最後に、彼女の話をしよう。




その世界は女神の悪意に満ちていた。
リヴェルヴァーナと呼ばれる世界の半分にして果ての果て、裏側に生まれてしまった不毛の大地。
大地は死ばかりが積み上がり屍山血河に満ちている。
彼女が生まれたのはそんな魔界と呼ばれる世界の僻地だった。

彼女は青空というモノを見たことがない。
常闇に覆われた空に太陽の光などなく、天から齎されれる光と言えば轟く雷鳴くらいのものであった。見上げる空は昏い。
周囲は険しい山々に囲まれ、枯れ果てた死の大地では作物など育つはずもなく、暮らしの主となるのは必然的に狩猟である。
魔界に生きる魔族たちの、闘争を好み強さを是とする価値観はこの世界が育んだといっても過言ではないだろう。

襲い、殺し、奪い、侵し、犯し、喰らう。
それを良しとする世界で生き残るには戦うしかない。
生きるための戦いがより多くを求める侵略となるには大した時間はかからなかった。
常に戦いの火が燃える。
この世界は争いと混沌を齎す為だけに生まれたのだと、そう思えるほどの地獄だった。

力こそ全て。
そんな世界において最も力を持つ者は王と呼ばれた。
魔界を総べる王、すなわち魔王と。

魔の王が坐するは魔界においてなお険しい山岳地帯の頂である。
世界の頂点に聳え立つ漆黒の城は見る者を威圧するような優美な荘厳さと、精神を呑み込むような禍々しさを兼ね備えてた。
魔界の王の居城らしく、戦うことを前提とした作りとなっており、溶岩を噴き続ける万年火山より発掘された魔刻石により築かれた城壁は堅固を誇る。
城内は侵入者を惑わす迷路のような造りになっており、幾多の死の罠が仕掛けられいた。
まさしく難攻不落の要塞、幾度も繰り返された歴代の勇者との戦いを経ても未だ健在を誇っていた。

そして、その魔王城の聳える山頂から少し下った所に、闘士たちが覇を競う闘技場があった。
自らの力を示すべく魔族たちが競い合う事もあれば、罪人の処刑場、あるいは魔界に迷い込んできた人間を嬲り殺しにする見世物小屋として用いられる。
そんな様々な用途で使われる場所であった。

そして今宵の演目は処刑なのだろう。
血と骨と歯の破片が混ざった砂の敷かれた決戦場の中心に、首枷により両手を塞がれた男が膝を尽き項垂れていた。
そして男の首元へと常闇の空に覆われた魔界においてもなお昏い、漆黒を湛えた剣が宛がわれる。
正しく土壇場の光景である。

魔界における処刑とは一種のエンターテイメントだ。
熱狂する見物人からの罵倒と投石が飛び交う中、罪人は処刑場の中心で衆目に晒らされ素首を落とされる。
それが処刑場の常なのだが、今回は様子が違った。

この処刑場には罪人と処刑人。そして立会人という最低限の人員以外が完全に排されているようである。
怒声と熱狂に包まれているはずの処刑場は静寂に包まれ、猿ぐつわを咥えた女の呻きだけが聞こえるのみであった。

立会人は一際高い特等席に坐する蒼い顔をした男だった。
ただ坐して佇むだけで全てを支配するような存在感がある。
彼こそこの魔界を統べる魔王ディウス
血のように赤い瞳を薄く開き、冷たい視線で処刑場を見下ろしている。

処刑人は禍々しき漆黒の鎧に身を包んだ男だった。
魔王軍の幹部の中でも古株であり、三代前の魔王から使える最古参。
魔界一の剣士と呼ばれる暗黒騎士だった。
親衛隊隊長を任された魔王の信頼が最も厚き男である。

通常であればそんな男が処刑人などと言う端役を任されるなどありえない話なのだが、今回ばかりは少々事情が特殊だった。
なにせ処刑される罪人が罪人である。

「暗黒騎士。貴様が私の死か?」
「ああ、全く残念だ。まさか貴様が人間なんぞに与していたとは」

これより処刑されるのは魔王軍の元幹部。
暗黒騎士と同じく先代より以前から魔王に仕える最古参の一人である。
そんな魔界の重鎮が、あろうことか魔界に迷い込んだ人間を保護して匿っていたと言うのだ。

魔界と人間界を行き来するには魔界と人間界の交わる世界の果てにある、異界門を潜る必要がある。
だが、時折、境界面の揺らぎによる偶発的な門の開き、それに巻き込まれる『神隠し』という現象が発生することがある。
彼が匿ったのはそんな神隠しに巻き込まれた人間だった。

それも一人二人ではない。自らの領地に小さな集落を築けるほどの人間を何年もの間だ。
魔族は人族との戦争の真っただ中である。
そんな状況で魔王軍の幹部が敵対勢力を匿うなどと、これは許されざる大罪である。

「最後に言い残すことはあるか?」

刃を鳴らし、処刑人たる漆黒の騎士が問う。
罪人は視線を上げ、処刑人にではなく天上に坐する王を見た。

「魔王様! 娘は、オデットはこの件に関与していません。どうか娘だけはお見逃しいただけませぬか!」

罪人は自らの事ではなく、自らの後に処刑を待つ娘の恩赦を乞うた。
罪人の娘オデットは処刑場の端で猿ぐつわを咥えさせられたまま、全身を拘束され自らの死の順番を待っていた。

だが、その望みは難かろうと暗黒騎士は内心で首を振る。
オデットが関わっていないなど、この場で証明のしようがない。
集落一つというあれほどの規模、むしろ関わっていないはずがない。

仮に無関係だったとして、幹部の身にありながら敵対勢力を匿うなど、一族郎党皆殺しにされて当然の罪である。
オデットが殺されるのは当然の流れだ。
何より、魔王がそのような温情を与えるはずもない。

ふむ、と懇願を受けた魔王は頷き高みから処刑場を見下ろす。
土壇場に似合わぬ優雅さすら湛えた所作は、それだけでその場の空気を支配する。
正しく王、この場全ての人間が固唾を呑んで王の次の動きを待った。
そして僅かな沈黙の後。

「よかろう」
「魔王様…………ッ!?」

予想外の答えに暗黒騎士が驚愕を示した。

「魔王様! オデットを見逃せば他のモノに示しがつきません!」

魔王軍幹部の不祥事、ただですら魔王軍の信頼を失墜させるような事態だ。
本来であれば不満を持つものの溜飲を下げるため公開処刑が妥当である。
にも拘らず、秘密裏に処刑を行い、晒首で済ませようというのは長年の貢献に対する王の最大限の温情である。
だが、その娘を見逃したとなれば流石に反発は免れまい。

「よい。それとも、貴様はその程度で我が軍が揺らぐとでも思うのか、暗黒騎士よ?」
「い、いえ。そのような」

魔王の圧に暗黒騎士が慌てた様に言葉を呑む。
魔界における絶対者、魔王の決断に逆らうことなど許されない。

「あぁ……感謝いたします、魔王様」

思い残すことがなくなった罪人は静かに首を垂れた。
その観念とも違う覚悟を魔王は見届け、処刑人へと視線を送る。
暗黒騎士が一つ頷くと、漆黒の刃が落ちた。
滑らかに刃が落ち、首が地面に転がる音とくぐもった女の悲鳴が響いた。

その光景を見届け、魔王は魔界を治める長らしく尊大な態度で重い腰を上げ、王座からゆっくりと処刑場の中心へと舞い降りる。
圧倒的な存在感には似合わぬ、驚くほど静かな動きで音もなく砂を踏む。

「暗黒騎士、オデットをここへ」
「はっ!」

暗黒騎士に運ばれて、拘束されたオデットが魔王の前に引きづり出された。
地面に転がるオデットは涙にぬれた目で頭上の魔王を睨み付ける。
魔王は愉しげに見下すようにその眼を見つめ返した。

「悪くない眼だ、オデット。やはり魔族はそうでなくては。
 奴と約束した手前、貴様を殺しはせんが、暗黒騎士の意見にも一理ある、無罪放免とも行くまい。
 故に、貴様は人間世界へと追放処分とする」

そう言って魔王が手を掲げると、人間界へと続く門が開いた。
異界門と呼ばれる異界への扉。
それは一流の術者数十人が数年がかりの大儀式を行ってようやく小さな門を一つ開ける最高位の魔法。
それをこうも容易く行えるのは、この世界の長いの歴史においてもディウスくらいのものだろう。

「ただし――――命は助けるとは約束したが、何もしないとは約束してはいない」

屈みこみ、倒れたオデットに手をやり顎元を持ち上げる。
魔王の魔力に触れられただけで猿ぐつわがパンと弾け、口内にたまった涎を飛び散らしながら口元の拘束が解けた。
だが声を漏らすこともできず、口元を上げたまま喘ぎのように短く息を漏らす事しかできない。
無理矢理に視線を合わされ、万華鏡のように色を変える瞳に捉えられる。
眼を逸らそうと思っても、蠱惑されたように目を逸らせない。

「――――――――貴様には、死よりも重い『呪い』をくれてやろう」

これが始まり。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

人間界に放り出されたオデットはどこにも定住することなく彷徨い続けていた。
オデットは頭部に生える角を除けば、比較的人間に近い外見をしている。
角は隠せばいいし、得意の幻術を駆使すれば、身分を隠して人里に隠れ住む事も出来ただろう。
だが、彼女は人里には近づくことすらできなかった。

彼女にかけられた呪いは、人間でしか飢えを癒せぬ『人喰らいの呪』である。
人間を庇った罪人に対して相応しい罰だろう。
このような呪いを受けて人里など居られるはずもない。
飢餓状態で食べられない御馳走をちらつかされる様なものである、そんなのは拷問でしかない。

父の保護していた人間たちの話によれば、人族の間では魔族は人間を喰らうなどと言い伝えられているらしい
確かに魔族の中には戦意高揚のため人肉を喰らう者や特殊性癖を持つ者もいるが、基本的に人など喰わない。
誰が好き好んで人の肉など喰らうのか。
確かに理性のない魔物や魔獣は人を喰らう。だがそれは人間界の野獣も同じ事である。
だからこそ呪いとして成り立つのだろうが。

人を喰らうなんてオデットは嫌だ。
食肉としての好みの問題ではなく、人との共存を目指した父の信念を汚すようで。
何より、自分のために身勝手に命を犠牲にするような醜い存在になりたくはない。
だからこうして出来る限り人に出会わぬよう、隠れ潜むように暮らしていた。

本当に人しか喰えないのならオデットも生きるために覚悟を決めるか、潔く死を選ぶか選択できた。
だが、この呪いの最悪な所は他の物が食えなくなるわけではないという所だ。

この呪いは人以外のモノが食べられなくなる呪いではない。
何かを食べれば栄養は摂取することはできる。
ただ、どれだけ喰おうとも飢えと乾きが癒せない。
何を食べても美味いとは感じられれず、何を食べてもすぐに吐いた。
潔く死ぬこともできず、醜くも生き永らえるだけの呪い。

満足に食事もとれず、いつしか頬はこけ肉体は枝木のように痩せ細ってしまった。
魔界の宝石とまで称えられた美しさは今や見る影もない。
今はまだ我慢を続けられるが、いずれ限界を迎えるだろう。
そうなれば、人を襲い喰らうのだろうか。
理性のない魔物たちのように。

もう一度、魔王に会う必要があった。
魔界に戻りい訳じゃない。
父の居ない魔界に戻ったところで居場所などない。
もうオデットの居場所などどこにもないのだ。

ただ、この呪いだけは解く必要がある。
魔王のかけた強力な呪いを解呪できる術者などいない。
いるとしたらそれは呪いをかけた魔王だけだろう。

だが、あの無慈悲な魔王がこの呪いを解くことはないだろう。
ならば術者である魔王を殺すしかない。
そうすれば呪いが解ける可能性はあるだろう。

だが、今更魔界に戻りあの魔王城までたどり着くなどオデットには不可能だ。
たどり着く前に殺されるのがオチだろう。
辿り着いたところで、あの魔王に何ができるというのか。

そうして、明確な目的もないまま、どれ程の日々を彷徨うようにして世界を渡り歩いたのか。
遂に我慢も限界を迎えようとしていた。

そもそも何故こんな我慢を続けているのか。
生きるための殺生は肯定されるべきである。
人だって家畜を喰らう、魔族だってそうだ。
その行為と何ら違いはないはずだ。
誰に対しての物なのか、言い訳めいた言葉が頭の中を支配する。

その道すがら揺らぎから現れた魔物に襲われたのだろう、行商人の死体が転がっていた。
死体。既に死した肉の塊。
極限の飢餓の中、その死体へ向かって無意識のうちに足が動く。
殺すのではなく、すでに死した肉を喰らう。
それくらいなら。
それくらいなら許されるのではないか?
それが自身の信条と生きていくための行為が釣り合いの取れるギリギリのラインだった。

だがそこで不覚を取った。
死体があるという事は、それを作った存在がいるという事を失念していた。
魔物から不意打ちを受け、成すすべなく地面へと倒れる。
本来上級魔族であるオデットが魔物如きに後れを取ることなど在りえない話なのだが、飢餓により弱り切った今のオデットでは抵抗などできようはずもない。
このままでは死体を漁るはずがオデットが死体になりかねない。
という所で、オデットの目の前に砂金のような粒子が弾け、黄金の軌跡が舞った。

「――――――大丈夫かい?」

魔物を一撃で切り伏せた少年はオデットへと向き直る。
凄まじい斬撃に似合わぬ、思いのほかあどけない顔の少年だった。
目の前に人間がいるはずなのに、彼を食おうなどと言う発想すら浮かばない。

立ち上がることも忘れ呆然とその姿を見上げる。
体中が電撃でも受けた様に痺れていた。
ダメージによるものではない。
だた、眩いばかりの黄金の剣に目を奪われていた。

理屈も何もない。
魔族であれば誰だって一目で理解できる。

アレは己を殺すための黄金であると。

その瞬間、人間界に来てからずっと苛まれていた飢餓を忘れた。
食欲よりも恐怖が勝ったのだ。
先ほどまで魔物に襲われ直接的な命の危機に晒されていたにもかかわらず、その黄金に感じる恐怖はその非ではない。

魔族と人間。
捕食者と被食者。
その関係が、この時ばかりは入れ替わる。

「この辺りは神隠しがよく起きる影響か、魔物が頻繁に湧く地域だ。女性の一人旅は控えた方がいい。それじゃあ」

事務的な注意を促しながら、それだけを言うと興味なさ気にあっさりと少年はその場を立ち去ろうとした。

「ま、待って! 待って…………下さい」

気が付けば、その背を引き留めていた。
魔族の天敵。
魔族を殺す黄金の剣。
聖剣の勇者。

勇者の前でならば、私は加害者ではなく被害者でいられる。
ああ、そうならば。
勇者とならば、あるいは。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

「うわぁ。綺麗ですねぇ…………! オデットさん」
「…………そうね」

甘い花の香りが少女たちの鼻孔をくすぐった。
視界いっぱいに広がる一面の花畑に少女二人が楽しそうに声を上げる。
風に流され花弁が天に舞う。
目を細め舞い上がる花吹雪を見送りながら、オデットは太陽の眩しさに目を細めた。

大陸からすこし外れた半島にその国は位置していた。
古代からの自然を残しているだけの周辺諸国からは自然以外は何もないと揶揄されることも少なくない国である。
その為か、他国民に対して排他的な国民性であり、入国管理はとてつもなく厳しく行商人や旅人の行き止まりとして有名であった。
そして大陸より飛び出た半島であるためか、魔王軍の侵略による被害も比較的浅く。
それ故か此度の魔王軍との戦争に対する危機感が今一つ薄く、戦争に積極的に関与することなく我関せずというスタンスを通していた。

そんな国に勇者一行が訪れたのは、この国にあると言われる試練の祠に向かうためであった。
祠の奥底には有用なアイテムが眠っており、勇者のレベルアップには必須とされている祠である。
祠が存在するのは国の南端にある最古の森の奥深く。
最古の森は古代の自然の残る貴重な場所であり、そこにしかない古代生物や植物が多く生息する保護区域だ。
森自体の危険度も高く、立ち入りには国の許可が必要となる。
そのため試練の祠の攻略難易度は侵入を含め最上級とされているのだが、それはあくまで一般人にとってはという話である。

聖剣を持った勇者だけは例外だ。
勇者とは人類の希望にして最終決戦兵器。
世界を救うという大義名分は何をおいても優先される。

黄金の聖剣はあらゆる場所への許可証であり、あらゆる行為に対する免罪符である。
例え戦争に直接的な関与はしないと謳う国でもこれを否定するのは明確な人への敵対行為だ。
人間である以上、誰であろうと受け入れない訳にはいかない。
それこそ、その辺の民家に入って箪笥を漁ろうとも誰も咎めることはできないだろう。

故に立ち入り禁止区域とはいえ悠々と古代の森を越え、そのまま試練の祠まで押し通る事も勇者には出来るのだが。
出来るからと言って無理に押し通る必要はない、最低限の筋は通したほうがいい。
というミリアの提言により、こうして王宮を訪れたのである。

形式的な作業でしかないが、人間相手に不要な遺恨を残しても仕方ないだろう。
正式な許可をとれるのならばとるべきだ。どうせ降りる許可である。

だが、ここで問題が一つ。
国王が神聖な王宮には聖剣を持つ選ばれし勇者以外の入場は許さないと言い出したのだ。
排他的な国民性の王らしい提案であり、自国への勇者の侵入が気に喰わない王の意趣返しだろう。
とは言え無理に二人が王宮に入る理由も見当たらなかったため勇者は一人王宮へ向かったのだった。
こうして勇者ではない少女二人は手持無沙汰となったため、雄大な自然に囲まれた城下の広場で勇者が戻るまでの時間をつぶしていた。

この国は平和そのものだった。
自然は豊かで、魔族による被害もなく、戦禍の炎の影響はどこにも見当たらない。
まるでこれまで闘いの日々が嘘のように感じてしまうほどに。

オデットは咲き誇る花々の美しさに目を奪われていた。
死体の血を啜る魔界の植物とは違う、ただ純粋に美しさを誇る花々。
そんな在り方を許される平和な世界。
これが魔王の求める、魔族たちに与えられなかった生きた大地。

「えい……………!」

そんな感傷のような物を抱いていたオデットの後ろに回り込んだミリアが、イタズラな声とともに彼女のフードへと手をかけた。
まさかミリアがこんな強引な手段に出るとは思っておらず、しまったと思った時にはもう遅い。
オデットの頭部に生える山羊の様な黒い巻角が露わになる。

彼女が人間ではない証。魔性の象徴。
露わになった巻角は手で隠せるようなものではない。
得意の幻術で誤魔化そうにも、高位の術者であるミリアには通用しないだろう。

オデットが下唇を噛んで息を呑む。
魔族を殺す勇者一向に紛れた魔族。
その正体がバレたのだ、ただではすむまい。

いつかそんな日が来るんじゃないかとは思っていた。
だがあまりにも唐突すぎて、呆然とするしかなかった。
勇者とその縁者にだけはバレてはいけなかったのに。

「やっぱり…………」

だが予想されたような非難の声はなかった。
ただあったのは納得したような、静かな声だけだった。
この魔性の証を見てもミリアには驚いたような様子はなく、前々からの疑惑をただ確認しただけのようにも感じられる、

「…………気づいていたの?」
「なんとなく、ですけど。ごめんなさい。強引なことをしてしまって……!」

そこで、何故かミリアの方が頭を下げた。

「安心してください、って言うのも変ですけど、兄は気づいてないと思います。
 私も兄に言う気はありませんし、オデットさんをどうこうしようと言うつもりもありません」
「なら、どうして……?」

責めるつもりはないというのなら、何故わざわざ正体を暴いたのか。
単なる好奇心だけで暴くにしてはあまりにも互いにとってリスクが高すぎる秘密である。
相手の意図がつかめず戸惑うオデットとは対照的に、ミリアは少しだけ照れくさそうに笑った。

「オデットさんと仲良くなりたかったから、ですかね」

きっとそれは嘘ではないのだろう。
だが、全てでもない。
納得がいかないと言った風なオデットの表情を読み取ったのかミリアは取り繕うように言葉を重ねる。

「せっかく一緒に旅をしているのに、秘密を抱えたままじゃあ寂しいじゃないですか。
 ほら、一人くらい事情を知ってる人間が近くにいた方がいいと思うんですよ。
 そりゃあ今のご時世簡単に開かせる秘密じゃないとは思いますけど、ここに味方がいるってことを知っておいてほしかったんです」

言い訳でもするように矢継ぎ早に捲し立てる。
呪いによる飢餓により常に苦しそうな表情を浮かべるオデットの助けになろうにも、自らの正体を隠して距離を取っているのでは助けようがない。
だからオデットの正体を知っている事を知ってもらうため、要するにミリアらしくもない強引さは自らの正体を隠し続けるのも辛かろうと言う彼女の
優しさからの行動だったという事だ。
それは何ともオデットの知るミリアらしい。
その気遣いが本物だと理解できるからこそ、分からなくなる。

「……私は魔族よ? あなたは私に復讐したいとは思わないの?」

魔族である自分を受け入れられるのか。
余りにも不躾なその問いを投げてしまった。
故郷を理不尽に奪われたのは勇者だけではなく、彼女も同じであるはずなのに。
彼女には自分(まぞく)を恨み、殺すだけの理由がある。
その問いを受けたミリアは笑顔を曇らせ僅かに俯く。

「……私は、兄ほど魔族を恨んでるわけじゃないんです。
 いえ…………恨んでるか恨んでないかなら恨んでいるのは間違いないんですけど。
 けどその怨みはオデットさんに対してのモノじゃない。それに…………」

そこで一度、言っていいのか迷うように言葉を詰まらせる。
だがそれも一瞬、はっきりとした口調で言った。

「復讐なんて、そんなの何の意味もない」

復讐に燃える自らの兄を否定する言葉が少女から吐かれる。
ありふれたような陳腐な言葉にも聞こえるが、復讐するに足る理由を持つ彼女が言うのであればそれも違ってくる。

「世界の平和のためには勇者の力が必要で、兄は勇者です。
 それを理解しているのに、私は兄に戦いをやめてほしいと思ってる。
 闘いなんて、勇者なんて、他の人がやればいい、そう思います」

それが少女の、どうしようもない本音だった。
ミリアはその本音をどうしようもなく身勝手で醜い願いだと思っているようだった。
何処か苦し気にキュッと眉を寄せているが、オデットは失望するでもなく眩しい物を見る様に目を細める。
そこで少女は暗い顔になってしまった事に気付き、取り繕うように何時も通りの笑顔で努めて明るい声を上げた。

「とにかく! 私はオデットさんの味方ですから。困ったことがあったら兄に言えないようなことでもなんでも相談してください。
 私じゃ頼りにならないかもしれないですけど、一人で抱えず話す事で楽になることもあると思いますから。
 魔族であるオデットさんがどうして勇者である兄さんと旅をしているのか、その理由は気になりますけど、それについては今は聞きません。
 いつか話せる日が来たら話してくださいね!」

そう言ってミリアは背後に咲き誇る花にも負けぬ笑顔をオデットに向けた。
眩しすぎてオデットは直視できず、思わず目をそらす。

戦いを嫌う、本当にやさしい少女。
彼女は”私たち”とは違うのだ。
そんな彼女もオデットの”本当”を知ってしまったらどうなるのだろうか。
今の言葉のように見方で居続けてくれるのだろうか。
そう思えばオデットは語る事が出来なかった。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

「ぐ……………あッ!!」
「兄さん……ッ!!」

闇を引き連れた鋭い斬撃が勇者を切り裂いた。
倒れた勇者の下に慌てて駆け寄った魔法使いが癒しの光を放つが、その顔色がみるみる青ざめたものになってゆく。

「どうして!? 傷が、治らない…………!」

回復魔法を休むことなく唱え続けるが、傷が全く塞がらない。
袈裟に切り裂かれた傷口からは暗黒のような煙が沸き立つように上がり、その斬撃がただの斬撃ではない事を知らしめていた。

「よもや勇者が本当に生きていたとはな」

勇者の前に立ち塞がったのは、魔王の右腕ともいえる魔王軍の大幹部、暗黒騎士だった。
闇の巫女の予言により、新たなる勇者の出現を予期した魔王ディウスは、勇者の生まれるとされる里へと自ら赴き里ごと全てを滅ぼした。
のみならず、慎重で用心深い魔王は聖剣の眠る聖地へと先兵を遣わせ聖剣を封じるべく策を打ったのである。
決して敵を侮らない念入りで周到な魔王の先手を取った抜かりない対策と言えるだろう。

だが、魔王軍の耳に届いたのは、聖剣封印の知らせではなく、先兵を率いるガルバイン敗走の知らせだった。
何の間違いかと思ったが、その後に続く知らせを聞くうちに疑惑は確信へと変わる。
黄金の聖剣を持つ勇者は生き延びていた。
魔王を殺しうる唯一の人間が生き延びたと言うのは魔王軍にとって最大の脅威である。
故に、事実確認とその排除のため魔界最強の剣士、暗黒騎士が動いたのだ。

「ふん。だがどちらにせよこれで終わりだな」

息の虫となった勇者へ止めを刺すべく、魔剣を片手に暗黒騎士が歩を進めた。
背後に近づく死の気配を感じながらミリアは回復の手を止めず、兄を庇うようにして覆いかぶるように身を寄せる。
だがそんな抵抗は無意味だ。暗黒騎士の一刀は兄妹を仲良く切り裂くだろう。

だが、その前にフードの女が立ち塞がった。
フードの下の顔を見た暗黒騎士が兜の下の眼を見開く。

「? …………!? そうか、お前か……!」

目の前の相手が何者であるか認識し、暗黒騎士は愉しげに喉を鳴らして笑った。
これは騎士にとっても完全に予想外の再会であった。

「クククッ……そうか、生きていたのかオデット。
 なるほど勇者に与して我らに復讐でも果たそうとでも言うつもりか!?」
「私は別に…………そんなつもりじゃ」

オデットは気圧される様に眼をそらす。
煮え切らないその反応に暗黒騎士は吐き捨てる様に笑い、剣を収めた。

「まあいい。ここは引こう、あの方の御判断で見逃した貴様を私の一存で殺すわけにもいかん。
 だが、貴様も知っていよう。我が魔剣に斬られた者は呪いにより死に絶える、わざわざトドメを刺さずとも勇者の命運は既に尽きた」

暗黒騎士の持つ漆黒の剣。
魔界に蔓延る呪いを凝縮させた魔剣だ。
この魔剣でつけられた傷は治らず。
この魔剣でつけられた傷は身をむしばむ。
傷一つで死に至る、呪いの魔剣である。

「しかし、貴様のようなものが勇者と共にあったとは、笑い草だなぁオデット」

魔族を殺す勇者と共にあった同族を嘲笑いながら、暗黒騎士は去った。
取り残されたのは自らを偽る魔族と何もできない魔法使い、そして朽ち果てた勇者。
ここに居たり勇者は一度目の死に至った。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

魔界最強の剣士の強襲を受け、未熟な勇者は敢え無くその命を落とした。
これで彼らの冒険は終わり、とはならなかった。
死亡したのは勇者である。
人類の希望はそう簡単に潰えてない。潰えることを許さなれていない。

現れた光の賢者の導きにより、二人の少女は勇者の復活に一縷の希望を託し死者を蘇生することができるという命の宝玉を求めて旅に出た。
苦難の道のりだった。
女二人、導き手である勇者を失った旅は様々な苦難があったことは想像に難くない。
広大な海を越え険しい山を越え、幾多の苦難を乗り越えた先に、孤島に聳え立つ月牙の塔へとたどり着いた。
その頂点に存在する賢人の試練を乗り越え宝玉を手にし、遂に勇者の蘇生を果たしたのだ。

そして勇者が蘇った夜。
彼らは小さな港町にある宿に泊まり身を休めることとなった。
普段は同部屋になることも少なくないが、田舎町にしては大きな宿屋で魔王軍との戦争の影響か客も少なくそれぞれ個室を取ることができた。
無駄遣いに厳しいミリアも復活祝いの今日ばかりは寛容だった。

一人部屋でベッドに寝転がっていたカウレスは眉根を寄せ苦しげに目を開いた。
身を起こす。
死を経験し蘇生した直後という事もあるのかどうにも気分が悪い。

そもそも勇者は眠らない。そんな無駄な機能は勇者には必要がない。
確かに眠れば体力と魔力が全快すると言う特性を持つが、状態異常まで治る訳でもない。
眠れないのなら無理に眠ろうとするより、外の空気を吸った方がまだマシだろう。
枕元に立てかけていた聖剣を背負い、部屋を出たところで廊下の窓辺で一人佇むオデットを見つけた。

「眠れないのか、オデット」
「……カウレス」

美しく夜に浮かぶ赤い瞳がカウレスを捉えた。
彼女は目を合わせることに恐れるように深くフードを被り直す。
そのフードの端から覗く横顔が、淡い光に照らされ儚げな美しさを引き立てる。

「月を見ていました」
「月?」

オデットが窓の外に視線を戻す。
その視線を追うようにカウレスも空を見上げた。
夜の帳が落ちた雲一つない空に、ぽっかりと浮かぶ蒼い月がある。

「月は好きです、私の故郷では月があまり見えなかったですから」

彼女の生まれた魔界の空は常に暗雲に覆われ月も太陽もない。
日のない世界で生きてきた彼女にとって太陽は少し眩しすぎる。
優しい月の光くらいがちょうどいい。

「故郷か…………」

傍らの勇者がポツリと呟く。
遠くを見つめるようなその瞳に沈むような暗い炎が宿る。
その炎が彼の原動力だ。
自身すら焼き付く煉獄の炎。
魔族を殺して、殺しつくす黄金の聖剣を担う勇者。

「そう言えば、まだちゃんとお礼を言っていなかった。また君に助けられたようだオデット。改めて感謝している」
「そんな、勇者は人間(わたし)たちの希望ですから、助けるのは当然の事です。魔王は倒なければなりませんから」

言って、オデットは自分で呆れてしまう。
人間の希望などどの口が言うのか。
けれど魔王は倒さねばならない。
この呪いを解くために。

「魔王、か…………オデットどうして君は、そこまで魔王討伐に拘っているんだ」

その問いにオデットが驚いたように眼を見開いた。

「…………意外ですわ。魔族を狩ること以外興味のない人だとばかり」

余りにも予想外で、思わず率直すぎる感想を口していた。
それなりに共に旅をして長いが、そのようなことを聞かれたのは初めての事だったからだ。
今更といえば今更過ぎる問いである。

「失礼だな…………だがいや、その通りだ。
 正直、魔王討伐に使えるのならばキミの事情など知っても知らなくてもどちらでもいいと思っていた。その考えは今も変わらない。
 ただ、知っても知らなくてもいいのなら、知っておいてもいい。そう思っただけさ」

死を超えたからか、それとも命を救われた事によるものか。
それは些細なようで、大きな変化のようにも感じられた。

カウレスは魔族への復讐と関わりのない事には対して興味のない人間だった。
だからこそ、魔族であるオデットが取り入ることができたし、正体を詮索されることもなくここまでやってこれたのだ。

「…………私の事情なんて別段今の世の中では珍しい話でもありません。
 魔王に父を殺され、このような悲劇をもう繰り返してはならないと、そう思っただけです」

曖昧に言葉を濁す。
多くを語ればボロが出る。
この魔族を恨む苛烈な勇者に正体を知られる事だけは何としても避けなければならない。

その言葉をどう受け取ったのか。
カウレスは正面からオデットを見た。
不思議な瞳だ、燃えて濁っているようで純粋で澄んでいる。

「……君は僕に似ている」
「それは…………喜ぶべき言葉なのでしょうか?」

どう受け取っていいものか判断に迷う。
彼に限ってまさか口説いている訳でもあるまい。
魔族であるオデットが勇者に似ているなどと笑えない冗談である。

「どうだろうね。他の勇者ならともかく僕の場合は褒め言葉にならないかもしれない」

歴代の他の勇者がどう在ったのかは分からないが、カウレスは勇者と言うよりも復讐者だ。
少なくとも本人はそう自覚している。
そんな相手に似ていると言われても名誉であるとは言えないだろう。

「ただ、君の同行を許したのは魔界の内情に詳しいという話を信じたからじゃない。君が僕と同じ目をしていたからだ。
 僕と妹から全てを奪った魔族を僕は絶対に許せない。君はどうだオデット? 君は一体何を許せないでいる?」
「そんな、私は…………」

否定しようとして言葉に詰まる。
ミリアのように復讐は無意味だとまでは思わないけれど、それでも復讐など考えたこともない。
ただこの身を蝕む呪いを何とかしたいだけ。
それは嘘ではない。
だが、本当の事でもないのかもしれない。

果たして本当に、あの時何も恨まなかったのか?
復讐を考えなかったというのは、誰も恨まなかったという事ではないのではないか?
同類は同類を知る。カウレスはオデット自身すら理解してない昏い炎を見抜いていた。

「……そう、ですね。私は許せないでいるのかもしれません。
 けれど、それでも復讐を望んでいる訳ではないのです」

オデットは戦いは嫌いだ。
身勝手に戦う魔族たち(あいつら)のようになりたくなどない。
復讐だと言うのならば、そう生きることこそが彼女の復讐なのだろう。
頑なに人を喰らわなかったのも、諦めて死を選ばなかったのもそれ故なのかもしれない。

闘争を好む魔族らしからぬ性格となったのは人間との共存を願った父に育てられたからこそである。
オデットの父は人族と魔族の共存を願い、オデットもその願いの助けとなってきた。

だがそれは父の願いだ、彼女の願いは父に支えになることであり共存ではない。
父はそのために働き処刑までされた。
何故父が人間を助けようとするのか、オデットには理解できなかった。

人間界に落ち延びてからは、辛いだけの日々だった。
その地獄のような日々の中で美しく咲き誇る花を見た。
穏やかな日々を生きる人々の暮らしを見た。
人間界に落ち延びてから辛いだけの日々だったけれど、この世界で確かに美しいモノを見た。
父の願いが、今なら少しだけ分かるような気がした。

「私が望むのはこの大地の平和。
 そこに嘘はありません…………それだけは信じてもらえますか?」
「ああ、君を信じよう。オデット」

空を見上げる。
そこには丸い月が浮かび、冴え冴えとした光が二人を照らしていた。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

そして運命は大きく変わる。
何者かの悪意に弄ばれるように、殺し合いへと巻き込まれた。

拉致されたのは正真正銘の異界である。
見たこともない衣服を着た多くの人間。
見たこともない材質で作られた建造物たち。
魔法ではない謎の力を使う世界の支配者。
そして同じ舞台に立つ、魔王。
嘗てない異常事態である事は明白だった。

そしてこの地における初戦。
人類最凶の暗殺者との戦闘において醜い裏切りにあいオデットは瀕死の傷を負ってしまった。

普段のオデットは呪いによる飢餓を、強靭な理性と信念、そして聖剣による恐怖心でようやく押さえつけている。
だが、ここに聖剣はなく、瀕死にまで追い込まれたことにより理性が崩壊し魔族の本能が顔を出した。
彼女を咎めるモノは何もない。
そうして初めて人の肉を口にする。

あれ程嫌だったのに。あれ程我慢してきたのに。
どれ程に気高い理想を掲げようとも、所詮魔族は魔族。
一枚剥げばそんなものだと。自らに対する深い失意と絶望。
尤も、あの時はそんなものを感じる理性もありはしなかっただろうが。

それは決してやってはならない事だ。
そう自らに誓いを立てた。
自分がそんなことをしてしまうなど彼女にとってはどうしても受け入れがたい。

だから――――自分ではない他に理由を求めた。
己ではなく己の中に凶悪イメージを仕立て上げた。
ちょうどいい事に、そのイメージを押し付けるのに都合がいい存在がいた。
それは先ほどまで戦っていた、人を殺す事を何とも思わない凶悪なダークスーツの男。
この男ならば、冒涜的行為を行ってもおかしくはない。

血肉を喰らい取り込むという儀式的な行為も都合がよかった。
そう言った経緯があるのならば、内側にあの男が入り込むこともあるだろう、そんな自らを騙す”納得”を得た。
そうして本来のヴァイザーとも違う、自らに襲い掛かってきた男という凶悪なだけの人格に身を任せた。

だが、それも一時的なモノである。
肉体が回復すれば、精神も回復し正気を取り戻すこともあったかもしれない。
だがそうはならなかった。

決定的だったのが第二放送である。
魔王――――ディウスの死を知った。
ディウスが死んでも呪いは解けないという事実を突き付けられたのである。
唯一と言っていい希望が潰えたのだ、心が潰れるには十分な理由だった。

そこからは転がる様に堕ちていった。
人を害し、神すらも喰らい、これまで抑え付けていた衝動を晴らすように暴れまわった。

魔の頂点である邪神の肉は魔族にとっては劇薬だった。
肉体を明確に変質させ、属性に変化と安定を齎した。
もはや後戻りのできない領域で、別の自分が安定してしまった。

そうして、人類最高の暗殺者の手により再び死に瀕して。
そこで自らの醜さを自覚した。

何か恐ろしい物から逃げる様に、訳も分からず駆けだした。
駆ける両足は野太い血管が浮き出て、異常なまでに肥大している。
へし折られた首は異常な筋肉で支えられていた。
その肉体は可憐な少女の物とは呼べない。

死を拒絶するように、生を求めるように、暗闇の中で光を求めるようにひた走る。
目的地などない疾走。
それは逃避なのか暴走なのか、分かる者などいない。

肉体は変質し、精神は分裂し、魂は穢れ落ちた。
オデットと呼ばれる少女の面影などどこにもない。
もはや正気であるのかすら疑わしい。
いや、とっくに狂っているのだろう。

それはいつから。
魔王の死を知った瞬間からか。
佐藤道明に爆破され瀕死に追い込まれた時からか。
それとも、父を失ったあの日からか。

二度の死に瀕して、彼女は自らの醜さを知った。
生きるためには他者を侵し、生きるために他者を喰らう。
高潔だった魂は醜く爛れた。
高潔であったからこそ、彼女はその醜さに耐え切れない。
もはや目を背ける事すら許されない。

生きることは斯くも醜い。
ならば。
ならば、死は美しいのだろうか。

彼女にとっての死のイメージは美しい黄金だ。

これまで幾度も死を予感したことはあった。
飢餓で死にかけたこともあった。
魔王に処刑されそうになった事だってある。
だが、あの出会いは、そのどれよりも色濃くその印象を塗り替えた。

花弁のように舞う光の粒子。
黄金の剣を持つ勇者。
何故、勇者と旅をしたのか。
解呪という目的があったとはいえ、それ以上のリスクを犯しながら何故旅をつづけたのだろう。
出会ったあの瞬間から、あの黄金に、きっと惹かれていたのだろう。

私を縛る心地のよい恐怖。
死を忌諱するからこそ安堵する。
醜い生を塗りつぶす美しい死。
あの輝きが傍らにあれば、私はきっと正気(まとも)でいられたのに。

どれ程の間、理性なき疾走を続けていたのか。
主催者の手により首輪の縛りから解放されたのは幸運だろう。
そうでなければ、禁止エリアで誰にも知られることなく下らない結末に陥っていた。
いや、あるいは、そちらの方が幸運だったのかもしれないが。

そして明かり一つない夜の暗闇の中、視界の端に浮かぶような淡い光が見えた気がした。
考えるよりも早く足はそちらに向いていた。
光を追い求める。

まるで燃え盛る炎に群がり自らの身を焼く羽虫のようだ。
忌まわしくも懐かしい黄金色に誘われるようにしてたどり着く。
そうして、欠けた何かを埋める様に、太陽よりも眩しい黄金の光に飛び込んだ。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



そうして、一撃の下に両断された。


自ら襲い掛かったのでは殺意感知も意味がなく、攻撃の瞬間を狙われては瞬間移動も意味はない。
反射的に振るわれた黄金の刃は当然のように熱したナイフでバターを切るが如き滑らかさで胴体を中心から両断した。
腹部は脇腹の端だけが辛うじて繋がり、折れた枝木のようにくの字に曲がった体は、断面から鮮やかなまでに赤い血液と共にその中身を辺りにぶちまけていた。
神の再生力により両出された肉と肉が、再び繋がりを取り戻そうと蠢くが、聖剣による一撃はその再生を許さない。

「…………………」

勇二は足元を一瞥する。
咄嗟の事で驚いたが、勇二には怪我一つない。
邪神の肉を喰らった魔族など、聖剣使いの恰好の獲物でしかない。

転がるのは全身が醜くも爛れた黒い角の生えた怪物だった。
張りつめた筋肉には血管が浮き出ており、女性的な特徴は見て取れない。
ただ赤い瞳だけが美しく煌々と輝いていた。

「そうだ…………オデットさんを探さないと」

呆けていた頭を切り替える。
勇二からすれば、襲い掛かってきた怪物を撃退したに過ぎない。
怪物から視線を切ると、聖剣を背に担ぎ直して踵を返した。
自らを庇い死んでいった彼に報るためにも最後に残ったカウレスの仲間を探す。
家族も仲間も失った勇二の目的はそれくらいしか残っていなかった。

今しがた自らが両断した怪物が探し人であるなど知る由もない。
カウレスから聞き及んでいた特徴とはあまりにも違う。
そもそも特徴を伝えたカウレス自身が魔族だと把握していなかったのだ。
変質した今となっては認識しようもない。
このような怪物がオデットであるなどと思うはずもないだろう。

勇二は怪物を顧みることなくその場を後にする。
オデットを照らしていた光が遠ざかって行き、追いすがることもできず暗闇に取り残される。
これまでの報いを受ける様に一人無様に死を迎えるのだろう。

「もしかして、オデットさん……………?」

だが、どうしてそう思えたのか。
立ち去ったはずの勇二が引き返し、倒れたオデットを見下ろしていた。

余りにも変わり果てたオデットの姿。
だがそれでも、もしやと思う事が出来たのは人も魔も共に暮らし差別も区別もしない勇二だからこそなのかもしれない。
驚きの表情を浮かべるオデットを見て、勇二は確信を得た様に声を上げた。

「やっぱり! いま回復を……!」
「………………待、って」

慌てて傷を治そうとする勇二をオデットが制する。

「…………分かるでしょう………………?」

勇者として覚醒した勇二は他者に対する回復魔法を習得している。
だが、勇者の力は魔を殺す為だけのもの。
ただの魔族であった頃ならまだしも、邪神の属性を得た今のオデットにとっては毒にしかならない。
忠告の意味を理解し手を止めた様子を霞む瞳で確認して、オデットが呟くように漏らした。

「そう……彼方が、勇者なのね」

暴走に次ぐ暴走を重ねてきたオデットだったが、驚くほど心持は穏やかだった。
見紛うはずもない震えるような黄金の剣を前にして、沸き立つような熱狂は一瞬で醒めていた。
心暗い所を強制的に照らされるような畏怖と羨望が心を満たす。

黄金の聖剣を持つ者、その意味するところを彼女が理解できなはずがない。
だって、旅をしたのだ、勇者と。
共に旅をしたのだ。

「……………………カウレスは……どうしたの?」

オデットは自らの知る聖剣の使い手の所在を尋ねた。
目の前の少年は聖光に包まれ聖剣を使いこなしている。
それは聖剣の所有権が移譲されているという事だ、
その指し示す意味はつまり。

「…………カウレスお兄ちゃんは、僕を護って死んでしまったよ」

その結末を聞いて、オデットは少しだけ悲しむように眉根を寄せて、安心したように息を漏らした。

「そう、それは…………よかった」

復讐に囚われ復讐にしか価値を見いだせない少年だった。
そんな彼が何か別のモノに命を投げ出すほどの価値を見いだせたのならば、それはきっと良い事だったのだろう。

今更になってカウレスと言う少年の素顔が見えた気がした。
カウレスがオデットの真実を知らなかったように、オデットもまた彼を見ていなかった。
復讐に囚われていただけで、きっと心優しい少年だったのだ。
そんな事を想う。

「さぁ…………トドメを、刺して」

自ら首を差し出す力は残っていないがせめて潔く。
かつての父のように静かに目を閉じる。
取り繕いではなく、心の底から穏やかに死を待つ。

これまで数々の醜態を晒してきた自分はきっと世界一醜い。
綺麗事をほざいていただけに余計に性質が悪い。
そんな自分を自覚してしまったのだ、いっそ消えてしまいたい。

それなのに他者を食い物にしてまで、死にたくないと願ったのは何故なのか。
何のために醜くもここまで生き延びたのか。
今際の際に立たされた今になってわかる。

生に固執していたのではない。
死に固執していたのだ。

聖剣。
魔族を殺す黄金。
私を殺す黄金。

私の恐怖。
私の死神。
私の覚悟。
私の決意。
私の希望。
私の天敵。
私の黄金。
私の運命。
私の死よ。

彼女の死はあの瞬間、あの出会いから決まっていた。
この黄金の剣こそ彼女の死だ。
他の死に方は嫌だった。
どうかその聖剣で殺してほしい。

「―――――嫌だ」

だがその望みを、勇者ははっきりとした口調で拒絶した。

「…………私の命を奪う事を気にする必要はないわ。
 私が、襲い掛かって返り討ちにあっただけなんだから…………。
 馬鹿な魔族が死ぬ…………それだけの話よ」

襲い掛かったのはオデットの方である。
自業自得だ、同情の余地はない。
それに勇者に魔族が切り殺される。
故郷ではありふれた光景が、この地でも繰り返されただけの話だ。
それだけの話だ。

「そんなのは嫌だ。絶対に僕は殺さない。絶対に助ける」

だがそれでも、勇者は拒絶する。
世界にありふれた悲劇を否定する。

「どうして……あなたは勇者なのでしょう……?
 私は魔族よ…………勇者は魔族は、斃さないと」

勇者とは人族の希望にして魔族の絶望。
魔族を殺す決戦兵器の名だ。
勇者ならば殺すべきだ。
その言葉を否定するように、勇二は悲しげに首を振る。

「それがなんだって言うんだ! 魔族であることは、そんなに悪い事なの…………?」

勇二にとって妖怪や幽霊は家族のようなものだだ。
勇二は人間でありながら、退魔の名家田外の人間として妖怪や幽霊に囲まれて育った。
それは魔族でありながら、人間と共に暮らしたオデットのように、当たり前にそこにいるモノだった。

勇二にとっては同級生のいじめっ子も悪い幽霊も何も変わらない。
いい人間がいればにいい妖怪もいる。
人間を襲う妖怪もいれば、妖怪を食い物にする人間もいる。
それだけの当たり前の事なのに。

それなのに、オデットは魔族が殺されるべき悪しきモノののように語り。
勇二の持つ聖剣も魔族は滅ぼすべき悪だと語り掛けてくる。
それが勇二は嫌だった。
どうしようもなく腹が立つ。

「勇者がなんだ、魔族がどうした…………!
 僕はオデットさんを助けたい、オデットさんを殺したくなんかない!
 だから助けるんだ! 誰にも文句は言わせない!!」

勇者ではなく勇二としての言葉を叫ぶ。
愛も、カウレスも勇二を庇って死んでしまった。
勇二の力が足りなかったから助けられなかった。
大事な人を助けれない悲劇はもう御免だ。

勇二らしい勇者。
カウレスの最後の言葉を何度も思い返して、その言葉の意味を、ずっとずっと考えていた。
勇気をもって自らの意思で選択する。
もう、聖剣なんかには従わない。

「無理よ…………私はもう…………………助からない」

体は殆ど二つに分かれ、色んなものと共に血も体から流れ出している。
こうして喋れているのが不思議なくらいだ。
わざわざトドメを刺さずとも死を待つだけの女である。
もう余命は幾許も無いのだ、せめて望みの死をくれてやるのが慈悲だろう。

「そんなのは認めない」

だが、慈悲などない。
慈悲のために救うのではない、救いたいから救うのだ。

「けど…………どうやって」

聖の頂点である勇者には魔の頂点である邪神を救うことはできない。
勇者の一撃は再生を許さず、都合のいい回復薬もない。
ならば、とれる選択など一つしかなかった。
勇二は聖剣を地面に突き立て告げる。



「――――――――――――聖剣を破棄する」



剣から手を放す。
個人で世界を革命出来るだけの力の所有権を破棄する。
歴代勇者が猛毒と知りながら誰一人として捨てる事の出来なかった力を、勇二は何のためらいもなく放棄した。
勇二の勇者に聖剣はいらない。

「あぁ……………ッ」

勇者の力が粒子となって舞い上がり、闇に溶ける様に消えて行く。
オデットの死の象徴が霧散していく。
それまるで儚くも散りゆく花吹雪のようだった。
オデットは倒れこんだまま、名残惜しげに光の残滓を見送った。

そして黄金が徐々に色あせて行く。
聖剣は化石のように色を失いついに名残も残さず灯は消えた。

耳鳴りがするほど静かな、肌寒い夜。
乾いた風が吹いた。
夜の帳が落ちる。

「さあ、僕は踏み出したぞ。オデットさんも諦めて僕に助けられろ!」

傲慢に勇者が告げる。
あと一歩の勇気を求める。

勇者とはなんだ。
世界を救う力を持つ者の事か。
困難に立ち向かう者の事か。
巨悪を討つ者の事か。
そのどれもが正しく、そのどれもが違う。

「私自身が多くの人に迷惑をかけたわ。あなたにだって襲い掛かった、今更助かったところで」
「…………それなら僕も同じだよ。いろんな人に迷惑をかけた」

オデットの返事など待たず、言いながら霊力による糸で分断された体を縫合する。
勇者の力が消滅したことにより回復魔法は使えなくなったが、同時に再生阻害も消滅した。
これほどの深手、神の力を得たオデットの生命力をもってしても、生き残れるかは五分だが。
体は繋げた、後はオデットの再生力に任せるしかない。

「だから一緒にやり直そうよオデットさん。死んじゃうなんてそんなのは逃げてるのと同じだよ」

あぁ、とオデットがあきらめた様に息を漏らす。
余りにも正しく、余りにも眩しい、余りにも残酷な存在。
自信の勇気で他者を救うのではなく、他者にも勇気を求める勇者。
その勇気を以て、他者に勇気を与えられる者。
それが勇二の示す勇者の形。

「そう…………今回の勇者は、厳しいですのね」

ふと空を見上げる。
そこには当たり前の様に月が浮かんでいる。
いつかと同じく傍らには勇者がいる。
あの時とは違う勇者とあの時とは違う異界の月を見上げていた。

【H-5 草原/真夜中】
田外勇二
[状態]:人間、消耗・大
[装備]:なし
[道具]:基本支給品一式
[思考]
基本方針:自分らしい勇者として行動する
1:ワールドオーダーを倒す
[備考]
※勇者ではなくなりました

【オデット】
状態:再生中。胴体両断。首骨折。右腕骨折。神格化。疲労(大)、ダメージ(極大)、首輪解除、マーダー病感染
装備:なし
道具:リヴェイラの首輪、携帯電話
[思考・状況]
基本思考:-
1:勇二に助けられる
※ヴァイザーの名前を知りません。
※ヴァイザー、詩仁恵莉茜ヶ久保一スケアクロウ尾関夏実、リヴェイラを捕食しました。
※現出している人格は最初からオデットでした

151.悪党を継ぐ者 投下順で読む 153.HERO
時系列順で読む
!緊急クエスト! ― 悪党をやっつけろ ― 田外勇二 そして1日が終わる
死なずの姫 オデット

タグ:

+ タグ編集
  • タグ:
最終更新:2018年10月31日 18:48