◆
『ねー、かなちゃん』
お姉ちゃんが、私に話しかけてくる。
叶苗、縮めて”かなちゃん“。
お気に入りの呼び名だった。
『かなちゃんはさ。アイドルとかって聴く?』
休日のリビングにて、ソファの上でくつろぐお姉ちゃん。
お姉ちゃんの膝の上で、猫みたいにぐでっと伸びる私。
なんてことのない、ゆるやかなひと時が流れていたけれど。
ふいに問われた質問に対して、私は少しだけ考え込む。
『んー……あんまり』
『そんな好きじゃない?』
『わたしみたいな女の子、いないしなぁ』
私はほんのりと寂しさを覚えるような気持ちで、そう答えた。
世間ではアイドルが人気らしいけれど、私はあまり興味がなかった。
きっと私みたいな亜人の娘はいないだろうと思っていたから。
まだ9歳だった頃の私は、自分の姿に折り合いを付けられていなかった。
今となっては、もう吹っ切れているけれど。
家族の中で自分だけがヒトの姿じゃないことを、あの頃の私は気に病んでいた。
お父さん、お母さん、お兄ちゃん、そしてお姉ちゃん。
家族みんな、私のありのままを愛してくれたけれど――それでもあの日の私は、まだ幼かったのだ。
『じゃあかなちゃんが第一号なっちゃえば?』
『なんでそーなるの』
『可愛いもんねぇ、かなちゃん』
だからあの日のお姉ちゃんも、あっけらかんとした笑顔でそう言ってくれた。
私はなんとも言えぬ気持ちになりつつ、けれど満更でもない様子ではにかむ。
自分の姿に思うことはあるけれど、それでもやっぱり家族のことは好きだった。
お姉ちゃんは、アイドルが好きだった。
今の時代、アイドルというものは隆盛を極めているらしかった。
開闢の日を経て、世界中で治安が悪くなったり、未来の先行きが不透明になっている中。
世界的に見ても安定した発展を遂げている日本では、そういった閉塞感を吹き飛ばしてくれるカルチャーが流行っているそうだ。
キラキラしたアイドルはまさにその筆頭だった。今や日本の芸能界はアイドル戦国時代らしい。
――SNSで聞き齧った話である。
『ほれ、かなちゃん。聴いてみな』
『みゃー』
お姉ちゃんから亜人専用の骨伝導ヘッドホンを差し出される私。
私は変な唸り声をあげて「つけてー」と訴えかける。
その意図をすぐに察してくれたお姉ちゃんが、いそいそとヘアバンドのようなヘッドホンを付けてくれる。
――いつだって どこに居たって 頑張ってる君へ伝えたいよ――♪
――私がいること ここにいるって この歌にのせて――♪
お姉ちゃんのスマホを通じて流れる、アイドルの楽曲。
ヘッドホン越しに届けられる、希望に満ちた願いの歌。
すごく有名な曲らしいけれど、私は教科書くらいでしか知らなくて。
けれどお姉ちゃんは、このアイドルの大ファンらしかった。
『私の最推し、ひかりちゃんの歌!もう引退しちゃったけどねぇ』
お姉ちゃんは、にこにこしながら。
けれどちょっぴり寂しそうにそう言ってた。
例え今日が上手くいかなくて、嫌になることがあっても――。
私はキミが頑張っていることを、いつだって知っている――。
だから私は、この想いをキミに届けたい――。
そんなフレーズが、肌を通じて響いてくる。
あの日の私は、ただ静かに聞き入っていた。
お姉ちゃんの温もりを、その身に感じながら。
慈しさに満ちた歌が、私の心にすっと寄り添ってくれる。
私は、お姉ちゃんの好きな曲を聴いて。
お姉ちゃんの膝の上で、ただぼんやりと安らぐ。
そんな私を、お姉ちゃんが優しく見守ってくれる。
――――何もかもが、遠い日の記憶だ。
――――今ではもう、私は“孤独”だから。
私の想いは、きっと家族のみんなには届かない。
だって私は、復讐というものに身を捧げたから。
こうしなければ、自分自身にけじめを付けられなかった。
けれど、きっと。私はもう、天国に行く資格も失ったのだろう。
血に濡れた手を伸ばしたところで、お姉ちゃん達は喜んではくれない。
そんな気がしてならなかった。
◆
C-7、廃墟の東部。
緩やかに青空へと昇り始めた太陽。
朝の光が線を引くように、窓から静かに射す。
民家に留まる四人は、微睡むような時間を過ごす。
鑑 日月は、窓の外を眺めていた。
緩やかに動き出す時の中、青空を見上げながら物思いに耽っていた。
周囲への警戒を怠ることはない――共に過ごす面々にさえも、彼女は気を許さなかった。
ちらりと、日月は視線を動かした。
気持ちを落ち着かせた様子で壁に寄り掛かって座り込む氷藤 叶苗。
そんな彼女に寄り添うように身体を擦り寄せるアイ。
そして、叶苗達を見守るようにリビングの椅子に腰掛ける――氷月 蓮。
当面の安全と安息を目的に、日月たち四人はこの民家で寄り合っていた。
気にしなければいい、さっさと見放せばいい――ふいに日月は思いを巡らせた。
氷月に叶苗達を押し付けて、この場から離れれば良いだけのこと。
そうすればわざわざ気負う理由も、警戒して気を張り続ける必要もなくなる。
しかし日月は、この場から離れることを躊躇い続ける。
氷月の思惑が読み切れず、彼が日月の離脱を許すのかさえ判断できないからだ。
もしも氷月が何か思惑を抱えて、自分達に危害を加える意図があるとすれば――こちらが単独になった瞬間を狙う可能性も否定できない。
既に彼は叶苗とアイの信頼を得ている。この場で自由に動くための土壌を敷いているのだ。
それに――――何よりも。
日月は、この場を離れる気になれなかった。
脳裏をよぎるのは、あの聖なる偶像の姿。
自分に叶苗達を託した、あの眩い少女の微笑み。
“あなたは親切な人ですから”。
彼女の言葉が、脳裏に焼き付いていた。
炎の聖女は、日月を信頼して。
日月へと、心からの感謝を手向けてくれた。
日月の胸の内が掻き毟られる。
苛立ちと憎しみが込み上げてきて。
それからふっと、満たされるような感情が押し寄せる。
言い表せない感情が渦巻いて、日月の心は雁字搦めにされる。
その想いの意味を、彼女自身も咀嚼しきれない。
確かなのは、日月はあの“太陽のような偶像”から託されたということだった。
だから。今はまだ、日月は。
ここを離れる気にはなれなかった。
ふいに日月は、視線を感じた。
むず痒くなるような感覚を抱いて。
視線の主を、日月はふっと流し見た。
「あの……日月さん」
叶苗が日月を見つめながら、呼びかけていた。
くりっとした両目が、日月へと向けられている。
彼女の顔をまじまじと見つめて確かめるように、叶苗は目を凝らす。
「そういえば……」
今更なんですけど、と付け加えつつ。
叶苗は言葉を紡ぎながら、日月を凝視し続ける。
「もしかして……」
ユキヒョウの亜人である叶苗の目付きは、猫を思わせるような愛嬌を讃えている。
そんな瞳に見つめられたことで、日月は何とも言えぬむず痒さを感じてしまったが。
「“あの”鑑 日月さん、ですか?」
「えっ?」
叶苗からの思わぬ問いかけに、日月はきょとんとする。
今さら聞かれたような質問に、呆けたような反応を返してしまった。
“あの”鑑日月。何処か引っかかるような、奇妙な表現だった。
それはどういう意味なのかと、日月が問い質そうとした。
「いや……」
そんな日月の心情を察したように、叶苗は何とも言えぬ様子で言葉を紡ぐ。
今この状況で、こんな話をしてもいいのだろうか――そんなささやかな迷いを抱くように。
それからおずおずと叶苗は、その口を開いた。
「テレビに出てましたよね」
叶苗からそう言われて。
日月は思わず、目を丸くした。
「すごく人気のあるアイドルだって……」
かつて家族を殺されて、復讐に身を委ねていた叶苗。
そんな日々の中で心身をすり減らし、時に束の間の逃避へと走ることもあった。
孤独な部屋で、気を紛らわせるためにテレビを付ける日も少なくなかった。
他愛もない番組が垂れ流される中で、彼女の姿を見たことをふいに思い出したのだ。
アイドルの番組を、叶苗は時おり見ていた。
けれど辛いときは、避けることもあった。
姉の面影に触れられることは、安らぎにも悲しみにも繋がった。
そして日月は、呆気に取られたような反応をする。
――世界各地から犯罪者が集められた、地の底の監獄。
そんな場所に半年も放り込まれて、他の犯罪者との関わりも避けていたが故に、日月は些細なことを見落としていた。
少なくとも日本において、自分は“けっこうな有名人”なのだという、とてもささやかな事実を。
氷月蓮は、アイと共に叶苗と日月のやり取りを見守っている。
ほんの少しだけ、意外そうな様子をその顔に浮かべていた。
それは動揺と言えるほどのものではないけれど。
それでも少なくとも、日月が何者であるのかを彼が初めて知ったことの証左だった。
「……うん。その鑑 日月」
そして日月は、こくりと頷く。
“開闢の日”という大事件より以前に起きた氷月の犯行を、ネイティブ世代の日月たちが知らなかったのと同じように。
“開闢の日”以前に表社会との関わりを断たれた氷月にとっても、日月のパーソナリティは未知のものである。
“開闢の日”の前後、変革に怯える大衆の灯火となるように幕を開けた“第二次アイドル戦国時代”。
GPAの存在によって米国と共に発展・繁栄を続けた日本だからこそ巻き起こった、芸能界のムーブメント。
その黎明期の頂点に君臨していた伝説のアイドルたち、“美空ひかり”や“TSUKINO”の再来と評された大型新人。
ソロアイドルとして鮮烈にデビューして以来、その美貌と才能によって破竹の勢いで台頭した超新星。
――――それこそが“鑑 日月”である。
◆
ある日の、何気ない帰り道。
とある“組の親分”との一時を過ごして。
気の抜けた身体を押すように、駅へと向かっていた矢先。
『お願いします』
『は?』
きらびやかな繁華街の路地にて。
真面目そうなスーツ姿の男から、名刺を差し出されていた。
『どうか、お話だけでも聞いて頂けませんか』
男はひどく謙虚な態度で、深々と頭を下げる。
礼儀正しいのに、名刺だけは堂々と突き出している。
両手に取った小さな紙切れを、私に向けている。
『いや……何?』
『私の名刺です。どうぞ』
そんなことは分かってるわよ、と。
思わず喉から吐き出しかけた私だったけれど。
『一目見た時からピンと来たんです』
男は顔を上げて、私をじっと見つめながら言ってくる。
その眼には、真っ直ぐな期待が宿っている。
天使か何かを見つけたように、男は私へと眼差しを向けてくる。
――男達の下卑た欲望や、醜い情動。
これまでの人生で、私が散々目にしてきたもの。
これまでの道程で、私が選び取ったもの。
そうしたものとは、まるで違う想いが宿っている。
眼の前のスーツ姿の男は、こちらを見つめ続けている。
私に対する眩い確信と、感激にも似た意志が向けられている。
『あなたは、輝いている』
その男は、私にそう告げてきた。
呆気に取られたまま、私は言葉を失っていた。
けれど男は、尚も変わらずに私をじっと見つめて。
それから一呼吸を置いて、彼は伝えてきた。
『私は、あなたをスカウトします』
色々な男に取り入って、雁字搦めになってきたけれど。
道端で口説かれて、自分から男に捕まるのは、その日が最初で最後だった。
それが鑑日月というアイドルの、始まりだった。
◆
――周囲の気配は確認済み。
――侵入者が現れた場合の仕掛けも設置済み。
――もしもの際の逃走経路も確保済み。
――叶苗の第六感や、アイの嗅覚で、不測の事態にも備えている。
一先ず問題なし、と四人は確かめた。
少しばかりの余興に走っても、有事のための備えはある。
故に彼女達は“それ”を始めることにした。
リビングに、小さな台座が置かれていた。
家屋内の物置部屋から適当に拝借したものだ。
その上に佇むのは、他でもない鑑日月である。
「…………日月さん、あの」
「…………何よ」
「…………嫌だったら言ってくださいね」
「…………うるさい。アイドルなめんな」
叶苗の気遣いに対し、日月はそう吐き捨てる。
なあなあでこんな状況になったが、もう引くに引けない気持ちになっていた。
台座の周りには、三人が腰掛けている。
ちょこんと座って、膝にアイを抱える叶苗。
叶苗に緩やかに抱えられ、きょとんとした顔を見せるアイ。
肩の力を抜いて胡座を掻きながらも、どこか気品を漂わせる氷月。
彼女達は台座の前に座り、日月を見上げていた。
一体、何が始まるというのか。
その答えは簡単――――ミニライブである。
鑑日月がアイドルであることに叶苗が気付き。
氷月も交えて、何気なく日月について話が始まり。
それからふいに氷月が提案したのである。
――君の歌を聴かせて貰えないかな、と。
なし崩し的に話は進み、気が付けばささやかなライブが始まることになっていた。
無論、周囲の警戒や注意を払うことは前提として。
「あう、あう」
「ほら。アイも楽しみにしているみたいだ」
「なんか鳴いてるだけでしょ」
微笑む氷月の小言に対し、日月は適当にあしらいつつ。
それから――ふぅ、と深呼吸をする。
台座が用意され、三人だけの観客が客席に腰掛け。
そうしてアイドルの歌を、彼女達が待ちわびている。
彼女達に応えるために、こんな地の底で小さな舞台の上に立っている。
奇妙な感情が、日月の胸に込み上げてくる。
いつぶりだろう。こうやってステージに立つのは。
逮捕されて以来、一度も歌うことなんてなかった。
あのステージの輝きは、日に日に遠ざかっていた。
それでも、記憶の奥底から。
あの鮮明な情景は、焼き付いて消えなかった。
日月が焦がれた光は、いつまでも日月の心を照らしていた。
愛おしい輝きが、日月の心を癒やし続けて。
そして、日月の魂を灼き続けていた。
感情がない混ぜになって、雁字搦めになる。
地に足が付いていないような浮遊感が、心を蝕んでいる。
それでも、日月は――――このささやかな舞台の上に、酷く懐かしさを覚えていて。
胸が張り裂けるよう想いに、駆り立てられていた。
すぅ、と息を吸った。
歌うのは、本当に久しぶりで。
舞台に上に立つのは、いつぶりかも分からない。
ほんの小さな、ちっぽけなステージ。
それでも鑑日月にとって、この台座の上は。
彼女が恋い焦がれてきた、アイドルとしての踊り場だった。
◆
在りし日の記憶。
在りし日の歓喜。
在りし日の孤独。
渚色、わたしの瞳。
ゆらり動く景色を映し出す。
スタッフが忙しなく行き交う中。
ハートの声が響き続ける。
ステージの真下。
本番と共にせり上がる台座。
そのうえで、私は忽然と佇む。
じきに、ライブが始まる。
華やかな舞台の下、ささやかな空間の中。
仄暗い闇の中でじっと待ち続ける、静かなる一時。
男と寝た後の静寂よりも、ずっと心地よくて。
これから訪れる高揚を前に、胸が高鳴っていく。
アイドル、鏡日月。
超新星。大型新人。
数十年に一度の逸材。
伝説の少女達の再来。
彗星のごとく現れたヒロイン。
みんな、私をそんなふうに称賛する。
清廉潔白。才色兼備。完璧なアイドル。
私のことを、誰もが持て囃してくれる。
あの輝きの中で、私は眩い星になっている。
結局のところ、私は。
掃き溜めの魔女でしかない。
だというのに。そう思っているのに。
ステージが、私の心を捕らえ続けている。
だから私は、今もここにいる。
この興奮と歓喜を、手放したくないから。
アイドルという希望に、私は灼かれているから。
――――本番5秒前。
スタッフが、開幕の合図を告げる。
楽曲の前奏が、流れ始める。
往年のシティ・ポップをオマージュした旋律。
レトロとモダンが手を取り合う、お洒落なサウンド。
私が手にしたもの。私が得た、掛け替えのない音楽。
私は気を引き締める。
息を呑んで、待ち構える。
そうして私は、微笑みを浮かべる。
此処に立てる歓びを、ただ噛みしめる。
私は、光と影を背負う。
孤独(Loneliness)は止められない。
それでも、強がりで奮い立つ。
『じゃ――――いってきます!』
鏡日月。
私は、アイドルだから。
◆
――――静寂が、その場を包んでいた。
日月の意識が、再び刑務へと戻される。
気が付けば彼女は、虚空を見つめていた。
一息をついて、呆然と宙を見上げていた。
何もない壁。何もない天井。
ただの木造で形作られた、単なる民家の内装。
適当な台座を使った、即席のライブ会場。
輝かしいステージとはまるで違う、辺鄙な舞台なのに。
それでも日月はこの場にて、ライトの光を幻視していた。
たった一曲。歌い慣れた持ち歌。
それを披露するだけの、4分足らずのライブ。
会場は孤島の廃墟。観客は三人ぽっち。
場末の営業よりも、余程ちっぽけな舞台。
ただ、それだけでしかないのに。
歌い終えた日月の胸中には。
言いようのない満足感が込み上げていた。
閉塞と、挫折感。苛立ちと、遣る瀬無さ。
アビスに収監されてから、日月は乾き続けていた。
何もかもが終わってしまった悲しみを、荒んだ顔に讃えることしか出来なかった。
もう二度と、あの光を取り戻すことは出来ない。
抑えきれない飢えに苛まれて、ただ“これが運命だった”と割り切ることしか出来なかった。
この刑務は、最後のチャンスだと言うのに。
それでも、鬱屈ばかりが、積み重なっていた。
自分は紛い物でしかないという実感だけが、日月を蝕んでいた。
だからこそ。
いま、この瞬間に。
久しい歓びを感じていた。
叶苗も。アイも。氷月も。
この場にいる皆が、日月を見つめていた。
それぞれの感情を抱えながらも。
鏡日月という少女の輝きが目に焼き付いていたことだけは、確かな事実だった。
ぱち、ぱちぱち、ぱちぱちぱち――。
沈黙していた叶苗が、やがて拍手を始めた。
その瞳に仄かな感激を宿しながら、彼女は日月のライブを称えていた。
「よかった……よかったです!」
拍手を終えた叶苗が、明るい声色で伝える。
「すっごい、素敵だった……!」
氷月に懐柔されていた時とは、また違う表情だった。
心から感動し、無意識のうちに癒やされるように。
叶苗は口元を微笑みに綻ばせて、日月にそう言った。
叶苗に抱えられるアイも、日月をじっと見上げていた。
アイドルという文化を知らずとも――何か心惹かれるものがあったように。
ライブを聞き届けて、アイは好奇心を抱くように日月を見つめていた。
氷月は――ただ静かに、微笑みを口に浮かべている。
相変わらず、その真意を読み取ることは出来ない。
けれど今の日月にとっては、それよりも重要なことがあった。
「……ありがとう」
日月は、ぽつりと呟いた。
客席からの反応を前にして。
彼女はただ、唖然としながら。
けれど、久しい充足を感じながら。
「――――聴いてくれて、ありがとう……」
その目を仄かに輝かせて、日月は言葉を紡いだ。
嬉しい。そんな想いが、ふつふつと込み上げていた。
だって、アイドルとしての自分を見てくれたのだから。
全てを失った自分を、アイドルとして見つめてくれた。
鑑日月の歌を、受け取ってくれた――――。
それは日月にとって、安らぎであり、癒やしだった。
光と影の軋轢に苛まれ、苦しみ続けながらも。
それでも日月にとって、それを感じることだけが救いだった。
自分は孤独じゃないという証が、日月にとっての慰めだった。
そして、日月は。
自らの願いを、改めて自覚する。
ああ、やっぱり。
自分は、アイドルが好きなのだと。
これだけが、愛おしくて堪らないのだと。
そのことを、静かに噛み締めていた――――。
「君は、今もアイドルで在り続けたい」
不意に差し込まれた、氷月の言葉。
穏やかに、柔らかに、静かな声で紡がれる。
それは心地よさすら感じるほどなのに。
「そう思っているんだね」
彼が呟いた言葉を前にして。
日月は、呆然とした感情を浮かび上がらせた。
叶苗は、ハッとしたように、目を丸くしていた。
その視線が、氷月へと向けられていた。
揺さぶるには、たった一言で十分だった。
氷月はそれを分かっていたからこそ、敢えて投げ込んだ。
既に叶苗とアイの信頼を得ているからこそ、彼は差し込んだのだ。
鑑日月は、死刑囚であり。
生きて帰るためには――夢を再び掴むためには。
この刑務で、絶対に恩赦を得なければならない。
つまり、日月には“殺す動機”がある。
殺さねばならない、動機があるのだ。
何かを吐き出そうとして。
けれど言葉が喉を通らず。
日月は、表情を落として沈黙した。
自らに突きつけられた言葉に、動揺を抱いた。
◆
叶苗とアイを懐柔していく中で、氷月は日月だけが自分の立ち回りを観察していることを見抜いていた。
自身が仕組んだ“出来すぎた流れ”の異常性を察し、こちらの様子を伺っていることに気づいた。
だからこそ氷月は、機を伺った。
そして彼は、叶苗が何気なく気づいた事柄。
日月がアイドルだったという話に踏み込んだ。
好奇心からの人間観察も兼ねて、日月の反応を促した。
その果てに氷月は、日月の核心を掴んだ。
日月が抱える葛藤と鬱屈を、その言葉だけで揺さぶった。
そうして日月の“誰かを殺す動機”を浮かび上がらせることで、叶苗達にも日月への疑心を植え付けた。
鑑日月は、人を殺さなくてはならない。
その事実を暗示させるだけで、十分だった。
こうすることで日月を集団から孤立させることも、殺人へと誘導することも出来る。
氷月蓮の“殺人”という目的。
それは、自らの手で殺すだけに留まらない。
彼は人を支配し、その心と行動を操る。
裏で糸を操り、他者を暴力へと誘導することも容易い。
――疑心暗鬼からの同士討ちを誘発させ、生き残った者を最後に始末するか。
――“疑わしき者”である鑑日月を三人で排除し、叶苗とアイを完全に支配したうえで二人を殺害するか。
――先に叶苗かアイを殺害し、鑑日月を殺人犯へと仕立て上げるか。
あるいは、他にも打つ手はあるか。
今はじっくりと、チェスを愉しむことにしよう。
氷月は虎視眈々と、現状を俯瞰し続ける。
自らの殺戮の舞台を整えるべく、粛々と布石を敷く。
彼は紛れもなく悪人であり、紛れもない殺人鬼である。
生まれ持った“孤独”を意にも介さず。
男は淡々と、自らのサガに従って動く。
【C-7/廃墟東の民家/1日目・午前】
【氷月 蓮】
[状態]:健康
[道具]:Tシャツ、ナイフ3本、フォーク3本、デジタルウォッチ
[恩赦P]:0pt
[方針]
基本.恩赦Pを獲得して、外に出る
1.この集団の信頼を得る。
2.集団の中で殺人を行う。
3.殺人のために鑑日月を利用する。
【鑑 日月】
[状態]:肉体の各所に火傷、深い屈折、葛藤
[道具]:なし
[恩赦P]:0pt
[方針]
基本.アビスからの出獄を目指す。手段は問わない
0.???
1.氷月を警戒。
2.ジャンヌに対する葛藤と嫉妬を抱えつつ、彼女の望み通りに叶苗とアイを保護する。
3.ジャンヌ・ストラスブールには負けたくない。彼女を超えて、自分が真の偶像(アイドル)であることを証明したい。
【アイ】
[状態]:全身にダメージ(小)
[道具]:なし
[恩赦P]:0pt
[方針]
基本.故郷のジャングルに帰りたい。
1.(かなえを傷つけたくない、でもどうすればいいかわからない)
2.(あいつ(ルーサー・キング)は、すごくこわい)
3.(ここはどこだろう?)
4.(れんはきらいじゃない)
【氷藤 叶苗】
[状態]:胴体にダメージ(小)、罪悪感、虚無感
[道具]:シャツ、鋼鉄製の手甲(ルーサーから与えられた武器)
[恩赦P]:0pt
[方針]
基本.新しい生きる目的を得たい。
1.アイちゃんを助けたい。
2.日月さんは、きっとアイドルで居続けたい。
※ルーサー・キングから依頼を受けました。
①ルメス=ヘインヴェラート、ネイ・ローマン、ジャンヌ・ストラスブール、恵波流都、エンダ・Y・カクレヤマ。
以上5名とその他の“目ぼしい受刑者”を対象に、最低3名の殺害。
②1人につき15万ユーロの報酬。4名以上の殺害でも成果に応じて追加報酬を与える。協力者を作って折半や譲渡を約束しても構わない。
③遂行の確認は恩赦ポイントの回収履歴、および首輪現物の確認で行う。
④第2回放送直後、B-2の港湾で合流して途中経過や意思の確認を行う。
④依頼達成の際には恩赦後のアイの安全と帰還を保障する。
[共通備考]
※デジタルウォッチには恩赦ポイントの増減履歴を参照する機能があります。
どの受刑者の首輪からポイントを回収したのかを確認することも可能です。
※首輪には装着者を識別する囚人番号と個人名が刻まれています。
※交換リストに「参加者詳細名簿-80P」があります。
◆
孤独(Loneliness)は終わらない。
それでも、私は強がる。
背伸びを続けて、立ち続ける。
お別れを告げるのは。
まだ、出来そうにない。
◆
最終更新:2025年07月12日 18:41