めた不安という名の暗雲は重く、また果てしなく暗い。
晴れない気持ちは当然、その歩みをも鈍らせる。
その鈍重な足取りが、紫帆たちの普段の帰路をより遠く、より長いものにしていたのであろう。
そしてそのことは、逆説的に言うならば、彼女たちの受けた精神的な打撃の大きさをも表しているわけである。
しかし、いまの紫帆たちが直面し、解決しなければならない当面の問題は、魔王でもプランナーでも、ましてや紫帆の持つ賢者の石を巡る陰謀でもない、ごくごく小さなものであった。
「……委員長、ごめん。メール、打っておくの忘れてた……」
灯りのまったく点いていない寮の窓を見上げ、紫帆が呟く。
「……見れば分かるわ。本当ならどこかの窓から、縄梯子が垂れ下がっていたんでしょう……?」
こめかみを親指と人差し指で押さえながら、ミナリが深く溜息をついた。紫帆が携帯を取り出しながら、
「こんな時間にメールとか、電話かけたらやっぱり迷惑だよねえ……」
しょんぼりとした顔をしてそう言った。
肩を落とす紫帆の横顔を、しばし見つめていたミナリは、
「そんな顔しないの。つまらないことでくよくよするのは、いまからしばらくの間禁止するわ」
そう言って、不意に淡い笑顔を浮かべた。
紫帆が弾かれたように顔を上げ、ぽかんと口を開ける。
てっきりミナリに叱られると思っていたのだろう。
「もう。なんて顔してるの?」
呆れ顔で言いながらも、まあ、普段が普段だからこの反応も仕方がないか、とミナリは思う。
彼女だって、たとえ口にはしなくても、心のどこかでこれから自分たちが直面する事態の困難さを察してはいるのだ。
特に、事件の渦中に巻き込まれている紫帆が、自分たち以上に心を強く持たなければならないのは必至である。だから、彼女が心煩わせるようなことは、少ないに越したことはない。
だから、あえてミナリは叱らない。
魔王との邂逅。
次第に明かされていく敵たちの正体、そして目論見。
UGNにしてみれば宿敵とも言える、大物の中の大物、“プランナー”の事件への介在。
外面は強気に、または陽気に、もしくは平然と振舞ってはいても、紫帆たちの心に垂れ込めた不安という名の暗雲は重く、また果てしなく暗い。
晴れない気持ちは当然、その歩みをも鈍らせる。
その鈍重な足取りが、紫帆たちの普段の帰路をより遠く、より長いものにしていたのであろう。
そしてそのことは、逆説的に言うならば、彼女たちの受けた精神的な打撃の大きさをも表しているわけである。
しかし、いまの紫帆たちが直面し、解決しなければならない当面の問題は、魔王でもプランナーでも、ましてや紫帆の持つ賢者の石を巡る陰謀でもない、ごくごく小さなものであった。
「……委員長、ごめん。メール、打っておくの忘れてた……」
灯りのまったく点いていない寮の窓を見上げ、紫帆が呟く。
「……見れば分かるわ。本当ならどこかの窓から、縄梯子が垂れ下がっていたんでしょう……?」
こめかみを親指と人差し指で押さえながら、ミナリが深く溜息をついた。紫帆が携帯を取り出しながら、
「こんな時間にメールとか、電話かけたらやっぱり迷惑だよねえ……」
しょんぼりとした顔をしてそう言った。
肩を落とす紫帆の横顔を、しばし見つめていたミナリは、
「そんな顔しないの。つまらないことでくよくよするのは、いまからしばらくの間禁止するわ」
そう言って、不意に淡い笑顔を浮かべた。
紫帆が弾かれたように顔を上げ、ぽかんと口を開ける。
てっきりミナリに叱られると思っていたのだろう。
「もう。なんて顔してるの?」
呆れ顔で言いながらも、まあ、普段が普段だからこの反応も仕方がないか、とミナリは思う。
彼女だって、たとえ口にはしなくても、心のどこかでこれから自分たちが直面する事態の困難さを察してはいるのだ。
特に、事件の渦中に巻き込まれている紫帆が、自分たち以上に心を強く持たなければならないのは必至である。だから、彼女が心煩わせるようなことは、少ないに越したことはない。
だから、あえてミナリは叱らない。
紫帆とも長い付き合いとなったいまだからこそ分かるのは ―――
彼女の長所であり、持ち前の強みは、なによりも“明るさ”と“想いの強さ”であるということだ。
その良いところを損ねたくはない。そういう気持ちがミナリにはある。
なにより怖いのが、今回の一件で紫帆の想いの強さが、逆のベクトルへと向けられてしまうことだった。
彼女の長所であり、持ち前の強みは、なによりも“明るさ”と“想いの強さ”であるということだ。
その良いところを損ねたくはない。そういう気持ちがミナリにはある。
なにより怖いのが、今回の一件で紫帆の想いの強さが、逆のベクトルへと向けられてしまうことだった。
長所とは、逆を返せばそれが十分短所ともなり得る。
もし紫帆に弱みがあるとするならば ――― 一度こうだと思い込むと、その想いの強さゆえに、ネガティヴな方向へも気持ちが突っ走ってしまいかねないことである。
単純といえば単純。
そんなところも持ち合わせている紫帆が、今回の一件で受けるストレスは決して小さくはないだろう。
だからこそ、
(ちょっと甘やかすことになってしまうかも……)
そう思わないでもないのだが、しばらくは紫帆にお小言を言うのも控えよう、とミナリはこっそり思っている。
自らの持つ賢者の石に絡んで、再び敵に狙われることになってということは、紫帆にとってはかなり精神的に堪えることであろうし、
(その上自分にガミガミ言われたら、紫帆もたまったものじゃないだろうし……)
一応は、「ガミガミ言っている」自覚のあるミナリなのである。
「い、委員長……怒らないの?」
「怒らないわよ、このくらいのことで。もともと門限は過ぎていたわけだし、途中で時間をロスしたのは魔王のせいだもの」
肩をすくめ、できるだけお気楽な口調でミナリは言う。
もしかしたら、こんな気遣いはひどくつまらないことかもしれないが、しかし、自分が紫帆を精神面で支え、助けて上げられるとしたら、きっとこういうことぐらいなのだろう。
こういう、なんでもないようなことでしか紫帆の助けになれないことが、少し歯痒い。
だけど多少なりとも紫帆の精神的ストレスが緩和されるのであれば、なにもしないよりはいくらかはましである。
しかし。
ミナリのこの考えは、ほんの少しだけ甘かった。
「………………」
紫帆は目を伏せ、視線を落とし、自分の靴の爪先をじっと見つめている。
ブレザーの袖を手のひらに包み込んで、ぎゅっと握り締めていた。
そのままの姿勢で固まったまま ――― 動こうとしない。
うなだれた顔を上げることができないようだった。
「紫帆?」
呼びかけて、その刹那「しまった」と思った。
もし紫帆に弱みがあるとするならば ――― 一度こうだと思い込むと、その想いの強さゆえに、ネガティヴな方向へも気持ちが突っ走ってしまいかねないことである。
単純といえば単純。
そんなところも持ち合わせている紫帆が、今回の一件で受けるストレスは決して小さくはないだろう。
だからこそ、
(ちょっと甘やかすことになってしまうかも……)
そう思わないでもないのだが、しばらくは紫帆にお小言を言うのも控えよう、とミナリはこっそり思っている。
自らの持つ賢者の石に絡んで、再び敵に狙われることになってということは、紫帆にとってはかなり精神的に堪えることであろうし、
(その上自分にガミガミ言われたら、紫帆もたまったものじゃないだろうし……)
一応は、「ガミガミ言っている」自覚のあるミナリなのである。
「い、委員長……怒らないの?」
「怒らないわよ、このくらいのことで。もともと門限は過ぎていたわけだし、途中で時間をロスしたのは魔王のせいだもの」
肩をすくめ、できるだけお気楽な口調でミナリは言う。
もしかしたら、こんな気遣いはひどくつまらないことかもしれないが、しかし、自分が紫帆を精神面で支え、助けて上げられるとしたら、きっとこういうことぐらいなのだろう。
こういう、なんでもないようなことでしか紫帆の助けになれないことが、少し歯痒い。
だけど多少なりとも紫帆の精神的ストレスが緩和されるのであれば、なにもしないよりはいくらかはましである。
しかし。
ミナリのこの考えは、ほんの少しだけ甘かった。
「………………」
紫帆は目を伏せ、視線を落とし、自分の靴の爪先をじっと見つめている。
ブレザーの袖を手のひらに包み込んで、ぎゅっと握り締めていた。
そのままの姿勢で固まったまま ――― 動こうとしない。
うなだれた顔を上げることができないようだった。
「紫帆?」
呼びかけて、その刹那「しまった」と思った。
紫帆は、確かに単純明快で朗らかな性格であるかもしれない。
学校の勉強はあまり得意ではないと言っていたし、ミナリの講義のように堅苦しい場が苦手だという一面からも、そのことは十分に窺える。
だけど、決してそれは、彼女の頭の回転が鈍いということを意味しない。
むしろ、銀目の鴉の事件の終盤においては、誰よりも機転の利くことを証明してみせたのもまた紫帆なのである。
学校の勉強はあまり得意ではないと言っていたし、ミナリの講義のように堅苦しい場が苦手だという一面からも、そのことは十分に窺える。
だけど、決してそれは、彼女の頭の回転が鈍いということを意味しない。
むしろ、銀目の鴉の事件の終盤においては、誰よりも機転の利くことを証明してみせたのもまた紫帆なのである。
そして、何でも屋なんてことを自ら進んで行う彼女は。
誰かの役に立つ、誰かのためになることが嬉しいのだ、という紫帆は。
他人を思いやることのできる少女でもある。
他人を思いやることができるということは、ひとの気持ちの機微には聡いということだ。
つまり紫帆は、ミナリが自分を叱らないことを、彼女が自分のことを気遣っているのだ、と敏感に察知したということになる。
そしてミナリも、紫帆の態度から、彼女がそれに気づいたことを知った。
だからこその「しまった」なのである。
誰かの役に立つ、誰かのためになることが嬉しいのだ、という紫帆は。
他人を思いやることのできる少女でもある。
他人を思いやることができるということは、ひとの気持ちの機微には聡いということだ。
つまり紫帆は、ミナリが自分を叱らないことを、彼女が自分のことを気遣っているのだ、と敏感に察知したということになる。
そしてミナリも、紫帆の態度から、彼女がそれに気づいたことを知った。
だからこその「しまった」なのである。
「えっと、そのー……」
自分の迂闊さに舌打ちしたくなる。なにか言わなければ、と思うのだが、それではどんな言葉をかけたらいいものか。
「ごめん」でもなく。「いまの忘れて」とも言えず。
かといって、いまさらいつものように紫帆を叱るのもおかしな話であろう。
自分の迂闊さに舌打ちしたくなる。なにか言わなければ、と思うのだが、それではどんな言葉をかけたらいいものか。
「ごめん」でもなく。「いまの忘れて」とも言えず。
かといって、いまさらいつものように紫帆を叱るのもおかしな話であろう。
向き合ったまま、それっきり言葉が出てこない二人。
どうしたらいいものか、とミナリが頭を悩ませていると、その悩んでいる頭に突然、鈍い痛みが降ってきた。
ごちん、と一発。堅いもので後頭部を軽く。しかし思わず、
「いたっ!」
と叫んでしまうほどには強い痛みであった。そして、ミナリが小さく叫ぶのと同時に、
「いたーっ……」
紫帆も情けない声を上げ、頭をさすっていた。
思わず弾かれたように顔を上げると、痛みの正体はすぐに知れた。
柊の、両拳を握りしめるポーズを見るまでもなく ――― 彼がミナリたちの頭に、軽くゲンコツをお見舞いしたのである。
「痛いじゃないですかっ」
「柊クン、ひどいよー」
自分を見上げ口々に文句を言う二人に、柊は悪びれもせず、
「あのな。お前ら、さっき言ったことといまやってること、全っ然違うじゃねーか」
呆れ顔でそう言った。
どうしたらいいものか、とミナリが頭を悩ませていると、その悩んでいる頭に突然、鈍い痛みが降ってきた。
ごちん、と一発。堅いもので後頭部を軽く。しかし思わず、
「いたっ!」
と叫んでしまうほどには強い痛みであった。そして、ミナリが小さく叫ぶのと同時に、
「いたーっ……」
紫帆も情けない声を上げ、頭をさすっていた。
思わず弾かれたように顔を上げると、痛みの正体はすぐに知れた。
柊の、両拳を握りしめるポーズを見るまでもなく ――― 彼がミナリたちの頭に、軽くゲンコツをお見舞いしたのである。
「痛いじゃないですかっ」
「柊クン、ひどいよー」
自分を見上げ口々に文句を言う二人に、柊は悪びれもせず、
「あのな。お前ら、さっき言ったことといまやってること、全っ然違うじゃねーか」
呆れ顔でそう言った。
持ちつ持たれつでいいじゃない、とミナリは紫帆を励まし。
それに対して、よろしくね、と紫帆も応えた。
いつも通りの仲間でいようと、そう再確認しあったのは、つい数時間前のことである。
「ミナリはミナリで変に気を回しすぎだ。紫帆は紫帆で、まんま普段の自分でいいんだ。会ったばかりの俺が知った風な口を利くのもなんだけど ――― 」
二人の少女の顔を見比べながら、柊は言う。
「間違ったって良いんだ。ミスったってかまわねえ。紫帆は、もっとマヌケでもいい」
「マヌケ!? ひ、ひどいよー!?」
「で! それを助けるのがミナリだろ? そのつど、お前は小姑みたいに紫帆を叱ってやりゃあいいんだよ」
「こ、小姑ですって!?」
暴言といえば暴言にすぎる柊の言葉に、それぞれが唖然としたリアクションを取る。
しかし紫帆とミナリは。
「……ぷっ」
互いの顔を一瞬見合わせると、吹き出した。
紫帆はミナリの憮然とした顔を見て。
ミナリは紫帆の、軽くショックを受けた顔を見て。
いつしか二人は、くすくすと笑い出していた。
二人とも柊の(ある意味失礼この上ない)言葉に、お互いがそれぞれ“普段の自分たち”らしい反応をしてみせたことが可笑しくて、笑い出していたのだ。
それに対して、よろしくね、と紫帆も応えた。
いつも通りの仲間でいようと、そう再確認しあったのは、つい数時間前のことである。
「ミナリはミナリで変に気を回しすぎだ。紫帆は紫帆で、まんま普段の自分でいいんだ。会ったばかりの俺が知った風な口を利くのもなんだけど ――― 」
二人の少女の顔を見比べながら、柊は言う。
「間違ったって良いんだ。ミスったってかまわねえ。紫帆は、もっとマヌケでもいい」
「マヌケ!? ひ、ひどいよー!?」
「で! それを助けるのがミナリだろ? そのつど、お前は小姑みたいに紫帆を叱ってやりゃあいいんだよ」
「こ、小姑ですって!?」
暴言といえば暴言にすぎる柊の言葉に、それぞれが唖然としたリアクションを取る。
しかし紫帆とミナリは。
「……ぷっ」
互いの顔を一瞬見合わせると、吹き出した。
紫帆はミナリの憮然とした顔を見て。
ミナリは紫帆の、軽くショックを受けた顔を見て。
いつしか二人は、くすくすと笑い出していた。
二人とも柊の(ある意味失礼この上ない)言葉に、お互いがそれぞれ“普段の自分たち”らしい反応をしてみせたことが可笑しくて、笑い出していたのだ。
なんだ。
こっちのほうが断然、私たちじゃない ――― と。
こっちのほうが断然、私たちじゃない ――― と。
同じようなことを言われて、同じものを見て笑い合った後は、なんだか重苦しいつかえが胸の中からストンと抜け落ちていた。
「なんだよ、俺、なんか面白いこと言ったか?」
紫帆たちに笑われて、柊が唇を尖らせた。
本気で、二人の忍び笑いの意味が分かっていないようである。
もっとも、なんの作為もなくああいうことを言えるからこそ、大げさに言えばその言葉が紫帆たちの救いになったのかもしれない。
「なんだよ、俺、なんか面白いこと言ったか?」
紫帆たちに笑われて、柊が唇を尖らせた。
本気で、二人の忍び笑いの意味が分かっていないようである。
もっとも、なんの作為もなくああいうことを言えるからこそ、大げさに言えばその言葉が紫帆たちの救いになったのかもしれない。
「あはは、なんでもない。でもアリガト、柊クン」
ぺしぺしと紫帆が柊の二の腕を叩く。
「もう、なんだか気が抜けちゃいました」
眼鏡を外して目尻を指先で拭いながら、ミナリが言った。
いまいち釈然としない顔つきで「なんなんだ、まったく」と口の中でぼやきつつ、それでも柊は二人から漂う気配が明るいものになったことに一応は納得したようである。
不意になにかを思い出したようにポケットをまさぐり、
「じゃあ、もうひとつの問題も片付けとかなきゃな」
と言うと、紫帆の手首を掴み、その手のひらの上にとある品物を握らせた。
小さくて冷たい、そして硬質の感触が紫帆に伝わる。
半ば強引に柊から手渡された品物は ――― ひとつの鍵であった。
プラスチックのプレートがキーホルダーで括り付けられ、そこには『大鳩荘・五号室』と書かれている。
「柊クン、これ……君の部屋の鍵じゃない?」
「荷解きがまだだから少し散らかってるけどな。ベッドはシングルだったから、窮屈かもしれねえけど、二人寝るぐらいはできると思うし、後はまあ好きに使ってくれ」
「ちょっと、柊さん!」
気色ばんでミナリが声を荒げる。柊の口振りはまるで、門限を過ぎて帰れなくなった二人に、自分の部屋を明け渡すと言っているようであったからだ。
「え、でもそれじゃ……」
「おっと、盗まれるようなものはねえけど、戸締りだけはしておいてくれよな」
「やっぱり! 私たちに戸締りさせるっていうことは、柊さんは部屋に帰らないつもりなんでしょう!?」
いくらなんでもそれはない。そこまでしてもらうわけにはいかないだろう。
一つ屋根の下で複数の男女が眠るという事態を回避するためとはいえ、柊を部屋から追い出すようなことができるわけがない。
そもそも、ぺリゴールでこの話題が出たときだって、同じ部屋に寝泊りすることには無頓着だったはずなのに ―――
「あっ! もしかして、初めからそのつもりだったんじゃないの、柊クン!?」
なにかに気づいたような驚きの声を上げて、紫帆が尋ねる。
「え? だから俺、紫帆に最初に訊いただろ? 二十四時間やってるようなファミレスとか、ネットカフェとかないか、って」
国道沿いか、駅のロータリーって言ってたっけな ――― 先刻の紫帆の情報をちゃっかり記憶している柊が、そんなことを呟いた。
あのときの質問はようするに、最悪の場合自分の寝泊りする場所を確保するための、柊の情報収集だった ――― のであろうか。
「だ、だめだめ、そんなのだめだよ!」
「そうですよ、それなら私たちがファミレスで ――― 」
言いつのる二人に、柊は早々と背中を向けていた。
「お前らが護衛対象で、護らなきゃならない相手ってわけじゃないからな、今回は。ベランダでテント張らなくても済む分、いくらかはマシだ」
かつて、任務でそのような経験をしたことでもあるのだろうか。少しげっそりとしたわびしい表情を浮かべながら、柊はそんなことを言った。
追いすがろうとする紫帆たちから早足で離れていくその背中は、彼女たちから鍵を返してもらうつもりはないという無言の意思を示している。
鍵を受け取ったままの姿勢で不自然に固まった紫帆も、ついには柊を引き止める言葉が上手く捜せずに、「あうあう」と口を開閉させたまま、彼を見送るしか術がなかった。
ぺしぺしと紫帆が柊の二の腕を叩く。
「もう、なんだか気が抜けちゃいました」
眼鏡を外して目尻を指先で拭いながら、ミナリが言った。
いまいち釈然としない顔つきで「なんなんだ、まったく」と口の中でぼやきつつ、それでも柊は二人から漂う気配が明るいものになったことに一応は納得したようである。
不意になにかを思い出したようにポケットをまさぐり、
「じゃあ、もうひとつの問題も片付けとかなきゃな」
と言うと、紫帆の手首を掴み、その手のひらの上にとある品物を握らせた。
小さくて冷たい、そして硬質の感触が紫帆に伝わる。
半ば強引に柊から手渡された品物は ――― ひとつの鍵であった。
プラスチックのプレートがキーホルダーで括り付けられ、そこには『大鳩荘・五号室』と書かれている。
「柊クン、これ……君の部屋の鍵じゃない?」
「荷解きがまだだから少し散らかってるけどな。ベッドはシングルだったから、窮屈かもしれねえけど、二人寝るぐらいはできると思うし、後はまあ好きに使ってくれ」
「ちょっと、柊さん!」
気色ばんでミナリが声を荒げる。柊の口振りはまるで、門限を過ぎて帰れなくなった二人に、自分の部屋を明け渡すと言っているようであったからだ。
「え、でもそれじゃ……」
「おっと、盗まれるようなものはねえけど、戸締りだけはしておいてくれよな」
「やっぱり! 私たちに戸締りさせるっていうことは、柊さんは部屋に帰らないつもりなんでしょう!?」
いくらなんでもそれはない。そこまでしてもらうわけにはいかないだろう。
一つ屋根の下で複数の男女が眠るという事態を回避するためとはいえ、柊を部屋から追い出すようなことができるわけがない。
そもそも、ぺリゴールでこの話題が出たときだって、同じ部屋に寝泊りすることには無頓着だったはずなのに ―――
「あっ! もしかして、初めからそのつもりだったんじゃないの、柊クン!?」
なにかに気づいたような驚きの声を上げて、紫帆が尋ねる。
「え? だから俺、紫帆に最初に訊いただろ? 二十四時間やってるようなファミレスとか、ネットカフェとかないか、って」
国道沿いか、駅のロータリーって言ってたっけな ――― 先刻の紫帆の情報をちゃっかり記憶している柊が、そんなことを呟いた。
あのときの質問はようするに、最悪の場合自分の寝泊りする場所を確保するための、柊の情報収集だった ――― のであろうか。
「だ、だめだめ、そんなのだめだよ!」
「そうですよ、それなら私たちがファミレスで ――― 」
言いつのる二人に、柊は早々と背中を向けていた。
「お前らが護衛対象で、護らなきゃならない相手ってわけじゃないからな、今回は。ベランダでテント張らなくても済む分、いくらかはマシだ」
かつて、任務でそのような経験をしたことでもあるのだろうか。少しげっそりとしたわびしい表情を浮かべながら、柊はそんなことを言った。
追いすがろうとする紫帆たちから早足で離れていくその背中は、彼女たちから鍵を返してもらうつもりはないという無言の意思を示している。
鍵を受け取ったままの姿勢で不自然に固まった紫帆も、ついには柊を引き止める言葉が上手く捜せずに、「あうあう」と口を開閉させたまま、彼を見送るしか術がなかった。
「あ、明日! ファミレスでもネットカフェでも構いませんが、め、明細書は取っておいて私に渡してくださいね! お金は ――― 」
「いいって、いいって、高校生! こちとら任務で学校通ってるだけで、本当はとっくに卒業してる歳なんだ。そのくらいでガタガタ言わねーよ」
生真面目なミナリの呼びかけに、もう遠くなった柊の声が小さく届く。しばらく歩いて思い出したように、
「教科書は勝手に持ってっていいからなー」
と、ミナリにだけ向けた台詞を最後に残して、柊の姿は完全に夜の闇へと溶けて見えなくなっていた。
「あーあ……行っちゃった……ねえ、委員長。柊クン、いい人だね」
「いい人、っていうより、人がいい、って言うのよあれは」
夜の向こう側へと消えていった柊を見送って紫帆が言うのに、ミナリはどこか憮然としてそれに応じた。なんとなく事の顛末に納得していない様子なのは、彼女の堅物な性格ゆえである。
それでも自分の言葉に不自然な棘があることに気がつくと、ミナリはどこか気まずそうにもじもじと身体を揺すり、
「で、でもせっかくだし、柊さんのご厚意に甘えましょうか……」
とってつけたようにそう言った。
笑って頷いた紫帆と連れ立ち、寮に隣接する大鳩荘の玄関をくぐる。郵便受けを確認すると、柊の部屋はどうやら二階のようであった。
『五号室・柊蓮司』と真新しいプレートのかかった扉は、二階中央。預かった鍵をドアの鍵穴に差し込みながら、紫帆がミナリを振り返る。
「明日、きちんとお礼言って鍵返さなきゃね」
「そうね。それよりも明日は門限、守るようにしなきゃ」
ひどく真面目な顔をして受け答えをするミナリ。
今夜はとにかく、早く寝よう。
さっさとお風呂を頂いて、早起きして、寮のみんなが登校する時間よりも早くここを出なければ。
下手に寮生たちと出くわしたら、弁解の仕様もない ――― 目下の心配事は、いつしかそんなことへとすり替わっていた。
ついつい、癖のように手首の時計に目を落とす。深夜零時十五分。
柊クンのお部屋結構広いねー、などと、変なところで歓声を上げている紫帆を溜息混じりに横目で見遣りながら、ミナリは携帯電話のアラームを普段よりも一時間早くセットし直した。
(明日、もう一度仕切り直しだわ)
事件のこと。魔王。プランナー。エミュレイターとジャームの共闘によりもたらされるもの。
敵の目的。志帆の持つ賢者の石にまつわる、新しい戦い。
そして、魔王リオン=グンタに預けられた、もうひとつの“賢者の石”。
「いいって、いいって、高校生! こちとら任務で学校通ってるだけで、本当はとっくに卒業してる歳なんだ。そのくらいでガタガタ言わねーよ」
生真面目なミナリの呼びかけに、もう遠くなった柊の声が小さく届く。しばらく歩いて思い出したように、
「教科書は勝手に持ってっていいからなー」
と、ミナリにだけ向けた台詞を最後に残して、柊の姿は完全に夜の闇へと溶けて見えなくなっていた。
「あーあ……行っちゃった……ねえ、委員長。柊クン、いい人だね」
「いい人、っていうより、人がいい、って言うのよあれは」
夜の向こう側へと消えていった柊を見送って紫帆が言うのに、ミナリはどこか憮然としてそれに応じた。なんとなく事の顛末に納得していない様子なのは、彼女の堅物な性格ゆえである。
それでも自分の言葉に不自然な棘があることに気がつくと、ミナリはどこか気まずそうにもじもじと身体を揺すり、
「で、でもせっかくだし、柊さんのご厚意に甘えましょうか……」
とってつけたようにそう言った。
笑って頷いた紫帆と連れ立ち、寮に隣接する大鳩荘の玄関をくぐる。郵便受けを確認すると、柊の部屋はどうやら二階のようであった。
『五号室・柊蓮司』と真新しいプレートのかかった扉は、二階中央。預かった鍵をドアの鍵穴に差し込みながら、紫帆がミナリを振り返る。
「明日、きちんとお礼言って鍵返さなきゃね」
「そうね。それよりも明日は門限、守るようにしなきゃ」
ひどく真面目な顔をして受け答えをするミナリ。
今夜はとにかく、早く寝よう。
さっさとお風呂を頂いて、早起きして、寮のみんなが登校する時間よりも早くここを出なければ。
下手に寮生たちと出くわしたら、弁解の仕様もない ――― 目下の心配事は、いつしかそんなことへとすり替わっていた。
ついつい、癖のように手首の時計に目を落とす。深夜零時十五分。
柊クンのお部屋結構広いねー、などと、変なところで歓声を上げている紫帆を溜息混じりに横目で見遣りながら、ミナリは携帯電話のアラームを普段よりも一時間早くセットし直した。
(明日、もう一度仕切り直しだわ)
事件のこと。魔王。プランナー。エミュレイターとジャームの共闘によりもたらされるもの。
敵の目的。志帆の持つ賢者の石にまつわる、新しい戦い。
そして、魔王リオン=グンタに預けられた、もうひとつの“賢者の石”。
『……賢者の石……いいえ、“銀なる石”は間違いなく、七村紫帆に大いなる力を与えるもの……』
『この先の戦いにおける切り札となりうることだけは保証しますよ ――― 』
『この先の戦いにおける切り札となりうることだけは保証しますよ ――― 』
魔王の囁きが脳裏にまざまざと甦る。
リオンがただ助力のために、賢者の石を紫帆に手渡したはずはない。紫帆に力を与えることで彼女たちに利することが、必ずやあるはずである。
しかし、いまの自分たちにはそれを推測するための材料が、ない。
内心舌打ちをして唇を噛み、思わず顔を上げたとき、紫帆と目が合った。
こちらを ――― 考え込む自分をじっと見つめている。
「大丈夫。大丈夫だよ、委員長。貰った賢者の石がなんのためのものでも、どんなものでもきっと私は大丈夫。流されないし、負けないよ」
リオンがただ助力のために、賢者の石を紫帆に手渡したはずはない。紫帆に力を与えることで彼女たちに利することが、必ずやあるはずである。
しかし、いまの自分たちにはそれを推測するための材料が、ない。
内心舌打ちをして唇を噛み、思わず顔を上げたとき、紫帆と目が合った。
こちらを ――― 考え込む自分をじっと見つめている。
「大丈夫。大丈夫だよ、委員長。貰った賢者の石がなんのためのものでも、どんなものでもきっと私は大丈夫。流されないし、負けないよ」
委員長も、柳也さんも、柊クンもいるしね ―――
そう言ってニッコリと笑う紫帆を、ミナリは眩しいものでも見るように、目を細めながら見つめていた。
※
こびりついた白い灰でくすみ、縁の部分があちこち凹んだアルミ製の灰皿に、十数本目の煙草の吸殻を押し付けながら、柳也はぼんやりと天井を見上げていた。
疲労したように目の周りが黒ずんで窪んでいるのは、生来の人相の悪さだけのせいではない。
世界の守護者とかいうご大層な肩書きの少女を連れて来店してきた、霧谷雄吾の言葉を幾度となく頭の中で反芻したゆえの、頭脳労働による疲弊のせいである。
自分たちとは別に、『エミュレイター』やら『魔王』などという外敵たちと、長きに渡り闘争を続けてきたウィザード。その戦いの歴史は、UGNなどとは比べ物にならないほどに長く、深い。
世界各地に伝わる伝説や伝承をそのままなぞらえたような、気も遠くなるような戦いの歴史。
紫帆やミナリたちに、アンゼロットと名乗った少女が語った御伽噺のような話が、どこまで真実味をもって伝わったのかは疑問だが、少なくとも柳也はこれを深刻な事態だと受け止めた。
物質や生命もつものが例外なく内包するプラーナを喰らうという化物。
中でも魔王級と呼ばれるほどに強力な固体は、決して誇張ではなく、この世界を滅亡の危機に陥れてきたという。
(そんな連中が、ジャームと共闘し ――― あまつさえファルスハーツなんかと手を組んだりしたらどうなる……?)
鳴島市周辺で観測された、ジャームとエミュレイターの同時発生現象の多発。
それが『ひとつの意志』の元に企てられた計画の一端であると、霧谷もアンゼロットも仄めかしていた。
しかも、それが紫帆の持つ賢者の石を狙って起こされた行動であるという予測を考慮にいれるとするならば。
プラーナを喰らうという本能で行動するエミュレイターと、さまざまな衝動に突き動かされて単調な破壊活動をするだけのジャームを相手にするだけ、というわけにはいかないはずだった。
必ず、背後で糸を引いている黒幕がいる。
邪悪な意志と、明確な悪意を持った黒幕が、必ず存在するに違いないのである。
少なくとも、日本支部長である霧谷が自ら腰を上げるほどの事件 ――― 考えたくもないことであったが、柳也は様々な事態を考慮に頭を悩まさざるを得ないのである。
外見はやる気がなさそうに見えるし、実際中身もやる気がないのだが、紫帆が事件の渦中にあるということで、柳也の内面にあるわずかな自発性が刺激されたのも確かだった。
紫帆が巻き込まれるとなれば、ミナリも黙ってはいないだろう。
あの少女たちを、柳也が思い描くような最悪の事態に放り出して看過できるほど、彼は冷たい人間ではなかった。
だからこそ、頼れるものはなんでも頼る。
使えるヤツは、それが親の仇(これは当然比喩ではあるが)でも使う。
わずかな逡巡の後の思い切りの良い決断で、“とある男”に協力を要請したのだが ―――
疲労したように目の周りが黒ずんで窪んでいるのは、生来の人相の悪さだけのせいではない。
世界の守護者とかいうご大層な肩書きの少女を連れて来店してきた、霧谷雄吾の言葉を幾度となく頭の中で反芻したゆえの、頭脳労働による疲弊のせいである。
自分たちとは別に、『エミュレイター』やら『魔王』などという外敵たちと、長きに渡り闘争を続けてきたウィザード。その戦いの歴史は、UGNなどとは比べ物にならないほどに長く、深い。
世界各地に伝わる伝説や伝承をそのままなぞらえたような、気も遠くなるような戦いの歴史。
紫帆やミナリたちに、アンゼロットと名乗った少女が語った御伽噺のような話が、どこまで真実味をもって伝わったのかは疑問だが、少なくとも柳也はこれを深刻な事態だと受け止めた。
物質や生命もつものが例外なく内包するプラーナを喰らうという化物。
中でも魔王級と呼ばれるほどに強力な固体は、決して誇張ではなく、この世界を滅亡の危機に陥れてきたという。
(そんな連中が、ジャームと共闘し ――― あまつさえファルスハーツなんかと手を組んだりしたらどうなる……?)
鳴島市周辺で観測された、ジャームとエミュレイターの同時発生現象の多発。
それが『ひとつの意志』の元に企てられた計画の一端であると、霧谷もアンゼロットも仄めかしていた。
しかも、それが紫帆の持つ賢者の石を狙って起こされた行動であるという予測を考慮にいれるとするならば。
プラーナを喰らうという本能で行動するエミュレイターと、さまざまな衝動に突き動かされて単調な破壊活動をするだけのジャームを相手にするだけ、というわけにはいかないはずだった。
必ず、背後で糸を引いている黒幕がいる。
邪悪な意志と、明確な悪意を持った黒幕が、必ず存在するに違いないのである。
少なくとも、日本支部長である霧谷が自ら腰を上げるほどの事件 ――― 考えたくもないことであったが、柳也は様々な事態を考慮に頭を悩まさざるを得ないのである。
外見はやる気がなさそうに見えるし、実際中身もやる気がないのだが、紫帆が事件の渦中にあるということで、柳也の内面にあるわずかな自発性が刺激されたのも確かだった。
紫帆が巻き込まれるとなれば、ミナリも黙ってはいないだろう。
あの少女たちを、柳也が思い描くような最悪の事態に放り出して看過できるほど、彼は冷たい人間ではなかった。
だからこそ、頼れるものはなんでも頼る。
使えるヤツは、それが親の仇(これは当然比喩ではあるが)でも使う。
わずかな逡巡の後の思い切りの良い決断で、“とある男”に協力を要請したのだが ―――
「……っ、なにがデート中だ、あの馬鹿……」
自分がかけた電話をさっさと切った悪友の、人を喰ったようなくにゃくにゃとした笑顔を思い出し、柳也は舌打ちをした。
無意識に伸ばした指が、次の煙草を求めて胸ポケットに差し込まれる。
柔らかく、ひどく頼りないソフトパックの感触が指に触れた。
「最後の一本、かよ」
仕方なく摘み上げた煙草を、ひん曲げた唇にくわえながらライターを探す。
その時、カウンターに投げ出しっぱなしにしておいた携帯電話が、味も素っ気もないアラーム音で柳也を呼び出した。着信、あり。
「もしもし、薫か!?」
ディスプレイに表示された名前を見て、取るものもとりあえず電話に出る。
そういえば、こっちからかけなおすと薫も言っていた。
『柳也くん、約束通りこちらから連絡させてもらったよ。時間もアレだからどうしようかと思ったんだけど、まあ、どうせ起きていたんでしょう?』
無意識に伸ばした指が、次の煙草を求めて胸ポケットに差し込まれる。
柔らかく、ひどく頼りないソフトパックの感触が指に触れた。
「最後の一本、かよ」
仕方なく摘み上げた煙草を、ひん曲げた唇にくわえながらライターを探す。
その時、カウンターに投げ出しっぱなしにしておいた携帯電話が、味も素っ気もないアラーム音で柳也を呼び出した。着信、あり。
「もしもし、薫か!?」
ディスプレイに表示された名前を見て、取るものもとりあえず電話に出る。
そういえば、こっちからかけなおすと薫も言っていた。
『柳也くん、約束通りこちらから連絡させてもらったよ。時間もアレだからどうしようかと思ったんだけど、まあ、どうせ起きていたんでしょう?』
「別にお前の連絡を待って、起きてたわけじゃねえよ」
半分は嘘である。
霧谷との会話が気になって眠るどころではなかったというのが理由の半分ではあるが、もしかすると薫から連絡が来るかもしれないという思いが頭の片隅に引っかかっていたのは確かであった。
もしも普段、こんな時間に薫から電話なんかかかってきたら、何時だと思ってやがる、と怒鳴りつけてやるところだ。
しかし、いまは事情が事情である。
薫と連絡が取れたことが、こんなに有難いと思う日が来るなどとは、数時間前の柳也には予想も出来ないことであった。
『ふふふ。本当は僕と話したくて仕方がなかったんじゃないのかな? 柳也君。このツンデレめ』
気色悪い内容のことを、気色悪い猫なで声で薫がほざく。
だが、ここでいつもの薫のペースに巻き込まれるわけにはいかない。
込み上げてくる怒気をぐっ、と堪える。
「生憎、お前とじゃれ合っている暇はなくてな。いま、俺は店にいる。もうデートとやらは終わったんだろう? なら、すぐにぺリゴールへ来い」
薫との会話を円滑に進めるには、口早にこちらの要求をまず伝えるに限る。
そうでなくとも、彼との会話は脱線しがちになることが多いのだ。
『ああ、さっき君が言っていた仕事の話だろう? まあ、それはともかくとして、僕も君に話したいことが出来たんだよ』
「なんだと?」
『うん。デートのときの話なんだけどさあ ――― 』
「!? 馬鹿、お前の惚気話なんか聞いている場合じゃねえんだ!」
まずい。いつもの会話のパターンにはまりつつある。
紫帆たちが危機に陥るかもしれない瀬戸際というときに、薫と遊んでいる暇はないのだ。
『惚気じゃないったら。もしかしたら、君の言う仕事の話にも重要な関わりがあるかもしれないんだよ?』
「それは話を聞いて俺が判断する! いいからさっさと来い、この馬鹿!」
くらくらする頭に、自分の怒鳴り声が響いて眩暈がしそうであった。
『オーケー、それじゃあ柳也くん、そこで回れ右をしてみようか』
なに、と首を仰け反らせて背後を振り返る。
ぺリゴール入り口の扉の格子に嵌った硝子戸の向こうで ――― 柳也が言うところの“馬鹿”がにこやかな顔をしてこちらに向かって手を振っていた。
「!? あ、開いてるからさっさと入って来い! 居るなら初めから電話なんかするな!」
半分は嘘である。
霧谷との会話が気になって眠るどころではなかったというのが理由の半分ではあるが、もしかすると薫から連絡が来るかもしれないという思いが頭の片隅に引っかかっていたのは確かであった。
もしも普段、こんな時間に薫から電話なんかかかってきたら、何時だと思ってやがる、と怒鳴りつけてやるところだ。
しかし、いまは事情が事情である。
薫と連絡が取れたことが、こんなに有難いと思う日が来るなどとは、数時間前の柳也には予想も出来ないことであった。
『ふふふ。本当は僕と話したくて仕方がなかったんじゃないのかな? 柳也君。このツンデレめ』
気色悪い内容のことを、気色悪い猫なで声で薫がほざく。
だが、ここでいつもの薫のペースに巻き込まれるわけにはいかない。
込み上げてくる怒気をぐっ、と堪える。
「生憎、お前とじゃれ合っている暇はなくてな。いま、俺は店にいる。もうデートとやらは終わったんだろう? なら、すぐにぺリゴールへ来い」
薫との会話を円滑に進めるには、口早にこちらの要求をまず伝えるに限る。
そうでなくとも、彼との会話は脱線しがちになることが多いのだ。
『ああ、さっき君が言っていた仕事の話だろう? まあ、それはともかくとして、僕も君に話したいことが出来たんだよ』
「なんだと?」
『うん。デートのときの話なんだけどさあ ――― 』
「!? 馬鹿、お前の惚気話なんか聞いている場合じゃねえんだ!」
まずい。いつもの会話のパターンにはまりつつある。
紫帆たちが危機に陥るかもしれない瀬戸際というときに、薫と遊んでいる暇はないのだ。
『惚気じゃないったら。もしかしたら、君の言う仕事の話にも重要な関わりがあるかもしれないんだよ?』
「それは話を聞いて俺が判断する! いいからさっさと来い、この馬鹿!」
くらくらする頭に、自分の怒鳴り声が響いて眩暈がしそうであった。
『オーケー、それじゃあ柳也くん、そこで回れ右をしてみようか』
なに、と首を仰け反らせて背後を振り返る。
ぺリゴール入り口の扉の格子に嵌った硝子戸の向こうで ――― 柳也が言うところの“馬鹿”がにこやかな顔をしてこちらに向かって手を振っていた。
「!? あ、開いてるからさっさと入って来い! 居るなら初めから電話なんかするな!」
深夜一時。
柳也の怒声が響き渡るにはあまりにご近所迷惑な、少々遅すぎる時間であった ―――
柳也の怒声が響き渡るにはあまりにご近所迷惑な、少々遅すぎる時間であった ―――
※
そして。
時間の定かならぬ、いまこのとき。
場所も定かならぬ、その場所で。
二人の少女が互いに向き合って座っていた。
室内のようである。
しかし光源はあまりに乏しく、そこが広いのか狭いのかもよく分からない。
ただ、椅子に座っているから ――― そこに椅子があるからおそらくは室内なのであろう、とひどく頼りない情報源から推測されるだけのことだった。
片方の椅子に腰掛けているのは、十歳前後の少女である。
年齢不相応な落ち着きと妖艶さ。不均衡と不調和で構築された異界の美しさを持つ、幼い少女。
時間の定かならぬ、いまこのとき。
場所も定かならぬ、その場所で。
二人の少女が互いに向き合って座っていた。
室内のようである。
しかし光源はあまりに乏しく、そこが広いのか狭いのかもよく分からない。
ただ、椅子に座っているから ――― そこに椅子があるからおそらくは室内なのであろう、とひどく頼りない情報源から推測されるだけのことだった。
片方の椅子に腰掛けているのは、十歳前後の少女である。
年齢不相応な落ち着きと妖艶さ。不均衡と不調和で構築された異界の美しさを持つ、幼い少女。
都築京香 ――― “プランナー”。
彼女は短いスカートから覗いた膝の上に、手慰みのための一冊の手文庫を置きながら、
「……プラン通りに、進んでいるようですね。七村紫帆との接触は済みましたか?」
対面の少女にそう訊いた。
相対するのは、彼女よりも十歳は年上に見える、どこか暗い翳のある少女。
黒く長い黒髪は背を覆い、その視線は、はらりと垂れた長い前髪の奥からひっそりとプランナーを見つめ返す。
「……ええ。賢者の……いえ、貴女たちの作り上げた“銀なる石”は、確かに彼女の手に渡りました。そちらの首尾も、上々のようで」
ローブにも似た黒い服の胸元で、こちらは分厚い古書をかき抱き、少女 ――― 裏界の魔王、リオン=グンタはそう応えるのだった。
「ですが、本来なら敵であるはずの相手に、あそこまであけすけに情報を与えるとは……随分と大胆なのですね ――― 」
「いつもの貴女と同じ手練手管を駆使しているにすぎませんよ、“秘密侯爵”。この件に関して私たちが裏で動いていることを“彼らに伝える”ことが、第一段階の主な目的ですから」
どちらも腹の底を見透かせぬような、会話の応酬である。
情報を伝えた相手 ――― それは、『本来の敵である』というくだりを聞くまでもなく、鳴島市ポートタワーの喫茶店で接触を図った千城寺薫のことであろう。
プランナーが薫に伝えたことはふたつ。
かつて、銀なる石を精製したヘルメス機関の資料を復元し、ほぼ同程度の力と性能を持つ個体の複製に成功したという情報。
そしてその複製した銀なる石を、好き勝手に研究材料として使っても構わないとした上で、千城寺薫に手渡したこと。
加えて、新しい石の持つ特性や可能性を示唆した上で、その研究レポートを作成すべし、と薫に依頼したのである。
ただし、その研究方法等は薫に完全に一任され、またプランナーと接触した事実、研究の内容などなど、彼がそれを必要だと感じたならば、その情報をUGNに流出させても構わない、等々。
「随分と破格の条件ですね……しかも、七つの石すべてを彼に手渡した……」
リオンがゆっくりと首を横に振る。
聞くものが聞けば、驚愕のあまり目の玉が飛び出るようなことを、プランナーがしていることが分かるだろう。プランナーが、リオンの言葉を受けて薄く笑う。
「惜しいとは、思いません」
身をかがめ、彼女は腰掛けた椅子の傍らに置かれたアタッシュケースを持ち上げる。
ぱくん、と音を立てて、ケースの中身をリオンに示すように蓋を開けた。
銀なる石を惜しいとは思わない ――― そう言った彼女の言葉の裏づけとなる、信じられない光景が、アタッシュケースの中身であった。
彼女は短いスカートから覗いた膝の上に、手慰みのための一冊の手文庫を置きながら、
「……プラン通りに、進んでいるようですね。七村紫帆との接触は済みましたか?」
対面の少女にそう訊いた。
相対するのは、彼女よりも十歳は年上に見える、どこか暗い翳のある少女。
黒く長い黒髪は背を覆い、その視線は、はらりと垂れた長い前髪の奥からひっそりとプランナーを見つめ返す。
「……ええ。賢者の……いえ、貴女たちの作り上げた“銀なる石”は、確かに彼女の手に渡りました。そちらの首尾も、上々のようで」
ローブにも似た黒い服の胸元で、こちらは分厚い古書をかき抱き、少女 ――― 裏界の魔王、リオン=グンタはそう応えるのだった。
「ですが、本来なら敵であるはずの相手に、あそこまであけすけに情報を与えるとは……随分と大胆なのですね ――― 」
「いつもの貴女と同じ手練手管を駆使しているにすぎませんよ、“秘密侯爵”。この件に関して私たちが裏で動いていることを“彼らに伝える”ことが、第一段階の主な目的ですから」
どちらも腹の底を見透かせぬような、会話の応酬である。
情報を伝えた相手 ――― それは、『本来の敵である』というくだりを聞くまでもなく、鳴島市ポートタワーの喫茶店で接触を図った千城寺薫のことであろう。
プランナーが薫に伝えたことはふたつ。
かつて、銀なる石を精製したヘルメス機関の資料を復元し、ほぼ同程度の力と性能を持つ個体の複製に成功したという情報。
そしてその複製した銀なる石を、好き勝手に研究材料として使っても構わないとした上で、千城寺薫に手渡したこと。
加えて、新しい石の持つ特性や可能性を示唆した上で、その研究レポートを作成すべし、と薫に依頼したのである。
ただし、その研究方法等は薫に完全に一任され、またプランナーと接触した事実、研究の内容などなど、彼がそれを必要だと感じたならば、その情報をUGNに流出させても構わない、等々。
「随分と破格の条件ですね……しかも、七つの石すべてを彼に手渡した……」
リオンがゆっくりと首を横に振る。
聞くものが聞けば、驚愕のあまり目の玉が飛び出るようなことを、プランナーがしていることが分かるだろう。プランナーが、リオンの言葉を受けて薄く笑う。
「惜しいとは、思いません」
身をかがめ、彼女は腰掛けた椅子の傍らに置かれたアタッシュケースを持ち上げる。
ぱくん、と音を立てて、ケースの中身をリオンに示すように蓋を開けた。
銀なる石を惜しいとは思わない ――― そう言った彼女の言葉の裏づけとなる、信じられない光景が、アタッシュケースの中身であった。
ケースに整然と並んだものは、十数本もの試験管。
ポートタワーの喫茶店で薫に手渡されたものと同様の、銀なる石が収められた試験管が、みっしりと。
ポートタワーの喫茶店で薫に手渡されたものと同様の、銀なる石が収められた試験管が、みっしりと。
「月(ムーン)。水星(マーキュリー)。金星(ヴィーナス)……ヘルメス機関のものとほぼ同等のレネゲイドクリスタル・レプリカ ――― 必要とあらば、いくらでもばら撒くことができます」
「 ――― なるほど」
「 ――― なるほど」
二人の少女が密やかに嗤う。
「……それではこちらも準備を進めましょう。エミュレイターの尖兵……差しあたっては、百体ほどファー・ジ・アースへと招き寄せます」
恐るべき言葉を紡ぐ秘密侯爵に、プランナーは策謀を企むものの表情をして頷いた。
「……それではこちらも準備を進めましょう。エミュレイターの尖兵……差しあたっては、百体ほどファー・ジ・アースへと招き寄せます」
恐るべき言葉を紡ぐ秘密侯爵に、プランナーは策謀を企むものの表情をして頷いた。
「結構です……それでは、プランを次のフェイズに移行させることにしましょうか」
(続く)