結論から言えば、嵐山岳には覚悟がなかった。



嵐山は猟師である。自然とともに育ち、村に住む人と山に棲む獣の狭間に立つ。
人に害を為す獣は駆除する。しかし、決して必要以上の殺戮はしない。そうすることで人と獣のバランスを保つ。
人が欲に駆られて山に深入りし過ぎることも、獣が獲物を求めて村に降りてくることも、どちらにもブレーキをかける存在だ。

ゆえに、嵐山には銃を撃つ覚悟がある。
撃てば誰かが死ぬ武器を、あまりにも容易く命を命ではなくさせる力を扱う覚悟が、嵐山にはある。
しかしてその覚悟は、猟師として培ってきたその自己認識は、当然のことながら人に向けて行使されるものではない。
獣を撃つときにだって引鉄にかける指は重い。これから命を奪うのだということを己に厳しく突き付け、吟味し、納得の上に弾丸を放つ。
遊びで撃ったことなど一度もない。畑を食い荒らす鹿や猪、あるいは人を食らわんとする熊や野犬にのみ銃口を向けてきた。
高潔、潔癖とさえ言える自律心こそが嵐山岳という人間の骨子である。



他方、小田巻真理は異なる。
彼女は自衛隊の特殊部隊に在籍する本職の対人戦闘員である。
部隊に属する同僚たちに比べれば、幾分は「普通」と評せる精神性、自我を持つ。
だがそれはあくまで異常者の集団と言って差し支えないSSOGの「中では」普通というだけであり、彼女を一般人と比べればやはり違いは明白になる。

その違いとはつまり、意識的に人を殺せるかどうかだ。
小田巻はSSOGの面々では新人とはいえ、何も義務教育終了後すぐにSSOGに入隊した訳ではない。
普通に自衛隊に入隊し、訓練を受け、適正を見出されSSOGに転属となり、隊の基準を満たすべく訓練を受け――その過程で人を殺した。
その数も一人や二人ではない。SSOGは自衛隊最精鋭かつ表に出せない汚れ仕事を担当する部署であるがゆえに、任務を任せられるにはそれなりに信頼を得ねばならない。
SSOGの任務ですらない、訓練――性能評価試験と言い換えてもいい――にて、小田巻は両手の指以上の人間を既に殺害している。
もちろんその標的は民衆に危害を加える悪党や捕らえた外国の工作員など、いなくなっても日本に何ら影響のない者たちである。
五人目を撃ち殺すころには感覚はすっかり麻痺していた。何しろ先輩方は「おう、何人殺った? アタシは八人だ」「三人ですが、別にスコアを競うゲームじゃありませんよ」といった調子なのだから。

SSOGにおいては人を殺すことなど罪ではない。任務を果たせないことが罪だ。
だから小田巻は自分を介抱してくれた少女をも躊躇なく殺そうとした。それは「正義」だからだ。
小田巻の行動は村一つが巻き込まれたこのゾンビ騒ぎを収拾するためであるのだから、無害な、罪のない、未来のある少女を殺害したとて、それは決して私利私欲のためではない。
少数を殺し大勢を生かす。その大義がSSOGには、小田巻にはある。
決して、自分の思想に酔って妻や隣人たちを大量殺戮している狂人とは同類ではない。小田巻真理はそう、確信している。


嵐山岳は人を愛し、獣を愛し、村を愛し、自然を愛する。
小田巻真理は大義のために人を殺すことを肯定する。
それが二者の違いであり、生死を分けた境目でもあった。

嵐山岳は、愛した村の住民である八柳藤次郎によって斬り殺される。



小田巻真理のライフルが火を噴く。照準は迫り来る八柳藤次郎の胴体中央。
高速で接近する人体の一箇所に精密射撃を行うのは至難の業だ。
小田巻にはそれを可能とする射撃技術があるが、試射もしていないライフルをこの局面で、となればさすがに厳しい。
ゆえに、まず表面積が大きく回避し辛い体幹部にダメージを与え動きを止めてからとどめを刺す。
もっとも、動物を仕留めるライフル銃が胴体に直撃すれば、人間は即死するものだが、小田巻は一切の躊躇なく発砲した。
ライフル銃の弾速は拳銃弾の優に三倍以上ある。こうして面と向かって撃たれたのならば、オリンピック短距離ランナーであったとしても回避は不可能だ。

が、八柳老人はもはや人ではない。人の形をした怪物だ。
小田巻が引鉄を引き切る寸前、藤次郎は瞬時に構えを取った。
小田巻は既に一度撃っており、藤次郎は既に一度回避に成功している。惜しむらくはこの時、小田巻は万全の状態で撃てなかったことだ。
藤次郎の奇襲に面食らうことなく反撃してのけたのは特殊部隊の面目躍如といったところだが、どうしても体勢は崩れている。
そんな状態で無理に撃ったから、藤次郎に回避の余裕を与えてしまった。と言って、撃っていなければ斬り捨てられていたのだから牽制として正解ではあったのだが。

ともかく、小田巻は一度ライフル銃の射撃を藤次郎に見せていた。見せてしまっていた。
異能により感覚が鋭敏に研ぎ澄まされている藤次郎にとっては、その一度で十分。
さすがに超音速の弾丸を目で追えるわけではないが、小田巻の指の動き、引鉄が引き切られてから弾丸が発射されるタイミング、どちらも藤次郎は見切っていた。

「――シィィッ!」

短く鋭い呼気とともに奔った剣閃は、夜の闇の中で鮮やかに光る。
光とは比喩ではない。藤次郎の剣の切っ先はこちらも一瞬だけ音速の壁を越え、その空間にあった物――すなわち小田巻の放ったライフル弾に寸分違わず斬り裂いた。

チイッ、と金属同士がこすれ合ったような甲高い音が一瞬通り過ぎる。
後に残るのは、刀を振り抜いた藤次郎の五体満足の姿。
八柳流の剣聖が振るう飛燕の剣は、工業文明の結晶たる銃の弾丸すらも捉え切る。

「嘘……」

強者や猛者など見慣れている小田巻もさすがに目を疑う。
正面からライフル弾を斬り落とせる存在など、SSOGにも存在しない――!
SSOG最凶の大田原にだってあんな芸当はできはしない。想定を遥かに超える、化け物が目の前にいる。

だがそこはやはり実戦を経験した戦闘員、小田巻は動揺を一瞬で鎮め更なる射撃を再開する。
呆けていたのはただの一瞬だが、藤次郎はその間に四歩も迫ってきていた。
再射撃が一秒でも遅ければ、、小田巻の首は宙に舞っている。
藤次郎が再び足を止め、続く二射、三射を斬って捨てる。当然のように、ただの一度も仕損ずる事なく。

「嵐山さん! 撃って!」

ライフルに装填できる弾丸は五発。三発撃って残りは二発。弾が尽きた時が小田巻の命も尽きる時だ。
だがここには銃を持ったもう一人、嵐山がいる。
嵐山の銃は散弾銃。小さな鉛球が拡散しながら飛んで行く、大型の獣用の火器だ。
あれならば老いた剣豪がどれだけの怪物であろうと、全ての弾丸を叩き落とせるわけがない。
ライフル弾を「点」とするならば藤次郎の剣は「線」、そして嵐山の散弾銃は「面」の攻撃だ。
点を線で捉えることはできても、面を一瞬で網羅することはできない。
嵐山が藤次郎に向けて散弾銃を撃てば、それでこの戦いは終わる。



しかし、嵐山岳は猟師だった。
人里を荒らす獣は撃つ。撃てる。その覚悟はある。
だが人は? 悪を為す人は撃っても許されるのか?
そうであるならば村人を威圧する極道組織の構成員は全て撃ち殺しても問題ないのか?
相手がこちらを殺そうとしているのならば、自分が生き延びるためならば、それは正当防衛ではないか?

思考を言語化して思い浮かべた訳ではない。全ては一瞬にして脳裏に浮かび、そして一瞬に消える。
嵐山は藤次郎を止めると決めた。そのために銃を使うとも決めた。
だがこの一瞬で、今まで厳しく律してきた己のルールを、「銃は人を獣から守るためにのみ使う」という猟師たちの矜持を塗り替えることは、できなかった。

「くっ……!」

一瞬。嵐山が逡巡したのは僅か一瞬だ。それ以上迷えば小田巻が死ぬ。
とっさに銃口を下げる。散弾が直撃すれば片足、悪くすれば両足は吹き飛ぶだろうが、即死することはない。
今まで高潔な猟師として生きてきた嵐山が見出した、現実とのギリギリの妥協点。
村人を鏖殺せんとする八柳藤次郎を、それでもまだ獣とは否なる人間として見ていた嵐山の、それが誤り。

射線の傾き、僅かに生まれたほんの瞬間の隙、藤次郎が動くにはにはそれで充分。
藤次郎が刀を携える手とは逆の手を振る。刀を納めていた硬い木の鞘が、針となって嵐山の構える散弾銃に飛んだ。
カァン、と薪を割るような音。散弾銃を叩き落とされまいと踏ん張った嵐山の膂力が勝り、鞘は宙に弾き飛ばされた。
鞘が嵐山の視界の端を過ぎる。目線を戻した時、剣鬼は既に三歩の距離。

(まずい……っ!)

音よりも速い刃が嵐山の首を断つ――ことはない。
藤次郎の刃は、即座にフォローに入った小田巻の射撃を食い止めるために軌道を変えたからだ。
息も吐かせぬ二連続射撃が、藤次郎を後退させる。

「嵐山さん、大丈夫!?」


藤次郎が引いた機を逃さず小田巻は弾丸を再装填する。五発。嵐山から渡された弾丸の全てだ。

「ふむ……君はどうやら軍人か何かのようだな。迷いのない良い射撃だ」

できの良い生徒を褒めるように、藤次郎は小田巻へ言葉を紡ぐ。
その眼光は酷薄にして冷厳だ。漲る殺意を隠しもしていない。

「お褒めに預かり光栄ね。全然嬉しくないけど」
「君は先ほど、儂が狂っていると言ったが……躊躇なく人の頭部を撃てる君は、そうではないと言えるのかね?」
「一緒にしないで。私は正しいことのために銃を取っている。自分勝手な理屈で人を殺めるあなたとは違うわ」

毅然と、小田巻は藤次郎の「言刃」を撥ね退ける。
小田巻には大義がある。親しい者ですら眉一つ動かさず斬り捨てる狂人とは違うという自負がある。



「そうかね? 既に誰かを襲ったか、襲われたか。その行動も大義があったゆえか?」
「っ、これは……」

藤次郎は剣先で小田巻の右腕の焦げた部位を指し示す。それは、小田巻が最初に襲った少女から受けた反撃の跡だ。
当然、顛末を藤次郎が知る由はない。だが藤次郎の眼力は、油断ならぬこの外部入村者が必要と判断すれば躊躇なく殺人を実行できる人種だと見抜いていた。

「……私がどういう人間であったとしても、あなたとは違うわ。私たちを仲間割れさせる気だったとしたら、お生憎様ね」
「仲間割れ? 異なことを言う。どうせ二人とも斬り捨てるのに、不和を起こす必要があろうか」

小田巻が一番恐れる事態は、殺戮者を前にして同盟者である嵐山に疑念を持たれることだ。
出会ってなし崩しに戦闘に入ったから説明してはいないし小田巻としてはする気もないが、小田巻も既に村民を一人襲っている。
不可解な反撃に遭い殺害にこそ至っていないが、もしあの少女が無力であれば確実に小田巻は命を奪っていた。
それを嵐山に話せばどうなるか、考えるまでもない。小田巻は村の敵と看做される。
まさか衝動的に起こした行動がこんなにも早く首を絞めるとは、と小田巻は横目で嵐山を見やる。

「そもそもそんな必要もなかろう。なあ、嵐山君」
「嵐山さん……!?」

彼が短気にも藤次郎の言に乗って自分を疑っていませんように、と祈る小田巻の願いは、嵐山の足元に広がる血溜まりの前に吹き飛んだ。
小田巻と藤次郎の問答に嵐山が口を挟まなかったのは、話の中身によるものではない。
嵐山の左手は欠けていた。肘から先がなくなった断面は間欠泉のように鮮血が滴る。
嵐山は痛みに苦悶しながらも、片手でベルトを引き抜き左上腕を締め付けることで止血を行っていたのだ。
藤次郎の斬撃は、小田巻の弾丸を斬り落とすと同時、散弾銃を支えていた左手を音もなく断ち斬っていたのだった。

ただの一瞬の逡巡。
藤次郎にあり、小田巻にもあり、嵐山だけが持っていなかったもの。
殺人への黒い意思の有無が、死線を分けた。

「いたずらに苦しみを長引かせたのは儂の未熟ゆえ。すぐに楽にしてやろう」

すっ、と藤次郎が構える。小田巻もつられて射撃姿勢を取るが、思考は激しく渦を巻いていた。
ただでさえ銃弾を無力化するような怪物であるというのに、こちらの手が一つ減る。
しかもその手は、唯一藤次郎を打倒できる可能性のある散弾銃を持つ嵐山だ。
嵐山から散弾銃を受け取る――無理だ。その僅かな時間で藤次郎は今度こそ小田巻か嵐山、どちらかを斬る。
そのどちらかとは当然、より危険度の高い方。散弾銃を持つ者が狙われる。
背中を流れる汗がぞっとするほど冷たい。小田巻は今、自分が死地にいるのだとこれ以上なく理解らされている。

「……小田巻さん、行ってください。ここは、私が」

藤次郎が動くより先に、小田巻が動くより先に、嵐山が動いた。
嵐山が足元の血溜まりを蹴る。飛び散る血飛沫の中から、小田巻は幾つかの塊をキャッチした。
十発の血の円柱。嵐山が生成した異能の弾丸だった。
そして、嵐山自身は片手で散弾銃を構え、藤次郎と対峙した。



「行ってください。そして、村を救ってください。先ほど話した仮説、あれを誰か信用できる人に伝えてください」
「嵐山さん、あなたは!? その出血じゃ!」
「長くは保ちません。だからこそ、あなたに託すんです。頼みましたよ!」

嵐山の傷は深い。無理やり止血したとはいえ流れ出た量は相当に多く。まともに動けるのはもう数分もない。
猟師としてこの失血量であとどれくらい動けるのか、その時間の中で藤次郎の撃退は可能か。
無理だ。総判断したから、嵐山は決断した。

小田巻を生かすため、捨て石になると。

片手で構えた散弾銃が撃発する。
本来両手でしっかりと支えて使用する散弾銃を片手で放つ。狙いは定まらず、反動で銃口が跳ね上がる。
しかし、狙いが定まらないからこそ、藤次郎にもその銃弾の行き先は容易には読めない。
余裕を持って散弾銃を躱せるように、大きな動作で藤次郎が跳び下がる。

「行って! 行けぇぇぇっ、小田巻ぃぃぃぃっ!!」

咆哮とともに散弾銃が放たれる。人を撃つ覚悟はなくとも、人を生かすためなら撃てるのは皮肉なものだと嵐山は最早遅い決断をする。
銃弾が藤次郎に命中したか見届けることもなく、小田巻は踵を返して走りだした。
嵐山の散弾銃は三発装填できる。二発撃って、残りは一発。
嵐山にはもう片手がなく、いくら弾丸を生み出せようともう再装填はできない。
嵐山が藤次郎を留められる時間はほんの僅か。
小田巻は瞬間にその思考を巡らせると、躊躇なくその場を離れることを選んだ。
全速力で離れていく小田巻の背を見やり、藤次郎は嵐山へ剣を向ける。

「村の者でもない余所者のために命を捨てるか。天晴なことだ」
「八柳先生、どうか考え直してください。あなたは間違っている」
「すまんが、断る。ではな、嵐山君。先に地獄で待っておれ」
「この村にはあなたの弟子や、お孫さんだって……!」

最後の銃声が鳴り響く。それはあたかも追悼の鐘のようでもあり。
お孫さんだっている、という結びの言葉を紡ぐことなく、嵐山の首は地に落ちた。
縦真っ二つに断ち割られた散弾銃が墓標のように嵐山の首の隣に突き立つ。
藤次郎なりの、男への礼。
殺し合い以外の道を模索した高潔な猟師の旅路はここで終わり。
剣鬼は逃した獲物に向かって走り出す。
地獄はまだ、終わらせない。



「ちょっとぉ、何の音なのよぉ……」

猟師小屋で仮眠を取っていた少女、環円華は銃声によって覚醒した。
寝ぼけ眼でいた数秒後、事態を把握して小屋から飛び出すと、外で警戒しているはずの碓氷誠吾の姿は消えていた。
眠気は消え失せ、瞬時に円華の頭に血が上る。

「はぁ!? あいつ、私を置いて逃げやがったの!? マジありえない……!」

これでは円華を守る肉壁がいないではないか。
とにかく銃声から少しでも離れようと、円華は荷物をまとめて走り出そうとし――運命に追いつかれた。

「……っ、あなたは」

短距離選手ばりの速度で現れたのは、円華が見たことのない大人の女だ。
手には硝煙立ち昇るライフル銃を持っている。あの銃声の主だろうか。

「ひっ……! こ、殺さないで!」

さすがにこれは想定していない。芽生えた異能や催涙スプレーを行使することも忘れ、両手を上げて降伏の意思を示す。
女は円華を睨み、はっと顔を上げる。
あれ、撃ってこない。これはいけるんじゃね?
一瞬のインターバルを得た円華が異能を行使しようと、集中を始め――


短く、女はつぶやく。
そして背後に向かってライフル銃を一発撃つと、円華に目もくれず明後日の方向へ走りだした。

「は? え、ちょ、なんなの?」

唐突に現れ、謝って、銃を撃ち、そして消える。
呆気にとられた円華が理由を知ったのは、きっかりその十秒後。

「ほう……これはしてやられたようだの。誘導されたか」

現れたのは、どう見てもついさっき人を殺してきたとわかる血まみれの刀を持った老人。



その老人を見て、言葉を聞いて、電撃的に円華は理解らされた。
銃撃はこいつを呼び寄せるためのもの。あの女は、この人殺しを円華に押し付けて逃げたのだと。

「っっざっけんなクソがっっ!」
「すまんな、お嬢さん。運が悪かったと思ってくれ」

老人は当然のように円華をも殺す気らしい。
刀を向けられると思った瞬間、膨れ上がった怒りと恐怖に突き動かされるまま、円華は全力で異能を行使した。

「死ねっっっっっっ!!!!」

円華の異能は、他人を操作することができる。
ゾンビにさえ及ぶその力は、全力であれば抗うことなどできない。
老人が持っている刃を自らの胸に突き刺せと、強く、強く念じる。剣を逆手に持ち替え、切腹する――はずだった。

「――ハァッッ!!!!」

一瞬、一瞬だけ老人の顔が強張った。
しかし、カッと目を見開いた老人は細い体躯から想像もできないほどの大喝を轟かせる。
老人の腹を貫くはずだった刃は、望んだ結果を導くことなく円華へと振りかぶられる。

「ざけんな、死ね、死ね……!なんで死なないんだよぉぉぉぉッ!」

異能が効かない。頼みの綱が切れた。
動転した円華は全力でポリスマグナムを噴射した。が。

「がふっ」

全ては遅かった。
催涙ガスが老人を飲み込む寸前、後方に飛び退りながら老人は腕を一閃した。
老人ではなく円華の腹に、血塗られた刃は突き立った。

「南無三」

老人、八柳藤次郎は目を瞑ったまま呟く。
藤次郎の異能は精神干渉に対しての強い耐性を有する。
円華によって一瞬奪われた体の自由を、剣気を漲らせることで打ち破った藤次郎は、噴射された熊用の催涙スプレーに踏み込む愚を犯さず刀を投げ放った。
刀は過たず円華に命中した。
孫の哉太と同じころの、年端もいかない少女の命を奪う。村を滅ぼすために誰一人として生かしてはおかない、断固たる殺意がそこにあった。

八柳藤次郎の異能は、環円華の異能の天敵だった。
同世代男子を手玉に取る魔性の魅力も、枯れた剣鬼には通じず。
残ったのは血塗れの修羅、ただ一人。

「く、そ、じじ……い……死ね……」
「うむ。いずれ会おうぞ」

恨み言を残して絶命した少女から、藤次郎は刀を引き抜いて鞘に収めた。
小田巻はもはや追えまい。浪費した時間は僅かなれど、痕跡はまるで陽炎のように消えている。
足跡を残さない移動術に加え、足音すら絶無。見事な隠形術だった。
いずれ仕留めねばならない。だが、今は。

「顔を洗いたいな」

催涙スプレーを喰らわなかったとはいえ、匂いは強烈だ。
そもそも血の香りをまとっているのでいまさらだが、数分は鼻も利かない。小田巻がまとう硝煙の匂いを追うことも難しい。
散らばった円華の荷物を回収し、藤次郎は悠然と、次なる獲物を求めて歩き出した。


日が昇りつつある。
まずは二人。
山折村滅殺まで、まだ遠い。


【嵐山 岳 死亡】
【環 円華 死亡】



【B-6/猟師小屋/一日目 早朝】

八柳 藤次郎
[状態]:疲労(小)、血塗れ
[道具]:藤次郎の刀、ザック(手鏡、着火剤付マッチ、食料、熊鈴複数、寝袋、テグス糸、マスク、くくり罠)、小型ザック(ロープ、非常食、水、医療品)、ウエストポーチ(ナイフ、予備の弾丸)
[方針]
基本.:山折村にいる全ての者を殺す。生存者を斬り、ゾンビも斬る。自分も斬る。
1.出会った者を斬る。
2.小田巻真理を警戒。


【C-5/路上/1日目・早朝】

小田巻 真理
[状態]:疲労(中度)、右腕が汚れている、右腕に火傷
[道具]:ライフル銃(残弾5/5)、血のライフル弾(10発)、???(他に武器の類は持っていません)
[方針]
基本.女王感染者を殺して速やかに事態の処理をしたい、が、迷いが生じている。
1.生存を優先する
2.結局のところ自衛隊はどういう方針で動いているのか知りたい
3.八柳藤次郎を排除する手を考える

※まだ自分の異能に気づいていません



052.だいすきが繋ぐ良縁 投下順で読む 054.諦めの理由を求めて
時系列順で読む 055.predator's pleasures
山折村の明日 八柳 藤次郎 山折村血風録・破
小田巻 真理 ギザギザチャートの信頼口座
嵐山 岳 GAME OVER
お前はウソをついている 環 円華 GAME OVER

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最終更新:2023年02月25日 00:58