アットウィキロゴ



「《大佐》……?」

 男がベッドサイドを離れる気配に目を覚まし、眠たげな声が筋肉質の背中にかけられた。
 《大佐》と呼ばれた男はいまだに衰えを見せようとしない上半身にシャツを羽織り、ボタンを止める。

「もう、行かれるのですか」

 黒髪の女が目を擦りながらベッドから身を起こし、その背中を見つめた。裸の胸には大きな傷跡があったが、《大佐》はそれに言及する事なくその輪郭をなぞっただけだった。鎮月もまた、黙ってそれを受け入れた。どの道、数日のうちには消えてしまう傷だ。

「いつも言っているだろう、お前のベッドは固過ぎると。私とて肉体の声には耳を傾けねばならん」
「先程は、そうは思えませんでしたが」
「一時の情熱は、往々にして後悔を招くものだ」

 そう言いながら《大佐》は肩を軽く回し、関節が鳴る音に顔をしかめた。

「歳は取りたくないものだ」
「……」
「こんな生活をして長生きできるなどと、初めから期待してはいなかったが」
「死を、意識していますか?」
「私が死んだ後の事を考えていた」
「あなたの遺志は、私が継ぎます」

 その提案を、《大佐》は鼻で笑った。

「シヅキ、お前と私の関係はあくまで契約上のものだ。どちらかが死んだ後まで拘束される事はない」
「でも」
「情に流されるな。お前と私の目的は本質的に違う」
「……」

 制服を身に着け終え、《大佐》は後を振り返る事もなく部屋から出て行った。取り残された鎮月は、シーツをまとって窓際に歩み寄り、夜のイル・シャロムを見下ろした。高層区に並ぶビル群には、夜中にも活動をやめない人々がその存在を誇示するかのように明かりが灯っている。しかし、満艦飾というほどではない。

「かつては……」

 かつては、摩天楼が所狭しと立ち並び、生気に満ちた人々が昼も夜もなく通りを闊歩し、輝かんばかりのエネルギーを発散していた時代もあったのだ。しかし、それは風化した過去の出来事だ。
 過ぎ去ったものが戻る事はない。すべては死んだのだ。記憶の断片がいくら彼女を責め苛んだとて、誰にも退行は許されない。廃墟から何が現れたとしても、それが荒廃によって失われた時を戻す事はない。
 穏やかな空気、平和、流れるような緑の木々、笑いさざめく人々……

「……」

 いつの間にか拳を握り締めていた事に気付き、鎮月は手の力を抜いた。悲しみや怒り、彼女には表現しがたい多くの感情がない交ぜになったこの複雑な心情にどう対処すべきか、彼女はいまだにわからなかった。
 現実は重過ぎる。彼女は窓際を離れ、彼女のために用意された固いベッドへ、音を立てて沈み込んだ。彼女にできる事は、夢への単純な逃避しかなかった。





 ACのコクピットは狭い。とりわけ、運動エネルギー防御型のコアユニットには余計なスペースなど一切なく、閉所恐怖を誘発するほどだ。脱出用の気密スーツを着用しての乗降など、やり方を心得ていなければ確実にどこかに引っかかって身動きが取れなくなるだろう。
 しかし、たった今スーツもなしにコクピットへ滑り込んだ華奢な女には関係のない事だ。
 慣れた手つきで頭上のハッチを閉鎖し、イグニション・スイッチを押し込む。スタータの唸りと共にジェネレータが蘇り、スイッチパネルが明滅した。一息遅れてOSが目を覚まし、通常モードでの起動を告げる。
 彼女は更に酸素供給、ビーコン、緩衝、燃料制御の各トグルスイッチを跳ね上げ、各部の電力供給を確認して接続部をロックした。よく冷えた燃料を注がれたジェネレータが低く歌い始め、うずくまっていた黒い獣が滑らかに立ち上がる。軽くペダルを蹴ると、ブースタノズルはイオンの輝きで応えた。万事問題なし。《バンガード》の整備体制は常に完全だ。帰還から半日足らずで新品同様になる。

「シヅキ中佐、いつも言ってるがな、あんたは無茶苦茶し過ぎなんだ! 少しは機体をいたわってくれ!」

 その足元、ブースタの熱波を避ける位置から、ロシア訛りの怒鳴り声が上がった。鎮月は外部スピーカと下方カメラのスイッチを入れ、つなぎ服を着た男、コンラート・グリエフの姿を確認した。

「グリエフ少佐、私はこれでも機体の損傷は避けているつもりですが」
「その『つもり』だから機体をぶっ壊すんだろうが! 学習しろ、そいつはトンカチじゃねえ、精密機械だ!」
「しかし、ブーストチャージは立派な攻撃手段でしょう」
「やり過ぎだ馬鹿野郎! それとな、出撃がないならさっさと降りてくれ、仕事の邪魔だ!」

 鎮月はアイドリングのままコクピットを開放し、するりと這い出して場所を空けた。入れ替わりにキャットウォークを伝ってきた整備隊員が乗り込み、鎮月が足元を離れた事を確認してから格納位置へと《ウォーハート》を移動させた。
 降りてきた鎮月を見てコンラートは鼻を鳴らし、格納庫の奥に見える《鳳》を指差して言った。

「見ろ、あんたが率先して馬鹿をやるから下の連中もそいつを真似しやがる」
「彼には機体構成の再検討を薦めた方がいいかも知れませんね」
「あいつだけじゃない、他の連中もだ。不必要な接近戦をやりたがるのは素人だと、何度言ったらわかる」
「ええ、覚えておきます」

 コンラートはもう一度鼻を鳴らし、雑な身振りでそれ以上用のない事を示した。鎮月は肩をすくめ、格納庫を後にした。途中《鳳》の様子を見に来たらしいコルヴスとすれ違ったが、彼女はその物問いたげな視線には応えず、軽く会釈をして通り過ぎた。会見の時間が近かった。





 《財団》が指定したのは、鎮月の私室からもそう離れていない、高層区にある会議室の一つだった。鎮月はその手前で《大佐》と合流した。《大佐》が歩きながら腕時計を確認する……予定時刻ちょうどだ。鎮月は時計の類を持っていなかったが、彼女はそもそも時計を必要としなかった。

「スミスは見かけたか」
「いえ、私の知る限りでは……誰も見ていないようですが」
「そうか」

 二人は無人の会議室に入る。ジョン・スミス……財団唯一の窓口は、あまり大勢の前に姿を現そうとしないのが常だった。
 《大佐》が窓際に歩み寄り、自らの支配する都市を黙然と見下ろした。鎮月は素早く室内の安全を確認する。

「いやあ失礼、遅れてしまいました、どうも」

 背後からかけられた声に、鎮月はとっさにインサイドホルスターから銃を抜いた。突きつけた銃口の先には、予想通りスーツ姿の営業社員じみた男、ジョン・スミスがいた。しかしいくら予想していたといっても、彼女の行動はほとんど反射のようなものだった。

「鎮月中佐、どうかそのように警戒なさらないで頂けますか。私めと申せども、武器を向けられるのはあまり愉快なものでは」
「どうやって入ってきたんです」
「どうと申しましても……そちらのドアを通って」

 彼が手で示したドアは閉まっていた。そして、鎮月はドアの開閉に気付かなかった──彼女の五感は大抵の人間より鋭いにも関わらず。彼女は穏やかならぬ内心をできるだけ表情に出さないよう注意しつつ、拳銃をスラックスの中へと戻した。

「よい銃をお持ちでございますね。懐かしのデトニクス……ディフェンダー・スライドにノヴァク・サイトですな。もしやGI弾仕様で?」
「……ええ、まあ」
「流石、鎮月中佐は並大抵の腕の持ち主ではございませんな」
「そんな事よりもスミス、情報はどうした」
「ええ、《大佐》、無論お持ちしております」
「……シヅキ、ここしばらく砂漠方面が騒がしいのは、昨日見てきたお前にもよくわかるだろう」
「はい。あの程度の拠点にACが駐屯しているのは珍しいですね」
「つい最近、《ノマド》の連中が大物を掘り当てたという報告がある──《財団》を通してではないが。我々は《ノマド》のような連中に特殊兵器を──それがどんな代物であれ──振り回させるつもりはないし、彼らも今回は我々に同意するようだ」
「今回? いえいえとんでもない、私どもはいつでも支援を惜しみません」

 ジョンは笑顔を崩さず、鎮月の冷ややかな視線を受けてもまったく動じない。それが更に鎮月の神経を逆撫でした。

「それで、《ノマド》が特殊兵器を発掘したという情報について、《財団》は確認しているのですか?」
「確認しております。もっとも、いまだ種別の特定には到っておりませんが」
「稼動する見込みは?」
「ない……とは申せませんな。完全な状態には程遠くとも、砲台の一つでも動けばそれなりの脅威になるでしょう」
「彼らの動きは」
「発掘現場から目をそらさせようというつもりなのでしょう、イル・シャロムへの攻撃準備を進めている隊が一つ」
「現場の防衛体制は」
「彼らにしては厳重ですが、外部に知らせるわけにはいかないと、そういう事でしょうな。傭兵は用いず、身内の戦力で固めているようです──詳細はこちらに」

 鎮月はジョンが差し出した端末用の記録素子を受け取り、一瞥してポケットに収めた。《大佐》は無表情にその様子を見守っていたが、目顔でジョンに出口を示した。

「スミス、それで終わりか。用がなければ……」
「ええ、ええ、無論でございます。グレイス嬢との面会の約束もありますので、私はこれにて」

 ジョンが一礼し、踵を返して退室した。今度は間違いなくドアを通って出て行った──が、即座にドアを開けた鎮月が廊下の左右を見回しても、その姿はどこにも見当たらなかった。廊下は一直線で、どこにも隠れる場所などないにも関わらず。

「シヅキ、スミスはそこまで警戒する相手か?」
「あの男は私の名前を正確に発音できるんです」
「……」
「ありえない事です。彼が、私を──本当に知っているのでない限り」

 会議室の窓越しに見える空は明るく、不安をかき立てるものは何もない。しかし、室内の空気はひどく冷たく、重苦しかった。








タグ:

神父 VD未対応
最終更新:2012年05月16日 02:14