投稿者:怨是
この時間、蜥蜴重工社屋の更衣室は、仕事を終えた社員、契約社員、パートが一堂に会する為に、いつも騒がしい。今日も例外ではなかった。
「ったく、冗談じゃない。どうなってるのよ一体」
空色のロッカー扉を乱暴に閉めながら、バイト女は同僚らの目も憚らず口元を歪め、吐き捨てた。ロッカーの中には今し方乱雑に詰め込まれた書類のコピー――“書類”と云ってもパルプから精製したものではなく、合成樹脂を薄く伸ばした再生紙である――などが放り込まれ、ロッカーの扉の隙間から苦しげに存在を主張していたが、バイト女はそれには目もくれずに、煙草に火を点した。
この更衣室は喫煙所も兼ねている。建築に用いる材料を可能な限り切り詰めた結果、かつては存在していたであろうモラルすらも形骸化した無法地帯と化してしまった。
「例の、報酬の件かな」
先輩社員が尋ねてきた。というよりは、バイト女が彼女に聞こえるように独り言を呟いてみせた結果、それに返答してくれた。バイト女は常日頃からどうにも人間関係に不器用であり、誰かに「ねぇ聞いてよ」などといった切り口で愚痴を零すなど出来なかったのだ。先輩も長い付き合いでそれを知っているのか、今回もバイト女のサインに反応を示してくれたという訳だ。
「そ。上層部の連中と来たら“他のミグラントとの争いになっては困る。今回は相手に譲ってやれ”だそうよ。どんだけ弱腰なのよ、もう!」
先日の出撃について、バイト女は事の顛末を余すところなく報告した。グッドマンに録音して貰った通信記録まで証拠品として提出し、自分が乗っていたヘリが被弾した時の実に“可愛らしい”悲鳴までもを聞かれて尚、羞恥心を押し殺しながら努めて冷静に報告した。その我ながら涙ぐましい努力にも拘わらず、上層部の出した答えがこれだ。幾ら草食系を謳うと云っても限度というものはあっても良い。そんな体たらくだから、今では落ちぶれて単なる下請け業者に成り下がってしまったのだ。社員の数は年々減っており、今では創設当初から在籍していた数十名が大半を占める有様だ。
「そうカリカリしなさんな。クビは免れたんだろ?」
「何とかね。でも赤字のまんまよ結局」
「次で取り返せばいいじゃないか。ねぇ、ウェンディ?」
「え、あ、うん……」
不意に名前を呼ばれ、少し戸惑った。そういえば、自分には名前があった。ウェンディ。こんな自分には些か不釣り合いな、可憐な名前じゃないか。
いや、ただ……これは正確に云うと本名ではなかった気がする。もっと気難しい名前だった気がした。それは気のせいか? この蜥蜴重工への採用面接の際に提出した履歴書に書いた名前が本名だった筈だ。
待った。その名前も咄嗟に考えて書いたものだったと思う。何故に名前を偽ったのか、その理由を定かには思い出せない。然程重大な理由ではなかったという事か。否、そうでない事も考えられる。ハイスクールで呼ばれていた名前も……うん? 待った。物心が付いた頃には、生活苦を理由にアルバイト三昧の毎日を過ごしていたか。だから“バイトのねーちゃん”というあだ名は学校でも使われていたし、別段、違和感を覚える局面に出会った事が無い。学校で教師に指名される事も無かった。
あれ、では私は誰だ。何者だったか。何処で生まれて誰に育てられたのか。IDカードは名前の部分が綺麗なままで、純血を保っている。それは間違いなく記憶している。
――きっとバイトのねーちゃんだと呼びづらいから、みんなウェンディと呼んでくるのかな。まぁ、いいか。どっちでも。
思考が匙を投げると同時に、全身の力が途絶え、両膝と右肩に強烈な痛み、それから程なくして頬に冷たい感触が現れた。視界が黒々と塗り潰されるのに反比例して、周囲の喧噪は勢いを増していた。その内容が耳に入った所で、記憶される事なく消え去った。
見覚えのある部屋の天井だ。
なるほど、気絶したのか。情けない。随分と脆弱な身体で生まれてきたものだ。そのくせ目が覚めるとすぐに状況を掴み取れる冷静さには、自分で云うのも何だが、恐れ入る。
「お目覚めかい」
同僚の声に振り向いた。と云っても上半身を起こすだけの気力は残って居らず、首と視線だけを同僚に寄越す体勢でだ。
「びっくりしたよ。いきなりぶっ倒れるんだもん」
「……あぁ、ごめんね」
頭が割れるように痛い。ここ数日、碌に寝もしないで激務を続けてきたせいだろうか。残業代に釣られてがむしゃらにやってきたのが、却って仇となったらしい。
「その具合じゃ立ち上がるのも厳しそうだね。おぶってく? 寮に居た方がくつろげるでしょ」
「大丈夫よ。流石にそこまでさせちゃったら悪いわ。あんたヘルニア持ちだし」
「そうだっけ。そうだった! いやいや、情けない話だよねェ! 完治する前に無茶やってまたブッ壊して、今度は再起不能なんてさ。重たい物運べるの、女性社員じゃ私くらいだったのにさ」
「みんな可愛い子ぶって持とうとしないだけよ。どいつもこいつも、お姫様を演じれば王子様がやってくるとでも思ってるんだわ」
人としての醜さと向き合えず、人形じみた無機質な綺麗さを好む者を、ウェンディは心の底から憎悪した。名を偽り、声を偽り、時には整形で身体を作り替え外見までをも偽るなど。とはいえ対岸の火事ではない。寧ろ自分にもそういった節があるからこそ、同類に対して嫌悪感を抱く。
逆に先輩社員の女は、斯様な要素を一切持ち合わせないが故に、好感が持てるのだ。ある種の憧れ――というよりは無い物ねだりに近かった。
「今の時代、強い女の方がモテる気がするんだけどね。だって、みんな自分の身を守るので精一杯じゃん。政府軍ならまだしも、バンガードは統率が取れてないせいで賊共に街を攻め込まれても守ってくれないしさ」
「こういうご時世にもね、命を賭けてでも酔狂を満喫したい馬鹿野郎はごまんと居るわ。あんたもその内、身を以て味わう事になるわよ」
「……」
先輩社員は見るからに嫌そうな表情だ。口元の歪みと眉間の皺が今まで見た事も無い程に深まっている。
「でもまぁ、あんたは何でもそつなくこなすし、意外といい所に収まるんじゃないかしら」
「ミス・オールラウンダーのウェンディちゃんに云われると、マジでそんな気がしてきたな」
「……思ったんだけどさ」
「ん?」
「私、ウェンディって名前で本当に合ってるのかな。自分の名前じゃなくて、誰かから奪った様な、そんな気がするの」
その日が丁度水曜日だったので“Wednesday”から何文字か抜いて“Wendy”……そういう単純な理由で思い付いた様な気もした。だがそれ以上に、ウェンディという名前を名乗るべき、その名に相応しい者が他に居て、名前を、存在ごと奪っている様な気がしてならないのだ。ここ最近毎日の様に服用している、安物の睡眠薬の副作用で頭がおかしくなっているのだろうか。第三者からすれば突拍子も無い考えばかりなのは自覚していた。
先輩は肩を震わせて笑い出した。
「何それ! 気のせいだって! 大体、名前なんてのはどれも昔の人達からの借り物だしね。今を時めく映画俳優のミハイル・バトロフだって、ファーストネームは聖書辺りから取ったって云うし。あと
スティーヴ・サウンド・ショーのニコラウスだって確か由来はその辺でしょ?」
「そう考えると、私達のアイデンティティって、随分と薄い氷の上に成り立ってるのね……」
名前も顔も声も変えたら、それこそDNA鑑定でも受けねば特定できまい。近頃は指紋すら変えてしまう技術があるらしい。この時代に於いて、その人をその人たるものにする要素と云えば、一体何があるというのか。記憶か? 否、それも何かの衝撃で吹き飛んでしまえば「別人である」という理屈になってしまう。個を個たらしめる要素など、結局はどれも脆いものばかりではなかろうか。
「暗い。暗いなぁ、ウェンディちゃん。そんな姿を妹分のライラが見たらまた山ほどスイーツ喰わされちまうぞ」
「やめてよ……思い出すだけで胸焼けしそう」
ライラ。フルネームで
ライラ・パトリック。赤みがかった金髪と、冬の空の様に淡い碧眼の、背が低い整備士の女だ。ひょんな事から知り合って、蜥蜴重工では事務員として雇った。結局、適性審査を経て整備部門への異動となったが、部署の違う今でも何かと絡む事が多い。恐らくは腐れ縁じみた関係になりつつあるのだろう。ショートテイルをどうやっても憎めないのは、あの二人に何処か似通った部分があるせいだ。
「なになに?! あたしの話?!」
扉を勢い良く開けて出て来たのは、そのライラ本人だ。柑橘系コロンの爽やかな香りが鼻をくすぐる。その中にアルコールの臭気まで混じっているのは、彼女が呑んできたからだろう。
「噂をすれば何とやら。ライラのお出ましだ」
「うわ、ホントに来ちゃったよ……」
「ライラが来たら駄目なのか! おいっ、バカヤロッ!」
ライラがウェンディの肩を何度も叩き、けらけらと笑う。正直、頭痛が悪化するので止めて欲しい。
「っていうかなんでいっつも来る度来る度、酒臭いのよあんたは」
二日酔いどころか、完全に酔っ払ってるだろ。どうせまた甘ったるいカクテルを山ほど呑んだに違いない。これで太らないのは空調の効きが悪いガレージで毎日汗水塗れになりながら作業をしているからか。
「あったぼうよー、こちとら二次会帰りの二日酔いだもんよお前ぇーばーろー!」
いかん。肩に来る振動が、そろそろまずい。
「吐くからやめて。割とマジで」
「はーい。ゴミ袋は?」
「要らないわよ。酔っ払いじゃないんだから」
「またまたぁ、そうやってこの前駅のホームでゲロをちびったのは――おっと、電話だぜ」
嫌な記憶が脳裏を過ぎる。あれは確か、久しぶりに上等な酒にありつけると喜び勇んでいたせいで、呑み過ぎてしまったのだ。吐き気のぶり返すウェンディを余所に、ライラは携帯電話をポケットから取り出す。
「はいーもしもし? ライラです。あ、お疲れ様ですぅー。修理の依頼? ご冗談でしょう! あたしが休みなのはシフト担当のあなた様がよくご存じじゃありませんか。なに、あたしをご指名とな。しょーがないですねぇー……残業代と氏名料は出ます? 後、あれ。あたしの大好きなマロンペーストの缶詰」
電話越しにジェスチャーは伝わらないだろうに。などと、先輩に目配せする。先輩も苦笑しながらそれに答えてくれた。
「うはっ、マジっすか! 依頼人の名前は最初から出して下さいよもう! オッケーオッケー、今すぐ行きます。ごちそうさまでーす!」
ライラは電話を畳みながら、作業服の袖を捲り始めた。
「ふぅ。イル・シャロム・ミュージックチャンネル予約録画しといて良かったぜぃ」
それから舌を少しぺろりと出しながらウィンクするのは、彼女がこれから仕事を始める合図の様なものだ。と、この前彼女が得意気に語っていた。問題は酒が入っているのに仕事が出来るのかという所だ。
「誰から?」
「あぁ、うちの部署の人からだね。メリルの機体がブッ壊れたから全面修理だって。こりゃあ朝まで掛かりそうだ」
「メリル、メリル……あぁ、メリアドールの事?」
在野の傭兵で、尚且つ面識もあまり無いので詳しい事はよく知らないが、ライラは仲良くしているのだろう。ライラの頬の僅かな綻びを、ウェンディは見逃さなかった。彼女といい、ショートテイルといい、何故か知り合いは皆、交友関係が広い。別に羨ましいという訳ではない。ただ、胸中のもやもやした何かが一向に取れないのだ。
「そうそう。じゃ、行ってきまー」
「はいはいー」
ライラは医務室の扉を開け、廊下へと消える。ぱたぱたと鳴るサンダルの音は、彼女の体重が如何に軽いかを物語っている様で、何だかもの哀しい。
「相変わらず人気者よね」
「整備の腕で云ったら誰よりもいいからね。愛嬌もあるし」
「後は酒癖さえ直せば、男も寄ってくるのに。まぁ、人の心配する前に、私らも早いところ身を固めておかないとだけど」
「まぁ、ねぇ。はは……」
二十歳を過ぎればあっという間だ。ついこの前までハイスクールで馬鹿騒ぎしていた筈が、その内、老後の心配までせねばならなくなる。
「玉の輿でも狙ってみたいな」
ウェンディは呟きつつも、胸中で自嘲した。
場末の小さなミグラント集団に身を置いている以上、それは高望みに過ぎるというものだ。
最終更新:2012年07月19日 01:38