トビト記(Book of Tobit)
律法に忠実な信仰者トビトとその息子トビアの物語が綴られる。息子トビアと天使
ラファエルが変化した人物アザリアの旅、トビアが
アスモデウスを撃退し、この悪魔に憑かれていたサラと結婚するエピソード、視力を失った父の目を癒すシーンは有名。
批判
プロテスタントの側から第二正典への批判がなされることがある。トビト記の場合、以下の批判がある。
施し・慈善の扱いへの批判
施しは、それをするすべての者にとっていと高き方の御前にささげる善い捧げ物となる。(4章11節)
慈善の業は、死を遠ざけ、すべての罪を清めます。慈善を行う者は、幸せな人生を送ることができます。(12章9節)
イエスの血によってあらゆる罪が清められる(ヨハネによる第一の手紙1章7節)が引用され、否定される。
呪術を含むという批判
天使ラファエルは言った。「捕まえなさい。しっかりと魚を捕まえて話さないように。」そこでトビアは魚をしっかりと捕まえて、陸に引き揚げた。ラファエルは言った。「魚を切り裂き、胆のうと心臓と肝臓を取り出して取って置きなさい。ほかのところは捨ててしまいなさい。魚の胆のう、心臓、肝臓は薬として役に立つからです。」そこでトビアは魚を切り裂き、胆のう、心臓、肝臓を集め、身は焼いて食べ、残りはまとめて捨ててしまった。二人は共に旅を続け、ついにメディアの近くにたどりついた。(6章4節-6節)
魚の内臓の薬効を語った後、悪魔祓いの効用もあると語られる。
そこで、トビアはラファエルに尋ねた。「兄弟アザリア、魚の胆のう、心臓、肝臓にはどんな効き目があるのですか。」そこでラファエルは答えた。「魚の心臓と肝臓は、悪魔や悪霊に取りつかれている男や女の前でいぶしなさい。そうすれば、悪霊どものどんな力も消えてしまい、今後一切その人に及ぶことはありません。胆のうは、目にできている白い膜に塗り、そんの部分に息をふきかけなさい。そうすれば、目は良くなります。」(6章7節-9節)
8章冒頭でトビトはラファエルに教わった方法で悪魔
アスモダイを退ける。
モノ(この場合内臓)を使って超自然的な効果を発揮させる点が、批判者の目には呪術として映ったのだと考えられる。
史実に反するという批判
わたしがまだ若くして故郷イスラエルにいたとき、父祖ナフタリの部族はこぞって先祖ダビデの家とエルサレムから背き離れた。このエルサレムはすべてに部族のためにいけにえを捧げる目的で、イスラエル全体によって選び出された町である。此の街には神の住まいである神殿が代々限りなく続くようにと聖別され、建てられていた。
親族全員と父祖ナフタリの一族は、北イスラエルの王ヤロブアムがダンで造った子牛に、ガリラヤの山々でいけにえを捧げていた。(1章4-5節)
わたしはアッシリアに捕囚の身となり、ニネベの町に連れて来られた。そこでは、親族、同胞の者たち皆、異教徒の食事をしていた。(1章10節)
こうしてトビトは賛美の祈りを終えた。彼は百十二歳で安らかに息を引き取り、ニネベで手厚く葬られた。(14章1節)
トビトは北の部族での反乱(紀元前997年)とニネベへの捕囚(紀元前740年)を体験した。250年以上の開きがあるにも関わらず、彼は102年しか生きていない。
反論
呪術、とする批判に対して、プロテスタントが認める旧約聖書や
新約聖書でもモノを介して奇跡を起こす描写があると述べられる。
- イエスの十二人の弟子たちが、イエスの命のもと塗油によって病気直しをする(マルコ6章13節)
- 目の見えない人に対し、イエスが唾を目につけ、両手をかぶせて癒す(マルコ8章23節)
- イエスが地面に唾をし、土をこねて目に塗って癒す(ヨハネ9章6-8)
- 預言者エリシャが塩を使い、「主はこう言われる……」と述べて水の源を清めた。(列王記? 下2章21節)
トビト書の記述が呪術なら、プロテスタントの正典にもある奇跡も呪術になってしまう、という意見である。
また魚をとり、切り分ける作業、そして内臓に象徴を見出す観点もある。魚を取り、分ける行程は旧約での生贄の反映であり、心臓は神と隣人への愛、肝臓はいのちから罪を除くこと、胆のうは、苦しみを伴なう自制とその効用、とみられる。魚からとられた部位を精神に有益な薬の象徴とする。
史実に反するという批判に対しては、
ダニエル書?でネブカドネザルがベルシャザルの父(5章2節-30節)と書かれているが、史実ではナボニドスが父である。よって、歴史的「矛盾」も問題にならないとする。
n*参考文献
トビト記の引用はこの翻訳によった。このほか教文館の聖書外典偽典、フェデリコ・バルバロ訳の聖書にトビト記の翻訳が収録されている。
参考サイト
プロテスタント
カトリック
最終更新:2021年05月25日 17:19