ワニと言う人生でも滅多にないであろう異質な交戦を経て、
 あれからも何事もないまま病院に近しい外観の診療所へ辿り着いた天。
 何事もない方が気持ち悪く感じるが、ひとまずそれは置いて静かに忍び込む。
 ゾンビが多いと思って正面からではなく非常階段を使おうとしたものの、
 道中に何体かゾンビがいたので素直に正面の玄関から入ることにする。
 玄関のゾンビはかなりの数が死体として転がって忍び込むのは容易で、
 倒れているこの村の住人の遺体を踏まないように歩いていると、

「どこへいきやがったあああああッ!!!」

「!」

 一人の女性の怒号が院内に轟く。
 マイクを使ってないにもかかわらず、
 肌がピリピリと感じる怒気は相当なものだ。
 ただの怒号であっても動くべきことではあるのだが、
 聞き覚えのある声とも、あってより駆け足で向かう。
 声の下へ駆けつければ、同じ防護服の人間の姿だ。
 部屋の中のロッカールームがいくつも破壊されている光景は、
 さながら災害の後とも受け取れそうな状況に見えてしまう。

「え、美羽さん? 何故診療所にいるんですか!?」

 声から予想はしていたが、
 此処にいない筈の同僚の姿に困惑する。
 この作戦に参加してる人物ではあるものの、
 同じSSOGが早くも出くわすこの状況は普通に問題だ。
 ただでさえ少数精鋭で出してきている現状において、
 人数が固まっていては余り好ましいことではない。

「あぁ? なんだ乃木平じゃねえか。何って、仕事だろうが。」

 踏み潰したロッカーから足を離し、
 後頭部を掻きながら彼の方を見やる。
 (と言っても防具服越しなので掻けないのだが)
 防護服の都合上相手の表情は伺えないものの、
 先の発言と今の声色も合わせて相当頭に来てるようだ。
 気の短い彼女では嫌と言うほど聞き慣れた声色である。

「いやいや、そういう意味ではありませんって。
 別の任務がある黒木さん以外は、場所が指定されていたはずですよ。」

 天は診療所を、大田原は木更津事務所、
 成田はトンネル付近、広川は高級住宅街、
 そして彼女が向かうべきは公民館のはずだ。
 黒木だけはあるエージェントを追跡する為に基本自由行動。
 そうして一度はまばらに散りながら、感染者の排除をしていく。
 無駄に集まってはその効率は落ちてしまうし、見落とすものも多い。
 時間をかけていては住人が自分達の存在に気付いて結託してしまい、
 より任務に支障が出てしまう可能性も出てくる。

「あ? そうだったか?」

「大田原さんの作戦を聞いて……ああ、
 あの時美羽さんは招集された伊庭さんと喧嘩してましたっけ。」

 そういえばあの時自分が宥めていたような、なかったような。
 思い返せば話を聞きそびれていたことについてはありえなくはない。
 任務に忠実な彼女が此処にいるなんてありえないとは思ったものの、
 皮肉屋の伊庭の発言に噛み付いて話を聞きそびれてたのなら、仕方ないかと。
 元々が暴走族だ。規律を重んじたりする此方の方針とは相性が悪いのと、
 サイボーグ故に成果やデータはしっかり出してるため余り咎められず、
 どうしたものかとため息を吐きながら頭を抱える。

「診療所からアラーム音がしてよ。連中がいるって分かって優先したっつーのはある。」

「事情は分かりました。ですが公民館へと向かってください。
 いくらSSOGであれども、相手が束になれば非常に危険です。
 束になって能力を把握してしまえば、全滅の危険すらあります。
 というか、いったいどこから調達したんですかそのハンマーは。」

「拾った。」

「どんな環境ですか!?」

 ワニによる数の暴力を嫌と言う程味わって、
 危うく任務開始前から死亡するかもしれなかった最初の戦い。
 あのような異能を知能を持つ人間が使えばどうなるか想像したくないことだ。
 集団を形成し、束になってしまうことの方が猶更危険になる。
 下手をすれば人一人、銃で殺すことすら困難になりかねない。

「行く前に、まずぶっ殺しておきてえ奴がいんだよ。」

「それも私が対応します。ですから───」


「……あ?」

 威圧。
 先ほどまで誰かに向けていた殺気が、
 そのまま天へと向けられるかのような威圧感が襲う。
 『俺の獲物だぞ、なんでテメエに譲らなきゃいけねえんだよ』、
 とでも答えるかのような、視線だけで人を射抜けるような鋭い眼差し。
 防護服越しでも感じたそれについては慣れたものであり、特に物怖じもしない。
 口論に喧嘩。美羽を相手する時においてはありふれた光景の一つだから。

「美羽さん。今の貴女ははっきり言って冷静ではありません。
 一度貴女の最初の任務である公民館へ向かって落ち着きましょう。」

 大声から美羽が短気な人物であることは、既に相手も気付いているはずだ。
 相手は素人ではあるが、彼女を煽れる程度には冷静な立ち回りをしている。
 だったら相手はより、彼女の冷静さを失わせるべく罠にはめていくだろう。
 相性が悪い。このまま頭に血を上らせて更に冷静さを失うのは目に見える。
 異能を理解しているかもしれない相手に致命的な隙を晒すのは極めて危険だ。

 なら二人で病院の感染者を始末しに行けばいいだけの話では?
 とは思われる話だが、二人は性格から能力まで相性が悪い部類になる。
 サイボーグ故に単騎で強い美羽に動きを合わせられるわけもなければ、
 性格面においても真面目よりになる彼と相性がいいとは言えなかった。
 人間離れした彼女についていけるのはこの任務だと大田原と成田ぐらいなものだが。
 未知の異能の前に下手な連携で挑んで全滅、と言う最悪に転じる可能性も高い。
 此処で優先するべきなのは、どちらか一人でも生き残って行動することだ。
 異能を一足先に見た彼にとって異能の存在を警戒をしすぎているという、
 臆病さが何処かにあることは否めないものの、警戒に越したことはない。

「相手の目的は無駄に徘徊とゾンビを処理させてきて、
 その隙を突いて逃げるか、此方を攻撃してくるでしょう。
 大田原さんに次ぐ戦闘能力を有した貴女を長時間留まらせて、
 無駄に時間を浪費することの方が、任務に支障が出てしまいます。」

 ただ、天の思惑はもう一つある。
 彼女は好戦的である以上、出会えばゾンビでもまず皆殺しは確定だ。
 癇癪を起こした結果がこのロッカールームを考えれば想像は容易で、
 博愛主義の彼としては、ゾンビと言えども無駄に死なせたくはない。
 必要以上の犠牲者を出させない為にも、彼女を一度頭を冷やしてもらうべき、
 という私情も一応はあるのだが、彼女はその有り余る強さはSSOGでも指折りの強さ。
 ゾンビ相手にしても無駄な消耗をさせるべきではない、合理的な理由がちゃんとある。
 例えるならば、美羽は自由に暴れて活躍する将棋で言う飛車のような立場。
 飛車が一つの駒相手に執着し続けては、勝てる勝負も勝てない。

「SSOGに忠義を尽くすと言う、
 貴女が命令無視を続けると言うのであれば別です。
 私が代わりに公民館へ向かうようルートを変えるので。」

「……チッ。まーたテメエに諭されるのか。気に入らねえ。」

 オオサキや黒木と熱くなりがちな人物が多く、
 伊庭のように棘のある言い方、マイペースが過ぎる南出。
 騒ぎの火種になる人物を宥めて終わらせるのは基本的には天だ。
 反論が妙にしづらい言葉を並べてくるのが腹立たしく、彼女としては合わない。
 こんな性格ではあるが、恩人であるSSOGの命令に対しては忠実だ。
 私情よりもまずは任務の方を優先するべきことについては事実である。
 だからそれを引き合いに出す。伊庭と違い棘を抜いた風な言葉が余計に腹が立つ。

「ご理解いただけたようで何よりです。ですので───」

 言葉を遮るように、窓の向こうで何かが派手な音と共に輝く。
 何事かと二人が確認すれば、深夜の世界に爆発が軽く周囲を照らす。
 流石に遠いので音も光も大して強くないものの、視界に捉えるには容易だ。
 呪いを受け、無限に爆発している革名征子の異能の一部始終を軽く見やる。

「派手にやってやがるな。」

「そのようで。」

「頭冷やすついでにアイツか、近くにいる奴でもぶっ殺してくるか。」

「分かりました。ですが美羽さんも気を付けてくださいね。
 あの様子だと、相手が持つ能力はかなり攻撃的なので。
 後、増殖するワニが湖にいますのでそれも気を付けてください。」

「分かってるよ。大分頭から血は……ワニ?」

「ワニです。」

「……どういうこった?」


「うん、予想してましたよその反応。」

 予想通りの反応に哀愁漂う返しをする。
 お前ストレスで頭いかれたか? と思われてそうで
 流石にこれ以上長話をしている場合ではないのもあって、
 簡潔な説明だけに留めてそれ以上の説明はしなかった。


 ◇ ◇ ◇


 美羽が駆け足で戻ってくることもあって、三階へと行かざるを得なかった二人。
 診療所からの脱出が目的であるのは、攪乱しているところから気付いているはずだ。
 なので此方に直行することが余りないと判断し、あえてそのままで軽く様子をみる。
 上がってくる様子はないのでそのままリハビリ棟へ戻るように歩を進めていると、

「氷月さん、あれ!」

 洋子の視線の先は窓の向こうの爆発の光。
 更にそこへ駆け足で向かっている一人の姿がある。
 逆光もあって誰かは完全には把握できなかったものの、
 全身を覆う防護服と思しき格好であることだけは伺えた。
 この状況でそんな恰好をしているのは、特殊部隊なのは間違いない。

「あれが特殊部隊、ですか?」

「多分ね……移動した?」

 去ってくれたことに歓喜の表情を浮かべる洋子。
 暴力的な存在が離れてくれたことに安心感が出るのは、
 当然と言えば当然ではあるのだが。

(今がチャンス……本当にそう?)

 海衣はどうも腑に落ちなかった。
 先ほどまであれほど怒り狂った相手が、
 こうもあっさり院内に残ってるであろう人を見過ごすのか。
 確かに爆発は小さいと言えど、煩わしく思うところもあるだろう。
 耳障りと思うなら優先順位を変更すると言う可能性については、
 あの気の短そうな言動から察せられたが、完全には安心できない。

『いい、海衣? 貴女が氷月家を再興するのよ。』

 脳裏にちらつくのは、自分を大事に育てている両親。
 もっとも、大事と言うのは政略の為の道具としての意味合いだ。
 そこに愛情と言うものはなく、ただ返り咲きたい為だけに育てる。
 そんな立場から脱出を目論んでいる彼女は、長い雌伏の日々を過ごし続けた。
 故に『だからと言って安心するにはまだ早いぞ』と長年の経験が告げている。
 下の階層から怒号はなくなったので、あちらへ向かったのは間違いないとしても。

「まだ慎重に行くから、油断しないで。」

「は、はい。」

 足音をなるべく立てず、再びリハビリ棟へ歩を進める。
 何か嫌な予感がする以上、油断することは決してしない。

(さっきの騒ぎでゾンビが……やっぱり出られない。)

 美羽が派手に壊していたところから、
 残っていたゾンビが集まってしまったのだろう。
 一階には最初に本棟の中央階段のように集まっている。
 非常階段も確認したが、狭い通路にゾンビがいて回避不可能だ。
 スマホを一階へ落として誘導と言う手段もできなくはないが、
 一応は他人のものだ。脱出のためとはいえ乱雑な扱いは避けたい。
 出られるとするなら、やはり本棟の中央階段だけになる。
 三度本棟の二階へ戻ることになるものの、

「!」

 ゾンビらしからぬ整然とした足音に強く反応する。
 遠い位置ではあるものの、一室一室を確認するような音が耳に届く。
 同じ正常感染者? だったら声を掛ければいいはずだ。確認する必要はない。
 確信はないが、長年の経験に従わずにはいられない程度に警戒レベルが上がる。
 遠からずこちらへと気付く可能性はあるが、スマホや放送室の誘導はもう使えない。
 しかも相手は先と違いローラー作戦の如く一室一室をきちんと確認している。
 気付かれたらまず追いつかれてしまうし、身を隠すことも困難だ。
 ゾンビをかいくぐりながらこの逃走劇をやり遂げるのは極めて厳しい。

「洋子ちゃん、今から賭けになるから気を付けて。」

「え?」

 できることは、相手が持っているであろう先入観からくる賭けだ。


 ◇ ◇ ◇


(此処は───)

 部屋のドアをスライドしようとしたが、
 壁から聞こえるぐちゃぐちゃとした音とうめき声。
 そっと扉をスライドさせ部屋を覗けば、そこはゾンビだけがいる。
 ゾンビがいるのであれば人はいないのでそっとドアを閉じて、
 病院から少しばかり拝借した医療テープを貼っておく。
 生きたゾンビがいるかどうかの確認のための目印のようなものだ。

(此処もなし、と。次で本棟二階は最後ですか。)


 何度目か忘れながら、静かにドアをゆっくりとスライドさせる。
 生きているゾンビの気配はなし。ドアの傍で隠れる人影もなし。
 中は診察室で、ベッドと机に置かれたパソコンと施錠された窓が目立つ。
 よくある診察室の内容だが、部屋の奥にはゾンビの死体が三人程転がっている。
 一体が二人に被さるように倒れており、感染してゾンビになる前に食われたのだろう。
 軽く一瞥した後テーブルの下とベッドの下も確認していくが、人影となるものはなし。

(既に病院から出た? 念の為リハビリ棟も確認してから……)

 静かにドアを閉め、リハビリ棟の方へと確認に向かう。
 足音が遠のいていった少し後、もそもそと動くゾンビの死体、

「大丈夫、もう行ったみたい。」

 ではなく、その下にいた海衣と洋子の二人。
 二人はゾンビの死体に紛れ込むと言う賭けに出た。
 先ほどと違い慎重に部屋を探索していた相手では、
 ロッカールームや動画と言った手段は通用しない。
 だが特殊部隊は『生きている正常感染者』を優先する。
 (ワニ吉独眼熊のような例外が過ぎる正常感染者も複数いるが割愛)
 既に倒れている死体については調べない可能性は十分にあった。
 倒れている死体の数も相当だ。診療所とは言うが施設は中々に広く、
 数々の死体までも確認をする暇などないと踏んだ賭けに出ることを選んだ。
 気付かれれば間違いなく死ではあったのは事実ではあるが、
 その試みはうまく行ったことに安堵する。

(まだ。さっきみたいなフェイントの可能性もある。)

 とは言えまだ油断はしない。
 リハビリ棟に行ったからと言って即座に踵を返す、
 なんてことだってありうるので警戒して少し待つがそれもない。
 安全と判断できたため二人は階段へと向かう。
 普段なら五分と掛からない移動のはずが、相当な遠回りになった。
 こんな命懸けのかくれんぼ、或いは鬼ごっこはもう二度とごめんだ、
 そう思いたくなるぐらいに精神的な疲労が二人に襲い掛かる。
 階段を洋子がライトを照らそうとしたものの、海衣が静止する。

「此処は死体が多いから、見ない方がいい。」

 薄暗い月明かりから僅かに見える階段に転がるシルエット。
 ゾンビは殺さない限りは起き上がる。横になってるのは死体だ。
 誰が殺したかは最早考えるまでもない。あの暴力的な特殊部隊員。
 となれば、相当グロテスクな死体となっている可能性だってある。
 余り子供に見せるべきではないし、自分自身だって見たくない。
 月明かりのお陰で足場は辛うじて見えるので、
 手すりと共に慎重に歩けば問題はないだろう。
 そうして二階の階段を降りようと一段目を降りた瞬間。

 何かが足に軽く引っかかるような感覚と共に、
 近くのペットボトルが倒れ、盛大に中身を階段へとぶちまける。
 中身をぶちまけたペットボトルは階段を濡らした後、
 小気味いい音と共に段差を跳ねていく。

(テープ付きのペットボトル? なんでこんなものが───!)

 こんなもの人為的でなければ設置されないのと、
 音と同時に遠くから隠す気がない全速力の足音が此方へと迫りだす。
 音を鳴らして転がるペットボトルの意味に気付き、洋子の手を引いて階段を下りていく。
 遺体と血だまりのせいで駆け足で降りれないことがもどかしく感じる僅かな時間のロス。
 このまま中央階段を降り、後は右へ走れば病院の正面玄関口ではあるがそれは悪手。
 外へ出たところで病院の子供と高校生が特殊部隊相手に足で勝てるわけがない。
 寧ろ遮蔽物を失ってしまい、完全な詰みになることは間違いないだろう。
 この短時間でできる選択肢と言うのがあるとすれば。

「洋子ちゃん、階段を降りたら椅子の下に隠れて。
 後は私が囮になってる間に病院を出て。」

「でも、それだと氷月さんが!」

 相手は此方が二人であるとは思ってない筈だ。
 追跡中ならゾンビの死体に紛れ込めば恐らく誤魔化せるだろう。
 しかし、それは海衣を一人で特殊部隊に任せることにも繋がることだ。
 一人になる不安もあるが、それ以上に囮にすることの方に不安がある。
 逃げ切れる保障がどこにもないのに、海衣が囮を引き受けることへの不安が。

「もう時間がない、お願い。
 万が一私が死んだら、死体から荷物を持って行って。」

 今の状況ではもう選択肢がない。
 二人が逃げ切る前に全滅の恐れがある。
 時間にして一分にも満たない程の短い時間。
 こんな短時間では作戦を立てる暇すらない。
 今出来うる最善は、これしか思いつかなかった。


(まるで、嶽草君みたい。)

 バイトの掛け持ちで忙しい鐘内の代わりに当番を変わったり、
 山岡伽那の事件が起きる前も山上や田辺に面倒ごとを押し付けられたりと、
 彼は都合のいい便利屋としての側面がクラス内でもよく目立っていた。
 面倒な立場を引き受ける今の姿は、何処か彼に重なる部分はある。
 自分の為に生きることを願いながら過ごしてきた彼女にとっては、
 他人のために奔走する彼のことは少々理解できなかったが。

 階段を降りて遂に一階へと降り立つ。
 同時に洋子の手を放して行動を始める。
 洋子が椅子の周辺へと倒れるように隠れて、
 自分は近くの廊下を走り抜けて何とかする。










 はずだった。
 二発の銃声はそれを許さない。
 予定通り確かに受付近くの椅子へと倒れたが、
 洋子の意志ではなく、銃弾が彼女の胸を貫いたからだ。
 胸を貫かれた痛みに、洋子はまともに声が出せずに倒れる。
 同時に銃声に反応したことで海衣は躓いて近くの柱へと転がるように倒れるが、
 不幸中の幸いか、その結果もう一発の銃弾は海衣の髪の毛を少し吹き飛ばしただけに留まる。
 柱から覗くように二階を見やれば、特殊部隊と同じ格好の人間が銃を構えた状態で立つ。

「二人とも、それ以上動かないでください。」

 足を滑らせないよう階段をゆっくりと下りつつ、
 しかし銃口は海衣の柱へ向けたまま、天が冷徹に告げる。
 元々が作戦と呼べるものではなかったものの、作戦は失敗だ。
 今出れば銃の餌食になるし、逃げ切ることすら不可能でどちらも死ぬ。
 完全な詰みの状況へと陥ってしまっていた。

(雑な仕掛けでも使えるものですね。)

 海衣が足に引っかけたのは、彼が用意した簡素な鳴子のようなものだ。
 今も忍ばせてた医療テープを誰かのペットボトルにくっつけて、
 さながらゴールテープのように誰かがかかるのを待つと言う簡単な代物。
 超がつくほどお粗末な、ありあわせのもので何とか用意した産物だ。
 二階から一階へ降りる階段付近のゾンビは美羽が一度は蹴散らしている。
 お陰で二階と一階の玄関口周辺は、ゾンビではなく死体だけが転がる状況。
 ゾンビを誘導しない限り、それに引っ掛かるのは正常感染者だけになる。
 二階にはいないのではと思いながらも一応用心して仕掛けたものだが、
 うまくはまってくれた。

(女子高生に中学、いやあれは小学生?)

 何とも嫌な組み合わせだと思った、
 防護服の中では苦虫を嚙み潰したような顔をする。
 汚れ仕事らしい、堅気の人間を容赦なく蹂躙していく任務。
 美羽であれば苛立たせた相手だ。笑みを浮かべて殺しただろう。
 面倒が嫌いな三藤なら何も思うことなく、殺しただろう。
 いつも笑顔でいる蘭木であれば、変わらず笑顔でこなしただろう。
 でも、自分には子供たちを相手にできそうにない考えだ。

(駄目、もう逃げきれない。どうすればいいの……!?)

 院長の話では正常感染者は特殊な力に目覚めるそうだが、
 自分の持つ能力が何なのか、未だに分からない。
 この状況を打開できるものが欲しいと願うものの、
 未だにその能力が何なのか。それは判断さえもつかなかった。
 ただ柱の陰から相手を見て死を待つことしかできることがない。

「氷月、さん。」

 振るえた声で洋子が名前を呼ぶ。
 暗いのも相まって表情は伺えないが、
 痛みを堪えながら言葉を発してることが分かる。
 自分の判断の甘さが彼女を死に追いやることになる。
 こんな形で終わることになる。彼女はどれだけ恨んでいるのか。
 でも違った。

「逃げ、て。」

 彼女が口にしたのは恨み言でも何でもなかった。
 足手纏いの自分を救った、ヒーローのようなもの。
 そんな彼女に生きてほしいと切に願う、祈りの言葉。
 命の燈火が消える前に、ふり絞った最後の行動。
 言葉と共に、空へと何かが投げられたものを二人は一瞥する。
 近くのゾンビとなる人が落としていたであろう、ただのスマホだ。
 ただし、空高く上がったところでアラームの鐘の音が鳴り響く。
 確かに異能の類か、或いは何かしらの危険物かと一瞬注目するが、

(これは恐らくブラフ! 本命はもう一人を逃がすための方!)

 至って冷静な判断で海衣の方へ視線を向ければ、玄関へ走る姿。
 状況からスマホに警戒した隙を突いての逃亡と言う悪あがきだろう。
 悪あがきは通用することなく、その引き金が鐘の音の中で引かれ、


「え?」

 ない。引き金が妙に重い。
 感情の問題ではない。物理的にだ。
 引くことができず、しかも手が異様に冷たい。
 何事かと手元を見やると、

(引き金と指が凍っている!?)

 指と引き金が覆うように凍っており、
 軽く引くだけで人の命を奪う銃も軽くでは奪えない。
 海衣は完全な意識はしてないが、能力の行使はしていた。
 視界に入っている空気を凍らせることもできるその能力で。
 距離はあったので効果が出るまで遅かったが、今それが文字通り形となる。
 強引に引き金を引けば撃てたかもしれないが、その一瞬の硬直は、
 彼女が病院の外へと出て行ってしまう決定的な隙となる。

(グッ、手が凍ってるせいでナイフに切り替えもできない!)

 腕が凍って動かなくても追跡自体はできるものの、
 あくまで追跡だけだ。自衛手段が足だけになっている。
 敵は正常感染者以外にも徘徊するゾンビだっているわけだ。
 なので追跡の前に、階段の手すりに手を叩きつけて氷を砕く。
 手が少し凍っていて動かしにくいとは言え、動きに致命的な支障はない。
 時間はロスしたが、今なら十分に追いつける程度の時間のはずだ。
 追いつけるはずだった。だがそれもまた叶うことはなかった。
 彼が唯一知らない、美羽も(気付いてないので)伝えてない情報。

(ゾンビの群れ!?)

 ゾンビは大きな音に反応すると言うことを。
 手間取った間に一階には、残っていた患者や医師のゾンビが集う。
 当然、矛先は未だ鐘を鳴らし続けるスマホが落ちた場所───階段の方だ。
 玄関口を出ていく海衣には目もくれず、天の方へとゾンビが殺到する。

(まずい!)

 鈍重なゾンビと言えども一階に集まったのはそれなりの数だ。
 何体かはすでに胸を撃ち抜いて手遅れだったであろう洋子の肉を喰らっているが、
 たとえそれを差し引いたとしても迫ってくる数が多すぎて一階に降りられない。
 全員相手をするつもりはないし、逃げる以外の選択肢はない。
 二階で開いてる適当な部屋から、そのまま窓から飛び降りて外へと出る。
 早急に玄関の周辺を見やるが、既に周囲に彼女の姿は見当たらない。

(完全な移動経路の特定は困難か……!)

 相手は正常感染者だったとはいえ、
 吉田や大田原と言ったベテランであったのなら、
 あれぐらいのトラブルも難なく切り抜けてしまうのだろう。
 まああの二人であれば、エンカウントした最初の時点で終わっていたか。
 未熟な自分が今改善できるのは、実力を嘆くよりも相手やゾンビの考察だ。

(分身、爆発、そして今度の異能は凍らせる。
 手を伸ばしたり何かをしていた様子はなかった。
 となると、能力は『視界を向けている』のが条件?
 いえ、そもそもあの異能はどちらの異能だったかも判断が……)

 考えるべきことは山積みだ。
 決して優れてるとは言えない腕を、
 頭の回転や状況を利用して補っていく。
 先の銃撃の甘さも、成田から教わってようやくあの程度だ。
 とは言え、まだうまくやれている方なのかもしれないが。

(『うまくやれている方』か……)

 まるで、人を殺すことで得る仕事の達成感のような感情。
 この仕事に就いた時点でそれは覚悟はしてきたことだ。
 仕事の為に子供を殺したことの経験はもう何度もある。
 被害者面するな。これは任務だ。割り切って従事するべきだと。
 こっちの都合で殺した自分が、彼女に対してできる贖罪などない。

「……その名前、覚えておきます。某洋子さん。」

 精々、その名を最期まで忘れないことだ。
 窓から確認できるゾンビの数から、彼女の死亡確認はできそうにない。
 玄関口を一瞥した後、天は海衣を追うべくその場を離れた。






 天が集まったゾンビで難儀してる間、
 病院を脱出し、全力でその場から離れる海衣。

(逃げるしか、なかった。)

 あの状況でできる最善はこれだけだ。
 どうあがいてもあの場で自分にできることなどなく、
 ただ全滅を避けるために選べたのはこれだけだと。
 選択肢はなかったとは思うも、同時に見捨てたと言う後ろ暗い感情。


(……ごめんなさい。)

 謝ること以外にできることなどない。
 せめて、彼女の死を無駄にしない為にも生きる。
 それだけが今の氷月海衣のできる唯一の行動だ。

 診療所での戦いはこれで幕を閉じる。
 此処から生きて出た者達もまた勝者に非ず。
 任務優先と言えど、雪辱自体は晴らせてないサイボーグ。
 結果的に一人逃がすことになった凡人。
 人を見捨てることになってしまった少女。
 此処にいたのは、いずれも敗北者である。

【D-1/1日目・深夜】

【美羽風雅】
[状態]:健康、怒り(大)、苛立ち(大)、氷月海衣に対する殺意(中)、乃木平天に対する苛立ち(中)
[道具]:防護服、拳銃(H&K SFP9)、サバイバルナイフ、スレッジハンマー
[方針]
基本.正常感染者の殲滅。
1.爆発の場所か、近くにいる正常感染者をぶっ殺す。
2.煙草が吸いてェ……。
3.氷月海衣が生きてたら任務に支障が出ない範囲で殺しに行く。
4.分身するワニってなんだ。

※放送設備及び氷月海衣のスマートフォンが破壊されました。
※乃木平天からワニ吉の情報をある程度伝えられています。

【E-1/診療所前/1日目・深夜】

【乃木平天】
[状態]:疲労(小)、精神疲労(小)、手が凍結(軽微)
[道具]:拳銃(H&K SFP9)、サバイバルナイフ、医療テープ
[方針]
基本.仕事自体は真面目に。ただ必要ないゾンビの始末はできる範囲で避ける。
1.ワニ以外に珍獣とかいませんよね? この村。
2.氷月と呼ばれた人を追う。(恐らく凍らせる能力)に警戒しつつ。
3.後ろ髪を引かれる。あのワニ生きてる?
4.某洋子さん、忘れないでおきます。
5.美羽さん、色々な意味で大丈夫でしょうか。
6.能力をちゃんと理解しなければ。

ワニ吉の死に懐疑的です。
※氷月海衣の能力を『視界のものを凍らせる』と思ってますが、
 一色洋子の能力と言う可能性も捨てていません。
※ゾンビが強い音に反応することを察してます。
※もしかしたら医療テープ以外にも何か持ち出してるかもしれません。

【E-2/1日目・深夜】

氷月 海衣
[状態]:罪悪感、精神疲労(中)、決意
[道具]:スマートフォン×5、防犯ブザー、スクールバッグ、診療所のマスターキー、謎のカードキー、院内の地図
[方針]
基本.VHから生還し、真実に辿り着く
1.何故VHが起こったのか、真相を知りたい。
2.特殊部隊員(乃木平天)から逃げ切り、カードキーの用途を調べる。
3.女王感染者への対応は保留。
4.朝顔さんと嶽草君が心配。
5.洋子ちゃん……

※自分の異能に気づいていませんが、無意識には行使できます。
※生前の田宮高廣から用途不明のカードキーを渡されました。


 胸の傷が致命傷で助かりようはなく、既にほとんど声も出せなかったが、
 ゾンビに襲われる中、洋子は意識ある限り声を必死に抑えていた。
 悲鳴を上げてしまえば海衣が足を止めてしまうんじゃないか。
 僅かな可能性であっても避けるため絶対に声は出さないと。
 弾丸に貫かれた時の痛み以上のものが襲ってきても、
 肉が噛み千切られようとも、死ぬのだとしても絶対に。

(お兄、ちゃん───)

 許されぬ恋情を抱いた血の繋がった兄、和雄は今どうしてるだろう。
 今日は見舞いに来るはずだったから、此処に向かっているはずだ。
 だとしたら、今日だけは。こんな危険なところには来ないでほしい。
 兄に起こった悲劇を知ることがないまま死ぬと言うのは、
 ある意味では彼女にとって幸福なのだろうか。



 特殊部隊も、正常感染者もいなくなった診療所。
 ただ蠢くゾンビ達が当てもなく徘徊しているだけの場所。
 そこに、ただ一つだけの例外が存在している。



 ある意味で天は運が良かったのかもしれない。
 もし念の為死亡の確認をしようとしていたら、
 新たな宿主になっていたかもしれないのだから。



 一色洋子の中に巣食っていたその『厄災』は。
 誰に知られることもないまま、胎動を始めている。

【一色洋子 死亡】

※E-1診療所本棟一階に『巣食うもの』がいます。
 また小型懐中電灯(電源OFF)があります。


034.豪華客船潜入作戦 投下順で読む 036.光に惑う
033.深夜病棟廻 時系列順で読む 032.Danger Zone
深夜病棟廻 一色 洋子 GAME OVER
美羽 風雅 JUST THE WAY I AM
氷月 海衣 対特殊部隊撃退作戦「CODE:Skadhi」
Normal×Anomaly 乃木平 天

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最終更新:2023年01月14日 14:06