それはマンションのような巨大な船だった。
船舶とは本来、広大な海を渡る移動手段として生み出されたモノである。
だがそれは移動手段ではなくレジャーを目的として生み出されたクルーズ船であった。
華やかで美しい豪華絢爛なデザインはまるで芸術品のようであり、その雄大さは人々の心を圧倒して已まないだろう。

海上の雄大な景色を堪能しながらレストランで世界各国の豪華な食事に舌鼓を打ち。
遊覧しながらカジノやオペラと言ったエンタテイメントを楽しめる総合娯楽施設である。
果てにはテニスやフットサルなどと言ったスポーツ施設まで完備されていた。
正しく一つの街を詰め込んだような豪華客船である。

宿泊施設となる船室は一般客船からスイートルームまで様々な部屋が完備されおり。
中でもVIPルームは一流ホテル以上の豪華で広々とした空間が提供されており、各国の要人御用達となっていた。

そんな豪華客船の社交場に、ひと際目を引く一凛の薔薇があった。
日に焼けた健康的な肌に鍛え上げられたスラリとしたスタイル。
短く切りそろえられた髪は中性的な彼女によく似合っていた。
肩のざっくりと開いた薔薇のような深紅のドレスは女のエキゾチックな魅力を引き出していた。

その薔薇の名は黒木真珠。日本の特殊部隊に所属する自衛隊員である。
無論、彼女がこの豪華客船に乗り込んでいるのはプライベートではなく任務のためである、秘密部隊は生憎そこまでの高給取りではない。

各国の要人たちが集まる豪華客船への潜入作戦。
にこやかな笑顔で男たちの誘いを断りながら、真珠は給仕から受け取ったマリンブルーのカクテルを片手に標的を確認する。

彼女に課せられた任務はA国とB国の間で秘密裏に取り交わされた軍事開発に関する機密文書の入手だった。
その文書を保有している標的であるA国の外交官に向かって真珠は近づき親しげに声をかけた。

「ごきげんようミスター」

素早く周囲の警護が遮るように壁になったが、その動きを男が制した。

「こんにちはレディ。私に何かご用かな?」

彼は人の良さそうな穏やかな笑みを浮かべて真珠を見つめた。
実に外交官らしい温和で人の好さげなつくり笑顔である。

「ええ。あなたに渡したいものがありまして」

そう言って後ろ手にドレスのポケットに手をかける。
その動きにいち早く反応した警護が真珠の手首をつかみ捻り上げた。

「きゃ………………!」

逆の手に持っていたカクテルが零れ、深紅のドレスを汚す。
警護に取り押さえられた真珠の手に握られていたモノが落ちる。

「……えっと、カフスボタンを落とされたのではないかと」

紅い絨毯の上に転がったのは銀色のカフスボタンだった。
外交官の男が自分のスーツの手首を確認する。
だが、そこにはカフスボタンが付いていた。

「警護の者が失礼をしました。しかし、わざわざ届けて頂いて申し訳ないのだが、同じデザインのようだがどうやら私のモノではない様だ」
「そのようね」

さっと男が合図すると、警護が真珠から離れる。
解放された真珠は自分のドジに苦笑するように手首を擦りながら立ち上がった。

「ケガはないかな? レディ」
「ええ。問題ないわ元気な物よ」

そう言って健在を示すように押さえつけられていた手首と肩をぷらぷらと動かす。
それを確認して外交官の男はドレスに目を移した。
深紅のドレスは青い液体に侵され汚れてしまっていた。

「ドレスが汚れてしまったね。用意させよう」
「いえ、そんな。悪いですわ。私の勘違いが招いた結果ですから自業自得ですわ」
「そうはいかない。社交場の美しい花を汚したままともなれば私の名誉にかかわる」
「ま。お上手ですこと。そんな事言ってたくさんの女性を泣かしてきたのでなくて?」
「はは、私はまだ独身だよ。案内させよう。おい」

外交官が声をかけると警護の一人、大柄な黒人男性が案内役として前に出た。
恐らくは監視役も兼ねているのだろう。

「コチラです」

外交官の男に会釈して、真珠は無骨な男の案内に従いその後ろについて行った。
彼女が通されたのはVIPルームだった。
幾つかのセキュリティを通過して、仰々しいまでに豪華な扉をくぐると2体の女神の彫像が出迎える。
光り輝く程に磨かれた白い大理石の廊下。ロビーの中央にはなんと噴水があった。
その奥にある大階段からしてフロアが分かれているようだ。
これが船内に用意された宿泊施設であると言うのだから信じられない光景である。

「よろしいんですの? こんなにあると迷ってしまいますわ」

花の咲いたような声を上げて真珠は煌びやかな青と白のドレスを手にしていた。
案内された衣装室には色とりどりの宝石のように大量のドレスが並んでいた。
置かれたクローゼットも一つや二つではない。それこそ100着以上のドレスがあるだろう。
独身の男性外交官の部屋にこれだけの女物のドレスがあると言うのも女装癖でもない限りはおかしな話である。
何人の女を連れ込んでいるのか、女好きと言う情報は確かなようだ。

「……これも可愛らしいし、あっこれも素敵なデザイン。うーんどうしましょう」

目移りする様にクローゼットを漁り次々とドレスを手に取り、悩ましげな声を上げる。
案内役の男は無言のまま真珠を見つめ扉の前で待機している。

「あの……着替えたて確かめたいのですけど。よろしいですか?」
「ええ、構いませんよ」

案内役の警護に許可を取る。
だが真珠は手にしたドレスで口元を隠し、頬を赤らめもじもじと照れくさそうな仕草をした。

「えっと、もしかしてここに居られるおつもりなのでしょうか………?」
「あっ。いえ……そのような。失礼しました」

そう言って、慌てて警護の男は外に出た。
それを確認して、真珠の顔は淑女から獰猛な獣のソレに変わる。
手にしていたドレスをその場に投げ捨て、外の警備に気づかれぬよう小さな窓から衣裳部屋を抜け出た。

この客船の設計図は把握済みである。
VIPルームは高級マンションのような作りになっており、幾つかの部屋に別れている。
所々に警備は配置されているようだが、一番セキュリティの厳しい入り口は突破した。
あとは物の数ではない。

警備の目を掻い潜り、真珠は苦もなく標的の部屋へと侵入を果たした。
私室兼執務室なのだろう。部屋の端にはトランクが置かれ、机の上にはいくつかの資料が並んでいる。クルーズ船の中でご苦労な事だ。
当然電気などはつけず、足音も立てず薄暗い部屋を進む。
まっすぐ奥の机までたどり着き、その上の資料を漁ろうとしたところで。

「ハロー。何かお探しかしら?」

何者かに背後から銃を突きつけられた。
ゆっくりと両手を上げてその場に直立する。
しくじった、先んじて部屋に潜伏していた存在に気づかなかった。

「ルームサービスって訳じゃあなさそうね。何者かしら?」
「そう言うテメェこそ警備の人間って訳じゃなさそうだな、何もんだ?」
「あら? 聞いてるのはこっちなんだけど?」
「チッ…………!」

突き付けた銃を鳴らす。
当然その程度で口を割るような真珠ではないが。
無言を貫く真珠に対して女は苛立つでもなく、余裕を持った様子で口を開いた。

「そうねぇ。貴重品や貴金属類じゃなく真っ先に資料に向かっていた辺り泥棒って訳じゃあなさそうね。
 話している英語にも不自然なくらいに癖や訛りがない。どこかの諜報機関の人間って所かしら?」

目ざとく見透かされている。
他国への潜入を行う捜査官にとってもっとも重要なのが言語である。
他言語の取得は当然として、訛りなどの出身の特定につながる要素は徹底的に矯正される。
あまりにも流暢な発音は逆説的にその正体を示していた。

「あら、だんまりなの? せめてお名前くらい伺ってもよろしいかしら?」
「ハッ。言う訳ねぇだろ、ボケがッ!!」
「ッ!?」

一瞬の隙をついて深紅のスカートが翻る。
それを目晦まらしにして放たれた廻し蹴りが銃を握った手首を弾いた。

隠密としては後れを取ったが真珠の本領はこちらである。
体術ならば後れを取ることはない。

続けて、廻し蹴りの勢いのまま放たれた足払いは跳躍によって躱された。
相手の跳躍先は先ほど弾かれた銃の元である。
真珠はスカート下のホルダーに忍ばせていた銃を引き抜く。
互いに銃口を突きつけ合ったのはほぼ同時。

「思ったより可愛らしい顔してるのね、お嬢さん」
「ケッ。口の減らねぇ女だ」

向き合って銃口を突き付け合う。
互いに動きを牽制し合った膠着状態である。
だが、いつまでもこうしている訳にもいかない。

「で? いつまでこうしてにらめっこしているつもりだ?」
「そうねぇ。銃声は立てたくないでしょう? お互いに」
「……そうだな」

銃声が伝わり外の警備が駆けつけて騒ぎになるのは避けたい。
なにより血痕や死体のような証拠が残るのはマズい。
命が脅かされる状況でなければ元より銃を撃つと言う選択肢はない。

「なら、ひとまずここは分けって事にして、お互い見なかった事にしない?」
「てめぇが出てくってんなら止めはしねぇよ。あたしはまだやることがあんだよ」

邪魔が入ったおかげで資料の探索はまだ出来ていない。
部屋へ探索が出来る次の機会を得るのは簡単ではないだろう。

「B国との機密文書を探してるんなら生憎ね、ここにはなかったわよ」

目的を言い当てられたことは驚くべきことではない。
この部屋に侵入している以上、相手の目的も似たような物だろう。

この女が先んじて部屋にいたのも事実である。
既に家探しを終えていてもおかしくはない。

「……それを信じろってか?」
「別に自分で探してもらっても構わないわよ? 時間の無駄だろうけど」

僅かに思案する。
元より真珠もこの部屋に「ある」と確信していた訳ではない。
一つずつ「ない」ことの証明して最終的な在処を明らかにしていく作業の一つだ。

チッと大きく一つ舌を打って真珠が銃を降ろす。
それを見て女もふぅと息を吐いて銃を収めた。

「まあいいさ。どっちにせよ警備も戻ってくるころだ」

着替えに迷っていると言っても、そろそろ様子を見に来る頃合いだろう。
衣装室に戻らねば怪しまれる。資料を漁っているだけの時間はもうない。
どちらにせよ時間切れだ。

「オラ、行けよ。見逃してやる。だが次はねぇぞ」

そう言いながら真珠も執務室を後にしようとする。
だが、その背が引き留められた。

「ねぇ。私と協力しない?」
「ぁん?」

足を止め振り返る。

「幸いと言っては何だけどお互い目的は同じようだし、資料を見つける所までは協力できると思うのだけど、どうかしら?」

資料の発見と言う目的は共通である。
最終的に自分が手に入れると違いはあれど、その過程までは協力できるかもしれない。
そういう提案である。

「いいぜ。乗ってやるよ」

意外にも、真珠はこの提案を受けいれた。
これは最後に殺し合いの争奪戦になるのを見越しながらの提案である。
彼女はそこが気に入った。
それが出来るからこそ彼女たちは潜入員なのだろう。

「協力するのなら名前くらいは聞いておきたいんだけど?」

協力関係を結んだ以上、呼び名くらいは決めておかないと不便である。
それは真珠でも理解できる。

「名乗るならまずそっちから名乗れよ」
「私? 私はマリー・アントワネット。マリーって呼んでね」
「マリーってツラかよ。適当な偽名を名乗りやがって」

同時見てもアジア系の顔だ。
隠すつもりもない偽名である。

「それで? そういうアナタのお名前は?」
「そうだな…………田中花子だ。好きに呼びなよ」

意趣返しのつもりで、適当な偽名を返した。


それから豪華客船を舞台にしたスパイアクションが繰り広げられたのだがそれはまた別の話。
第三勢力の登場や魔改造により強化された警備兵との戦いなどを乗り越え、彼女たちは機密文書の入手に成功する。

そしてクライマックスの舞台は船の甲板の上。
機密文書の所有権をかけて、真珠とハヤブサⅢの最期の対決が始まろうとしていた。
だが、殺し合いが始まろうかと言うその直前、ハヤブサⅢはあろうことか商品である機密文書に向けて火を放った。
真珠が呆然としている隙にハヤブサⅢは海へと飛びこむ。

「なっ!?」

ここは大西洋のど真ん中。
泳いで陸地に辿り着ける距離ではない。
慌てて飛び込んだ先を除いた真珠が見たのは、浮上するヘリコプターの縄梯子に捕まる姿だった。

「じゃあねぇんマジュ。バッハハーイ!」
「ハヤブサⅢぃぃい。テェ……んメェェェェエエエエエ!!!!」

真珠の絶叫も虚しくプロペラ音に掻き消されてゆく。
そうしてハヤブサⅢは豪華客船から去って行った。
最初から彼女は機密文書を手に入れるためではなく、機密文書を処分するために動いていた人間だったのである。

そんなこんなで、真珠の潜入任務は失敗に終わった。
このような失態。とんだ恥をかかせてくれたものだ。
なにより任務を任せてくれた隊長である奥津に顔向けできない。

次に出会ったら殺す。
必ず殺す。
そう決めていた。


と言うのが去年の話。
そして現在、山折村にて。
真珠は拳銃を片手にトラックの荷台に寄りかかりながら思考していた。

むやみに動くのではなく、まずは動き方を決める。
真珠は獣ではあるが、考えなしに動くほどバカではない。
本能だけで動くのではなく、獲物を追い詰める理性的な獣である。

目撃証言を当たる正攻法も並行して進めていくべきだろうが。
先ほどのトラック運転手の様にハズレを引く可能性が高い。
まずは敵の動きに予測をつけた方がいい。
敵の行動範囲であれば目撃証言の精度も上がる。

トントンとリズムよく指で拳銃を叩く。
共闘した時の奴の動き、思考、経験を思い返しながら相手の思考をトレースする。
この状況でハヤブサⅢなら、何を目的として、何を考え、どう行動する?
暫しの集中の後、ポツリと結論を呟く。

「…………放送室だ」

奴がこの村に来た目的は十中八九研究所の調査だろう。
この状況であれば、なおさら原因となった研究所の調査を優先するはずだ。

ストレートに考えれば地下に研究所のある診療所に向かうのだろうが。
ただ向かったところで、セキュリティが突破できないのでは意味がない。
ならばまずはセキュリティパスを入手する必要がある。
どこで手に入るかを考えれば、あの放送を行った研究者を探すはずだ。

そう結論付けた真珠は行動を開始する。
トラックから離れ進路は一路北へ。
目的地は放送室。

その予測は大きくは外れてはいなかった。
見落としがあったとするなら、既に標的が研究所潜入に必要な研究者を確保している可能性だが、これを予測しろと言うのもなかなかに酷であろう。

果たして宿敵との再会は為るか。
特殊部隊員は夜を行った。

【G-5/バス停近く/1日目・黎明】
黒木 真珠
[状態]:健康
[道具]:拳銃(H&K SFP9)、サバイバルナイフ
[方針]
基本.ハヤブサⅢ(田中 花子)の捜索・抹殺を最優先として動く。
1.放送室へ向かう。
2.ハヤブサⅢのことを知っている正常感染者を探す。役に立たないようなら殺す。

033.深夜病棟廻 投下順で読む 035.Losers
032.Danger Zone 時系列順で読む 036.光に惑う
そして訪れる最悪 黒木 真珠 false call

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最終更新:2023年02月15日 23:34