感情に乏しかった生の中で、初めて、あるいは唯一抱いた感情。
それは〝憎悪〟だった。
氷月蓮の生まれは、地方の伝統ある名家だった。
父と、母と、犬とで暮らしていた。
父は厳格さと柔軟さを併せ持ち、母は優しく美しかった。
特別な行事の際、母が着付けの整った和装を纏い父の後ろを歩く姿は、幼少の氷月の記憶に焼きついていた。
普段の生活でも、行事の忙しい合間でも、母は幼い氷月を目が合うとにっこりと笑み、時に菓子を勧めたりもした。
一方で父は仕事によく打ち込む人間だったが、仕事がひと段落つくと幼い氷月を膝に乗せ、児童書や図鑑を共に読んだり『おまえの美形は母さん譲りだ』と大きな手で息子の頭を撫でた。
家には父の集めた多くの本があり、氷月は幼い頃から本を読み、成長し、小学生に上がる頃には読んだ本について、つたないながらも父と議論ができるまでとなっていた。
父も母も、そんな氷月の成長を喜んだ。
生来の感情の乏しさもあって、氷月はそんな二人に何も感じなかったが、少なくとも『ここは自分がいてもいい場所だ』とはうっすらと認識していた。
氷月は両親に好かれるため、二人といる間は『善良で利発な子供』の演技をしていた。
氷月の家から少し歩くと、自然豊かな裏山があった。
暖かい太陽と涼やかな木陰、風が運ぶ草と川の匂い。
両親は氷月が裏山で遊ぶのを歓迎した。
生まれて初めて氷月が生物の命を奪ったのも、この裏山だった。
最初は小さなカマキリが、どういう身体の構造をしているのか気になり、手に取った。
手足を引きちぎり、腹を潰し、頭をちぎった。
それだけだった。
だが、その時の氷月は、今まで感じたことのない『生の実感』をかすかに感じた。
カブトムシの角を切断し、殻ごと粉々に踏み潰した。
カエルを捕まえ、持ってきた刃物で内臓をほじくった。
毛虫が大量にいる藪に、近所の農家から盗んだ農薬を蒔いて悶え死ぬのを見
た。
時には父の書斎から得た知識を使い、氷月は生き物を殺し続けた。
生き物の命を奪うたびに、その『生の実感』は、氷月の中で確固たるものとなっていった。
それは、両親や友人と共にいても決して得られない感覚だった。
やがて、氷月が命を奪う対象は、小さな虫から鳥やリスなどの小動物、やがて野良の犬や猫へと変わっていった。
そして、
◆
氷月はソファに座り、傍らでうとうとしているアイの頭を優しく撫でていた。
その隣では叶苗が穏やかな目でアイと氷月を見守っている。
日月の目から見たその姿。
美術館に飾られた絵画のようでもあった。
だが、それでも日月は思う。
(氷月の雰囲気は安心できない)
物腰穏やかな彼は一見無害に思える。
だが、ちりちりと、心の隅には警戒感が生まれてしょうがない。
そして一番歯痒いのは。
どんなに警戒感を抱いても、今の日月にはこの男をどうすることもできないという絶望だった。
今の氷月は、この場の中心にいた。
彼は日月たちをこの廃墟へ導き、叶苗とアイの心を掴んだ。
日月は出会った時から氷月の違和感に気づき、警戒していたつもりだった。
『君は、今もアイドルで在り続けたい』
『そう思っているんだね』
先ほどのミニライブで掛けられた、なんてことない彼の言葉。
日月に重くのしかかる。
たとえそれが、ライブを始めた経緯を含めて氷月の計算だとしても。
嘘をつけなかった。
アイドルとして、また在りたい自分に。
「日月」
氷月が、自分を下の名前で呼ぶ。
煩わしい行いなのに言い返せない。
「……なに」
見ると、氷月は心配そうな顔を浮かべていた。
「見たところ、少し疲れているようだね」
「別に」
「久々にライブをやったんだ。気を張ってしまったんだろう」
「……だから何よ」
氷月が端正な顔に笑みを浮かべる。
昔絵本で見た砂糖菓子の男を思い出した。
「少し、一人になってはどうだい?」
氷月は言う。
「同じ空間に複数でずっと一緒にいるのは、安全だろうが疲れてしまう。僕もそうだ。きみは少し休んだほうがいい」
日月は氷月を睨んだ。
ーー実際、睨むことしかできなかった。
男の言うことはもっともなのだ。
「……」
日月は返答を考える。
考える最中無意識に見たのは、氷月とともにこちらを見る叶苗と、そのそばですやすや眠るアイだった。
日月は、目を細める。
「……」
今自分がこの場を離れたら、この二人はどうなってしまうのだろう。
そう巡って来た思考に勝手に苛立つ。
「……わかったわ。ちょっと頭、冷やしてくる」
日月は、一人外に出ることを選んだ。
叶苗とアイなどどうでもいい。
そう自分に言い聞かせて。
かつて二人を自分に託したジャンヌの言葉を一瞬思い出し、すぐに無理やり思考を切り替えた。
「いってらっしゃい」
氷月は苛立つ日月をよそに、にっこりと微笑んだ。
それと同じく、ソファで眠っていたアイの細目が開き、むにゃにゃむ、と伸びとあくびをする。
アイは、一人廃墟から出ていく日月を薄目でじっと見ていた。
◆
日月がこの場から消えて少し経った時だった。
叶苗は、自分たちのいる廃墟のドアを思い詰めた目で見つめていた。
「不安かい?」
アイを挟んで隣にいた氷月が、叶苗に問う。
「……はい」
「叶苗は優しい子だね。とても仲間思いの子だ」
氷月は微笑む。
「……だが、日月も自分と向き合いたい時があるんだろう。彼女の気持ちを汲んで、ここは一人にしてあげるべきだ」
「そう、ですよね……」
「それに、叶苗。僕たちの中で、きみも重要な戦力の一人なんだ。君まで動いてしまったら、せっかく築いたこの安全地帯が瓦解する危険だってある」
「はい……」
叶苗はうなだれる。
アイは、大きな目でじっと二人のやりとりを見ている。
数秒、無言の時間が流れる。
「ごめんなさい……氷月さん」
「どうしたんだい?」
「私、やっぱり……日月さんが心配です」
叶苗は、小さい声で、途切れ途切れに話す。
「私とアイちゃんがキングの命令で、どうしようもなくなった時……助けてくれたのが、ジャンヌさんと日月さんなんです。日月さんは、ジャンヌさんから私たちを託されて、ここまでついてきてくれた。日月さんは大切な人です。あの人が困ってるのに、見逃したりなんか……できな」
「ダメだよ」
叶苗の言葉を、氷月は唐突に遮った。
ビクリとする叶苗に、氷月は普段と同じ優しい笑みを見せる。
「僕だって、君たちが大事だ」
目を笑みに細め、叶苗に顔を近づける。
「いなくなってほしくない」
叶苗は、正体の掴めない寒気を背筋に感じた。
「あう。あうあう、あい?」
そんな二人の様子がよく掴めていないまま、アイが言葉を挟む。
「アイちゃん……?」
「あう、あう」
「アイちゃん。どうしたのかな?」
あうあうと鳴くアイを、氷月はニコニコと見下ろしている。
ふと、アイはおもむろに叶苗の服を掴み、ソファから降り、引っ張る。
「ちょっ、アイちゃん……!」
慌てる叶苗。
一方のアイは、廃墟の外を何度も顔で示す。
「あい、あい!!」
日月が出て行った方向。
その意図に先に気づいたのは、氷月だった。
◆
氷月は一瞬、叶苗の頬を殴ろうかと考えた。
そしてアイに言う。
「きみがわがままを言うばかりに、きみの大切な叶苗が怪我したよ」
◆
だが、氷月はそれをしなかった。
アイがその行為を理解できるか不明だったのと、彼女の超力が未知数だったからだ。
叶苗のことで逆上し、超力を発動されたらこちらにも危険が及ぶ。
氷月は砂糖菓子の紳士のようにニコ、と笑う。
「どうやらアイちゃんも日月が心配みたいだ。僕の完敗だね。アイちゃんは僕が見ておくから、行っておいで、叶苗」
「……ありがとう、氷月さん……!!」
叶苗はあっという間に晴れやかな表情になり、廃墟を飛び出して行った。
廃墟に残されたのは、氷月とアイの二人だった。
「……さてと」
これから、どうするか。
◆
廃墟群から少し歩いた川の流れる場所。
そのほとりに日月は一人座り込み、流れる川をじっと見ていた。
「……全然私らしくない」
氷月の顔が、あの時かけられた言葉が、日月の脳裏に繰り返される。
このままここに座り込んでいても、どうにもならないのはわかっている。
ではまた氷月のいるあの場所に戻って、何か変わるのか?
自分がいくら警戒しても、結局あの男に転がされるのがオチだ。
あいつに、勝てない。
離れて楽になりたかったはずなのに、先ほどよりも強い焦燥感が日月を襲う。
このままあいつらなんて捨てて、逃げてしまおうか。
そんな思考も過る。
どうせあいつらに義理などないのだから。
そんな時だった。
唐突に背後から聞こえた砂利を踏む音に、日月は一瞬神経を粟立たせる。
後ろを振り向く。
「あっ」
おどおどした表情の叶苗が、そこにいた。
「……なによ」
「ごめんなさい、日月さん。……びっくりさせちゃいましたね」
氷月でなくてよかったと内心安堵する自分を、日月は恥じる。
叶苗も、あの男とはまた違った意味で苦手ではあるのだが。
「その、日月さん。思い詰めた顔をしてたから。心配して見にきたんです」
「私は別になんともないわよ」
嘘だ。正直逃げ出したい。
日月から見た叶苗の姿は、弱々しい眼差しで、困ったような顔をしている。
「……」
日月は、じっと叶苗の顔を見る。
おそらくあのグループの中で、彼女が最も氷月の影響を受けている。
「日月さん?じっと見て、どうしたんですか?」
「別に」
この少女といくら話したところで、どうせ状況は大して変わらないとは思いつつも。
「叶苗」
突然名前を呼ばれびくっとする叶苗を目で捉え、叶苗は自分の隣をちょん、と指差し誘った。
「えっ、日月……さん?」
日月は叶苗に言う。
「ちょっと来なさい。気分転換に、世間話でもしましょ」
それが意味がないとわかっていても、日月はそうせざるを得なかった。
少しでも、氷月のプレッシャーから逃れられるなら。
そんな気持ちだった。
◆
日月と叶苗は、二人、川のほとりに座っていた。
叶苗を隣に座らせたはいいものの、両者とも肝心の話す話題が浮かばず、川のせせらぎの中、しばらく気まずく無言だった。
無言に耐えきれず、最初に口を開いたのは日月だった。
「……あんた、」
「あっ、はい」
叶苗がしどろもどろに反応する。
「なんか喋りなさいよ」
「えっ」
あなたが世間話をするよう持ちかけたのでは……
という意見をぐっと飲み込み、叶苗は頭を回転させ必死に話題を探す。
だが、結局話題は見つからず、申し訳なさそうに叶苗は耳を垂らした。
「ごめんなさい、無理です……」
「……そう」
再び、無言の時間が流れた。
二人とも、何も喋らずただじっと川を見ていた。
決まったリズムで、永続的に刻まれる川の音。
生物の気配が一切ない事を除けば、何の変哲もないよくある川。
時折穏やかな風が凪いで、叶苗と日月の髪を揺らした。
「……日月さんのさっきのライブ、すごかったです」
長い無言の後に口を開いたのは、叶苗だった。
「プロだもの。あれぐらいできて当然よ」
「プロとかプロじゃないとか、私にはよくわからなかったけど……すごかった。本当に」
「ありがと」
「ここが刑務作業の場所じゃなくて、お姉ちゃんが生きてたら、見せたかったです」
「……そう」
日月は隣を見ると、叶苗と目が合った。氷月の言葉に心酔している時とは違った、空を映し、輝きの灯った目だった。
日月と目が合った叶苗は「にへへ……」とはにかみ気味に照れた。
「その……アイドルって、実際どんな感じなんですか?レッスンとか、サインを書くのも、日月さんなら簡単にこなしちゃうんですか?」
「あんたが見た通りよ。……と言いたいけど、レッスンはけっこうハードね。辛い、と思った時も何度もある。サインを考えるのは楽しかったわね」
「そうなんですか……ファンから応援されるのとか、やっぱり嬉しいですか?」
「嬉しい。そりゃあ、すごく」
「へぇ……」
叶苗は大きな目を見開く。
日月のアイドルとしての日々を、夢想しているようだった。
かと思えば、何かに思い当たったのか、急に押し黙る。
「どうしたのよ」
「いえ、その……」
先ほどまでの夢見る様子とは一変し、叶苗は俯き縮こまる。
その反応を見て日月は察した。
「安心しなさい。枕営業なんてしてないわ」
その言葉に、叶苗は身を起こす。
日月は続ける。
「私はとっくのとうに処女じゃない。恥ずかしいことなんてない。アイドルになるずっと前から、身体を使っていろんな男に取り行ってきた」
「日月さん……」
「けどアイドルの私は違う。アイドルとしての私は身体で成り上がることなんて絶対にしない。今までも、これからも。ーーそれが答えよ」
「……やっぱり、すごいです」
関心する叶苗を日月は目を細めて見ていたが、
「あんたも何か喋りなさいよ、叶苗。私ばっかり話して、不公平じゃない」
「えっ、私ですか?!でも日月さんに話すほどのものは……」
「何かあるでしょ。好きだったものの事とか」
「好きだったもの……」
そう言われて叶苗が真っ先に浮かんだのは、かつて暮らしていた家族の事だった。
「……私の家族のことでも、いいですか?」
「……ま、それでもいいわ」
叶苗は日月に言われるままに、家族のことを話した。
家事を手伝ったご褒美にもらえるクッキーバニラアイスがおいしかったこと。
姉と一緒に夜の映画を最後まで観ようとして、仲良く寝落ちしたこと。
お風呂で身体をきれいにした時、お母さんに毛皮を乾かしてもらう時間が好きだったこと。
お父さんと、次の旅行はどこにしようかと一緒に計画するのが楽しかったこと。
喪失と復讐に塗り替えられ、もう失ったと思われた家族の思い出。
話せば話すほど思い出はたくさん出た。
日月は、叶苗の話を静かに聞いていた。
やがて話しているうちに、叶苗の目からぼろぼろと、大きな涙がこぼれた。
「あっ、ーー……ごめんな、さ」
不意の涙はやがてすすり泣きに変わる。
そんな時に、
日月が、そっと叶苗を抱きしめた。
「……っっ」
最初、叶苗は何をされたのかわからなかった。
だが、状況を少しずつ把握し、日月の抱擁の暖かさを感じると、
叶苗も彼女の背中に腕を回し、肩に顔をうずめ、無言で泣いた。
日月も、自分の行動に驚いていた。
無意識に身体が動いた。
かつて掛けられたジャンヌ=ストラスブールの言葉を思い返す。
『あなたは親切な人だから』
だが、彼女の言葉がなくとも、果たして自分はこれをせずにいられただろうか。
「……あんたの話は、よくある話よ。ありきたりな家族の話」
叶苗を抱きしめながら、囁くように日月は言った。
「なんてことない毎日が幸せで、ずっと続いて欲しかった。失ったからこそ大事だと気づいた。そんな、よくある話」
「……はい…………」
「……あんたは、幸せを取り戻したかったのね」
午前の静かな川に、叶苗の嗚咽が漏れた。
◆
「……さっきはごめんなさい」
「別にいいわ」
少しだけ時間が経ち、お互い隣同士、肩と肩をくっつけていた。
「……日月さん」
「何?」
名前を呼ばれ、日月は振り向く。
叶苗は、少しためらいがちに問う。
「アイドルに……また戻りたいですか?」
日月はこの問いを聞き、一瞬氷月の言葉が脳裏に浮かんだ。
だが、今目の前にいるのは氷月でなく叶苗だと。
気持ちを切り替え、答える。
「……なれるものならね」
日月は空を見上げる。
「……叶苗。今まで生きてきた中で、眩しいって思った瞬間はあった?」
「えっ、私は……お母さんやお姉ちゃんたちといた時とか、かな」
「そ。あんたらしいわね」
「でも……やっぱり考えたら、あります。お姉ちゃんと一緒に見たアイドルのライブとか、あと……日月さんのさっきのライブ。すごくキラキラしてました」
日月は、無意識に少し微笑んだ。
「ねぇ……叶苗」
天を仰ぐ日月は、自分の手のひらを、空に昇る太陽に掲げた。
「私の人生、クソみたいなもんだったけどーーアイドルの私は眩しいって、自分でもはっきりわかった。ステージに上がって歌う時は、心底生きてるって感じがした。私はーーアイドルをやってる自分のことが好き」
訥々と喋る日月の姿。
そんな彼女を、叶苗は心底眩しいと思った。
叶苗は微笑む。
「……私も見つけたいです。自分で、眩しいって思えること」
◆
叶苗と日月が語らう場から少し離れた草陰。
そこに氷月は一人隠れ、じっくりと二人の会話を聞いていた。
『少し二人の様子を見てくる。寂しいかもしれないが、ここで待っていてくれないか』
アイにはそう言って、拠点の民家で待機してもらっている。
日月も叶苗も、言葉のやりとりを経てお互いの心を絆されたようだった。
この事により、もしかしたら自分の支配が綻んだかも知れない、と氷月は考える。
叶苗を日月のところに行かせるべきではなかったと、少し後悔する。
ーーだが、そうなってもやりようはある。
「えへへ、私……日月さんのおかげで、もしかしたら夢を見つけた気がする」
「どんな夢?聞いてあげる」
日月と叶苗はこちらに気づいていない。
「私……日月さんみたいにキラキラ輝くのは無理でも、輝きを失っている人に、ちょっとでも優しくできたらな、って思うんです」
「そう」
もじもじしながら微笑む叶苗と、まんざらでもない面持ちで叶苗の話を聞く日月。
さて、これからどうするか。
話がひと段落ついたところで、二人の前に現れようと氷月は考えていた。
「日月さんに抱きしめてもらった時、すごく嬉しかったんです。自分の根っこの大事なところを、暖かい光で包まれた感じ。私、人を殺したから幸せになっちゃいけないと思ってたのに……安心しちゃって」
「あんたは確かに罪を犯したけど、大切なものがあるのは確かだった。……それだけよ」
「だから……私、思うんです」
叶苗は続ける。
「どんな罪を犯そうとも、人は必ず、抱きしめて許してくれる人を求めてるんだって」
氷月の目が見開く。
「幸せに、みんななりたいんです」
一連の言葉を聞いた途端だった。
氷月に、急激に過去の記憶がフラッシュバックした。
◆
◆
そして、11歳の頃だった。
氷月は飼い犬を殺した。
両親ともに、可愛がっていた犬だった。
氷月も、上辺ではその犬を大切にしているように振る舞っていた。
そんな飼い犬を彼が殺したのに深い理由はない。
『ただできそうだったから』
それだけだった。
飼い犬の死体を処理した日、それは雨粒が大地を打ちつける激しい雨の日だった。
氷月は裏山で、雨と泥に塗れながら犬の死体の処理をしていた。
そんな時、後ろに気配を感じて振り向くと、雨水に服を濡らし立ち尽くす母の姿があった。
母は息を切らしていた。
ひどい雨の中、家にいない氷月を必死に探したようだった。
母の目は、氷月と、彼が今まさに解体している愛犬の成れの果てをじっと見ていた。
「蓮……」
母が蚊の鳴くような声で名を呼ぶ。
もはや役に立たない傘を捨て、じりじりと、一歩一歩、息子に歩み寄る。
すべてが終わった。
母を冷静に見ていた氷月は、そう考えていた。
氷月が両親から逃げた後の生活を考えていた時、
母は氷月の目線にしゃがむと、彼をぐっと、力強く抱きしめた。
予想できなかった事態に、氷月は一瞬固まった。
雨に濡れて冷え、それでも少しずつ暖かくなる母の体温が伝わってきた。
母は氷月を抱きしめながら言った。
「私もあの人も、仕事にかかりきりで……本当にごめんなさい。ひとりぼっちで、寂しかったのよね」
抱きしめられた氷月は、目を見開く。
「幸せに飢えていたから、こんな事をしたのよね」
何か言おうとした舌が固まる。
「あなたが気に病む必要はないのよ」
『かわいそうに』
その時生まれた感情を、氷月は鮮明に覚えている。
憎悪。
自分の根底にある尊厳を、汚物と脂に塗れた手でもみくちゃにされ、指でずたずたにされる感覚があった。
『そうだよ。お父さんとお母さんがかまってくれなくて、寂しかったんだ』
母の誤解に話を合わせるのが耐え難い苦痛だった。
その後は犬を埋め、家に帰った。
父は、氷月が犬を死なせたことを叱りながらも、雨の中出かけた事、氷月の孤独と悲しみを心配した。
もう動物は殺さないと、両親に約束した。
それ以来氷月にとって、今まで安全地帯だと思っていた家は、うねる害虫の腹の中にいるような感覚に変わった。
動物はもう殺さなかった。
父と母の目につく場では。
氷月が逮捕されるきっかけとなった、同級生殺害事件。
殺した事に理由はなかった。
『殺せそうだったから殺せた』
ただそれだけである。
けれど、もしそれに理由を見出すとすれば。
幼い頃から氷月は聡明な少年だった。
同級生たちを殺す際、その気になれば事件が発覚する前に証拠を隠滅し、完全犯罪も可能だった。
だが、氷月はなぜかそれをしなかった。
隠せたはずの事件の証拠も、氷月が圧力をかければ黙らせることができた関係者の証言も、わずかだが確実なものが残されていた。
その結果彼は少年Aとして逮捕され、刑務所に収監された。
あえて証拠を残し、自分が犯人だとわかる余地を作ったのか?
その答えはわからない。
氷月本人にも。
氷月が刑務所に収監された少し後、彼の父が心中で命を落とし、生き残った母は精神病院に入れられたと報せが来た。
その日、氷月は普段丁寧に食べているレーションをよりじっくり味わい、看守から怪訝な目で見られたという。
◆
「叶苗!日月!」
川辺にいる二人の前に、氷月は手を掲げながら姿を現した。
「ずいぶん仲良くなったみたいだね」
にっこりと、氷月は二人に微笑みかける。
「えっ、……まぁ……」
気まずい様子の日月とは裏腹に、叶苗の顔はにこやかだった。
「氷月さん。私、夢を見つけました。日月さんが教えてくれたんです」
「そうか。それはよかった」
氷月は叶苗に笑いかけた。
叶苗は続ける。
「私……どんな罪を犯した人でも、その人の寂しさを癒せる人になりたい。暖かさや、眩しさを、ほんの少しだけでも分けてあげられる人になりたい。そう、思いました」
「……素敵な夢だね」
氷月は微笑む。
だが、その場にいた日月だけが気づいていた。
氷月の眼差しが、ぞっとするほど冷たいことに。
叶苗の語る夢を聞く氷月は微笑んでいる。
だが、目に笑顔はなく、視線は冷えていた。
「よくやったね、叶苗。夢を得られただけでもいい事だ。だが、急いではいけない。まずは自分のことを少しずつ満足が行くようにしよう」
「はい……!!」
喜ぶ叶苗の表情を、氷月は猛禽のような目で見ていた。
それに気づいたのは、日月だけだった。
「拠点にアイちゃんがいるんだ。今頃僕たちがいなくて寂しがっているだろう。早く帰ってあげないと」
◆
「叶苗」
拠点とする民家に氷月の先導で戻る最中、日月が叶苗に話しかける。
「?どうしたんですか、日月さん?」
「あんた……氷月には、気をつけなさい」
日月は、意味がないとはわかりつつも、叶苗にだけ聞こえるように囁く。
「でも、氷月さん……いい人ですよ?あの人のおかげで助かったこと、たくさんあるし……」
「それでも注意はしてなさい。あんた、意外とワキが甘いから」
日月は一呼吸置くと、
「そもそもここは犯罪者が集まって殺し合いをさせる場所。あいつは動機が復讐と言ったけど……何か隠してる可能性がある。注意するに越したことはないの」
「そう、でしょうか……」
「下手すれば自分の命に関わる問題よ。シャキッとしなさい」
「……はい」
やがて、拠点としている廃墟の民家が見えてくる。
「アイちゃん……寂しい思いさせちゃったな」
「そうね」
氷月、叶苗、日月の3人は、拠点の民家に向けて歩く。
◆
【C-7/廃墟東の民家/1日目・午前】
【氷月 蓮】
[状態]:健康、憎悪の感情
[道具]:Tシャツ、ナイフ3本、フォーク3本、デジタルウォッチ
[恩赦P]:0pt
[方針]
基本.恩赦Pを獲得して、外に出る
1.この集団の信頼を得る。
2.集団の中で殺人を行う。
3.殺人のために鑑日月を利用する。
【鑑 日月】
[状態]:肉体の各所に火傷、深い屈折、葛藤
[道具]:なし
[恩赦P]:0pt
[方針]
基本.アビスからの出獄を目指す。手段は問わない
0.???
1.氷月への警戒を強める。
2.ジャンヌに対する葛藤と嫉妬を抱えつつ、彼女の望み通りに叶苗とアイを保護する。
3.ジャンヌ・ストラスブールには負けたくない。彼女を超えて、自分が真の偶像(アイドル)であることを証明したい。
【アイ】
[状態]:全身にダメージ(小)
[道具]:なし
[恩赦P]:0pt
[方針]
基本.故郷のジャングルに帰りたい。
1.(かなえを傷つけたくない、でもどうすればいいかわからない)
2.(あいつ(ルーサー・キング)は、すごくこわい)
3.(ここはどこだろう?)
4.(れんはきらいじゃない)
【氷藤 叶苗】
[状態]:胴体にダメージ(小)、罪悪感、夢を得た高揚感
[道具]:シャツ、鋼鉄製の手甲(ルーサーから与えられた武器)
[恩赦P]:0pt
[方針]
基本.寂しさを持つ人に寄り添いたい。
1.アイちゃんを助けたい。
2.日月さんは、きっとアイドルで居続けたい。
※ルーサー・キングから依頼を受けました。
①ルメス=ヘインヴェラート、ネイ・ローマン、ジャンヌ・ストラスブール、恵波流都、エンダ・Y・カクレヤマ。
以上5名とその他の“目ぼしい受刑者”を対象に、最低3名の殺害。
②1人につき15万ユーロの報酬。4名以上の殺害でも成果に応じて追加報酬を与える。協力者を作って折半や譲渡を約束しても構わない。
③遂行の確認は恩赦ポイントの回収履歴、および首輪現物の確認で行う。
④第2回放送直後、B-2の港湾で合流して途中経過や意思の確認を行う。
④依頼達成の際には恩赦後のアイの安全と帰還を保障する。
[共通備考]
※デジタルウォッチには恩赦ポイントの増減履歴を参照する機能があります。
どの受刑者の首輪からポイントを回収したのかを確認することも可能です。
※首輪には装着者を識別する囚人番号と個人名が刻まれています。
※交換リストに「参加者詳細名簿-80P」があります。
最終更新:2025年07月14日 19:58