◾︎
────時間の進みが、遅い。
民家の中で各々過ごす一同は、共通の意識を持っていた。
刑務作業が始まってから10時間あまり。
まだ半日も経過していないということは、これまで生き延びた時間の倍以上をここで過ごさねばならないのだ。
いつ恩赦目当ての者が来てもおかしくない緊張状態。
それをいつまでも維持しているとなると、時の流れも異様に遅く感じる。
実際日月は、ソファの背もたれに身体を預けながら何度もデジタルウォッチに目を落としていた。
「喉、乾きましたね」
そんな落ち着かない気配を察してか、横から遠慮がちな声がかかる。
右を見遣れば、いつの間にか叶苗が隣に座っていた。
「そうね……」
返せる言葉などそれしかない。
途方もない時間を生き延びなければいけない、というプレッシャーに充てられたわけではない。
正確に言えばそれもあるが、大きな理由は別にある。
古びたテーブルを一つ挟んだ椅子に座る男、氷月蓮の存在が、彼女の言動を縛っているのだ。
「どうかしたのかい?」
「別に」
首を傾げる氷月へ、日月は素っ気なく返す。
迂闊に会話を広げれば、アイや叶苗のように心を掬われてしまいそうだから。
得体の知れない恐怖が、日月の心労を重ねてゆくのだ。
「…………」
再び訪れる沈黙。
あの輝かしいミニライブが、酷く懐かしく思える。
食糧も嗜好品もない以上、この場においての娯楽など無に等しい。
この状態であと半日以上過ごさなければならない。
氷月はともかく、叶苗とアイを保護しながら。
そんなプレッシャーに辟易として、思考を巡らせている内、〝矛盾〟に気がついた。
(…………私、何考えてんの)
アイドルに戻りたい気持ちは本物だ。
ドブ底のような人生で、唯一誰にも負けないくらい輝くことが出来たあの時間を、もう一度取り戻したい。
例えどんな手を使ってでも、このアビスから出獄してやりたいと思っていた。
なのに今考えていたのは、まるで真逆のシチュエーション。
叶苗とアイと共に、残りの刑務時間を生き延びようとしていた。
この二人と共にいることで恩赦など稼げるはずもないし、目的を考慮すれば首輪を奪うべきである。
(くだらない)
浮かぶのはジャンヌ・ストラスブールの顔。
あなたは親切な人だから、なんて言って一方的に保護を押し付けてきた元凶。
思えばあの女に出会ってから、ずっと心が掻き乱されている。
(ほんと、くだらない)
親切な人だなんて、そんなわけがない。
今もこうして罪を認められず、アイドルへの未練へしがみついて、アビスから這い出ることを企てている。
そのくせ悪に振り切ることも出来ず、叶苗達を殺すという選択肢が浮かばない。
こうして迷っている間にも、刻一刻と刑務の終わりが近づいているのに。
ああ、そうだ。
残り半日、たった半日。
その間に400pt稼がなければならない。
そう考えた途端、どうしようもない焦燥が心を支配する。
あれほど長く思えた残りの時間が、途轍もなく短く感じてしまう。
脱獄するにせよポイントを稼ぐにせよ、本気でアイドルに戻るつもりなら、今すぐ行動を起こさなければならないのに。
「日月さん、具合でも悪いんですか?」
ちらりと、叶苗を見やる。
視線がかち合い、慌てて目を伏せる。
叶苗の問いかけに答えることが出来ず、今度は床でごろんと寝転がるアイの顔が映った。
不思議そうに首を傾げるアイ。
ばつが悪そうにため息を吐く日月は、冷静に自分の気持ちを改める。
(落ち着きなさい、行動に移すのはジャンヌの経過を聞いてからでもいい)
ジャンヌ・ストラスブールはルーサー・キングを討つために港湾へ向かった。
ルーサーかジャンヌ、どちらかの名前が読み上げられない限り決着の判断はできない。
しかし彼女らが第二回放送後に邂逅していた場合、それを知るのは第三回放送後になってしまう。
その差は6時間。
あまりに痛すぎる。
頭では理解している。
ジャンヌとの合流を待ってからポイントを稼ぐ事など不可能であり、脱獄をするにしてもここで待つ選択肢は無いと。
なのに、それを無視して〝言い訳〟に縋ろうとしている。
完全に乗るわけでもなく、降りるわけでもない。
日月は一種の錯乱状態にあった。
いっそ、ここから発つべきかもしれない。
なにも叶苗達を殺す事に拘らず、他の参加者を殺せばいい。
そうだ、そもそも叶苗とアイ、それに氷月を合わせても合計で75ptしかない。
三人殺しても死刑囚一人のポイントに届かないのだから、まるでリスクと釣り合っていない。
これだけの時間が経っているのだから、参加者同士の同盟が出来上がっているはずだ。
そこに紛れ込めば、400ptを稼ぐことも不可能では────
(…………くだらない)
本当に、くだらない。
自分の荒唐無稽ぶりに反吐が出る。
叶苗やアイを殺せないから、他の参加者を殺す。
少し言葉を交わしただけで情に流されたから、この二人を見逃して、殺せそうなやつを殺す。
そんな馬鹿げた命の選定をしている余裕があると思っているのか。
アイドルへ戻りたいという気持ちは、そんなに中途半端なものだったのか。
ジャンヌへの嫉妬、羨望、諦観。
叶苗への共感、同情、愛着。
ないまぜになった複数の感情が日月の胸を締め付けて、深い葛藤を生み出す。
脳が宙に浮くような気持ちの悪い感覚に吐き気を覚え、固く目を閉じた。
「三人とも、聞いてくれ」
そんな折り、男の声がかかる。
それまで窓の外を見ていた氷月が立ち上がり、ゆっくりと全員の顔を見回した。
「僕は少しこの辺りを見てくる。もしかしたら他の参加者が来るかもしれないし、運が良ければ綺麗な水や野生動物も見つかるかもしれない」
鬱屈とした空気を察して、希望をのせた発言。
氷月の提案は合理的だった。
放送が近いからと、落ち着ける拠点を探すために廃墟へ足を運ぶ者がいる可能性もゼロではない。
なにより陽が差している今、この周辺を散策することで、黎明の空下で見落としていた新しい発見があるかもしれない。
「氷月さん一人じゃ危険です、私も──」
「大丈夫。複数だとかえって目立ってしまうし、逃走ルートを確保している僕が適任だ」
穏和な笑顔で返す氷月に、叶苗は何も返せなくなってしまう。
彼を止める理由が思い付かず、なにより飲水が見つかるかもしれないという誘惑に負けて。
お願いしますと小さく告げて、叶苗はもう一度席に着いた。
「放送前に戻らなかったら、僕はやられたと思ってくれ。その時はいつでも逃げられるようにしておいて」
振り返らず、民家を後にする氷月。
日月はその背中を、複雑な面持ちで見送った。
◾︎
「日月さん」
「なに」
氷月が去ってすぐ、叶苗が日月へ肩を寄せる。
その行動にまんざらでもないと感じている自分へ見て見ぬふりをして、ぶっきらぼうに返す。
「日月さん、アイドルに戻りたいって言ってましたよね」
「それがどうしたのよ」
「もし戻れるなら、その…………」
顔を俯かせ、言い淀む。
叶苗が何を言おうとしているのか察して、日月は重たい溜め息を吐き出した。
「アイドル失格ね」
「え?」
「顔に出てたんでしょ、私。どんな時でも笑顔でいて、皆に夢を見せるのがアイドルなのに」
叶苗はきっと、日月の迷いを読み取っていた。
動物的な勘の鋭さゆえか、もしくは人を気遣う能力に長けているのか。
日月は観念したようにぐったりと背もたれに体重を預け、天井を見やる。
さてどう言い逃れようかと、そう考えて。
「私は、アイドルだから弱いところを見せちゃいけないなんて……思いません」
思わず、面食らった。
「アイドルは完璧じゃなきゃいけないなんてこと、ないと思います」
おずおずと、けれどじっと目を見据えて告げる叶苗。
自分はもう吹っ切れたとばかりに淀みない瞳を、日月は見ていられない。
ルーサー・キングの呪縛と、行き場のない復讐心を乗り越えた彼女は、とうに日月の先を行っていた。
「あんたね、アイドルのなんたるかを〝あの〟鑑日月に意見するってわけ?」
「……す、すいません」
「謝るくらいなら最初から言うんじゃないわよ」
「でも、私は……日月さんに一人で抱え込んで欲しくないです」
自信があるのかないのか、どっちともつかない態度で言いのける雪豹。
日月は鼻で笑うが、それは心中を見抜かれたことへの強がりに過ぎない。
「日月さんは優しいから、迷ってるんですよね」
掻き乱された心に追い討ちがかかる。
緊張か苛立ちか、早まる鼓動がやけに煩く感じる。
「私でよければ、打ち明けてください」
今の日月さんは、すごく寂しそうだから。
そう付け加えて、蒼玉のような瞳で偶像を見つめる叶苗。
地獄の底で煌めくガラスのように。
危うく、透明で、綺麗だった。
──ああ、やっぱり駄目だ。
──ジャンヌの時と同じだ。
日月は、輝きを前にすると焦燥する。
皆が安堵し、焦がれる光を前にしても、それを心から受け入れることが出来ない。
自分の手の届かない場所にあると知れば、弱みを見ようと野心が先に顔を出す。
幼い頃から美貌と頭脳によって、欲しいもの全てを手にしてきたのに、唯一手に入れられなかったもの。
偶像という仮面を被らなければ、日月は人に優しくすることができないから。
自分では太刀打ち出来ない、〝太陽〟になりかけている叶苗へ、漠然としたプレッシャーに苛まれた。
「──あんたは、先があるからそんな事が言えるのよ……!」
「えっ、……」
そうして、ようやく紡いだ言葉がそれ。
声色が震えているのは怒りなのか、不安なのか、日月自身にも分からない。
分かることといえば、これはガキの八つ当たりに他ならないということだ。
「あんたもアイも、まだ若いうちに外に出られる! いくらでも生き甲斐なんて見つけられるし、やり直しだってきくでしょう!」
叶苗の顔を見ないまま、一方的に捲し立てる。
己を追い込むように。善性と悪性の狭間で揺蕩う自分へ、言い聞かせるように。
「私の首輪、見なさいよ! 死刑囚に未来はない……! この機会を逃したら、もうやり直しなんてできないっ!」
どうして、こんなに吐き気がするんだろう。
どうして、こんなに胸が締め付けられるんだろう。
「私はね、生きたいのよ! 死にたくなんかない! 人殺しの悪女のまま終わりたくない……! アイドルとして在り続けたい!」
答えは出ない。
答えをくれる人は、いない。
自分の道を指し示してくれる〝大人〟は、とうに見切りを付けたから。
だから、自分で探すしかない。
「日月さん……」
叶苗は、何も言えない。
かける言葉が見つからない。
堰を切ったように溢れ出る濁流は、少女一人が止められるものではなくて。
鑑日月という浮世離れした存在が、今は年相応の少女に見えた。
「一人で抱え込んで欲しくないって、そう言ってたわよね」
「……はい」
「じゃああんた、私が生き延びるために殺人の手伝いをしろって言ったら、手を貸してくれるの?」
「え……っ!?」
叶苗の動揺を見抜くや否や、日月はひどく冷たさを帯びる声でそう質す。
分かりやすく瞳孔を開いて驚きを示す叶苗。
その脳裏では、忘れたくても忘れられない過去がフラッシュバックしていた。
「それ、は…………」
初めての殺人。
それは、衝動的なものだった。
家族殺しの実行犯を捕えて、情報を聞き出そうとして。
超力で抵抗しようとしてきた際、反射的に爪で首を切ってしまった。
人を殺すという覚悟の決まっていない状態で、一人の未来を奪い取ったのだ。
「私、は…………っ」
手に残る生々しい感触は、今でも消えない。
あの日から毎日、必ず悪夢を見る。
生暖かい返り血。か細い悲鳴。死んだ男の表情。
全部が、事細かに夢に出る。
人を殺すということは怖いことなのだと、過剰なまでに突き付けてくる。
だから叶苗は、ブラッドストークを殺した後に自分の命を捨てるつもりでいた。
今思えばそれは、人殺しの道を歩んだ事実から逃避する為だったのかもしれない。
「ほらね、答えられない」
迎えるタイムリミット。
あ、と力なく洩らす叶苗の瞳は、先程と比べてひどく不安定に揺れている。
なにか言葉を探さないとと答えあぐねているうちに、日月はそれを見透かしたように嘲笑った。
「完璧じゃなくていい、なんて簡単に言うけどね。いざ綻びを見せたらどう? あんたは何も言えず、私に残ったのは〝弱みを見せた〟という結果だけ」
鑑日月は、アイドルに誇りを持っている。
叶苗とはまるで真逆で、偶像とは完璧であるべきと考えている。
私はとっくに乗り越えたとばかりに、アイドルを説いてみせた叶苗へ苛立ちさえ覚えていた。
「聖者でも気取るつもりなら、良い機会ね。無責任な発言だけで心動かされるような人間、そういないわ」
なのに、
どこかやるせなさそうに黙々と聞き入れる叶苗を見ても、心は曇ってゆくばかりで。
「あんたは夢を見つけて満足かもしれないけど、周りを見なさいよ。他人を殺さなきゃ、夢を見ることすらできない人間なんてここじゃ山ほどいるわ」
自分は何をやっているんだろう。
何十回、何百回と思ったそれが、今は一際心を支配する。
輝きを穢すような真似をして、辛うじて自分を保とうとする鑑日月を、アイドルと認めたくなかった。
氷藤叶苗は、眩しかった。
けれどジャンヌの時のような嫉妬ではなくて、自己嫌悪ばかりが積み重なる。
キングの悪意に振り回されていただけの少女が前を向いて進もうとしているのに、自分はずっと進めないから。
置いて行かないでよと、肩を掴んで歩みを止めようとしている。
「こんなことなら、言わなきゃよかった」
そんな自分は、アイドルじゃない。
沈黙が訪れる。
激情を一通りぶちまけた日月は、自身の太腿に爪を立てて奥歯を噛み締める。
対して叶苗は俯いたまま、逡巡を重ねた末に唇を開いた。
「……ます」
「え?」
「私、やります……っ!」
「……はあ!?」
何を言っているんだ、こいつは。
今にも泣き出しそうな顔で、わかりやすく顔を青ざめながら、何を言っている。
その了承にどれだけの重みがあるのか、人を殺す恐怖を経験した叶苗はよく知っているはずなのに。
唖然とする日月の手を取り、雪豹は縋るように眉を下げる。
「けど、お願いです……アイちゃんと氷月さんは、巻き込まないであげてください」
「…………あんた、本気なの」
動揺の中、日月は意味のない問いを投げる。
今からでも遅くはないと、忠告するかのように。
「日月さんは、優しいから」
「またそれ?」
「優しいから、私達と一緒に居てくれてる」
否定の言葉が見つからない。
幾らでも言い訳出来るのに、する気になれない。
心にじんわりと広がる得体の知れない感情が、日月から言葉を奪い去る。
「人を殺すのは、怖い。自分の欲を満たすためにそんなことしちゃいけないなんて、みんな分かってる。けれど、それでもやるしかない人は……孤独で、すごく寂しい」
叶苗もまた、呪われた道を歩む一人だった。
家族の仇の為に奔走し、それを生き甲斐に実行犯を殺してきた。
誰にも打ち明けられずにいた地獄の道は、進むたびに孤独を突き付けられて。
ずっと、誰かに抱き締めて欲しかった。
もう一人で抱え込まなくていいと、そう言って欲しかった。
「なら私は、日月さんに寄り添います……! 例え許されない道でも、一緒に進めばきっと違うから……!」
────ああ、そうか。
日月は改めて、思い知らされる。
自分がなぜジャンヌに心を焼かれ、届かないと確信したのか。
深く暗い葛藤の中で藻掻く自分とは違い、己の正義を貫く一本槍のような志。
それが、欠けていたのだ。
今の叶苗は、ジャンヌに似ている。
進もうとしている道はまるで真逆だけど、心根にあるのは自己犠牲。
地獄へ堕ちようとする日月へ手を差し伸べるのではなく、一緒に堕ちようとしている。
日月はそれが、堪らなく嬉しかった。
「ばかね、あんた。そんなんだから、ルーサー・キングにつけ込まれんのよ」
ずっと欲しかった叶苗の言葉。
それを呑み込むわけでも、否定するわけでもなく、力のない笑みで誤魔化す。
緊張の糸が解けたのを感じ取ったのか、叶苗は力が抜けたように息を吐いた。
「あい、あい!」
「なによ、アイ」
「あう!」
それまでじっと二人の様子を見ていたアイが、日月の膝に乗り抱きつく。
彼女達の感情を読み取ったのか、幼子のような抱擁ではなく優しく、日月の背中をよしよしと摩る。
突然のことに戸惑いを隠せない日月だが、引き剥がそうだなんて考えは微塵も浮かばなかった。
代わりに、小さな体を支えるように恐る恐る抱き返す。
心地の良い温もりが、日月の心の空隙を埋めてゆく。
「アイちゃん、優しいね」
「あう?」
「……単純に甘えたいだけじゃないの?」
「あはは、そうかも」
答えはまだ、出ない。
未だに日月は出口のない迷路を彷徨い続けている。
そんな中で見つけたぬるま湯に浸って、現実から目を背けている。
それでも、このぬるま湯から抜け出したくなくて。
日月は思わず、口元を綻ばせた。
◾︎
「寝ちゃいましたね、アイちゃん」
「……そうね」
あれから10分ほどして、アイは日月の腕の中で寝息を立てた。
色白の頬を優しく撫でながら、日月は叶苗へと目を配らせる。
「ねえ、叶苗」
「はい」
「あんた、友達とかいるの?」
「え? ……えぇ? きゅ、急になんですかっ」
先ほどの話の続きが来ると身構えていたから、叶苗は思わず拍子抜けする。
そしてどこか無礼な問いかけに異議を唱えるかのように、むっとした顔で答えをはぐらかした。
「あんた真面目過ぎるから、友達とかいないんじゃないかって思ってさ」
「う、……確かにこの姿っていうこともあって、学校じゃ馴染めなかったけど……」
「やっぱりね。学級委員長とか向いてそうだし、そういう奴は大体嫌われるもんよ」
「ひ、ひどい……そんなにはっきり言わなくてもいいじゃないですか!」
さっきの話は、なかったことにする。
そう言外に意識づけるように、二人は他愛もない会話を続けてゆく。
「そう言う日月さんは……やっぱりいいです」
「ちょっと、そういうのが一番失礼よ。……中学すらまともに行ってなかったけど、小学生の頃はいたわよ」
「え、そうなんですか!?」
「まぁ二人だけね。山中杏ってやつと、羽間美火って子。杏は中学も一緒だったけど、不登校になっちゃってそれっきり」
寝ているはずのアイが日月の服を掴む。
これは暫く離れてくれないな、なんて考えながら小さな命を愛でる。
「羽間美火、って……」
「私も最初に名簿を見た時はギョッとしたけどね、多分同姓同名。あの子、間違ってもこんな場所に来るような子じゃないし」
「よかった…………日月さんの小学生時代、全然想像つかないや」
「別に普通よ。あんたは小学生から高校生まで想像しやすいわね」
「褒め言葉ですか?」
「いいえ」
ここはアビス、這い出る事の許されぬ地の底。
「高校生ももう終わっちゃうし、大人になる実感なんてないですよ」
「……待って、叶苗。あんたもしかして高三?」
「え、そうですけど」
「…………うそ、私の一個上じゃない。全然見えないわ」
「そ、それは私が子供っぽいんじゃなくて、日月さんが大人なんですよ!」
それでもこの埃まみれの民家の中は、まるで別世界のようで。
「いつまでさん付けしてんのよ」
「えっ?」
「そうやって距離置いてるから友達できないのよ、〝先輩〟」
二度とは手に入らぬ日常の一欠片を味わえているようだった。
「じゃ、じゃあ…………日月、ちゃん?」
「ま、及第点ってとこね」
夢を諦めきれず、人を殺す一歩も踏み出せない。
問題は何も解決していないし、残ったのは弱みを見せたという結果ただひとつ。
完璧であるべき偶像に罅を入れて、結局得られたものは叶苗の共感だけ。
答えなど、到底見つかりそうにない。
けれど、そのつまらない共感は。
闇に漂う月を、仄かに照らし出した。
【C-7/廃墟東の民家/一日目・昼】
【鑑 日月】
[状態]:肉体の各所に火傷、深い屈折、葛藤
[道具]:なし
[恩赦P]:0pt
[方針]
基本.アビスからの出獄を目指す。手段は問わない
0.答えを探す。
1.氷月への警戒を強める。
2.ジャンヌに対する葛藤と嫉妬を抱えつつ、彼女の望み通りに叶苗とアイを保護する。
3.ジャンヌ・ストラスブールには負けたくない。彼女を超えて、自分が真の偶像(アイドル)であることを証明したい。
【アイ】
[状態]:全身にダメージ(小)
[道具]:なし
[恩赦P]:0pt
[方針]
基本.故郷のジャングルに帰りたい。
0.睡眠中
1.(かなえを傷つけたくない、でもどうすればいいかわからない)
2.(ひづきはさびしそう)
3.(あいつ(ルーサー・キング)は、すごくこわい)
4.(ここはどこだろう?)
5.(れんはきらいじゃない)
【氷藤 叶苗】
[状態]:胴体にダメージ(小)、罪悪感
[道具]:シャツ、鋼鉄製の手甲(ルーサーから与えられた武器)
[恩赦P]:0pt
[方針]
基本.寂しさを持つ人に寄り添いたい。
1.アイちゃんを助けたい。
2.日月ちゃんの悩みを受け入れたい。
※ルーサー・キングから依頼を受けました。
①ルメス=ヘインヴェラート、ネイ・ローマン、ジャンヌ・ストラスブール、恵波流都、エンダ・Y・カクレヤマ。
以上5名とその他の“目ぼしい受刑者”を対象に、最低3名の殺害。
②1人につき15万ユーロの報酬。4名以上の殺害でも成果に応じて追加報酬を与える。協力者を作って折半や譲渡を約束しても構わない。
③遂行の確認は恩赦ポイントの回収履歴、および首輪現物の確認で行う。
④第2回放送直後、B-2の港湾で合流して途中経過や意思の確認を行う。
④依頼達成の際には恩赦後のアイの安全と帰還を保障する。
◆
背の高い草を掻き分け、木々を目印に進む氷月。
そうしているうちにD-7の橋付近へ辿り着き、周辺をゆっくりと見渡す。
鬱蒼と茂る草は身を隠すのに十分機能していて、屈んで動けば細身の氷月はまず視界に入らないだろう。
橋へと続く獣道は、まばらに散る草や枝によって足場が悪い。
氷月はそれら一つ一つを進みやすいように足で退けて、橋の根元に到着した。
「さて、と」
人の通った痕跡を残すのは本来避けるべき行為であるが、氷月はあえてわかりやすく残してアピールする。
障害物を取り除かれた進みやすい獣道は、本能的に移動ルートを制限させられる。
身を隠す目的ではなく、逃走や移動の目的であればまずこの〝安全が確保された〟道を選ぶだろう。
氷月は、のちの保険の為にこの道を作り出した。
そうして、空を見上げる。
雲ひとつない晴天。陽光の眩しさに目を細め、手で陰を作る氷月。
一見爽やかな好青年に見えるその仕草を、早々に取りやめて。
橋の向こうへ視線を切る氷月の目は、さながら猛禽類のように鋭く変わった。
「────〝私〟だ、ヴァイスマン」
男は、呼びかける。
叶苗達の信頼を勝ち取るために演じていた好青年の仮面を外して。
長らく眠らせていた氷月蓮という本来の人格を、呼び覚ます。
「〝ジョーカー〟として、権限を使わせてもらう」
氷月蓮──本来、この刑務作業に名前が並ぶことはなかった存在。
ヴァイスマンの推薦で、この地へ赴いた潜入員。
ギャルと同じく駒(ジョーカー)の打診を受けていた彼は、他の参加者とは一線を画す優位性を得ていた。
「まずは50ptほど、使わせてもらおう」
氷月蓮に与えられた役割は、潜入と諜報。
刑務に消極的な集団へ潜り込み、データの確保と団体の崩壊を目的とする暗躍者。
彼が受けた恩恵は────200ptの無償使用の許可。
これは恩赦ポイントとは別枠で設けられた、いわば〝特権ポイント〟。
仮に満額の200ptを使い切らず刑務を生き延びても、減刑や金銭には割り振られない。
この刑務作業の期間内にしか存在しない、一日限りの砂金である。
ただの砂へ変わる前に、価値のあるうちに使わなければならない。
氷月はずっと、その機会を伺っていた。
身を守る為の武器や防具を選択せず、無手のままわざわざ集団へ潜り込むという危険を冒してまで、機を待ち続けた。
「C4リモコン爆弾と、ワイヤートラップを」
そうして掴んだ機会。
氷月の言葉に従い、彼の足元に望み通りのモノが転送される。
テープ貼りされた無機質な緑色のプラスチック爆弾が三つと、それを起爆させるための小さな遠隔起爆装置。
隣には動物を捕獲するためのワイヤートラップ。
それらを手に取って、氷月は見えない誰かに対してふっと笑う。
「相変わらず仕事が早いな」
そして手際よく、氷月はそれらを設置する。
橋付近の獣道へワイヤートラップを作成し、その近くの草の中へC4爆弾を隠す。
その間、僅か数分。
たった数分で、廃墟から中央へ続く唯一の道は生存不可の危険地帯と化した。
この場所はもう、氷月のテリトリーである。
「本当はもう少し経過を見たかったが、私にもやるべき事があるからね」
当然、ジョーカーが受けられるのは恩恵だけではない。
氷月には、事前に二つのミッションが与えられていた。
一つが、刑務作業に消極的なグループに紛れ込み、6時間以上過ごすこと。
そしてもう一つが、刑期に関係なく最低でも三名以上の参加者を殺すこと。
前者はすでに達成は目前、となれば問題は後者。
参加者の総数から逆算して、三人手に掛けるというのは決して容易ではない。
人によっては200ptの恩恵など釣り合わないと考えてもおかしくないが、氷月はそれを二つ返事で承った。
超力を使用した自分がどこまで〝殺せる〟のか、興味があったのだ。
氷月蓮にとってこれは刑務作業などではなく、娑婆に出る前の余興。
どうやら外の世界では殺人はよくないことらしいから、ここで発散ついでに殺人欲求を抑える方法を習得する。
そのために、氷月はずっと〝辛抱〟していた。
(鑑日月────あれはもうダメだ、二人を殺せない)
氷月は最初、鑑日月を利用して長期的にミッションをこなすつもりだった。
言葉巧みに誘導し、叶苗かアイのどちらかを殺させて退路を断つ。
そうしてコントロールした日月と共に参加者を殺して回り、最後に日月を始末する。
これが第一のシナリオだったが、川のほとりで覗き見た叶苗とのやり取りで完全に見限った。
偶像への未練から多少は利用価値があると思ったが、つまらない情に心を揺さぶられている。
その気にさせたところで実行に移せず、下手をすれば自分へ反抗するかもしれない。
少なくともあの瞬間、〝マーダーライセンス〟が映し出した選択肢の中に、そのシナリオは含まれていなかった。
「50ptか、三人纏めて殺せるのなら随分安上がりだな」
逆を言えば、
今の氷月の行動は、マーダーライセンスが映し出した、確実に殺せる方法。
アイ、叶苗、日月の誰か──もしくは全員がこの道を通るように誘導する。
未来予知ではないため、それは氷月自身が行わなければならないが、これまで築き上げた信用を鑑みれば造作もない。
それに多少粗があったとしても、だ。
「やれやれ、我慢なんてするもんじゃないね」
氷月はこれ以上、殺人衝動を抑えられそうにない。
本当に、苦痛だった。
無防備に背中を見せる叶苗達には、夥しいほどの〝殺し方〟が浮かび上がっていた。
殺せないタイミングの方が少なかったくらいだ。
氷月は何度も手を出しかけて、その度に役割を思い出し自らを制止していた。
人を殺さないということは、こんなにも辛いことなのかと、ひどく思い知らされた。
「もう我慢しなくていいんだと思うと、こんなにも世界が綺麗に見えるのか」
時刻は第二回放送より三十分前。
その放送を機に、人の心を喪った冷血漢は動く。
家族だの、幸せだの、そんな夢を語る囚人共に現実を突きつける為に。
けれど氷月は、同時に冷静さを欠いていた。
それは彼自身でも認識できないほど些細なもの。
しかし、胸奥に眠る〝憎悪〟の感情。叶苗が放った綺麗事を聞いてから、ずっと巣食うノイズ。
そのせいで氷月は、予定よりもほんの少し早く行動に移した。
それがどう転ぶのかは、分からない。
マーダーライセンスはあくまで、答えしか映し出さない。
道を進むのは、あくまで自分自身なのだから。
【D-7/橋付近/一日目・昼】
【氷月 蓮】
[状態]:健康、憎悪の感情
[道具]:Tシャツ、ナイフ3本、フォーク3本、遠隔起爆用リモコン、デジタルウォッチ
[恩赦P]:0pt(残り特権150pt)
[方針]
基本.恩赦Pを獲得して、外に出る
0.ひとまず民家に戻る。
1.ジョーカーとして、ミッションを達成する。
2.集団の中で殺人を行う。
3.鏡日月は利用できない、別の手で集団を崩壊させる。
※ジョーカーの役割を引き受けました。
恩赦ポイントとは別枠のポイント(通称特権ポイント)を200pt分使用可能です。
また、以下の指令を受けています。
① 刑務作業に消極的なグループに紛れ込み、6時間以上過ごす。(達成まで残り30分)
② 刑期に関係なく最低でも3人以上の参加者の殺害。
最終更新:2025年08月08日 07:05