「ひっ、ひいいいいいっ!」
畜生、畜生畜生畜生畜生チクショウ!
なんだよこれは、一体何がどうなってんだよ!?
なんで俺がこんな目に遭わなきゃいけねえんだ!
おかしい。理不尽だ。夢かもしれない。あってはならないことが起きている。
畜生、でも、でも――夢じゃねえ。
夢ならこの手の傷から血が流れる事なんてねえし、痛くだってないはずだ。
でもよ、痛えんだ。
俺の手はすげえ痛くて、熱くて、この痛みは絶対に夢なんかじゃねえ!
「ハッ、ハッ、ハッ、ハアッ……うぷっ」
佐藤道明は走っていた。
およそ数年ぶりの全力疾走。そもそも走る事すら久しぶりだ。
100キロを超える身体で走る様は、さながら肉の壁が這い回っているようにも見えるだろう。
足がもつれる。横腹が破裂しそうなくらい痛い。でも止まらない。止まる訳にはいかない。
何故ならまだ、追跡者――あの人殺しが、追いかけてきているかもしれないからだ。
「ハッ、ハッ、ハッ、ハッ、ハッ」
いくつめかもわからない曲がり角を曲がり、佐藤は目についた自動ドアへタックルするように飛び込んだ。
幸い、まだ閉店時刻ではなかったらしく、自動ドアは静かに開いて佐藤を内部へと招き入れる。
「だ、誰か……た、た、たす、ハッ……たす……ハアァッ、ハッ……おぶっ!」
室内に入った瞬間、佐藤は床に手を着いて四つん這いになった。
意識した訳じゃない。身体が無意識にそうした。
そうするとき、身体に負担をかけない方法を、身体が無意識にセレクトした――
「うごえぇぇ……!」
盛大に、戻してしまった。
今日の夕食――というには時間が遅かったが――の、カツカレーとギョウザ、ハムとチーズのサンドイッチ、デザートのバニラアイス。
吐瀉物が静謐な空間に前衛的なシンフォニーを響かせる。
額に汗が滲む。これだけ走ったのだから当たり前だ、と佐藤は思ったが、その汗は自分でも驚くほどに冷たい。
佐藤はシャツの袖で額の汗を拭いた。5XLサイズのシャツは既にぐっしょり濡れていてさほど効果はなかった。
フル回転した足が鉛のように重い。心臓が爆発しそうだ。
多分300メートルは走っただろう、と佐藤は思う。日常行動範囲が部屋とトイレと風呂を往復するだけなので、距離感すら曖昧だ。
「フゥー、フゥー、フウゥゥゥゥゥ――」
深く息を吸って、吐く。目の前の汚物はあえて見なかったことにする。
入り口でこんな粗相を仕出かしたら、どんな店だって入店拒否されても文句は言えない。にも関わらず、誰からも佐藤へと非難の声はかからなかった。
なんとか喋れるくらいまで呼吸を整え、佐藤はまず後ろを振り向いた。自動ドアは俺より後は誰にも反応していない。閉まっている。
もしかして振り切れたのかと、安堵する。
やや落ち着きを取り戻した佐藤は、規則的に並んでいる高級そうなソファを支えに何とか立ち上がり、大声で叫んだ。
「た……助けてくれ! 警察を呼べ! 銃持った頭おかしい奴がいるんだ!」
ぜえはあと荒い息を吐きながら返事を待つ。佐藤はすぐに気付いた。ここには誰もいない。
佐藤が飛び込んだこの場所は、見渡す限り無人だった。
「なんだこれ。どうなってんだ……?」
はっきりと観察した訳ではないが、この建物――ホテルの規模・設備は相当なものだった。
通常なら、一流と呼んで差し支えないホテルのロビーに、フロントやボーイなどの職員がいないはずがない。
違和感を感じた佐藤が再度呼びかけようと大きく息を吸い込んだ時。
ガシャァァァァンッッッ!!
そうとしか言い表せない、ひどく甲高い音がした。
佐藤がたった今入ってきた自動ドア、そのガラス戸が砕かれたのだ。
「ひいっ!」
何よりもまず、音に恐怖した。ガラスの破砕音が夜の静寂と佐藤の精神を同時にを引き裂く。
コップを落としたのとは訳が違う、生理的な不安を煽る音。
コーラが飲みたい。確か一昨日ババアに買いに行かせたから冷蔵庫にまだ入ってたはずだ。
キンキンに冷えた、砂糖たっぷりのいつものコーラが。ツマミのポテチはまだ残ってたはずだ。
そろそろイベントの時間だ。ギルメンを待たせる訳にはいかない。なんたって、俺はギルマスだからな。
あいつら、俺がいないと先週実装されたダンジョン死なずにクリアできないって泣きついてきて――
思わず夢の世界にログインしかけた佐藤に現実を突きつけたのは、割れたガラスを踏み越えてホテルへ入ってきた新たな人物だ。
「……驚きました。まさか私より足が遅いとは思わなくて」
現れたのは、一見して中学生とわかる小柄な少女だった。
黒髪を背中まで伸ばし、色は白く、目尻には色濃い隈がある。
引きこもりの佐藤をして陰気そうなタイプと断ずる事ができるほど、あまりにも暗い空気を纏っている。
「私、あまり運動は得意じゃないけど……それでも、わざわざ走る必要もなかったくらい」
肩で息をしていた佐藤と違い、その少女には全く疲労の痕跡がない。
明らかに文系の少女と比較してさえ、佐藤の体力の無さに軍配が上がったようだった。
「お、お前……!?」
「あまり、逃げない方がいいと思う……痛いのは一瞬だから」
夜に田舎の井戸を覗き込んだらこんな感じだろうか――そう思わせる視線を銃口と共に佐藤に向けて、少女はぼそぼそ呟く。
そして少女は余りにも無造作に、引き金を引いた。
「――――ぁっ!!!!?」
頭を殴りつけられたような衝撃が佐藤を襲う。強烈なフックを打ち込まれたボクサーのようにクルクルと回転し、佐藤は転倒した。
ただでさえ限界まで運動し、さらに嘔吐したのだ。佐藤にはもう体力は残っていない。
受け身など取れる訳も無く、佐藤は床に肩を強かに打ち付け、カエルが潰れたが如き呻き声を上げた。
「あ……やっぱり、難しい。ごめんなさい、当てるつもりだったんだけど……」
朦朧とする意識は少女の言葉を理解できない。
ただ下から少女を見上げる形になった佐藤に同情するつもりは無いのか、少女は三度銃を佐藤に突きつけた。
転んだ際に落としたデイパックは、少女に奪われてしまった。
「銃で、撃たれると……当たり前ですけど、痛いです。でも、頭か心臓……即死したら、あんまり痛くないです。
逆に一番苦しかったのはお腹かな……できればお腹は止めてあげたいんですけど……」
でも早く楽にしてあげたほうがいいかな、と少女は佐藤の様子に一切斟酌せず独り言を続ける。
その目は佐藤を映しているが、砂糖を見てはいなかった。
「まっ……待て、待ってくれ! こ、ころ、殺さないで……殺さないでくれ!
な、なあ、お願いだ。命だけは助けて! 他、頼むよ、なあ!」
「ああ、でも頭打たれても即死じゃなかった事あったっけ。じゃあ心臓かな……?」」
必死の懇願もまるで届いた様子がない。
少女はゆっくりと佐藤の側へと近寄って来る。もし佐藤が咄嗟に暴れようとしても手が届かない、ギリギリの場所で止まった。
「く、来んな、来んなよ人殺し! 俺がお前に何したってんだよ!
そうだ、か、金ならいくらでも払うから! だからなあ、お願いだから助け」
「あまり、動かないで……外しちゃうかもしれないから」
少女は最初からずっとこの調子だった。
大広間で革命家とか言う変な奴の演説を聞いて、FPSみたいな銃声がして、ビームらしきものを撃った奴がいて。
朝方までPCに向かっていた佐藤の頭はこれ何のイベントだっけと状況を把握していなかったが、数年ぶりに出た家の外という環境は否応なく佐藤の楽園をぶち壊した。
とりあえずこれは夢じゃない、と佐藤が認識した瞬間、影のように少女は現れ、そして言葉を交わす間も無く撃ってきた。
銃を撃つ事など当然初めてなのだろう、その初弾も見事に明後日の方角に飛んでいった。
流れ弾が自販機のディスプレイに突き刺さり、飛散した破片で腕を浅く切った佐藤はこの時点で恐慌を来たす。
訳のわからない状況、ここは家ではない、いつもうっとおしく話しかけてくる親もいない――佐藤の目前にあったのは、凶器を構えて近寄ってくる少女というリアルだけだった。
佐藤は走った。肥満体の青年はお世辞にも敏捷とは言えなかったが、人間とはいざ命の危険に直面すれば驚くほどの力を発揮する。
佐藤本人は300メートルと思った距離は実際には50メートルほどだったのだが、とにかく佐藤はその果てしなく遠い50メートルを自己最高記録で駆け抜けた。18秒。
しかし逃げきれなかった。
すぐに追いつかれ、至近距離を弾丸が掠め、転倒し――完全に追い詰められた。
今や佐藤の命はこの少女の手の上にある。
「ごめんなさい。それじゃ」
そして、何ら躊躇う事もなく少女は引き金を引く――寸前、さらに少女の背後から大きな影が飛び出してきた。
影は少女の足を刈り、転倒させる。少女が握っていた拳銃は宙を舞うが、魔法のようにその影が伸ばした手に受け止められた。
「……ふう、間に合ったな。怪我ないか、君?」
滑らかな動きで転ばせた少女の手を捻り上げ、“制圧”した影――それは、大柄な男性だった。
ちらほら白髪が混じる髪とは裏腹に、その肉体は鋼のように引き締まっている。佐藤のそれとは違う――“闘うための”身体だ。
しかし何よりも佐藤を安心させたのは、男性の衣服。日本に住む者なら誰でも知っているであろう、警察官の制服だ。
「け、けいさつ……?」
「ああ、そうだ。俺は
榊将吾。警視庁の警部補だ。もう大丈夫だ、安心してくれ」
榊と名乗った男は懐に片手を突っ込む。取り出したのはドラマなどでお馴染みの警察手帳だ。
よくある小道具だが、一般人には効果覿面。恐慌状態だった佐藤も、手帳と男の顔を何度も見比べているうちに徐々に落ち着いてくる。
へたり込んだまま何度も何度も深呼吸し、ようやく恐怖の震えが収まった途端、怒りが込み上げてきた。
それは部屋を家を連れ出された恨み。肉体を酷使させられた痛み。そして何より――殺されかけた恐怖。
その全てが綯い交ぜになり、やがてドロドロとした怒りへと変貌する。
「おい、君? 何を」
「この――腐れビッチ野郎がっ!!」」
榊が抑えつけたまま身動きが取れなかった少女へと走り寄り、その小さな顔を、蹴った。
少女の顔が跳ね上がる。血と共に吐出された歯が、少女へ確かな痛痒を与えた事を示している。
「ぎ……っ!!」
「ふ、ふひひ……まだだ! こんなもんじゃ済まさねえぞおっ!」
苦痛に歪む少女の表情にサディスティックな快感を覚え、再度踏みつけてやろうと佐藤は足を振り上げる。
しかし片足立ちになった瞬間、榊の拳が佐藤の出っ張った腹を打つ。バランスを崩していた佐藤の巨体は、結構な勢いで後ろに突き飛ばされた。
「ってぇ……!」
「気持ちはわかるが、止めろ。彼女はもう無力化している。これ以上は必要ない」
「ふざけんなよおっさん! 俺は殺されかけたんだぞ、そのガキに!」
「わかってる。だが、それでもだ。俺は警察官だからな、無抵抗の人間が傷付けられるのを見過ごす訳には行かん。
君も納得はできないだろうが、今はひとまず抑えてくれ。まず俺がこの娘に話を聞くから」
「そんな悠長なこと……あんたも見ただろ! こいつ、銃を撃ってきたんだぞ! 人殺しなんだぞ! そんなやつから何を聞くってんだよ!」
「まずは、名前だな。おい君、名前はなんて言うんだ?」
佐藤の怒りもどこ吹く風、榊は抑えつける力を緩めてやった。
関節を極められ身動きの取れない少女は、お互いに蛮行を加え合った佐藤をしばし見ていたが、やがて興味を失くしたように榊へと視線を移す。
「詩仁、恵莉」
「恵莉ちゃん、だな。手荒な真似して済まないな」
「いいです。当然の事でしょうし……そっちの人が怒るのも」
淡々と。その声に感情は全く込められていない。
佐藤を殺そうとした事も、榊に力づくで抑えられている事も、どちらも大した事ではない。佐藤にはそう言っているように見えた。
「……こんな状況だ、不安になるのはわかる。まして、銃なんて持たされたらな。自棄になってもおかしくは無い。
だが、恵莉ちゃん。こんな時だからこそ、冷静になるんだ。あの
ワールドオーダーとか言う奴は必ず俺達警察が捕まえる。
だからな、恵莉ちゃんも、そっちの君も。こんなつまらない事で手を汚しちゃいけねえよ」
それは、警察官としての榊の本心だ。
未来のある若者が、殺人を犯す。
たとえ自衛のためとしても、その事実は必ずその後の人生に暗い影を落とす事になる。
日本の治安と市民の生活を守る一警察官として、そんな事態は絶対に許せない。
榊将吾。
警察の闇を目の当たりにし、諦念と惰性の海に沈んだ彼を以ってしても、尚、この事件は決して看過できないものだ。
まして、まだ二十歳にもなってない子供を殺し合わせるなど言語道断。久しく忘れていた純粋な怒り――悪への怒りが、榊を満たしている。
「そっちの君。名前は?」
「え……佐藤、佐藤道明、です」
「よし、佐藤君。そして恵莉ちゃん。君達二人は俺が保護する。安心しろ、絶対に家に帰してやる。
佐藤君、恵莉ちゃんを許してやってくれ。そして恵莉ちゃん、その銃を渡すんだ。君が持っているべきものじゃない」
榊に押し倒された際、恵莉は拳銃を持つ手を咄嗟に腹部へと押し付けた。
だから今、拳銃は恵莉と榊自身の体で隠された位置にある。
日本で働く警察官として、子供が銃を持つなどとても許容できない。誰かに仕組まれたとならばなおさらだ。
「…………」
「恵莉ちゃん」
「……わかりました」
ハア、と息を吐いて恵莉が折れた。
「守って……くれるんですね?」
「ああ、もちろんだ。これでも俺、射撃ならちょっと自信があってな。そこらの犯罪者くらいには負けないぜ」
榊が豪放に笑い、恵莉への戒めを解く。佐藤は狙われた恐怖から物陰に隠れて様子を見ている。
「私一人じゃやっぱり駄目……死に方は覚えてても、殺し方なんて知らない……」
ぼそぼそと呟き、恵莉は榊へと銃を手渡す。
相変わらず感情が読めない目だが、ひとまずこれ以上争う気は無いという意思表示に他ならない。
「よーし、いい子だ。佐藤君、もう出てきてもいいぞ。とりあえず、まずお互いの事を話し合って――」
その瞬間が、“今回の”
詩仁恵莉のDEAD ENDだった。
遠くから見ていた佐藤だけが、何が起きたのか把握できた。
恵莉と榊がいた場所の上、天井から、水が滴るように滑らかに、黒い影が落ちてきた。
影はするりと手を伸ばして恵莉の首に手をかけ――
ごきり。
枯れた枝を踏み折るような乾いた音が鳴った。
「え?」
それが、詩仁恵莉の遺言となった。
音もなく着地した影は、恵莉が握っていた銃――SAA(シングル・アクション・アーミー)を一瞬でスリ盗った。
その銃口が狙うのはもちろん、対面にいる榊将吾。
呆然とする榊の脳天へポイントされた銃が、引き金を引かれる。吐き出された弾丸は、榊の眉間を貫く弾道を描く。
一瞬をさらに引き伸ばした刹那の瞬間。死を覚悟する間も、現実を受け入れる間も無く――榊の額から数ミリのところで、弾丸が弾け飛んだ。
「――――ッ!?」
まさに、弾け飛んだ。
弾頭は素粒子にまで分解され、榊を傷つける事は無い。
「DrAzzilb!」
次いで、透き通るような声。叫びがもたらしたものは風、そして氷の刃。
室内に吹くはずの無い突風が、至近にいる榊を全く無視して、黒い影――ダークスーツを着こなす長身痩躯の男へと叩き付けられる。
ダークスーツの男は昆虫染みた動きで風が運ぶ刃を回避するが、風はうねり竜巻となって何度も食らいついていく。
後退していくダークスーツを睨み、榊はようやく態勢を立て直す。
榊の前に、ダークスーツとは違う黒い外套をに身を包んだ人物がやってきた。
「ご無事ですか?」
「あ……ああ。あんたは?」
「私の名は
オデット。自己紹介、と参りたいところですが……お話は後で、サカキ。まだ終わっておりません」
フードを下ろせば、そこには見目麗しい金髪紅瞳の美女の顔があった。
しかし目を引くのは美貌だけでは無い。耳の上から生える山羊のような巻き角が、オデットと名乗る女の最大の特徴であろう。
榊の無遠慮な視線に気付いたか、オデットはやや目を伏せる。
「……済まない、不躾だった」
「いえ、人族には当然の反応です。気にしておりませんわ。それより……」
オデットは、柔和な顔に似合わぬ鋭い視線を前方に向ける。その先にはダークスーツの男が立っている。
吹き荒れる氷槍の嵐の只中にいたのに、傷一つなく。
「気をつけて。あの方は……危険です。」
「ああ、言われんでも感じるよ。全身の毛が逆立ってやがる……!」
落ち着いてみれば、ダークスーツの男は榊よりも年下だろう。さすがに佐藤よりは上だろうが、多く見積もっても三十そこそこ。
だというのに、無言のまま撒き散らすプレッシャーで榊の本能が警告を発している。こいつは今まで渡り合ってきたどんな犯罪者よりも危険だ、と。
榊は目線だけ動かして倒れている恵莉を見る。頚骨粉砕骨折――ほぼ即死だったろう。痛みを感じる暇がなかったのは幸運かどうか。
榊を信じて銃を渡そうとしてくれた少女の命は、一瞬で刈り取られた。榊の全身を、怒りと、そしてあるいはそれ以上の戦慄が走る。
ともすれば怒りを忘れそうなほどの、鮮やかな“殺し”。ダークスーツの男は、まるで息をするように恵莉の命を奪ってみせた。
「なんなんだ、あいつは……」
「ごめんなさい、私がもうちょっと早く出て行ってたら、あの娘は死ななかったはずだわ」
「君も見てたのか?」
「はい。その……貴方達が信用できる人かどうか、見極めたかったから……」
なるほど、と得心する。ダークスーツの男が襲撃してきたように、オデットもまた接触のタイミングを図っていたのだ。だからこそ榊の名も、この場にいる人間の関係性も把握している。
ダークスーツの男は恵莉の拳銃が警察官の榊に渡る前に確保しておきたかった。
片やオデットは榊達が好戦的な人物でないか確認したかった。
これはダークスーツの男の決断が少し早かっただけで、もしオデットが先に接触してきたら今頃榊は死体になっていたかもしれない。
だから、榊にオデットを責める事は出来ない。恵莉の死の原因だ、と弾劾するなど、到底お門違いなのだ。
そう、憎むべきはオデットではなく――目前のダークスーツの男。
「貴様、誰だ? 堅気じゃあ無いな。さしずめ……殺し屋ってところか」
「武器を捨ててください。できれば闘いたくはありません。
見ての通り、私は魔法を使います。手練とはいえ、人族であるあなたに勝ち目はありませんよ」
榊とオデット、二人からの誰何を、ダークスーツの男は聞いているのかいないのか、頓着すること無くSSAを弾倉を一度開き、閉じる。
得物の調子を確かめる仕草だ。つまり、ダークスーツの男には、降伏する気も逃げる気も無い。
榊とオデット、そして佐藤――ここにいる全員、皆殺しにするつもりであるという事だ。
「くっ、銃を奪われちまったのは痛いな。なあオデットさんよ、あんたに期待してもいいのかい?」
「ジュウ……あの鉄の箱の事ですね。あれが必要ですか?」
「ああ、銃さえありゃ誰が相手だって……ん、何とかできるのか?」
「ええ――TenGam!」
美声が紡ぐのは呪文。
榊の耳には聞き慣れない発音は、現象となって世界に干渉する。
ダークスーツの男が握っていたSAAが、糸で引っ張られたかのようにぐんと宙に舞う。
SAAが榊の手の中に飛び込んできた。
「これが魔法……か。すげえな」
「いえ、気をつけてくださいサカキ。やはり只者ではありません」
感心する榊とは対照的に、オデットの顔は暗い。
もしダークスーツの男が銃から手を離さなければ、オデットの魔法は磁力を操作して男を捕縛できていたはずだ。
さきほどの氷槍のときもそうだ。おそらく初見であるだろう魔法を、見事に回避している。危険を察知する勘が尋常ではない。
そして今、銃を奪還されたというのに、やはりダークスーツに引く気配は無い。素手でも榊達を殺せるという自信の現れか。
「礼状は無えが、殺人の現行犯だ。抵抗するなら射殺する」
「…………クッ」
無駄だとわかっていたし、榊はもうこの男は射殺すると決めていたが、一応の義務として、榊は手帳を男に見せる。
男の反応は降伏ではなく――失笑だった。嘲笑でも苦笑でもない。本当に面白くてつい吹き出てしまったという、そんな笑みだ。
その笑みを見て、榊は確信した。
オデットのように明らかに人でない容姿をしていても、対話はできる。
だが外見は人間そのもののこの男には、対話交渉説得威圧相互理解、等しく無価値なものである、と。
「オデット!」
「EgdeDnIw!」
オデットが翳した手から、先ほどの吹雪以上の風が巻き起こる。
風の精霊に働きかけ、気圧を操作し鎌鼬を生み出す。
不可視の真空波――氷槍と違い目に見えず高速で飛来する刃を、人間が防ぐ手立てなど無い。
その威力は名刀の一振りにも匹敵する。手足を狙って放たれた鎌鼬は容易く四肢を切り落とすだろう。
オデットが行使できる中では、かなり強力な魔法だ。戦を嫌うオデットではあるが、ダークスーツの男が放つプレッシャーはとても手を抜けるものではない。
無力化するにも生半可な魔法では無理だ。だからこそ、力ずくで捻じ伏せるしか無かった。
しかし。
踊る。踊る。
優美な舞を見ているように。
人の目には決して見えない音速の刃は、ダークスーツの男を傷つけない。
何十と迫り来る鎌鼬を、男は首を傾けたりしゃがんだりと、極最小限の動作で全て躱している。
「嘘……!?」
「おおおぉっ!」
榊にはオデットが何をやったかわからずとも、何か予想外の自体だという事は察せられた。
故に、榊も躊躇なく発砲する。狙いはダークスーツの男の胴体。
しかし、男から血飛沫が上がる事は無かった。
榊の射撃の腕は確かだ。何度も表彰状を受けた事がある。
にも関わらず、風に舞う木の葉のような男の動きを捉えられない。
「化物か!」
そして、何としたことか――男は、銃弾と鎌鼬の嵐の中を悠々と歩いてくる。
瞬きの間に榊の眼前にまで迫ってきた男に、弾を撃ち尽くした拳銃を投げつけ、榊は自分のバッグへ手を突っ込んだ。
取り出したのは榊に与えられた支給品。恵莉を取り押さえる時にはとても使えなかった、殺傷力の有り過ぎる武器だ。
「うおおおおおおっ!」
鉄の持ち柄の先に鎖が繋げられ、またその先には重量感ある鉄球が溶接されている。
榊は知らないが、佐藤ならこの武器の名前はわかる。
モーニングスター――明けの明星を意味する、撲殺用の鈍器だ。
榊とてもちろん扱うのは初めてだが、武道の経験者だけありその打ち込みは決して遅いものではなかった――にも、関わらず。
「――ガハッ!」
高速で向かってくる鉄球の鎖を指先で絡めとり、鉄球の軌道を操作。魔法のように手からもぎ取られたモーニングスターを、榊が目で追う。
空振りして隙のできた榊の腹を、ダークスーツの男の膝が深く抉った。榊がどう、と倒れる。
そして奪ったモーニングスターを、男がもう片方の手で振る。その先にはオデットがいた。
「きゃあっ!」
間一髪、オデットは魔法で鉄球を弾く。そして――そこで詰んだ。
鉄球を弾かされたオデットには男の追撃を防ぐ手段がなく、無防備なオデットの心臓を男の蛇手が襲う。
手首に隠すようにしていたペンを一瞬で引き出し、突き刺した。
「……えっ?」
傍観していた佐藤が瞬きする間に、全ては始まり、終わった。立っているのはダークスーツの男、ただ一人。
「が……う……」
「さ、榊さん!」
榊が弱々しく呻き声を上げる。生きてはいるが、完全に無力化されていた。
オデットはピクリとも動かない。
「嘘だろ……」
佐藤が立ち尽くしている間に、ダークスーツの男は落ちていた銃とデイパックを拾い上げた。
どうかそのまま立ち去ってほしい――そんな佐藤の願いは、当然のように無視される。
モーニングスターをぶんと振り回し、男が佐藤へと向かってくる。終わった。もう無理だ。あんな化物に勝てる訳がない。
佐藤は、恐怖のあまりへたり込む。腰が抜けてしまったかもしれない。
男は無表情のまま、佐藤へと近づいてきて――
「ElCriC!」
小さい――しかし確かな声が、佐藤を救った。
オデットが、倒れながらも手を男へと向けて、魔法を発動したのだ。
「サトウ……サカキを連れて、逃げて……」
その魔法は、攻撃ではなく、防御。
術者を中心に円状に結界を張り、攻撃を遮断する高位魔法。
それをオデットは、自分と男を範囲内に含める事により、即席の檻としたのだ。
「お、オデットさん」
「早く……私がこの者を止めている間に……早く!」
当然、男は踵を返してオデットを殺しにかかる。が、
「確かに私を殺せば、この結界は解ける……でも、それではあなたも死ぬ事になりますよ」
か細いオデットの声が、男の行動を掣肘した。
「私を殺せば、私の内にある魔力は全て外に向かって爆発する……この閉ざされた結界の中なら、逃げ場はありません。それでもいいなら、おやりなさい」
今にも力尽きそうなオデットの眼光をブラフとは見なかったか、男の歩みが止まる。どうしたものかと思案するように。
やがて、男は待ちを選んだ。オデットが力尽き、自ら結界を解く瞬間は必ず来る。
そのとき、結界を解こうが解くまいが必ずオデットを殺す、そのために力を温存する。
「さあ、サトウ……!」
オデットは人間ではない。違う種族、魔族だ。
しかし父の背を見て育った彼女は、人間を虐げる事を良としなかった。
ワールドオーダーと名乗る謎の存在にこの場に拉致されても尚、彼女は人と共存を図ろうとして榊達と接触した。
このダークスーツの男もまた人間だが、榊や佐藤とは比べ物にならない悪意を秘めている。
ならば――守りたい。この力が及ぶのならば。かつての父のように。
オデットのその献身は、紛れも無く愛と呼べるものであっただろう。
ただオデットは、人間の悪意を知らなさすぎたのだ。
ちっぽけな人間が持つ、底無しの悪意を。
「……へ、へへへ……ハハハッ……クハッ、ハハハハハハハハハハ! アーヒャッヒャッヒャッヒャ!! ッハッハッハッハッハッハッハ!」
オデットは目を瞬かせた。
ダークスーツの男は煩わしそうに目を細める。
身を折り、哄笑しているのはダークスーツの男ではなく――佐藤だった。
佐藤は――あの、恐怖に震える哀れな弱者の佐藤は、もうどこにもいない。
そこにいたのは、高みから弱者を踏み躙る強者、傲慢なる暴君だった。
「ありがとよ、オデットさんよぉぉぉ! 俺の踏み台になってくれてさぁぁあああ! そこの人殺しから守ってくれてさぁぁぁあああ!」
佐藤の手には、掌に握り込めるくらいの小さな機械があった。
その先端には、赤く丸い小さな突起がある。
目を見開いたダークスーツの男が、拾い上げていたデイパックを投げ捨てる。
だがどこに逃げられるというのか――男とオデットは、3メートル四方の結界の中にいるというのに。
「都合よく榊のオッサンは気を失ってる……じゃあさ、やるしかねえだろ!
そうさ、あのガキだって俺を殺そうとしたんだ! 俺がやっちゃ駄目って理由なんて無いよなぁっ! 俺だってやってやるよぉっ!
俺は、俺はなぁ――――絶対に死んでなんてやらねえんだよぉぉぉぉおおおおおおっ!」
ダークスーツの男がここに来て初めて口を開く。しかし聞こえない。
オデットは目を瞬かせて佐藤に何事か語りかけている。しかし、聞こえない。
「死ぃぃぃぃぃぃぃぃねぇぇぇぇぇえええええええええええええええええっっ――――――――!」
佐藤が絶叫とともにスイッチを押し込んだ。
瞬間――ダークスーツの男が投げ捨て、オデットの結界にぶつかって弾き返されたデイバッグが小さな太陽へと変わる。
オデットが仲間を護るために張った結界は、その瞬間――全てを焼き尽くす灼熱の牢獄と化した。
◆ ◆ ◆
「へ……へへ……やったぜ……」
ホテルからやや離れた市街地の片隅に、佐藤は腰を下ろしていた。
隣には気絶したままの榊がいる。ホテルで台車を見つけたので運んできたのだ。
正直こんな大柄なやつは放り捨ててしまいたかったのだが、そうすると今後の佐藤を守ってくれる駒がいなくなってしまう。
だから苦労して連れてきてやったのだ。あの殺人鬼から助けてやった恩を着てもらうために。
ホテルの時もそうだったが、これだけ大きい市街地に来ても誰にも出くわさない。
やはりあのワールドオーダーの言葉は嘘ではないのだ。
「銃も弾もあるが、あの爆発に巻き込まれたから使えるかどうかわかんねえな……おっさんが起きたら見てもらうか」
佐藤はあの場所にあったバッグ全てを回収し、自分のバッグへと中身を移していた。
自分にリモコン起爆型の爆弾が支給されていたのはもう、運命としか言いようがない。
あの中学生の子供に追われていた時はパニックを起こしていてそれどころではなかったが、オデットのおかげで頭を冷やす時間は出来た。
しかもご丁寧にオデットがお膳立てしてくれていた。
だが、この経緯は榊にどうやって説明したものか。
オデットがあの殺人鬼を足止めし、その間に逃げてきた。これをメインとし、細かいところのつじつまを合わせなければ。
「ちっ、腹減ったな。まずはなんか食うか」
ここから逃げる目処もなく、人殺しが跋扈している以上、佐藤とて黙って狩られる気はない。
「フヒヒ……そっちがその気ならやってやる。誰だろうとぶっ殺してやるよ……!
呵責を感じる感性などとうに錆び付いている。
ここにいるのは一人の怪物――生きるために他者を殺す、人間でなくなった“怪物”でしか無い。
【J-8 市街地/深夜】
【佐藤道明】
状態:健康
装備:焼け焦げたSAA(2/6)、焼け焦げたモーニングスター、リモコン爆弾+起爆スイッチ
道具:基本支給品一式、SAAの予備弾薬30発、ランダムアイテム2~6
[思考・状況]
基本思考:絶対に生き残る
1:まずは榊が起きるのを待つ
2:オデットとダークスーツの男のことをどう説明するか考える
※
ヴァイザーの名前を知りません。
【榊将吾】
状態:内蔵にダメージ、気絶
装備:なし
道具:基本支給品一式
[思考・状況]
基本思考:警察官として市民を保護する。正義とは……
1:――――。
※ヴァイザーの名前を知りません。
◆ ◆ ◆
“組織”随一の殺し屋であるヴァイザーは、敵意のある攻撃には必ず反応する。そういうふうになってしまった。
この特性のお陰で暗殺・奇襲・狙撃、尋常な方法でヴァイザーを殺すことはできない。
だが。敵対者には無類の強さを発揮する彼だが、逆に言えば、害する意思のない行動までは反応できない。
オデットがヴァイザーを攻撃するのではなく、留めるために結界を張ったのが功を奏したのだ。
そしていかにヴァイザーといえども、彼は決して異能力者ではない。
閉ざされた空間で吹き荒れる熱波の嵐を防ぐ手段など無く。
全身を骨まで焼きつくす熱波に耐えるだけの生命力もない。
ヴァイザーはこの時死んだ。
加えて佐藤は爆発が収まった後、念入りにヴァイザーにとどめを刺した。モーニングスターで頭を粉々に砕いて。
それに満足して佐藤は去った。
だから気付かなかった。
ヴァイザーの傍らにいたオデットは、まだ息があったことに。
人間なら死ぬほどのダメージでも、超越種族である魔族にはそうではない。
ヴァイザーに心臓を穿たれ、爆風で焼き尽くされても尚、オデットは生きていたのだ。
佐藤もさすがにオデットにまでモーニングスターを振り下ろすことは出来なかった。
無残な姿になったオデットを一見し、これは死んでいると判断して立ち去ったのだ。
しかし、それも無理は無い。死んでいないというだけで、いくら魔族でもほぼ瀕死の重傷だ。
放っておけばオデットは間違いなく死ぬだろう。命を賭けて守った人間の手で――
「――――ァァ――――」
だからこそ。
オデットの魔族としての本能が、目覚めた。
かつて父の咎を背負うべく魔王によってかけられた人食いの呪い――オデットが理性で押さえ込んでいたその本能を停めるものはもう無い。
「――――アア――――ガアアアアッ――――――――!」
故に。人喰いの“怪物”は躊躇なく、喰らう。
傍らにあった新鮮な“エサ”――長身痩躯の男と、年若い少女の遺体へと、牙を突き立てる。
彼らの全てを、取り込む。
ヴァイザーという規格外の“殺人鬼”と。
詩仁恵莉という規格外の“死憶”を持つ少女を喰らい。
オデットの傷が癒えた時、果たして“ソレ”が“オデット”であるのかどうか――誰にも、分からない。、
【ヴァイザー 死亡】
【詩仁恵莉 死亡】
【J-9 ホテル/深夜】
【オデット】
状態:全身に重度の熱傷(回復中)、人喰いの呪い発動
装備:なし
道具:なし
[思考・状況]
基本思考:――――。
1:――――。
※ヴァイザーの名前を知りません。
※ヴァイザー、詩仁恵莉を捕食しました。
最終更新:2015年07月12日 02:19