◆◇◆◇



ほんの小さい頃。
チョコレートの味を知らなかった。
けれど、洗剤の味は知っていた。


どうしてだっけ。
はっきりした理由は思い出せないけれど。
記憶の中で、漠然と覚えているのは。
幼い日の私が、何かの拍子にお母さんを怒らせたこと。
いつもよりずっと取り乱してて、私に強く当たっていたこと。
ただ、それだけだった。

私―――哀野 雪菜は。
きっと神様から嫌われていた。

お父さんは、いつも家を開けていた。
“パパは若いすずめと遊び歩いてる”。
お母さんは、そんなことを言っていた。
“あんたができたから、パパは家を嫌うようになった”。
お母さんは、何度もそう言っていた。

私が生まれて、お父さんは家庭が煩わしくなったらくて。
縛られるのが嫌で、外に飛び出していた。
思い出したように、時折帰ってきて。
そしてすぐにまた、何処かへと行ってしまう。

私は、お母さんに嫌われていた。
お母さんは、私を憎んでいた。
叱って、怒鳴りつけて、叩いて。
取り乱しながら、私のことを躾けていた。
何度謝ったとしても、お母さんが怒っていたらなんの意味もない。
痛いのも、熱いのも、寒いのも、苦しいのも、怖いのも。
ぜんぶ、お母さんから教わった。

痛い、やだ、怖い、お母さん――――。
そんなふうに私が泣き言を漏らすと、お母さんはもっと怒り出すから。
気が付けば私は、声をぐっと堪えるようになっていた。
時折耐えきれなくなって、胃の中のものを戻したりして。
そのたびに“掃除”なんかもさせられていた。
雑巾や塵取りはなかった。

毎日、毎日。
お母さんは、気難しい顔をして。
悲しそうな横顔をちらつかせていて。
何かあった時には、表情を歪ませて。
物を投げられたり、顔を叩かれたりして。
そして、いつも同じことを言われる。


―――あの人を返してよ。
―――パパを、返してよ!


なんて答えれば、良かったんだろう。
どうすればお父さんは帰ってきてくれたんだろう。
どうすればお母さんは泣かずに済んだのだろう。
何も分からないから、私は同じ日々を繰り返し続ける。
身体中に痣を作りながら、自分への絶望を重ねていく。


お父さん。お母さん。
生まれてきて、ごめんなさい。
だめな子供で、ごめんなさい。
もう命なんて要りません。
苦しいのも、痛いのも、嫌です。
だから神様、お願いします。
この世界から飛び降りる勇気を、ください。


そう思った日は、数知れない。
命ある今を呪った日は、数えきれない。
それでも、遠いところに行く勇気なんて持てなかった。

―――ごめん、ごめんね、雪菜。
―――ママが悪いの。ママがこんなだから。
―――だから、ごめんなさい……。

私に暴力を振るった後、いつも泣きながら謝ってくるお母さんが可哀想だった。
いつかは“仲直り”が出来ることを、私自身も望んでいた。
だから私はぼんやりと、苦痛の日々を過ごし続けて。
気が付けば、制服に袖を通す年齢になっていた。

お母さんも、やがて歳を取って。
私が大きくなった頃には、大人しくなっていた。
白髪を増やして縮こまり、すっかり弱々しくなっていた。
それでも時折、昔のように声を荒らげたり物に当たったりする。
帰ってこないお父さんのことで泣きじゃくる日もある。

もう、見慣れた光景だった。
何かを諦めている自分がいた。
そして―――胸を痛めている自分もいた。

お母さんも、お父さんも。
どうして、こんなことになってしまったんだろう。
どうすれば、幸せになれたんだろう。
お母さんに泣いてほしくない。
お父さんに帰ってきてほしい。
家族三人で、仲良く過ごしたい。
ずっとそう願い続けていた。

けれど、もう何もかも手遅れだ。
幸せの芽は、枯れ果ててしまった。
この先には、きっと何もない。
私は、ひどく悲しかった。
だって。お母さんやお父さんに、何も与えられなかったから。

振り返ってみれば。
後悔を背負ってばかりの人生だ。
けれど、いつだって。
一筋の光だけは射していた。


―――ねえ、雪菜。


高校の教室。
隣の席で、あの娘が呼び掛ける。
同じクラス。同じ部活動。
隣り合わせの出席番号。
届かぬ思い出が、鮮烈に焼き付く。
こんな人生でも、生きる価値はある。
そう思わせてくれた、一人の友達がいた。



◆◇◆◇



星が、点々と輝く。
紺色の空に、光が灯される。
まるでプラネタリウムみたいに。
天の海が、優しく輝き続けている。

そんな光景が、酷く綺麗に横たわっていて。
それが途方もなく虚しくて、残酷に映った。

変わらない。世界は、変わらない。
誰が死んでも、生きても。
悪夢みたいな光景が、広がっても。
空は何一つ、語り掛けてはくれない。
ただ呆然と、星の燈火が私達を見下ろす。

星空は、私を導いてくれない。
淡々と、私を見つめるばかりで。
だからこそ、私は自分の足で走るしかなかった。

私には、友達がいた。
後悔を背負う人生に、一筋の光を与えてくれる娘がいた。
愛原叶和。高校のクラスメイト。
同じ演劇部に所属する、無二の親友だった。
私は、その娘を追いかけてこの山折村まで来ていた。

小刻みに息を吐きながら、私は走り続ける。
大してあるわけでもない体力を振り絞って。
真夜中の村を、がむしゃらに駆けていく。

――――最悪な結末を迎える前に……どうか事態を解決してほしい……。
――――それだけが……私の望み……だ――――。

滞在先の小さな民宿。
こじんまりとした宿泊部屋。
大きな地震が起きて、思わず飛び起きて。
何が起こったのかを確かめようと開いたスマートフォンは、一切の電波が通じなくて。
それから暫くして、あの“放送”が何処からか響き渡った。

訳がわからなくて。
何が起きたかも理解できなくて。
けれど、酷く胸騒ぎがした。

何かとんでもないことが起きてしまって。
取り返しのつかないことになってしまった。
そんな実感が、胸の内から込み上げてきた。
恐怖と不安が、焦燥が。
頭の中を、迸るように駆け巡っていった。

だから私は、すぐに着替えて。
何かに突き動かされるように、外へと飛び出した。
民宿を営んでいる人達の姿は見なかった。
唸り声が聞こえてきたから、確かめることを拒んだ。


そして私は、原っぱを走り続けていた。
ぽつぽつと耳に入ってくる呻き声は、振り切った。
この先に湖があって。その側に丘がある。
そこに叶和の実家があるらしい。

何で、今―――自分で自分に問い掛けてしまう。
理由は分かっていた。とっくに悟っていた。
今会えなかったら、何かが手遅れになる気がした。
それだけだった。

地図もなければ位置情報アプリも使えない。
頼りになるのは昼間に出会ったおじいさんの説明と、後は私のカンだけ。
余りにも曖昧な道標だけれど、それでも私は止まれなかった。
眼の前に続く道を、無我夢中で走り抜けていた。

―――愛原さん?
―――あぁ、湖のそばに丘があってな。
―――そこの手前っ側の家に住んどるよ。

今日の日中に、この村に辿り着いて。
私は、住民のおじいさんから話を聞いた。
探し人である叶和のことを、知っていた。

―――ひと月前になって、息子夫婦が帰ってきたんだと。
―――お嬢ちゃんくらいの歳の娘連れててなあ、べっぴんさんだったねえ。

おじいさんから話を聞いたとき。
私は、ひどく、ひどく、安心した。
良かった。間違ってなかった。
ここだった。この村だった。
正しかった。ここが、叶和の故郷だ―――!

安堵と高揚を感じていた。
何も考えず、無邪気に喜んでいた。
けれど結局、私は躊躇いを抱いた。
今日の日中に、叶和と会うことは出来なかった。




始まりは、数ヶ月前。
放課後、演劇部の活動。
舞台上での練習の最中。
叶和が“休憩したい”と言いだした。
ちょっと調子が悪い。風邪っぽいかもしれない。
そんなことを言って、舞台袖の奥側へと休みに行っていた。

皆が練習を続ける中。
私は叶和が気になって、様子を覗き込んだ。

機材や道具の片隅で。
隠れるように座り込んで。
荒い呼吸で、激しく息切れをしていた。
疲れ果てて、苦しそうな表情で。
息を整えようにも、上手く行かない様子で。

けれど、私がいることに気付いたら。
―――大丈夫。大丈夫だから。
そう言って、いつもの笑顔で小さく手を振ってきた。
見られたくない。そう言わんばかりに、彼女はその後も身を潜めていて。
それでも平静を装うあの娘の姿を見て、それ以上は踏み込めなかった。

後日、叶和自身が語ったように。
皆は“ちょっとした風邪”だと信じていた。
暫く調子が悪いから、部活は休むね。
そう付け加えて、叶和は練習を暫く休むようになっていた。
叶和の異変に気づいていたのは、私だけだった。

つくづく、思う。
やっぱり、私は。
神様に嫌われているのだと思う。
私の幸せを、取り立てに来たのだから。

それから暫くして、ある日の放課後。
夕陽が指す、二人きりの教室で。
叶和は私に、打ち明けてくれた。


―――あたしさ。
―――もう、あんま長くないんだって。
―――心臓の病気で、治らないらしいんだ。


この時、私は。
どんな言葉を掛ければ良かったんだろう。
茫然として。頭が真っ白になって。
上手く言葉が出てこなくて。
夕焼けみたいに揺れる叶和の瞳にも、気付けなかった。
これを告げる上で、この娘がどんな苦悩と恐怖を背負っていたのか。
そのことを察する余裕もなかった。

だから私は、ありきたりな同情の言葉しか吐けなくて。
舞台上で演じたら失笑されるような、陳腐な台詞しか出てこなくて。
つまらない三流の芝居だと言われるような、ぎこちない寄り添いしか出来なくて。

この時の私が、叶和にとって。
どれほど遠くに感じられたのか。
何一つ、気付けなかった。
だから私は―――叶和をひどく怒らせて。
それきり一度も話しかけられないまま。
何処か遠くへと、引っ越してしまった。

お母さんも、お父さんも、全部だめになって。
今度は、叶和のことを取り零した。
それでも、今度は。今度ばかりは。
このまま終わらせたくなかった。

なけなしのお小遣い。
ちっぽけな情報網。
必死になって振り絞って。
無我夢中で握り締めて。
そうして、一ヶ月。
私は、山折村のことを知った。

会ってどうしたいのか。
何を言いたいのか。
分からない、分からないけれど。
とにかく、このまま終わってしまうのは嫌だったから。
だから私は電車やバスを乗り継いで、この村へと訪れた。


――――そして、叶和の家を知った。
――――知った、はずだったのに。
――――足踏みしてしまった。


帰ってこないお父さんが脳裏を過ぎった。
怒鳴り散らすお母さんが脳裏に浮かんだ。
そして、叶和が引っ越してしまう前。
彼女に送ったまま返事が来なかったメールのことが、脳裏に焼き付いていた。

だから、日中。
向かおうと思えば、すぐに行けたのに。
拒まれるのが、怖かったから。
今度こそ何かが断ち切れるのが、怖かったから。
私がいることで、“また”何かを駄目にしてしまうような気がしたから。

この遠い村まで、訪れたのに。
結局私は、民宿へと引き返して。
葛藤と鬱屈を抱えたまま、自室で呆然と休んで。
その日の夜に、この“災害”に巻き込まれた。


振り返ってみれば。
後悔を背負ってばかりの人生だ。
ただただ私は、思い知らされる。





大きな湖が、見えた。
月の光に反射して。
星空が、鏡のように浮かび上がる。
そんな幻想的な光景さえも、今の私にはどうでもよかった。

必死になって、周囲を見渡す。
話に聞いた“立地”の情報を頼りに。
私は、あいも変わらずに奔る。

南西にある湖。
近くに、ほんのささやかな丘が存在し。
そこを中心に、幾つかの家があり。
手前側の家に、“愛原さん”が住んでいる。
それが村民から聞いた情報だった。

何度も、何度も。
湖を背景に、私は駆け回って。
周囲にあるものを、手当たり次第に探って。


――――あった。
――――多分、だけど。
――――あそこだ……!


そして私は、家屋の立つ丘を見つけた。
近くに木々が点在する家屋は、夜の闇に紛れるように存在し。
普段ならすぐに足踏みしてしまいそうな暗がりの方へと、私は思わず向かう。
緩やかな丘を上って、そのまま行こうとして。


やがて、私は。
思わず、足を止めた。


家のすぐ前。
私の10メートルほど先。
そこに人の影が、立っていた。
寝室から起きた直後のように。
寝巻き姿で、そこに佇んでいた。

息を呑んで。
呆気に取られて。
胸騒ぎがして。
私は、沈黙する。

月明かりに照らされる。
明るい髪色のボブカット。
私とそう歳の変わらない。
痩せた顔の、女の子。

運命というものは。
どこまで行っても、残酷なものだ。
いつだって、心を置いてけぼりにして。
横たわる現実を、淡々と突きつけてくる。
うんざりするくらいに、惨たらしい。

星が輝く、綺麗な夜空。
星が映る、綺麗な水面。
どんな装飾よりも美しい情景が。
今では、どうでもよく思えてしまう。
淡々と転がる運命の前では。
ひどく、ちっぽけに思えてしまう。

ああ。知っていた。
眼の前にいるのが、誰なのかを。
すでに、悟っていた。
私は一体、何者と対峙したのか。


「――――叶和……」


そこに立つ人影を、見つめて。
私は、呆然と言葉を紡いだ。




―――愛原叶和。
出会ったのは、高校の時。

一年の頃から、同じクラスだった。
名前順ではすぐ隣。部活動も同じ演劇部。
派手な見た目と、快活な人柄に、最初は戸惑ったけれど。
それでも共通の話題があったおかげで、自ずと親友のような間柄になっていた。

小学校、中学校の頃。
私は、ずっと人を避けていた。
クラスの片隅で、大人しくしている方だった。
いつだって、長袖の服を着て。
身体の下にある痕を、本音ごと覆い隠していた。

私は、ずっと自分を好きになれなかった。
私は、両親への負い目を抱えていた。

お母さんは、幼い頃から私に躾を行ってきた。
きっと私が、どうしようもなく駄目だったから。
両親の心を繋ぎ止められなかった自分が、遣る瀬無くて。
だからお母さんやお父さんへの後悔を、ずっと背負っていた。
誰か打ち解ける気になんて、なれなかった。

けれど。高校生になって。
叶和は、私の殻を破ってくれた。
私を好きになれない、私の代わりに。
叶和が私を、好きでいてくれた。

私と叶和は、同じ演劇部だ。
何故なら、叶和が誘ってくれたから。
こんな私を、友達だと思ってくれて。
そうして、手を引いてくれた。

叶和とは、親友同士だった。
自然と波長が合って。
自然と馬が合って。
休日も、よく一緒に過ごすようになっていた。

一緒にカフェに行ったり。
駄弁りながら買い物をしたり。
他の友達も交えて、カラオケなんかにも行ったり。
叶和と出会ったことで、日常に一筋の光が射すようになっていた。

私達は、何があっても。
ずっとずっと、親友同士。
無邪気な想いで、そう信じていた。
そんな日々が変わらないことを。
あの頃は、信じていた。





「叶和、だよね」


私は、呼びかける。
返事は返ってこない。
沈黙だけが、木霊する。


「……ねえ、私だよ。雪菜だよ」


それから、言葉を詰まらせて。
思考が搔き混ざって。


「叶和、その……」


何を言えばいいのか。
何をしに来たのか。


「急に……びっくりさせたかも、だけど」


考えていたことは、曖昧になって。


「……あの日のこと、本当にごめん」


やがて口から飛び出したのは。
そんな謝罪の一言だった。


「あの時……叶和の気持ち、ちゃんと解ってなかった」


この村まで来たきっかけは、後悔からだった。
あの時、頭が真っ白になって。
叶和を怒らせて、仲違いしてしまって。
連絡を取り合うこともできず、叶和は遠い故郷に引っ越してしまって。
それを知ってから、私はなけなしの想いを握りて旅に出た。


「……それに、ここまで来ちゃって」


叶和に会ってどうしたいのか。
何を言いたいのかも、定まっていなかった。


「だけど、それでも……」


ああ、それでも。
私は、ずっと思っていた。


「あのまま、終わりたくなかったから」


そして、眼の前の相手と、私は向き合う。
叶和は、ゆっくりと歩き出していた。
よろよろと、覚束ない足取りで。



「叶和と、もう一度話したかったから」


叶和が、歩く。
少しずつ、緩慢なリズムで。
私の方へと、近づいてくる。


「大切な友達に……後悔したくなかったから」


叶和は、何も語らない。
私の言葉に、何も言わない。
ただぼんやりと、焦点の定まらない眼差しを向けて。
緩やかに、動き続ける。


「だから」


そんな叶和を、見つめて。
私は、泣きそうな顔になりながら。
ただ愕然と、思い続ける。


「ねえ、叶和……」


一言でもいいから。
何か、答えてよ。

返ってくるのは。
言葉ですらない、呻き声だけ。
虚ろな眼差しで、私を見つめて。
手の届く距離まで、近づいてきて。


「ねえってば―――――っ!!」


私は、声を荒らげた。
叶和が、口を大きく開いた。
だらしなく涎を垂らしながら。
私の方へと、ぐいっと顔を近付けて。
首筋の皮膚へと目掛けて。
牙を、剥いた。

思わず私は、動揺して。
そのまま咄嗟に、右腕で首元をかばった。
そして、叶和の歯が―――手首と肘の間へと。
前腕へと、力の限り喰らいついた。

激痛が、走って。
思わず、歯を食いしばった。
噛みつれた箇所から、血が吹き出て。
叶和の顔の半分を、真っ赤に汚した。

――――痛い。痛い、痛い、痛い――――!

叫びそうになりながら。
それでも私は、必死に堪えて。
なんとかして、叶和を引き剥がそうとした。
その直後だった。


叶和が、唐突に。
悶え苦しんでいた。


私の腕から、口を離して。
たたらを踏んで、仰け反って。
顔面を片手で押さえるようにして。
獣のような呻き声を上げて。
蒸気のような煙を、漂わせて。
叶和は、必死に暴れていた。


「……え?」


私は、呆然とした表情で。
そんな間の抜けた言葉を吐くことしか出来なくて。
惚けたように、立ち尽くしてしまった。

何が、起きたんだろう。
私は、唖然とするしかなくて。
やがて叶和の顔を見つめて。
ただただ私は、言葉を失った。

叶和の顔の半分が、溶け落ちていた。
真っ赤な返り血に染まった左目の周辺が。
まるで硫酸でも掛けられたみたいに。
熱した鉄の塊でも押し付けられたみたいに。
彼女の端正な面は、灼かれていた。
私の思考は、混乱へと落ちる。


――――なんで。
――――何が、起きたの?


答えは、分からない。
誰も、教えてくれない。


――――ねえ。
――――なんで。


何故なら。
知っているのは。
私自身だから。


――――お願いだから。


私の身に起こったことは。
もう、漠然と理解していた。
血が、変質していたのだ。


――――答えてよ、誰か。


自分の血。自分の体液。
どんな作用が起きるのか。
いったい、何ができるのか。
奇妙な感覚で、掴んでいた。
『傷跡(きずあと)』が、刻まれる。


――――ねえ、神様。
――――ねえってば。


それでも私は、理解を拒む。
眼の前の現実を受け止めきれなくて。
自問自答を繰り返して。
意識が、心の中へと沈んでいて。


だから。
私は、気付くことに遅れる。


叶和が、がむしゃらになって。
私へとまた迫っていて。
まるで縋るように、腕を伸ばしてきて。
酷く焼け焦げて、半分に溶け落ちた顔で。
私に、必死に組み付こうとしていた。


「あっ――――――」


虚を突かれて。
表情を、引き攣らせた。
その瞬間に。
恐怖と焦燥が、込み上げてきた。
お母さんから受けた躾とは違う。
より明確で、鮮烈な。
そんな“死のイメージ”が、脳裏を過ぎった。

自分の異常は、すでに理解していた。
“脳と神経に作用して、人間を変質させる性質を持っている”。
あの放送で、ウイルスについてそう語っていた。
私に起こっていた“異変”を目の当たりしてから。
私はもう、その使い方を直感で理解してしまった。


いやだ。
しにたくない。


一瞬の合間に。
衝動が、脳裏を過ぎった。

そして、気が付いたときには。
私は、右腕を無我夢中で動かして。
血に濡れた、傷口の断面を。
迫り来る叶和の顔へと。
破れかぶれに、押し付けた。


――――“アンタが生きてくための思い出作りに”。
――――“あたしを、巻き込まないでよ”。
――――“この先アンタが何十年生きるのか、知
らないけどさ”。
――――“そんだけあっても、まだ不満なわけ?”


ふいに、思い出した。
あの日。あの教室。叶和の言葉。
叶和から病気を打ち明けられて。
私がどうしようもなく失敗して。
そして突き放された、あの瞬間。

私と叶和。
ふたりが隔たれた。
そんな断絶の瞬間。
それを、思い出した。


ああ、本当に。
後悔を背負ってばかりの人生だ。






空には、相変わらず星々が浮かぶ。
私達のことなんて、知る由もないように。
唖然とするほど、綺麗に輝いている。
そんな景色の下で、私はただ立ち尽くして。
物言わぬ“死体”を、虚ろな眼差しで見つめていた。

私の友達。私の親友。
唯一無二の、掛け替えのない娘。
その成れの果てが、転がっている。

顔という“個”を喪った、彼女の亡骸。
愛原叶和という人間は、もう何処にも居ない。
“行方知れず”のまま、夜の中に消えていく。


涙は、溢れなかった。
何かが、枯れ果てたように。
ただ、目を開いていた。
泣いたって、どうしようもない。
何一つ、良いことなんてない。
ずっと昔から、そんな諦観を抱いていた。


どこで、間違えたんだろう。
どこで、こうなっちゃったんだろう。
頭の中で、想いと記憶があべこべになる。
疑問に対する答えが、幾つも飛び交う。

この村へと、訪れてしまったから。
私が、叶和を終わらせてしまったから。
研究所なんてものが、日常の裏側にあったから。
あのとき叶和に、正しい言葉を掛けられなかったから。
始まりから、私が駄目な子だったから。
お母さんとお父さんの心を、繋ぎ止められなかったから。
神様から、いつまでも嫌われてるから。
この世に―――生まれてしまったから。

走馬灯が過るように。
淡々と“理由”を羅列しても。
どれが正解なのかは、誰も答えてくれない。
ただ虚しさだけが、転がっていく。
真相は、闇夜の中に溶け込んでいく。

景色は、何も変わらない。
虚しい夜。虚しい空。虚しい闇。
世界は何も語らず、其処に居続ける。

私はいつも、後悔を重ねて。
何かを延々と、取り零していく。
そうして、叶和は死んだ。
最後まで、向き合えないまま。
私が、この手で殺した。

そうだ。
愛原叶和は、もういない。
どこにも――――いない。

茫然とした意識で。
眼前の事実を受け止めた。
その瞬間から。


私の中で。心の奥底で。
何かが、ぷつんと切れていた。
もう眠れそうもないくらいに。
酷く、目が醒めていた。


それが、決意だったのか。
あるいは、逃避だったのか。
それとも、もっと違う感情だったのか。
答えは雁字搦めのまま、私は突き動かされる。



やがて、視線を落として。
“噛み跡”が残る右腕を見つめた。
まだ、血は流れている。
未だに止まる気配は無い。

体液を、酸に変える。
そんな自分の能力を“認識”した直後から。
その使い方は、何となくだけど、理解できていた。
だから私は、流れる血へと意識を集中させる。

じゅう―――と、傷口が“焼ける”音が響く。
焼き鏝を押し付けられたみたいに、苦痛が迸る。
けれど、私は歯を食いしばって堪えた。

慣れている。こういう痛みは、知っている。
煙草を押し付けられる熱さだって。
ほんの小さい頃に体験した。

だから、これくらい。
なんてことはない。

表情を歪めながら、必死に耐えて。
やがて噛み跡を焼灼して、出血を強引に止めた。
瞬間的な痛みが、ゆっくりと引いていき。
ふぅ――――と、息を吐いた。

私の能力は、自分には悪影響は与えない。
そのことは、ぼんやりと理解できた。
けれど、あくまで“悪影響”だ。
自身に敢えて影響を与えるべく、自発的に能力を使えば。
自分への“処置”として、能力を認識すれば。
こういう使い方もできるんじゃないか。

そう考えて私は、“止血”を試みた。
威力を限界まで抑えて、傷口から溢れ出る血で“能力”を発動して。
そのまま出血している表面のみを酸で焼いて、無理矢理に応急処置をした。

火傷の痕が、右腕に残る。
包帯の下に隠れた痣と、さして変わらない。
だから、思うところもなく。
顔を上げた私は、あの“放送”を追憶する。


――――ウイルスには全ての大本となる女王ウイルスが存在する。
――――これを消滅させれば、自然と全てのウイルスは沈静化して死滅する。


正気を保った人間の中に、その“女王”がいて。
“女王”が死んだら、この事態は終わりを迎える。
48時間。それまでに終わらせなきゃ、この村は全部なくなる。
叶和の思い出もろとも、何もかも消えてなくなる。
咀嚼するように、認識してから。


「……止めなきゃ」


ぽつりと、呟いた。
もう、腹は括っていた。


「止めなきゃ」


言葉を、繰り返す。
自分に言い聞かせるように。


「絶対に……」


止めて―――どうする?
叶和は帰ってこないのに。
私が全部だめにしたのに。

そんな声が、心の中で響く。
迷いや不安が、込み上げてくる。
それでも。それでも、私は。
何かを、しなくちゃいけないと。
そう思っていた。
これ以上、後悔を重ねたくないから。

女王は、“行方も知らず”。
それでも、この村の何処かにいる。

一体誰なのかなんて、宛はひとつもない。
けれど。今はただ、動くしかない。
探して、探して―――絶対に終わらせる。


もしもその正体が、自分だったら。
きっと私は、確信するだろう。
神様は、今になって。今更になって。
“飛び降りる勇気”を押し付けてきたのだと。



【F-2/湖付近/1日目・深夜】

【哀野 雪菜】
[状態]:後悔と決意、右腕に噛み跡(異能で強引に止血)
[道具]:
[方針]
基本.女王感染者を殺害する。
1.止めなきゃ。絶対に。
[備考]
※通常は異能によって自身が悪影響を受けることはありませんが、異能の出力をセーブしながら意識的に“熱傷”を傷口に与えることで強引に止血をしています。
無論荒療治であるため、繰り返すことで今後身体に悪影響を与える危険性があります。


◆◇◆◇


それから、暫しの時間が過ぎ。
村を探索していた“防護服の男”は、湖近くの丘で奇妙な死体を発見することになる。


―――こりゃあ、酷いもんだ。


恐らくは若い少女だった。
そう、“恐らく”だ。
身体的特徴からそう判断した。
何故、そのような曖昧な言い回しを取ったのか。
顔面を溶かされていたからだ。
最早“人の面”としての原型を失っていた。
辛うじて残された後頭部の断面だけが、虚しく横たわっている。

その遺体を、男は何てこともなしに観察する。
情報曰く、ゾンビ共は“映画で一般的に見るような挙動”で他者を攻撃する。
噛み付く、組み付く、引っ掻く。
まさしく本能に突き動かれるような加害方法だ。
何か道具を使ったりなどという小細工を用いることは、基本的に無いとされている。

つまりこれは、人の手による“他殺”である。
酸のような何かを顔面に叩きつけ、殺害した―――そんな所だろう。

この少女が“正常感染者”だったのか、あるいはゾンビだったのか、今となってはその区別を付けることも出来ないが。
これだけの殺傷力を持った攻撃を、ただの民間人が行えるだろうか。
顔面の大半が溶かされているのだ。単なる硫酸の類いにしては余りにも強すぎる。
少なくとも、“現地調達した物資”で生み出せる威力ではない。
なれば、思い至ることは一つ。

―――これが“異能”なのかもしれない。

生物を強酸で溶かす。
大方、そんな能力だろうか。
男は死体の損壊状態から、淡々と推測する。

異能とやらがどの程度の規模や効果を持つのか、未だ判然とはしないが。
研究所連中の秘匿主義には困らされたものだと、男は苦笑しながら思う。
しかしこの死体を作り出したのが例の“正常感染者”ならば、ただ見過ごす訳にもいかない。

女王は、正常感染者の中に潜んでいる。
女王を殺害すれば、事態は収束する。
女王の判別手段が存在しない以上、無差別の殺人となる。
タイムリミットは48時間、それまでにケリを付ける。
それが今回の任務の概要だ。

男はこれから取るべき行動を思案する。
地獄と化した山村の夜は長い。
狩りはまだ、始まったばかりだ―――。

そうして男は、思考を続けて。
その場から歩き出した、その直後。

建物の直ぐ側。
ぽつんと茂る林の木陰から。
小さな影が、飛び出した。
丁度、男の死角だった。
それは不意を突くように姿を現して。
唾液を零しながら、口をがばりと開く。

そして―――その影は。
まだ幼い子供は。
男の右脚へと、牙を向いた。





男の足元で。
子供は、捻じ伏せられていた。
靴の裏で、頭の側面を踏みつけて。
身体を地面に縫い付けていた。

防護服に身を包んだ男が、見下ろす。
幼稚園児程度の女の子だった。
まだ物心が付いたばかりの歳だろう。
百数センチほどの身体が、地に伏せて藻掻いている。

血に飢えた唸り声を上げて。
獰猛な白目を剥き出しにして。
口元からは、理性なく涎を垂れ流して。
子供は、手脚を動かして暴れる。
胴体を縫い付けられた昆虫が、必死に足掻くかのように。

“正当防衛”――男はそう認識していた。
木陰から飛び出した子供は、男の足元に噛み付こうとした。
しかし突然の事態にも、男は即座に反応した。
足払いの一振りで、小さな身体を容易く転倒させ。
子供が怯んだ隙にすかさず右足を頭部に叩きつけ、そのまま踏みつけるように地面に押さえ付けていた。

秘密特殊部隊、SSOG。
男はその隊員―――成田三樹康だった。

近場には家屋が幾つか存在する。
そのいずれかに住んでいた子供がゾンビ化したのだろう。
典型的な田舎とされるこの山折村だが、規模や立地の割に未成年の人口は少なくない。
故に、
現村長が村の発展のために随分と施策を重ねていた、とは聞いている。

大方この林が子供の“遊び場”であり、本能的にそこへ足を運んでいたのかもしれない。
ゾンビになった人間が、どの程度“正気だった頃の感覚”を残しているのか。
その実態は分からないが、これくらいの歳の子供は“かくれんぼ”が好きなものだ。
こういう自然に囲まれた土地なら、尚の事。
―――まあ、何だっていい。三樹康は無意味な思考を打ち切る。


「さあて、と……」


任務の標的は、女王感染者だ。
村中を徘徊する亡者の群れは、単なる障害でしかない。
―――さて、殺すか。
これから散歩にでも出かけるような気軽さで、三樹康は思考した。
視線を落として、再び子供を見下ろす。

足元の感覚。靴の底から伝わる感触。
骨と肉で出来た、小さな塊。
地面と足で挟み込むように、その頭部を踏み躙った後。

そのまま足を持ち上げ。
勢い良く、振り下ろした。
靴底が、叩きつけられる。
子供の頭部が。頭蓋骨が。脳が。
激しい衝撃によって、揺さぶられる。


銃は使わない。弾の節約だ。
素手か刃物、あるいは。
“靴底”で殺せるなら、それで十分。


そういえば。
娘の“三香”はもうすぐ5歳になる。
獰猛な子供の頭部を踏みつけた直後。
三樹康はふと、そんなことを思い返す。
家庭で自分の帰りを待ってくれる、愛する家族だ。

活発で賑やかな娘だ。保育園の友達も多いらしい。
休日には女児向けアニメなんかに度々付き合わされるが、三香が楽しんでいる姿を見ると自然と嬉しくなる。
最近は仕事が忙しかったので、家庭での時間が減っていた―――親として良くない傾向だ。
任務が終わったら、久々に三香を大きな公園にでも連れていってやろう。
きっと妻の“香菜”も喜ぶだろうし、自分としても娘と触れ合う時間が欲しいところだ。
誕生日のプレゼントも考えないとな。三樹康は思いに耽る。

思えば、足元で藻掻く“この子供”も。
ちょうど自分の娘と同じくらいの年頃だ。

この村の地下に、研究施設が設けられなければ。
あの妙な連中が、未知のウイルスなど研究していなければ。
あるいは、不幸な大地震が起きなければ。
足元で暴れるこの子は、家族と共に平穏な日々を過ごせていた筈なのだろう。


―――ああ、悲しいもんだ。
靴底を、子供の頭部に叩きつける。


―――不憫で、可哀想な子だ。
靴底を、再び頭部に叩きつける。


―――で。
靴底を、頭部へと繰り返し叩きつける。


―――だから?
―――だから、何だ。
何度も、何度も、何度も、叩きつける。


―――お前は、別に俺の娘じゃない。
靴底を、全力で叩きつけた。


―――なら、虫と同じってことだ。
靴底に、べしゃりと潰されて。
子供の頭部が、果実のように破裂した。


足元に広がる真紅の血肉。
靴の裏を汚す“水溜り”。
土と草を蝕む緋色は、未だ命の温もりを遺す。
生ける屍だった子供は、頭部を足で叩き割られ。
西瓜のように砕かれた皮膚から、脳漿を撒き散らしていた。
最早足掻くこともなければ、ぴくりとも動かない。

「……なあ、大田原さん」

そんな光景を見下ろしたまま、言葉を零す。
この村へと共に送り込まれ、別行動を取っている“同僚”を思い起こしながら。

「あんたの言う通り、“秩序”ってモンは良い」

淡々と、呟き続ける。
誰にも聞こえぬ声で。
何処か愉悦の熱が込められた言葉と共に。

「なにせ大義は、人道を踏み躙れる」

そして、彼は。
口角をゆっくりと吊り上げて。
嗜虐的な笑みを、浮かべていた。

上からの命令は既に下っている。
“研究所”の意向を気にする必要など無い。
パンデミックの拡大防止。
機密情報の漏洩防止。
即ち、女王感染者の暗殺による事態収束。
それがこの村に送り込まれた“数名の特殊部隊員”に与えられた任務だった。

女王感染者の判別ができない以上、この作戦は民間人を犠牲することを前提とする。
そして多数のゾンビが徘徊しているという異常事態―――自己防衛を目的とした発砲許可も降りている。
つまるところ、“多少の暴力行使はやむを得ぬと許されている”。

だからこそ、彼は高揚していた。
まるで、玩具を与えられた子供のように。
懐に携えた拳銃を使う瞬間を、待ち侘びる。
任務の際は、いつだって昂りが訪れる。
相手が生者だろうと死人だろうと、関係はない。
殴って、刺して、撃って―――それで止まるのなら、普段と同じだ。
そう、いつも通りの“人間狩り(マンハント)”だ。

何処からか、呻き声が聞こえてきた。
住民共の成れの果てが、他にも引き寄せられたか。
血の匂いでも、嗅ぎつけてきたか。
まあ―――理由は何だっていい。
男は不敵に笑いながら、ナイフを取り出す。
兎でも狩るかのように、飄々と。


成田三樹康。
彼は、妻子を愛する“良き父親”である。
そして、国に飼われた“快楽殺人者”だった。


【F-2/湖付近/1日目・深夜】
成田 三樹康
[状態]:健康
[道具]:防護服、拳銃(H\&K SFP9)、サバイバルナイフ
[方針]
基本.女王感染者の抹殺。その過程で“狩り”を楽しむ。
1.「酸を使う感染者(哀野 雪菜)」を探すか、あるいは。
[備考]
※ゾンビ化した愛原 叶和の死体を確認しました。

009.Spy×Doctor 投下順で読む 011.鬼の刃
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SURVIVE START 哀野 雪菜 秒針を噛む
MISSION START 成田 三樹康 追跡者

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最終更新:2023年01月22日 23:07