朝だった。
誰に告げられたわけでもなく、ただそう思った。
空が青くもなく黒くもなく、境界の曖昧な淡い光に包まれている。
それだけで、ずいぶん遠くへ来たんだなと思った。

この刑務作業が始まってから、昔のことをよく思い出す。
俺がナチョだった頃、天井のない部屋で眠った日があった。
壁は汚れていて、床は冷たくて、空だけがひどく広かった。

空だけはいつの時代、どこの国でも変わらないはずなのに、立場と状況で見える景色は違ってくる。
あの時、感じた朝はどれとも違う朝だった気がする。

世界に誰もいない気がして、自分ひとりが生き残ってしまったみたいで、少し泣いた。
まだ、闘争の渦に飲まれる前。涙を流すだけの優しさが、俺にも残っていた頃だ。

あの頃、俺は真実に価値があると信じていた。
誰かが嘘をついても、自分の力でそれを暴ける。
正義という言葉が恥ずかしいものになる前は、それだけで胸を張れる気がしていた。

でも、力のない真実は、誰も救わなかった。
どんなに本当のことを突きつけても、誰かが殴ればそれが全てだった。
どんなに過去を見せつけても、笑われて、蹂躙されて、踏みつけられて。
真実が力に勝てたことなんて、一度だってなかった。

俺の力は、正義の道具じゃなかった。
誰かの命を救う奇跡でもなかった。
過去という名の墓標を暴くだけの、ただの『記録』の再生にすぎない。
どれだけ必死にすがっても、その場に立っていた者の感じた『記憶』の方が、ずっと強いとそう思っている。

だから、俺は戦うようになった。
あの人――大金卸樹魂と出会い、戦いを通じて自分を見出す生き方を選んだ。
最初は真実を貫き通す手段として、その内その手段を目的として。
超力を暴力として振るうようになって、誰かを打ち倒すたびに思った。

生き残った。
だから俺には、意味がある。
死んでいった奴らよりも、価値があるのだと。
生存という形で俺は自分の価値を証明してきた。
そうやって、幾度となく死を踏み越えてきた。

戦いは、楽しかった。
自分の肉体が削れていく音。
骨が軋み、心が燃える感覚。
どこか、性に似た快楽すら覚えた。
勝ったときの高揚は、全てのしがらみを一瞬だけ忘れさせてくれる。

だから、俺は罪人だ。
誰かの命を踏み台にしてまで、快楽を貪った。
どこかで、自分自身が殺されても仕方ないと思っていた。
だから、この刑務作業は自分の終りとしてふさわしい場所なのだと思ったんだ。

けれど今は……アンリくんを見ていると、違う思いも沸いてきていた。
あの子の目は、まだ穢れていない。
あの子の言葉は、俺よりずっと強い。
自分を嫌いながら、それでも生きようとしている。
逃げたいと思いながら、それでも守ろうとする。
俺にはもう戻れない場所を、彼はまだ歩いている。

この子には、俺みたいになってほしくない。
誰かに追いつこうとして、歪んだ道を選んでしまった俺と同じになってほしくない。
だから俺は、同じ道を歩まないように、間違ってしまった先人として自分の記憶と経験、後悔を彼に伝えるのだ。

それはきっと俺の身勝手な願いなのだろう。
彼にとっては有難迷惑な話なのかもしれない。
けど、それでいい。

善意であろうと悪意であろうと押し付けるものだ。
それを受け入れるのも、迷惑として跳ねのけるのも彼の自由だ。
結局、人間など結局は身勝手な生き物なのだから。
俺は俺の我儘を押し通すだけだ。


朝の風が、崩れた鉄骨の隙間を低く唸りながら吹き抜けていた。
瓦礫の奥で、どこか小さな部品がコロリと音を立てて転がる。
灰色に濁った空が静かに廃工場を照らしている。

腐食に蝕まれた建物は、所々で鉄が剥き出しとなり、鋭い影を足元に落としていた。
朝の光は温もりに乏しく、色を与えるどころか、全ての輪郭を鈍く灰へと塗り潰していく。

旧工業地帯・北西部、F-3区画。
イグナシオと安理は、言葉少なに歩いていた。

彼らの足音は、廃墟の静寂に吸い込まれていく。
廃墟に響かぬよう慎重に、まるで音という音を避けるように。
床のコンクリートには、歪んだ鉄くずや破砕された部材が散乱しており、一歩ごとに注意を要する。

この場の沈黙は、呼吸すら控えさせる。
砕けたコンクリ片を踏まぬように。鉄板の上で反響を起こさぬように。
その緊張は、見えぬ何者かの殺意を感じ取っている証だった。

安理はイグナシオの歩調にぴたりと合わせていた。
先を歩むイグナシオの姿を見本として、その動きに倣うように同じ動きを模す。
それは拙いながらも警戒という行動様式を身に着けようとしているようだった。

イグナシオは歩を止めず、虚空へと片手を掲げる。
その指先が探るのは、空間にわずかに残された存在の『記録』。
超力『トランスミシオン・ヘオロヒコ』が過去の残響を伝えてくる。

そこから読み取れる標的の足取りはかなり重い。
それもそうだろう。何せ戦ったのは、あの『鉄塔』――呼延光。
致命的なダメージを負っている可能性は高い。

ならば、どこかに潜伏して回復を図っている可能性は高い。
この区画は、潜むにうってつけだった。
金属音が響きやすく、物陰が多く、退路も豊富。
この廃工場地帯であれば、通常の捜索では見つかりようがない。

だがイグナシオの超力はその不可能を導く。
辿った怪物の痕跡は、崩れかけた路地のさらに奥。
足音の重なり、床に刻まれた微細な圧痕、揺れた空気のわずかな軌道。
それらの重なりが、彼にひとつの確信をもたらす。

「……ここを通ったな、間違いない」

囁くように呟いた声に、安理がすぐさま応じる。

「フレスノさん、それって……」
「ああ、怪物の痕跡だ。しかも、新しい――十分も経っていない」

その瞬間、安理の背筋が緊張でぴんと伸びた。
目の奥に一閃の警戒が走り、呼吸が浅くなる。

イグナシオはその反応に、心中わずかな安堵を覚えていた。
恐怖を抱ける者は、まだ生き残れる。
無謀な勇気よりも、その臆病さこそが生への執着を支えてくれる。
それを超える激情が与えられない限り、その慎重さは崩れないだろう。

周囲には不気味なまでに人の気配がない。
この島に来て以来、動物も鳥も、生命という存在が、まるで姿を隠している。

やはり、この島はどこかおかしい。
幾度となく超力を行使しているが、どうにも遡れる範囲が限られている。
過去がまるごと、最初から存在していなかったかのように霧散していく。

考えられる可能性はある。
だが、それはあまりにも荒唐無稽で実現不可能な推理とも言えない代物だ。
それを言語化すればただの妄言にしか聞こえないだろう。
だが、探偵の勘はその異常に確信を持ち始めていた。

路地を進み怪物の足跡を追っていく。
イグナシオは、ある廃工場の手前で立ち止まった。

「……あの建物の中にいる。間違いないだろう」

問われるより先に、静かに断言する。
その先は、怪物の潜む巣だ。
これまで以上に慎重さが求められる。

「アンリ君。ここから先は一定の距離を保ちましょう。
 これ以上接近すれば、こちらの存在が伝わる恐れがある。
 目的は接触ではなく、観察です。わかりますね?」
「……はい」

改めて念を押すと、安理は短くうなずいた。
喉奥が鳴り、肩がわずかに揺れる。
それでも彼の目は、まっすぐ前を向いていた。

だが唐突に、廃墟に張り詰めていた静寂が砕かれた。
その緊張を切り裂くように、空気が揺れる。

「……――放送」

この刑務作業における、最初の放送が流れ始めたのだ。


「――――ローズ、さんが……死んだ?」

スプリング・ローズの死亡。
その事実が、安理の頭の中で何度も反響する。

耳鳴りがした。呼吸が詰まった。視界が白く滲んでいく。
喉の奥が急速に干上がり、呼吸が引きつる。胸が膨らまず、息が吸えない。
血の気が引くとはこういうことかと、頭の片隅で冷静に思う自分がいた。

唇がかすかに震える。手が勝手に強張り、服の裾を握る指先に力が入らない。
心臓が早鐘のように鳴っているのに、身体は逆に凍りついていくようだった。

「そんな……そんなのって……!」

ふらりと膝が崩れかける。足が地面を踏んでいるはずなのに、重さの感覚がない。
言葉は次第に怒気へと変わり、青い瞳が虚空を睨んだ。

イグナシオは、安理の横で立ち尽くしていた。
言葉をかけるべきか、それとも黙って受け止めるべきか、その判断がつかない。

「アンリ君……」

ようやく絞り出したその声も、波の中へ沈むように届かない。
それでも、安理はその声に反応した。
うつむいたまま、ぽつりと、まるで自問のように問いを投げる。

「……フレスノさん」

震える声の底に、焦げるような怒りが潜んでいた。

「この先にいる……怪物の痕跡と……ローズさんの足跡……途中まで、同じだったんですよね?」

イグナシオの目がわずかに動いた。
言葉にしなかった懸念が、安理の口から放たれる。
その意味は明白だ。

「なら――――あの怪物が……ローズさんを殺したんじゃないですか……!?」

感情が爆ぜ、青い瞳が怒りに滲む。
冷気を纏うはずの氷龍の少年の身体から、むしろ熱が立ち昇るような錯覚さえあった。
怒りが、悲しみが、どうしようもなく溢れ出す。

「落ち着いてください、アンリ君。その結論は早計すぎます」

イグナシオの声が空気を断ち割るように響いた。
安理は明らかに冷静さを欠いている。
ローズとの交流や大金卸との戦いを得て手に入れた自信が、最悪の形で転がってしまった。
得られたモノが彼の中で大きければ大きい程、ローズの死という傷も大きくなる。

「確かに痕跡は途中まである程度方向が重なっていました。ですが、痕跡の途切れた時間と怪物の移動経路は一致していません。
 この死が、あの怪物の仕業だと断定するには情報が不足しています」

論理的な言葉。探偵としての正しい応答。
しかし、今の安理には届かない。

「落ち着いてなんか……いられないですよッ!!」

喉が張り裂けそうなほどの声が、廃墟の壁にぶつかって反響する。

「待つんだ! アンリ君!」

イグナシオが手を伸ばす。
だが、その制止を振り払った安理の足が、前へ出た。
その時だった。

――ジャラ。

乾いた金属音が周囲に響いた。
視線を落とすと、足元に何かが転がっている。
そこにあったのは瓦礫に紛れてた一本の鎖だった。

それは、ありふれた工業用の廃材の一部――ではなかった。
どこか不自然に真新しく、他の鉄屑が腐食し鈍く濁った色をしている中で、その鎖だけが異様な黒光りを放っていた。
それが何であるかを察したイグナシオの目が大きく見開かれる。

「しまった――――哨戒用の罠だッ! 敵に気づかれたぞッ!」

声が落ちきるよりも早く、地を這うように鎖が生き物のようにうねり始めた。
安理は反射的に足を引こうとしたが、遅かった。

鎖はまるで意思を持った蛇のように安理の脚に巻き付いた。
そして、そのまま地面を滑るように安理の身体が引きずられてゆく。

「ッッ!? うわぁああああ!!」
「アンリ君――――ッ!!」

イグナシオが手を伸ばす。
だが、伸ばされた指先が届くより早く、安理の身体は暗がりの奥へと引き込まれていった。

まるで深淵に落ちていくように。
叫びと鎖の音が、廃工場の闇に吸い込まれていった。


天井に埋め込まれた照明が、整然とした空間に影の少ない明るさを注いでいる。
重厚な木製の机と革張りのソファ。壁には数枚の勲章と、抽象画が静かに飾られていた。
ここはアビスの所長室、地獄の底に築かれた矯正機関の心臓部であり、静寂と威圧が同居する特別な空間である。

クロノ・ハイウェイは既に退室し、通常業務へと戻っていた。
所長室に残されたのは、所長である乃木平天と看守長であるオリガ・ヴァイスマンの上席二人だけだ。

「さて、コーヒーでも、入れましょうか」
「いただきましょう。あなたの淹れるコーヒーは苦味が効いていて、実に目が覚めますからね」

看守長が手慣れた動作で保温ポットの蓋を開け、湯気を立てる黒い液体をカップに注ぐ。
湧き立つ香りが、無機質な空間にわずかな温度と湿り気を与えていく。

乃木平が礼を述べながらカップを手に取り、ヴァイスマンも礼をひとつ形ばかりに返してから、対面のソファに腰を下ろした。
互いに言葉を交わすことなく、しばしコーヒーの味と香りだけがその場に在った。

「……ところで、看守長」
「なんでしょう」

柔らかな声で乃木平が沈黙を破った。

「今回の刑務作業の人選について少しお聞きしたいことがあるのですが」

そう言って、所長は手元の端末を軽く指で弾いた。

「トビ・トンプソン、イグナシオ・“デザーストレ”・フレスノ、ジェイ・ハリック、氷月蓮、バルタザール・デリージュ。
 この五名は、オリガ君が直々に選出したという話でしたね? そう言えばその選定理由を詳しく聞いていなかったなと思いまして。お聞かせ願えますか?」

まるで何気ない茶飲み話でもするように問いかける。
ヴァイスマンは一瞬カップを唇に運びかけた手を止め、わずかに眉を上げる。
そして静かに、喉の奥で笑った。

「なるほど。あの五人について、ですか。私などに尋ねずともある程度の察しは付いておられるのでは?」
「買い被りですよ。いずれにせよあなたの口からお聞かせ願いたい」
「モチロンですとも。では、順にご説明しましょう」

ひと呼吸置き、落ち着いた口調で語り始める。

「まず、トビ・トンプソン。
 彼は『システムB』で構築された会場に欠陥がないかどうか、その実地検証のための人材です。
 放り込んでしまえば彼が自発的に脱獄を試みるのは目に見えていますし、万一それが成功するようなら、それはそのまま『穴』の証明にもなります。
 成功すれば修正対象が洗い出せ、失敗すれば安全証明。どちらに転んでも無駄にはなりません」

「次に、イグナシオ・フレスノ。彼もまた『システムB』の実地検証……とりわけ時間的設定の確認について、感知できる適性を持つ人物です。
 ただし彼の場合、戦闘への傾倒がやや強いため、無闇な突撃に走らせぬよう、周囲の職員配置を調整して『調査』の動機を自発的に持たせました。
 適切に導けば、彼ほど鋭い感性を持つ者はいませんからね」

「ジェイ・ハリックは、超力ではない異能者の代表例として選出しました。
 開闢以後、この種の異能者は少しずつ顕在化しつつありますが、戦場において脅威となり得るかは未知数でした。
 ジェイ・ハリックを通じて、超力と異能の複合的な戦闘の検証が可能になります。
 これは将来的な戦力選定においても重要なファクターとなるでしょう」

「そして、氷月蓮。彼の選出理由は戦闘データの多様性確保のためです。
 今回の作業参加者は、どうにも正面戦闘に特化した者が多く、彼のような潜入・諜報タイプの実践データが不足していました。
 その意味で、氷月は非常に貴重なケーススタディとなります」

述べられていく人選理由は、実に理に適っている。
乃木平は納得したように頷きながらその説明を聞き入れていた。

「なるほど。では、バルタザール・デリージュについては?」

乃木平がその名を口にする。
その問いに、ヴァイスマンはすぐに応えることなく、一瞬だけ口元を吊り上げた。


「――――うわああああああああッ!!」

黒鉄の鎖に絡め取られた安理の身体が、地を這うように引きずられていく。
破砕された鉄骨が弾け、錆びたボルトが飛び散る。乾いた音が工場内に反響し、火花が黒煙のように舞い上がった。
まるで異世界へ連れ去られるかのように、彼の体は容赦なく闇の中へと引き込まれていく。

「クソッ、やはりそう来るか!」

イグナシオが即座に駆け出す。全身を緊張が包むが、躊躇はない。
安理を置き去りにすることなど、最初から選択肢に存在しない。

「トランスミシオン・ヘオロヒコ!!」

瞬間、空間が揺れ、張り裂けるような音が辺りに響き渡った。
イグナシオの超力が発動される。
彼の前方、安理が引きずられるその進路に、氷河期の地形――全球凍結(スノーボールアース)が顕現する。

突如として床が凍りつく。氷床が這い上がり、雪が積もり、空気さえもその温度を奪われて白く染まっていく。
かつて地球を覆い尽くした氷の記憶が、廃工場の一角に再現されていた。

「ぐっ……!?」

ギリギリの射程内にアンリの足先を捕らえる。
滑るように引きずられていた体が、急激に凍結し、地面に貼り付いた
鎖は引きちぎろうと力を込めるが、氷の抵抗によって軋むだけだった。

「アンリ君、変身しろ!! 氷龍になれッ!!」

イグナシオの叫びが氷気に反響する。
凍える空気が肺を刺す中、安理はその声に導かれるように目を見開いた。

「――――あ、あ……ッ!」

全身を巡る痛みと寒さ。それすらも、心の奥底にある何かを呼び覚ます。
胸の奥で弾けたのは、怒りか、悲しみか、それとも。

「うおおおおおおおおおッッ!!」

悲鳴のような咆哮とともに、安理の身体が氷を砕いて弾けた。
青白く輝く鱗が顕れ、長く鋭い尾が空気を裂き、翼が咲くように展開される。
空気が冷え込み、粉雪が舞い上がる。
美しき氷龍が、そこにいた。

白銀の巨体の周囲で霜が震え、鎖がたわみ、凍りついて弾けた。
拘束を断ち切った安理が、その場で膝をつくように息をつく。

「はぁっ、はぁっ……!」

氷龍の呼吸が、吐くたびに冷気の濁流となって地を這う。
だが、安堵の暇はなかった。

なぜなら。周囲の空気が、変わった・
それは凍てつく温度のせいではない。
音でも、光でも、重さでもない。
それでも肌が、骨が、心が……確かに感じていた。

引きずられ連れてこられたその先に――――『何か』が、いる。

氷龍の顔がゆっくりと上がる。
淡い朝光に照らされた工場の一角。
その廃墟のただ中に、ぽっかりと穿たれたような隙間にそれは立っていた。

「――――バルタザール・デリージュ」

イグナシオが、名を呟いた。
氷龍の体が、ぶるりと震える。
理屈ではなく、本能が警鐘を鳴らしていた。

工場の光が落ちる中央に、禍々しき巨人が立っていた。
異質な重厚感を放つ、鋼鉄の拘束具。
頭部を覆う不気味な鉄仮面はその右目の部分だけが砕け、暗い穴の向こうから覗く瞳は、感情のすべてを剥ぎ取ったかのように無機質だった。

もはや逃れることも出来ない距離。
安理とイグナシオは、息を詰めるように立ち尽くしている。
だが意を決したように、安理がその静寂の中を破って一歩前に踏み出した。

「あなたが……ローズさんを、殺したんですか……?」

恐怖と怒りが絡み合った、震える問いかけ。
だが、バルタザールは一切の言葉を返さない。

答えの代わりに、重く、ゆっくりと一歩だけ踏み出す。
その動きに引き摺られた鎖が、無数の蛇のように音を立て、空気が軋んだ。
鼓膜を圧するような威圧感が、互いの間に横たわっていた。

「アンリ君、後退を――!」

イグナシオが言い切るより早く、鉄球が唸りを上げて宙を裂く。
高所から地へとが振り下ろされる黒鉄の鎖の先端には巨大な鉄球が繋がっていた。
質量そのものが暴力へと昇華されたかのような鉄球が、空気を裂いて迫る。

「っ――トランスミシオン・ヘオロヒコ!」

イグナシオが即座に超力を発動する。
過去この工場に存在していた鋼鉄製の搬送機が虚空に再現され、鉄球の進路を遮った。
鉄球がそれと激突して轟音が響く。

地鳴りのような重低音が、床を割るかのように炸裂する。
鋼鉄が砕け、破片が弾丸のように弾け飛ぶ。
衝突の余波で、氷の表面にまでひびが走った。

「……ッ、馬鹿げた重量だ」

イグナシオが額をしかめ苦悶の声を漏らす。
その隣で、無言の攻撃を肯定と受け取った氷龍が、怒りに染まった咆哮を上げた。

「ローズさんを、よくも…………ッ!!」

怒りに駆られた氷龍が吠える。
怒気に満ちた冷気が瞬時に床を走り、周囲の空気を瞬く間に凍らせる。

氷の翼が大きく広げられ、無数の氷柱が機銃掃射の如く撃ち出された。
突風のような氷の弾丸が、バルタザールに殺到する。

バルタザールはそれを見ても身じろぎひとつしない。
ただ手首を僅かに返す、その一動作だけで鎖が渦を巻くように撓み、氷弾の進路を歪めた。
多数の氷弾が鎖に絡まり、軌道を乱され、無力に地へと落ちる。

しかしアンリは最初から、氷柱で決着をつけようとはしていなかった。
本命は自分自身の突撃。
怒りに目を染め、身体そのものを弾丸に変え、仇であるバルタザールへと突進していた。

だがそれは勇敢というより、激情に囚われた無謀な攻撃だった。
真正面からの突撃する相手を撃退する事など、誰にとっても実に容易い。
バルタザールは即座に脚を大きく振り抜き、枷に繋がれた鉄球を猛烈な勢いで叩き込む。

「――――ッ!?」

だが、そのバルタザールの足元が、いきなり崩れた。
それはイグナシオの発動した超力。
かつて掘削された地熱通路の再現が地面を喰らい、バルタザールの足元が陥没する。

不意を突かれ、巨人の巨体が足場を失い傾く。
その隙を逃さず、氷龍が跳躍し、鋭い爪を振り下ろした。

だが、その一撃は虚しく宙を切った。
バルタザールは崩れた地面に転落せず、鎖を工場内の柱へと絡みつかせ宙に身体を引き寄せていた。
そればかりか、振り下ろされた鉄球が反動で回転し、氷龍の腹部を強烈に打ち据えた。

「ぐ……ぁっ!」

鈍い衝撃音と共にアンリが倒れ込む。
舞い上がった砂埃の中で、その巨体が苦悶の声を漏らした。

「大丈夫ですか、アンリ君ッ!?」

慌ててイグナシオが駆け寄り、その安否を確認する。
粉塵と鉄の匂いの中、安理は倒れたまま肩で息をしていた。

「……っ。へ、平気です」

声は掠れていたが、生命に危険はないようだ。
鉄球の一撃は重く鋭いものだったが、氷龍の分厚い腹筋を貫くほどではなかったようだ。

安理の無事にほっと安堵した。
同時にイグナシオの胸に小さな疑念が浮かぶ。

バルタザールは強敵であることは間違いない。
だが、あの呼延光を殺し、爆心地のような惨状を生み出した張本人にしては『温い』。
蓄積した疲労やダメージがあるにしても、イグナシオと安理でも、こうしてある程度やり合えてしまっている。

何より――この場を支配する大金卸樹魂ような『圧』が、決定的に足りない。
イグナシオのこれまでの戦闘経験がそう直観している。
本当に奴は我々の負ってきた怪物なのか?

(何かがおかしい……これは――)

改めてその出で立ちを注視する。
そもそも、あの鉄仮面からしておかしい。
巨体に鉄仮面と言う出で立ちは異質であり、アビスの内でバルタザールの認知度が高いのはそのためだ。
眼鏡や義肢といった生活に必要なもの以外の不要な私物はアビスでは没収される規定だ。
それなのに、あの仮面だけが特別扱いされているのは何故だ?

得体の知れない不気味さが胸を締めつける。
イグナシオが思考を深める中、その横で安理が立ち上がった。
紅い瞳には未だ激情の焔が燃えている。

「――――うおおおおおッ!!」

激昂したままの氷龍が、再び疾走する。
全身を覆う氷はさらに硬く冷たく結晶化し、突撃を敢行する。

撃退の鉄球が迫る。
だが、氷龍は翼をはためかせながら迫る鉄球を無視して突き進んだ。

腹に受けた感触から、数発なら耐えられると判断したのだ。
下手に躱すのではなく、氷で防御を固め最初から受ける覚悟で、相手へのを攻撃を優先した。

鉄球が肩と脚に次々と衝突し、砕けた氷片が飛び散る。
だが、氷龍は止まらない。
この程度の鉄球など、大金卸の一撃に比べれば物の数ではない。
行けるという自信が足を支え、龍の巨体を前に進める。

距離をとるべく後方に鎖をやるバルタザール。
だが、氷龍は自らに叩き込まれた鎖を掴み上げ、綱引きのように引き寄せ逃亡を防止する。

氷の爪が、閃く。
狙うのは、その頭部。
爆ぜるような金属音が響き、火花が炸裂する。

「――――!」

その一撃は、呼延の残した亀裂をさらに広げ、遂に仮面の右側がパリン、と音を立てて砕け落ちる。
その下からその素顔が露わになった。

「――――……ッ!」

安理の目が大きく見開かれ、イグナシオすらも絶句する。
口を開けずとも伝わる、圧倒的な異常がそこにあった。

分かるのはただ一つ、地獄の釜が、開いたという事だ。



「――――『拡張型第一世代(ハイ・オールド)』。


 それが、バルタザール・デリージュを選出した理由です」

深い焙煎の香りが漂う所長室。
ヴァイスマンの口から、低く響くような言葉が落とされた。
その言葉に乃木平はゆっくりと頷き、指先でカップの縁をなぞりながら応じた。

「裏社会で一時、注目を集めた潮流ですね。
 シエンシアによる『人造第二世代(デザイン・ネイティブ)』理論が流出する以前、限界を迎えつつあった第一世代を物理的に『拡張』しようという試みだ。
 確立された理論もなく各国が手探りのまま独自に行っていた、ある意味では時代錯誤なアプローチでした」

当時を思い出すような口調で乃木平は語る。
ヴァイスマンは静かに補足を入れるように、超力の系譜を整理していった。

「まず、開闢をきっかけに超力を発現した最初の世代『第一世代(オールド)』。
 次に、開闢以降に生まれ、遺伝的に超力を内包した世代『第二世代(ネイティブ)』。
 そして現在はまだ数も少なく、年齢的に台頭と呼べるほどの影響もありませんが、第二世代同士の交配によって生まれた『第三世代(ネクスト)』」
「研究所の予測では、この第三世代をもって人類の進化は一区切りを迎えるだろう、とされていますね」
「それは予測と言うより願望な気もしますがね」

ヴァイスマンは皮肉交じりに笑みを浮かべる。

「すでに第二世代の時点で、人間は己の超力に生き方を縛られる傾向があります。
 それ以上に進化すれば、人が超力を操るのではなく、超力が人を操るという、本末転倒の時代が訪れるかもしれない」

その言葉は、進化の先にある支配の逆転を示唆していた。
恩恵であるはずの力が、意志を凌駕する最悪の未来。
ヴァイスマンは淡々と続ける。

「人間の脳には過剰な出力を抑えるリミッターが備わっています。
 これは脳から出力される超力にも適用されており、通常はその発揮に制限がかけられる。
 メアリー・エバンスのように通常の強度を超えた例外もいますが、一般的には、第一世代で20~40%、第二世代で30~50%ほどが限界とされています。
 それ以上の領域には、生理的にも本能的にも踏み込めないようになっている。人間でいたいのなら半分を超えるべきではないという事ですね」

メアリー・エバンスがそうであるように、その領域を超えるとまとも人間の生活は出来なくなる。
そう語るヴァイスマンに、乃木平が頷き、言葉を継ぐ。

「旧ハルトナ王国で受刑者を実験台として極秘裏に実施されていた『超力拡張手術』は、このリミッターを物理的に解除する試みだったようですね。
 バルタザール・デリージュはその成功例という事ですか」

だが、その評価にヴァイスマンは珍しく難色を示す。

「確かに、彼は手術によって脳の超力出力を100%まで引き出すことが可能となったようですが。
 脳が常に限界出力で稼働する以上、発熱や神経負荷は著しく跳ね上がる。
 短時間ならともかく、長期使用すれば脳細胞は文字通り焼き切れる可能性が高い。
 まともに使い物にはなりません。私はむしろ失敗例だと思いますがね」
「そのあたりは、成果の定義次第でしょうね」

ヴァイスマンの冷ややかな評価に乃木平は淡々と答え、静かにカップを傾ける。

「たしかに彼は多くを喪失し、鉄仮面での生活を余儀なくされた
 あの仮面も元はやんごとなき身分を隠すためのものだったようですが。
 現在は、超力の暴走を防ぎ、強制的に出力を抑えるためにの機能が後付けで組み込まれているようでうすね」
「お詳しいですね」
「事情を全て開示するのが、スヴィアンさんともども転所を受け入れる条件でしたので」

そう言ってコーヒーに口を付ける。
二人の言葉が静かに交わされ、再び室内にコーヒーの香りが滲んだ。

「ともあれ、超力の出力強度を極限まで引き上げるという実験目的は、十分に果たされています。
 そう言う意味では目的に沿った成功例と言えるでしょう?」
「実験としての成功は認めるにしても、あれでは使い物にはならない。
 そもそもコンセプトそのものが破綻していた、拡張型第一世代が流行らない訳だ」

ヴァイスマンが、まるで結論を下すかのように言い切る。
そこで、乃木平は改めて本質を突く問いを投げた。

「では――なぜ、そんな危うい存在を今回の刑務作業に選出したのですか?」

穏やかな声色のまま、核心へと斬り込むその問い。
ヴァイスマンはゆっくりとカップを置き、肩をすくめて返す。

「一瞬で弾ける花火だとしても、派手に燃えれば役割を果たせるでしょう?」


仮面の下から露わになった素顔は、ひどく生々しいものだった。
褐色の肌に端正のとれた鋭い目。
だがそれよりも目を引くのは鉄に護られていた頭蓋だ。
髪の生え際に沿って縫い合わされたような手術痕が刻まれている。

深く、乱雑に刻まれた瘢痕は、まるで熱を逃がす排気口のように痛々しく皮膚を裂いていた。
皮膚には金属片のような異物が埋め込まれ、脳を守るべき骨の一部が機械に置き換えられているようにも見えた。
その異様な姿を見て、イグナシオの脳裏にひとつの忌まわしい単語が浮かび上がった。

「ハイ……オールド…………ッ!」

イグナシオが吐き捨てるように呟いた。
その響きは呪詛のように、空気を裂いて消えていく。

その瞬間だった。

「――――っ!!」

バルタザールが、動いた。
一本だったはずの鉄球が、二本、三本、五本、七本と、次々に生まれ、黒い嵐となって周囲を覆う。
鎖が唸りを上げ、鉄骨の天井を削り、地を穿ち、風そのものが金属を引き裂く音に変わっていく。

「アンリ君、伏せろッ!!」

イグナシオが叫ぶより早く、氷龍の身体を庇うように押し倒した。
直後、視界のすべてが赤く、黒く、砕け散った。

空間が悲鳴を上げるような轟音と共に廃工場が、崩壊する。
一撃。たった一度、鉄球が地を薙いだだけで。
鉄骨が折れ、コンクリートが砕け、構造体そのものが崩れ落ちていく。

風景が歪む。時間が軋む。
まるで世界の根本が、殴り壊されたようだった。

「くっ……! これが、ハイ・オールド……ッ!」

イグナシオの声には高揚と恐怖が混じっていた。
防ぎきれない。追いつけない。見切れない。
冷静を装ってはいたが、全身が不可能を訴えている。

これは、人知を超えた“災害”だ。

その災害たるバルタザールは破壊の後、頭を抱えて苦しむような動き見せた。
恐らく限界を超えた超力行使の反動。脳にかかった極端な負荷により、激痛と熱の排出に苦しめられているのだろう。

しかし、それでも完全に動きを止めることはない。
露になったその目は、鋭くイグナシオたちをとらえ続けており。
逃げ出そうとすれば即座に追撃される。イグナシオと安理はその殺意を前に、背を向けることが許されなかった。

「くそっ…………くそぉっ! あんなの……ッ!」

悔しげに息を荒げながら、安理が拳を握り締めた。
友人の仇を前にした怒りと、抗いようのない絶望が入り交じり、少年の心を激しく乱していた。
勝てるはずがない――喉の奥まで出かかったその言葉だけは、最後の意地で飲み込んだ。

イグナシオは、その様子に僅かに目を細めた。
ローズの名を聞いた瞬間から、安理は怒りに突き動かされていた。
彼女の死を受け止めきれず、無謀な代償を求めて暴走しかけている。

「ごめんなさい、フレスノさん……ボクのせいで、こんなことに……」
「……アンリ君」

震える安理の声には、自責と絶望がにじんでいた。
圧倒的な暴力は一瞬で人の心を折る。
怒りが消えたわけではないが、理解してしまったのだ。
怒りでは勝てない。仇討ちなど通じない。それどころか自分の命すら容易く奪われる現実。
自分は何もできない。それどころか、大切な人をまた危険にさらしてしまっただけだという事実。

「立ってください、アンリ君」
「フレスノさん……?」

イグナシオは安理を引き上げ、その瞳を真っ直ぐに見据えた。

イグナシオは最初から安理を責める気などなかった。
死にたがりの少年が誰かのために怒りを表すことができる。
それ自体は喜ばしい事であり、彼が変わった証拠だ。
ただ、間と状況が最悪だっただけだ。

それよりも今は話すべきことがある。

「今から私の仮説を話します。冷静に聞いてください」

驚いた安理の顔をまっすぐに見つめ、イグナシオは迅速に結論を告げる。

「この刑務作業の舞台となるこの世界は、恐らく人工的に作られたものです」
「え……?」

突然の言葉に、安理が戸惑う。
だがイグナシオは、その戸惑いを気にも留めず言葉を続ける。

「建物の劣化が不自然に均一で、私の超力で遡れる過去も断片的でしかない。
 つまりここは、現実の地ではなく――創造された『檻』に近い空間です」

安理が言葉を失い呆然としていると、イグナシオは強い口調で言い放った。

「アンリ君。キミは一刻も早くこの場を離れてください。そしてこの空間の仕組みを探り真実を見つけてください。それがあなたの役目です」
「やめてくださいッ! そんなこと……ッ!!」

遺言めいた言葉を否定するように、安理が叫ぶ。

「そんなこと、ボクにできるわけがないじゃないですか!
 逃げるならフレスノさんが逃げるべきだ! 何もできないボクなんかより、あなたの方が絶対に生き残るべきなんだッ!」

有能な人間が、役に立つ人間が生き残るべきである。
安理はそう主張していた。
それは社会性を持つ生物として当然の結論だった。

少年が手に入れた小さな自信は憎悪の前に歪み、圧倒的な暴力によって打ち砕かれた。
今の彼はかつての自罰的に死を望む、死にたがりの少年に後戻りしていた。

「――――――それは違う」

しかし、イグナシオは強く否定した。

「違うんですよ、アンリ君。
 何ができるか、何ができないかで命の価値など決まりません」

安理が呆然とする中、イグナシオは静かながらも、断固として続けた。

「そもそも、命に価値などない。
 生き残るべき命があるのではなく、生き残った命があるだけなのです。
 だからキミが自分が生き残ることに罪悪感を感じる必要はないし、キミは自分が生き残るべきだと傲慢に主張していいのです」
「フレスノさん……でもッ……!」

それでも安理は納得できずに抗う。

「だったらどうしてフレスノさんはボクを逃がそうとするんですか……?」

問い返す安理に、イグナシオは微笑してみせた。

「それは単純に私のわがままです。
 キミのためではなく、私は自分が救われたいがために自分の信念の為に動いているのです。
 それが結果的にキミを逃がすことになるというだけの話でしかない。そこを勘違いしてはいけない」

自分の様な子供を作りたくない。
救いたいというのはイグナシオの信念だ。
彼はそれを守っているに過ぎない。
そして言葉を重ねる。

「それに、私は死ぬつもりなどありません。
 生き残る可能性が高い方が残るべきだという、あくまで合理的な判断です。
 キミという足手まといがいては、私は全力で戦えない!」

突き放すような冷たい言葉に、安理はぐっと言葉を飲み込んだ。
足手まといになるというのが真実だったからだ。

「フレスノさん、ボクは……っ」

それでも強く首を振る安理の両肩をイグナシオは強く掴んだ。
震える瞳を見据えたまま、イグナシオはさらに強く訴えるように続けた。

「もちろん、キミがキミの信念を持ってこの場に残るというのならそれは私には止めようがない。
 命を懸けてローズの仇を取りたいというのならそれもいい。力に溺れて暴れまわるのもいいでしょう。
 自分の命なんだ、使いどころは自分で決めればいい。私にそれを強制する権利はない。
 私にできる事は自分の我侭(のぞみ)を伝える事だけだ。
 生きてくださいアンリ君。それが私の救いになる」

心からの願いを込めて告げるイグナシオの目には、強い覚悟があった。
安理は唇を噛み締め、そしてやっと覚悟を決めたように口を開いた。

「だったら……だったら、合流地点を決めてください! 必ず、必ずそこへ来てください!」
「分かりました……では灯台にしましょう。地図の端にある、あの灯台で落ち合いましょう」

超力負荷による頭痛が収まったのか、バルタザールは既に新たな鉄球を引き上げている。
もうあまり時間はなかった。

「行けッ! アンリ君!!!」

イグナシオの叫びに、安理が地面を蹴った。
氷の翼が大きく広がり、氷龍が風のように跳躍する。

「必ず来てくださいよッ! 必ず――――!」

その叫びは、決して振り返らない少年の覚悟。
その背中が瓦礫の向こうに消えていく。

だがそれをバルタザールが逃すはずがない。
再稼働したバルタザールの巨大な鉄球がその背に向かって迫る。
その鉄球の巨大さは、これまでの非ではない。
触れば一瞬で巨竜であろうとひき潰せる、正しく『恐怖の大王』に相応しい絶望の具現。

だが、安理を粉砕すべく振り下ろされたバルタザールの鉄球が、唐突に――跡形もなく、消えた。

何が起きたのか。
バルタザールが露になった目を大きく見開く。

衝突音もなければ、爆散の気配もない。
粉々に砕けたわけでも、弾かれたわけでもない。
ただ、そこにあったはずの『存在』が、まるで最初から無かったかのように消滅した。

「さて……」

それを成し遂げた男は、静かに呼吸を整えた。
己の中のデザーストレとしてのスイッチを入れる。
いや、これまでずっと抑えていた本能をこの一瞬、解放する。

イグナシオは闘争の悦楽に身を堕とす事を罪深いと感じていた。
だが、今は違う。

「ハハ――――――ッ!!」

狂気を帯びた口元が吊り上がる。
この戦いは、自分のためだけではない。
『誰か』のためという大義名分がある闘争だ。

だからこそ存分に、闘争本能に身を委ねることができる。

「さぁ――――本当の『災害(デザーストレ)』というものを、見せてさしあげましょう…………ッ!!」

災害が如き恐怖の大王を前に、破壊の衝動をその身にまといイグナシオは不敵に笑う。
『探偵』の仮面は捨てた。いま目の前にあるのは、ただ『災害』という名の本性。

沈黙のまま、バルタザールが腕を引いた。
巻き戻されるようにして新たな鉄球が生成され、重たく唸る鎖が唸りを上げて宙を走る。
鉄球が飛来する音は、もはや空気を破るというより空間を裂くようなそれだった。

だがイグナシオは、焦りの欠片も見せなかった。
むしろその目は喜悦に染まり、唇が亀裂のように吊り上がっていく。

「……ああ。来ましたねぇ、この音。血液が躍るようです……!」

破壊の唄に身を浸す陶酔。
イグナシオはまるで楽団の指揮者のように、鉄球の音を歓待する。

飛来する自身の身長はあろうかと言う鉄球に向けて、イグナシオがそっと手をかざした。
瞬間、今度は鉄鎖は中程から、ぷつりと寸断された。

いや、断ち切られたのではない。
鎖の一部がまるで『なかった』かのように、忽然と消失したのだ。
まるで、この空間そのものが武器の存在を拒絶しているかのように。

その先にあったはずの鉄球は軌道を失い、虚空を漂うように遠くへ飛んでゆく。
バルタザールは微動だにせず、その不可解な結果を見据えていた。

「おや? 不思議ですか? 不思議でしょうねぇ! 何が起きたのかあなたには理解できないでしょう!!」

観客の困惑を愉しむ舞台俳優のように叫ぶ。
その声を不快と感じたのか、それを黙らせるべく三度振るわれる鉄球。
今度は複数、全てが一撃で人間など平らに叩き潰せる圧倒的な質量を秘めている。

だが、それがイグナシオに到達する寸前。
正確にはその前方の何もない空間に触れた瞬間。
質量が、消える。音すらも、消える。空間ごと、消える

砕ける音はない。衝突音すらない。
鉄球の姿は――跡形もなく、そこから最初から存在しなかったのように消失していた。

「ふふっ……最高ですね。音のない死は、何より品がいい。騒がしい終焉なんて、下品ですから」

恍惚と呟くイグナシオ。
バルタザールの鉄仮面は沈黙を保ったまま。
だが明らかに、次の鉄球の射出がわずかに遅れていた。
イグナシオはその一拍すら、見逃さない。

「おや……怯えてしまいましたか? 無理もない。
 何が起きたか『過程』は理解できずとも、どうなるのかの『結果』は理解できたでしょうからねぇ!
 ああ、ようやく『恐怖』という名の扉を、あなたも開けましたか? ふふっ、ようこそ……! 楽しんで行ってください!」

無言の怪物とは対照的な狂気じみた声で笑いながら、イグナシオは一歩前に出た。

イグナシオの超力『見せてください、荒々しい古の壌を(トランスミシオン・ヘオロヒコ)』。
それは、その土地がかつて存在した過去の風景を再生する超力である。

だがこの島では、どうしても踏み込めない、再現不可能な過去があった。
当初、イグナシオはそれを『システムA』の様な妨害機構が働いているのだと考えていた。

だが、それは違った。
過去は遡れないのではなく、最初から『無かった』のだ。
イグナシオはそこから、この『世界』はこの刑務作業の為に創られたのだと言う『真実』に辿り着いた。

本来、この超力は地球誕生までは遡れない。
だが、この創られた世界ならばその条件は違ってくる。

世界の創造される以前の空間に何があるのか?
そこにはただ、『何も存在しない』という事実だけがある。

すなわち――――『無』だ。

存在の痕跡すら残さず、触れたものすべてを虚無へと還す再現不能の空白領域。
イグナシオの超力は、その『無』を再現していた。

それはこの創られた世界でのみ使用可能な、バグ技のようなものだった。
そこに触れたものは、鉄球も、鎖も、空気の震えさえも、例外なく消える。
誰にも見えない真実を暴き出す『探偵』としての結論が、誰にも抗えぬ破壊を齎す『災害』を生みだしたのだ。

先ほど、安理に向けて放った「足手まといがいては戦えない」という言葉。
あれは、安理を逃がすためのただの方便ではなかった。

この力は、周囲を巻き込む。
この力は、形あるすべてを否定する。
それ故に、この力を存分に振るうには安理を遠ざける必要があったのだ。

バルタザールは理解した。
原理までは理解できずとも、触れてはならない領域があると言う『結果』を理解した。
即座に鎖を伸ばし、近場に突き立つ鉄柱を軸に宙を舞うように後退する。

「そうっ! あなたは私から離れるしかない!
 この虚無に自分自身が飲み込まれては一瞬で消滅してしまいますからねぇ!!」

イグナシオが吠える。
その顔に浮かぶのは、喜悦と狂気が綯い交ぜになった、災害そのものの笑み。

『無』の再現。
これの最大の脅威は、不可視である事だ。
『無』がどこにあるのかを知るのは使い手であるイグナシオのみ。
この不可視の『無』に触れてしまえば、バルタザールの身は一瞬で消え去るだろう。

即座にバルタザールの立っている空間に発生させなかったことから、超力発動可能な距離があると判断。
故にこそ、距離をとる必要があった。
空間を制圧されれば、一瞬で自分自身が消されるのだから。

「ああ、怯えてますねぇ。恐れてますねぇ。死を…………!!
 互いの命の危機がなければ殺し合いとは言えませんからねぇ!!
 楽しいでしょう! たまらないでしょう!? バルタザールさん……!」

イグナシオは高らかに嘲笑する。
距離をとったバルタザールはその挑発に応じることなく、沈黙のまま射抜くような視線で敵の一挙手一投足を捉えていた。
そして新たな行動に移る。

無数の鎖が四方へと伸び、空間全体を黒い網目で包み込む。
蜘蛛の巣のように複雑に張り巡らされたそれらは、まさしく空間の支配するかのよう。

イグナシオは身をかがめ、その鎖の網目を縫うように躱した。
容易く躱せたのはこれがイグナシオを狙った攻撃ではなかったからだ。
これは攻撃ではなく、『無』の位置を見極めるための探索だ。

まるで空間そのものを封鎖しようとするかのような、狂気じみた索敵。
これ程大量の鎖を一気に広げることなど出力100%の『拡張型第一世代(ハイ・オールド)』でなければ不可能な芸当だろう。

「ほぅ……なるほど。索敵ですか。考えましたねぇ」

イグナシオは愉悦と皮肉を込めて小さく拍手すらしてみせた。
『無』は不可視にして不明。
この見えない死の正体を暴くには、張り巡らせた鎖の消失反応を使うしかない。
位置さえ特定できれば、出力に勝るバルタザールはそこを回避して一瞬で相手を叩き潰せる。

「ですが、そう簡単にはいかないんですよねぇ……! 人生と同じでッ!」

イグナシオの声が跳ねた次の瞬間、空気が灼けた。
凶兆のような呟きと共に、前方の四角い空間が真っ赤に染まる。

イグナシオが超力によって再現したのは『無』ではなく――原初の灼熱(マグマオーシャン)。
原始地球の地殻がドロドロに溶けていた時代の再現。
地表が、地獄そのものに変貌した。

「地を覆うは、紅蓮の記憶――ようこそ、熱き古代へ!」

原始の地球を覆った熔解の大地。
床が赤く光り、ドロドロに溶ける。
張り巡らされた鎖は瞬く間に赤熱化し、軋むような音を立てながらよじれ始めた。

そして周囲一帯に隙間なく覆うその密集こそが仇となる。
あまりに密に張られた鎖同士は互いに熱を伝え、逃げ場を失った金属たちは灼熱の檻となった。

「さあ、お次は……」

イグナシオの声が一段と高くなった。

「一転、絶対零度の過去を――全球凍結(スノーボールアース)」

赤から白へ。灼熱の地獄が、一転して氷の地獄に変わる。
突如降り積もる氷雪、息すら凍りつく酷寒が周囲を包み込む。
さきほどまで灼熱だった空間が、一瞬で凍り付いた。

灼熱から零下へ――その温度差、およそ千度。

熱で膨張しきった金属に、凍結の鎌が振り下ろされた。
熱された直後に急冷された鎖は、ヒートショックにより内部から微細な亀裂を無数に走らせ、バキィンッ――と、鋭い音を立てて次々に破断していった。

「熱と冷気、相反する『災害』の併せ技――あの人の真似事でも、十分に機能するのです!」

吹雪の向こうで、イグナシオはどこか誇らしげに笑う。
その目は、かつて背中を追った大金卸樹魂の幻影を映していた。

索敵の網は破壊された。
『無』がどこにあるのか分からない以上、不用意に距離を詰めるのもできない。
だが、バルタザールは怯まない。

ゴウンッ、と地が鳴る。
次の瞬間、バルタザールの両腕、両脚の枷からそれぞれ四本ずつ。計16本の鎖が飛び出した。
それぞれの先端には、人間の胴ほどもある鉄球。
今度は索敵ではない。殺意に満ちた純粋な暴力。

それらが一斉に、イグナシオへと襲い掛かる。

「……ッ、開き直りましたね!? ここにきて力押しですか……!」

空気の音がない。それほどまでに高速。
その質量、接触すれば即死。
掠めただけで骨など容易く砕けるのはもちろん、かすかな接触で人間の形が崩れるだろう。

物量と質量による単純な力押し。
出力の桁が違う以上、これが一番厄介だ。

左右から、上下から、斜めから、空間を埋め尽くすように振るわれる鉄球。

「ですが……!」

イグナシオは手を掲げる。
『無』の再現。目に見えぬ空白が空間を走り、自らに飛来する鉄球を一つ、また一つと消失させていく。

「ふふっ、力任せの制圧では精度が甘いですねぇ!!」

だが、その軌道には明確な乱れがあった。
その乱れをイグナシオの目は、冷静に捕らえ。
自身に当たる軌道のものだけを的確に消失させていた。

超力の100%行使――それは、限界突破の代償。
異常な発汗、揺らぐ視線、軌道の微細なブレ。
バルタザールは、明らかに限界を超えつつある。
その乱れこそが、イグナシオの勝機だった。

それでも通常であればこの大質量を前にしては押し潰されるのが落ちだろう。
事実『鉄塔』呼延光ですらこれに敗れた。
だが、イグナシオにはこれを防ぐ絶対の盾がある。

嵐のように繰り返される猛攻を的確に『無』を張り防ぐ。
だが、逸れた鉄球が床を砕き、破片がイグナシオの身体をかすめた。
破片、飛沫、衝撃。それら全てが『無』の届かぬ位置から迫る。

「ぐっ……!」

傷は浅い。だが確実に削られていく。
そしてバルタザールもまた、脳への負荷に苦悶の兆しを見せていた。

このままではどちらが持つかの持久戦になるだろう。
だが、そんなものにつき合うつもりはない。

「では――――こちらも、そろそろ芸をお見せましょうか」

イグナシオの声が、静かに空気を裂いた。

掲げられた掌から、空間が軋むように揺らぎはじめる。
超力『トランスミシオン・ヘオロヒコ』が、再び世界の輪郭を書き換えた。

今度、再現されたのは、つい先ほど、バルタザールによって破壊されたばかりの工場壁面。
その一部が、バルタザールとイグナシオの間に、突如として出現する。
再現された鉄とコンクリートの障壁が、バルタザールの視界を遮断する。

だが、それも一瞬の事。
唸りを上げた巨大な鉄塊が、再現された壁をまるで紙障子を破るかのように粉砕する。

爆ぜる破片。散る粉塵。
けれど、その向こうに、イグナシオの姿はなかった。
壁の背後にいたはずのイグナシオは既に身を隠しているようだ。

だが、それがどうしたというのか。

ならば、力任せに周囲を一掃するまで。
空間全体を鉄球で薙ぎ払えば、いずれソレは叩き潰せる。
バルタザールは即座に判断する。

が、その直前――

「『災害(デザーストレ)』というものを、見せてさしあげましょう!」

イグナシオの声が聞こえた。
バルタザールは迷わずその声に反応する。
一帯に向けるはずだった鉄球群をその声の方向へ集中させ、一点突破の破壊を放つ。

残骸が飛び散り、地面がえぐれ崩落が起きる。

しかし。

その破壊の中心には――イグナシオはいなかった。

「残念でした! そちらは幻聴ですよ……こちらです、バルタザールさん……!」

声が、今度はバルタザールの背後から響いた。
思わず振り返った視界の端にちらりと映る影。
それは紛れもなく、獲物を仕留めんと背後から迫る狩人の姿だった。

先ほどの声は、イグナシオの超力によって再現された過去の音声。
つまり、土地が記憶していたイグナシオ自身の残響だった。

一瞬だけ工場構造を再現し、バルタザールの視線を制限。
続けて過去の声を再生し、位置を誤認させた。

その全てが、狩るための舞台演出。

破壊の奔流ではない。
論理と構築、欺きと罠、技と知――個人に降りかかる知性ある『災害』。

バルタザールが反転する瞬間。
イグナシオの掌が、前方へ向けて淡く掲げられた。

そこに生まれる、何もないはずの『空白』。
音もなく、振動もなく、影も落とさず。
前方に発生させた『無』がバルタザールのの体を消滅させた。


大量の赤い血が、空へ向かって噴き上がった。
霧のように、雨のように、熱を帯びた血潮が宙を舞い、工場跡の空間を鮮烈に染め上げる。

イグナシオが振り向いたその先、そこにいたのは確かにバルタザールだった。
『無』に呑まれる寸前――奴は反射的に、遠方に投げていた一本の鎖を引き寄せ、己の巨体をその場から強引に引き剥がしていた。

だが、それも完全な回避とまではいかない。
イグナシオの放った『無』の結界に、左腕は完全に呑まれていた。

鎖の枷ごと、二の腕あたりから先が綺麗に消えている。
骨も筋肉も神経も、ただ、どこにも存在していなかったように消え去った。
鋭い刃物で断ち切られたような切断面から血が噴き出す。

仕留め損ないはしたが、ハイ・オールドが相手であろうとも戦える。
この瞬間、この場所限定の力ではあるものの、イグナシオには確かな手応えがあった。
だが、改めてバルタザールの姿を見たイグナシオは、思わず息を呑んだ。

遠く鎖にぶら下がりながら、雨のように血を垂れ流すバルタザールの気配が変わっていた。
熱暴走していた脳が、血液の噴出と共に冷えたのか、怒号のように煮えたぎっていた熱が、静まっていた。
静謐な、何かがそこにいた。

見れば、かつて空間を覆い尽くしていた無数の鎖は姿を消していた。
今残っているのは失われた左腕を除き、残る三本の四肢から、それぞれ一本ずつ。
片腕は消失し、大量の鎖も消え失せた。
確実に相手の戦力は削がれているはずなのに、どう言う訳かイグナシオの胸に、言いようのない不安が広がる。

これまでのバルタザールは、暴力の奔流だった。
幾重もの鎖を無軌道に振り回し、暴風のように空間を圧し潰す獣だった。
しかし今、バルタザールの周囲に残っている鎖は、たったの三本。
それはまるで、リミッターを外したハイ・オールドらしからぬ不要を削った抜き身の刃のようだ。

次の瞬間。

鎖が、動いた。

左足の鎖が――奔る。
素早く伸びる鎖は周囲の建物の壁や天井に絡みつき、バルタザールの巨体を立体的に移動させていく。
その動きは、まるで重力を無視した蜘蛛のよう。制約のない三次元機動。

右足の鎖が――這う。
これまでの巨大だった鎖とは違う、細く長いまるで触覚のような鎖。
地面を滑るように探る、それは目には見えぬ『無』の輪郭を探知する探索用の鎖。

右手の鎖――唸る。
先端には、これまで通りの鉄球が繋がれていた。
イグナシオを狙って弧を描く攻撃が上から叩き落とされる。

移動、探索、攻撃。
それぞれが役割を持って、まるで独立した意思を持つように別々の動きを始める。
これまでのただ振り回すだけだった力任せの暴走とは訳が違う。
怪物が、完成しつつあった。

咄嗟に『無』の再現で振るわれた攻撃を防ぐ。
この質量を受け止められるのはこれしかないのだから、選択の余地はない。
だが、同時に探るように展開された索敵用の鎖が周辺を舞い、目には見えぬ何かに触れた瞬間その一部が唐突に断たれた。
5メートル四方の『無』の輪郭が明らかになる。

それを確認した瞬間、バルタザールの巨体が跳んだ。
左足の鎖による高速移動、判明した『無』の四角を回避する位置に回り込むと、右腕の主鎖が振るわれる。
かつてのような暴風ではない。必要最小限の速度・角度・質量で構築された、殺すためだけの最適解。
ただ100%を振るうのではなく、超力負荷すら抑えた一撃である。

「ッ……くっ!」

イグナシオは咄嗟に身を捻り、直撃を回避した。
だが、掠っただけで肋骨が数本、鈍い音と共に砕け、肉が裂ける。
痛みが、神経を貫き、肺が震え、息が漏れた。

「――がっ……ハハッ……なんてデタラメ、ですか……ッ!」

痛みという闘争の甘美に戦闘狂は笑う。
蹌踉と後退する足元に、もう一本の鎖が走る。
すでに、逃げ場はなかった。

細い鎖に足元が払われる。
なすすべなく仰向けに倒れた。

(…………あ)

空が見えた。
赤く燃えるような朝焼けの空が。

廃墟の中、瓦礫の隙間から見上げる朝の空はいつか見た空のようだった。

――思い出す。

初めて人を殺した、かつての夜。
ただ過去を『見る』だけだった超力が、過去を『再現』する力へと変貌した瞬間。
男娼としてナチョを買った客を、赤熱した柱が焼き尽くした。

娼館から逃げ出して、行き場もなく彷徨い、辿り着いた天井のない廃墟。
崩れた梁の下から、朝の空を見上げた。
あのときも、こんな空だった。

全てが終わり、始まったあの夜明け。
見上げる空があの時の空と同じだとそう気づいた瞬間、彼は己の終わりを理解した。

時間が、伸びる。
一秒が、一分にも、一時間にも引き伸ばされる。
ゆっくりと、走馬灯のように己の人生が解像されていく。

真実に、どれほどの意味があるのか。
その問いには、結局、最期まで明確な答えを出せなかった。

僕(イグナシオ)は真実を追い求めてきた。
真実は世界を変えられると信じていた。
だが、暴力は真実を押し潰し、信じた道は歪みへと沈んでいった。

俺("デザーストレ")は真実を追い求めてきた。
都合の悪い真実が戦いを呼ぶなら、それは暴力の引き金として都合がよかった。
真実は、暴力を肯定するための動機となった。

私(フレスノ)は真実を追い求めてきた。
暴力に屈しない力があれば、真実を貫けると信じた。
けれど、真実を押し通すための暴力と、真実を封じるための暴力。
そこに、本質的な違いはあったのだろうか。

真実と暴力。
本来、相反するはずのそれは、幾度もすれ違い、互いの境界を侵していった。
暴力で歪む真実も、暴力で貫く真実も、どちらも真実の本質ではない。
つまるところ――真実そのものに、意味はなかったのかもしれない。

真実とはただそこに在るだけのもの。
つまるところ、ただの『記録』だ。

俺の力は、その『記録』を掘り起こすことができた
誰にも知られず、誰にも語られず消えていくだけだった『記録』を、見つけ出す力だった。

私はもしかしたら。
そうやって静かに、消えていく『記録』を、誰かに見ていてほしかっただけかもしれない。
誰かに、真実はそこに在ったのだと、ただ伝えたかっただけなのかもしれない。

誰も振り返らない過去に、自分だけが光を灯せると信じたかった。
価値がないと捨てられた無数の記録に、
自分だけは、意味を与えられると、思いたかった。

真実を追い続けた理由は、詰まるところ。
そこに意味があると、信じたかっただけなのだろう。

アンリ君。

キミの瞳にはまだ、歪みきっていない光がある。
キミは迷いながら、それでも前に進もうとしていた。
僕には、できなかった道をキミは、まだ歩いている。

キミには自分の歪みを満たすために戦ってた俺とは違う未来を歩んでほしい。
そんな願いを託すのは、こちらの身勝手だ。
そんな思いなんて、キミには重荷かもしれない。

けれどそれでも。
キミのような人間が、理不尽な暴力に選択肢を奪われるのではなく。
次に何かを選べる世の中であってほしいと願う。

自分のためじゃなく、ローズのために戦おうとした誰かのために戦えるキミならばきっと大丈夫。
それでももしキミが、また迷う日が来たなら。
私の『記憶』を、ほんの少しでも思い出してくれれば、それだけで充分だ。

永遠のような走馬灯が終わり、静止していた1秒が動く。
巨大な鉄球が空を覆い隠し、影が落ちる。
イグナシオはその最期を受け入れるように静かに目を閉じる、のではなく最期まで足掻くようにカッと目を見開いた。

「――――最期に一つ……嫌がらせと行きましょう……かッ!」

かすれた笑みとともに、イグナシオの声が空気に焼きつく。

鉄球が叩きつけられる。
だがその瞬間、砕ける音すらなく、それは消滅した。

イグナシオの超力が描き出した、存在そのものを拒む空白。
過去が存在しない土地では、再現されない『記録』として、それは空間から削除される。

だが、それは死を数秒先延ばしするだけの悪足掻きにしかならない。
倒れて動けぬ以上、『無』を迂回する次の一撃で確実に終わる。

だが、バルタザールの追撃はなかった。
呆然としたように制止している。

何故なら、すでにイグナシオは消失していた。

『無』に飲まれ消えたのは鉄球だけではない。
イグナシオ自身もまた、虚無の海へと沈んでいたのだ。

彼は、最後の最後で、自らが生み出した『無』へと身を投じた。
恩赦を齎す首輪もろとも、その存在を消去したのである。

状況的に、もはや死は免れない。
ならば相手の強化を避けるため、首輪を破棄する。
それが、あの場で後に残された者たちのために出来る唯一のことであり、最適解だ。
まさしく最悪の嫌がらせ。

恐ろしくはない。
元より彼にとって死は身近なもの。

何より『真実』とは、ただそこに在るもの。
誰にも語られず、誰にも知られず、静かに消えていくもの。
価値があるかどうかではなく、ただそこに『在った』ということ。

それを知る者が、もし一人でもいるならば――それがきっと、彼にとっての救いとなるのだろう。

すでに意思は託した。
ならば、なにも恐れることなどない。
心残りがあるとするならただ一つだけ。

彼の最期の瞬間思い返したのは、あの海岸と光が降り注いだ白い砂浜。
そして、あの時拳を振り上げた彼女の姿。

戦う彼女の姿は美しく、残酷で、孤独だった。
その美しい在り方に憧れた。
それが救いの始まりであり、同時に過ちの始まりであった。

――――強く育てよ、ナチョ。

その言葉に導かれてここまで走ってきた。

弱かったナチョは強くなれただろうか?
その答えだけが、知りたかった。

その死には、肉片も、血飛沫もない。
痕跡も、証拠も、何一つとして残らない。
最初から、何もなかったかのように、空白の事実だけが横たわっていた。

バルタザールは、ただ立ち尽くしていた。

それは勝者の姿ではなかった。
自由のための足掛かりとなる首輪を獲得することもできず、それどころか左腕を喪い、何の戦果も得ることなく終わった。
まるで災害に出会ったようなものだった。

何も言わず、跡も残さず、ただ、消え去った。
まるで、最初からいなかったかのように。
災害は、記録も痕跡も残さず世界を通り過ぎていったのだ。

【イグナシオ・"デザーストレ"・フレスノ 死亡】

【F-3/工場跡地周辺/一日目・朝】
【バルタザール・デリージュ】
[状態]:鉄仮面に破損(右頭部)、左腕喪失、脳負荷(大)、疲労(極大)、頭部にダメージ(大)、腹部にダメージ(大)、
[道具]:なし
[恩赦P]:100pt
[方針]
基本.恩赦ポイントを手にして自由を得る
0.休む
1.(俺は……誰だ?)
2.(なぜあの小娘(紗奈)を殺そうとした時、動けなくなったのだ?)

※イグナシオ・"デザーストレ"・フレスノの首輪は消滅しました
※F-3で廃工場が消滅しました


「どうやら、今しがたイグナシオ・"デザーストレ"・フレスノが退場したようですね」

ヴァイスマンが、冷めきったコーヒーカップを音を立てぬよう静かにソーサーへ戻した。
彼の言葉にはこれと言った感慨もない。
まるで、記録簿の一項目を読み上げるかのように、ただ己の超力『支配願望』によって得た情報を淡々と口にしたにすぎない。

「そうですか。それでどうでした? 彼は君が想定した役割は果たせましたか?」

乃木平は、手元のカップを傾けながら、あくまで戦果を確認するように尋ねる。
この刑務を司る看守長は考えるような沈黙を挟み、自ら選んだ駒の成果を評するように目を細めた。

「そうですねぇ。成果としては、上々でしょう。
 当初の目的通り、再現された地形によって歴史設定に齟齬がないことは確認できました。
 何より、あの過去再現型の超力によって『想定外の現象』が発生すると知れたのは、非常に有益でした」

その想定外とは、言うまでもなく『無』の再現の事だ。
存在の痕跡すら辿れない原初の空白に到達するという、『システムB』の初期化未処理領域を突いた行為。
言うなれば、バグ技だ。

「それを用いてハイ・オールドと正面から渡り合うに至ったのは――正直、驚きでした」

そう言いながらも、言葉とは裏腹にヴァイスマンは眉をひそめる。

「ただし、あくまで『システムB』という特殊閉鎖環境における想定外の挙動にすぎません。
 汎用的な戦闘データとしては、残念ながら『無価値』です。参考程度が関の山でしょうね」

そう苦々しい顔で告げる。
この刑務作業、本来の目的である戦闘データの収集としては失敗だ。
一過性のバグを用いた戦いはデータとしての価値がない。
不満げな様子の看守長に、所長は淡く笑う。

「なるほど。オリガくん、君の管理能力は確かに怪物的だ。
 だが、どんなに精密な計画でも、想定外は必ず起こりうる。
 それを拒むのではなく、受け入れ、活かす度量を持たねばならない。
 想定外を『無価値』と断ずるのはそれからでいい」
「……肝に銘じておきます」

短く応じると、ヴァイスマンは椅子を押し引き、立ち上がった。
冷めきったコーヒーカップを丁寧に手に取ると、そのままテーブルの片付けに移る。

「それでは、私は執務室に戻ります。
 何かありましたら――ご遠慮なくお呼びください」

所長は無言でうなずき、看守長が退場する。
再び、静寂が室内に降りた。


工業地帯を抜けた瞬間、世界の色が変わった。

鉄と油の臭いに満ちた灰色の瓦礫の海は、いつの間にか淡く青みを帯びた緑へと変わっていた。
地を覆うのは、足首丈ほどの野草。どこまでもなだらかに広がる丘陵に、花らしきものが風に揺れている。

ひどく遠くから来たような風だった。
廃工場の濁った空気とも、塩気を含んだ海辺の湿気とも違う。
それは、どこまでも乾いて澄んだ空気だった。
だが、胸の奥に吹く風は、少しも穏やかではなかった。

「……っ、は……はぁ……っ……!」

肺が焼けるように痛んだ。
氷龍としての飛翔は限界だった。
肉体的な疲労ではなく、精神の負荷に限界が来ていた。

氷龍の姿を解き、人の姿へと戻った安理は、草原の中央で膝から崩れ落ちた。
空は高く、雲は静かに流れ、かすかな陽光が頬を撫でていた。

草の感触が、手のひらに柔らかく絡みついた。
青々とした草が、春先の絨毯のように一面を覆っている。
こんなにも柔らかく、穏やかな場所があるのかと思った。
けれど、自分はそこに膝をつくことしかできなかった。

「…………ごめんなさい」

誰に向けた言葉かは分からなかった。
けれど、口から零れ落ちていた。

「ボクは……何も、できなかった……」

息をつくたび、心臓が痛んだ。
吐く息は震え、全身にまとわりつく冷気は、自分自身のものではないように感じられた。

けれど、目を閉じれば、鉄球が風を裂いたあの音がよみがえる。
廃工場の瓦礫、ローズの名、そして――イグナシオの背中。

逃げてきたのだ。
あの場所から。
あの怪物から。
そして――あの人から。

守られた。
助けられた。
何もできないまま、置いてきた。

「逃げたんだ……ボクは……また……」

思い出す。
誰にも言えずに引きこもっていた日々。
変わりたくて、強くなりたくて、それでも何かを変えたくて。
色々な人から、色々なものを得たのに、けれど、それすらも台無しにしてしまった。

「…………」

胸にぽっかりと空いた穴が、風に吹かれて冷えていく。
吹き抜ける風が、草を揺らしていた。
その音は、ざわざわと、誰かの囁き声のように聞こえた。

自分の無力さが、悔しかった。
そして何より――生き延びてしまったことが、苦しかった。

それでも、イグナシオの言葉が思い出される。
「その命は、自分のために使っていい」と。

だから今、自分にできることは――この命を使って、彼の言葉を無駄にしないこと。
この草原を抜けた先で、必ず灯台へ辿り着くこと。
それが今の自分にできる事だろう。

だが、足に力が入らない。
立ち上がることもできず、俯くことしかできない。

その時――風が止んだ。

あまりに突然、草原が静まり返った。
音が消える、何一つ聞こえない。

違和感が肌を這う。
まるで、空間ごと息を潜めたかのような。

「道に迷ったようですね――――少年」

男の声がした。
俯いていた顔を上げれば、そこには昇り始めた日の光を背負った男が神の遣いのように立っていた。

「――――少しだけ、神(わたし)と話をしましょうか」

その言葉が、何かの始まりであることだけは、確かだった。

【F-4/草原(西部)/一日目・朝】
【北鈴 安理】
[状態]:顎と脳にダメージ、疲労(大)、自信喪失
[道具]:なし
[恩赦P]:0pt
[方針]
基本.自分の罪滅ぼしになる行動がしたい。
1.灯台に向かう
2.本当に恩赦が必要な人間がいるなら、最後に殺されてポイントを渡してもいい。けれど、今はもう少し考えたい。
※イグナシオの過去、大金卸とのあらましについて断片的に知りました。少なくとも回想で書かれた全てを聞いているわけではありません。
 まだ聞いていない部分について、今後間違った妄想や考察をする可能性もあります。

【夜上 神一郎】
[状態]:疲労(小)、多少の擦り傷
[道具]:デジタルウォッチ
[恩赦P]:0pt
[方針]
基本.救われるべき者に救いを。救われざるべき者に死を。
1.なるべく多くの人と対話し審判を下す。
2.できれば恩赦を受けて、もう一度娑婆で審判を下したい。
3.あの巡礼者に試練は与えられ、あれは神の試練となりました。乗り越えられるかは試練を受けたもの次第ですね。誰であろうと。
4.“鉄の騎士”は、いずれ裁く。
※刑務官からの懺悔を聞く機会もあり色々と便宜を図ってもらっているようです。
ポケットガンの他にも何か持ち込めているかもしれません。

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灰塵に立つは鉄塔 バルタザール・デリージュ 血の宿命
怪物の気配 イグナシオ・"デザーストレ"・フレスノ 懲罰執行
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最終更新:2025年07月18日 21:21