重圧が押し寄せてくる。
護国の重さが確かな圧力として奥津の心にのしかかってくる。
20年以上にわたり、奥津は軍務に携わってきた。
本当にこれでよかったのか、この決断は正しかったのか?
そんな葛藤に見舞われた機会も数知れず。
けれども、此度突き付けられた選択の重大性は、その経験が児戯に等しく思えるほどのものだ。
背負う責任の大きさ然り、選択による影響範囲の広さ然り、決断までのリミット然り。
過ぎゆく時間に長短はない。
だが奥津にとって、今この瞬間の一秒一秒は、42年の生涯で最も長大な秒間隔と化した。
迅速に下さねばならない判断だ。そんなことは分かっている。
同時に、世界の命運を左右する判断をおいそれとは下せない。
政府の方針に逆らうという点も戸惑うに値する要素だが、さらにもう一つ、奥津を惑わせるに足る要素がある。
SSOGは秩序の守護者。
しかし終里から求められた、情報の漏洩を見過ごせという要求がその正反対に位置するものであることだ。
祖国の秩序を守るためにありとあらゆることをおこなう組織に対して、祖国に混沌をもたらすことを見逃せと研究所は要求しているのだ。
文字に起こせば方針転換と一言で表すことができる内容。
その実はSSOGの存在意義への問いかけである。
これは解のない問いだ。
結果が分かる未来の人間が過去を振り返ってはじめて、その判断が正解だったのか不正解だったのかが分かる類の問いなのだ。
そんな問いに取り掛かるという行為は、己自身を説き伏せることに他ならない。
血も涙もない特殊部隊であっても、
……いや、非情な任務に携わるからこそ、信念に、誇りといった決して揺るがない芯を持つ。
それを動かすのは、他人から見ればくだらないことかもしれないが、本人にとっては並大抵の事態ではない。
国防の意志とSSOGとしての信念が脳を戦場に激しくぶつかり合う。
ひとたびぶつかり合うごとに、脳に深い渓谷が刻まれ、脳皮質が削れ、ニューロンが擦り切れていく。
その負荷の強さはどれほどのものだろう。
仮に奥津がHE-028-Aに感染していたなら、今この場で瞳が金色に輝きだしていたことだろう。
日本最先端の研究所に所属する脳科学のエキスパートであっても、他人の信念までもを支配できようはずがない。
元々寡黙な長谷川のみならず、饒舌な終里も、梁木ですら、この場においてはただ静かに奥津の結論を待つ。
■
時計の長針がたった二度、刻まれただけ。
だが奥津の体感では数時間にも及ぶ葛藤と熟考であった。
それでも結論を出すにはまだピースが足りない。
「結論を出すにあたり、所長殿に確認したいことが二つほど」
「何かね? 話してみるといい。
我々としても、君たちが自発的に協力してくれるのが理想だからね。
そのために助力は惜しまんよ」
「ありがとうございます」
助力を惜しまない。その言葉は終里の偽りなき本心だ。
謀はいくらでも張り巡らせるが、最後は奥津の一声で決定する。
魔王と違って、終里もまた一個人でしかないのだから。
「それではまず一つ目。
『Z計画』の政府側におけるトップは、与党の野倍議員で間違いないでしょうか?」
奥津の口から出た名。与党元幹事長、野倍義雄。
山折村を含む岐阜六区から出馬し、当選回数は二桁超えの超大物議員。
彼は40年以上前に、岐阜のすべての村を繋ぐという公約を掲げて当選した。
そこから現在まで政界に君臨し、今や与党最大派閥を牛耳る永田町の妖怪である。
「ああ、その通りだ。資金面をはじめとして、彼には様々な方面で助力いただいている」
あっさりと終里はこれを認める。
多少頭のまわる人間であれば奥津と同じ答えにたどり着くだろう。
山折村を地盤に含み、様々な公共事業を呼び込んで村々の発展に尽力し、選挙区民からは神のように崇められる男だ。
それほどの男が、ここに及んで研究所とまったく関係ありませんでしたは考えにくい。
「今回のような事態に備え、我々と仔細を取り交わしたのも彼だな。
ひとたび封鎖が始まれば、48時間の猶予を設けたのち、キミたちの手で村ごと抹消することを了承いただいたよ。
悩みに悩んだ末の結論だったようだがね」
終里の回答に、やはりか、と奥津は納得する。
証拠こそないが、彼が関わっている心当たりもある。
たとえば、近年与党を揺るがした大事件、通称裏金問題。
野倍派では3500億円もの献金不記載が発覚して大問題になったが、SSOGですらその資金の流れは追えなかった。
『Z計画』を知った今となっては、その使い道は想像に難くないだろう。
「山折村の公民館にて、彼もまたゾンビとなっていることを確認しています。
まさに政府側の最高責任者が不在の状況、ということですね?」
「見方によってはそう取ることもできるね。
だが、政府にはほかにも大勢の議員がいる。
トップが不在になったところで、そうそう瓦解はせんよ」
確かに『Z計画』の大枠は揺るがないだろう。
ただし、野倍の下では、巷で野倍派五人衆と括られる有力議員たちがしのぎを削っている。
平時ならば集団指導体制のような形式もまた一長一短だ。
だが、この緊急時に意図せず指揮系統が複数に分散する状況は非常によくない。
世界各国がZを前にパワーゲームに勤しむのと同じく、足の引っ張り合いと手柄の奪い合い、不祥事の押し付け合いが始まりかねない。
なるほど、幕僚本部の歯切れが悪かったわけである。
最高責任者不在で突きつけられたうえに、上からの回答が曖昧で、聞く先によって指示が変わる重大案件。
これほど触れたくない案件はない。
「それともう一つ。
『Z計画』については、所長殿から幕僚本部に直接根回しがあったと理解している。
貴方が今回初めて会議の席に着いたのは、政府との連携が一段落ついたからだと考えていますが、まずここまでに相違は?」
「ああ、確かに私は先ほどまで災害対策本部に顔を出していた。
その後、幕僚本部に赴いて、『Z』の件が君たちの知るところになったかもしれないと報告したさ。
まさに針の筵だったな。議員のセンセイ方にも君らの上官にも、ずいぶんと突き上げられたよ」
「おお、怖イ怖イ。
ワタシなら頭を下げられてモ、足を運びたくはないネ」
「所長がそれを意に介するような繊細な心の持ち主だとは思えませんが」
イヤそうに顔を歪めて身を震わせる梁木と対称的に、終里は薄ら笑いを浮かべ、堪えたような様子は一切ない。
もっとも、大袈裟に身を震わせる梁木とて、糾弾を恐れているのではなく、貴重な時間の浪費を嫌がっているだけなのだろう。
長谷川の言う通り、所詮は彼らの半分程度しか生きていない若造の無責任な戯言にすぎないのだ。
「所長殿のお気苦労はしのばれますが、結論として、その場で何かしらの手ごたえを得られたのでは?」
奥津の指摘に終里は口元を僅かに歪める。
この老獪極まる曲者が、中央にパンデミックの現状を報告するためだけにわざわざ足を運ぶだろうか。
これは理屈ではなく、直感だ。
彼は何かしらの勝算を得たからこそ、この会議の席に着いたのだ。
幕僚本部に殴り込んだ当時の奥津は、確かにいささか逸った。
僅かに違和を感じつつも、それは研究所の暗躍によるものだろうと、そちらに理由を結び付けた。
だが、後々思い返せば、上官たちの態度が不可解なのだ。
自衛隊が建前を大切にしている組織であることは理解している。
国防軍ではなく自衛隊と名乗り出したその成り立ちからして、建前だらけの組織だ。
だが実態として、自衛隊という組織は戦時や災害時という緊急時にこそフル稼働を求められる国防の要である。
そんな組織の最高幹部が、一分一秒を争うような緊急時に、殺気だった部下を相手にのらりくらりと時間を稼ぐ態度を取るだろうか。
むしろ上官らは奥津の性格を熟知したうえで、奥津がしびれを切らし、強行手段に出るのを待っている節すらあった。
今回の漏洩は我々の意図するところではない。
意図せざる不運と不幸、すれ違いが積み重なった結果なのだ。
そんな『ポーズ』を欲していたかのようであった。
ちょうど、研究所が『Z計画』の漏洩を事故として片付けようとしているように。
「所長殿。貴方は政府に何を進言したのです?」
奥津の問いは、実際のところ『進言』ではなく『吹き込む』という言葉のほうが正しいのだろう。
語らないことも多いのだろうが、聞けるべき箇所は終里の口から直接聞いておくべきだ。
目を細める奥津に対し、終里は肩をすくめて苦笑する。
「そう睨みつけずともいい。やましいことは一切していないと天に誓おう。
……そうだね。今回のバイオハザードが発生した際に、キミたちの介入がなければ何を観測する予定だったのか。
説明は受けているかね?」
「正式には……」
首を振る奥津。
終里は横目で長谷川に視線を流しながら、顎をあげる。
眼鏡をくいとあげながら長谷川が解説を引き継ぐ。
「『Z計画』本番を見据えたシミュレーションです。
コミュニティの滅亡が告知され、そこに異能という超常現象が加わった時、人々はどのような行動を取るのか?
山折村という一つのコミュニティを日本に見立て、課題点の洗い出しをおこなう予定でした」
世界の滅びに直面した人類たちの縮図、それこそが今日の山折村であると長谷川は解説した。
すなわち。
深夜の放送は世界滅亡の情報漏洩。
48時間のタイムリミットはガンマ線が地球に降り注ぐ終末の日までのカウントダウン。
SSOGによる山折村の空爆はガンマ線の到達によるコミュニティの滅亡。
そして本番さながらの異能の蔓延るコミュニティ、そこに女王を殺せば全員助かるという悪辣な煽動がおこなわれれば、パニックは最高潮に達する。
限りなくリアルな未来の終末空間を再現し、観察することこそが当初の目的だった。
「キミらが映像をうまく編集していたからネエ。
なかなかどうして、そちらのほうは難航していたんだケド……。
生データを入手したことで、こちらもまとまった報告が可能となったのサ」
「そのタイミングで、私から政府に経過を報告したということだ。
怪しい談合などは一切おこなっていないとあらためて誓おう」
第一回でもなく収束後でもない、第三回といういささか半端なタイミングでの会議参加はそういうことだ。
思えば、二回目の会議でSSOGが村にいることを見抜いてきた理由も、
当初の予測からはあまりに大きく外れた結果が観測されたことを怪しんだからなのだろう。
「穢れの溜まりやすい地形なのか、異世界と繋がる土地柄なのか、はたまた魔王本人がひそかに呼び集めていたのかもしれないが。
山折村は厄の溜まり場とでも言おうか、日本国において特に問題人物が集まりやすい場所でね」
「銃キチくんみたいにサ、何を考えているのか分からない人って怖いよネエ。
烏宿くんを前に拳銃を触りながら職務質問を始めたときはワタシも肝を冷やしたヨ」
問題人物が集まりやすいというのは初耳。
だが、真田から山折村の成り立ちとして、似たような調査報告を受けているので驚きはない。
実際、ゾンビ相手に暴力を振るう老人やヤクザ、警官など、ワケの分からない行動を取っている者は幾人かいた。
……銃どころか世界滅亡の引き金に手をかける高レベルの問題行動には軽く眩暈を覚えたが。
「だが、それほどの環境下においても、村民の方々――一般的な国民の大半は実に理性的だったと断言していいだろう。
これにはセンセイ方も結果には幾分安堵していたようだ」
「第二支部に限らず、各支部では地元の人間を雇用し、万が一に備えて要注意人物を探らせリスト化しています。
呪いや魔王の介入までは予測しきれませんでしたが、村人という範囲において埒外の変数はほぼ存在しなかったかと」
第二回の定例会議までの犠牲者を俯瞰すれば、特殊部隊による直接的・間接的な犠牲者と返り討ちに遭った部隊員で約半数。
異能に適応した野生動物に殺害された人物が1/6ほど。そして前科者やすでにマークされていた異常者による殺害が1/3ほどである。
極限状態に陥ったことで市井の人間がパニックを起こし、暴動に発展する。
そのような類の被害は、ゼロではなくとも当初の想定よりも随分少なかった。
女王殺害を狙う強硬策に出る村人もごくわずかにとどまった。
本当に要注意人物のリストから外れていたのは、約二十年にわたり前科を隠し続けた宇野くらいであろう。
「テクノクラート新島の件でもやはり同等の傾向にあったようですね。
巻き込まれた一般人によるパニックや暴動はほぼ起こらなかった、との調査結果が出ています」
国内外を揺るがした一大テロ事件において、やはり大多数の国民は実に理性的に行動していた。
自衛等により犠牲となったゾンビは多いものの、そちらはウイルスに感染しない限りゾンビは発生しようがない。
少なくとも、『Z計画』を公表することで引き起こされる混乱は、ゾンビとは無縁だ。
もちろん、物流やエネルギー問題などの国際間の混乱は別枠で対処する必要はあるのだが。
国内間においては、混乱は制御が効く。
研究所はそういう結論をまとめあげ、報告したのだ。
■
「所長殿と政府間の交渉については、理解しました。
そして、上官殿の煮え切らない態度についてもある程度合点がいった」
「結論を出す一助になったかね?」
各国政府が真実を秘匿しているのは、民衆に公表したことで引き起こされるパニックを恐れてのこと。
その犠牲者は世界で二億人と見込まれる。
途方もない数値ゆえ、それがどれほどのものか実感しにくいが、ちょうど近年起こった世界的パンデミックの感染者数が六億強だ。
これを踏まえれば、リスクを承知で踏み切るには二の足を踏む規模だが……。
当初予測よりもその被害が小さいと分かったならば?
すなわち、終里が中央に囁いた甘言は。
『Z計画』と世界滅亡の事実は、いずれ民衆も知るところとなる。
だが幸い、日本国ではパニックによる被害は最小限に抑えられる試算が出ている。
復興は他国に先駆けておこなえる可能性が高い、と。
この裏の意味はすなわち。
被害を最小限に抑え、復興が早まれば早まるほど、日本はこれからZデーまでの8年間、世界のイニシアティブをとることができる。
ここで他国に差をつけられれば、世界の救済を我が国主導でおこなえる可能性が非常に高まる、ということだ。
これが意味するのは、国際間のパワーゲームで我が国がトップに躍り出るということであり。
強いリーダーシップを取って、混乱からの復旧を速やかに成し遂げた指導者は英雄になる道が確約されているということである。
今、政府の上層部では誰が泥を被り、誰が英雄となるかで爆弾と果実のパスまわしが繰り広げられているのだろう。
『Z計画』の公表後には、中立的な国際機関による調査団が国内に派遣されてくるだろう。
だが総責任者は生物災害そのものに巻き込まれて不在、代理責任者は立てられておらず、集団指導体制により権限もなにもかもが曖昧。
元凶は人智を超えた魔王、実行部隊は国際指名手配を受けたテロリスト、そして後処理の実行部隊は存在しない裏の部隊だ。
謀略の痕跡はどこにも見つからず、不幸による連鎖だという結論に至らざるを得ないだろう。
そうなれば他国は日本を表立って排除することはできない。
世界的パンデミックの発祥となった隣国が、その発端が自然界における事故であったがために国際関係からはじき出されることはなかったのと同じだ。
そして、幕僚本部は奥津に『Z計画』について渋りながらも話した。
口を堅く結ぶでもなく、嬉々として話すでもなく、渋りながらも最後には話したのだ。
研究所が魔王にバイオハザードの引き金を引かせ、スケープゴートにしたのと同じように。
SSOGを『Z計画』漏洩の1ピースとして活用し、万一の時のためのスケープゴートとする目論見が上層部にあるのだろう。
政府は清廉潔白を貫き通さなければならない。
この件について、遠巻きに徹することは必須事項だ。
だから、『Z計画』の漏洩は、憂国の士による告発か事故でなければならないのである。
上層部はこれに明快な回答を寄越してくることは絶対にないだろうが。
■
(……研究所が外国から目を付けられるわけだ)
ハヤブサⅢにブルーバードという大物が送られてきたのも合点がいく。
終里という男はその快活な見た目にそぐわず、情報を意のままに操り、甘言を囁き、ターゲットを掌の上で都合よく踊らせる実に狡猾極まりない男だ。
もし奥津が海外の特殊部隊か機関の所属であれば、この男の抹殺指令を受け取っていたに違いないが、
暗殺を阻止するだけの諜報力と警戒心も兼ね備えているのだろう。
たとえば、長谷川の異能を奥津の目の前で公開したこともそうだ。
あれは、仮に奥津が暗殺などの強硬策を手段の一つとして持っていたとして、それを躊躇させる意味合いがあった。
そのように大胆かつ緻密な策を幾重にも張り巡らせているのが終里という男なのだ。
「そろそろ、質問も打ち止めかな?
答えを聞かせていただきたいのだが」
一通り奥津からの問いに答えたところで、終里が待ちきれぬと催促をおこなう。
「仮に君らが引き受けてくれないのだとすれば、それも一つの結果だ。潔く断念するとしよう。
一枚岩になれないリスクは計り知れないからね」
足並みのそろわない謀略などリスクでしかない。
奥津が断れば、その言葉通り終里はそれを受け入れるだろう。
だが。
「……申し訳ないが、もう一つ、貴方に聞いておかなければならないことができた」
まだ結論にはピースが足りない。
矢継ぎ早に質問を投げかけて会議を引き延ばすのは、あまり褒められた取り組み方ではない。
苦言を呈される言動であることは承知の上だ。
ただ、終里は奥津から有無を言わせぬ迫力を、絶対に答えてもらうぞという圧を感じ取った。
無言で、言葉を続けるように促す。
「仮に我々があなた方への協力を拒んだとしましょう。
そうなれば、あなた方も『Z計画』の公表を断念するとのことですが」
「ああ、つい先ほど回答したとおりだな。疑っているのかね?」
「そこには疑いはない。ですが。
『その次』は、どこへ共謀を持ち掛けるのです?」
一体何度目であろうか。
今ふたたび、応接室の空間が瞬間的に凍ったように、沈黙の帳が降りる。
終里の今回の企みが不発に終わっても。
魔王や政府に対して巧みに情報を出し分け、自在に躍らせてきたその手腕をもって。
まったく別の組織に対して再びアプローチを起こすのだと。
奥津はそう言いのけた。
「ハハハ……」
「ふふふ……」
「……」
梁木が笑う。
終里が笑う。
長谷川は無言で男たちを見つめ。
「はっはっは……」
そして奥津もまた笑う。
応接室に乾いた笑いのアンサンブルが響き渡る。
「ふふふははは……!!」
「はっはっはっはっ!!」
冗談を言ってはいけないヨとの意味を込めて、からから笑っていた梁木は、
他二人のひときわ大きくなった笑声を受け、自らの笑いを止めた。
これは自分の介入する領域ではないと悟った。
「ははは は は は は は は は は は は は は!!」
「はっはっはっはっはっはっはっはっはっ!!」
笑顔は威嚇をルーツにしているという説がある。
その説に従うなら、顔をしわくちゃに歪めて、腹の底から相手を笑い飛ばす二人のオスは、疑いなく相手を威嚇しているのだ。
「ふふふはははははははは は は は は は は は は は は は は は は は は は は っ!!!!」
「はーっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっ!!!!」
声を張り上げて二人の豪傑が笑う。
大口を開けてそこに声圧を乗せ、真正面から殴り合う。
真正面から声圧を受けきる。
仮に『Zデー』が観測ミスで、世界の滅亡が早とちりだったと判明したら、奥津はこの場で終里の頭を撃ち抜いているだろう。
終里という男は、それに足る人間だった。
だが、今は手を出してはならない。
その代わりに、たっぷり三十秒、体中の二酸化炭素をすべて吐き出す勢いで、応接室に笑声が響き渡った。
■
応接室を震わす咆哮が落ち着き、室内は再び静寂に包まれた。
「ふぅぅうう~~~~……」
奥津は白い天井を仰ぎ、愛煙家が身体に染み込ませた煙を放出するように、迷いを体外に放出すべく大きく息を吐き出した。
秩序を壊し、混沌へと叩き込む目論見が研究所から提示された。
その引き金を引くか引かないか。そんな二択問題ではなかったのだ。
いつ、誰が、その引き金を引くのか。
その引き金を引くのはSSOGなのか否か。
SSOGがこれから秩序ある虐殺を引き起こすのか、それとも永遠に蚊帳の外で終末の日を迎えるのか、である。
引き金を引かなければ、以後、二度と核心には立ち入ることはない。
その場合、いずれ来たる終末の日に、何も知らされない国民と共に、SSOGもまた右往左往しながら審判を待ちわびることになる。
果たしてそれは己たちが望む姿か?
そんなもの、答えは一つだ。
腹を括る。
「良いでしょう。あなた方の提案を飲みましょう」
奥津は研究所の手を取った。
■
「奥津くん、君は正しい選択をしたようだ。
全責任をもって、『Z計画』を完遂してご覧にいれよう。
これより我々はパートナーだ。よろしく頼むよ」
秩序の守護者と混沌の体現者。
平時であれば決して混じり合わない性質の二人が手を結ぶ。
それは、世界の危機を前にすべての人類が手を取り合わなければならない状況下における、理想の先例である。
これほど象徴的で相応しい人選はあるまい。
「現場に方針の変更を伝え、現地の隊員とのホットラインを繋ぐよう手配しましょう。
また、ちょうど山折村に滞在し、正常感染者となったジャーナリストが残した記録を回収している。
精査の後、こちらも引き渡しましょう」
「いいネ。ドローンや監視カメラの映像ばかりでは訴求力に些か欠けル。
至近距離で撮られたリアルな映像があれば、世論をより動かしやすくなるだろうネ」
「ただし」
終里と梁木の含み笑いをぴしゃりと遮る。
一通り譲歩を提供した後に、返す刀で差しだされるのはその埋め合わせの要求だ。
「手を組む以上、我々からも要求がある」
研究所のトップ二人に対し、奥津は要求を迫る。
「それは、何かね?」
どんな無理難題が提示されるのか。
身構える終里に対し、奥津が突き付けた要求はたった一語だった。
「 救え 」
奥津の声がいやにはっきりと聞こえた。
彼の声だけが切り取られ、全ての音を上書きしたかのように。
鮮明に。
クリアに。
言葉が届いた。
『 救え 』
たった一語、たった三文字。
それだけの言葉に、途方もない圧が込められていることが分かる。
奥津に常に降りかかる祖国の守護という重みが、その言葉を通して、同席している三人にも浴びせられているのだ。
「何度も言っているように、我々の研究は世界を救うものダ。
世界の他に、何を救えというんだイ?」
「先の未来、『Zデー』を迎えたすべての民を。
一人たりとも取りこぼすことなく」
困惑しながら問いを返す梁木に対し、奥津は言い淀むことなく即答する。
「Zデー当日にゾンビが出るなど論外だ。
確実に生き残れる人間が女王しかいない結果は落第だ。
世界を救うだけなど赤点だ。
救え。
救え!!
『救え』!!!!
Zデーを迎えたすべての国民を救いきってみせろ。
大都市も、地方の村も、山中も、離島も。
老若男女、日本という国土に定住するすべての民を救い切れ!」
秩序を守る組織に混沌への引き金を引かせるのだ。
SSOGの存在意義を根底から揺るがすような行為を見逃させるのだ。
ならば研究所にも同等の覚悟でZデーを迎えてもらわねばならない。
「協力するからには、小細工も汚れ仕事も、裏の仕事の一切を引き受けましょう。
矢面に立つのも結構。
悪党を引き受けるのも結構。
思うがままに使い潰してくださって結構。
あなた方研究者はくだらん陰謀などに一切思考のリソースを割くな」
終里の謀略。長谷川の私設部隊を率いた暗躍。
それらの本来の研究とは関係がない些事である。
これらはすべてSSOGが受け持つゆえ、研究に専念しろと言っているのだ。
「時間という有限のリソースはすべて研究につぎ込んでもらう。
研究にすべてを賭けろ。当初の見込みを超える結果を出して見せろ。
Zデーの予測を、さらなる成果で塗り替えてみせろ!
これが、我々があなた方に協力するにあたって、あなた方に求める条件だ」
しばしの沈黙が降りる。
『地球再生化計画』は種族単位の救済を見越している。
世界中の協力を取り付け、研究が進めばある程度取りこぼしも減るだろうが、
そもそも個々の人間一人一人の救済までは勘定に入れていないのが現状だ。
「一人たりとも取りこぼすな、と来たカ。
高い要求をぶちあげられたものだネ。
コレについてハ、構想がナイわけではないガ……」
異能の指向性を操作し、『Zデー』に有効な異能を大量に生産する構想。
あるいは魔王が生まれた異世界へのゲートを意図的に開き、別世界へ一時避難をする構想。
時間のなさや、『地球再生化計画』との噛み合わなさ、あるいは未知すぎることから見送られた構想たち。
海外の研究との併せ技もあるだろうが、こちらもまだまだ未知数。
まさに無理難題、梁木は難色を示そうとするが……。
「百乃助、いい。その先は私が答える」
開発のトップである梁木がこの場で返答を出してしまえば、その言葉に縛られてしまいかねない。
故に、終里が梁木の言葉を手で制す。
「ここでそれは出来ないといえば、パートナーは解消だな」
けれども、SSOGへ課した要求のように、その存在意義を問うようなものではない。
むしろ逆。研究所の存在意義そのものを突き詰めた要求だ。
ならば臆することは何もない。
「いいだろう。
すべてを救い切る成果を出して御覧に入れよう。
それこそが我々の存在意義なのだから」
終里はそう言い切った。
ここで小細工にはしらず、そう言い切る胆力こそ、研究所を預かる所長に求められる資質の一つである。
奥津と終里が互いに手を差し出す。
ここに今、それぞれの立場を乗り越え、研究所とSSOGの同盟が相成った。
しかし現場ではHE-028-Zが彼らの思惑をはるかに超えた進化を遂げようとしている。
想像を超えた事態に彼らがどう対処するのか、未来はいまだ見通せない。
最終更新:2024年05月11日 13:45