結局のところ、私は死にたくなどなかったのです。
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
「はっ…………はっ…………はっ…………!!」
静まり返った不気味な影絵の街に、息を切らせてた男の呼吸音が響いていた。
一人の男が形振り構わない様子で無人の街を走っている。
生命の息吹というモノが感じられない死んだ街中で、聞こえるのは自分自身の足音と激しく脈打つ心臓の鼓動だけだ。
街と言う物のが人の暮らしを成り立たせるものであるとするならば、ここにあるのは街ではなく、ただ目的を見失った残骸なのだろう。
ガシャンという大きな音が乾いた街に木霊した。
曲がり角を曲がったところで、ゴミ箱を気付かず蹴飛ばしてしまったのだ。
ゴミ箱の中身は空だったためゴミが散らばることはなったが、足を取られてつんのめった。
すぐさま地面に手を付き、バランスを戻すと息をつく間もなくすぐさま駆け出す。
何故こんなにも必死になって走っているのか。
それは逃げるためである。
何から?
追ってくる死からだ。
それを齎す怪物からだ。
音もなく、気配もなく、死した街に怪物が来る。
それに追いつかれないためには逃げ続けるしかない。
だが、この閉鎖された世界で一体どこに逃げると言うのか。
分からない。
ただ足を止めればその瞬間に追いつかれるという確信がある。
もはや足音を隠し気配を断つことに意味はない。
今必要なのは一刻も早く、一ミリでも遠くへ行くこと。
ただそれだけである。
どれ程の間全力疾走を続けただろうか。
一瞬のようでもあり永遠のようでもある。
疲れはどうしようもなく降り積もり、べったりとした汗でシャツが張り付き気持ちが悪い、脚に乳酸がたまり全身が鉛の様に重かった。
全力疾走のみならずこれまでの疲労もあるのだろう。
恐怖と疲労で頭はぼやけており、時間の概念が消失しているようだ。
空気の冴えた夜の街なのに、まるで霧の中を進んでいるよう。
逃げているはずなのに進めば進む程に追い詰められているような不安が胸中に靄のように広がってゆく。
その不安を解消するために意味はないと理解しながらも、振り返らずにはいられなかった。
走りながら、覚悟を決める様にゴクリと唾を飲み込み、恐る恐る振り返る。
想像通りと言うべきか。
そこには何もなかった、ただ無人の闇が広がっているだけだった。
それを確認したところで晴れる物など無く、むしろ黒い靄は濃くなるばかりである。
本当に何もない。
人影もなければ、自分以外の足音一つもない。
ああなんて恐ろしい。
何もないのが恐ろしい。
あの暗闇が恐ろしい。
一つ曲がった角が恐ろしい。
一歩先が分からぬというのは恐ろしい。
怪物が来る。
いつ来るのか。
どこから来るのか。
何だったら事前に知らせてほしい。
知らないというのはただそれだけで恐ろしい。
何処の何に追い詰められているのかすらわからない。
本当に自分が襲われているのかすら分からなくなる。
だが、これが強迫観念にかられた妄想だったとしてもいい。
死ぬよりは、ずっとましなのだから。
生き残るためなら全力を尽くす。
足を止めるのはその後だ。
振り返った後方には闇だった、行く先に広がるのもまた闇である。
今は闇に向かって駆けだすしかない。
追っ手を撒くような動きを思いつく限りやった。
道すがらに偽の痕跡を残し誘導した逆方向へと進む。
幾つかの角を曲がり、あえて不合理な道筋を辿ってみたりした。
大通りから細い路地を通り、往来から死角となった裏路地に入る。
そこでやり過ごすべく、ビルの裏口近くに積み重なった廃材の陰に身を潜めて、ようやく息をつく。
「こんばんは」
「ひィ!」
驚きのあまり、弾かれたように廃材を倒しながらすっころぶ。
最初からそこにいたかのような自然さでその男は目の前に立っていた。
世界に満ちる夜よりも昏い、美しさすら感じさせる完成した漆黒。
それは、この世の物とは思えぬ気配を纏った正しく死神だった。
「きゃひ~~~~~~ィ!」
冥府へと誘うこの世ならざるものを前に、情けない悲鳴を上げ四足のまま獣の様にドタバタと這い回りながら逃走する。
足を縺れさせながら立ち上がり、壁にぶつかりながらも走る。
裏路地から抜けて表通りに差し掛かろうかというところで当たり前の様に先回りしていた黒い影がその出口に立ち塞がった。
逃亡劇はそこで終わり。
狩猟者と獲物の関係など覆りようがない。
追い詰められて死ぬだけだ。
月明かりに照らされた表通りには届かず、光の届かぬ闇の中から永遠に出られないと告げる様に。
「そう怖がらないでくださいよ、ピーターさん」
逃げるなどと言う行為は最初から無意味だった。
危機をいち早く察したピーターの逃亡行為はまるで実らず、あれからすぐに発見された。
アサシンの索敵を逃れる術などピーターには最初からなかったのだ。
暗殺者として、いや、人間としての能力値が違いすぎる。
「どうしてですか、アサシンさん!? さっきまで私たちあんなに仲良くしていたじゃないですか!?」
もう逃げられないと悟ったのか逃亡を止め、嘆く様に喚きをまき散らす。
ピーターは媚びる様に諂う。
なんてわかりやすい命乞い。
アサシンは眉一つ動かすことなく、冷たい目でそれを見下ろす。
「仲良くやっていたかはさておき、殺し屋が相手を殺す理由なんて一つでしょう? 依頼を受けたから、それ以外にないですよ。
貴方だってそれを察したから、いち早く裏切って逃げ出したんじゃないですか?」
アサシンは
ワールドオーダーから20人斬れという依頼を受けていたが、新たに5人殺せという依頼を受けた。
その依頼を受けている間に、電話内容を察して立ち去ったのは他でもないピーターだ。
互いを利用し合うだけの関係だったが、確かに彼らは契約を果たしていた。
その察しは正しく、直後にアサシンが裏切るつもりだったとしても、結果として先に裏切ったのはピーターの方だったとも言える。
「とんでもない! この私が貴方を裏切るはずがありましょうか。
いなくなっていたのは、少々催しましたのでトイレを探しに行っていただけですよ」
「それは失礼。在らぬ疑いをかけてしまったようで。まあそれはそれとして依頼なので殺しますけどね」
アサシンが足音もなく踏み出す。
それを否定するようにピーターが慌てて手を振った。
「Oh no!! 待って待って! 待ってください! 私を殺せと依頼されたわけではないのでしょう!? でしたら見逃してくれても良いのでは!?」
「そうですね。殺す相手はピーターさんである必要はありません。
けれどピーターさんでない理由もありません。とりあえず手ごろだから殺しておきますね」
余りにも慈悲のない処刑宣告。
絶望に震えるピーターが頭を抱えて仰け反りながら叫びを上げた。
「手ごろだからってそんな理由で殺されるなんてあァァァんまりだァァアァ!!
嫌だ! 死にたくなぁい! 助けて! 助けてぇ!」
命ない街に大きな泣き声が反響する。
涙と鼻水を垂れ流しながら命乞いをする様は酷く醜い。
大の大人がここまで泣き喚く姿を目の当たりにしてしまうと、さすがに少し引いてしまう。
こんなのを見てしまえば憐憫の心が湧いて同情心や温情を与えたくなるかもしれない。
あるいは、殺す価値もないとあきれ果てて侮蔑だけを残して立ち去る事もあるだろう。
だが、アサシンに限ってはそうはならない。
何故なら仕事だからである。
嫌だからとか、やる気がなくなったからなんて理由で取りやめるはずもない。
そもそもこの程度の命乞いなどもはや見慣れた光景だ。
ここで手を止めるなどありえない。
「貴方――――それでも殺し屋ですか?」
だが、今回の相手は殺されるだけの羊ではない。
アサシンと同じく、殺す側だった狼である。
それがこんな醜態をさらしている。
殺し屋や軍人と言ったプロを殺すのは初めての事ではない。
そう言った輩は皆、例外なく殺す覚悟と共に殺される覚悟を持っていた。
土壇場に来てこのような醜態を晒しはしない。
アサシンにも殺し屋としての矜持はある。
その矜持をかなぐり捨てる目の前の男の態度にはささくれのような小さな苛立ちを感じていた。
「違います! 私はもう殺し屋は辞めたんです、辞めました! ついさっき! 今! はい辞めた!
ですからもう殺し屋じゃあありませぇえええん!! 私はちょっと食の好みが偏ったただの一般人ですよぉぅう!!」
「だとしても、殺し屋だったことに変わりはないでしょう? まさか仕事したことがないという訳でもあるまいし」
「殺し屋と言っても誘われたからなっただけなんですって! 仕方なくですって! 貴方だってそうでしょう!?」
殺し屋組織で生まれ育った
アザレアやイヴァン。拾われた
バラッド。
それに限らずサイパスだって、あの怪物
ヴァイザーだって、殺し屋なんてものはみんなそうだ。
他に選べる道など無く、ならざる負えない状況があって、殺し屋なんて物に成り果てた。
自ら望んでなった人間などいるはずもない。
「いいえ違います。僕は自分から選んでなったんです、殺し屋に」
だが、彼の場合は違った。
選択できる多くの道から殺し屋と言う道を選んだ。
切っ掛けらしきものはあったのは確かだけれど、最終的に選んだのはアサシン本人だ。
「……何故、貴方ほどの人が殺し屋なんかに?」
当然の疑問だ。
アサシンほどの才覚があればどんな職種に就こうと大成できるだろう。
それほどの天才がこの男にはある。
選べたというのならば何故、こんな最底辺の溝浚いのような仕事を選んだというのか。
問われたアサシンは迷うことなく端的に答える。
理由なんてものは決まっていた。
「殺しには――――全てがあるからです」
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とある孤児院にその少年はいた。
少年は孤児院にやってきた当時、骨と皮だけになったように痩せ細っており、栄養失調によるためか髪は白くまるでミイラのような有様だった。
ただ黒曜石のような瞳だけが昏く光を放っていた少年だった。
どういう経緯でここにやってきたのか。両親は誰なのか。それは、今となっても分かっていない。
恐らく彼が全力で調べれば容易くわかる事なのだろうが、彼はそうしなかった。
必要性を感じなかったし、単純に興味がなかったのだ。
笑わない子供だった。
語らない子供だった。
誰にも懐かず、誰とも仲良くせず、いつも独りきり。
いつも孤児院の書庫に籠りきりで一人で書物を読み漁るのが日課の少年だった。
少年の心には常に満ち足りない虚無があった。
生まれ落ちた時からあるブラックホールのような底の見えない暗闇。
何もせずにいたら深淵に飲み込まれてしまうような恐怖があった。
それを埋めるべく、多くの知識を得た。
勉学はいい。
何かが埋まっていくような充実感に満たされる。
だが、手を止めるとすぐに沈んだ。
欲求は飢餓のようである。
己が虚無に呑みこまれないためには、磨き続けるしかない。
だが5歳にも満たない少年が、書庫にこもり寝食を忘れ誰に教えられたでもない多様な文字を読み耽る様は異様であった。
その様子を心配した同じ孤児院の仲間たちは、彼を健全に表に連れ出そうとあの手この手で少年の気を引くが少年は見向きもしない。
子供たちもそのうち飽きて、誰も彼の相手をしなくなった。
孤児院で働く職員もあまりにも他者を否定するような少年の態度を窘めるが、どんな言葉も響いた様子のない不気味な少年の態度に匙を投げた。
見放され孤立するが、そもそも少年に他者など必要なかった。
最初から彼は完成されていて、最初から彼は孤高の存在だった。
少年は誰にも愛されていなかったけれど、きっと神様にだけは愛されていた。
彼は天才だった。
陳腐な言葉だが、そうとしか形容できない存在だった。
少年は一度飲み込んだ知識を忘れず、全てを己の糧とする特異な才能を持っていた。
全ては少年の中に蓄積され、もはや職員ですら敵わないほどの多くの知恵を得た。
そうして孤児院に預けられてから僅か3年ほどで彼は孤児院の蔵書全て読み切ることとなる。
その勤勉さと優秀さが目に留まったのか、彼を引き取りたいという夫婦が現れた。
彼の里親となったのは、子宝に恵まれない年老いた夫婦だった。
裕福な家庭で、温厚な養父母は引き取った子供を甚くかわいがったと言う。
少年の能力に見合う一流の教育を受けさせ、多くの英才教育を課した。
それは強制された物ではなく、少年が貪欲に望んだものである。
自らを指導する教育者をすぐさま越え、満たされない腹を満たすように次へ次へ。
より多くを学び彼は完成していく。
大抵の事は一度学べば覚えたし、決して忘れることはない。
充実を示すように白かった髪もすっかり艶のある黒に染まった。
満たされていく。
それは勉学のみならず運動、武道、芸術、発明、思想。
あらゆる分野において彼に出来ないことなどなかった。
年齢にかかわらず彼に敵う人間などいなかった。
よく笑う子供だった。
よく語る子供だった。
人懐っこく、誰とでも仲良くなり、いつも人々の中心にいた。
学校にも通い、多くの友を得た。
本当に人が変わったようだった。
引き取られた子供は孤児院にいた子供とは別人のようである。
孤児院での彼を知る物が今の彼を見たとしても同一人物だと認識することはできないだろう。
それは素晴らしき愛の話。
養父母の愛が氷のような少年の闇を溶かしたのだ。
などという話ではもちろんない。
彼は多くを学び、多くの知識を得た。
その上で、生きていく中で処世が必要であると理解した。
彼は己の中の虚無を埋めたかった。
その為にどうするべきか。
それを理解して、理想的に生きてゆくために必要な自分を作り上げた。
愛では腹は膨れない。
胸の虚無も満ちることなどない。
ただその愛情を利用し、環境を用意させ、より高みへ。
その為に必要な行為なら何でもした。
彼はつま先から表情筋の一つまで、己の肉体を完全に制御できた。
彼にとって表情など表情筋の動作でしかない。
その気になれば筋肉の制御だけで別人の顔にすらなれるだろう。
コミュニケーションとは書物から学んだ心理学や会話術で、会話の文脈に合わせて表情筋を動かすだけの作業である。
心の奥は昏き深淵のまま。
まるで応答するだけの哲学的ゾンビのようだと、冷めた頭でそう自覚していた。
取り繕うだけの演技などいつかボロが出るだろう。
ましてや義理とはいえ寝食を共にする家族である違和感を感じて当然と言える。
だが、それらの違和感は全て天然として処理された。
天才故の世間とのずれだと、勝手に好意的に解釈された。
有能であるという事は、ただそれだけで肯定される。
そう言う意味では、彼は誰よりも有能で、誰よりも正しい。
飛び級で国内最高峰の学園に入学し、学生の時分で当然の様にすべての分野で成功を収めた。
成功の約束された人生だった。
きっと彼は歴史に名を残す人間になれただろう。
だけどそうはならなかった。
契機は彼が初めて人を殺した事に合った。
彼の名誉のために述べるならば、ほとんど事故のような物で意図した殺人などではなかった。
全く見覚えのない男だった
酒臭い息を吐きながら理解できない罵詈雑言を吐いて男は彼に絡んできた。
どうにかわかったのは男は彼の何かの功績を嫉んでいるという事だけだった。
そんな人間は珍しくもない。
彼が何かで成功を収めればそれによってはじき出された敗者が生まれる。
それは当然の摂理である。
しつこい男に辟易して彼は足早で立ち去ろうとするが、男はなおも絡んできて裏路地に差し掛かったところで肩を掴まれた。
軽く跳ね除けただけのつもりだった。
だが、彼と他者ではそもそもの能力値が違い過ぎた。
倒れこんだ拍子に頭部を強く打ち付け、呆気なく男は動かなくなった。
冷静に生命活動を確認し、即死だと分かった。
医学の心得もある彼ならば生きていれば応急処置もできただろうがそれもできない。
無表情のままその死体を見下ろす。
胸の奥がチリチリとざわめく。
それが人生で初めて感じる恐れと焦りだと知る。
絡んできた男が悪いし、殺意など無かった。
罪悪感らしきものは感じなかったが、ただそれを世界は許さない事だけは理解していた。
例え罪に問われなくとも人殺しの汚名はついて回る。
成功を約束された人生が道端の小石に躓いてしまった。
どうしたモノかと空を見上げて、そこで気づく。
目を見開き周囲を見る。
監視カメラらしきものは見当たらず、人気のない薄暗がりに目撃者はない。
その瞬間、悪魔的発想が脳裏をよぎる。
運動能力、演技力、地学、天体学、ハッキング、解剖学、薬学、運転技術、外的信用。
自分の能力を駆使すれば、この殺人を完全になかったことにできるのではないか、と。
それは思春期特有の万能感のようでもあるが、彼は事実として万能だった。
誰に発覚することなく死体を処理して、情報を操作した。
遂には被害者の家族にすら不審がらせることなく、事件の隠蔽に成功した。
そのまま犯行は発覚する気配すらなく、何事もなかったように日々を過ごした。
事件は完全に闇の中へ。
彼はそのまま光の道を歩むことが許されていた。
だが忘れることができなかった。
殺人に快楽を感じたわけではない。
ただあの瞬間、虚無を埋める熱があった。
これまで己が学んできた全てを投じなければ解決できない事態に直面したのは初めての事だ。
そしてふと思った。
突発的な犯行ですらここまで完璧な隠蔽ができたのだ。
その能力を駆使して計画的犯行を行えば、いったいどうなってしまうのだろうか?
真の己が出せる舞台がそこにあるのではないか?
その結論が、彼に殺し屋としての道を選ばせた。
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「…………全て?」
「そう、全て」
己の全ての能力を発揮できる、こんな仕事は他にない。
だから彼は殺し屋という道を選んだ。
そういう意味では全て成功してしまったこれまでの仕事は失格だった。
己の底を知るには足りない。
成功率100%とはそういう事だ。
アサシンが求めるのは己の天才全てを尽くして尽くしきれないほどの地獄。
今回の仕事は悪くない。
依頼内容が変わってしまったのは残念だけれど、新たな依頼も面白かろう。
この地獄でどれほど満たされるのか。
「という訳で、仕事をさせてもらいます。貴方が一人目です」
これ以上、愚にもつかない命乞いを聞く必要はないだろう。
アサシンは腕を振り上げる。
武器はなくとも鍛え上げられたこの五体、全身が凶器である。
手刀を振り下ろせば大太刀の様に敵を切り裂くだろう。
「……嫌だ、待って……! 待ってくださいぃ…………ッ! 待って!」
ピーターは生まれたての小鹿の様に足をガクガクと震わせる。
精も根も尽き果て腰が抜けてしまったのか逃げる事すらできずその場に立ち尽くす事しかできない。
いやいやと首を振り半狂乱になって叫ぶ。
「嫌ぁだぁああああーーーーーーー!!!!!」
断末魔のような絶叫。
同時に強い衝撃が奔った。
「ッ!?」
ピーターに対してではない。
巨大な腕に横合いから殴り飛ばされ吹き飛ばされたのはアサシンだった。
それは人一人を容易く吹き飛ばす圧縮された空気の塊だった。
アサシンは不意討ちにも対処し、その衝撃を両腕で受け止めていた。
宙に飛ばされながら元いた地点を見る。
既にそこにピーターの姿はなかった。
恐怖で動けないはずの男は、捨て台詞の一つも残さず完全に消えていた。
地面を回転しながら受け身を取り、何事もなかった様な自然さで立ち上がる。
吹き飛ばされた距離は十メートルほど、
派手に転がったように見えるがダメージは分散され無傷に近い。
「…………嵌められたかな」
そうぼやき、ピーターの消えた路地に視線を向けたまま首を狩らんとする迫る風の刃を躱す。
ピーターがあれほど大騒ぎしていたのは近くにいる誰かを呼び寄せるためだったという事だろう。
ピーターの仲間という訳ではないのだろうが、示し合わせたようなタイミングは偶然ではない。
少なくとも近くに何者かがいることを確信しての動きだ。
アサシンは知らなかった。
その情報格差がどこで生じたのか。
恐らくは先ほどの
主催者との電話だ。
想えば、ピーターを発見した時の状況も妙だった。
身を隠し方も、隠蔽工作も余りにもザル。
アサシンの組織に対する知識はイヴァンから得たモノである。
目の上のタンコブである幹部連中やヴァイザー、反りの合わないバラッドの情報はよく聞いていたが、ピーターについては殆ど聞いたことがない。
イヴァンからはピーターは殺し屋としては三流とだけ聞いていたためそんなものかと思ったが、
物陰から暗殺されるという最悪の事態を避けるためあえて発見させた可能性が高い。
余裕があれば相手に応じるアサシンの悪癖まで織り込んだ策だろう。
殺し屋としては無能という評価だったが、どうやらそれは誤りのようである。
あの男は蛇だったようだ。
周到で慎重、かつ大胆な蛇。
「…………面白い」
無表情のまま呟く。
風の刃を二つ三つと躱したところで、ようやくアサシンは襲撃者へと視線を向けた。
「それで、一人目は貴女ですか」
向き直った先。
そこには女の姿をした怪物が立っていた。
怪物の名は
オデット。
殺人鬼を喰らい、神を喰らった、魔族の女。
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「…………うまく行ったようですね」
裏路地を抜け、遠く響く衝突音を感じながら、したりとごちる。
怪物は怪物同士、存分に潰しあえばいい。
ピーターは今度こそ誰にも見つからぬよう慎重に市街地を駆け抜ける。
まったく動けないと言うのは流石に演技だが、疲労がないわけではない。
体力にあまり自信がある訳でもないピーターとしては、叫びながらの全力疾走はなかなか堪えた。
それに恐怖だって大袈裟に喚いたのは確かだが、実際に感じていたものである。
だが、あれほど恥ずかしげもなく喚き散らした事は特に恥だとは思わない。
下らない外聞を気にして目的を見失う、それこそが恥だ。
何だったら必要であれば失禁、脱糞くらいはしてやるつもりだったくらいである。
最弱の殺し屋が最強の殺し屋に狙われ生き延びるにはあれしかなかった。
だからと言ってピーターもあれで逃げ切れると確信していたわけではない。
実際、分の悪い賭けだった。
だが何も手を打たなければ死ぬだけだった、だから賭けに出た。
そして勝った。生き延びた。
怪物たちがぶつかる戦場から遠く離れたところで、足を緩め僅かに振り返る。
雌雄を決する怪物の名はアサシンとヴァイザー。
裏の頂点決戦だ。
その筋の物からすれば涎垂もののカードだろう。
ピーターですら僅かながらに興味をそそられる。
「まあ立ち去る訳ですが」
未練なく前を向く。
野次馬根性に命を懸けようとまでは思えない。
その辺がピーターがピーターたる所以だろう。
アサシンとオデットという脅威は抜けた。
他の脅威がないとは言い切れないが一先ず山は越えられただろう。
バラッドはどこにいるだろう。
怪物をも騙しきる蛇は、自らの欲望に従い夜の街に消えていった。
【I-8 市街地/夜中】
【ピーター・セヴェール】
[状態]:疲労(大)、頬に切り傷、全身に殴られた痕、マーダー病感染(発病まで0時間)
[装備]:MK16
[道具]:基本支給品一式、MK16の予備弾薬複数、焼け焦げたモーニングスター、SAAの予備弾薬30発、皮製造機の残骸とマニュアル本、『組織』構成員リスト、エンジンボート
[思考・行動]
基本方針:女性を食べたい(食欲的な意味で)。手段は未定だが、とにかく生き残る。
1:バラッドを探す?
2:脱出を目指す参加者を探して潜り込む
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あれ程嫌悪した父さんを殺した彼らと同じ血が流れているという事実。
私はそれを否定したくてたまらなかったのです。
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至高の殺し屋vs究極の殺し屋。
その頂上決戦の観客は天上から見下ろす月だけだった。
あるいはこの世界の支配者も見ているのかも知れない。
音すら立てず影が動く。
残像すら置き去りにする速さで夜の街を漆黒が駆ける。
魔の血を引き神を喰らいし怪物に挑むはアサシンと呼ばれる人類の極致だ。
迎え撃つは、神の奇跡によって生み出された幾重もの不可視の刃。
その軌道は念動力により歪み、軌道を読むことすら許ない。
だが、アサシンはそれら全てを最低限の動きで避けきった。
街灯の灯っていない暗闇の中、どれ程の夜目が効いているのか。
その漆黒の瞳には空気の流れや僅かな空間の歪みすら映し出されている。
アサシンの眼は宙に舞う塵一つ見逃しはしない。
不可視の風の刃などアサシンにとってはただの斬撃と変わりない。
オデットが鳴らした指に合わせて爆発が起きる。
アサシンはバックステップを繰り返すことでこれを回避。
続いて四方八方から飛んでくる氷塊を潜り抜けるようにして躱してゆく。
爆破の瞬間も無数の氷塊も、アサシンには全て視えている。
ステップを踏むアサシンが踊るようにして前に出た。
その動きを許すまいと、オデットが強く地面を踏みつける。
すると、その足踏みに合わせてアスファルトの大地が隆起を始めた。
これにはたまらず隆起する地面を避けるべくアサシンは大きく飛び退く。
神の動きに合わせ発生する奇跡と言う名の多種多様の現象。
まるで自然と言う世界その物が襲い掛かってくるような錯覚すら覚える。
アサシンを持てしても近づくことすら困難だ。
だが、今度は距離を詰めたのはオデットの方だった。
確実な遠距離の優位を捨てて、圧倒するために近接戦を選ぶ攻撃性。
貫くような蹴りは全て貫く氷の槍を纏い。
振り下ろした手刀に合わせて空間を引き裂くような雷が奔る。
振り回した腕からは酸が放たれ、音を立てて地面を溶かした。
拳と共に放たれた炎が念動力によって渦を巻いた、それはさながら闇を裂き飛ぶ火の鳥だった。
何が飛び出すか分からない、びっくり箱の地雷原だ。
法則の読めない奇跡の優位性は近接戦においても変わらない。
何が起こるのか人の身で予測することなど不可能である。
人の身で神に挑んだ無謀のツケを払わされるように一方的な攻撃に晒され続ける。
アサシンは奇跡の発生の瞬間を見逃さぬよう目を見開く。
ここまで一歩的な攻撃にさらされながら一撃も貰うことなく躱し続けられているのは、現象が発生してから反応できる反射神経を持ったアサシンだからこそだ。
そして一方的にやられているだけのアサシンではない。
敵が近接してくれるのなら願ってもない、こちらも反撃に転じるまでである。
幾度目かの風の刃を身を捻って躱しながら前へと踏み出した。
揺さぶる様に左右に切り返し、生み出された氷を踏みつけ足場として跳ぶ。
炎の渦を潜り抜け、手を伸ばせば届く殺戮領域にまでにじり寄った。
この距離までアサシンの接近を許して生きていた標的はいない。
心臓を抉り出すべくアサシンがナイフの様に腕を振りかぶる。
瞬間。アサシンの目の前からオデットの姿が消えた。
空を切る右腕、同時に背後に気配。
振り返りながら大きく身を仰け反って、すぐ上を通過する氷の槍を回避した。
仰け反った体勢からバク転へと移行してそのまま後方へと下がる。
距離を取ったところで、つっと頭部から熱い何かが垂れてきた。
躱しきれなかった氷の槍が頭部を霞めていたようだ。
指で拭ってぺろりと舐める。
「ああ……そういうのもあるのか」
納得したように敵の情報を更新して行く。
カウンターを取られた。
後ろに回り込んだ動きは単純な高速移動ではない。
どれだけ早かろうともアサシンの眼が見逃すはずがないのだから。
例え音速を超えようとも、この両目が残像すらとらえられないなどあり得ない。
そうなると点から点への瞬間移動と考えるべきだろう。
それに動き出したタイミング。
アサシンはあの攻撃の瞬間、直前に5度ほどフェイクを入れていたが揺さぶられた様子はなかった。
適切に本物の身を見極め、適切なタイミングで身を躱し動いた。
(読まれているな)
自身の攻撃が何らかの方法で先読みされている確信を得る。
では読まれているのは何か。
予備動作か、視線か、思考か、それとも別の何か。
予知のような攻撃察知に瞬間移動。
これほどカウンターに適した能力の組み合わせはないだろう。
にも拘らず自ら攻め込む、獣のような攻撃性を有している。
攻撃的カウンターという矛盾した在り方。
それはまるで、複数の行動原理が入り混じっているようだ。
まあ、そう言う事もあるのだろう。
なぜそうなったのかは知らないが。
そう在る以上、そういう前提で動けばいいだけの話だ。
異なる二つの行動原理に共通しているのは絶対的自信だ。
絶対に自分が勝利するという絶対的自信。
それに漬け込む。
アサシンは奇を衒わす真正面からの打ち合いを挑んだ。
オデットは当然のようにこれに応じる。
的確に急所を抉るアサシンの猛攻は全て読まれた。
あらゆるフェイント、視線誘導などには騙されず様子すらなく。
瞬間移動などするまでもないとばかりに一撃も掠る事すらなく見事に躱しきる。
対するオデットの攻撃は苛烈を極めた。
的確に見極められる目が合っても、出てから躱すというのには限度がある。
後手にならざるおえないと言うのは致命的だ。
それでも何とか変幻自在の軌道を辿る石棘を避け、アサシンは自身の放てる最速の突きを放つ。
アサシンにとって最速という事は全人類で最速の攻撃だという事である。
だが、躱された。
アサシンのように初動から動きを読んでるのではない、動き出しが違う。
反応が早すぎる。
今度は思考を分割する。
四つに分け、それぞれで別方向に仕掛ける事を考えながら仕掛けた。
混乱した様子はない。
あっさりと背後へと転移し、踵落としを見舞ってきた。
アサシンの背骨に土塊がめり込む。
流石のアサシンと言えど背後から攻撃後の隙を狙われてはどうしようもない。
逆らわず衝撃を逃がすように回転して跳ぶ。
そのまま着地してひとまず距離を取る。
単純な速さで躱している訳はない。
動作を読まれている訳でもない。
思考を読まれいる訳でもない。
「なるほど、殺気か」
反応した攻撃の種類。
反応したタイミング。
これならば合点がいく。
これはイヴァンに聞いたヴァイザーの特性に近い。
「まさか貴女、ヴァイザーさん、という訳でもないんですよね?」
アサシンとてイヴァンの口頭で聞き及んだだけでヴァイザーの顔までは知らないが。
少なくとも彼の殺戮者が女性だなんて話は聞いたことがない。
何より彼は最初の放送で呼ばれたはずである。
「……違う」
アサシンからすれば軽口のつもりだったが、この問いかけにオデットは動きを止めた。
がりがりと頭を掻き髪を振り乱して否定する。
「違う、違う違う違う違う違う違う!!」
「そうですか。一回言えば分かりますよ」
冷めきった声で切り捨てるアサシン。
オデットは引っかくようして五指を振り切った。
その動きに合せて電撃が奔る。
流石に雷速ともなれば見てから避けるでは間に合わない。
だが電撃はアサシンが避雷針として放り投げたS&WMへと逸れた。
その動きに迷いはない。
予測不可能の神の奇跡から次に何が来るかを読み切ったような動きだった。
「ビンゴですね。だいたい解かりました」
淡々とした声でアサシンが呟く。
そして次の瞬間、跳ねる様に動いた。
その動きを追うようにして地面が鋭く隆起する。
アスファルトの地面が一瞬で串刺しの棘山へと変貌した。
アサシンは大きく回り込むようにしてそれを避けると、オデットに向かってではなく真横へと駆け抜けた。
向かう先にあるのは立ち並ぶ巨大なビル。
そのまま勢いを緩めることなく重力など無い様にビルの壁を駆け抜ける。
それを撃ち落とさんと空気の弾丸が放たれるが。
くり抜かれたように抉られるのはアサシンの過ぎ去ったビル壁であり、風のように駆けるアサシンに追いつけない。
オデットの真上近くまで来たところで所でアサシンは足を止める。
ビルの側面で停止できるはずもなく、そのまま重力に従いそのまま頭から落下していく。
それを撃ち落とすべく、振りぬいたオデットの腕から炎が撒かれ暗い夜の街を鮮やかな赤へと染めた。
自由落下の最中では軌道は変えられず回避は出来ない。
アサシンは懐から爆発札を取り出した。
爆風で自ら吹き飛んでこれを回避。
加速するとともに、落下しながら縦に回転。
女の美しい顔を叩き潰すべく、顔面にオーバーヘッドキックを叩きこむ。
鋭く呻る剛脚。
だが、標的であるオデットの姿が消える。
殺気感知からの瞬間移動。
跳躍しての蹴りなど、外してしまえば隙だらけだ。
オデットは背後に回り込んでその背を串刺しにする算段を立てる。
だが、瞬間移動で転移した先で、オデットの視界は靴底で埋まっていた。
強かに鼻柱を蹴り飛ばされ、鼻骨が折れる。
「よし、当たった」
軽い調子でそう発して地面を滑りながら着地する。
後ろ足で放たれた二つ目の蹴り。
瞬間移動の移動先を読み切っていなければできない偉業である。
――――神の奇跡。
神の動作は現象として奇跡を産み出す。
裏を返せばそれはつまり、奇跡は動作の延長線上でしかないと言う事である。
動作と現象の法則性。
多種多様の奇跡は法則などないように見えるがそうでもない。
恐らくオデット自身理解してない法則性をアサシンは解き明かしたのだ。
それは瞬間移動も同じだ。
移動過程を省略して移動結果へとたどり着く奇跡は確かに驚異的なことではあるが。
移動と言う動作の延長線である以上、動き出しの微かな動きを見極めれば移動結果を導き出せる。
カウンターを狙って手の届く範囲に転移したのが仇となった。
反撃可能な範囲ならそれを先読みして攻撃を合わせるだけでいい。
「ッ、のぉ…………!!」
鼻血を垂れ流すオデットが倒れることなく踏みとどまった。
怒りを込めた瞳で睨み付け、大きく振りかぶった両腕を力いっぱい振り下ろす。
地面が爆ぜる程の衝撃波が一直線に奔る。
巻き込まれれば人など容易くバラバラに砕け散るだろう。
だが、もう無意味だ。
何が起きるか分かっている以上、アサシンにはどう間違っても当たらない。
逆にカウンターを取るのはアサシンの方だ。
間合いを詰めながら衝撃波を躱して、眼球に向けて二本の指を突き出した。
殺気は読めている。
オデットはこれを瞬間移動で回避。
だが、それはカウンターを狙った紙一重の転移ではなく、ただ回避をするためだけの大く距離を取る転移だった。
「どうしたんです? カウンター、しないんですか?」
アサシンの挑発にオデットが奥歯を噛み鳴らす。
身を震わせ屈辱を噛み締めるオデットだったが、その動きが止まった。
「はっ」
吐き捨てる様に笑った。
そうして月に向かって両手を挙げる。
気づいたのだ。
攻撃が読めたところで何だというのか。
「だったら」
一帯ごと潰せばいいだけの話だ。
振り下ろす。
巨人の足のような重力場が一帯へと伸し掛かった。
建造物を砕き、街灯をへし折る。
大規模な破壊に粉塵が舞う。
人など容易く押しつぶす圧力だろう。
粉塵が晴れてゆく。
当然ながら立っている人影はオデットだけである。
逃げ場のない攻撃に人でしかないアサシンが耐えられたはずもない。
だが、唐突にクワンという音が鳴り響いた。
思わず音を追ってオデットが空を見上げた。
空には満月が二つ。
いや。一つは鈍く銅に輝く満月のような丸い何かだ。
マンホールである。
それに気づいた瞬間。
ぬらりと足元から現れた黒い影に手首を掴まれた。
「――――捕まえた」
下水管から這い出してきたアサシンだった。
自分の攻撃が読まれていると気付いたならば取る選択肢は二つだ。
読ませないようにするか、読んでも躱せない攻撃を仕掛けるかのどちらかである。
アサシンは読んでも躱せない攻撃がくる事を読んでいた。
読めていればいくらでも対処のしようがある。
咄嗟に掴まれた腕を振り払おうとするオデット。
だが、その膝が突然に崩れた。
それはいかなる魔法か。
掴まれた腕から全身に痺れのような感覚が奔り、ストンと両足から力が抜けたのだ。
それは柔と呼ばれる東洋に伝わる武術の秘伝。
魔法使いをして魔法と見紛う程の技術だった。
両足に力を籠め体勢を立て直そうとするオデット。
取られた腕が引かれ、同時にひり付くような殺気が頭部に突き刺さるのを予感した。
その予感に従うようにオデットの頭部に向けて、鋭い蹴りが放たれる。
いかに攻撃を読んでも、体制が崩れ、腕を掴まれたままでは逃れることはできない。
掴まれたままではアサシンごと瞬間移動するだけだ。
咄嗟に首を逸して何とかインパクトのポイントをずらす。
その結果、当たったのは踵ではなく膝裏。ダメージは軽微。
だが、勢いよく振り上げられた足がそのままぬるりと蛇のように喉元に絡みつく。
アサシンは逆足も胴へと巻き付かせ、蹴りからの飛びつき腕ひしぎ逆十字固めへと流れる様に移行する。
そして腕関節を極めると同時に、アサシンは首に巻き付けた膝を曲げギリギリと締め上げた。
気管ではなく頸動脈を絞め上げる足によるスリーパーホールド。
いかに魔族と言え脳と血液が存在する以上、この責め苦からは逃れられない。
筋力はあれど手よりも不器用な足で首を締め上げるなど通常であれば不可能である。
だがアサシンの場合は違う。彼の足は常人の手よりも器用だ。
まして足の筋力は腕の5倍あるとされている。
アサシンの筋力であれば、オデットであろうと振り払うのは不可能だ。
「ぐぅ…………が…………ぅう!!」
片腕にアサシンをぶら下げながらオデットは堪えていた。
倒れることなく両足を踏みしめ、食いしばった口元から泡のような唾液を垂れ流しながら、痛みと苦しみに耐えている。
だがそれも時間の問題だろう。
腕を極められ、首を絞められ、オデットの意識が何処か心地よい浮遊感と共に徐々に白み始めた。
その足元が僅かにふらつく。
片腕にぶら下がるアサシンの重さに耐えきれず、今にも倒れるのかと思われた。
だが――――ただ倒れるなどと、それを許すアサシンではない。
ぶら下がった状態のアサシンが大きく身を振った。
アサシンの動きに合わせて腕の肩関節が捻り上げられ、首があらぬ方向へと捻じ曲がる。
足元の確かではないオデットは、勢いにつられてバランスを失った。
アサシンはそのまま万力の様な強さで首を固定したまま重心を移動させ回転。
強く腕を引くと、ふわりとオデットの足元が浮いた。
天と地が反転する。
打、極、絞、投。
神の因子を取り込んだ魔族を追い詰めたのは、総合格闘と言う人類の英知だった。
足で首を固定したまま直下型フランケンシュタイナーのようにそのまま地面に叩きつける。
顔面から叩きつけられた衝撃は固定された首元へと集約され、頸椎が圧し折れた手応えを、いや足応えをアサシンは確かに感じた。
杭のように撃たれたオデットの体が首を固定したままズルリと崩れ落ちる。
折れた拍子に密着が剥がれた。
その一瞬を逃さずオデットが瞬間移動で離脱する。
「ぐっ…………が………………ギギぃ………」
不自然な角度で首を折り曲げながらオデットが立ち上がる。
仕損じた。
これまで人しか殺してこなかったから人外の生命力を想定していなかったアサシンの落ち度だ。
どの程度の生命力があるのかは知らないが、折ってダメなら捩じ切るまでだ。
「ああぁ…………あぁああー!! ああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!」
追撃に向かおうとするアサシンの足が止まる。
オデットの様子がおかしい。
(何か、雰囲気が、変わった?}
訝しみ様子を伺うように目を細めるアサシンだったが。
唐突に、その体が引き裂かれた。
見えない何かによって脇腹は両断される。
左足は消滅し、右肩は根元から吹き飛んだ。
崩壊は止まらず、黒いシルエットがボロ雑巾のように引き裂かれて行く。
バラバラの黒衣が夜に舞った。
いや違う。
本当に、引き裂かれたのは黒衣だけだ。
肝心の中身は下着姿になってビルの壁に張り付いていた。
アサシンは空蝉の術のように黒衣だけを残して退避したのだ。
回避できたものの今のは危なかった。
アサシンの読みが外れた。
行動パターンが変化したのだ。
と言うより複合的だった行動原理に新たな一つが加わったと言った方が正しいだろうか。
要するに三人目が現れたということ。
「いや、一人目か」
アサシンはそう言い当てる。
恐らくは主人格。
本格的に生命の危機に瀕して表に出てきたのだろう。
「初めまして、ですかね。それとも――――最初から貴女でしたか?」
アサシンはビル壁から飛び降り地面へと着地すると、真実を言い当てるような声で問いを投げた。
数秒の間。
問いかけられた女はどこか苦し気に呻き、おずおずと口を開いた。
「違う…………」
両手で抱える様にしてプラプラと垂れさがる頭を振る。
先ほどと同じ、自己を否定する様に取り乱したように叫ぶ。
「こんなのは私じゃない、私のしたことじゃない…………ッ!」
「ああ、そういうのですか」
精神学にも通じるアサシンは、オデット本人よりも正確に彼女の状態を看破した。
辛いこと苦しいことを押し付ける存在が欲しいという願望は多重人格――――解離性同一性障害が生まれる典型的な要因である。
例えば両親に虐待されている子供がいたとする。
大好きな両親が自分を虐待するはずがない虐待されているのは自分ではない別の誰かだと思い込むことで多重人格を発することがある。
それと同じ事だ。
死に瀕して死にたくないと願った女がいた。
死を忌諱する自らの本性に気づいたのだ。
この世界では生き残るためには殺すしかない。
だが自分が生き残るために他者を食い物にするだなんて、これまでの自分の価値観からしてあってはならない事だ。
だから、汚れ役を押し付ける存在を作り上げた。
これは自分ではないのだから、だから殺し合いに乗っても仕方がない。
そうすれば自分だけはお綺麗なまま、怪物に乗っ取られた憐れな被害者でいられた。
無限の死を内包した少女に影響を受けたのは事実だろう。
殺し屋の精神に飲み込まれたのは事実だろう。
超能力者の脳や神の細胞を取り込んで肉体的変質があったのは事実だろう。
だが、それはオデットが主導権を握っていなかった事にはならない。
そもそも『人喰らいの呪』いはそんな呪いではない。
「あ、あ、ああああああああああああああああああああああああああ!!」
ヒステリックで女性的な叫び。
オデットは頭を抱えたまま狂ったように暴れ始めた。
アサシンの背後の街路樹が砕けた。
ビルが砕け、アスファルトが爆ぜる。
見当違いな攻撃だ。
そもそもオデットはアサシンの事を見てすらいない。
これでは読みも何もない。
読み合いを放棄したメクラ打ちだ。
アサシンは冷静に現象の発生を見極め流れるように距離を詰めると、銀の光を走らせる。
「大人しくしていてください」
オデットが崩れ落ちた。
倒れこみ、地上に上げられた魚のように口をパクパクとさせ痙攣していた。
妖刀無銘。
依頼は中断されたが、斬られれば麻痺するというこのナイフの特性は残っている。
こうなれば俎の鯉だ。
動けなくなった相手をいかに調理するかである。
如何に生命力があろうともこれで終わりだ。
「…………………?」
そこで違和感に気づいた。
見れば、アサシンの左腕がねじ曲がった。
まるで絞り切られた雑巾のよう。
中身を全部吐き出して搾りかすだけが残ったような。
それは念動力だった。
皮肉なことに、動けなくなったことがオデットに気づきを齎したのである。
念動力という動作を基点として奇跡を起こしたのだ。
こうなれば事前動作も何もない。
見て、念じるだけで人が殺せる。
危険性に気づいたアサシンは瞬時に動く。
受けけなくなったオデットの頭部を足刀で踏みつけようとするが、機敏に動くオデットがそれを躱した。
在り得ない。
この短時間で麻痺が回復するはずがない。
事実、彼女の体はまだ麻痺したままである。
彼女は操り人形のように念動力で自らの体を操ったのだ。
そうして距離を取ったオデットが絶対不可避の念動力を放つ。
見て念じるだけの人が殺せる正しく必殺。
空間が爆ぜ、領域内が消滅する。
だが、アサシンは躱した。
視線と意思があるのならば、それを読めばいいだけの話だ。
脳内エンドルフィンを調整。
痛みを緩和し行動を制御して、迷いのない恐ろしいほど機敏な動きで暗殺者が動く。
在り得ないような多角的な動きで背後へと回り込む。
一撃必殺の殺意を込めて心臓を穿つ。
瞬間移動しようとも逃がしはしない。
決して見逃さぬよう漆黒の瞳を大きく見開く。
そこで逆さの頭と目が合った。
支えを失い肉と皮だけで繋がった頭が、ぶらりと逆さに垂れさがってる。
視界がぶれ脳が揺れる。
幻影の魔眼。
これまでの凶行は自己ではないという否定から使ってこなかったオデットの力だ。
目の良さが仇となった。
瞳から流れ込む幻影が脳を焼き、酷い乗り物酔いのように吐き気がする。
「ハハ…………ッ!」
何故か可笑しくって口元が吊り上った。
作り笑いではなく自然に零れた笑みだった。
どういう訳か満たされる。
念動力による空間消滅。
平衡感覚を失ったアサシンに躱す術など無い筈なのだが、アサシンはそれを躱す。
「ハハッ!」
高らかに、声を出して笑う。
せっかく楽しくなってきたんだ。
すぐ死んでしまうのはもったいない。
空間が次々と消滅していく。
もはや自分がなぜ躱せているのかも分からなくなる。
麻痺した体を操り離れていく相手に追い縋った。
「離れろお!!」
悲鳴のような女の絶叫。
それを躱して、垂れさがった頭部をサッカーボールのように蹴り上げる。
骨と言う支えを失った首の肉が千切れんばかりに伸びきった。
そのまま引き千切ってやろうと頭部を掴もうとしたが、右腕もなくなっている事に気づいた。
いつの間にか攻撃を喰らっていたらしい。
なら次の手段だ。
そうアサシンが切り替えた瞬間だった。
「■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■!!!」
オデットが叫んだ。
それは悲鳴のようでもあり絶叫のようでもあった。
周囲一帯のガラスが同時に割れる。
叫びが奇跡となり、音波が衝撃となったのだ。
鼓膜が破れ耳と鼻から血が零れた。
両腕があれば耳をふさぐこともできただろうが、今の状態では難しい。
死が近い。
目の前の相手が自分の死か。
自身の死に触れて、生まれて初めて生きていると感じられた。
この瞬間、気づいた。
人は死ぬ為に生まれてきたのだと。
悲観ではなく、限りなく希望に満ちた感情でそう理解した。
その結論は諦めではない、まだ足掻く。
足掻いてこその人間だ。
蹴りを放つ。
躱された。
足元の瓦礫を蹴っ飛ばす。
瞬間移動で避けられ、背後を取られる。
振り返らず、身を躱す。
間に合わない。足先を削られた。
倒れそうになるが食い縛る。
だが、その足が容赦なく捻じ曲げられた。
こうなっては物理的に堪えようがない。
倒れる。
腕がなく受け身が取れない。
起き上がろうとする。
そこに追撃。
脇腹が消滅し臓腑が零れた。
「ガハッ…………!」
血を吐いた。
ああ、この辺が限界だろう。
これにて依頼は失敗。
初めての失敗は望んでいたものだった。
自身の全てを出し切った。
虚無はもう感じなかった。
「ああ…………楽しかっ……ザッ」
満足そうな言葉を遮る様に頭部が消滅する。
誰よりも好き勝手生きた暗殺者は最後まで自分だけで完結したように笑いながら死んでいった。
【アサシン 死亡】
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
死に瀕して私は自らの醜さを知りました。
それでも、私は死にたくなどなかったのです。
【I-7 市街地跡/夜中】
【オデット】
状態:麻痺(行動可能)、首骨折。右腕骨折。神格化。疲労(大)、ダメージ(極大)、首輪解除、マーダー病感染
装備:なし
道具:
リヴェイラの首輪、携帯電話
[思考・状況]
基本思考:誰かを殺してでも死にたくない
1:西側の殲滅?
※ヴァイザーの名前を知りません。
※ヴァイザー、
詩仁恵莉、
茜ヶ久保一、
スケアクロウ、
尾関夏実、リヴェイラを捕食しました。
※現出している人格は最初からオデットでした
最終更新:2018年04月01日 12:12