――――――君は……そうか、まだ、生きている、人間が……。
――――――私は、田宮……。この、診療所の、院長であり、この事態を起こしてしまった人間の一人……だ……。
――――――……氷月、海衣君か。謝って、すむ、問題ではないが、君達の、故郷を、こんな風に、してしまって、すまない。
――――――……私は、あくまで、未来人類、発展研究所、の、末端の、人間に、過ぎない。だから、真実は、何も知らないんだ。
――――――もうじき……君達正常感染者を、隠滅すべく……政府の、特殊部隊が、この、診療所にも……。
――――――これは、この診療所の、マスター、キー、と、院内の、地図、だ。これを、使って、診療所から……。
――――――……そうか。君は……。いや、私に君を、止める資格は、ない。これも、持っていきなさい……。
――――――私は……君とは違い、ウイルスに、適合、できなかった。もう、じき、他の患者たちのように……。
――――――逃げ……か……。君の怒りは、尤もだ。だが、この方法でしか、自分の、後始末は、できそうにない……。
――――――氷月君……。私に、いう資格はないと思うが、どうか、生き延びることだけを……考えてくれ……。
――――――ワたシに、残されたじカんは、もう、少ナい。行きナさイ、氷月君。
――――――……スまなイ、氷月君……。
バタン……。
カチャ、バンッ!
◆
山折村西部に位置する診療所『山折総合診療所』。
山々に囲まれた自然豊かな環境の中で最新鋭の設備や医療技術を患者に提供する、限界集落にありながら県内でも有数の医療施設である。
それ故に建物自体の耐震性も高く、震度7という大地震が直撃しても物の落下などの軽微な影響で済み、入院患者にはほとんど悪影響はなかった。
しかし―――――。
◆
山折総合診療所本館三階。
月明かりが照らす廊下を白い入院着を身に纏った黒髪の少女が涙を滲ませて裸足のまま走っていた。
彼女の名は一色洋子。緩和ケア病棟にて自らの最期を待つばかりの少女だった。
しかし地震発生から僅かばかりの時間の後、病弱であった彼女は『普通の人』と同じようになっていた。
今までぼやけて見えていた景色が鮮明に映り、空気も今まで以上に暖かく感じる。
洋子は歓喜した。何故、今まで抱えていた難病が完治したのかは分からない。だが現に、彼女は『普通の人』と同じになれたのだ。
彼女の夢。恋焦がれる兄――九条和雄の優しい声で目を覚まし、一緒に学校に通い、夜は彼に優しく抱きしめられて眠る。
叶うことのないと諦めていた夢が叶う。洋子はその事実に涙を流して喜んだ。
だが、その喜びは一瞬で消える。
ぐちゃぐちゃと肉か何かを咀嚼する音。静まり返った病室に響く鮮明な音が『正常』になった鼓膜に届く。
不可思議に思い、視線を横に向ける。そこには一心不乱に人肉を貪り喰らう母親であった怪物――ゾンビがいた。
洋子は絶叫し、病室から飛び出した。だが、廊下にも病室と同じ地獄が広がっていた。
夢だ、と思いたかった。しかし、肌から感じる風も、足の裏から感じる廊下の冷たさも、あちこちで聞こえる呻き声も。走った時の息苦しさも。
全て現実だと洋子に残酷に突き付けていた。
(お母さん……どうして……。お兄ちゃん……)
胸を刺す深い悲しみ。そして今日お見舞いに来るのを楽しみに待っていた最愛の人。
母は怪物になってしまった。兄も自分と同じように巻き込まれてしまったのだろうか。それとも―――。
(―――ダメッ!何も考えちゃダメ……!)
心の痛みと背後からの脅威から逃れようと疾走し、ある部屋の前を通り過ぎようとした刹那―――。
洋子の服を何かが引っ張り、部屋へと引き摺り込んだ。
「ひぃ……ンぐ……んーーー!!」
恐怖のあまり絶叫しようとする洋子の口を白く綺麗な手が塞いだ。
強張った表情のまま、洋子は視線を上に向ける。
「……静かに」
視線が交差する。
月光の薄明りのみを光源として瞳に映し出されたものは、唇の中央に一本指を添えた見目麗しい少女の顔であった。
少女は洋子が落ち着くのを確認すると口から手を放し、洋子を正面に向かせて「大丈夫だよ」と小声で言い聞かせた。
直後、すぐ隣の部屋からアラーム音がけたたましく鳴り響いた。
「……ゾンビ達は大きな音に引き付けられる習性があるみたい。少し経ったら、部屋を出よう」
◆
「あの……わたしは一色洋子です。ええと……」
「氷月海衣」
「氷月、さん。助けてくれて……ありがとうございます」
「別にいい」
部屋の前で群がるゾンビ達を背後に、洋子はブレザー姿の長い黒髪の美しい少女――氷月海衣に手を引かれて歩く。
洋子の海衣に対する印象は決して悪いものではない。助けてくれた上こちらの体調を気遣って歩幅を合わせてくれている。
「……氷月さんは誰かのお見舞いでここに来たんですか?」
「……父親が両足を骨折したからリハビリの手伝いに。だけどゾンビになった」
「あ……すみません」
「別に構わない。事実だから」
こちらの無神経な質問にもちゃんと返答してくれている。それでいて怒ったりもしない。
しかし状況のせいなのかも知れないが、会話を早々に切り上げてしまうため、素っ気ないと感じてしまう。
悪い人ではないと思いつつも、取っ付き難い冷たい人という苦手意識を持ってしまっている。
「あの……わたしにできることがあったら……」
「今は特に何も求めていない。君は自分のことだけを考えて」
「…………はい」
突き放すような言い草に何も言えず、下を向く。
まるで自分を邪魔者扱いするような言葉。洋子の瞳にみるみる涙が溢れ、雫を落とす。
ふと、ある部屋の海衣の足が止まる。
何か自分のせいで彼女の気を悪くしたのか不安になり、海衣の顔を見上げる。
「あの……何か……」
「洋子ちゃん、ちょっと待って」
海衣はスクールバッグから鍵束を取り出し、ドアを開けて中へ入る。
さほど時間がかからないうちに彼女は部屋から出てくる。その手には子供用の踝まで覆うタイプの白いルームシューズ。
「これ、履いて。裸足だと冷たいでしょ」
「……はい」
「それから、これ」
海衣がスクールバッグから取り出したものは小型の懐中電灯。それを洋子に手渡した。
「これで階段を降りる時、明るくしてくれる?転ぶと危ないから」
「……はいっ!」
「あまり大きい声出さない」
◆
診療所本館二階の中央階段前。
懐中電灯が照らすその先には、医療関係者や入院患者、そしてその家族と思わしきゾンビ達が密集していた。
「これは、一階に降りられそうにないね」
「そう……ですね」
懐中電灯を消し、ゾンビ達に気づかれぬように二人はその場を後にする。
「……氷月さん、これからどうします?」
「……洋子ちゃん。私が言ったこと、覚えてる?」
教師が生徒に問うような口調で海衣は問いかける。こちらを責めているような様子は微塵もない。
「ええと…確か、大きな音に反応する……でしたよね」
「そう。正解」
ほんの僅かだけ微笑みかけ、スクールバックの中を見せる。
懐中電灯で中を照らすとそこには複数のスマートフォンと防犯ブザー、そして鍵束と何かの紙切れがあった。
「これ全部、氷月さんのものなんですか?」
「違うよ。防犯ブザーは自前のだけど、スマホは君と会う前……一人でゾンビ達から逃げ回っているときに回収した」
「じゃあ、さっきのアラーム音の正体は……」
「お察しの通り。ゾンビから逃げるために設置したものだよ。私のスマホも別の場所にタイマーを設定して置いてある」
「そうなんですね。じゃあ、この鍵束と紙は?」
「これは……病院のマスターキー。紙切れはこの病院の地図。詳しいことはここから脱出したときに話すよ」
◆
中央階段から離れた場所にある病室を出て、海衣は鍵を閉める。
「アラームセット完了……ですね」
「そうだね。小型スピーカーを見つけるとはお手柄だよ、洋子ちゃん」
「そんな、わたしは偶然見つけただけで……」
白く綺麗な手が洋子の髪を撫でる。両親や兄とは違う、こそばゆい不思議な感覚。
自分を助けてくれた海衣の役に立てた。その事実がとても嬉しく感じる。
「これからどうします?」
「アラームが起動するまでに階段近くの部屋まで移動して待……機……」
真下からぐちゃり、ぐちゃりと何かを砕く音が聞こえたと同時に海衣の言葉が止まる。
何事かと洋子は彼女の顔を見上げる。
「あの……氷月さん。一体――」
「―――洋子ちゃん、ヤバい。特殊部隊員が私達を殺しにきた」
今までにないほど顔を強張らせた海衣が困惑する洋子の手を引き、すぐ隣の部屋へと滑り込むように入り、鍵をかけた。
部屋には病院の荷物や白衣がロッカーに詰め込まれている、病院関係者のロッカールームだった。
状況が読み込めていない洋子に人差し指を口に当てるジェスチャーをした後、海衣は小声で話し始める。
「洋子ちゃん、ノイズ交じりの放送覚えてる?」
「ごめんなさい、ちゃんと聞けてなかったです」
「そっか。詳しい説明は後でする。下で暴れまわっているのはゾンビ達を殺すために政府から派遣された特殊部隊員」
「な……何でそんな人達がわたし達をこ、殺すだなん―――」
「詳しい話は後」
ぴしゃりと疑問をはねつけ、海衣は最奥のロッカーへと洋子を抱き込むような形で中に隠れる。
何故、特殊部隊員だと分かったのだろうか?ゾンビを倒すのなら何故、そこまでその人達を危険視するのか?
洋子の頭にはいくつもの疑問が浮かび上がる。しかし、それらはすぐに消える。
人体を破壊する音が何度も闇の中で響き、唐突に止まる。直後、コツコツと階段を上る靴音が聞こえた。
足音が止まる。そして――――
「―――――ぅ……ぁ……」
侵入者はまだ遠くにいるはずなのに。こちらの存在を察知していないはずなのに。
心臓を鷲掴みにされたような感覚。極寒の地に放り込まれたように肌が粟立つ。細胞一つ一つが危険信号を発する。
それは洋子が今まで無縁だと思っていた感覚―――殺気。
足音が廊下に響く度に竦み上がり、悲鳴が漏れそうになるが、海衣の手が洋子の口を塞いでくれたお陰で声を出さずに済んだ。
このまま自分達に気づかずに通り過ぎてほしい。洋子は心の底から祈った。だが―――
小型の重機でドアを破壊したような轟音。同じ人間が出したとは思えない音が、鼓膜を揺らす。
洋子は本能で理解する。侵入者は間違いなく、自分達を殺すつもりなのだと。
もし自分ひとりで隠れていたのであれば悲鳴を上げてしまい、侵入者の餌食になっていたのだろう。
しかし、すぐそばには自分を助けてくれた存在、氷月海衣がいる。
彼女の掌のひんやりとした体温だけが、自分の正気を保たせてくれた。
徐々に破壊音が、自分達のいるロッカールームへ近づいてくる。
足音が止まる。洋子の息が止まる。
直後、隣の部屋からスピーカーによって増幅されたアラーム音が鳴り響いた。
再び侵入者の足音が廊下に鳴り響く。安堵の息を漏らし、洋子は急いでロッカーから出ようとする。
「……駄目。まだ奴はこの近くに」
海衣の言葉のすぐ後。破壊音が響く。そして何かを砕く音が地を揺らす。
数秒後、再び足音がロッカールームの前で止まる。そして―――。
轟音。人外の膂力で生み出された破壊。耳を劈くような風が、禍々しい殺気が、洋子の肌を突き刺す。
立っていられず、海衣の腕を掴む。再び感じる海衣の体温。その時感じる腕の僅かな震え。
(……氷月さんも、怖いんだ……)
気丈に振る舞っていた彼女も自分と同じ子供なんだ。その事実が洋子に親近感と不安を抱かせた。
「正常感染者(ゴミ)共は、どこにいる?」
闇に響く女の声。美しい声であるのに、地獄の底から響くような悍ましさを感じる。
震えを抑えるように洋子が海衣の身体に抱きつく。海衣もまたそれに答えるように洋子を抱きしめ返す。そして―――。
『ザザ……い……い……。ひ……さ……。ガガガ……わた……ち……ピー…』
『ガガ……ピー……え……こ……く……ザザ……ごめ……い……づ……ん……こ……よ…ガガガ、ピー』
ロッカールームのスピーカーからノイズ交じりの誰かの声が響く。
「そこにいたのかぁ、正常感染者(ゴミ)が。場所を知らせてくれてありがとよぉ!!」
獲物を前に舌なめずりする獣に似た、残虐さを滲ませた喜悦の声。
突き刺すような殺気が、重々しい足音と共に遠ざかっていく。
「……行き……ましたか……?」
「うん、行ったみたい」
「じゃあ、もう―――」
「まだ駄目」
ロッカーから出ようとする洋子を海衣は制する。
それから数十分後、スピーカーから破壊音が発せられる。
「氷月さ―――」
「今がチャンス。洋子ちゃん、急いで出るよ」
◆
リハビリ病棟一階放送室。
『イエーイ♪氷月さん聞こえる~?私達クラスの皆とカラオケに行ってま~す♪』
『ちょっと、ええ……?ごめんなさい、氷月さん。もし今度良かったら、茜さんだけとでも一緒に遊んで』
「ふざげやがってええええええ!!!」
防護服を身に纏った女が、床にスマートフォンを叩きつける。
スマートフォンから煙が発生する。それでも文字通り壊れた機械のように音声がリピート再生され続ける。
彼女の怒りは更に増し、診療所内で拾った武器―――スレッジハンマーでスマートフォンを粉々に粉砕した。
それでも怒りは収まらず、ハンマーを振り回して放送室内の設備を破壊し尽くす。
程なくして冷静さをある程度取り戻したが、女の怒りはまだ収まらない。
怒りの矛先は破壊したスマートフォンの持ち主。己を姑息な罠に嵌めた小娘、氷月海衣。
(糞餓鬼が……舐め腐りやがって……!)
いつものように懐から煙草を取り出そうとするが、防護服を身に纏っていることを思い出し、吸えないことに苛立ちを募らせる。
(いいぜ、そっちがその気なら乗ってやる。氷月海衣、てめえを発見次第ぶっ殺してやる!!)
女の名は美羽風雅。
政府により肉体の大半を機械に改造された半サイボーク。
日本政府に飼われる『狂犬』。そして秩序の具現者たる大田原源一郎に次ぐ実力を誇る『暴力装置』。
【E-2/診療所リハビリ病棟1F 放送室/1日目・深夜】
【
美羽 風雅】
[状態]:健康、怒り(大)、苛立ち(大)、氷月海衣に対する殺意(大)
[道具]:防護服、拳銃(H&K SFP9)、サバイバルナイフ、スレッジハンマー
[方針]
基本.正常感染者の殲滅
1.診療所内にいる正常感染者を殲滅する。
2.まだ院内にいるはずの氷月海衣は探し出して殺す。ただし任務に支障はきたさないよう注意する。
3.煙草が吸いてェ……。
※放送設備及び氷月海衣のスマートフォンが破壊されました。
◆
同行者の小さな手を引きながら、海衣は廊下を駆ける。
「氷月さん、あの……放送室の人達は……?」
「大丈夫。あれは私のスマホの動画データだから」
洋子を安心させるようにできる限り優しい声で返答する。
ほっと彼女の安堵する息が聞こえる。この状況下でも他人を気遣える優しい子だと感じた。
(朝顔さんに嶽草君。不本意だけれど助かったよ)
ここにはいない、よく絡んでくる二人のクラスメート―――朝顔茜と嶽草優夜の顔を思い出す。
休み時間によく話しかけてくる二人は正直鬱陶しいと思ってはいたものの、不快には微塵も感じていなかった。。
つい先日、動画データを送ってきたのもきっと善意なのだろう。だからこそ尚更質が悪いと感じるが。
だが、無意識のうちに二人の無事を祈る自分がいた。自分が思う以上に二人の存在が大きくなっていたらしい。
――――――納得できません。私が、私達がそんな勝手な陰謀に巻き込まれるなんて。
――――――何も知らずに生き延びるだなんて私自身が許せません。どれだけ時間がかかっても、いつか真実に辿り着いて見せます。
――――――逃げるんですか。責任も取らずに。卑怯です。
――――――……分かりました。田宮院長、どうか安らかに。
つい数時間前の、田宮院長との最後のやり取りが遠い昔の出来事のように感じる。
放送の内容や田宮院長の言葉通りなら、このVHは人為的に引き起こされたものらしい。
何も知らずに、ただ女王感染者が殺されるのを震えて待つ?そんなことできるはずがない。
何故山折村が、何故自分達がモルモットになったのか。真相を知るまで死ぬ訳にはいかない。それは怒りに任せた衝動のようなもの。
「洋子ちゃん。これから私も君も、危険な目にたくさん合うかもしれない。怪我をするかもしれない」
「……はい」
「でもそれはこの地獄で生き延びるために必要になること。だから、最低限の覚悟はしておいて」
「……分かりました。氷月さんについて行きます」
「よろしい」
小さくも力強い洋子の声。幼くも勇気のある彼女に元気をもらった気がした。
スカートのポケットには用途不明のカードキー。田宮院長から最後に託されたものだ。
それをこっそりと握りしめる。
深夜の病棟。
一人は想い人に再会するために。
一人は真相を解き明かすために。
少女達の夜回りは続く。
【E-1/診療所本館2F/1日目・深夜】
【
氷月 海衣】
[状態]:精神疲労(小)、決意
[道具]:スマートフォン×5、防犯ブザー、スクールバッグ、診療所のマスターキー、謎のカードキー、院内の地図、
[方針]
基本.VHから生還し、真実に辿り着く
1.何故VHが起こったのか、真相を知りたい。
2.特殊部隊員(美羽風雅)から逃げ切り、診療所から脱出する。
3.女王感染者への対応は保留。
4.朝顔さんと嶽草君が心配。
※自分の異能に気づいていません。
※生前の田宮高廣から用途不明のカードキーを渡されました。
【
一色 洋子】
[状態]:疲労(小)、精神疲労(中)、精神的ショック(中)
[道具]:小型懐中電灯
[方針]
基本.生きてもう一度お兄ちゃんに会いたい
1.氷月さんについて行く。
2.お兄ちゃん(九条和雄)が心配。
3.お母さん……。
※自分の異能に気づいていません。
※放送を聞いていません。
※兄(九条和雄)もVHに巻き込まれたと思っています。
最終更新:2023年01月10日 11:04