【名前】菅谷 正恵(すがや まさえ)
【容姿】161㎝ うっすら白みがかったベリーショート(髪型の参考:独メルケル首相)
【生年月日】1958年2月11日(61歳)
【所属】四国北条マリナーズ 巡回打撃コーチ
【利き腕】右投左打
【守備位置】捕手
【能力】(92年)3BCECBC 捕7
チャンスB キャッチャーB 送球B ローボールヒッター 流し打ち チームプレイ○
【背番号】28(現役時代)73(現在)
【球歴】茨城キリスト教学園高ー立大―西武(80~84)―北条(85~99引) ―オリックス二軍打撃C(02~03) ―京都監督(05~08)―四国一軍バッテリーC(16~18)―四国巡回打撃コーチ(19)
【性格】ひょうきんだが、内面は思慮深い
【その他】茨城県高萩市出身。90年前後、優勝を争えるチームだったマリナーズを支えた不動の正捕手。
高校時代は無名校ながら三拍子揃った捕手として注目され、3年夏の茨城県大会ではこの前後2年が初戦敗退のチームを8強に導いた。
高校卒業後は立教大学に進学。ベストナイン受賞、78年秋リーグでは三冠王に輝いた岡田彰布と首位打者を争うなど活躍したが、この時代の故障により肩が弱まってしまった。
79年ドラフト2位で西武に入団。西武では捕/外をそつなくこなす貴重なユーティリティとして1年目から1軍に定着した。
しかし本人は捕手としてやっていきたい意向であり、伊東勤が正捕手に定着した84年オフに志願のトレードで北条へ移籍。
北条では巧みなインサイドワークと器用な打撃を活かして正捕手の座を獲得。87・89・92年の3シーズンで3割超えの打率をマークした。
90年に男児を出産。このシーズンはほぼ全休したが、翌91年途中には復帰。92年の北条初のリーグ優勝には主に「6番・捕手」として勝負強さを見せて貢献した。
翌年以降は徐々に成績が下降。それでも投手陣からの信頼は厚く、弱体化の進むチームにおいて渋い活躍を見せたが、99年で引退した。
引退後は北条で球団職員をしていたが、02年には西武時代の同僚・石毛宏典の要請でオリックス二軍(サーパス神戸)打撃コーチに就任。若い女性選手の多いチームを指導した。
さらに05年にはオリックス時代の教え子が多く在籍する新球団・京都キャバリアーズの初代監督に就任し、乏しい戦力事情の中で奮闘。
任期中のAクラスはならなかったものの、真田児玉を一軍に定着させるなど、チームの基礎作りに尽力した。
京都退団後は北条改め四国に復帰。地域密着型運営の現場で活動していたが、16年に現場復帰。今年は巡回コーチとして一・二軍間の擦り合わせなどにあたっている。

  • プレースタイル
外野はプロ入りまではほぼ経験がなく「野村さん、田淵さんといった名捕手たちの一挙手一投足を間近で見るため、一軍に食らいつく手段」として挑戦したものだが、予想外にセンスがあったため便利屋の位置にスッポリ収まってしまった。
そのような俊足と、西武で培われた高いチームバッティングの意識から、北条移籍後産休までは主に1・2番を打っていた。復帰後はパワー型にシフトし、92、93年と二桁本塁打を記録した。また盗塁阻止率のピークも92年である。
キャッチャーらしい読み打ちのできる打者だったが、「大抵のバッテリーは低めを中心に組み立ててくるのでそこを狙う」という考えから、特に低めへの対応を磨いていた。

  • 人物
基本的にチームメイトには気さくに接する。かつての後輩や教え子に対しては、名前を少し崩した呼び方をすることが多い(例:西武時代の後輩大西八重子は「八重ちゃん」)
一方で言いたいことははっきりと物申すが、あくまでも前向きな指摘になるような雰囲気、言葉選びを心掛ける。これは本人の気質はさることながら、西武でリーダーシップを発揮した石毛宏典を参考にした面も大きいという。
プロ入りしたころは歯に衣着せぬ性格だったが、同郷の上司・根本陸夫の教えなどを受け「衣は着せるが、牙は抜かない」というところを目指し、現在の人格が出来上がった。
野村克也の影響で「足して10になる」背番号を好んでおり、加えて四国移籍から引退まで着用した28番は完全数、現在の73番は素数であるということで愛用している。
学歴から分かる通りのキリスト教徒(プロテスタント)である。なお根本もキリスト教徒だが、こちらは正教徒。
6歳と3歳の孫がいる。(年齢は2019年時点)
現在の姓は御園生(みそのお)だが、登録名は旧姓のままである。

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最終更新:2019年10月01日 07:42