浦島太郎(うらしまたろう)

 言わずと知れた昔話の主人公。『日本書紀』巻第十四は、雄略天皇の二十二年の事として、次の様に記す。

 秋七月に、丹波国の余社郡の筒川の人瑞江浦嶋子、舟に乗りて釣す。遂に大亀を得たり。便に女に化為る。是に、浦嶋子、感りて婦にす。相遂ひて海に入る。
 蓬莱山に到りて、仙衆に歴り覩る。語は、別巻にあり。

 ここでいう「別巻」とは、おそらく鎌倉時代末期の『釈日本紀?』巻十二の引く、『丹後国風土記』逸文の事であろう。
 ここでは釣上げた五色の亀が神女となり、夫婦の誓いを交わすと共に蓬莱山に到り、昴などの星の化身といった神仙たちと過ごして三年を経て帰ったが、故郷では三百年の月日が流れており、玉匣を開いてしまった為に蓬莱山にも帰る事が出来ず、風を通して乙姫と歌を交わして終ってたとしている。
 『万葉集』には、箱を開いた途端に老いて死んでしまったとあるが、ほぼ同じ。
 これらの伝説は、元々全国各地に存在していたもので、丹後の伝説はその内の一つに過ぎなかったとも、七世紀後半の文人官僚伊預部馬養が、唐の伝説を基に創作したものだともいうが、当時の人々の心の琴線に触れる様な、既存の信仰を基にしていた事は、間違いあるまい。
 10世紀初頭には、『続浦島子伝記』が成立し、その後、『本朝神仙伝』の浦島子伝、史書『扶桑略記』、鎌倉時代初期の説話集『古事談?』にも引用される。12世紀には、『俊頼髄脳』以下の、仮名で書かれた歌論書でも紹介され、鎌倉時代初期の史書『愚管抄』では、ただ名前を挙げて「この時代の事である」と言われるだけで済まされるほど、よく知られる様になっていた。
 平安時代も半ばを過ぎた頃には、丹後で浦島明神が祀られる様になり、その後同社の縁起絵巻や能・狂言の題材となって普及して行き、伝説は長野県も含めた全国に広がるが、話ばかり進めても、面白くはあるまい。

 『宇治拾遺物語』に、「浦島が子が弟」がバケモノとなって出たという話がある。

「陽成院妖物の事」
 今は昔、陽成院下り居させ給ひての御所は、大宮よりは北、西洞院よりは西、油小路よりは東にてなんありける。そこは霊住む所にてなんありける。大きなる池のありける釣殿に、番の者寝たりければ、夜中ばかりに、細々とある手にて、この男が顔をそとそと撫でけり。『けむつかし』と思ひて、太刀を抜きて片手にて掴みたりければ、浅黄の上下著たる翁の、殊の外に物侘しげなるがいふやう、「我はこれ昔住みし主なり。浦島が子が弟なり。古よりこの所に住みて千二百余年になるなり。願はくは許し給へ、此所に社を建てて斎ひ給へ。さらば如何にも守り奉らん。」といひけるを、「我が心一つにてはかなはじ。この由を院へ申してこそは。」と言ひければ、「憎き男のいひごとかな。」とて、三度上ざまへ蹴上げ蹴上げして、なえなえくたくたとなして、落つる所を口を開きて食ひたりけり。なべての人ほどなる男と見る程に、おびただしく大きになりて、この男唯一口に食ひてけり。

 古くなった器物や動物が化ける様に、長生きし過ぎた人間もまた、バケモノになるとされていた。三百年を生きた浦島は、最早人ではないものと見做されていたのであろう。
生き延びたとされた浦島の行方、その「弟」の行方は、誰も記していない。後に、御伽草子は浦島が鶴となり、亀となった乙姫と結ばれたとしているが、後世の願望めいたハッピーエンドでしかないのである。

http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/min/1106843774/24-25より
作:山野野衾 ◆a/lHDs2vKAさん

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最終更新:2005年07月20日 07:08