(参考文献:フリー百科事典Wikipedia、『哲学のすすめ(岩崎武雄)』『倫理とは何か-猫のアインジヒトの挑戦-(永井均)』)
『幸福』という概念についての考え方の一つ。快楽主義では、幸福を感覚的な快楽と捉え、これを産出する行為を正しい・善いとみなす。ここでは倫理的快楽主義について述べる。これはつまり、人間は快楽を産出する行為をなすべきである、という規範である。
そのなすべき行為のために考慮する快楽が自分自身のものだけであるか(利己主義)、当該行為に関わる人々すべてのものであるか(
功利主義)で区別される。
エピクロスの主張
エピクロスは、幸福を人生の目的とした。これは人生の目的を徳として、幸福はその結果に過ぎないとしたストア派の反対である。
倫理に関してエピクロスは「快楽こそが善であり人生の目的だ」という考えを中心に置いた主張を行っており、彼の立場は一般的に快楽主義という名前で呼ばれている。ここで注意すべきは、彼の快楽主義は帰結主義的なそれであって、快楽のみを追い求めることが無条件に是とされるものではない点が重要である。すなわち、ある行為によって生じる快楽に比して、その後に生じる不快が大きくなる場合には、その行為は選択すべきでない、と彼は主張したのである。
より詳しく彼の主張を追うと、彼は欲求を、自然で必要な欲求(たとえば友情、健康、食事、衣服、住居を求める欲求)、自然だが不必要な欲求(たとえば大邸宅、豪華な食事、贅沢な生活)、自然でもなく必要でもない欲求(たとえば名声、権力)、の三つに分類し、このうち自然で必要な欲求だけを追求し、苦痛や恐怖から自由な生活を送ることが良いと主張し、こうして生じる「平静な心(アタラクシア)」を追求することが善だと規定した。こうした理想を実現しようとして開いたのが「庭園」とよばれる共同生活の場を兼ねた学園であったが、そこでの自足的生活は一般社会との関わりを忌避することによって成立していたため、その自己充足的、閉鎖的な特性についてストア派から激しく批判されることになった。
このようにエピクロスによる快楽主義は、自然で必要な欲望のみが満たされる生活を是とする思想であったが、しばしば欲望充足のみを追求するような放埒な生活を肯定する思想だと誤解されるようになった。しかしこうした生活については、エピクロス自身によって「メノイケウス宛の手紙」の中で、放埒あるいは性的放縦な享楽的生活では快がもたらされないとして否定的な評価が与えられている。
エピクロスとエピクロス派は最も有名な古代の快楽主義者である。だが、エピクロスの快楽主義は、単に感覚的な快楽を追い求める立場ではない。単に快楽を追求したとしても、得られる快楽が一時的なものであれば、それがなくなったとき、過剰になったとき、また更に強い快楽を求めたくなったときなどに、快楽を求める自分に反するために不快を感じてしまう。そこで、一時的ではない、永続的な快楽への追及について言及する。だが、このときもまた快楽が得られなかったとき、不快が生じてくる。そこで、積極的に快楽を求めることをやめ、むしろいかなる事態においても不快を感じない平静な心をもたねばならないと主張するのだ。
功利主義
快楽主義を主張し社会の原理として提唱したのがベンサムの功利主義である。彼は、快楽を強度、持続性、確実性、遠近性など七つの尺度で計算できるとし、その総計を社会全体において最大化する(最大多数の最大幸福)行為を善悪の基準とみなした。
J.S.ミルはベンサムの快楽主義を修正し、快楽にも質の差(高卑)があり単純には計算できないとする質的快楽主義を主張した。
快楽主義への批判
快楽主義のパラドクス
行為に結果として付随するはずの快楽そのものを目的として得ようと努力すればするほどかえって快楽を得るのは難しくなる、という逆説。
例えば、スポーツで最も快い瞬間は脇目もふらずそれに打ち込んでいる時であるが、快楽を気にしすぎていてはスポーツに熱中できず、従って快楽を目指していない時のほうがかえって多量の快楽を得ることが出来る、というもの。
快楽機械
永遠に最高度の快楽を与えられ続ける機械が発明されたなら、快楽主義者は死ぬまで快楽機械を使い続けるのか、という批判。哲学者には悩ましい批判である。
自然主義的誤謬
G.E.ムーアは、善を自然物によって定義する態度を自然主義的誤謬と呼び批判した。快楽主義は「善とは快である」とする倫理学説であるので自然主義的誤謬にあたる。
最終更新:2011年09月30日 17:14