――――定時放送の時間だ。
諸君、刑務作業の進捗はいかがかな?
贖罪を果たし、己の価値をほんの少しでも証明できた者がいれば喜ばしい。
さて、それでは事前に説明していた通り、これより刑務作業の経過報告を行う。
アンナ・アメリナ
並木 旅人
羽間 美火
舞古 沙姫
ドン・エルグランド
宮本 麻衣
恵波 流都
無銘
フレゼア・フランベルジェ
アルヴド・グーラボーン
呼延 光
スプリング・ローズ
以上の者たちが刑務作業により懲罰を執行された者たちだ。
つまり君らの働きの『成果』だ。
いやはや、実に順調だ。
獣としての衝動に正直なことはある意味で誠実とも言える。
今後もぜひ、己が本懐を存分に披露してくれたまえ。
それが君たちの贖罪になりうる。今後も励んでくれたまえ。
続いて、禁止エリアの指定を行う。
A-4
B-6
C-1
D-8
E-2
F-7
G-3
H-5
以上のエリアは、今後立入禁止とする。
実施まで30分の猶予を設けるので、該当エリアにいる者は即刻退去するように。
もちろん無闇な好奇心で近づく者には、応分の代償が伴うことをお忘れなく。
首輪は公平で優秀だ。命令を忠実に実行する点において、君たちより遥かに信頼できる。
指定された禁止エリアはデジタルウォッチの地図にも自動反映されている。
記憶力に不安のある者も、どうぞ安心してくれたまえ。
君らに伝えるべき報告は以上だ。
引き続き、刑務作業に励みたまえ。
どうか、己が罪と向き合う有意義な時間を。
■
ピッ。という短く乾いた電子音が、静寂な執務室にこだましたのを最後に、定時放送は静かに幕を下ろした。
鋼鉄と囲まれたその空間は、アビスの中央管理棟に位置する看守長執務室である。
硬質な照明が冷たく照らす中、一人の男――オリガ・ヴァイスマンが、ゆるやかに椅子の背にもたれかかる。
一仕事を終えたヴァイスマンは足を組み直し、ややあって顔を上げた。
その視線の先には、既に一人の若き看守官が立っていた。
「お待たせしたね。それで? 何のご用件かな――――天野看守官」
皮肉をたっぷり含んだ声音で言葉を投げる。
その視線は、机の前で背筋を真っ直ぐに伸ばし、律儀に立ち尽くす若者――天野 秤へと注がれていた。
天野は背筋を正し、敬礼もそこそこに言葉を紡ぐ。
「看守長……無礼を承知で申し上げます」
若く張りのある声が静かな空間を貫く。
その声には、まっすぐな誠実さと、消せぬ動揺が混じっていた。
「今回の刑務作業……本当に、これで良かったんでしょうか?」
努めて冷静さを保とうという口調だったが、その言葉の端々には疑念と葛藤、そして強い正義感が滲んでいた。
その色の違う双眸はサングラスの奥に隠れているが、真摯な思いはその声に宿っていた。
だが、その正義はこのアビスという常識の通じない場所では、時として異端となる。
「……良かった、とは? どういう意味かな? 意図は明示したはずだが」
ヴァイスマンは背もたれに深く体重を預け、退屈な演目でも観ているかのような目を向ける。
その表情に宿る色は、青臭さを鼻で笑う支配者のそれだった。
「単独戦、集団戦、肉弾戦、超力戦、電撃戦、撤退戦、包囲戦、決死戦、継耗戦、籠城戦、殲滅戦、奪取戦、心理戦――。
現代におけるあらゆる状況下での戦闘データの取得。それが『今回の刑務作業』の主目的だ。
そしてその通りに推移している。ならば良好と結論づけるのが妥当ではないかね?」
当然のことのように言葉を並べ立てる。
その口調に葛藤や感情は何一つ存在していなかった。
「……本気で、あれを『刑務作業』と呼ぶつもりですか? 殺し合いをさせるなんて……それが我々のすべき更生支援なんですか?」
「ふむ、なるほど。刑務作業の内容に対する話だったのか」
ヴァイスマンはとぼけた様に小さく笑い、椅子から背を離すことなく冷めた調子で淡々と続けた。
「もっとも、抗議というものは通常、始まる前に行うものだ。
こうして既に歯車が回り始めてから憤るのは、どうにも……非効率という他ないね」
殺し合いは既に始まり、多くの死者は出た、時計の針は戻らない。
今さら正義を振りかざされても、遅きに過ぎる。
そんなものは偽善にもならない。
「非効率で済まされる問題じゃありません!!」
天野の大きな声が発せられ、拳がわずかに震える。
だがヴァイスマンは、耳を劈く声をうるさがるように表情をゆがめ、まるで子供の戯言を聞くかのような目で見下ろしていた。
「こんな方法で受刑者を処理するなんて、許されるはずがない!」
天野が続ける。
その言葉に、ヴァイスマンの唇がゆっくりと歪む。
まるで滑稽な冗談でも聞いたかのような、酷く陰湿な笑みだった。
「この刑務作業の目的は受刑者の処理ではない。そこをはき違えてはならない。
これは―――恩赦であり、慈悲であり、救済なのだよ。だいたい殺すだけなら、首輪をつけた時点で一斉爆破すれば済む話だろう?」
そもそもが刑務官と受刑者という絶対的な立場の違いがあるのだ。
ただ処分したいのであればここまで手間をかける必要などない。
「ですが、彼らの命を……利用している」
「確かに、命を賭けた内容ではある。それを利用と呼ぶなら、私は否定しない。
だが、それがどうしたというのかね?」
一歩も引かず、涼しげに即答する声に一切の躊躇はなかった。
彼にとって、それは取るに足らない意見だった。
「命を担保とした仕事など世の中にいくらでもある。
戦地、炭鉱、火災現場。刑務官である我々とて、命を賭けて任務に臨む時がある。
過酷な刑務作業に見合う報酬を提示しているつもりだ」
その報酬こそが恩赦ポイントだ。
外の世界への帰還という名の希望。
誰よりも自由に飢えている者たちにとっては十分すぎる飴だ。
「それとも、受刑者にはせめてスコップでも持たせて鉱山を掘らせるべきだったかね? それだって命の保証はない。
別に全員死ぬまでやり合えと言っている訳ではないんだ、結局どんな形であれ、労役に命の危険は付き物なのだよ。
確かに職業選択の自由こそ奪われているが、罪を犯してここに来た時点で、選択肢を狭めたのは彼ら自身だろう?」
どのような仕事でも死者が出る事はある。
この刑務作業中の死者もそれと同じだ。
表向きには刑務作業中の事故死として処理されるのだろう。
天野の手が拳を握りしめた。
なんとか自信を落ち着けようと一呼吸おいて、天野が強く言葉を重ねる。
「中には冤罪の可能性がある受刑者だっているはずです。調査もままならず、このような仕打ちは……『正義』じゃない」
その言葉に、ヴァイスマンの眉が僅かに動いた。
「やれやれ……これは本格的に、基礎教育からやり直してもらわないといけないかな」
まったく新人教育はどうなっているのかと、呆れたように小さく首を振った。
「天野看守官。ここは個々の善性や事の真偽を計る裁判所ではない。
アビスに収監される者は社会全体にとってのリスク因子となる『社会悪』なのだ。
それらを閉じ込め管理する事こそが我々の役目だ」
そして、彼は語り出す。
冷酷なアビスの論理を。
「例えばジャンヌ・ストラスブール。
彼女の人間性は間違いなく善性であると言えるだろう。GPAだって彼女が冤罪を押し付けられただけなどという事は分かっている。
だが、彼女が存在することで世界にどのような影響が生まれた? 彼女を担ぎ上げた連中の手によってどれだけの血が流れた?
彼女の存在が多くの死者を生み、フレゼア・フランベルジェやジルドレイ・モントランシーのような多くの”模倣犯”を生んだ。
その影響力は存在するだけで社会に混乱をもたらす社会悪だ」
「例えばメアリー・エバンス。
今回の刑務作業でも確認されたはずだ、彼女はそこに居るだけで人に害をなす。
彼女には悪意がない。常識も倫理観も未発達。善悪の判断を下す以前の存在だ。
本来、幼い子供は保護されるべき存在だろう。だが、彼女に限って言えば、それを許せば世界が壊れる。
彼女に悪意はない。だが、悪意の有無と危険性は別だ。世界を破滅させる無垢を閉じ込めるのがこのアビスだ」
「例えばエネリット・サンス・ハルトナ。
かつてハルトナ王国に起きた革命により、彼は王制そのものの象徴として幼児時分でありながら投獄された。
もし彼が外に出て祖国に戻ればどうなる? 支持者は当然現れる。民衆の一部は悲劇の王子に心を寄せ、内戦の火種となる。
逆に、彼の復帰を恐れる現政権や国外勢力は、先手を打って謀殺するか、再び弾圧に走るだろう。
彼が何を望もうと、存在するだけで争いの理由になってしまう。
つまり、彼個人の罪ではなく、彼の存在が社会を不安定にする罪なのだよ」
上げられたこれらは一例でしかない。
もちろん直接的な社会不安を生む凶悪犯もアビスには多く収監されている。
名を挙げながら、ヴァイスマンは天野に視線を向ける。
「冤罪であろうと、世間に『悪影響』を与えてしまった時点で、もはやその存在は社会にとっての悪だ。
それでも守るべき『法』や『規律』もあろう。だが開闢以降の混乱した世界を抑えるにはその枠組みが邪魔になる事もある。
その枠を超えて、その毒を封じる毒壺が必要となるのだよ。このアビスはそのためにある」
それぞれの『罪』は、彼ら自身の内にあるものではない。
その存在そのものが社会秩序を乱す毒となる。
「故に、我々に求められるのも『正義』などではない、『必要悪』なのだよ。
冤罪か否かなど、この施設においては些末な問題だよ。
アビスの職員たるものがこの前提を理解せず正義などと言うお題目を掲げるとはいやはや困ったものだ」
呆れたようにこれ見よがしに肩を竦めて首を振る。
『社会悪』を管理する『必要悪』。
これこそがアビスの存在意義だ。
「…………詭弁です」
「その詭弁が理解できたのなら、持ち場に戻りたまえ。
同僚が懸命に働いてる横で、何時までもこうして駄弁ってるわけにもいかないだろう?」
ヴァイスマンは会話を幕引くように手で軽く追い払うように言った。
天野からすれば処分覚悟の進言のつもりだったが、ただの雑談だと流された。
まともに取り合うつもりがない事を理解して天野は悔しげに歯を噛みしめる。
「……失礼します」
それでも彼は規律を忘れず、背を向け、静かに執務室を後にした。
重く閉まる扉の音が空気を震わせる中、ヴァイスマンはやれやれといった風に小さく息をつく。
「まったく……職員の質が低下しているな。正義などと、嘆かわしいことだ」
吐き捨てるような溜息と共に、再び背もたれに深く体を預ける。
そして青みがかった瞳を閉じると、己が超力『支配願望』を起動した。
するとヴァイスマンの意識にアビスに在籍する全ての看守官たちの状態表が浮かび上がる。
「ふむ……ステイン主任看守とライラプス特任看守官には心労が見えるな。
ステイン主任看守は表面上は見事に取り繕っているが、ライラプス特任看守官の方は正直だな、作業効率が落ちている。困ったものだ」
職員の状態を確認しながら、独り言のように呟く。
一つの状態表を確認した所で僅かに、眉をひそめた。
「こちらもサボりか。まったく……」
目を開いたヴァイスマンは右手のデジタルウォッチを見つめた。
「そろそろ、ご到着の時間か」
ヴァイスマンは椅子を離れ、黒衣の裾を整えて立ち上がる。
静かにドアに手を掛けながら、唇にわずかに笑みを浮かべた。
「ちょうどいい機会だ、優秀な部下をご紹介しておこうか」
■
静まり返った廊下に、わずかな生活音が反響する。
その一角にある職員用の休憩スペース。簡素なベンチと簡易的な給水機だけが並んだ、無機質な空間。
そこに、だらしなく腰を下ろす一人の男の姿があった。
このアビスにおいて第一班の主任看守の立場を預かる男、クロノ・ハイウェイ。
手元のタブレットに片手で触れながら、もう片方の手でスナック菓子の袋をいじっている。
眠気と倦怠にまみれたその姿は、とても勤務中の看守には見えなかった。
「またサボりかね。ハイウェイ主任看守」
不意にかけられた声に、クロノの体がビクリと跳ねる。
タブレットが膝から滑り落ちそうになったのを、慌てて片手で支えた。
「げっ……看守長……」
顔を上げたクロノの目に映ったのは、例のごとく完璧に着こなされた漆黒の制服――看守長オリガ・ヴァイスマン。
その眉間には、軽く呆れたような皺が寄っていた。
「いやぁ……その。24時間体制の超重労働っすよ? こうして合間に休んどかないと持ちませんって」
ヘラリと笑いながら言い訳するが、どこか視線が泳いでいる。
「君らの身体的・精神的状態は、常時こちらで把握している。
休息が必要なら、高原サポート員に正式申請すればいいだけの話だ」
「あー……っすよねぇ……」
反論しようとして、やめる。
『支配願望』による監視網の前では、どんな嘘も誤魔化しも意味を成さない。
クロノもそのことは嫌というほど分かっている。
「まったく……少しはケンザキ刑務官を見習いたまえ」
「いやー……あれはあれで特殊技能っすよ。ていうか、なんか別のジャンルっす」
かつてネット配信者だった経歴を持つ彼女は、アビスにおける物資管理と転送を一手に担っている。
24時間、倉庫の映像が投影されるモニターの前に貼り付き、支援要請が来るたびに即応。
しかも彼女にとってそれは苦でもなんでもないのだろう。
「彼女の支援は、君の仕事にも関わっているはずだが?」
クロノの『時短主義』は、周囲の時間を圧縮する。
倉庫からの搬送にかかる時間を丸ごと圧縮し、現地に即時配送を可能にしていた。
「まあ……そっすね。放送直後で現場もバタついてるだろうし……ちょっとくらい、大丈夫っすよ」
ヴァイスマンのため息が一つ、重たく落ちる。
この男は、適当にサボっているのではない。
しっかりと手の抜きどころを見越しているから性質が悪い。
「……まあ、よかろう。手が空いているのなら、付き合いたまえ」
「へ? どちらまで?」
気怠げに尋ねるクロノに、ヴァイスマンは背を向け、歩き出したまま答えた。
「お出迎えだよ。所長が久しぶりにご帰還なされるのでね」
■
廊下を並んで歩きながら、クロノ・ハイウェイはため息混じりに口を開いた。
「俺、所長と直接話すの何気に初めてなんすけど……どういう方なんすか?」
クロノは気だるげに首を傾げる。
正直、余計な上司が増えることに気乗りはしていなかった。
「まぁ、お忙しい方だからね。一言で言うなら――――」
ヴァイスマンは不意に言葉を切り、珍しく芝居がかった口調で告げる。
「――――――『英雄』だよ」
予想外の単語に、クロノは訝しげに眉をひそめる。
地獄の看守長らしからぬセリフだ。
「……英雄、っすか?」
「世界を救った英雄だ。かっこいいだろう?」
ヴァイスマンの口元に笑みが浮かんでいる。
それが本気か冗談か、クロノにはいまいち判断がつかなかった。
「元は軍人でね。現役時代には多くの功績を上げられた方だ。
『開闢の日』の発生にも関与されていたと伺っている。
軍の退役後、このアビスの所長に就任された」
「つまり……天下りっすか?」
「天下りというより、地獄送りと呼ぶ方が適切だろうねぇ」
ヴァイスマンはクツクツと喉の奥で笑う。
その笑みはどういう意味が含まれたものなのか、やはりクロノには分からなかった。
「なんか……聞けば聞くほど、怖い人っぽく聞こえるんすけど……」
「安心したまえ。極めて理性的で、穏やかな人格者だよ。私と違ってね」
ヴァイスマンが言い終わる頃、二人は廊下の最奥、地の底と地上を繋ぐ唯一の出入り口へ辿り着いていた。
鋼鉄製の扉の前で2人は待機していると、ややあって地上から降りてきたエレベーターの扉が重々しい音を立てて開いた。
中から現れたのは、背筋を真っ直ぐに伸ばした一人の壮年の男。
規律正しく切り揃えられた髪、端正だがどこか威圧感を伴う顔立ち。
そして、その眼差しは左右の瞳の色が異なるオッドアイだった。
「ご苦労様です、看守長」
軽い挨拶と共に現れた男にヴァイスマンが恭しく頭を下げる。
その姿には、普段の皮肉や揶揄の影はなかった。
「おかえりなさいませ――――――――ノギヒラ所長」
その男の名はさすがにクロノも知っている。
ヤマオリ記念特別国際刑務所 所長、乃木平天。
彼は穏やかに笑みを浮かべ、静かに看守長の礼に応じながら、視線を横に控えていたクロノへ向ける。
「顔を合わせるのは、君が主任に昇格して以来になりますか。
こうして落ち着いてお話しするのは初めてになりますね、クロノくん」
「っす。どーも……よろしくお願いします、所長」
緊張したような、しないような微妙な空気の中、クロノが気怠げに頭を下げる。
その態度に、ヴァイスマンの眉がぴくりと動く。
「ハイウェイ主任看守。態度と言葉遣いには気をつけたまえ」
「まあまあ、構いませんよ。楽な言葉遣いで結構です。気軽に接してくれる方が私にとってもありがたい」
所長は気さくにそう言うが、ヴァイスマンの視線が鋭くクロノを射抜いている。
その狭間で、クロノは視線を逸らしながら苦笑いを浮かべるしかなかった。
「では、私のほうが偉いので、私の指示に従ってもらいましょうか」
乃木平が冗談めかして言うと、ヴァイスマンはさらに苦々しい表情を浮かべる。
二人の上司に挟まれ、クロノの居心地の悪さは頂点に達していた。
これが、サボりへの釘刺しのつもりなら、相当に性格が悪い。
「……あー、それじゃあ所長室までお連れします。どうぞ、こちらっす」
別にご案内もないだろうが、居心地の悪い空気を変えようとそう促して、クロノは前を歩き始める。
その背後から、二人の上司が静かに付いてくる気配を感じる。
ヴァイスマンの刺すような視線と、乃木平の穏やかな気配。
この両極端な空気に挟まれ、クロノの歩く廊下はまるで針の筵のようだった。
(こんなことになるなら、真面目に働いてりゃよかったなぁ……)
そんな後悔を胸に抱えながら、彼は所長室への道を辿る。
その足取りは、地の底よりも重かった。
■
所長室。
アビスの施設内とは思えないほど整然として清潔な空間で、三人の男が静かに対面していた。
机を挟んで座るのは、所長の乃木平と看守長であるヴァイスマンだ。
最も立場が下であるクロノ・ハイウェイだけは、落ち着かない様子でヴァイスマンの座るソファーの裏に立ち尽くしていた。
「私が立案したにも拘らず、準備から運営に至るまで任せきりで申し訳ありません」
「いえ、所長のご多忙は重々承知しております。実務は我々現場の者が担うべき仕事ですから」
穏やかに切り出す乃木平に、ヴァイスマンは慇懃に応じる。
「え、今回の刑務作業を考えたのって、所長だったんっすか? てっきり看守長が考えたんだと」
後ろで話を聞いていたクロノが思わず驚きの声を上げた。
「上(GPA)からの要望を受けた形ではあるが、企画の立案は所長だよ。まあ、ルールや内容の詳細を詰めたのは私だがね」
「あぁ、どうりで……」
性格の悪い仕掛けが多かったという言葉は、さすがに飲み込んだ。
数々の陰湿で性格の悪い仕掛けが散りばめられていることも納得だった。
「けど、やっぱ意外っすね。所長がこの『刑務作業』を提案したなんて」
「『殺し合い』など提案するようには見えない。そう思いますか?」
乃木平は声を荒げるでもなく微笑を浮かべている。
たが、クロノはうっすらと背筋に寒いもの感じた。
「…………ええ。まぁ。そうっすね」
悪寒を感じながらもクロノは返事を返す。
「ふふ。誉め言葉として受け取っておきましょう。
ですが、このやり方には少し覚えがありましたので」
さらりと告げる。
まるで本当に『人類の発展のために行われる閉鎖環境での殺し合い』なんてモノに覚えでもあるかのようだ。
「それで、職員たちの反応はいかがです?」
乃木平の問いに、ヴァイスマンは少し顎を引いて答える。
「正直なところ、芳しいとは言えませんね。
明確に否定的な態度を取っているのが一割、内心に疑念を抱えつつも職務を全うしている者が二割、といったところでしょうか」
ヴァイスマンは職員の内心を見透かし答える。
乃木平はふむと何でもない様子でうなずいた。
「まあ仕方がないでしょう。汚れ役を担うには、それ相応の覚悟が必要ですからね。私も若いころは何度も経験しました」
その口調は柔らかだったが、その内にはどこか異様な威圧感がある。
この男の積み重ねてきた経験の厚みがそうさせるのだろう。
「手を汚すことは罪ではない。罪あるとするならばそれは己が何を踏みにじっているのか無自覚であることだと私は考えています」
英雄と呼ばれるまでに幾度となく国家の崩壊の危機を防いできた男。
人知れず、何度命の選別を冷徹に下してきたのか。
「忘れぬことです。自分が何を踏みにじってきたのか。それこそが己を支える礎となるのだから」
クロノは思わず背筋を正す。
この所長、表向きには穏やかでも、その内側には途方もない業が眠っている。
その気配が、肌の奥で静かに刺さった。
「とはいえ、経験というのは何よりの教師です。
一度大きな壁を越えれば、職員たちは確実に成長する。
今回の作業は、彼らにとっても良い経験となるでしょう」
さらっとにこやかに、とんでもないことを言う。
やっぱりこの人、本質的に怖い人なのでは?
クロノはそんな疑念を抱きながら、話題が逸れることを願い視線を逸らした。
「ちなみにクロノ君。君自身は、今回の刑務作業をどう受け止めているかな?」
だが、その希望は裏切られ、次に投げられた問いは彼に向けられたものだった。
二人の上司の視線が、一斉に彼に注がれる。
「……はぁ」
その問いかけに、気の抜けた返事しか出なかった。
逃げ場のない空気の中、クロノは肩を竦め、苦笑気味に答えた。
「ま……アレっすね。
最終的に外が少しでもマシになるんなら、それでいいんじゃないっすか?
そもそもアビスって、そういう場所でしょ」
いつも通りの飄々とした口ぶりではあったが、本音を含んだ発言だった。
そんなクロノの言葉に、乃木平が薄く笑い、ヴァイスマンは楽し気に口元を歪める。
「――やはり、君は理想的なアビス職員だよ、ハイウェイ主任看守」
ヴァイスマンが愉悦を滲ませた声で言う。
褒め言葉として受け取っていいのか微妙な言葉であるが。
それ以上にこの看守長に素直に褒められた気味の悪さが先に立ち、クロノは苦笑を浮かべる。
「それでは、そろそろ本題に入りましょうか。刑務作業の経過報告をお願いします」
所長が柔らかな声で雑談に区切りをつけ、業務の本題に入る。
看守長は淡々とした口調で答え始めた。
「エンダ・Y・カクレヤマの死亡と復活と、それに伴うドン・エルグランドの死亡と言った多少の想定外はありましたが、大方は当初の想定範囲内で推移しています。
バルタザール・デリージュの超力暴走とフレゼア・フランベルジェ、ジルドレイ・モントランシー中心に勃発した大規模戦闘に関しては別途レポートにまとめていますのでご確認いただければと」
「了解しました。事前想定と大きく乖離しないなら、問題はないでしょう」
事前の想定とやらは頭に入っているのだろう。
乃木平は静かに頷くだけで、内容に対する追及は見せなかった。
「次のフェイズでは刑務作業者の半数近くがブラックペンタゴンに集結する予定です。大規模な室内戦のデータが収集できると思われます」
「ふふっ。ブラックペンタゴンですか。面白い施設ですね」
「いや、我がことながらお恥ずかしい」
「?」
上役二人は冗談でも言うように笑いあうが、何がおかしいのかクロノにはわからなかった。
「作業者たちの超力の状態はいかがでしょうか?」
「他者の超力の干渉ありきではあるものの、いくらか変質の傾向がみられました。やはり極限状況では超力の変質は発生しやすいようですね」
ヴァイスマンの報告に、乃木平はふむと小さく頷く。
「結局のところ、超力とは人間の脳から出力される力です。そのため脳の構造が変化すれば、それに伴って超力の出力も変化するのではないかという考えは昔から根強くあります。
そのため、『裏』の方では超力の進化を促すために人為的に過度なストレスを与え脳委縮を引き起こさせたり、物理的に脳の一部を切除する、などという実験が行われていた。
もっとも、このやり方の成果は余り芳しくはなかったようで、シエンシアの件もあってか、最近は『新規』に作る方にトレンドがシフトしているようですが」
ただ削るだけでは劣化にしかならない。
皮肉にも裏社会で行われている非人道的な実験によってそれは証明されている。
進化を促すのであれば、それを促す条件を洗い出す必要がある。
「単純なストレスだけではない。別の条件があるということですね」
「ええ。その条件の洗い出しは必要ですね。長期化する戦場を想定するのであれば、それを考慮に入れることになるでしょうから」
大規模な戦争を想定した戦闘実験。
そのための懸念点を洗い出すのがこの刑務作業である。
今後の戦争で超力の進化を考慮する必要があるのなら、その条件を洗いだねばならない。
「被験体Oの調子はどうでしょうか?」
「GPAからの報告によれば経過に問題はないかと。午後にはGPAからの使者としてアマハラという職員が来所する予定ですので、そのタイミングで投入可能かと」
「なるほど、天原くんですか。でしたら私が対応しましょう。ちょっとした顔見知りですので」
乃木平とヴァイスマンは事務的な確認作業を行っていく。
話は進み、自身の知らない領域にまで踏み込まれてゆくその様子をクロノは無言で見つめていた。
「では――『システムB』の調子は如何ですか?」
乃木平の声は静かだったが、一番の本題を切り出すような問いかけに空気がわずかに張り詰める。
その問いに、ヴァイスマンは一切の間を置かずに答えた。
「並木旅人の干渉を受けたメアリー・エバンスの超力拡大によって何らかの影響が懸念されましたが、現在のところ大きな問題は確認されておりません。
綻びの確認のためテスト要因として選出したトビ・トンプソンは、現在のところは何も糸口を掴めておらず、依然として通常の範疇。
また、イグナシオ・“デザーストレ”・フレスノも超力による微細な違和感を感知しているようですが、今のところ確信に至るほどではありません」
まるで観察動物の挙動を語るかのように、淡々と述べるヴァイスマン。
だが、そこに含まれるのはまるで陰謀でも企むような危険な香りだった。
『システムB』に関する報告を締めるように、ヴァイスマンは小さく息を吐いた。
「今の所テストとしては及第点でしょうが……正直、そもそもアレ自体が必要なのか、私は些か疑問ですねぇ」
規律に厳しい男にしては珍しく、所長に対する語尾に皮肉めいた含みがにじむ。
その言葉に、乃木平は目を細めて返す。
「お偉方は必要だと考えているのでしょう。我々が疑問を挟むところではないですね」
「おっと。それは失礼を」
軍人上がりらしい、忠実かつ端的な答えだった。
ヴァイスマンが肩をすくめた時、傍らで黙って聞いていたクロノが、唐突に口を挟んだ。
「そもそも、どういう物なんっすか? あの『システムB』って」
軽口を開いたようでいて、実は鋭い急所を突くその質問。
要点を抑えるべく意図的に空気を読まない。
その抜け目のない在り方こそ、クロノ・ハイウェイという男が今の立場にある理由だった。
その質問にヴァイスマンが一度、所長へと視線を向ける。
乃木平は、僅かに頷き肯定を示す。
「構いませんよ」
上司からの発言許可を得たヴァイスマンは頷きを返し、言葉を選ぶように語り始めた。
「ハイウェイ主任看守。昨今、GPAのお偉方が何にご執心は知っているかね?」
「……はぁ、まぁ一応は」
「答えてみたまえ」
答えを教えるのではなく、わざわざ回答させあたり性格の悪さが滲んでいる。
「『システムA』っすよね」
「そうだね。まあハズレではない」
皮肉を含ませつつ、ヴァイスマンが及第点を与えるように頷いた。
「つまりは、超力のシステム化だ。『システムA』はその試験作という訳だよ」
超力のシステム化。
個人に依存した力は管理もしづらく、何より脳を出力元とする超力では出力に限界がある。
これをシステム化することで能力の方向性を調整したうえで、個人を超えた大規模な運用が可能となる。
そして、誰でも使える形に落とし込むことができる。
「旧世紀の重火器や核兵器と同じく、均質化された力。
お偉方は、管理可能な『暴力』を求めている。個人の才覚が支配するこの時代を、彼らは嫌っているのさ」
老人共が望むのは、個人が力を持ちすぎる現代より、重火器や核兵器といった誰もが力を持つ旧世界の回帰である。
その試験作こそが『システムA』である。
つまり、超力の無効化という効力よりも、システム化された超力であるという意味合いの方が重要なのだ。
「『システムA』の大元は20年以上前から研究されているが、秘匿受刑者の超力を解析することにより、大きく発展した」
「20年、以上…………?」
20年と言えば開闢以前の話である。
ジェイ・ハリックの様な天然の能力者でもいたというのだろうか。
「なら、『システムB』も秘匿の誰かの超力から生まれたものってことっすか?」
返るのは無言。
ヴァイスマンが静かに首を振る。
「いいや、アレは別口だよ」
「別口?」
その口調に容易に口にできない重々しさが含まれていた。
口の重くなったヴァイスマンの代わりとばかりに、乃木平が静かに語りを継いだ。
「クロノくん。君はヤマオリについてどれだけ知っていますか?」
話題の急な方向転換である。
クロノは一瞬だけ眉をひそめたが、すぐに気を取り直して答えた。
「まあ、教科書で習った程度には」
ヤマオリ。
それは今や存在しない村の名である。
正式には山折村。
日本にかつて実在し、Z計画と呼ばれる極秘研究が行われていたとされる閉鎖集落だ。
震を契機に生物災害が発生し、村内に未知のウイルスが蔓延。
全住民が死亡するという、歴史的にも類を見ない悲劇的な結末となったバイオハザード事件である。
しかし同時に、この事件をきっかけにウイルス研究は飛躍的な進展を遂げ、
その技術は後に超力社会の切っ掛けとなる基盤技術【HEUウイルス】系列として昇華される。
これらの事件は未名崎錬博士の告発により事実が表面化し、世界的な動揺と混乱の末、GPAが設立される運びとなった。
現在、山折村跡地は国際立入禁止区域に指定されており、
『超力社会の原点』として教科書でも扱われる、半ば伝説化した土地である。
その性質から、尾ひれの付いたうわさ話や都市伝説は山のようにあるが、一般常識としてこんなところだろう。
ここまでは義務教育を受けた者なら誰でも知っている、ごく基本的な知識だ。
「では、『探索隊』の存在については?」
「確か、立ち入り禁止区域であるヤマオリの地に侵入しようって連中のことっすよね?」
新世界始まりの地。
その場所を宗教的な聖地として、あるいは学術的な研究を目的として、様々な目的を持って訪れる者は後を絶たなかった。
その中でも探索隊と呼ばれる、一攫千金を狙いヤマオリに残された遺物を狙う集団が存在する。
「けど、大抵が行方不明になってるって噂っすよね」
「そうですね。大方はそうなっています」
あの村に敷かれた立ち入り禁止はお飾りではない。
侵入したが最後、もはや戻ってこれない魔境である。
「大方ってことは、帰還した探索体も存在する、って事っすか?」
「さすがに目ざといなハイウェイ主任看守」
満足げに笑みを浮かべながら、ヴァイスマンが頷く。
「その辺の野良とは違う、ヤマオリの地を調査すべくGPAが『非公式』に立ち上げた探索部隊が存在したのさ」
GPAの探索部隊であるにもかかわらず非公式。
それはつまり、このアビスと同じく秘匿された存在であると言う事だ。
「その初代探索隊を率いられたのが、こちらのノギヒラ所長だ」
「あまり持ち上げないでください。私が選ばれたのもヤマオリの経験者であったからという一点でしょうし、もう10年以上前の話ですから」
素人の寄せ集めでしかないトレジャーハンター連中とは違う。
乃木平の率いる精鋭部隊『ヤマオリ探索隊』がGPAにより秘密裏に結成された。
「それで、その所長さんが率いた探索隊が、この話とどう関係するんっすか?」
かなり話が逸れたようだが、元は『システムB』の話だったはずである。
所長の武勇伝を聞きたいわけではない。
だが、その実、話は逸れていなかった。
「ノギヒラ所長の率いられた『ヤマオリ探索隊』は、ヤマオリの地で2つの遺物を発掘した」
話が核心に迫りヴァイスマンの声が、わずかに沈む。
「そのうちの一つが『システムB』の鋳型となったとある『異能』だ」
「『異世界構築機構(システムB)』。異世界を創ると言う、超力よりも限りなく魔法(げんしょ)に近い異能だよ」
最終更新:2025年05月06日 21:57