孤島に聳える深い森には先の見えない夜闇が広がっていた。
生い茂る木々の傘は、森に届く月明りを微細に紛れさせる。
柔らかな土の足場は悪く、苔の纏った石や足を取る根が蔓延っており、歩みすらおぼつかない。
歩くことすら困難な夜の森は、さながら深い緑の迷路である。
このような環境で、まともに動ける者などいるはずもないだろう。
だが、それは20年も前の常識に過ぎない。
『開闢の日』を機に人類が進化を遂げたのは、超力や身体能力に限った話ではない。
その夜目は広がり、まるで野生動物のように微かな光を取り込み夜を映し出す。
それを証明するように一寸先も見えない闇の樹海を、光のようなスピードで疾走する青年の姿があった。
地面に足をつけるより早く幹を蹴り、弧を描くように体をひねり、あり得ない角度で枝へと飛び上がる。
彼は木の幹に軽く手をついてから、滝のような葉叢の向こうへ一陣の風となり飛び出していく。
暗闇の中で行われるパルクールめいた動きは目で追えぬほどに素早く、鋭い。
まさしく超人的な動きだと言えるだろう。
だが、その程度の光景はこの現代において珍しいものではない。
この青年が凄まじいのではなく、これが現代人の標準である。
ましてやネイティブ世代にとってはこの程度は当たり前のことでしかない。
だが、その背後で巻き起こる光景は、この超人化社会においてもなお異様だった。
駆け抜ける青年の背後には一人の男が迫っていた。
迫り来る男が足音を響かせるたびに、夜の闇を裂くような衝撃音が遠くへ木霊し、静寂だった森の様子は一変する。
闇夜を切り裂くかの如く、一歩、また一歩、と森の奥へと迫って行く男が腕を振るうたび、近くの大木がその猛威に晒され、枝や幹が蹴散らされるように宙に舞い上がった。
つまらなさそうに眉間に皺を寄せたまま自然破壊を行うのは、金髪をオールバックに整えた男である。
洗練された佇まいで青一色の囚人服を見事に着こなす伊達男。
それはイタリアの裏社会に君臨するカモッラ、バレッジファミリーの金庫番――ディビット・マルティーニ。
前方を睨むその無機質な眼差しは理性的な冷徹さそのものだ。
そんな男が、木々をなぎ倒すという野生的な行為に走っていた。
太い幹を腕を振るうだけで破壊するとは、いくらなんでもこれほどの怪力は現代においても異常である。
つまり、そこには通常とは違う法則が働いている。
『4倍賭け(クワトロ・ラドッピォ・ポンターレ)』。
己が能力を4倍にするディビット・マルティーニの持つ超力である。
現在ディビットはその力を筋力へと割り振っていた。
超人化した人類の4倍の筋力、それがどれほどのものなのか、その答えがこれだ。
そんな怪物に追われながら、木々の間を逃げ回るのは褐色の青年だ。
青年は怪物に追われているにもかかわらず、宙返りの合間に背後を見つめ、冷静に次の一手を考えているようだ。
その表情からは微塵も恐怖は感じられず、むしろこの状況を楽しんでいるかのようにすら見える。
それもそのはず、この青年にとって、これが生まれて初めての外の世界である。
恐れよりも、好奇心と高揚感が上回っていた。
彼は一国の王子として生まれた。
だが、祖国は革命の折に滅ぼされ、王族の皆殺しという過酷な運命を背負わされた。
亡国の王子――エネリット・サンス・ハルトナ。
赤子の時分より地の底たるアビスに送られ、アビスによって育てられた、アビスの申し子。
物心がついてから刑務所という特殊な環境以外を知らない彼にとって、外の世界はそれだけで胸が空くほど新鮮だった。
森の香りを胸いっぱいに吸い込み、次の一歩へ迷いなく飛び込んでいく。
褐色の肌に映えるその瞳は、かつての高貴な血筋と、地の底で育まれた野性の双方を感じさせる。
彼の存在そのものが闇夜の中で一筋の光のように際立っていた。
「…………チッ」
まるで鬼ごっこでもするように楽しそうな顔で逃げ回る相手に、鬼役の伊達男が舌を打つ。
その苛立ちの裏には長い禁煙生活の影響もあるだろう。
アビス内での煙草の流通(横流し)をあの老人に取り仕切られたのが、この苛立ちの遠縁なのだが、それはまた別の話。
この苛立ちの直接的な原因、4倍の筋力を持つディビットがエネリットの動きを捉え切れないのことには事情がある。
ディビットの持つ超力『4倍賭け』には代償が伴う。
ランダムに決定された強化部位と等価である別の箇所が、四分の一にまで低下する。
今回の代償は視力のようだ。
平時のディビットの視力は2.0。
現代人としては平均的ともいえる視力だが、現在は1/4の0.5にまで落ち込んでいた。
見通しの悪い夜の森ということも相まって、弱った視力では素早く動きまわる相手の姿を捉え切れていない。
ならばと、ディビットが地面に転がっている自らがへし折った大樹に手を伸ばした。
へし折れた樹木は4mほど。重量は優に300kgを超えるだろう。
ディビットは幹の中心を掴むと、凄まじい握力によって指がピシリとめり込んだ。
それを、苦も無くそのまま片腕で持ち上げると、ディビットは大きく振りかぶった。
狙いが付けづらいのなら、狙いは大雑把でいい。
朧げな視力で、相手の像だけを捉え、宙に跳ねたタイミングを見計らう。
そして、剛速球のように大木を投擲した。
闇を切り裂き、矢のような速度で大質量が飛ぶ。
当たり判定が広すぎる。
如何に超人的な身体能力があろうとも、空中で完全な回避は不可能。
僅かでも直撃を受ければ甚大なダメージは逃れられない。
それを前にしながら、エネリットは動じるでもなく空中で静かに身を捻ると、自らの超力、その一端を解放した。
夜風に乗って、エネリットの髪が靡いた。
否。それは風によるものではない。無数の髪がまるで意志を持った蛇のようにくねりながら蠢く。
不気味なまでに生命を帯びた黒光りする細い繊維が網のように絡まり編み込まれていった。
エネリットの操る髪の網が、向かい来る大樹の力の均衡を変えるかのように受け止める。
しなやかにそのベクトルを変えられた大樹は、弾かれるように明後日の方へと飛んで行った。
そのまま何事もなかったように身を捻ったエネリットが、地面へと着地する。
同時に、暴走列車のように止まらなかったディビットがようやく停止した。
「…………その髪。それがお前のネオスか?」
「さて、どうでしょうか。そちらこそ、その異常な筋力。それがあなたのネオスですか? ディビットさん」
「さてな」
問いながら、互いにそれだけはないだろうと、察するものがあった。
超力は各々が持つ基本技能にして奥の手である。
よほどの考えなしでもない限りは無意味に他人に明かすものではない。
髪を操る超力は彼の力であり彼の力ではない。
エネリットの超力は信頼で繋がれた他者の超力を借り受け使用する『監獄の王子(charisma of revenge)』。
先ほど発動したのは看守官であるマーガレット・ステインの超力『鉄の女(アイアン・ラプンツェル)』である。
幼少の頃からこのアビスに落とされたエネリットにとって、アビスの刑務官たちは育ての親も同然の存在である。
特に、マーガレットはエネリットの世話係を買って出て良くしてくれた。そこには確かな信頼関係があっただろう。
その信頼を利用した強制徴収により『鉄の女』は発動した。
だが、エネリットはその『鉄の女』によって伸びた髪を元に戻した。
ようやく相手が超力発動を確認して、本格的な戦闘を予測していたディビットは怪訝そうに眉をひそめる。
眉間の皺が寄り深く刻まれるのを意に介さず、亡国の王子は降参の意を示すように両手を上げた。
「…………自分からちょっかいをかけておいて、何のつもりだ?」
「ちょっかいって……声をかけただけでしょう?」
「この状況で呑気に声をかけただけ、なんてアホウがいるか?」
声をかけたのはエネリットの方だが、この状況で挨拶もない。
本当にそんな馬鹿がいたならそれこそ死んだほうがいい。
声をかけるからには何か意図があるはずだ。
その意図の答えを示すように、エネリットは上げていた手を下げ、ディビットに向かって握手を求めるように差し出した。
「――――手を組みましょう。ディビットさん」
その行為に、ディビットは不愉快そうに更に眉根を寄せる。
言葉の意味を咀嚼するように考える僅かな間の後、重々しく口を開いた。
「……なるほどな。確かに、この刑務作業には受刑者同士が手を組む余地があるだろう」
「そう。これはたった一人の生き残りを極めるデスゲームじゃない。複数人で手を組むのは有効な手段だ」
この刑務作業は24時間で終了する。
殺し合いなど行わず、ただ逃げ回っていれば生き延びるだけならできるルールだ。
極端な話、全員が殺し合いを行わずにいれば全員が生き延びて終わる結末もあるだろう。
だが、アビスに墜ちた人間は、餌(見返り)をぶら下げられれば食いつかずにいられない欲望にまみれた獣どもだ。
仲良く手を取り合って穏便に終わる道などあり得ないだろう。
欲望により争いは確実に起きる。彼らもその例外ではない。
「だから俺に声をかけた、と?」
はいと、褐色の青年は頷きを返す。
金髪の男は、そうかと納得を示すと、差し出された手を握り返す。
「そうかい。そりゃあつまり――――俺を嘗めてるってことだよなぁ?」
「ッ!?」
瞬間、エネリットの鼻から血が噴き出した。
握った手を引き寄せられ、裏拳で鼻っ柱を殴られたのだ。
「グッ…………!?」
そのまま胸ぐらを掴まれ、地面に引き倒される。
そして倒れた胸の中心を踵で踏みつけられた。
「よぅ。バンビーノ(坊や)。髪一本動かしてみろ、その時点で胸骨ごと心臓を踏みつぶす」
声を荒げるでもなく当たり前の事実のように淡々とカモッラは言う。これは脅しではない。
先ほど見せた超筋力をもってすればエネリットの胸を踏みつぶすなど容易いことだろう。
何より、アビスの住人に殺しを躊躇うなどと言う倫理観を期待してはいけない。
やると言えばやる。この男にはそれだけの凄みがあった。
「確かに、お前は俺を見つけて声をかけるまでその行動に迷いがなかった。お前は最初からそうするつもりだったな?
俺に殺されるかもしれないと言うリスクを承知の上でだ。
つまり、仲間を引き込むのはお前の中での既定路線。お前は単独で戦うつもりがハナからなかったと言うことだ」
エネリットを踏みつけながら、イラ立ちを静めるように、自らのこめかみを指先でトントンと叩く。
そして、これまでの彼の行動を振り返り、その意味を解き明かし始める。
「その事実から、例えばそう、お前のネオスは集団戦を前提とした代物だと推測できる。
だが、実際に発動したお前のネオスは出力こそ大したことはないが、単独で発動、戦闘が可能なものだった。
どう考えるべきかな、これは? 本当にあの力はお前だけのものなのか?」
「さて……解釈はご自由にどうぞ……ッ!? あ………………くっ!!」
ふざけた回答の代償にあばらを踏む踵がグリとねじられた。胸を抉る痛みに、エネリットが声を上げる。
言葉では誤魔化しながらも、凄まじい洞察力で超力を見抜くディビットの鋭さに、流石のエネリットも内心で舌を巻いていた。
それもそのはず、現在『4倍賭け』をディビットはその知力に割り振っていた。この超推理もそのためだ。
だが、その仕組みを知らぬエネリットの目には、ディビットは凄まじい腕力と知力を持つ正真正銘の怪物に映っただろう。
裏を返せば、筋力は通常のものに戻っているため、一息に踏み殺すことが難しくなっているのだが、それを悟らせないほどにディビットの威圧と恫喝は堂に入っていた。
まず痛みを与え肉体を屈服させ、さらに精神的なアドバンテージも得た。
悠々と見下ろす者と、地に伏せ踏みつけられる者。その立場は誰の目にも明らかだった。
逆らう事の出来ない優位を示し、そこからがスタートラインだ。
これがマフィアの交渉術である。
「質問を変える。手を組むだけなら、別の当てもあっただろう?
こうして殺されるリスクを負ってまで俺を選んだ理由はなんだ? 俺なら言いくるめられると思ったか?
たまたま最初に出会ったから、なんてふざけた回答をしやがったら即座に殺すぞ」
その問いには、返答を間違えれば即座に殺されるだろう威圧が籠っていた。
その言葉の通り、手を組むだけなら簡単だ。生き残りが一人でない以上有用な手段である。
このアビスにも外道でありながら己を平和主義者だと勘違いした輩も少なからずいる。
そういった輩であれば少ないリスクで仲間を増やせるはずだ。
「…………そういう所ですよ」
普段と変わらぬ様子でエネリットは答えた。
踏みつけられ、泥にまみれながら、鼻血を流しながらも優雅に気品さえ感じさせる笑みを浮かべる。
この状況で異様と言うならば、あるいは青年の方が異様だった。
「状況を見てこちらの意図を察する、冷静な頭がある。それでいて狂気ではなく理性で冷徹に手を下せる。このアビスで貴重な存在だ。
僕が求めているのは共にポイントを稼げる相棒だ。日和見主義の人間ではない」
理性のない殺人狂や理解不能の思想を持つテロリストは問題外。
破綻者ばかりのこのアビスで、まともな取引が成立する相手は限られている。
組織の金庫番として秩序を守護ってきた理性の怪物。ディビットはその数少ない稀有な人材であった。
それを証明するように現にまだ殺されていない。こうして最低限の交渉の形はとれている。
「まさか。今が狙い通りの状況だとでもいうつもりか?」
「まさか。ここまで命を握られる状況になるとは思ってませんでしたよ」
ハハと地の底の王子は笑う。
殺意を持った相手に踏みつけられた状態で、まるで日常の冗談でも笑うように。
「だとしても、それはお前の理由だな。俺がお前と手を組む理由がどこにある? ここでお前を殺して100ptを得た方が手っ取り早いだろう?」
ディビットがエネリットの求める人材だったとしても、ディビットからすればそうではない。
勝算のない交渉を持ち込むようなバカならば、そもそも要らない。
ここで殺してしまった方がよっぽどディビットの得になる。
「たった100ptで満足ですか? 確かに貴方の刑期であればそれで事足りるでしょうが、より多くを求めるのが貴方でしょう?
一人と二人、どちらがそれを成し遂げやすいか、その計算ができない貴方ではないでしょう?」
個人主義の犯罪者どもの多いであろうこの場においては、集団であること自体が大きなアドバンテージだ。
恩赦Pを稼ぐにしても1人で戦い利益を独占するよりも、2人で稼いで分け合った方が効率的だろう。
「ふん。知った口をきくじゃないか、バンビーノ」
「アビス暮らしが長いもので。囚人の事であればある程度の事情は存じてますよ」
物心がつく前からアビスで生まれ育ったエネリットからすれば、むしろそれ以外の事は知らない。
彼にとってはアビスの住民こそが世界の全てだ。
「そう言うお前の事情はどうなんだ? そこまでするのは何が目的だ?」
「もちろん、刑務作業を全うしてポイントを得ることですよ」
「違うな。それは手段だ。ポイントを得て何がしたい? そこまでして娑婆に出たいか?」
「それは出たいでしょう。誰だってそうでしょう? 違いますか?」
「その通りだ。だが、お前の場合は違うだろう?」
エネリットの答えは囚人たちの一般論でしかない。
エネリットの事情は特異だ。
彼がアビスで育ったアビスっ子であることはアビス内でも有名な話である。
何せアビスが年端もいかぬ受刑者を受け入れはじめ託児所めいた状態になっているのは、他ならぬ彼の影響だ。
赤子の頃からアビスで育ったエネリットが帰る場所など、その世界のどこにもない。
「僕の事情に興味がありますか?」
「いや、ないな」
相手の事情など心底どうでもいい。
重要なのはそこに自分の利益があるかどうかだ。
「だが、取引相手を信頼する必要はないが信用する必要はある。
働きに見合う報酬を求めないものを俺は信用しない。どれだけ俺に利益をもたらすとしてもだ」
そう言う輩と手を組む事は将来的な不利益しかもたらさない。
動機の見えない相手はいつ裏切ってもおかしくはないからだ。
背中の心配をするにしても最低限にしておきたい。
その言葉に、命を握られた状況でも楽しげな様子を崩さなかったエネリットの表情が真剣な色を帯びた。
切れ長の目が細まり、その瞳に闇よりも暗い炎が灯る。
これまでとは違う真剣な様子で口を開く。
「――――どうやっても、殺したい相手がいます」
その瞳に宿る感情。
裏社会で生きてきたディビットからすれば、パスタ屋のミートソース以上に見慣れた色だ。
「復讐か」
『開闢の日』以降、世界には悲劇がダース単位で転がっている。
恨みや辛みなどありふれているが、それだけに理由としては納得がいくものだ。
ディビットの信用を得るためのブラフである可能性はある。
だが、少なくとも多くの炎を見てきたディビットからしても、エネリットの目に宿る暗い炎は嘘ではないと感じられた。
「そいつは中か? それとも外か?」
恩赦を得て、外の世界で復讐を果たしたいのか。
それとも、復讐相手はこのアビスにいる、刑務作業に参加する誰かなのか。そう問うていた。
その問いにエネリットは、うーんとわざとらしく唸った後。
「それ以上はお互いの信頼を深めてから、ということで」
今は話す気はない、とそう言った。
こいつが話したくない事を話さない輩であることはここまでの短いやり取りでも感じられた。
ディビットも知りたいのはエネリットの動機であって仇自体に興味はない。
行動理由を把握できた以上、それ以上の追及はしなかった。
「そもそも、お前は看守共の言う恩赦とやらが本当だと信じているのか?」
仮に十分な恩赦Pを稼いで刑務作業の終わりを迎えられたとしても、素直に出獄させてくれるかは怪しい。
何らかの物言いが付く可能性もあるだろうし、そもそもそれ自体が罠である可能性も高い。
あのオリガ・ヴァイスマンという男は信頼も信用も素直に出来る相手ではない。
それは囚人たちの共通認識だろう。
「分かりません。しかし、それを今考えるだけ無駄でしょう? ならば、やっておくに越したことはない」
考えても仕方のないことは考えない。
何とも潔い割り切り方だ。
もし本当だったときにやっていなかったら、後悔してもしきれない。
その判断にリスクがあるとするならば、嘘だった場合ありもしない報酬のために人を殺した罪を背負う事になる、と言うことだが。
それは、この地の底ではリスクにはなりえない。
死んで当然、殺して当然の連中の集まりだ。
罪悪感など抱く意味すらないだろう。
「……いいだろう。お前の提案に乗ってやる」
その答えが気に入ったのかディビットはクッと笑って僅かに口端を吊り上げる。
全てを信用するわけではないが、全てのリスクを込みで総合的に己に得がある取引だと金庫番は判断した。
ディビットはエネリットを踏みつけていた足を上げると、その場から一歩下がり僅かに離れる。
手を差し伸べなかったのはまだ全てを信用したわけではないという警戒心の表れだろう。
エネリットはそれを気にせず、ふぅと軽い調子で一息ついて鼻血を拭うと、体の土を払いながら立ち上がった。
「では、分け前の話だ」
「最初の議題がそれですか……」
真っ先に報酬の話になるあたり、この男の拝金主義は筋金入りだ。
エネリットの呆れの声を無視して、ディビットは互いの首元、そこにある指輪を交互に指さす。
そこには「20」と「無」の文字が刻まれていた。
「まず、大前提として俺とお前では必要なポイントが違う。
まさか、自分の方がポイントが必要だから多く融通しろ、なんてふざけたことは言わないよな?」
懲役20年を喰らい既に4年の刑期を終えているディビットは64ptあれば出獄できる。
それこそ死刑囚の首輪一つでノルマはクリアできる。
それに対して、無期懲役であるエネリットは400ptが必要となる。
是が非でも恩赦Pが欲しいのはエネリットの方だろう。
「もちろん。そこは平等(フェア)に行きましょう」
「フェアと言ってもどうする? ポイントの共有はできないだろう?」
建前として、恩赦Pは罪人を罰すると言う善行をポイント化したものだ。
当然と言えば当然なのだが、恩赦Pを他者に譲るような機能は存在しない。
「分け前は首輪単位で行いましょう。首輪のポイントがいくつでも文句は言わない約束で、獲得した首輪は交互に所有する権利を持つ、でどうです?」
「首輪の”所有権”、か。またつまらんことを考えているな、バンビーノ」
「ハハ。そう言わないで下さい」
即座に自分の思惑を見破られたことに、エネリットは照れ隠しのように笑う。
青年の所作は状況に見合わぬほどさわやかだ。
恩赦Pの獲得は装備者が死亡した首輪とデジタルウォッチの接触によって行われる。
つまり、すぐにポイントを得るのではなく殺した相手の首を切り離し首輪を保持しておけば、首輪自体が交渉に使えるカードになる。
「ま、いいさ。お前が得たものをどうするかまで口を出すつもりはない。
ただし、俺の不利益になるような事をするな。100pt以上の価値を俺に示し続けろ。そうでなくなったのならこの取引はなくなると思え」
「もちろん、心得ていますよ。首輪の所有権の先行はそちらにお譲りしますよ」
最初に獲得した首輪の権利はディビットに、次の首輪はエネリットのものになる。
アビスの森の深淵を舞台に契約は交わされ、二人の協力関係は始まった。
これは信頼によって結ばれた契約ではない。
損得関係だけで結ばれた、いつ背中から刺されるかもしれない危うい関係である。
だが、今はそれでいい。
互いにそう考えている。
このアビスにおいて信頼関係などありはしない。
己が損得のため、他人を利用するのだ。
それがアビスの契約である。
【C-4/深い森/1日目・深夜】
【エネリット・サンス・ハルトナ】
[状態]:鼻と胸に傷
[道具]:なし
[恩赦P]:0pt
[方針]
基本.復讐を成し遂げる
1.標的を探す
2.ディビットの信頼を得る
※刑務官『マーガレット・ステイン』の超力『鉄の女』が【徴収】により使用可能です
現在の信頼度は80%であるため40%の再現率となります。【徴収】が対象に発覚した場合、信頼度の変動がある可能性があります。
【ディビット・マルティーニ】
[状態]:健康
[道具]:なし
[恩赦P]:0pt
[方針]
基本.恩赦Pを稼ぐ
1.恩赦Pを獲得してタバコを買いたい
2.エネリットの取引は受けるが、警戒は忘れない
最終更新:2025年03月05日 09:55