中国の思想家である壮子(そうし)という人物の著書に「知魚楽」という小編がある。
橋の上に立って魚を見た壮子が「あれが魚の楽しみだ。」と呟いた。
それに対して同じく思想家である恵子(けいし)は、「君は魚でないのに、なぜ魚の楽しみがわかるのか。」と食って掛かったそうだ。
論理的に魚の楽しみ、という概念的な考えを表す方法はないだろう。だからこの場合恵子の言葉に反論するのは不可能だ。だが、「魚の楽しみ」を「音楽の素晴らしさ」に置き換えてみよう。この場合、個人差もあるが音楽は心地良いもの、だから理由がわかる、共感ができる。
ボクたち人間は、物事を理解したり認識する場合、論理を基礎としたり、直感に頼ったりするものだ。
だが、共感とは感情に起因するもので、ある意味後者に該当するものであれど、その本質はある意味違うものだ。
「何となく」。何らかの背景に類似点を見つけて、魅力を感じることで、「共感」という感情に至るのだ。
共感とは一種の正しさでもあって、一種の同調圧力でもある。ポール・ブルームという心理学の教授が「共感は悪い指針であり、いい人であるためには自制心と正義感とともに客観的な思いやりが必要」だとも言った。
え、どうして今更こんな事を語りだしたかって? 読者諸君は落ち着いて座席に座りたまえ。
他人の心情に共感するのは別に悪いことではない。だが、思いに踊らされるがままに共感するのは危険だ。共感という中身の見えない欺瞞の果てに待ち受ける結末は、大体碌でもないものと相場が決まっている。
「まず自分を疑え」。ボクの親友が口癖の様によく言っていた言葉だ。言ってしまえば「前提を考え直せ」という学者の心構えみたいなもので、そうすることで別の切り口を見つけられたり、新たなアイデアを思いついたり、と。まあ、覚えておいても損はない言葉だ。
さて、これから話すのは「どうしてボクは上月みかげの恋バナに共感したか」という理由の一つ。ボクがこの村にやってきた理由である、親友の話でもあり、ボクの過去の話だ。
また長ったらしい話をすると思うが、ここは素直に耳を傾けて聞いて欲しい。あくまでボクがそう思った理由を話しているのだから。
◆◆◆◆◆
名前でわかる通り、ボクは日本人ではない。
と言ってもボクが故郷に居たのは生まれてからほんの数ヶ月の間。その後は両親が日本に引っ越して日本での生活を始めたから、この通りボクも日本に染まったと言うべきか。
父親は高名な科学者で、よくボクを外へ連れ出しては色んなことを教えてもらったものだ。
成績が悪かった時は、「理解するまで引いたラインより先に進むな」なんて父親に言われたのも懐かしい。
厳しい部分、世間一般で毒親なんて言われても仕方がない部分があったにしても、娘には愛を以て接してくれた、そんな良い父親だった。
科学者にとってラインの超えるということは、解き明かすと言う事だ。宿題の内容だとか、勉強で言うならそういうものなら一定のラインというのは存在する。
だが、科学者が行き着く先にラインと言う名のゴールは存在しない。無明の地平線を走り求め、終わりのないマラソンを走り続ける。
学生だった頃は、兎に角勉強に熱中していたかな。優秀だからということで揚げ足を取られることもあったが、少なくとも悪くはない学生生活だったよ。
けれど、今思えば、同年代の友達はいなかった。見果てぬ境界線を求めて、当てのないゴールを目指し続けて。博士号を取った時も、適当の持て囃して称賛したり、嫉妬の目を向ける同業の姿。
ボクに友達はいなかった。いや、友達が欲しいという認識は。その時は、どうだったのかな。
17の頃、教授の薦めでボクは『未来人類発展研究所』のいち研究員になった。
人類の発展というお題目の元、人体の可能性を追求し続ける、科学者にとって一種の憧れの場所、到達点の一つ。
だからと言って究明が止まるわけではない。その先を求め続けなければならない。線なんて無い、文字通りの孤独な道だ。究め続けて、探し求めて。科学者に、研究者にゴールなど存在しない。
ボクも恐らくは、いや、"彼"と出会わなければいずれ、究明のためだけに考えるだけの葦になっていたのかもしれないね。
……"彼"が出会ったのは研究所に来て数日後の話だ。細菌関連の資料を運ぶように言われて2Fの資料室に訪れた際に、大量の書類を地面にぶちまけて慌てふためいている、見るからに好青年、というべき若き研究者だ。
『あっ、あの……す、すみません! ぶへっ!? ちっ、違うんですこれ、いやそのっ、体質、みたいなもの、で……すみませんでしたぁぁぁぁっ!!!』
あの時の彼の慌てっぷりは今でも鮮明に覚えている。余り女子に耐性がなかったのか、ボクの顔を見た途端に鼻血を垂らしててさ、今でも思い出し笑いをしてしまうよ。
未名崎 錬(みなさき れん)、ウイルス学を専門分野とする若い職員だ。昔から女性に対して免疫がなくて、その癖してモテやすい顔をしているから学生時代の頃はよく苦労していたらしい。
この出会いが切っ掛けかどうかは知らないが、1ヶ月後に上司の命令で彼がボクと同じ部署に異動してきたのだ。まあ助手が欲しいとは近々思っていたから、この時のボクは都合がいいぐらいとしか思わなかったかな。
けれど彼は、……錬は一緒に居て愉快なやつだったよ。如何せん鼻血癖は直して欲しいと思ったのだが、意外に飲み込みが早い。分野が違う、というのもあるが、彼の提案には度々助けられたものだ。
「まず自分を疑え」。口癖みたいにこの言葉をよく言ってたよ。自分を見つめ直し、見落しを探し当てる。
人間というのは物事を主観的に見がちなものだ。まずその前提を振り払い、別の視点から見つめ探し当てる。基本中の基本、だが基本だからこそ大切な心構えでもある。
女子に弱くて、すぐ鼻血を出して、その癖してしっかりしている部分はしっかりしていて。……放ってなんておけなかった。彼と一緒に仕事をしている内に、オフの日には何かと理由をつけて彼と一緒にお出かけしていたっけか。
嬉しかったのかもしれない。学生の頃は同年代の友達なんていなくて、肩身は狭くなかったけど、ほんの少し寂しかった。
普通に話し合って、普通に共に並んで歩いて、そんな当たり前の事がこんなに楽しくて、嬉しいと思ったのは、ボクは初めてだった。それに…………。
錬には、好きになった人がいたらしい。ボクの後にやって来た四宮晶(しのみや あきら)という女の人だ。ボクと一緒に仕事している後ろ姿を度々見かけた頃から狙っていたらしくてね。驚いたのは、錬の方も彼女のことが好きになっていたって話だ。
ああ、告白の場面にはボクも同席させてもらったよ。こういうのにはボクは疎かったが、出来る限りのサポートはさせてもらったつもりだ。そして、見事錬は晶と結ばれた。
晶も正式にボクの助手の一人になって、晶と錬の中はいっそう進展していったんだ。勿論、ボクの助手として十分こき使わせてもらったけれどね。
……ボクの方が、先に錬の事が好きだったのに、な。
先に告白してしまえば、だって? それが出来たらボクは苦労なんてしなかったさ。でも、仕方ないよ。ボクの方が先に好きだったとしても、例えそれが錬に分かっていたとしても。錬が選んだのは晶との道だ。
錬は晶という線の向こうに行ってしまったんだ。それは彼が望んだ結末だ。思うところはボクだってあるさ、でもね。
悔しいけれど、それでも錬と彼女の幸せを願い応援することが、ボクに出来る唯一無二の恋の心残りだ。
錬の幸せは錬のものだから、それを奪っても、横取りしても行けないんだよ。例え、先に好きになったのは、自分自身だったとしても。彼の幸せは、彼が選んだ道だから。
……え、ボクが泣いているって? そ、そんな事は……あはは。否定、出来ないのがもどかしいな。
また、線の前に取り残されてしまった。
◇
数ヶ月後、ボクは未来人類発展研究所を辞めた。いや、辞めさせられたと言うべきか。
脳科学部門における主任をやっていた◆◆暁彦(◆◆◆◆◆ あきひこ)。燃えるような瞳に、叔母の形見らしい黒瑪瑙のネックレスを肌見放さず持ち歩いているという妙な人物。ボクは彼と意見の相違から大いに揉めた。
『科学の発展に犠牲はつきものなのは君も理解できているだろうスヴィア研究員。いや、でも犠牲になってしまった者たちには私も嘆いているよ。私たちがもう少し頑張っていれば、彼らも命を落とさずに済んだのでは? と度々思い出すことがあるものさ。』
そう悲しげに喋る主任の姿は、ボクには別のものに見えた。
傍目からすれば過去の過ちを背負い邁進する高潔な人物に見えるだろう、だが。この男は違う。
違う何か、彼の言葉を聞けば聞くほど、深淵の貯水湖から這い出る黒い腕に掴まれ引き摺り込まれてしまうような、気持ち悪い感覚があった。
そも、あの時のボクは彼が人間であるかどうかすらも疑わしく思っていた。
主任は研究所でも所長や何かと噂が絶えない副所長からも絶大な信頼を得ている人物だ。そんな人間に感情論な物言いをしたのだから、この結末も避けられないものだったのだろう。
本当ならボクは錬と晶の二人を巻き込むつもりはなかった。だが、ボクの話を聞いて彼らも彼らなりに研究所の闇を探るつもりで奮起していたようだ。ボクは勿論止めようとしたさ、でも、二人の熱意に押し負けてしまったよ。今思えば、あそこで押し負けていなければ、なんて思ってしまう。
山折村に向かう3ヶ月前の話だ。新たに教師免許を得て転々としていたボクに届いたのが晶が病院に運ばれたという緊急のメール。何が起こったのかわからないが、直ぐ様病院に向かい彼女に事情を聞いた。
意識が曖昧なのか、錬の名前と、山折村の名前をボソボソと呟いていた。
山折村。そして錬の名前。彼と彼女に何が起こって、何を知ったのかわからない。
だが、あの時二人を止めることが出来なかった、ただ線の前から引き下がるしか自分は腹立たしくなって、その後は衝動じみた心意気で行動していたのだろうか。
――以上が、ボクが山折村に来た経緯だ。
大地震を発端としたVH騒ぎ。研究所が秘密裏に生み出したであろうウイルス。
真相の証明には未だ遠いが、この村には確実になにかがある。それは事実だったのだろう。
しかし、しかしだ。上月クンの話を聞いて、思わず錬の事が一瞬過ってしまうだなんて、未練なんて忘れてしまったはずなんだけどな。
ボクと違って、キミは想い人に結ばれる事が出来たんだから。1年前だったか、ボクもその光景が今のようにも思い出せ―――――――――――
◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯
「時に上月くん。キスの味とはどういうものか心当たりはないのかい?」
「……ふぇ?」
「スヴィア先生!?」
開口一番、この場に似合わぬ話題を切り出したのは
スヴィア・リーデンベルグであった。
キスの味、と言う女子にとっては恋の味、ともいうべきディーブな内容。そして、間違いなく混乱したのは天原創の頭である。
「何、生まれてこの方、恋愛らしい人生経験は殆どなくてね。学生時代の頃は勉学ばかりだった。上月くんは山折くんと付き合っているのだろう? キスの一つや二つ、経験はあるんじゃないかな?」
さも当然のように、「素人質問で恐縮ですが?」感覚で再び訪ねてくる。
実際、スヴィア・リーデンベルグという人間は学生時代の頃、恋愛という概念には全く関係のなかった人間。恋愛やら趣味やらに走る前に勉強やら実験やらを趣向とするタイプだった。
困惑する天原や、ポカーンと口を開く茜と珠。その風貌なら男の求婚やらバレンタインデーチョコ大量にもらってるやらのイメージがあったのだが、そのイメージが真正面から鉄球をぶつけられたかの如く粉砕された。
「ままま待って!? キス、キス……うん。『日が暮れるまでしたよ! み、みんなだって覚えてるはずだよね!?』」
上月みかげは顔を真っ赤にして答えた。というか堪えた。
壊れた彼女の心の中において、『山折圭介は自分の彼女』である。それを自覚なき異能でその思い出を周囲に押し付けているだけだ。
知ってか知らずか、それすらも己の思い出として『認識せざる』得なかったのか。顔を真っ赤にしながら切り出した言葉がこれだった。
ちなみに、置き換え先の日野光は山折圭介の告白当時にディープキスはしていなかったり。恐らく、彼女自身が圭介にキスする場面を妄想してキスの練習していた記憶が混濁していたのだろうが、それを他が知る由はない。
「……そういえば、そうだったな。前に読んだ本の通り、絶景の中で濃厚なキスを恋人同士はするとあったが、本当だったとは! 所で上月くん肝心のキスの味は」
「何処で見つけたんですか先生そんなベタベタな内容の本。」
何か納得げな表情のスヴィア先生に、思わず茜は冷めた視線で突っ込んだ。
何なら珠もジト目であり、天原に至っては「嘘だろ……」なんて驚愕の表情を浮かべている。
「……き、キスの味……。『あ、でもちょっと前にデートした時に転んじゃってその時に圭介くんにキャッチしてもらった時に、唇が重なってレモンの味が……』」
「ほうほう。レモン味なのか。大体は無味無臭だったり唾液の味という話は聞くが、そこはやはり個人差なのかな?」
「お、思ったより食いつきが激しいです先生!?」
いつの間にかタジタジになっていた。スヴィア・リーデンベルグという人間がここまで恋バナに喰い付くだなんて、上月みかげも含め全員が予想外だっただろう。
(あれ、その思い出って……?)
ただ一人、日野珠はそれに覚えがあった。
姉が初めて圭介をデートに連れ出した際、階段で盛大にすっ転んで圭介が身体で受け止めた形で事なきを得たのだが、その時に唇と唇が盛大にキスをかましたのだ。
姉のデートプランにはみかげも手伝っており、自分と一緒に物陰からサポートしていたのはいい思い出。だからこそ覚えている内容ではあるのだが、その光景をまるで自分の実体験のように語っているのだ、流石に何かがおかしいとは思った。
先のこともあり、いい加減みかげに話しかけるべきか、それとも他のみんなに話をしてみるか、と頭の中で逡巡しながらも、目の前の恋バナはまだ続く。
「……そもそも、先生だって私が圭介くんと恋人だってこと知ってるんですから、いくら気になるからってそんなこと聞かれたら私だって恥ずかしいですよ!」
「いやすまない。つい熱が入ってしまったよ。あと、やはり告白の際はするよりもされる方が上月くんにとっては」
「あー! あー! それ以上は恥ずかしいから言わないでぇ~!? みんな私が圭介くんに告白された事、一年前に知ってるはずなのにこれ以上掘り返さないで恥ずかし―――」
あからさまに恥らいを見せながら声を上げてしまうみかげ。だが、その言葉を聞いたスヴィアが何かを確信したかのように眉を顰め、天原に見えるように中指を一定の間隔で掌に当てる所作を見せながら。
「……一年前のボクはまだ山折村に来てなかったんだが、どうしてそのボクが一年前の山折村の学生の恋沙汰事情を『最初から知っている』んだい?」
スヴィア自身にとっての、単純な疑問を口にした。
「―――――――――――――――――――――――――――――――――何、言ってるんですか?」
空気が変わった、間違いなく。上月みかげの顔が、ぐるりと人形のようにスヴィアの顔を向いて。
ゆっくりとその口元に赤い半月を浮かび上がらせて。
「『何言ってるんですか私と圭介くんが付き合ってることなんてみんなが知っていることなんですよ、だって私が最初に圭介くんの事が好きだったんですから、私と結ばれないなんてあり得ないですよね。ねぇ!!』」
「み、みか姉……?」
「上月さん!? だ、大丈夫……?」
言葉を紡ぐ。壊れたテープレコーダのように。思いの丈をぶち撒けるように。
茜と珠が動揺している反面、スヴィアは毅然とした態度でみかげを見据え、天原はスヴィアのハンドサインを確認している。
「『先生も冗談キツイですよ圭介くんの告白は村でも結構話題になってたじゃないですかああそうだったんですね先生その時出張だったんですねだからそんかこと言ってたんですね。あはは私ったららしくないなぁはははははは!』」
「みか姉落ち着い―――」
「『『『私が誰よりも早く圭介くんの事が好きだったから、だから圭介くんは私の事が好きで当たり前なの!』』』」
そう、上月みかげが叫べば。全員に何かが迸るようなものが通り過ぎて。少しの静寂。
「……そう、だな。そうだったな。申し訳ない上月くん、どうやら忘れていたようだ。」
「――いえ、こっちもなんだか熱くなってごめんなさい。でも分かってくれるならそれで大丈夫です。」
結果だけ告げるならば、改めて思い出を刻まれたというべきだ。
此処にいる全員に、正しくは天原以外の全員に、改めて『上月みかげは一念前に山折圭介から告白されて晴れて恋人同士になった』という思い出を。謂わば、二重掛け。
「……そう、だっけ。いや、そう、だよね。うん。………?」
「……珠ちゃん?」
だが、再び刻まれたとて、それまでのやり取りがなくなっているわけではない。
一度浮かんだ疑念は、再び植え付けられたとしてもこびり着いたままなのだ。
そう、記憶を刻みつけて、共感性を植え付けるだけ、ただそれだけなのだから。
日野珠に一度宿った疑問は、そう簡単に消えない。
「………じゃあ、謝罪ついでにボクの方からちょっとした助言だ。」
何かを理解したかのように、真摯な目でスヴィアはみかげの顔を見つめる。
「実はね、ボクには好きだった人がいるんだ。……別の子に取られてしまったけれどね。ボクの方が、先に好きだったのに。」
「……スヴィア、先生。」
その告白に、本心から、みかげは何か心苦しいものが、無意識な同情心が湧いた。
何故か、悲しいものを感じた。
「でもね。それは彼自身が選んだ事だから。どれだけ苦い思い出でも、それを否定してはいけない事なんだ。そんな事をしたら、彼への恋心まで否定してしまいそうだから。」
「だったら、先生も告白したらよかったんじゃ。」
「それが出来たら、苦労なんてしなかったよ、ボクは。でも、どれだけ善くない現実でも、その目だけはそらしたくないと思ってる。上月くんも、いつか、それを分かって、後悔のない選択が出来るようになって欲しい。」
寂しくも、それでも確固たる決意のもとに浮かんだ言葉だったのだろう。彼女が彼をどれだけ好きだったのか、その初恋が破れた時の彼女の心情が、どのようなものだったのだろう、それでも。
「受け入れろとは言わない。気持ちをぶちまけても構わない。それでも、好きな人が本当に好きだと言えるのだったら、彼の心まで裏切らないようにしてくれ。」
そんなスヴィア・リーデンベルグの言葉が、上月みかげにはどうしようもなく刺さったのだ。
「……善処、します。」
それ以上、上月みかげは何も言い返せなかった。
自分は山折圭介の恋人だ。でも、本当に圭介が好きと選んだのは自分だったのか。
植え付けられた、植え付いた記憶ですら拭えない真実、山折圭介が、日野光の事を見ていたことは、今の壊れた心でも、覚えている。
だけど、本当に、彼の幸せを願うなら。「私のほうが先に好きだった」けれど、それでも本当に彼のことが好きだと言えるのなら―――。
「……わたし、は。」
ひび割れた心が目覚めるには未だ遠く。
しかして、それでもその真実が怖くて目を背けたくて。
でも、本当に彼の、山折圭介の幸せを願うのならば。彼女の未来は、未だ見えない。
◆
(……最悪だ。)
天原創の懸念は、最悪の形で当たった。
スヴィア・リーデンベルグの謎のハンドサイン。あれはモールス信号の動きを指の動きで再現したものである。咄嗟に思いついたからだろうが、自分でなければ通じない内容だ。
(……記憶操作、いや。記憶を刻みつける異能。)
記憶操作能力。それが上月みかげの異能。ただし、記憶の書き換えではなく、記憶の注入。ようするに思い出を貼り付ける能力である。
あの問答で、スヴィア・リーデンベルグという人物は上月みかげの異能をある程度考察し、その内容をモールス信号として自分に伝えた。
(……放ってはおけない。だが、下手に事を動かせば……。)
もし仮に、下手に真実を明らかにすれば、偽りの真実を固着させんと異能を暴発させる可能性も無きにしもあらず。上月みかげの存在が、爆弾そのものだ。最悪今後に影響させかねない、それこそパンデミックよりもよっぽど厄介な。
(……だがスヴィア先生。それをある程度分かっていて。)
だが、スヴィア・リーデンベルグがハンドサインとして天原に伝えた内容の最後は。
「出来る限りのことはする、後は彼女次第だ。」
(……先生、あなたは。)
上月みかげを、生徒を信じるのですか。と。
ただ、天原創は見守るしかなかった。
◇
(……せめて、伝えることは伝えた。)
スヴィア・リーデンベルグは、やれることをやった。「自分を疑え」、今は
行方知れずの錬の言葉。
ふと思い出した過去に、上月みかげの言った「一年前に山折圭介に告白されて恋人同士になった」という事実。そも、自分はその頃はまだ研究員だった。
まず、知り得るはずがないのだ、山折村にいなければ知り得ない事を、その時点で知っている、という事がおかしいのだから。だから気づいた。
だが今、彼女の異能からなる記憶の矛盾を指摘するのは危険だ。
自分の記憶の疑い、口に出しただけであの有様だ。異能そのものが戦闘に直結するものではないとは言え、その脅威はVHなんかよりも、場合によっては上回る。
(私は先生だ。生徒を無理に従わせるだなんて、らしくないよ。)
今のスヴィアは、先生だ。生徒を教え導き、間違った道に寄らないようにする。
だが、上月みかげの今の精神状態は、矛盾に耐えきれない。何かのはずみで、暴走してしまいかねない。
だから、アドバイスだけした。彼女の心が何を抱えて、何を思っているのかなんて、わからない。
ここにいるみんなは自分を除いて学生だ。天原創に関しては何かしら隠しているし、それ以上追求するつもりもない。
(私は信じて、導いて、寄り添うぐらいだ。)
真実を突き止めたいというのは本心だ。だが、それと同じように、教師として、先生としてこの子たちを守らないと、という思いもある。
(上月くん、辛い現実が待っていたとしても、本当に山折クンの幸せを願うのなら。……彼の為に、彼が間違った道を選んだのなら、正しい場所に引きずりあげれるように、なってほしい。)
だから、言葉を掛けて、それで何かが良くなる可能性を、願うだけ。それぐらいしか、出来なかった。
未来なんてわからないから、それでも。もし最悪の未来が待っているのなら、その時は――。
【D-6/道外れ/1日目・黎明】
【
天原 創】
[状態]:健康
[道具]:???、デザートイーグル.41マグナム(8/8)
[方針]
基本.この状況、どうするべきか
1.ひとまず少女たちを安全なルートで先導する
2.みかげとその異能に関しては保留。というか下手に手を出せない
3.女王感染者を殺せばバイオハザードは終わる、だが……?
4.スヴィア先生、あなたは……
※スヴィアからのハンドサイン(モールス信号)から、上月みかげは記憶操作の類の異能を持っているという考察を得ました
【
日野 珠】
[状態]:健康
[道具]:なし
[方針]
基本.創くんたちについて行く。
1.みかげの言動の齟齬について誰かに相談する?orみかげに直接聞く?
※『去年山折圭介が上月みかげに告白して二人は恋人になった』想い出を真実の出来事として刻みました。ただし、一度根付いた疑念は取り払われません
【
上月 みかげ】
[状態]:健康、現実逃避による記憶の改竄
[道具]:???
[方針]
基本.圭介君圭介君圭介君圭介君圭介君
1.圭介君に逢うため高級住宅街の方に行く。
2.私と圭介君は恋人……けれ、ど。
※自分と山折圭介が恋人であるという妄想を現実として認識しています。
【
朝顔 茜】
[状態]:健康
[道具]:???
[方針]
基本.自分にできることをしたい。
1.上月みかげと圭介を再開させる。
2.優夜、氷月さんは何処?
3.あの人(小田巻)のことは今は諦めるけど、また会ったら止めたい
※能力に自覚を持ちましたが、任意で発動できるかは曖昧です
※『去年山折圭介が上月みかげに告白して二人は恋人になった』想い出を真実の出来事として刻みました。
【スヴィア・リーデンベルグ】
[状態]:健康
[道具]:???
[方針]
基本.もしこれがあの研究所絡みだったら、元々所属してた責任もあって何とか止めたい。
1.先生は、生徒を信じて、導いて、寄り添う者だ。だからボクは……
2.上月くんの異能に関しては保留、下手に刺激しても悪化させるだけだ。だからせめて、彼女が間違わないように言葉を掛けて、信じるしか無い。
※『去年山折圭介が上月みかげに告白して二人は恋人になった』想い出を真実の出来事として刻みました。ですが、それが上月みかげの異能による植え付けられた記憶であるということを自覚しました。
最終更新:2023年09月24日 01:53