哲学の年表まとめ

墨子_1

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第一 親士

「国を得て入国しても、その国の士人の立場を考えなければ、その国は亡ぶ。賢人に会って直ちに任用しないと賢人は君王に暇をとる。賢人でなければ急事に対することが出来ず、士人でなければ共に国事を諮ることは出来ない。賢人に暇を取らせ士人を忘れて、それでも十分にその国を保った者は、未だかつていない。
昔、文公は国を出奔したが、後に天下を正した。斉の桓公は国を去ったが、後に諸侯に覇をなした。越王句践は呉王の辱めに遇うが、それでも中国の諸侯を恐れさせた。三人は十分に名を上げ功績を天下に成し遂げたが、皆、その本国では抑えられ、大いに辱めを受けた。大上(古代の聖王)には失敗は無いが、その次の者は失敗してもそれでも成功することはある。これを、『これは民を用いたから』と言うのである。
私はこのことを聞いて、『安住する場所が無いのではない、私に安住する心がないからなのだ。財貨が足りないのではなく、私に持っている財貨に満足する心が無いからなのだ。』と思う。だから、君子は自らが難き事を為し他の人に易き事を為させるが、君子以外の人たちは、自らは易き事を為し他の人に難き事を為させる。君子は自ら進んでその志に敗けず、内にその情熱を究める。凡庸な人々に交わっていても決してものごとが成らないことを怨む心を持たない。君子は自らの信じるものがあるからである。だから難きところのものを為す者は、必ずその欲するものを得る。未だ、その欲するところのものを為して、その悪むものごとから免れた者がいたことを聞いたことが無い。
だから佞臣は君主を傷ね、諂う臣下は御上を傷ねる。君主には必ずたびたび異議を唱える家臣がおり、御上には必ず声を上げて異議を唱える臣下がいる。対案を提議する者は途切れることなく声を上げ、敬意を表しつつ異議を唱える。これにより人民の命を長くし国を保つことが出来る。臣下がその爵位を保つことを重んじて異議を言わず、君主に近き臣下は口をつぐみ、君主と疎遠の臣下が黙り込めば、政治の怨嗟は人民の心に結ぶ。諂いは君主の側に在って善議が障塞すればその国の安定は危うい。桀王や紂王が滅んだのは天下の賢者がいなかったからではなく、その天下の賢者どもを殺して天下を葬った。それで、国に宝を帰するには賢者を献じ、士人を推薦することが最上だと言うのである。
ここに五本の錐が有り、それは鋭利であるが、鋭利であるものは必ず先に使われ折れる。ここに五本の刀があり、それはよく研ぎ磨かれているが、研ぎ磨かれたものは必ず先に使われすり減る。これと同じように良き水質の井戸は最初に汲み尽くされ、人を呼び寄せるような高木は最初に切り倒され、霊妙な亀は最初に占いでその甲羅を焼かれ、神霊があるとされる蛇は引きずりだされて人々の前に曝される。同じような理由で、紂王を諫めた比干が殺されたのは紂王に反抗したからだ。生きている牛の角を引き抜くほどの勇猛な孟賁が殺されたのはその勇猛だからだ。越王句践の妃の西施が長江に沈められたのはその絶世の美貌により句践王に見いだされて愛されたからだ。楚の政治家の呉起が車裂の刑に遭ったのは自らその統治方法を定めたからだ。このようにこれらの人たちは、その他人より長じていることにより死んだのである。それで人々は『大盛は守り難し』と言うのだ。
賢君でも功の無い臣下を大切にはしない。慈愛ある父でも益の無い子を大切にはしない。それとおなじように、その任に応えられないのにその地位に居るのは、その地位に居るべき人ではない。その爵に応えられないのにその爵の俸禄に居るのは、その俸禄に値する主ではない。良い弓は張りにくいが、しかしながらその矢は高くに届き深くに入ることが出来る。良い馬は乗りにくいが重い荷を背負い遠くに行くことが出来る。良才ある人は命令通りには使いにくいが、その君主に礼を致し民に君主が尊き人物と見せることが出来るのだ。
このようなわけで、揚子江や黄河は小さい谷川が大河である己に流れ込むのを嫌がらないから、あのように大きい。聖人は物事を辞退することは無く、物事を為すに間違うことはない、だからあのように天下が受け入れる器なのだ。このような理由で揚子江や黄河の水は一つの源の水ではない。千金の値の皮衣は一匹の狐の白き皮だけではない。それならばどうして同じ意見や思想を持つ者だけを登用するだろうか、同じ意見や思想を持つ者だけを登用するだけは、それは天下を兼ねる君王の道ではないのだ。このようなわけで、天地は光に満ちず、大河の水は澄まず、大いなる火は焼き尽くさず、君王の徳は高しとはならない。すなわち、千人の長である。ただまっすぐなのはただ矢のようで、平らなのはただ砥石のようでは、それだけでは君王の徳として万物を覆うには足らない。このようだから、谷川の狭い流れの水はすぐに涸れ、流れの浅い川の水はすぐに尽き、石ころだらけの畑には作物が育たない。大河のような周囲のものをも集めた王者の厚い恵みが宮中を流れていなければ、国中に厚い恵みが流れることは出来ないのだ。」と。

第二 修身

「君子は戦いには陣立ての方策があると言うが、それでも勇気を根本とするものだ。服喪には礼法があると言うが、それでも哀悼を根本とするものだ。士人には学問があると言うが、それでも実行を根本とするものだ。このようなわけで目標とする根本を定めることが確固としていないときに、些末なものを豊かにすることに努力してはいけない。近くの関係者に親しみを持たないときに、遠い関係者を仲間として呼び寄せることに努力してはいけない。親戚が従わないときに、外交に努力してはいけない。一つのことが決着していないときに、多くのことに努力してはいけない。一つのものごとの理解が不確かなときに、博識を得ることに努力してはいけない。
このようなわけで先の時代の君王の天下の統治をみると、必ず関係が近い者を観察してから関係が遠い者を呼び寄せ、君子とは関係が近い者を観察してからその関係が近い者を戒めるのである。その君子に近い者が己の行いを戒めないのを見、その者が他人を誹るのを見れば、これを君子自らの身に振り返ってみる者である。このようだから人に怨まれることが少なく、そして君子自らの行いを戒めるのだ。誹り罵る言葉、これを耳に入れることは無く、激しく批判する声、これを口に出すことは無い、人を殺傷するような心根、これを心に宿すことは無い、偽りの訴えをする人がいたとしても、それを受け付ける寄る辺はない。
だから君子は物事に努力することに、日々、励み、欲する願い事は日々に成就し、壮士を得ることは日々に大勢である。君子の道とは、貧しき中に清廉の行いを見、富める中に義の行いを見、生活の中に愛しむ行いを見、死したときに哀悼を見る。この君主の四つの行いは他人から借りられるものではない。これは、わが身を反省するから得られるものである。心に愛しむ心を持っている者は、その愛しむ心を使い尽くすことは無い。恭順に身を動かす者は、その恭順を使い尽くすことはない。善言を口に出す者は、その善言を言い尽くすことはない。これを手足の先まで及ぼし、これを肌の表面まで行き渡らせ、白髪・禿頭の老人となっても、それでも務めることを止めない、このような人を聖人と呼ぶべきだろう。
志が強くなければ学識は上達せず、言葉が信実でなければ行いは目的を果たせない。財貨に固執して人に分け与えることの出来ない者は、その者と友となるに値しない。道理を守ることが篤実でなく、物事を識別することが十分でなく、是非を論ずることが明確でない者は、その者と交遊するに値しない。根本が堅固でない者は、末端は必ず危うく、勇気はあるのに身を正さないものは、その後には必ず怠け、源が濁っている川の流れは清くなく、行いに信義がない者の名声は必ず破綻し、名声は由なくして生まれず、名誉は訳なくして騰がらない。功績が成って名声がついてくる。名誉は人から借りてくるものではなく、それはわが身に反省するからである。言論につとめても実行をおろそかにすると、弁じても必ず人々からその弁論は聞き入れられない。努力を多くしても功績を無用に誇れば、苦労をしたとしても必ずその功績は取り上げられない。知恵者は心の中に多弁であっても口うるさく論説をせず、努力を多くしても功績を無用に誇らない、それで名誉は天下に騰がる。言論の人は多弁を行うことに努力するが、しかしながら物事を知ることに努力することはなく、文飾を為すことに努力するが、しかしながら物事を察することに努力することはない。
そのために物事を知ることを理解することが無く、それがわが身にあれば怠けてしまい、士人たる道に反するものである。善言も心に確かなものが無い者は善言が身に留まらず、行動も身に是非を分別する弁論が備わって無い者は世に立てない。名声は簡単容易の手段で成してはいけない、名誉は技巧を凝らして世に立ててはいけない、君子はわが身を持って行動に移す者なのだ。民の利益を思うことを常日頃のこととし、名誉を忘れることは何ともないこととして、その姿をもって天下の士人となることが出来た者は、未だかっていたことが無い。」と言う。

第三 所染

「子墨子が言われたことがあり、糸を染める者を見て、ため息を漏らし嘆じて言われたことには、『青に染めると糸は青に、黄色に染めれば糸は黄色になる。糸を染めるために入れる染料の容器を変えれば、その糸の色もまた変わる。糸を五つの染料の容器に入れれば、糸の思いとは関係なく、五つの色となる。だから、糸を染めるには慎重でなくてはいけない。』と。
ただ、糸を染めることだけがそうなのではない、国もまた染まること(=感化されること)がある。舜王は許由と伯陽とに染み、禹王は皋陶と伯益とに染み、湯王は伊尹と仲虺とに染み、武王は太公と周公とに染まった。この四人の王を染めたものは染めた人物が当を得ていて、それで天下の王となり、立って天子となり、功名は天地を覆った。天下の仁義の明らかな人を挙げるときは、必ずこの四人の王の者の名を称える。
夏朝の桀王は干辛と推哆とに染み、殷朝の紂王は崇侯と悪来とに染み、厲王は厲公の長父と榮の夷終とに染み、幽王は傅公夷と蔡公穀とに染まった。この四人の王を染めたものは染めた人物が当を得ておらず、そのために国は戦いに敗残し、わが身は殺されて、天下の恥辱となった。天下の不義理で恥辱の人の名を挙げるときは、必ずこの四人の王の者の名を称える。齊国の桓王は管仲と鮑叔とに染み、晋国の文王は舅犯と高偃とに染み、楚国の莊王は孫叔と沈尹とに染み、呉国の闔閭公は伍員と文義とに染み、越国の句踐王は范蠡大夫種に染まった。この五人の君の者を染めたものは染めた人物が当を得ており、そのために諸侯に覇者となり、功名は後世に伝わった。范吉射は長柳朔と王胜とに染み、中行寅は籍秦と高剛に染み、呉夫差は王孫雒と太宰嚭とに染み、知伯搖は智國と張武とに染み、中山尚は魏義と偃長とに染み、宋康は唐鞅と佃不禮に染まった。この六人の君の者を染めたものは染めた人物が当を得ておらず、そのために國家は滅亡し、わが身は死刑となり、宗廟は破滅され、子孫は断絶し、君臣は離散し、民人は流亡した。天下の貪欲で暴虐で過酷で人心を乱す者の名を挙げるときは、必ずこの六人の君の名を称える。
およそ君主が安泰である理由は、何だろうか。その行動は道理をもって行い、行動が道理に染まることが当を得ているかどうかは、君主の性格である。そのために立派な君主と為る者は人物を見定めることに苦労するが、しかしながら見定め登用した官僚たちを管理・監視することには専念しない。君主に相応しくない者は見たままの有り様に心を痛ませ、神を祀ることに精神を費やし、心に愁いを持ち、人の意見を取り上げることに苦労するが、それでも国はますます危うくなり、わが身はますます辱められる。あの辱められた六人の君は、その国を大切にし、その身を愛しまなかったのではない、物事の要諦を知らなかったためなのだ。物事の要諦を知らない者は、染まることに当を得ていないのである。ただ、国だけが染まることに当を得るのではない、士もまた染まることに当を得ることはある。その友人の皆は仁義を好み、恭順で謹厳な性格で君主の命令を畏れれば、その士の家は日に日に富は増し、その身も日に日に安らかになり、名声は日に日に良くなり評判は上がり、官僚になっては官の為すべき道理に適う、ちょうど、段干木、禽子、傅説らの人たちがこのような士の姿である。他方、その友人の皆は地位におごることを好み尊大な姿で、自分勝手に創作比周の振る舞いをすれば、その士の家は日に日に富を損じ、その身は日に日に危うく、名声は日に日に悪評に辱められ、官僚になっては官の為すべき道理を失う。ちょうど、子西、易牙、豎刀らの人たちがこのような士の姿である。詩に『必ずまさるところを択び、必ずまさるところを慎む。』と言うのは、このことを言ったのである。」と。

第四 法儀

子墨子が言われたことがある、『天下の物事に従事する者は、法儀(=法理と儀礼)の心得がなければいけない。法儀の心得がなくてその物事に従事して十分に物事が達成した者がいたことはない。士人が将軍・宰相に相応しい者に育ったといっても、皆、法理は有る。各種の職人たちが物事に従事する者に育ったといっても、皆、法理は有る。各種の職人たちは矩形を示す曲尺の道具で正方形の直角を作り、定規を使って等半径の円形を描き、直線は平らな板の衡(さし)を用いて得、水平は水盛と縄を用いて得、まっすぐな垂直線は下げ振りの縣を用いて得る。巧みな工人とそうでない工人とで区別はなく、皆、この五つの方法をもって法理としている。技量の優れた者は上手にこの五法を用い、技量の優れない者はこの五法を上手く使いこなすことが出来ないとしても、法理に従って物事に従事するならば、やはり、法理がないよりは良い。それで各種の職人たちが物事に従事するときは、皆、法理を用いるのである。』と。
今、偉大な者は天下を治め、次の者は大国を治めるが、ところが法理を用いることが無い。これは各種の職人たちが法理をわきまえていることにも劣る。それでは何をもって国を治める法(規範)とすればよいのであろうか。もし、皆が、その父母の教えでもって国を治める法とすればどうだろうかと言うだろうが、天下に父母となる者は多いけども仁者は少ない。もし、皆がその父母の教えを法として従うならば、これは不仁の法となる。不仁の法をもって国の法と為すことは出来ない。もし、皆が国を治める法を学者の法でもってすればどうだろうかと言うだろうが、天下に学者となる者は多いけども仁者は少ない。もし、皆が国の法をその学者の法でもって従うならば、これは不仁の法となる。不仁の法でもって国の法と為すことは出来ない。それでは皆はその君主の法でもってすればどうだろうかと言うだろうが、天下に君主となる者は多いけども仁者は少ない。もし、皆がその君主の法に従うならば、これは不仁の法となる。不仁の法でもって国の法と為すことは出来ない。このようなことで、父母、学者、君主の三者の法は、それをもって国を治める法と為すことは出来ないのだ。
それでは何をもって国を治める法と為すのが良いのであろうか。それは天の法を国の法とするのが最も良いと言うことだ。天の行動は広遠で私事が無く、その施行は厚いのであるがそれを為したこと自体を己の徳とはしない、その明文は永久で時代の流れの中で衰えず、そのために聖王は天の法を国の法とする。既に天の法をもって国の法と為したときには、行動や作為を為すときは必ず天の法にはかり、天の法が求めることはこれを行い、天の法が求めないときはこれを行わない。それでは天の法は何を求め、何を嫌悪するのであろうか。天の法は必ず人が互いに愛しみ、互いに利することを求め、一方、人が互いに嫌悪し、互いに害することを求めない。どうして天の法は人が互いに愛しみ、互いに利することを求め、一方、人が互いに嫌悪し、互いに害することを求めないことを知ったのか。それはともに尊重して互いに愛しみ、ともに尊重して互いに利するからである。どのようにして天の法はともに尊重して互いに愛しみ、ともに尊重して互いに利することを知ったのか。それは互いがともに尊重することで互いの関係を保ち、ともに尊重することで互いを養うからである。
今、仮に、天下は大小の国の区別は無く、皆、天の邑だとする。人に幼長貴賤は無く、皆、天の臣下だとする。このとき、人は羊や牛を養い、犬や猪を飼い、清浄なる御酒や供物を作り、それをもって謹んで天に仕えるであろう。これはともに尊重することで互いに関係を保ち、ともに尊重することで互いに養うことを為すためではないだろうか。天の法は実にともに尊重することにより互いの関係を保ち、互いを養う。さて、どのようなことを論評すれば、人が互いに愛しみ、互いに利することを為さないのであろうか。それで人は言うのである、『人を愛しみ、人に利を与える者は、天は必ずこのような人に福を与え、人を憎悪し、人に害を与える者は、天は必ずこのような人に災いを与える。』と。人は言うのである、『罪なき人を殺した者は不祥を得る。』と。さて、どのようなことを評論すれば、人は互いに殺すことを為し、このことにより天の法はその人に災いを与え無いことを為さないのだろうか。このようなことにより、天の法は人が互いに愛しみ、互いに利することを求め、そして、人が互いに憎悪し、互いに害を与えることを求めないことを知るのである。
昔、聖王の禹王、湯王、文王、武王は、天下の百姓をともに愛しみ、民を率いて天を尊び鬼神に仕え、その国の人に利することは多かった、そのため天はこの王たちに福を与え、立てて天子と為し、天下の諸侯の皆はこの王たちに謹んで仕えた。暴王の桀王、紂王、幽王、厲王は、天下の百姓をともに憎悪し、民を率いて天を誹り、鬼神を侮り、その国の人を害することは多かった。そのために天はこの王たちに災いを与え、災いに落としてその國家を失わせ、その己の身は死して天下に辱めを受けた。後世の民の子孫はこの王たちを誹って、今に至るまで止まない。このように不善を為して災いを得る者は、桀王、紂王、幽王、厲王がそれである。人を愛しみ、人を利して福を得た者は、禹王、湯王、文王、武王がそれである。人を愛しみ、人を利して福を得た者がおり、人を憎悪し人を害して災いを得た者もまたいるのである。

第五 七患


子墨子が言われたことがある、国には七つの患がある。七つの患とは何であろうか。城郭やその城郭を囲む溝池が不備で守備に堪えないのに、まず、宮殿を造営するのは一つ目の患である。周辺国の敵が国境に押し寄せても隣国を救わないのは二つ目の患である。もっぱら民力を無用の事業に尽くし、無能の人に恩賞を賜与し、民力を無用に費やし、財宝を賓客の接待に使い果たすことは三つ目の患である。仕官する者は俸禄に固執し、遊説に来る者の見た目を愛し、君主は法律を整えて臣下を討伐し、臣下は君主を恐れて敢えて忠言をしないのは四つ目の患である。君主は自らを優れた知恵ある者と思い臣下に物事の是非を問わず、自ら己が国境は安全だと思って守備をすること無く、周辺の隣国が侵略を企てても警戒をすることを知らないことは五つ目の患である。信じる相手は忠なる相手では無く、忠なる相手を信じないことは六つ目の患である。家畜や穀物は食を養うのに十分でなく、大臣は任用するに能力が足らず、恩賞を臣下に賜与するも十分に喜ばせることが出来ず、誅罰も犯罪を企むことを脅すことが出来ないことは七つ目の患である。七つの患を抱える君主が国に居れば、必ず国家の社稷は無くなり、七つの患を抱えながら城を守れば、敵は攻め至って国は傾く。七つの患に当面するとき、国には必ずわざわいがある。
およそ五穀の実りは、民が天に仰ぎ願うものであり、君主が民を養うことを為す根源である。そのために民が五穀の実りを(既に諦め)天に仰ぎ願うことが無ければ、その時、君主が民を養うことは無く、民が食うことが出来なければ、君主は民を使うことが出来ない。だから食料を得ることに努めなければならず、大地の耕作に努めなければならず、費用は節約に努めなければならない。五穀がすべて収穫できれば、五味はそのすべてを君主の食卓にすすめ、五穀のすべてが収穫できなければ、五味のそのすべてを君主の食卓にすすめることは出来ない。五穀のうちの一穀が収穫できなければこれを饉と言い、二穀が収穫できなければこれを旱と言い、三穀が収穫できなければこれを凶と言い、四穀が収穫できなければこれを餽と言い、五穀が収穫できなければこれを饑と言う。その年が饉であれば、任用した者の内の大夫以下の皆の俸禄の五分の一を減らし、旱であれば五分の二を減らし、凶であれば五分の三を減らし、餽であれば五分の四を減らし、饑であれば俸禄の支給を止めて、食料を支給して終わりとする。だから凶饑が国を襲えば、人の君主たる者は五鼎の料理の内の五分の三を減らし、大夫は音楽をたしなむことを止め、士人は大学に入学せず、君主の朝服の衣は改めて作らず、諸侯の客や近隣国からの使いを饗応しても盛大に行わず、馬車には添え馬を付けることを止め、道路の草を刈らず、馬に粟を食わせず、婢妾に絹の衣を着せない。これは民に窮乏を告げる方法である。
今、仮にその子を背負って水を汲む者がおり、その子を井戸の中に落とすならば、その母は必ず井戸の中に入って子を引き上げる。今、仮にその年が凶作で民は餓え路上に餓死しようとしているならば、この苦しみは母がその子を井戸に落とすことよりも重大である。この対策を考えないで良いことであろうか。そのため、時にその年が豊作であれば、民の気持ちは仁でありひとまずは良好である。時にその年が凶作であれば、民の気持ちは貪欲であり同時に悪化する。さて、民の心のどれが常のものなのであろうか。耕作する農夫は病の床に沈み、食料を求める人は多いと、その年は豊作とはならない。それで言うのである、『財が足りなければ生産の時に立ち返り、食料が足りなければ使用方法に立ち返る。』と。それで先の時代の民は時節を測って財を生産し、需給の基本を守ることを堅固にして、財を使用したから財は足りたのである。
そのようなことであったため、世上の聖王と言っても、どうして五穀を常に収穫し干ばつや水害の損害がないようにすることが出来たのであろうか。そうでありながら、凍えたり飢餓したりする民がいなかったのはどうしてだろうか。それは、その時節に応じて生産することに努力することを励み、自らを養い倹約したからである。それで夏の時代の書に言うには、『禹王の時代に七年の水害があった。』と。殷の時代の書に言うには、『湯王の時代に五年の干ばつがあった。』と。これによれば、その凶饑に遭遇することは甚だしかった。そうでありながら民が凍えたり飢餓したりしなかったのは、どうしてだろう。その財を生産する計画を密にし、その生産物を使用することに節度があったからである。
このようなため、蔵に粟の備蓄が無ければ、ただ、凶饑の年を待ってはいけない。兵器庫に兵士への武器の備えが無ければ、己に相手を討つ正義が有ったとしても正義が無い者を征伐することは出来ない。城郭の備えが完全でなければ、自らを守ることは出来ない。心に物事への配慮する備えが無ければ、急場に対処することは出来ない。かの剛勇とされた慶忌のようであったとしても状況に応じて退く心の準備が無ければ、軽々しく進撃することは出来ない。それで、桀王に湯王の進撃への対峙する備えが無いために、それにより放逐された。紂王は武王の進撃への対峙する備えが無いために、それにより殺された。桀王や紂王は貴いことには位は天子となり、富の支配は天下に有った、しかしながら、その皆は支配地が百里四方の小国の君によって滅亡させられたのは、どうしてだろうか。富貴にありながら備えをなさなかったからである。
だから、備えは国家の重要事項なのだ。食料は国の宝である。軍備は国の爪である。城は自らを守るものである。この三つのものは国の備えである。だから子墨子が言われたことには、『最上の褒賞を功績の無い者に賜与し、その国の倉庫を空にして車馬、衣服、珍奇な品物を揃え、労働者を苦しめて王宮や観劇場を建設し、死ねば葬儀に華美盛大な棺槨を作り、多くの葬儀に衣装を整える。生きているときには楼閣を建造し、死してはまた墳墓を築く。このため、民は外敵に苦しみ、国の倉庫は内向きの行事に費やし、上の者はその楽しみに飽きることはなく、下の者はその苦しみに耐えられない。このため、国は外敵の攻撃があれば損害を受け、民は凶饑の年に遭えば死んでしまう。これは、皆、備えを備えていないための罪である。』と。まさにその備えの食料は聖人の宝とするものである。それで、周の時代の書に言うに、『国に三年の食料の備蓄が無い時は、国王はその国の国王ではない。家に三年の食料の備蓄が無い時は、子はその家の子ではない。』と。このありさまを、国備と言う。

第六 辭過


子墨子が言われたことがある、『古代の民がまだ建物を作ることを知らなかった時代、丘陵に住み着いて居り、穴を掘って宿り、住居の下は湿って民の健康を損ねた。そこで聖王は王の位に就いて建物を作った。』と。建物の建設の方法は、伝えて言うには、『建物の高さは湿気を防ぐのに足り、建物の壁は風寒を防ぐのに足り、屋上は雪霜雨露を保持するのに足り、王宮の垣根の高さは男女の礼に従って男女を分けるのに足り、この程度であれば十分だ』と。およそ、財を費やし民の力を労しても利益を得られないものは行わなかった。民に賦役を課してその城郭を整備しても、民はその賦役に苦労をしても害悪とはならず、一定の税率の決まりで租税を徴収すれば、民は出費となっても重税との思いに悩まない。民が苦しむのはこの様では無く、税率を厚くして百姓から税を取り立てることに苦しむのである。このために聖王は王宮を建設して、生活の便宜を為したが、王宮を荘厳にして観て楽しむことはしなかった。衣服・帯・履をつくって、身体の便宜を為したが、珍奇な器物は作らなかった。このように身に節度を保ち、それを民に教え、そしてそれを天下の民が心得ることで政治を治めるべきで、財の使いようを心得て充足すべきである。
当代の君主の、その王宮を作る様はこれとは異なる。必ず税率を厚くして百姓から重税を取り立て、民の衣服や食料を暴奪し、その税収で王宮の楼閣・望楼の眺めや、青・黄と美しく彫刻の飾りを作る。王宮を建設する様はこれと同じ様だ。このため左右の臣下の皆はこれを己の建物を作るときのやり方として真似ねる。このようにしてその国の財は凶饑の来襲に備えることや、孤児や寡婦の生活を賑わすには足らず、そのため国は貧しいので民を統治することは難しい。君主がまことに天下の治世を求め、そしてその統治の乱れることを憎むなら、王宮を建設することに節度を持たなければならない。
古代の民が未だ衣服を作ることを知らなかった時代、動物の皮を着て縄を帯とし、冬にはその皮の服は軽くもなく暖かくも無いし、夏には軽くもなく涼しくもなかった。聖王は、皮の服は人の求めるものにそぐわないと思い、それで婦人に教えて絹糸や麻糸を広め、麻布や絹布を織り、それで民の服を作らせた。衣服を作るやり方は、冬にはねり絹の中衣を着、軽く暖かくするのに足り、夏には葛布の中衣を着、軽く涼しくすれば足りるとし、この程度であれば十分とした。それにしたがい、聖王は衣服を作り、身体に衣服の大きさが合い肌に馴染むと足りるとした。耳や目の周りを飾り愚民に君主の衣服の華美を観せるものではなかった。その当時は堅牢な馬車や良馬も他のものよりも特段に貴ぶことを知らず、技巧の彫刻や優れた文飾を持つことも他のものをもつよりも特段に喜ぶことを知らなかった。それがどうしてかと言うと、その当時の民の生活が古代の民の生活、そのままだったからだ。民の衣食の財が家ごとに干ばつや水害からの凶饑の時の備えに足りたのはどうしてなのだろうか。それは民が自らの生活を行っていく実情を心得ていて、その生活の枠の外のことに感化されなかったからだ。このようであったからその時代の民は倹約をし、そして統治しやすく、その時代の君主は財を使用するのに節度があり財は充足しやすかった。国の倉庫は宝で満ち、変事の備えに足りた。兵卒への武器は充足し、士と民は苦労せず、服従せるべき敵を征伐するに足りた。それで聖王は覇王の事業を天下に行うことが出来た。
当代の君主は、その衣服を作る様はこれとは異なる。冬には軽くて暖かく、夏には軽く涼しい、これらはすでに当代の衣服に備わっている。君主は必ず税率を厚くして百姓から重税を取り立て、民の衣食の財を暴奪し、その税収で綾錦の美しく色彩豊かな衣を作り、黄金を鋳て帯金を作り、珠玉を使って佩び玉を作り、女の工人は綾模様の飾り物を作り、男の工人は彫刻の飾り物を作り、それを君主の服装とする。これらは冬に暖かいとの気持ちを増すことがあるわけではない。財を費やし民の労働を労するが、ことごとくこれらは無用のものに帰するのである。これらのことから君王の行う様を眺めると、その衣服を作るのは身体のためではない、それらすべては見栄えを良くするためのもので、このようなことのためにその国の民の感情は淫らで邪となるので統治は困難となり、その国の君主は自らが奢侈であるのでそのような民を諫めることは困難だ。それは奢侈な君主により淫らで邪な民を上手に治め、国が乱れることが無いようにと願っても、それは出来ないことである。君主がまことに天下が治世となることを願い、世が乱れることを憎むのなら、衣服を作ることに節制をしないわけにはいかない。
古代の民が未だ飲食の調理をすることを知らなかった時代、食材そのままを食し、分散して住んでいた、それで聖人は料理を作り、男たちに耕作播種や果樹園芸の技術を教え、民に食文化を作らせた。その食文化を作るにおいて、食欲を増し空腹を満たし、体を強くし腹を満たすのに足りればそれで止めた。そのためにその財を使用することに節度があり、その財で自らを養うことに倹約があるので、民は富み、国は治まった。
今はそうではなく、税率を厚くして百姓から重税を取り立て、その税収で牛羊の料理や犬豚の料理の美食、魚介類を蒸したり焼いたりする料理を行い、大国は料理の皿を百器も並べ、小国は十器も並べ、その量は集う人々の目の前に一丈四方の広さであり、一目ですべてを視ることは出来ないほどで、手ですべてを取って食することは出来ないほどで、口ですべてを味わい尽くすことは出来ないほどで、冬は料理が寒さで凍りつき、夏は料理が腐敗してすっぱくなった。人々の君主が飲食の料理を行うことはこのありさまなので、それで左右の臣下は君主の例にならった。このようなありさまなので富貴な人々は奢侈になり、孤児や寡婦の人々は凍え餓え、政治が乱れないことを望んでも、それは実現できない。君主がまことに天下が治世となることを願い、世が乱れることを憎むなら、飲食を調理することに節度を持たなければならない。
古代の民が未だ舟や車を作ることを知らなかった時代、重い荷物は移動させず、運搬では遠い路程は取らなかった。それで民の中から聖王が生まれて舟や車を作り、それにより民の仕事を便利にした。その舟や車を作るには、安全で堅固にして軽くて利便性があり、そのため重い荷物を載せて遠くに運ぶことが出来、それを作るときに財を使用する量は少ないが、利を得ることは多かった。それで民はこれを喜んで使用した。貨物輸送の方法を法令で厳しく指導しなくても行われ、民は苦労することなく、上の者はそれを貨物輸送に使用することに足り、それで民は君主の指導に従った。
当代の君主の舟や車を作る様はこれとは違う。安全で堅固にして軽くて利便性があることは既に備わっているが、君主は必ず税率を厚くして百姓から重税を取り立て、その税収で舟や車を飾り立てる。車を飾り立てるには綾錦で色鮮やかにし、舟を飾り立てるには美しい彫刻をもってし、女子は紡織を行うのを止め、綾錦を作り納入し、そのために民は衣服が不足して冬に寒い。男子は耕作や農作業を止め、美しい彫刻を作り納入し、そのために民は餓える。人民の君主が舟や車を作ることはこのようなありさまなので、それで左右の臣下は君主の例にならい、そのためにその国の民は餓えや寒さがそろってやって来ると、それで民は犯罪を起こすのである。犯罪が多ければそれを防止する刑罰の規則は重くなり、刑罰の程度が重くなれば国の治安は乱れる。君主がまことに天下の治世を願いその国の世が乱れるのを憎むならば、舟や車を作るときには節度がなければならない。
およそ、天地の間をめぐり、四海の内を包む、天上大地の情欲、陰陽の和合、それらが存在しないわけはない。至聖といえども、これらの情欲を改めることは出来ない。どうして、それを知ることが出来たのか。それは聖人の伝えることが有って、『天地とは上下であり、四時とは陰陽であり、人情とは男女であり、禽獣とは牡牝雄雌なのだ。まことに天上大地の情欲は、先の時代の聖王にその情欲はあれども、改めることは出来なかった。』と。上代の時代の至聖であっても必ず情欲を己が心に差し挟むが、それで自らの行いをそこねることはなく、そのため民は至聖の行いを怨むことはなかった。宮中に生涯身分を拘束された美女の宮女はおらず、それで天下に寡夫はいない。宮殿の内に拘女はおらず、宮殿の外に寡夫はいない、それで天下の民は多いのだ。
当代の君主の、情欲を己が心に差し挟むその姿からは、大国では生涯身分を拘束された美女の宮女は千人を越え、小国では百人を越え、このために天下の男の多くは独身者で妻が無く、女の多くは宮殿の内に拘束されて夫を持てず、男女は子を生す時節を失い、それで民は少ない。君主はまことに民が多くなることを願うならば、その国の独り者を憎み、まことに情欲を己が心に差し挟むことに節度をもたなければならない。
およそ、この、建築・衣服・食事・乗物・性欲の五つのことは、聖人は倹約と節度をなすところのもので、小人は快楽におぼれるところのものである。倹約と節度を保てば国は盛んになり、快楽におぼれると国は亡ぶ。この五つのことには節度を持たなければならない。夫婦が節度を保てば天地は和らぎ、風雨に節度があれば五穀は熟し、衣服に節度があれば肌は和らぐ。

第七 三辯

程繁が子墨子に問いて言うことには、「先生は次のように言う、『聖王は楽の儀礼を行わない。』と。昔の諸侯は統治の物事を聴衆することに疲れると鐘や鼓の音楽に憩いをとり、士大夫は統治の物事を聴衆することに疲れると竽や瑟の音楽に憩いを取り、農夫は春に耕し、夏に作物を収穫し、秋に税を納め、冬に穀物・家畜を納屋に収容すると、瓶や木箱を叩いて音楽に憩いを取る。今、先生は次のように言う、『聖王は楽の儀礼を行わない。』と。これはこの説明を例えれば、馬に乗って楽をせず、弓を張って矢を射ないことと同じです。これでは血気盛んな者では従うことが出来ないのではないでしょうか。」と。
子墨子が言われたことには、『昔の堯王や舜王は茅葺屋根の家に住むことがあったが、それでも儀礼を行い、楽の儀礼を行った。湯王は桀王を大海の辺に放逐し、天下を巡らし自ら立って王となり、事業は成り功名は立ち、大いなる後患は無く、先の王の楽の儀礼にならって、また自ら楽の儀礼を作り、それを名付けて「護」と言う。また、九招の楽の儀礼を整えた。武王は殷に勝ち紂王を殺し、天下を巡らして自ら立って王となり、事業は成り功名は立つ、大いなる後患は無く、先の王の楽の儀礼にならって、また自ら楽の儀礼を作り、それを名付けて、「象」と言う。周の成王は先の王の楽の儀礼にならって、また自ら楽の儀礼を作り、それを名付けて「騶虞」と言う。周の成王が天下を治める様は、武王に及ばず。武王が天下を治める様は、成湯王に及ばず。成湯王が天下を治める様は、堯王や舜王に及ばない。だから其の楽の儀礼がますます煩雑になったときに、その時代の統治はだんだんと貧しくなったのだ。このことからこれらのことがらを観れば、楽の儀礼は天下を治める手段ではないのだ。』と。
程繁が言うには、「先生が語るところでは、『聖王に楽は無い。』と。ところが、先生が語るこれらのすべてに音楽の種類はたくさんあります、このようなありさまは、いったい何なのでしょうか、それでも先生は『聖王に楽は無い』と言います。」と。子墨子が言うことには、『聖王の命題なのだ。煩雑ならばこれを簡略化する。食べ物の利点として、餓えた時に食べ物を食べることを知ることは知恵であるが、食べ物を食べること自体は知恵を持たないのと同じだ。今、聖王に楽の儀礼はあるが、それは簡素化されていて、それはまた食べ物の例と同じで、無いことと同じなのだ。』と。

第八 尚賢上

子墨子が語って言われたことがある、『今、君王諸公大人で政治を国家に行う者は、皆、国家は富み、人民は多く、刑法の施行が適切であることを願う。然しながら、意に反して国家は富みを得ないで貧困となり、人民は多くと願っても人民は少なく、治安を願っても戦乱に遭う。つまり、本来のその者が願うことを失って、その者が嫌うことを得る。このそのような理由はなんであろうか。』と。
子墨子が語って言われたことがある、『これは君王諸公大人で政治を国家に行う者が、賢者を尊び有能者を使って政治を行うが、その成果を得ない状況にあるからである。これから判ることは国に賢者や有能な者が多くいれば国家の統治は手厚くなり、賢者や有能な者が少なければ国家の統治は手薄くなる。このため君王諸公大人の責務は賢人や有能な者を多くすることにあり、それだけなのだ。』と。
では賢人を多くする方法はどうすればよいのでしょうか。子墨子が語って言われたことがある、『例えば、もし、その国で弓の射撃が巧みな兵士を多くしたいと願う者がするように、まず、その弓の射撃が巧みな兵士に十分な報酬を与え、この兵士に高い身分を与え、この兵士を尊敬し、この兵士に名誉を与えれば、これにより次第に国で弓の射撃が巧みな兵士を得ることが出来、そして多くの人数になるだろう。では、弓の射撃が巧みな兵士と同じように賢者や有能の者で、その徳の行いが手厚く、理路整然と言論を陳べ、学芸への学識が豊かな人物を得ることは出来るであろうか、このような人物は国家の貴重な宝であり、国運の助けである。例とした有能な兵士と同じようにこのような人物に十分な報酬を与え、相応しい身分を与え、優遇し、名誉を与えれば、これにより次第に国の有能な人物を得ることが出来、そして多くの人数になるだろう。』と。
このようなことで、古代の聖王が政治を行うについて、語って言われたことには、『正義がなければ賞与を与えず、正義がなければ高い位を与えず、正義がなければ友人関係を結ばず、正義がなければ身近に寄せ付けない。この施政により国中は富むので、身分が高い人はこれを聞き、皆、君王の前から引き下がって相談して言うには、最初、我々が頼りとしたものは富みと身分が高い人だ、今、お上は正義を掲げて貧賤の者を差別しない、それならば我々は正義をしないわけにはいかない。君王の身近な者がこれを聞き、君王の前から引き下がって相談して言うには、最初、我々が頼りにするものは近親の関係だが、今、お上は正義を掲げて血縁の疎遠の者を差別しない。それならば我々は正義をしないわけにはいかない。近習の者はこれを聞き、君王の前から引き下がって相談して言うには、最初、我々の頼むところは近習であることだ、今、お上は正義を掲げて関係が遠い者も差別しない。それならば正義をしないわけにはいかない。君王との関係が遠い者がこれを聞いて、君王の前から引き下がって相談して言うには、我々は最初、君王は関係が遠い者は頼りにしないと思った。今、お上は正義を掲げて関係が遠い者も差別をしない、それならば我々は正義をしないわけにはいかない。遠い鄙や郊外に居住する臣、王城の守衛、領土内の民衆、国境辺地の住民に及ぶまでこの話を聞き、皆は競って正義を行った。その理由は何であろうか。お上が下の者を使う方法はまず事実である、下の者がお上に仕える方法はまず実践である。例えば、富める者が高い塀や奥深い家も持っているとしよう。塀はすでに家の周囲に巡らせ、一か所、門を作り、盗賊がその門から入ったところで門を閉めて盗賊を捕まえようとすると、盗賊はその塀の内から逃れ出ることは無い。この理由は何であろうか。それはお上が要点を知っていたからである。
それで古代の聖王は統治を行うとき、多くの有徳の人を集め、そして賢者を優遇し、農民、職人や商人の身分の人であっても、有能であればこれを取り上げ、身分を高くして爵位を与え、重く俸禄を与え、任命は実績をもって行い、処罰のために法令を与えた。爵位が高くなければ民は官人を尊敬せず、俸禄・処遇が手厚くなければ民は官人を信用せず、政令により処罰をしなければ民は官人を畏れない。この三つのものを挙げて賢者に授けるのは、賢者の為に賜ったのではない、賢者の政治を行うことが成功することを願うからである。それでこの時代にあたって、有徳によって官僚の列に就け、官職によって職務に服させ、功労によって褒賞を定め、勲功の軽重を量って俸禄を分け与えた。このため官人には固定された身分・階級は無く、おなじように民に固定された賤明階級は無く、有能であればこの者を職階に取り上げ、無能であればその者を下の職階に落とした。『公義を挙げて、私怨を退ける。』と。この言葉は、このようなことを言うのだ。
かくて、古代の堯王は舜を服沢の陽の地域から引き上げて政治を委任し、天下は平穏であった。禹王は益を陰方の内の地域から引き上げて政治を委任し、九つの州(くに)を統合した。湯王は伊尹を厨房で働く者の中から引き上げて政治を委任し、その政治目的は成った。文王は閎夭と泰顛を漁場で働く者の中から引き上げて政治を委任し、西の国々を征服した。このようにそのような王君が政治を行う時には、厚禄や尊位にあるその君王の臣下であっても、君王の施政を敬い懼れて職務を行わない者は無く、農民、職人や商人の職にある人であっても、競い励んで官途に就くことへの願いを誉めないものはいない。それで志を持つ者は君王の補佐や官吏となってしかるべきものなのだ。だから、志を持つ者を得れば政治を行うに困らず、君王の体は苦労せず、名声は立ち功名は成るのである。善行は世に知られ悪行は生まれない、これは志を持つ者を得たことによる。
これらのことにより子墨子は語って言われたことには、『すでに志を持つ者を得たからと、新たに賢者や士人を任用しないことをしてはいけない。今でも志を持つ者を得ないからと、新たに賢者や士人を任用しないことをしてはいけない。さらに堯王、舜王、禹王や湯王の政治の要諦を受け継ぎたいと願うのであれば、賢者を優遇しないわけにはいかない。賢者を優遇することは政治の根本だからなのだ。』と。

第九 尚賢中

子墨子が語って言われたことがある、『今、君王公爵大人が人民の君主となり、国家の社稷の祀りごとの神主となり、国家を治め、永久に国家を保って失うことがないことを願うなら、どうして賢者を優遇することが政治の根本であることを理解しないのだろうか。』と。では、どのような理由で賢者を優遇することが政治の根本であることが判るのだろうか。言われたことには、『自らは志が貴く智能のある者がその統治を愚かで志が賤しい者に行えば政治は治まるが、自らは愚かで志が賤しい者が統治を志が貴く智能ある者に行えば政治は乱れる。このことから、賢者を優遇することが政治の根本であることが判るのだ。』と。
従って古代の聖王は高度に賢者を優遇し、そこから有能者を任用して使い、血縁の父兄に任用を片寄らせず、登用を身分や財産の貴富者に偏向せず、顔かたちの美形に惹かれず、賢者を引き上げて、この者を官職に上らせ、富ませてこの者の地位を貴くし、官職の長に任命し、不肖の子は立場を抑えて継承権を廃し、引き継ぐ財産は少なくして身分は賤民として徒役の従事者とした。この様子を見て民の皆はその褒賞を求めて勧業し、その罰を畏れ、ともども賢者になろうとした。このために賢者は多く、不肖の者は少なく、そして注意深く官職を与えた。これを『能力者を使う』と言うのだ。つまり、国を治めるべき者は国を治めさせ、官職の長官となるべき者は官職の長とし、邑を治めるべき者は邑を治めさせる。およそ、国家、官庁府、邑里を治めるべき者、これらの者は、皆、国の賢者なのだ。
賢者が国を治める姿とは、朝早く登庁し夕刻遅く退庁し、犯罪の訴状を聴き政事を治め、それにより国家は治まり刑法は正しく行われる。賢者が官職の長となる姿とは、夜に寝て早朝に起き、市場、山林、河沼の収入利益を取り立てて、官庁府の財政を満たし、それにより官庁府の倉庫は満ち、財貨は散失しない。賢者が邑を治める姿とは、朝早く家を出て夕刻には家に入り、田畑を耕作し、果樹園芸を行い、豆や穀物の生産を多くし、それにより民は食うに不足は無い。このようにして国家は治まり刑法は正しく行われ、官庁府の倉庫が満ちていれば万民は豊かになる。上の者(統治者)にあっては清浄に御酒や供物を調度し、それで天神・鬼神を祭祀することを行い、外政では贈呈物を調度して、四隣の諸侯と交際を行い、内政では飢饉に備えて食料を蓄え労働者に憩いを与え、まことに万民を養うことが出来る。対外では、それで天下の賢人たちがその統治に懐いて来る者が現れる。このような状況により、統治にあっては天神や鬼神が統治者を富まし、外政では諸侯は統治者に組みし、内政では万民は統治者に親しみ、賢者は統治者に帰依し、このような状況で物事を計画すれば成果を得られ、事業を起こせば成功し、外敵に対し守りに入れば防衛は固く、敵の誅罰に出撃すれば兵は強い。このため、昔の夏朝・殷朝・周朝の三代の時代の聖王の堯王、舜王、禹王、湯王、文王、武王は天下に王として、諸侯の行いを正す立場の者であったが、これはまたその道理によるだけであった。
既に紹介したこのような方法は、まだ、これを行う実践の方法を知らなければ、事業はまだ、未だに達成していないと同じことだ。そこで、それを必ず実践できるために三つの基本を置いた。何を三つの基本と言うのかと言うと、それは、為政者の爵位が高くなければ民は尊敬しない、為政者の処遇・俸禄が手厚くなければ民は信用しない、政令に従って処罰されないと民は畏れない。このため、古代の聖王は賢者に高く爵位を与え、重く俸禄を与え、任用するときに職務を示し、処罰のために法令を定め与えた。それはその臣下への恩賜であろうか、そうではなく、それは臣下が為す職務が成功することを願うからである。『詩経』に言うには、『汝に憂うべきことを告げよう。汝に爵位を与えるべきことを教えよう。だれでも熱きものを手に取ると、その手を水に濡らすことをしない者は少ない。』と。これは、古代の国君諸侯が役人や補佐役に親しく接せざるを得ないことを語ったものである。これを例えると、熱いものを手に取ったときには手を水に濡らし冷ますようなもので、その手を手当てするようなものである。古代の聖王はひたすら賢人を探し求めてこの者を任用し、爵位を与えて身分を貴くし、領地を分割してこの者を領主に封じ、それでも厭うことはしなかった。賢人はひたすら明君を得て、この明君に仕え、四肢の力を尽くして君の命じる職務に任じ、それでも職務に飽きることはなかった。このようにして物事で美しく善なることがあれば、これは為政者の功績に帰し、それで物事が美しく善なることの源は為政者の統治にあり、民の怨みや誹謗の源は官吏の職務にある。物事の安楽の源は君主にあり、憂いや患いの源は臣下にあると、このようなありさまで、古代の聖王が政治を行う様子はこのようであった。
今、王公大人が、先の時代の人にならって賢人を優遇し有能者を任用することで政治を行うことを願い、高くこのような者に爵位を与えるけど、その俸禄は爵位に見合っていない。爵位は高けれど俸禄が伴わなければ民は信用しない。『これは、実は自分を大切にするのではなく、臨時に自分を使うのであろう。一体、臨時に使用される民が、どうして、その国のお上を親しむのであろうか。』と思う。それで、先の時代の王が語って言うには、『政治をむさぼる者は人に職務を分かち任用することが出来ない、財貨を蓄えることに熱心な者は人に俸禄を分かち与えて任用することが出来ない。』と。任用するのに職務権限は与えず、俸禄は分かち与えず、天下の賢人を招へいしようとしても、そのような任用条件で王公大人の下に賢人は来るだろうか。
もし、賢者が王公大人のもとに来て仕えないのなら、その場合は不肖の者が王公大人の左右で補佐することになる。不肖の者が君主の左右で補佐するのなら、彼らが誉める者たちは賢者として相応しくなく、その処罰する者たちは狂暴の者として相応しくない。王公大人がこのような者を尊んで、そのような者によって国家の政治を行えば、褒賞する相手はまず賢者として相応しくなく、処罰する者はまず狂暴の者として相応しくない。もし、褒賞する相手が賢者として相応しくなく、賞罰する相手が狂暴な者として相応しくないのなら、それは賢者の行いをするものを推奨せず、また、暴力を為す者を予防しないことになる。このことからすれば、家の内にあっては父母に慈しみ孝行を行わず、家の外に出ては郷里で年長者に敬意を表さず、生活に節度が無く、出入りに法度は無く、男女の礼の区別が無いことだ。官庁府の官吏として行政を行わせると官財を窃盗し、城の守備を行わせれば反逆し、君に国難が迫ってもそのために死なず、君が戦いに敗れ国から亡命しても従わず、犯罪の処罰を任せると判決が事件に相応しくなく、財貨の分配を任せると公平ではなく、ともに物事を計画しても成果を得られず、物事を実行しても成功せず、防衛を行っても堅固ではなく、敵の誅罰に出撃しても強くない。そのようなことで、昔の三代の王朝で暴王とされる桀王、紂王、幽王、厲王はその国家を失い、その国の社稷を覆したとされる理由は、このようなことである。それと言うのも、皆は小さな物事を重要視して、大きな物事を重要視しなかったからだ。
今、王公大人が、一着の衣装に対してそれを仕立てることが出来なければ、まず、上手な職人に依頼するだろう。一匹の牛や羊に対してそれをと殺することが出来なければ、まず、上手なと殺人に依頼するだろう。このように二つの物事に似たものとして、王公大人もまた賢人を優遇し有能な者を任用することで統治を行うことを知らないのである。その国家が戦乱となり、国家の社稷が危うくなっても、有能な者を任用して国家を統治することを知らず、親戚であれば任用し、功績の無い富貴の者や顔形の美しい者を任用する。さて、功績の無い富貴や顔形の美しい者を任用することが、どうして、その者が智恵を持ち、また、慧眼を持っているのだろうか。もし、このような者に対して国家の統治をさせれば、これは智恵や慧眼を持っていない者に国家の統治をさせることであり、国家が戦乱となることは、まず、確実なことで、判り切ったことである。
さて、王公大人が、その男色を愛してその者を任用することは、その心の内にその者の知識の程度を考慮せずにその男色を愛することに惹かれたからである。そのようなわけで、百人の部下を治めることが出来ない者に千人の部下の長官の職に就け、千人の部下を治めることが出来ない者に万人の部下の長官の職に就ける。その背景は何であろうか。そのような長官の職に就く者の爵位は高く、また、俸禄の手当ても厚い。それはその男色を愛するがために、その者を任用する。すると、千人の部下を治めることが出来ない者に対し、万人の部下の長官に就けることは、これは長官に就けることは能力に対し十倍の職務を与えたことになる。
さて、政治のことは日々に起き上がって来るものであり、日々にこれを処理しても、日々は十倍に長くすることは出来ず、知識をもって日々にこれを処理しても、知識は十倍に増すことは出来ず、そのため、長官の職として能力の十倍の職務を与えれば、すると、一つのことを処理して、残りの九つのことを破棄することになる。日を夜に継いでこの職務を処理しても、その職務はこのように処理しきれない。これはどうしてだろうか。つまり、王公大人は賢人を優遇し有能な者を任用することで統治することを明確にしないからである。それで、賢者を優遇し有能な者を任用して政治を為して治めることとは、それはこのような言葉で説明するところのもので、賢人を在野に下し、そのために政治を行って国が乱れるようになるのは、このように私が言葉で説明するところのものである。今、王公大人がまことにその国家が治まることを願い、長く国を保って失うことがないことを願うなら、どうして、賢者を優遇することが、政治の根本であることを理解しないのであろうか。
ここで、賢者を優遇することが政治の根本と唱えたのは、ただ、独り、私、子墨子が唱えただけであろうか。この説くところは聖王のなす道であり、先の時代の王の書にあり、古代からの言葉なのだ。伝えて言うには、『聖王や王君は哲人を求めて、その人をもって汝が身を補佐させる。』と、湯王の『誓』に言うには、『まっすぐに大いなる聖人を求め、この者と力を合わせ、心を同じくして、そして天下を治める。』と、これは聖王が賢者を優遇し有能の者を任用して政治を行う要諦を失わなかったことを言うのだ。
このようにして、古代の聖王は賢者を優遇し有能な者を任用して政治を行うことを良く理解し、富貴門閥の優遇への異なる考えが雑じることなく、天下の皆はその利益を受けた。古代の舜は歷山で耕作し、河瀕で窯業を為し、雷澤で漁業に従事していた。堯王はこのような舜と服澤の北の地で出会い、舜を任用して堯王は天子と為り、協力して天下の政治を執り、天下の民を治めた。伊摯は有莘氏の娘の召使にあって、自ら料理人となっていた。湯王は伊摯と出会い、伊摯を任用して己の宰相とし、協力して天下の政治を執り、天下の民を治めた。傅説は粗末な褐色の半纏を被り、縄を帯にし、庸われて傅巖で堤防を築いていた。武丁は傅説と出会い、傅説を任用して三公の身分とし、協力して天下の政治を執り、天下の民を治めた。これはどういうことであろうか。始め身分は賤しいが遂に身分は貴く、始め貧しいが遂に富む。それは、王公大人が賢者を優遇し有能な者を任用して統治をなすことを明確にしたからだ。これによって、民が飢えて食料を得ることが出来ず、寒い季節に暖かい衣料を得ることが出来ず、労働に従事しても休息が得られず、世が乱れても治安が得られない、このようなことはなかった。
かくして、古代の聖王は賢者を優遇し有能な者を任用して統治をなすことを良く理解し、そしてそれを規範として天下を統治した。天もまた、貧富、貴賤、遠近、親疎の関係のものを差別せず、賢者を任用してこの者を優遇し、不肖な者は抑えてこれを廃嫡した。それでは、富貴の立場になった賢者で、その天から賞賛された者は誰であろうか。それは、昔の三代の王朝の聖王の堯王、舜王、禹王、湯王、文王、武王のような者たちがそうである。その天から賞賛を得た理由は何であろうか。それは、その時代に天下の統治を行うに、ともに統治を行うに民を愛しみ、そして利益を与え、また、天下の万民を率いて天を優遇・尊敬し、鬼神につかえ、万民を愛しみ利益を与えた。このような振る舞いに天神鬼神はこれを賞賛し、聖王を立てて天子とし、民の父母と為し、万民は聖王に従い、そして誉めて聖王と言う。今に至るまで、その敬称を唱えることは止まない。つまり、彼らはこのような富貴の立場になった賢者で、天から賞賛を得た者なのだ。
それでは、富貴の立場になった暴者で、天から天罰を得た者は誰であろうか。それは、昔の三代の王朝の暴王の桀王、紂王、幽王、厲王のような者たちがそうである。どのような理由でそれを知っているのか。それは、その時代の天下の統治を行うとき、ともに統治を行うに天を憎み、そして天を損ない、また、天下の万民を率いて天を誹り鬼神を侮り、万民を損ない殺した。そのような振る舞いに天神と鬼神はこのような者を罰し、その身は死して後世に刑罰の例として残り、子孫は離散し、王室や一族の家系は喪い滅亡し、後嗣は断絶し、万民は暴王に従うもこの者の行いを非難し、名付けて暴王と呼び、今に至るまで、その蔑称を唱えることは止まない。つまり、彼らはこのような富貴の立場になった暴王で、天から天罰を得た者なのだ。
それでは、親密にして不善、それにより天の罰を得た者は誰なのか。それは、昔の伯鯀と言う人で、帝の長男のような人だ。帝が行った德と庸の定めを廃し、やがて伯鯀は于羽の郊野への追放の刑に遭い、そこでは日や月の熱や光も及ぶことはなく、帝もまた伯鯀を愛さなかった。つまりこれが親密にして不善、それにより天の罰を得た者なのだ。
それでは、天が有能な者を任用したとされる者は誰なのか。それは、昔の禹、稷や皋陶のような者が、これに当たる。どのような理由でそれを知っているのか。先の時代の王の書の、『呂刑』に語って言っている、『皇帝は詳細を問いただし、臣下は有苗族の者どもについて訴えた。』と。『諸侯は有苗族の者どもに従い、在野に在る者が道理を明らかにするが受け入れられず、寡婦寡夫の者は伴侶を得られず。』と。徳をもって威圧すれば有苗族の者どもは畏れ、徳をもって道理を明らかにすれば有苗族の者どもにも道理は明らかである。『そこで、三人の侯に命じて、その労をもって民の生活を振るわせた。伯夷は典礼を授け降し、民を裁き、これらのものに刑罰を下した。禹は暴れる水陸を治め、もっぱら山や川に名を与えて手なずけた。稷は土地を豊かにして種を播き、つとめて嘉き穀物を栽培した。三人の侯は功績を成し、これにより民は豊かになった。』と。つまり、この三人の聖人の者は、言葉を謹み、その行いを慎み、その思慮をこらし、天下の隠された物事や遺された利あるものを探し求めた。そのような行いで、上には、天に仕えると天はその徳を受け入れ、下には、このような行いを万民に施すと万民はその利益を被ったが、それでも聖人はその行動を止めることはなかった。
それで、先の時代の王が語って言ったことには、『この道は、大いにこれを天下に用いれば統治に抜け落ちは生ぜず、小さく用いれば民は生活に苦しまず、長く用いれば万民はその利益を被り、それでも聖人はその行動を止めることはなかった。』と。『周頌』の書にこれを語って言うには、『聖人の徳は天が高いように、大地が広大なように、それが天下に明らかなことである。大地が固いように、山が高いように、裂けず崩れない。太陽の光のように、月の明かりのように、天と地のように常に同じである。』と。これは聖人の徳(富の分配能力)は、明らかで大きく堅固であって、さらに永久なことを言うのだ。それで、聖人の徳は天地を覆い統合するものなのだ。
今、王公大人は天下の王として、諸侯に指導者となることを願うが、ところが利の分配と正義の定義を無くして、一体、どのように指導者になろうとするのか。そのものたちが説くところは、きっと、威勢を強いて、民をふるえ上がらせようとするのだろう。今、王公大人はどのような手段で威勢を強いて、民をふるえ上がらせようとするのであろうか。それとも彼らの支配する民を死地に追い込むのであろうか。民は生きたいと必死に願い、死ぬことを最も憎み、その願うことは得られず、憎むことはしばしば身に降りかかり、古代から今に至るまで、未だかって上手くこのような民を脅すやり方で、天下に王として、諸侯を指導した者がいたことはない。今、大人は天下に王として、諸侯に指導者となろうと願い、それを決意して天下に王の位を得て、己の名をもって後世に残そうと願うならば、そのために賢者を優遇し、それを政治の根本とすることを理解しないのであろうか。これは聖人の手厚い行いなのだ。

第十 尚賢下

子墨子が語って言うには、『天下の王公大人は皆、その国家は富み、人民は多く、刑法は治まることを願うが、しかしながら賢者を優遇してその国家と百姓に政治を行うことを知らない。王公大人は統治をなすときの根本は賢者を優遇することと言う根本を見失っている。』と。
もし、王公大人が統治をなすときの根本は賢者を優遇することだと言う、その根本を見失っているとするならば、事例を取り上げて根本を見失っていることを示すことが出来よう。今、ここにある諸侯がおり、その国家に統治をなすとしよう、『およそ、我が国では射撃と馬を扱うことが上手に行う武士には、私は褒賞を与えて身分を貴くし、射撃と馬を扱うことが下手な武士には、私は罰して身分を落として賤民とするだろう。このやり方を国の武士に行うと、誰が喜び、誰が恐れるだろうか。私はきっと射撃と馬を扱うことが上手な武士は喜び、射撃と馬を扱うことが下手な武士は恐れるだろう。』と考えるだろう。私は武士に褒賞を行うこと、このことから導き出して、『およそ、我が国の忠信の士分には、私は褒賞を与えて身分を貴くし、忠信でない士分には、私は罰して身分を落として賤民とするだろう。このやり方を国の士分に行うと、誰が喜び、誰が恐れるだろうか。私はきっと忠信の士分は喜び、忠信でない士分は恐れるだろう。』と思うだろう。今、ひたすらに賢者を優遇することにより国家と百姓に政治を行い、それにより国にあって善行を行う者を推奨し、暴力を行う者を予防するであろう。
このように説くところの方法で天下に政治を行うことで、天下にあっては善行を行う者を推奨し、暴力を行う者を予防するであろう。それでは、我々が示す昔の堯王・舜王・禹王・湯王・文王・武王がなした政道を貴ぶ理由は、どのような行いによるのであろうか。それは民衆に対して政令を発して民を治め、天下にあって善行を行う者はそれを推奨すべく、暴力を行う者はそれを予防するべく処置をしたからである。このような訳で、説明するように賢者を優遇するものは、堯王・舜王・禹王・湯王・文王・武王が行った政道と同じ統治の方法なのだ。
しかしながら、今、天下の士君子は、日常生活や発言の中では、賢者を優遇すると言うが、その国の民衆に対し政令を発し民を治める現場では、賢者を優遇して有能な者を任用することを理解する者はいない。私は、このような状況によって天下の士君子は、小事の処理には聡明だが、大事の処理においては聡明ではないことを理解するのだ。何によって私の理解が正しいと知るかと言うと、今、王公大人に一匹の牛や羊がいて、それを屠畜することが出来なければ、きっと、上手な屠畜人を探すだろう。一着の布があっても美しい衣服を制作することが出来なければ、きっと、上手な工人を探すだろう。つまり、王公大人の行いも似たようなものだろう。骨肉の親戚の人、功績の無い富貴の人、顔形が美形な人が君主の周りにいるとしても、実現場ではその者に能力が無いことを知れば、このような人物をその職務に任用しないだろう。これはどういう理由だろうか。それはその現場で財産を損なうことを恐れるのである。つまり、王公大人は、無能な者によるその現場で財産を損なう恐れについては、賢者を優遇し有能な者を任用するやり方を忘失してはいない。
王公大人に一匹の病気の馬がいて、それを使役することが出来ないのなら、きっと、上手な医者を探すだろう。一張りの強弓を持っていても弦を張ることが出来なければ、きっと、技巧の工人を探すだろう。つまり、王公大人の行いも似たようなものだろう。骨肉の親戚の人、功績の無い富貴の人、顔形が美形の人が君主の周りにいても、実現場ではその者に能力が無いことを知れば、このような人物を職務に任用しないだろう。これはどういう理由だろうか、それはそのような財産を損なうことを恐れるかである。つまり、王公大人はこのような実務現場では、賢者を優遇し有能な者を任用するやり方を忘失していない。ところがその国家のこととなるとそうではないのだ。王公大人は骨肉の親戚の人、功績の無い富貴の人、顔形の美形な人、このような人を取り上げて任用する。つまり、王公大人がその国家の運用を行う態度は、一張りの強弓、一匹の病気の馬、一着の布、一匹の牛や羊、これらを適切に取り扱うことと変わらないのだろうか。私は、このような姿をもって天下の士君子の皆は小事には聡明であるが、大事では聡明でないと理解する。これを例えれば、唖の者に応接役を行わせ、聾の者に楽士を行わせるようなものだ。
このようなことから、古代の聖王が天下を統治するとき、(任用により)その富ます者、その身分を貴くする者、それらの者は、必ずしも王公大人の骨肉の親戚の人、功績の無い富貴の人、顔形が美形の者に限らなかった。それは、昔の舜は歷山で耕作を行い、河瀕で陶作を行い、雷澤で漁業を行い、常陽に商いを行っていた。堯王はこの舜を服澤の北の地で得て、舜を立てて天子となし、天下の政治を執らせ、そして天下の民を治めさせた。昔の伊尹は莘氏の娘の家来の下僕となり、料理人となっていた。湯はこの伊尹を得て、之を臣下に取り上げて、伊尹を取り立てて三公の身分となし、天下の政治を執らせ、そして天下の民を治めさせた。昔の傅説は北海の国、圓土の近郊に居り、褐色の衣を着て縄を帯とし、庸はれて傅巖の城の築城工事に従事していた。武丁はこの傅説を得て、之を臣下に取り上げ、さらに取り立てて三公の身分となし、天下の政治を執らせ、そして天下の民を治めさせた。このような訳で昔の堯が舜を取り立てたこと、湯が伊尹を取り立てたこと、武丁が傅説を取り立てたことは、それは骨肉の親戚の人、功績の無い富貴の人、顔形が美形の者だったからだろうか。
古代の聖王は賢者を優遇することを良く理解していて、それにより政治を行うことを願い、それでこのありさまを竹簡や帛布に書き残し、槃盂に刻み、伝えて後世の子孫に残した。先の時代の王の書、『呂刑』の書にあってもそのようであって、王が言うには、『ああ、来たれ。国土や領土を持つ諸侯、お前たちに訴訟と刑罰の決まりを告げよう。』と。今、この時にあって百姓の民生を安定させるには、お前たちは何を選んで人々に言うのか、何を敬うことが法(=規範)ではないのか、何かを考慮するが、なお不足とするのか。適切に人を選んで敬って法を行えば、堯王、舜王、禹王、湯王、文王、武王の政道に及ぶことが出来よう。これはどういうことだろうか。それは、賢者を優遇することで古代の聖王の政道に匹敵し、先の時代の王の書、『豎年』に載る言葉においてそうであるように、『かの聖人、武勇、智人の士を見出し、その人をもってお前の身の助けとせよ。』と。これは、先の時代の王が天下を治めるには、必ず賢者を選択し臣下や補佐をしたことを言っているのだ。
『今、天下の士君子、皆は富貴を望み、そして貧賤を嫌う。』と。『確かにそうだ。』と。では、お前は何を行えば富貴を得られて貧賤を避けることが出来るのか。賢人となるのがいいだろう。では、賢人になるにはどうすればいいのか。それは、肉体の力がある者は率先して人を助け、財力がある者はすすんで人に分け与え、徳の道の論説がある者は自ら勧誘して人に徳の道の論説を教えよ。このようなことは、飢えた者は食事を得、寒さ震えるものは衣服を得、混乱では治安を得るようなものだ。もし、人が飢えれば食事が得られ、寒いときに衣服が得られ、乱世に治安が得られるならば、これは生きる生活である。今、王公大人が、(任用で)その富ます人、その身分を貴くする人、その皆は、王公大人の骨肉の親戚の人、功績の無い富貴の人、顔形の美形の人である。今、王公大人の骨肉の親戚の人、功績の無い富貴の人、顔形の美形の人は、どのような理由で必ず任用に応えられる智恵者なのだろうか。もし、任用に応えられるほどの智恵者ではない、その者に国家を治めさすならば、きっと、その国家は戦乱を得て、初めて任用した者が智恵者ではないことを知るであろう。
今、天下の士君子の皆は富貴を願い、そして貧賤を嫌う。それでは、お前たちは何を行って富貴を得、そして貧賤を避けるのか。『きっと、王公大人の骨肉の親戚の人、功績の無い富貴の人、顔形の美形な者になることが良いだろう。』と。ただ、王公大人の骨肉の親戚の人、功績の無い富貴の人、顔形の美形な者は、学んでなれる者ではない。智恵と弁舌が無いのなら、その者の徳の行いが世の隅々に及ぶ禹王、湯王、文王、武王のようであっても、王公大人の恩恵を得るところでない。王公大人の骨肉の親戚の人であれば、いざり、唖、聾であっても、乱暴なことが桀王や紂王のようであっても、恩恵を失うことはない。このような有様なので、褒賞は賢者に与えられず、刑罰は乱暴者に与えられず、その褒賞を与えられる者に功績の根拠は無く、その刑罰を与えられる者に犯罪の根拠は無い。このような有様なので百姓は忠心を失い勤労に励むことを止め、善行をなすことに協力せず、手足の力は抜け落ちて共同で助け合うこともせず、余分な穀財を腐らせ腐臭がしても互いに分け合うこともせず、物事を上手にする方法を隠しても互いに教え合うことはしない。
もし、賢者を優遇するならば、飢えた者は食を得ることが出来、乱暴者は治安を煩わすこともなく、それは統治者の行いによるのだ。このようなことで、堯王に舜がおり、舜王に禹がおり、禹王に皋陶がおり、湯王に小臣がおり、武王に閎夭、泰顛、南宮括、散宜生がおり、それで天下は和ぎ、庶民の生活は盛んで、このようなことにより近国の者は安心し、遠国の者は帰順した。天下の日月が照らすところ、舟や車が及ぶところ、雨露の潤すところ、穀物の食料を常食にするところでは、このような賢人を臣下に登用し、善行を勧誘して褒賞しないことはなかった。今、天下の王公大人士君子は、国中には誠実に仁と正義を行うことを願い、その統治にふさわしい士となることを願い、上には聖王の政道に匹敵することを願い、下には国家百姓の利益の求めに適うことを願うなら、それなら賢者を優遇し賢者の説く政策を行い、そしてこのようなやり方を理解しないわけにはいかないのだ。賢者を優遇することは、天神・鬼神・百姓の利益でもあって、それは統治の根本なのだ。

第十一 尚同上

子墨子が語って言われたことがある、『古代に民衆が始めて生まれ、まだ刑法による政治がなかったとき、思うに、それぞれの人の語ること、人ごとに正義の定義を異にしていた。このことからすれば、一人なら一つの正義の定義、二人なら二つの正義の定義、十人なら十の正義の定義があり、その民衆が多ければ、その唱える正義の定義も多かった。このせいで人ごとに自分の正義を是とし、他人の正義を非とした。それで互いに相手の意見を非とした。』と。このようなことで、父子兄弟は互いに怨悪の気持ちを持ち、家族は離散して互いに和合することはなかった。天下の百姓の、皆は水攻め、火攻め、毒薬などで互いに損ない、労働力に余裕があっても互いに助け合うことはなく、食料に余裕があり腐敗させることがあっても互いに分かち合うこともなく、より良い方法を知っていても隠して互いに教えないようなことになり、天下の乱れることは、禽獣の世界のようであった。
さて、天下がこのように乱れる理由を明らかにすると、それは政治に長がいなかったことによる。このため、天下の賢者の中から長に相応しい者を選び、推挙して天子とした。天子は立ったが、その能力をもってしてもまだ足りないとして、また、天下の賢者の中から相応しい者を選び、この者を推挙して高官に置き三公とした。天子と三公はこのように立ったが、天下は広大であって、遠い国や異国の住民のこと、物事の是非や利害の争議の弁論、政治を分かち合ってもすべてを明確に知ることは出来ず、それで天下の万国を区分けして諸侯国君を立てた。諸侯国公はこのように立ったが、その能力をもってしてもまだ不足として、また、その国の賢者の中で相応しい者を選択し、推挙して官吏に置き邑の正長とした。
邑の正長はすでに着任し、天子は政令を天下の百姓に発布して、告げて云うには、『善行を行い、また、不善を行うことを聞いたならば、皆は、それを上の者に告げよ。上の者が是とすることがらは、必ず皆はこれを是とし、非とすることがらは必ず皆はこれを非とせよ。上の者に過誤が有ればこれを諫め正し、下の者に善行があればこれを推挙せよ。上の者に皆が同調することを行い、下の者が、皆が上の者に同調することを批難しないのなら、これは上の者の褒賞することであり、下の者の誉められることがらである。』と。思うに、もし、善行を行い、また、不善を行うことを聞いて、それを上の者に報告しないのならば、上の者が是とすることがらを是とすることが出来ず、上の者が非とすることがらを非とすることが出来ない。上の者に過誤があるのに諫め正すことをせず、下の者が非難だけして上の者から皆が同調することを行うが出来ないのならば、これは上の者が下の者を罰することがらであって、また、その下の者が上の者を批難だけすることは百姓全体の利害を損ねることがらである。上の者がこのようなやり方で賞罰を行うことは、非常に明解明瞭であり誤りがない。
このような理由で里長は里の仁人である。里長は政令を里の百姓に発して、告げて云うには、『善行を行い、また、不善を行うことを聞いたならば、皆は、それを郷長に告げよ。郷長が是とすることがらは、必ず皆はこれを是とし、非とすることがらは必ず皆はこれを非とせよ。お前たちの不善の発言を止め、郷長の善言に学び、お前たちの不善の行いを止め、郷長の善行に学べ。』と。郷はどのような理由で乱れるのだろうか。郷が平穏に治まる理由を察するに、それはどうしてだろうか。それは郷長によりひたすら上手に郷を一つに同調し、それにより郷は平穏に治まるのだ。
郷長は郷の仁人である。郷長は政令を郷の百姓に発して、告げて云うには、『善行を行い、また、不善を行うことを聞いたならば、皆は、それを国君に告げよ。国君が是とすることがらは、必ず皆はこれを是とし、国君の非とすることがらは必ず皆はこれを非とせよ。お前たちの不善の発言を止め、国君の善言に学び、お前たちの不善の行いを止め、国君の善行に学べ。』と。国はどのような理由で乱れるのだろうか。国が平穏に治まる理由を察するに、それはどうしてだろうか。それは国君がひたすら上手に国を一つに同調し、それにより国は平穏に治まるのだ。
国君は国の仁人である。国君は政令を国の百姓に発して、告げて云うには、『善行を行い、また、不善を行うことを聞いたならば、皆は、それを天子に告げよ。天子が是とすることがらは、必ず皆はこれを是とし、天子の非とすることがらは必ず皆はこれを非とせよ。お前たちの不善の発言を止め、天子の善言に学び、お前たちの不善の行いを止め、天子の善行に学べ。』と。天下はどのような理由で乱れるのだろうか。天下が平穏に治まる理由を察するに、それはどうしてだろうか。それは天子がひたすら上手に天下を一つに同調し、それにより天下は平穏に治まるのだ。
天下の百姓が皆、天子に同調しても、天に同調しなければ、災い事は排除できない。今、天に疾風や霖雨が激しく襲来するのは、それは天が、百姓が天に同調しないことを罰しているからなのだ。
このようなわけで子墨子が語って言われたことには、『古代の聖王は、五種類の刑罰を制定し、それをもってその国の民を治めた。これを例えれば、巻糸に引き出す糸口があり、引き網に引き寄せる綱があるように、五種類の刑罰は天下の百姓がその上の者に進んで同調しないのを、すべてを取り込む方法なのだ。』と。

第十二 尚同中

子墨子が言われたことには、「今、この時代にあって、古代の民衆が始めて生まれたときの、未だ正長の制度がなかった時代に立ち返ってみるに、思うに彼らの論説に言うには、『天下の人たちはその正義の定義を異にしている。』と。この論説からすると、一人に一つの定義があり、十人に十の定義があり、百人に百の定義があり、その人々の数がさらに多くれば、その正義の定義というものは、また、ますます多くなる。この、ある人の唱える正義を是とし、一方、他の人の唱える正義を非とすると、それでは互いの唱えるものは非となる。家の内に父子兄弟は互いに怨みや恨みの心を作り、家族皆は離れ離れの気持ちを抱き、互いに和同することが出来なかった。余剰の労働力があっても放置し、互いに勤労することもせず、良き方法があっても隠して互いに教えあうこともせず、余剰の収穫があっても腐らせることはするが互いに分かち合うことはしないようになって、天下は乱れた。禽獣の行いのようになり、君臣上下長幼の節度や父兄兄弟の礼節は無く、このような様になって天下は乱れたのだ。」と。
(子墨子は、)民が正長の制度を立てて天下の正義の定義を一つに同調することをしなかったので、それで天下が乱れたことを明らかにした。このような訳で、天は天下の賢良で聖なる知恵があり弁舌が立ち聡い人物を選択し、立てて天子となし、天下の正義の定義を一つに同調させることに従事させた。天子はこのようにして立ったが、考察するに、ただ天子の耳目に届く民衆の請願の数からすると、天子独りでは天下の正義を一つに同調させることは出来ないと、それで天子は天下の賢良で聖なる知恵があり弁舌が立ち聡い人物を面接し選択して、官吏に置いて身分は三公とし、ともに天下の正義を一つに同調させることに従事した。天子と三公はすでに立った、考察するに、天下は広大であり、その山林や遠国の民を征討で獲得しても、一つに同調させることは出来ないだろう。それで天下を区分して、多くの国を設けて万国の諸侯国君とし、その国の正義を一つに同調させることに従事させた。国君はすでに立った、さらにまた考察するに、ただ国君の耳目に届く民衆の請願の数からすると、国君独りではその国の正義を一つに同調させることは出来ない。このような訳でその国の賢者を選び、官吏に置いて身分は左右将軍・大夫とし、遠く郷里の長に至るまでともにその国の正義を一つに同調させることに従事した。
天子、諸侯の君主、民の正長は既に定まり、天子はそれにより政令を発して教えを施して言うには、『およそ、善の行いを聞見する者は、必ずその上の者に告げよ、不善の行いを聞見る者は、また必ずその上の者に告げよ。上の者の是とすることがらは、必ずまたこれを是とし、上の者が非とすることがらは、必ずまたこれを非とせよ、すでに善の行いがあるならこれを身近な者と合同して推薦し、上の者に過誤があれば正し諫めよ。正義のことはその上の者の正義の定義に意を重ね同調し、下の者は非難する心を持つことなく、上の者は傍薦する者を得てこれを賞し、万民はこの善行を聞いて誉めるだろう。』と。考察するに、もし、善の行いを聞見しても、その上の者に告げず、不善の行いを聞見しても、またその上の者に告げなければ、上の者が是とすることがらを世の是とすることは出来ず、上の者が非とすることがらを世の非とすることが出来ない。すでに善の行いがあってもこれを身近な者と合同して推薦することは出来ず、上の者に過誤があってもこれを正し諫めることが出来ない。下の者の政策への批判やその上の者への誹謗する者を、上の者は報告を得てこの者を誅罰し、万民はそのような誹謗中傷を聞いてこのような者を非難し追い出すであろう。このようなことで、古代の聖王は刑罰と賞誉とを行うときに、まことに明察なので判断に誤りがなかった。
このような理由で天下の人々はこぞって、皆が上の者から賞誉を得ることを願い、また、上の者からの追放や罰則を畏れた。このようなわけで里長は天子の行う政治に従い、そしてその里の正義の定義を一つに同調した。里長はすでにその里の正義の定義を一つに同調し、その里の万民を率いて、郷長の正義の定義に里の者の意を重ねて同調し、言うには、『およそ、里の万民の、皆は郷長の正義の定義に意を重ねて同調し、下の者は敢えて上の者を非難しない。郷長が是とすることがらを、また、これを是とし、郷長が非とすることがらを、必ずまたこれを非とする。お前たちは不善の言論を捨てて、郷長の善言に学び、お前たちは不善の行いを止めて、郷長の善行を学べ。』と。郷長は素から郷の賢者である、郷の人を挙げて郷長に見習えば、どのようなことにより、郷が治まらないことがあるだろうか。郷長が郷を治める方法を考えると、どのようなものだろうか。言うには、『ただ、ひたすらにその郷の正義の定義を一つに同調することにより、この正義の統一により郷は治まる。』と。
郷長はその郷を治め、それで郷はすでに治まっており、そこからその郷の万民を率いて、そして国君は正義の定義に郷の者の意を重ねて同調し、言うには、『およそ、郷の万民は、皆、国君が示す正義の定義に同調し、そして敢えて下の者は上の者を批判しない。国君が是とすることがらを、必ずまたこれを是とし、国君が非とすることがらを、必ずまた非とする。お前たちは不善の言論を捨て去り、国君の善言に学び、お前たちは不善の行いを捨て去り、国君の善の行いに学べ。国君はもとより国の賢者なのだ、国の人々を挙げて、そして国君のやり方に従えば、どうして、国はどのような理由で治まらないであろうか。』と。国君が国を治める理屈を考察して、そして国を治めるには、どのような方法をもってすればよいだろうか。言うには、『ただ、ひたすらにその国の正義の定義を一つに同調することにより、これによって国は治まる。』と。
国君はその国を治め、それで国はすでに治まっており、そこからその国の万民を率いて、そして天子の正義の定義に意を重ねて同調し、言うには、『およそ、国の万民は、皆、天子が示す正義の定義に同調し、そして敢えて下の者は上の者を批判しない。天子が是とすることがらを、必ずまたこれを是とし、天子が非とすることがらを、必ずまた非とする。お前たちは不善の言論を捨て去り、天子の善言に学び、お前たちは不善の行いを捨て去り、天子の善の行いに学べ。天子はもとより国の仁人なのだ、天下の万民を挙げて、そして天子のやり方に従えば、どうして、天下はどのような理由で収まらないであろうか。』と。天子の天下を治める理屈を考察して、そして国を治めるには、どのような方法をもってすればよいだろうか。言うには、『ただ、ひたすらに天下の正義の定義を一つに同調することにより、これによって天下は治まる。』と。
ところがすでに天子が示す正義の定義に同調しているにも、それでも、天の示す正義の定義に同調しなければ、天災は今もってしても止まない。それで天が降す寒波熱波は季節不順で、雪霜雨露は時節に従わず、五穀は稔らず、六種の家畜は十分に繁殖飼育せず、疾風長雨、暴風霖雨、などの災害が次々と生じて襲い掛かるようなことは、これは天が罰を下したからであり、下の者が天の示す正義の定義に同調しないのを罰しようとするからである。
それで古代の聖王は、天神や鬼神の求めることがらを明らかにし、そして天神や鬼神の嫌うことがらを避け、それにより天下の利を興し、天下の害を取り除くことを願った。このような有り様で天下の万民を率い、斎戒沐浴し、清らかに御酒や供物を造り、それで天神や鬼神を祭祀した。鬼神に仕えるさまは、御酒や供物は清浄であるように、奉げる犠牲は肥えているように、玉壁や幣帛は礼に定める寸法に適うように、春秋の祭祀はきっと時節に適うようにし、犯罪の訴えを聞くことは適切あるように、公の財物を配分では均等であるように、生活するうえでは怠慢ではないようにしていた。言うには、『その正長となるさまはこのようで、このようなさまなので、上には、天神や鬼神は、その正長としての行いは手厚いと為し、下には、万民は、その正長としての行いを利便だと為した。』と。天神や鬼神は正長には深く手厚くするのであるから、熱心に政治に従事することに励めば、きっと、万民の親しみは得ることが出来よう。その政治を行うさまはこのようであり、このような方法で政治に従事して事を計れば、きっと、事業は成功し、城に入って守れば防衛は固く、出撃して誅罰すれば勝つのは、このような理由だからだ。言うには、『ただ、正義の定義に民は意を重ねて同調することにより、政治を行う道だけなのだ。このため、古代の聖王が政治を行うさまはこのようだったのだ。』と。
今、天下の人が言うには、『今、この時代にあって、天下の正長はいまもなお天下を統治することを止めていないが、それなのに天下が乱れていることは、どのような理由なのでしょうか。』と。子墨子が言われたことには、『今、この時代にあって、正長による統治を行うやり方の、その根本が古代と異なっている。これを例えれば、有苗族が五つの刑罰により政治を行っていた有り様と同じだ。昔の聖王は五つの刑法を制定して施行し、それにより天下を治めた。ところが、有苗族が同じように五つの刑罰を制定するようになって、それにより天下は乱れた。するとこれは刑罰が不善なのだろうか、そうではなく刑罰の適用のやり方が不善だったのだ。』と。このことについて、先の時代の王の書、『呂刑』が言うには、『苗民は徳の政治を用いず、治めるに刑罰だけがあり、ただ、五つの死刑の罰則を作り、これを刑法と言った。』と。するとこのことは善の行いに対し、刑罰の規定だけを適用するやり方で民衆を統治し、不善の行いに五つの死刑の罰則で対処したことを言うのだ。するとこれは刑罰自体が不善なのだろうか、そうではなく刑罰の適用のやり方が不善なのだ。その刑法の運用が不善のままで五つの死刑の罰則を施行した。このような状況に、先の時代の王の書、『術令』に、このような状況を示して言うには、『同じ口から良き言葉を吐き、また、害する言葉を吐く。』と。ちょうどこれは善なる気持ちで言葉を使う者は良好な言葉を吐き、不善なる気持ちで言葉を使う者は謗り、害し、敵し、寇する言葉を吐くことを言うのだ。つまり、このことは口が不善なのだろうか、そうではなく口を用いて吐く言葉が不善なのだ。つまり、同じ口ではあるが、謗り、害し、敵し、寇する言葉を吐くのだ。
それで、古代に正長を定め置いたのは、それは正長によって民を統治するためである。これを例えれば、巻糸に糸口があり、引き網に引綱があるように、そのようなものごとを導く方法により天下の淫行・暴力を刑法の定めの下に導き、そしてその正義の定義を一つに同調させるようなものだ。このような方法により先の時代の王の書、『相年』にこれを語って言うには、『それ、国を建て、都を設け、そして天子王君公の位を作るのは、それはその人を驕らせるためではない。大夫師長の身分を軽くするのは、上の者が彼らを用いるのに楽をしようとするためではない。これは職務を分担して天下の民を治めるためである。』と。つまり、この言葉は、古代の上帝や鬼神が国や都を建設し、正長を立てたのは、その人の爵位を高くし、その人の俸禄を手厚くし、その人を富貴で楽にさせてその地位に置くためではないのだ。それは正長によって万民のために利益を興し、害悪を取り除き、高貴な人を富まし、独り者の人を少なくし、危うきことを安定させ、戦乱を治めるためである。それで古代の聖王は政治を行うことはこのような様であったのだ。
今、王公大人の刑罰や政治を行う様子は、これに反している。政治を行うに、お気に入りの者、父兄や昔からの縁があることによって、それにより左右の近習とし、その者に職務を与えて正長に任用する。民は上の者が正長を任用するその様は、その任用が民を統治するためではないことを知る。このような任用により皆は徒党を組み、物事を隠匿し、そしてすすんでその上の者に民の意を重ねて同調することはない。このような理由で上の者と下の者とが正義の定義を同じとしないのだ。もし、上の者と下の者とが正義の定義を同じとしないのならば、褒賞と名誉のそれが善行を勧める手段としては足りず、そして刑罰はそれが暴力を防止する手段としては足りない。どのような理由でそれを知るのか。言うには、『上の者はその立場に立って国家に政治を行うにあたって、民に正長の立場として行う。』と。また、言うには、『他の者が善行を賞賛しなければ、私がきっとその善行を賞賛する。』と。もし、上の者と下の者とが正義の定義を同じとしないのならば、上の者が善行として賞賛することがらは、それは民衆には上の者が善行とする行いを非とすることがらであって、言うには、『人は民衆と共にあり、民衆に非のことがらを得る。』と。そのためこれにより上の者がこの善行を賞賛しようとしても、善行を行うことを民に勧めるには足りないのである。
上の者がその立場に立って国家に政治を行うにあたって、民の正長の立場を行い、言うには、『他の人が罰しなければ、私はきっとこれを罰する。』と。もし、上の者と下の者とが正義の定義を同じとしないのならば、上の者がその行いを罰することがらだとしても、それは民衆のあっては名誉を得るだろう、それでは、このような民には罰が名誉となるようでは、上の者がその行いにより罰を与えようとしても、それにより乱暴を防止することには足りない。もし、君王に立って国家に政治を為し、民に正長の立場として政治を行おうとしても、褒賞や名誉は正義の定義が違うことから善行を勧めるには足りず、そして刑罰はそれにより暴力を防止することは出来ない。つまり、これは先に私がもともと述べていた、『民衆が始めて生まれて、未だ正長の制度が無かった時代』と、同じではないか。もし、正長の制度がある時代と正長の制度が無い時代とが同じならば、それは民衆を治め民衆を一つに同調させる政治の道ではない。
それで、古代の聖王はただ政治を行うに物事を明確にするために民衆の意を重ねて正義の定義を同調することを用い、それにより正長により施行を行い、このような理由で上の者と下の者とで厚情と請願とは通じ合った。上の者が気付かない事業や利益が世に有れば、下の者は厚情を得てこれらから利益を得ることが出来、下の者に積み重なった怨みや害悪があれば、上の者は情報を得てこれらを排除することが出来る。それで数千万里の外の場所で、善行を行う者がいても、その家族はまだその善行の詳細を知らず、また郷里の人たちもまだ詳細を聞いていないのに、天子は情報を得てこの善行を賞賛した。数千万里の外の場所で、不善の行いをする者がいても、その家族はまだその詳細を知らず、また郷里の人たちもまだ詳細を聞いていないのに、天子は情報を得てこれを罰した。この政治により天下の人は世を挙げて恐れおののき身震いをして、敢えて淫行や暴力を行わなかった。言うには、『天子の視ること聴くこと、神のようだ。』と。
先の時代の王のこのような様子を語って言うには、『神でないはずはない。』と、それは、ただ、十分に人の耳目により自分の視聴を助け、人の言論により自分の言談を助け、人の心情により自分の思慮を助け、頼みとする部下により自分の事業への活動を助けるようにしただけである。この視聴を助ける者が多ければ、その分、聞見するもののことがらは遠く、この言談を助ける者が多ければ、その分、徳の言葉で慰労することがらは広く、思慮を助ける者が多ければ、その分、相談し物事を計ることは速やかに得られ、事業への活動を助ける者が多ければ、その分、取り上げた事業は速やかに成功する。このため、古代の聖王は事業を成し、功績を成し、後世に名声を残した理由となるものは、別に変ったことではない。言うには、『ただ、十分に民衆の意を重ねて正義の定義を同調することにより政治を行ったからである。』と。
これにより、先代の王の書、『周頌』にこれを語って言うには、『始めて、あの王に訪問・拝謁して、ここに王の法度・法典を請う。』と。つまりこの言葉は古代の国君諸侯が春秋の時節に来朝して、天子の宮廷に聘問し、天子の厳教を受けて退廷して己の国を治めこと、政策を行うこと、これらのことがらに皆が天子のやり方に従ったことを語っている。その時代、天子は厳教で授けた政治の決まり事を乱す者がいないようにした。『詩』に言うには、『我が馬は駱、六つの手綱はつややかに、そして馳せそして駆け、天下あまねく問い図ろう。』と。また言うには、『我が馬は騏、六つの手綱はしなやかに、そして馳せそして駆け、天下あまねく問い図ろう。』と。古代の国君諸侯は善行の行いとともに不善の行いを聞見すると、皆は馬を馳せて天子に告げ、これにより賢者に褒賞を与え、暴人に罰則を与え、罪無き人を刑罰で殺さず、罪有る人を見逃さなかった。つまり、これが民衆の意を重ねて正義の定義を同調することの功績なのだ。
このような理由で子墨子が言われたことには、『今、天下の王公大人士君子、まことにその国家を富まし、その人民を多くし、その刑法と政治は治まり、その社稷が安定するのを願うなら、示したように民衆の意を重ねて正義の定義を同調することを理解しなければならず、これによりこれを根本としなければいけない。』と。

第十三 尚同下

子墨子が語って言われたことには、『知恵者の事業は、必ず国家百姓が治まる理由となるものを計り、そしてそれにより政治を行い、また、必ず国家百姓が乱れる理由となるものを計り、そしてそれを取り除く。』と。そうであるなら、国家百姓が治まる理由となるものを計るとはどのようなことか。上の者が政治を行うときに、下の者の実情を得ればまず政治は治まり、下の者の実情を得ていなければまず政治は乱れる。どのような理由でそれがそうなのだと判るのか。それは、上の者が政治を行うに下の者の実情を得ることとは、つまり、このことは民が思う善非のことを上の者にはそれが明らかなことであることだ。もし、上の者にとって民が思う善非のことが明らかであれば、善人を得ればこれを賞賛し、暴人を得ればこれを処罰できる。善人を賞賛し暴人を処罰すること、これで国は必ず治まる。上の者が政治を行うに、下の者の実情を得なければ、それでは民が思う善非のことは明らかにはならないのだ。もし、民が思う善非のことが明らかではないのなら、これでは善人を得ていないのに善人として賞賛し、暴人を得ていないのに暴人として処罰することになる。善人は賞賛されず、暴人は処罰されない。政治をおこなうのにこのようなことでは、国家と民衆は必ず乱れる。それで、上の者は、下の者の実情を得ないで褒賞することに対して、実情を確実に理解しないわけにはいかないのだ。
それでは下の者の実情を得ることを計るとは、どうしたら出来るのであろうか。それで子墨子が言われたことには、『ただ、十分に民の意を重ねて同調させ、正義の定義を一つにして政治を行い、それでその後に下の者の実情を得ることが出来る。』と。どのような理由で、民の意を重ねて同調し、正義の定義を一つにして政治を行うべきことを知ったのだろうか。その疑問があるならば、どうして、古代に政治を行い、そして良く治められた訳を審らかに考えないのか。古代、天が始めて民衆を生み、未だ正長の制度が無かったとき、百姓はただの人間であった。もし、百姓がただの人間ならば、そこには一人の人間に一つの正義があり、十人の人間に十の正義があり、百人の人間に百の正義があり、千人の人間に千の正義があり、人間が多くて数えきれ無くなるようになれば、するとその正義とされるものもまた数えきれなくなる。これは皆が自分のその正義を是とし、対して他の人の正義を非とするからである。このありさまにより、唱える正義への賛同が厚いものには一門が生まれ、対して賛同が薄いものには論争が生まれた。
この正義の定義への論争のために天下は天下の正義の定義を一つに同調することを願い、このために賢者を選択し、その者を立てて天子とした。天子は己一人の知力では未だ独りで天下を治めるには足りないとして、それにより選択して自分の次のものを立てて三公の身分とした。三公はまた己一人の知力では未だ天子の左右の官吏として足りないとして、それにより国を分割して諸侯を建てた。諸侯はまた己一人の知力ではその国の四境の内側を治めるには足りないとして、それにより選択して自分の次のものを立て、職務は宰相、身分は卿とした。宰相で卿の者はまた己一人の知力では未だその諸侯の君の左右の官吏としては足りないとして、それにより選択して自分の次のものを郷長家君とした。このような理由により古代の天子は、三公、諸侯、諸侯の宰相の卿、郷長家君を任命した。ただ、その登用によりその者を富貴にさせて、遊び呆けさせるためにこれらの地位に置いたのではなく、刑法や政治の乱れを治めることを補佐させたのだ。このような訳で、古代の者は国を建て、都を設け、そして天子王君公を立て、君王に奉仕させるために卿士師長を任命したのは、これはそれぞれが唱える正義の定義の論説を用いることを求めたのではなく、ただ、統治での職務を分かち、天が与えた明道を治めることを補佐させただけである。
今、ところがどうして人の上に立つ立場となったのに下の者を治めることが出来ず、人の下の立場となったのに上の者に仕えることが出来ないのはどうしてだろう。それは上の者と下の者とが互いに相手の立場を損ねるからである。どのような理由でそのようなことになったのであろうか。それはそれぞれの正義の定義が同じではないからである。もし、正義の定義が同じでなければ徒党を組むことが起きてしまう。上の者は善の行いをした人に、善の行いをしたとして、この善の行いをした人を褒賞し、このような人を前例として上の者が人々に見習らわさせて褒賞を得るようにしたとしても、百姓は仲間からの上の者に媚びるためだとの謗りを避けるため(褒賞の推薦を拒む)、このような訳で善の行いをした者が、かならず褒賞を受けたことを見たことが無い。上の者は犯罪者を暴人として、これを処罰し、このような人を前例として上の者が罪を犯す人々に処罰を与えようとしても、百姓は仲間からの上の者への不服従について誉められることを思い、これにより(処罰は)暴力を行う者にはなんの予防にもならず、刑罰の犯罪予防の刑法本来の目的を達せず、刑法だけが存在する。このため、上の者にとって、褒賞や名誉の制度だけでは善を勧めるには足りず、追放や処罰の制度だけでは暴力を防止するには足りない。これはどのような理由なのであろうか、それはそれぞれの正義の定義が同じではないからである。
それならば、きっと天下は正義の定義を一つに同調することを願うだろうが、どのようにすれば可能なのだろうか。そこで子墨子が語って言うには、『それでは家君を例にとって、試みに家君に家訓を用いさせて家人を褒賞してみようではないか。』と。その家の者たちに家訓を発し家人に命令し、言うには、『もし、家の者たちを愛しみ利する者を見つけたら、必ず報告し、もし、家の者たちを憎み害する者を見つけたら、また、必ず報告せよ。』と。もし、家の者を愛しみ利する者を見つけて報告するならば、同じように報告する者は家を愛しみ利する者である。上の者が報告を受ければ、この者を褒賞し、家の衆が聞けば、この者を誉めるであろう。もし、家の者を憎み害する者を見つけても報告しないのであれば、また、同じように報告しない者は家を憎み害する者である。上の者が報告を得たら、この者を罰し、家の衆が聞けば、この者を非とするであろう。このようにして、この家訓が家の人に周知されると、皆はその家の長や上の者からの褒賞や名誉を得ようとし、追放や処罰を避けようと願うだろう。このような有り様で善の行いがあればそれを報告し、不善の行いがあればそれを報告し、家君は善行の人を見つけてこれを褒賞し、暴力の人を見つけてこれを処罰する。善人は褒賞され、暴人は処罰される、それで家は治まる。それではこのように家が治まる理由を探ってみると、それは何なのだろうか。それは、ただ民が意を重ねて同調し正義の定義を一つにすることにより政治を行ったからである。
家はすでに治まったが、国家の統治の道は家を治める方法で尽きるのであろうか。それは未だ尽きていないのだ。国に属す家の数というものは非常に多く、この多くの家の皆は、それぞれの家の家訓を是とし、そして他人の家の家訓を非とする。互いの家訓の是非の論争の程度が厚いと戦乱が生じ、論争の程度が薄いと争いが起きる。それで同じように家君に命じてその家の正義の定義をまとめ上げて、それを国君の正義の定義に意を重ねて同調させた。国君はまた国の衆に政令を発し命令を布告して、言うには、『もし、国を愛しみ利する者を見つけたら、必ず上の者に報告せよ、もし、国を嫌い傷める者を見つけたら、また必ず上の者に報告せよ。もし、国を愛しみ利する者を見つけて報告する者は、その者もまた国を愛しみ利する者なので、上の者は報告を得れば即座に褒賞し、衆はそれを聞いてその者を誉めるであろう。もし、国を嫌い傷める者を見つけてもこれを報告しない者は、その者もまた国を嫌い傷める者なので、上の者は報告を得れば即座にこれを処罰し、衆はこれを聞いてこの者を非とするであろう。』と。このような方法でこのように国の人に周知すれば、皆はその長上からの褒賞や名誉を得ることを、その長上からの追放や処罰を避けようと願うだろう。このようにして民は善の行いを見つければこれを報告し、不善の行いを見つければこれを報告する。国君は善人の報告を得てこれを褒賞し、暴人の報告を得てこれを処罰する。善人は賞せられ、また、暴人は罰せられるならば、そうすれば国は治まる。そうであるならばこのような国が治まる理由の背景を考えると、それは何であろうか。それは、ただひたすら、衆の意を重ねて同調し正義の定義を一つにすることにより、政治を行うからである。
国はすでに治まったが、天下の治世の道は国を治める方法で尽きるのであろうか。それは未だ尽きていないのだ。天下の国の数というものは非常に多く、この多くの国の皆は、その国の国是を是とし、そして他人の国の国是を非とする。互いの国是の是非の論争の程度が厚いと戦乱が生じ、論争の程度が薄いと紛争が起きる。それでまた国君に命じてその国の正義の定義をまとめ上げて、それを天子の正義の定義に意を重ねて同調させた。天子はまた天下の衆に政令を発し命令と布告して、言うには、『もし、天下を愛しみ利する者を見つけたら、必ず上の者に報告せよ、もし、天下を嫌い傷める者をみつけたら、また必ず上の者に報告せよ。もし、天下を愛しみ利する者を見つけて報告する者は、その者もまた天下を愛しみ利する者なので、上の者は報告を得れば即座に褒賞し、衆はそれを聞いてその者を誉めるであろう。もし、天下を嫌い傷める者を見つけてもこれを報告しない者は、その者もまた天下を嫌い傷める者なので、上の者は報告を得れば即座にこれを処罰し、衆はこれを聞いてこの者を非とするであろう。』と。このような方法でこのように天下の人に周知すれば、皆はその長上からの褒賞や名誉を得ることを、その長上からの追放や処罰を避けようと願うだろう。このようにして民は善の行いや不善の行いを見つければこれを報告する。天子は善人の報告を得てこれを褒賞し、暴人の報告を得てこれを処罰する。善人は賞せられ、また、暴人は罰せられるならば、そうすれば天下は治まる。そうであるならばこのような天下が治まる理由の背景を考えると、それは何であろうか。それは、ただひたすら、衆の意を重ねて同調し正義の定義を一つにすることにより、政治を行うからである。
天下はこのように治まると、天子はまた天下の正義の定義をまとめ上げて、それにより天に衆の意を重ねて同調させる。このような訳で衆の意を重ねて同調させると言う尚同の説を行うのである。尚同の説を重んじて天子がこれを用いれば、それなら天下は統治することが出来よう、統治の中ごろに諸侯がこれを用いれば、きっとその国は治めることが出来よう、統治で小さくこれを家君がこれを用いれば、用いることでその家を治めることが出来よう。このような訳で、大いにこの尚同の説を用いると天下の統治に遺漏はなく、小さくこれを用いると一国一家を治めて政治が停滞することがないのは、このような尚同の説の説くところである。
このようなことで、天下の国を統治することは一つの家を治めるのと同じで、天下の民を使役することは一人の荷夫を使役するのと同じだと言う。それでは、ただ独り子墨子だけにこの尚同の説があるのだろうか、それとも先の時代の王にはこのような尚同の説は無かったのだろうか。それはまた先の時代の王にもあるのだ。聖王は皆、尚同の説の実践により政治を行い、それで天下は治まる。どのような理由でそれを知ったのか。それは先の時代の王の書の、『大誓』に載る言葉もそうだからだ。書に言うことには、『小人は悪だくみをみれば報告せよ、報告しないのなら、悪だくみが露見したときには罪は同じだ。』と。これは罪を犯す行いを見て報告しない者は、その罪は罪を犯すものと同じということなのだ。
そのため、古代の聖王は天下を統治するにあって、その補佐人を吟味し、それにより自らの左右の閣僚や補佐人として任命した者は、皆、良好であり、王宮の外の人で、聖王の民衆の生業を視聴することを補佐する者は多かった。そのため、聖王が人と共に事業を計画すれば、他の人に先行して事業は上手く運び、人と共同して事業を採用すると、他の人に先行して事業は成功し、広く名誉は上がり名声は広まり、他の人に先行して評判は現れた。己一人を信じ事業に行うべしと言うが、結果として利の表れはこの通りである。古代の格言に言うには、『一つの目で見ることは、二つの目で見ることに勝てない。一つの耳で聞くことは二つの耳で聞くことに勝てない。一人の手で持つことは二人の手の強さに勝てない。』と。それは己一人を信じ事業を行うべしと言っても、それでも利の表れはこのようなことだ。
このような訳で古代の聖王が天下を治めるにあたって、千里の外に賢人が住んでいるのに、その賢人が住む郷里の人は、皆、その賢人のことを等しく聞見もしていないのに、聖王はこの賢人の話を得て、もう賢人を賞賛している。千里の外に暴人が住んでいるのに、その暴人が住む郷里の人は、まだ、この暴人のことを等しく聞見もしてもいないのに、聖王はこの暴人の話を得て、もう暴人を処罰している。このことにより聖王を聰耳明目の人物とするだろうか。どうしてただ一視しただけで千里の外のことを見通すことが出来るだろうか。一聴しただけで千里の外のことすべてを聞くことが出来るだろうか。聖王は自身で出向いて視ることはしない、出向いて行って聴いたりもしない。然しながら、天下に叛乱盗賊を行う者が天下をめぐり渡ろうとしても、その盗賊たちの身の置き所を無くさせるものは、何であろうか。それは尚同の説をもって政治をおこなうことが善であるからである。
このような訳で、子墨子が言うには、『およそ、民にその意を重ねて上の者に同調することを求める者は、民を愛しむことに努力しなければ、民に尚同させることは出来ない。』と。言うには、『必ず努力して民を愛しみ、そして民に尚同させれば、民は上の者に信頼を寄せて尚同を行う。民に富貴を示して民を富貴へと導き、明罰を示して民を犯罪抑制へと導く。政治を行うのはこのようにし、私が説く尚同の説と同じことをしないと思っても、どうしてそのような政治をしないだろうか。』と。
この説くところにより、子墨子が言うには、『今、天下の王公大人士君子は、統治の方法論の中にあってはまことに仁と正義を行うことを願い、上等な士となることを願い、統治の方法論の上には聖王が為した政治の王道に匹敵することを願い、統治の方法論の下には国家百姓が求める利に適うことを願う。このために実に尚同の説は、必ず理解しないといけないし、尚同は政治の根本とし、そして治世の要点としなければいけない。』と。

第十四 兼愛上

聖人で天下を統治することをもって事業とする者は、必ず戦乱がどこから起きて来るのかを知れば上手く天下を統治し、戦乱がどこから起きて来るのを知らなければ上手く統治することが出来ない。これを例えれば、医者が病と闘うようなもので、必ず病がどこから生じて来たのかを知れば、きっと、病と上手く戦い、病がどこから生じて来たのかを知らなければ、病と上手く戦うことが出来ない。戦乱を治めることが、どうして、それだけが特別な話となるだろうか。必ず戦乱がどこから起きて来るのかを知れば、まず、上手に戦乱を治め、戦乱がどこから起きて来るのかを知らなければ、それでは戦乱を治めることはない。聖人で天下を統治することをもって事業とする者は、戦乱がどこから起きて来るのかを理解しなければならない。
そこで戦乱がどのような理由に起因するかを考察すると、それは互いに愛しまないことに起因する。臣下や子が君主や父に孝行を行わないのは、我が語るところでは戦乱の一つだ。子が自分だけを愛しみ父を愛しまないことでは、それでは父の立場を損ない、自分だけが利益を得ることになる。弟が自分だけを愛しみ兄を愛しまないことでは、それでは兄の立場を損ない、自分だけが利益を得ることになる。臣下が自分だけを愛しみ君主を愛しまないことでは、それでは君主の立場を損ない、自分だけが利益を得ることになる。この語るところは戦乱の一つだ。父は子を慈しまず、兄は弟を慈しまず、君主は臣下を慈しまないのも、これはまた語るところは戦乱の一つだ。父は自分だけを愛しみ子を愛しまないことでは、それでは子の立場を損ない自分だけが利益を得、兄が自分だけを愛しみ弟を愛しまないことでは、これでは弟の立場を損ない自分だけが利益を得、君主が自分だけを愛しみ臣下を愛しまないことでは、それでは臣下の立場を損ない自分だけが利益を得ることなのだ。これはどのようなことだろうか。それは皆が互いに愛しまないからである。
この話が天下の盗賊の者に至るとしても、同じである。盗賊は自分の一家を愛しんでもその他の一家を愛しまないから、それで他の一家の財を盗み自分の一家の利益を得る。盗賊は自分の身を愛しみ他人を愛しまないから、それで盗賊は他人の身ぐるみを剥ぐことにより、はぎ取った衣装で自分の身を守ることの利益を得る。これはどのようなことだろうか。それは皆が互いを愛しまないからである。大夫の一族は互いの関係が乱れ、諸侯の国は互いに攻略するような状況になったとしても、それはまた同じである。大夫は各々がその一族の者を愛しむも他の一族を愛しまないから、それで他の一族の混乱により自分の一族の利益を得、諸侯は各々のその国を愛しむも他の国を愛しまないから、それで異国を攻略することで自分の国の利益を得る。天下の戦乱はここに集約される。このような戦乱がどのような理由に起因するかを考察すると、それは互いに愛しまないことに起因する。
もし、天下にたいして互いに立場を尊重し互いに愛しみ、他人を愛しむことが自分の身を愛しむと同じようにさせれば、それでもなお、不幸な者がいるだろうか。父兄や君主のことを自分のことのように思えば、どうして不孝な行いを施すだろうか。それでも、相手を慈しまない者がいるだろうか。弟や子、臣下のことを自分のことのように思えば、どうして不慈の行いを施すであろうか。それで不孝や不慈の行いは無くなり、どうして盗賊が現れるだろうか。このように他人の一家を自分の一家のように思えば、誰が他の一家から盗むだろう。他人の身を自分の身のように思えば、誰が他人の身ぐるみを剥ぐだろう。このような理由で盗賊は現れないのだ。また、大夫の一族は互いに関係が乱れ、諸侯の国は互いに攻略することがあるだろうか。他人の一族を自分の一族のように思えば、誰が他人の一族を混乱させるだろうか。他の諸侯の国を自分の国のように思えば、誰がその国を攻略するだろうか。このような理由で大夫の一族で互いに混乱に陥り、諸侯の国で互いに攻略することは無くなる。
もし、天下に対して互いに立場を尊重し互いに愛しみ、国と国とは互いに攻略せず、家と家とは互いに混乱させず、盗賊は現れないようにすれば、君臣父子の皆はきっと孝慈となるであろう。このようなことで天下は治まるのだ。このため、聖人で天下を統治することを事業とする者は、どうして、憎むことを禁じ、愛しむことを勧めないのであろうか。そのような理由により、天下は「兼」、互いに立場を尊重して愛しめばきっと国は治まり、互いに憎悪すればきっと乱れる。このような訳で、子墨子が言うことには、『このようなことで、人を愛しむことを勧めない訳にはいかないのだ。』とは、このことである。

第十五 兼愛中

子墨子が語って言われたことがある、『仁を志す人が事業を行う理由とするものは、必ず天下の利を興し、天下の害を取り除く、このことを理由に事業を行うのだ。』と。それでは、その天下の利とは何であろうか。天下の害とは何であろうか。子墨子が語って言われたことには、『今、この国とこの国とが互いに攻め合い、この家とこの家とが互いに奪い合い、この人とこの人とが互いに傷つけ合い、君主と臣下とが互いに恵と忠とではなく、父と子が互いに慈と孝とではなく、兄と弟は互いに和み調わないようなものが、これが天下の害なのだ。』と。
それではこの害について考えてみると、それはなにごとかを用いるから生じるのであろうか。互いに愛しまないから生じるのだろうか。子墨子が言われたことには、『互いに立場を尊重し互いに愛しまないからだ。』と。今、諸侯は自分の国を愛しむが人の国を愛しまず、このことにより自分の国を挙げて人の国を攻略することを憚らない。今、一家一族の家の主は自分の一家を愛しむが人の一家を愛しまず、このことにより自分の一家のものどもを挙げて人の一家の領地を奪うことを憚らない。今、人は自分の身を愛しむが人の身を愛しまず、このことから人の身ぐるみを剥ぎ取ることを憚らない。このような理由で、諸侯が互いに愛しまなければ、きっと、野戦を戦い、家主が互いに愛しまなければ、きっと、互いに領地を奪い合い、人と人とが互いに愛しまなければ、互いに盗み合い、君主と臣下が互いに愛しまなければ、互いに恵忠ではなく、父と子が互いに愛しまなければ、互いに慈孝が出来なく、兄と弟が互いに愛しまなければ、互いに和調が出来ない。天下の人の皆は互いに愛しまないと、強者は必ず弱者を支配し、富者は必ず貧者を侮辱し、身分が貴い者は必ず身分が賤しい者に驕り、欺者は必ず愚者を欺くだろう。およそ、天下の禍乱、簒奪、怨恨などの、その起こる原因は、互いに愛しまないことにより生じるのだ。それで、仁なる者は互いに愛しまないことを非とするのだ。
この互いに愛しまないことを非とするならば、どのようにしてこの現実を変えたらいいのだろうか。子墨子が語って言われたことには、『互いに立場を尊重し互いに愛しみ、互いに相手を利させる、この決まりを作って、現状を変えたらよい。』と。そうすると、互いに立場を尊重し互いに相手を愛しみ、互いに相手を利させる、この決まりは、どのようにして作ればいいのだろうか。子墨子が言われたことには、『人の国のことを考えるときは自分の国のことを考えるように、人の一家のことを考えるときは自分の一家のことを考えるように、人の身の周りのことを考えるときは自分の身の周りのことを考えるようにすれば良い。』と。このようにすれば、諸侯は互いに愛しみあえば野戦を戦うことは無く、家主が互いに愛しみあえば互いに領地を奪い合うことも無く、人と人が互いに愛しみあえば互いに盗み合うことも無く、君臣が互いに愛しみあえば互いに恵忠となり、父と子が互いに愛しみあえば互いに慈孝となり、兄と弟が互いに愛しみあえば互いに和み調う。天下の人が皆、互いに愛しみあえば、強者は必ず弱者を支配せず、富者は必ず貧者を侮辱せず、身分が貴い者は必ず身分が賤しい者に驕らず、欺者は必ず愚者を欺かないだろう。およそ、天下の禍乱、簒奪、怨恨などが起きることを無くさせるものは、互いを愛しみあうことに生まれ、このことにより、仁なる者はこの互いの行いを誉めるのだ。
しかしそうではあるが、今、天下の士君子が言うには。『なるほど、そのように互いに立場を尊重し互いに愛しむようなことは、いいことだ。そうではあるが、それは天下の難物で行うに迂遠なことだ。』と。子墨子が語って言われたことには、『天下の士君子は、ことさら、「兼」を行う、その利を知っただけで、「兼」を行わない、その害を議論しないだけなのだ。』と。今、ある城を攻め、野に戦い、自身の身を殺して世に名を揚げるようなことは、これは天下の百姓の皆が難事(出来ない)とするものであるが、しかしながら君子がこれを説けば、士の衆はきっとこの百姓たちが難事とする戦いを行う。まして、互いに立場を尊重し互いに愛しみ、互いに相手を利させる、この決まりを行わせることは、このような難事とは異なるのである。人を愛しむ者は、人は必ずその愛しみにより、その者を愛しみ、人を利する者は、人は必ずその利することにより、その者を利し、人を憎む者は、人は必ずその憎しみにより、その者を憎み、人を害する者は、人は必ずその害することにより、その者を害する。これには何か難しいことがあるのだろうか。殊更、上の者はこれを統治の手段として行わず、士分の者はこれを方法として行わないからである。
昔、晋文公は士の粗末な服装を好み、そのために文公の臣下は、皆、牝羊の皮衣を着、皮紐で剣を帯び、ねり絹の冠をかぶり、その姿で王宮に入って国君に拝謁し、宮に出て朝廷で政務を執った。この行いの理由は何だろうか。国君はこれを誉めたので、そのために臣下はこれを行ったのだ。昔、楚の靈王は士の痩身を好んだので、それで靈王の臣下は、皆、一日一食を節度とし、脇腹で息をしながら剣を帯び、垣に寄り掛かって立ち上がり、一年も過ぎると朝廷の官吏の顔に病み衰えた黒い色があった。この行いの理由は何だろうか。国君はこれを誉めたので、そのために臣下はこれを行ったのだ。昔、越王句踐は士の武勇を好み、その臣下を教育訓練し、掛け声を合わせて舟を焼き、火矢を放ち、その兵士に試して言うには、『越国の宝は、すべて、ここに居る。』と。越王は自身でその兵士たちを鼓舞して進軍させた。兵士たちは進軍の鼓の音を聞いて、隊伍の列を破り、行軍の順を乱して、火中に踏み込み死亡する者が左軍右軍に百人余りがいた。越王は鐘を打ち鳴らして行軍を退却させた。このような行いの理由を子墨子が語って言われたことには、『そのような小食や粗末な衣装、己が身を殺して名を揚げるようなことは、これは天下の百姓の、皆が難事とするものだ。』と。もし、仮に国君がそれを誉めれば、衆はきっとこれを行う。まして、互いに立場を尊重し互いに愛しみ、互いに相手を利させる、この決まりを行わせることは、このような難事とは異なるのである。人を愛しむ者は、人もまたその愛しみにより、その者を愛しみ、人を利する者は、人もまたその利することにより、その者を利し、人を憎む者は、人もまたその憎しみにより、その者を憎み、人を害する者は、人もまたその害することにより、その者を害する。これには何か難しいことがあるのだろうか。殊更、上の者はこれを統治として行わず、士分の者はこれを行わないからである。
しかしそうではあるが、今、天下の士君子が言うには、『なるほど、「兼」、互いに立場を尊重するようなことは、いいことだ。そうではあるが、実行するのは難しいもので、例えば、太山を引っ提げて黄河や濟水を越えるようなものだ。』と。子墨子の言われたことには、『これはその例えには当たらない。』と。その例えは、太山を引っ提げて黄河や濟水を越えるということは、それは究極の力持ちと言うべきものであって、古代から今までに未だそのようなことを行った者はいないのだ。ところが、「兼」、互いに立場を尊重し互いに愛しみ、互いに相手を利させる決まりを行わせることは、それとは違い、古代の聖王はこれを行ったのだ。どのようなことでそのことを知ったのか。古代の禹王は天下を治め、西は西河に漁竇の水路を作り、それにより渠孫皇の水路の水を交え、北は原泒に堤防を築き、后の邸に川水を注ぎ、呼池の竇で、黄河の川筋を分かち、底柱山を作り、山を鑿ち、龍門を作り、それにより燕、代、胡、貉と西河の民を利した。東は陸地の水を流し、孟諸の澤に堤防を築き、流れを変えて九澮とし、それにより東方の大地の水を制御して、その結果として冀州の民を利し、南は江、漢、淮、汝の河川を治め、東流させて、五湖の一帯に注ぎ、それにより荊、楚、干、越と南夷の民を利した。これは禹王の「兼」、互いに立場を尊重することを行うと云うことを言い、私は、今、「兼」、互いに立場を尊重することを行うのだ。
昔、文王は西方の国土を治めるにあたって、太陽のように月のように、王の御威光を西方の四方に及ぼし、それで大国は小国を侮辱せず、衆庶の民は独居老人を侮辱せず、暴徒は農民の黍、稷、犬、豚などの穀物家畜を奪わなかった。天は文王の慈悲の行いを心にかけて応対し、これにより年老いて子がいない者も無事に寿命を終えることが出来、孤独で兄弟のいない者も生業を行う人々と混じり合うことが出来、幼くして父母を失った者も人の助けを得て成長することが出来た。これは文王の事績である。それで、私は「兼」、互いに立場を尊重することを行うのだ。昔の武王は、泰山の洞窟で祭事を行い、伝えて言うには、『泰山、有道の曾孫、周王はここに祭事を行い、殷を討伐する大事を既に獲た。仁の人によって商・夏の蛮夷・醜貉の民が我を敬うことを為すことへ意を重ねることを願う。たとえ、親戚であるとしても、仁なる人には及ばない。もし、万国に天の罪が有るのならば、その罪は私一人にある。』と。これは武王の「兼」、互いに立場を尊重することを行うと云うことを言い、私は、今、その「兼」、互いに立場を尊重することを行う。
このような訳で子墨子が語って言われたことには、『今、天下の君子、まことに天下が富むことを願い、そして天下が貧しくなることを憎み、天下が治まることを願い、そして天下が乱れることを憎むのならば、互いに立場を尊重して互いが愛しみ、互いにそれぞれを利するべきである。これは聖王の法であって、天下の統治の道であり、実行しない訳にはいかないのだ。』と。

第十六 兼愛下

子墨子が語って言われたことには、『仁を志す人の事業は、必ず努力して天下の利を興すことを願い、天下の害を除くことである。』と。それでは、今、この時代にあって、天下の多くの害の内、どれが大きいのであろうか。言われたことには、『大国は小国を攻め、大家は小家を混乱させ、強者は弱者を脅かし、大衆は寡少を害し、詐者は愚者を騙し、貴人は賤民に驕るようなもので、これが天下の害である。また、人の君主が不恵であること、臣下が不忠であること、父が不慈であること、子が不孝であること、これもまた天下の害である。また、今、人が人を卑しめ、その兵器・毒薬・水攻め、火攻めを使って互いに危害を加えるようなものが、これまた天下の害である。』と。
ここで試しに、このような多くの害が生まれてくる、その原因を考えてみるに、これらはどこから生まれて来たのであろうか。この害が生まれる原因は、人を愛しみ、人を利することから生まれたのだろうか。すぐにきっと、そうでは無いと言うだろう、必ず人を憎み、人を損なうことから生まれたと言うだろう。天下の人を憎む者、人を損なうものに名を付けるとすると、「兼」、互いに立場を尊重すると名付けるだろうか。「別」、互いに分別すると名付けるだろうか。すぐにきっと、「別」と名付けると言うだろう。それならば、つまりこのような(互いに強者と弱者のように)それぞれに分別するものが、やはり、天下の大害を生むのだろうか。それで、子墨子が言われたことには、『互いに分別することは非なのだ。』と。
子墨子の言われたことには、『他人を非と否定する者は、きっと、それに換わるものがあるのだろう。もし、他人を非と否定していながら、それに換わるものがないのなら、これを例えると、まるで、水を使って火を燃え上がらせるようなものだ。その説は、まずきっと、無意義なものになるだろう。』と。このようなことで、子墨子が言われたことには、『「兼」、互いに立場を尊重することによって、「別」、互いに分別することを変えるのだ。』と。それではその、互いに立場を尊重することによって互いに分別することを変えるべき理由は何だろうか。言われたことには、『もし、他人の国のために行うものが、自分の国のために行うもののようであれば、すると誰が自分の国の人々を挙げて、その軍勢で他人の国を攻める者がいるだろうか。他に行うものは、それは己がために行うものなのだ。他人の都のために行うものが、自分の都のために行うもののようであれば、すると誰がその都の人々を挙げて、その大衆で他人の都を討伐する者がいるだろうか。他に行うものは、己がために行うものなのだ。他人の家のために行うものが、自分の家のために行うもののようであれば、すると誰が自分の家の衆を挙げて、その衆で人の家を騒乱させる者がいるだろうか。他に行うものは、己がために行うものなのだ。それでは、そこで、国や都は互いに攻伐をせず、人々の一族一家が互いに騒乱盗賊をしないとすると、これは天下の害であろうか。天下の利であろうか。きっと必ず天下の利と言うであろう。』と。それでは試みにこのような多くの利が生まれる原因を確かめるとするなら、これはどこから生まれるのだろうか。多くの利は人を憎み、人を損なうところから生じるのだろうか。すぐにきっとそうでは無いと言うだろう。必ず人を愛しみ、人を利するところから生じたと言うだろう。天下の人を愛しみ、そして人を利するものに名を付けるとすると、「別」、分別するであろうか。「兼」、互いに立場を尊重するであろうか。すぐにきっと「兼」、互いに立場を尊重すると言うだろう。それでは、この「兼」、互いに立場を尊重するというものは、つまり天下の大利を生むものなのだろうか。それで子墨子が言われたことには、『「兼」、互いに立場を尊重することは、是なのだ。』と。さて先ほどの私の始めの言葉に行ったことに、『人が仁を志す事業とは、必ず努力して天下の利を興すことを願い、天下の害を除くことにある。』と。今、私が「兼」、互いに立場を尊重する行為が生じるところを利の根源とするのは、天下の大いなる利となるものだからだ。私が「別」、互いに分別する行為が生じるところを害の根源とするのは、天下の大いなる害となるものだからだ。このために、子墨子が言われたことには、『「別」、互いに分別することは非であり、「兼」、互いに立場を尊重することは是である。』と。これはここまでに説明してきた物事の有り様に示されるのだ。
今、私はまさしく統治にあって天下の利を興し、この利を民に取らせようと願うならば、「兼」、互いに立場を尊重することは正であり、これにより民は聡耳明目により互いに相手の動きを視、言葉を聴くだろう。これにより身体を精一杯に互いの為に動かし、そして徳(人への公平な分配)の道を持つ者は熱心に相手を教育し悔い改めさせるだろう。このようであれば、老いて妻子がいない者も、養ってくれるところがあり、その寿命を終えるだろうし、幼少の孤児で父母のいない者も、人の助けを得てそれにより成長が出来るだろう。今、ただひたすら、「兼」、互いに立場を尊重することをもって統治を行えば、きっと、このような利がある。ところが、天下の士は、皆、「兼」、互いに立場を尊重することと言う言葉を聞いて、その行いを非とする理由は、いったいどのような訳なのだろうか。
しかしながら、天下の士で「兼」、互いに立場を尊重するということを非とする者の言論は、今まだ止まない。彼らが言うには、『その「兼」は良いことだ。しかしながら、現実社会でどうやってそれを行うことが出来るのか。』と。子墨子の言われたことには、『やってみて、そして上手くいかなければ、さすがの私も非と言います。それにどこに善の行いを、それを行うことが出来ないはずだとする者はいないでしょう。』と。
ここで試みに二人の士を例にして出来るのか、出来ないのか、それを試みてみよう。誰かを仮に二人の士とし、その一人の士に互いに分別することの立場を取らせ、もう一人の士に互いに立場を尊重することの立場を取らせる。そうすると、「別」、互いに分別をする士が言うには、『私はどのような訳で私の友の身のために行うことを、私の身のためにするのと同じようにし、私の友の親のために行うことを、私の親のためにするのと同じようにしないといけないのか。』と。これを一歩下がってその友の様子を眺めてみると、「別」、分別をする士は、友が飢餓に遭遇しても食事を与えず、寒さに遭遇しても衣服を与えず、疾病でも助けず、死してその葬儀でも埋葬しない。「別」、互いに分別をする士の言葉はこのようであり、行いもこのようである。「兼」、互いに立場を尊重することを行う士の言葉はそうではなく、行いもまたそうではない。言うには、『私の聞く天下の志の高い士たる者は、必ずその友の身のために行うことは、自分の身のためにするのと同じようにし、その友の親のために行うことは、自分の親にためにするのと同じようにする。そのような行いの後に天下の志の高い士たる者となる。』と。これを一歩下がってその友の様子を眺めてみると、「兼」、互いに立場を尊重することを行う士は、友が飢餓に遭遇すると食事を与え、寒さに遭遇すると衣服を与え、疾病では助け、死してその葬儀では埋葬する。「兼」、互いに立場を尊重することを行う士の言葉はこのようであり、行いもこのようである。このような二人の士の行いは、その言葉は互いに非とし、またその行いは互いに相反とするだろう。そこでこのような二人の士に対しては、言葉は必ず「信」、誠実で信頼であるようにし、行動は必ず「果」、成果や実態を持たせ、言葉と行動を合わせることはちょうど割符を合わせるように一致させ、言葉を発して行動が伴わないことが無いようにさせなければいけない。
その仮定条件で、それではここで、質問をしよう。今、ここに平原広野があるとし、甲冑を被り、兜を被りちょうど出陣して戦うとしよう、その死と生の見極めのそれはまだ判らない、また、君主の大夫の者が遠く巴、越、齊、荊に使いをしたとしよう、往来してそこに到着したかしないかのそれはまだ判らない。さて、質問しよう。(事の前に)一家一族を憎み、親戚を諂っていても、留守中の妻子の暮らしを託するなら、それならばどのような者に妻子を寄託するのが良いとするだろうか。「兼」において、どうするかは知らないが、この「兼」の立場を執る者に是、寄託するだろうか。それとも「別」において、「別」の立場を執る者に是、寄託するだろうか。私が思うのに、この場合には、天下に愚夫愚妻はおらず、「兼」を非とする人であって、やはり、留守中の妻子を託するのには「兼」の人とすることを是とするだろう。このように言葉では「兼」を非としても、選択ではきっと「兼」を取る。つまりこの言動は背反しているのである。そもそも天下の士の、皆が「兼」の言葉を聞いて、これを非とするものの理由は、一体、何なのだろうか。
しかしながら、天下の士で「兼」、互いに立場を尊重するということを非とする者の言論は、今まだ止まない。言うことには、『考えてみると「兼」か「別」かの士を選べても、だからといって「兼」か「別」かの君主を選ぶことは出来ないだろう。』と。ここで試みに二人の君主を例にして出来るのか、出来ないのか、それを試みてみよう。誰か仮に二人の君主とし、その一人の君主に、「兼」、互いに立場を尊重することの立場を取らせ、もう一人の君主に「別」、互いに分別することの立場を取らせる。そうすると、「別」、互いに分別をする君主が言うには、『私はどのような訳で我が万民の身のために行うことを、私の身のためにするのと同じようにしないといけないのか、このことは非常に天下の君王が為すべき情けではない。人が地上に生きて行く時間はいくばくも無いことだ。これを例えると四頭だての馬車をわずかの隙間から疾走して行く様を見るような瞬間のことだ。』と。このような有り様に対して一歩下がってこの君主の下の万民を眺めると、万民が飢餓にあっても食を与えず、寒さにあっても衣服は与えず、疾病にも療養せず、葬儀の死体は埋葬しない。「別」の立場の君主の言葉はこのようなものだ。行動もこのようなものだ。「兼」の立場の君主の言葉はそうでは無く、また、行動もそうではない。言うことには、『私が聞く天下の明君とされる者は、必ず先に万民の身のことを行い、その後に自分の身のことを行い、その後にそれにより天下の明君となるだろう。』と。このことから一歩下がってその万民を眺めると、万民の飢餓には食を与えられ、寒さには衣服を与えられ、疾病には療養され、葬儀の死体は埋葬される。
「兼」の立場の君主の言葉はこのようであり、行いもこのようである。それではそれぞれこのような二人の君主の行いは、その言葉は互いに非とし、またその行いは互いに相反とするだろう。そこでこのような二人の君主に対しては、言葉は必ず「信」、誠実で信頼であるようにし、行動は必ず「果」、成果や実態を持たせ、言葉と行動を合わせることはちょうど割符を合わせるように一致させ、言葉を発して行動が伴わないことが無いようにさせなければいけない。
その仮定条件で、それではここで、質問をしよう。今年、流行の疾病がはやり、万民の多くは苦難にあって寒さと飢えに苦しみ、水路に死体を棄てられるものが、すでに多いとしよう。それでは、これから主従する時に、この二人の君主のどちらかを選ぶとすると、どちらの君主に従うだろうか。私が思うのに、この場合には、天下に愚夫愚妻はおらず、「兼」を非とする人であって、必ず「兼」の立場の君主に従うことを是とするだろう。このように言葉では「兼」を非としても、選択ではきっと「兼」を取る。つまりこの言動は背反しているのである。そもそも天下の皆は「兼」の言葉を聞いて、これを非とするものの理由は、一体、何なのだろうか。
しかしながら、天下の士で「兼」、互いに立場を尊重するということを非とする者の言論は、今まだ止まない。言うには、『「兼」は、つまり、仁であり、正義なのだろう。だからと言って「兼」を行うべきなのか。』と。私の「兼」の行いをしない訳にはいかないことを例えて述べても、それでも、「兼」を行うことは泰山を手に持ち下げて長江・黄河を越えると同じようなものだ。だから、「兼」の説を唱える者はただそれを願っているだけで、それがどうして実現できるものだろうかと言う。子墨子の言われたことには、『泰山を手に持ち下げて長江・黄河を越えることは、古代から今までの、民が生まれて以来、そのようなことは無かったのだ。今に取り上げる、その「兼」の行いで互いに愛しみ、それぞれが互いに利するようなことは、これは先の時代の六人の聖王の時代からその聖王たちによりこれを行っていたのだ。』と。どのような事でその六人の聖王がそれぞれに行っていたことを知ったのか。子墨子の言われたことには、『私がそれぞれのその時代に時を同じくし、その時の聖王の声を聴き、その聖王の様子を見ることは出来ない。その時のことを竹簡・帛布に書き、金石に刻み、槃盂に彫り、後世の子孫に伝えようと残したものからこのことを知るだけだ。』と。泰の『誓』に言うには、『文王の御威光は太陽のようで月のようで、その御威光は四方の西方の国々を照らした。』と。このことは、文王の天下を「兼」の行いにより民を愛しむことは広く大きいことを言い、これを日や月が、天下を照らす、この行いに私事が有るのか、無いのかを例えているのだ。つまりこれが文王の「兼」の行いなのだ。子墨子が唱える「兼」の行いのものであっても、文王の「兼」の行いに法、規範を取っているのだ。
それに泰の『誓』だけがそのように言っているだけでなく、禹王の『誓』もまたこれと同じことを言っている。禹王の『誓』に言うには、『たくさんの多くの諸侯がここにいる、皆、私の言葉を聞け、このものどもよ、むやみに事を為して戦乱を引き起こすのではない、うごめくこの有苗族たちに天の罰を与えよう。ここに私はお前たち多くの国を託された諸侯たちを率いて、有苗族を征伐する。』と。禹王が有苗族を征伐したことは、それにより富貴を重ねることで、財の福禄を求め、快楽で耳目を楽しむためではなく、それによって天下の利を興し、天下の害を除くことを図ったからだ。つまりこれは禹王の「兼」の行いなのだ。子墨子の唱える「兼」の行いのものも、禹王の「兼」の行いに規範を取っているのだ。
さらに、ただ禹王の『誓』だけがそのようなのではなく、湯王の『説』もまたこれと同じなのだ。湯王が言ったことには、『ここに、私、小子である履は、黒い牛を犠牲に用いて、上天后に告げ申し上げる。』と。『今、天下は大いに干ばつで、それは我が身、履が被っており、まだ、その干ばつの罪の訳を上には天神、下には地神から得たのかを知らない。善があるならば隠すことなく、罪があるならば許すことなく、その選択は上帝の御心にある。天下のすべての国に罪があるのなら、その罪の理由は我が身にあり、我が身に罪があるのなら、天下のすべての国に罪が及ぶことはしないで欲しい。』と。つまり、この湯王の貴いことに天子となり、富は天下に保有していても、それでも身をもって天神を祀る犠牲となり、それにより上帝鬼神を祀り願うことを控えなかったことを言うのだ。つまり、これは湯王の「兼」の行いなのだ。子墨子の唱える「兼」の行いのものであっても、湯王の「兼」の行いに法、規範を取っているのだ。
さらに、泰や禹王の『誓』の命題や湯王の『説』だけがそのようなのではなく、周の『詩』もまたこれと同じなのだ。周の『詩』に言うことには、『王道は平らかであり、偏らず徒党をくまない。王道は平明で、徒党を組まず偏らない。その直きことは矢のようで、その平らかことは砥石のようで、君子の行うことがらは、小人の見習うところである。』と。このような私が語る説は政道を語ったのではなく、古代の文王や武王は統治を行うに、分配は公平に行い、賢人を褒賞し暴人を処罰し、親戚や弟兄を特別に優遇することはなかった。つまりこの統治の行いは文王や武王の「兼」の行いなのだ。子墨子の唱える「兼」の行いのものであっても、それは文王や武王の「兼」の行いに法、規範を取っているのだ。どうして、天下の人々が、皆、「兼」の説を聞いてこれを非とする、その理由は、一体、どこにあるものなのだろうか。
しかしながら、天下に「兼」、互いに立場を尊重するということを非とする者の言論は、今まだ止まない。彼らが言うことには、『思うに、親の利である忠(親に仕えること)を為さない上に、そして孝(親に従うこと)に害がある』と。子墨子の言うことには、『それでは、試みにこのことを孝なる子が親のために行う者に対し論題としてみよう。』と。私が述べる、孝なる子が親のために物事を行うのは、それはまた他人のその親を愛しみ、利することを願うためなのか。それとも他人のその親を憎み、憎悪することを願うためなのか。論説からこれを観ると、つまり、「兼」、互いに立場を尊重することは、他人のその親を愛しみ、利することを願うためである。そうすると、私は最初に人の親に愛利を行って、そして、私の忠や孝の立場を得るのか。それとも、私が最初に人の親を愛しみ、利することを行い、その後に人が私の行った恩に応えるために私の親を愛しみ、利し、人は忠や孝を得るのだろうか。考えてみるに、私が最初に人の親を憎むことを行い、その後に人は私の悪行に報いるために私の親を愛しみ、利することで、人は忠や孝を得るのだろうか。(ちがうだろう。)きっと、必ず私がまず人の親を愛しみ、利することを行い、その後に人は私の行いの恩に応えるために私の親を愛しみ、利することで、人は忠や孝を得るだろう。そうすると、この互いに孝なる子であることとは、相互にそうしないといけないことなのか、それとも反対給付として先に人が他の人の親を愛しみ、利することを行わなければいけないのか。このことを考えてみると、天下の孝なる子はたまたまの小数者であって、そのために「兼」なる、互いに立場を尊重して正しい行いをするのには孝なる子が足りないと言うことなのか。
それでは、試みに先の時代の王の書に載ることがらについて論題としてみよう。「大雅」の示すことがらに言うには、『言葉を発すれば応答があり、徳を行えば応礼がある。私に与えるものが桃ならば、この応礼に李を用いる。』と。つまり、これは人を愛しむと言う者は必ず愛しみに出会い、対して人を憎む者は必ず憎しみに出会うと言うことなのだ。どうして、天下の士が、皆、「兼」の説を聞いてこれを非とする、その理由は、一体、どこにあるものなのだろうか。考えてみるに、「兼」を行うことは難事であって、それで行うことは出来ないとでも思っているのだろうか。しかし、かつてこの「兼」を行うことよりも難事であっても、それでもそれを行ったことがあるのだ。昔、荊の靈王は痩身の者を好んだ。靈王の時代には荊國の士の食事は一皿を超えず、強く杖に寄り掛かって立ち上がり、垣に寄り添って歩いた。このように食事を節制することは難事とするが、その節制の後に靈王はその成果の痩身の者を誉めた。まだ、靈王の治世の代替わりもしない、その短い期間でも民の風習を変えた可能性は、つまり、民が持つ上の者の好み・歓心に沿うことを願う心にある。昔の越王句踐は武勇を好んだ。その士臣に教えること三年、己の認知ではまだ士臣の武勇を知ることに足りないと思い、舟を焼き、火矢を発して、進軍の太鼓をたたき軍勢を進ませた。その軍勢は前進姿勢のままに倒れ、水や火の中に倒れ伏して死に、死者は数えることが出来ないほどであった。この時に、退軍の太鼓をたたいても退軍せず、その越國の士の武勇は振るうと言うべきだろう。このように身を焼くことを行うことは難事であっても、越國の士はこの身を焼くことを行い、越王はこれを誉めた。まだ、越王の治世の代替わりもしない、その短い期間でも民の風習を変えた可能性は、つまり、民が持つ上の者の好み・歓心に沿うことを願う心にある。昔、晋の文公は質素な服を好んだ。文公の時代、晋国の士は、粗布の衣を着、牝羊の皮衣を被り、練り帛の冠を付け、薦の沓を履いて、宮殿に入って文公に拝謁し、朝廷に出ては朝議に臨んだ。このように質素な服装を身に着けることは難事であっても、それでも質素な服装を身に着け、そして文公はそれを誉めた。まだ、文公の治世の代替わりもしない、その短い期間でも民の風習を変えた可能性は、何であろうか。それは、民が持つ上の者の好み・歓心に沿うことを願う心にある。
このように、食を節制し、舟を焼き、質素な服を着る、これらは天下にあっては行うことが難事のものである。しかしながら、その難事を行うことを上の者はこれを誉める。治世が代替わりもしない、その短い期間でも民の風習を変えた可能性は、何であろうか。つまり、それはその上の者の好み・歓心に適うことを願ったからである。今、「兼」の行いをして互いに愛しみ、それぞれが互いに利するように、このような、そこに利があり、また、行い易いことは、強いて説明する必要は無い。私が考えるのに、上の者が何事かを誉めるものがあれば、民はそれを止めることはない。それならば、上の者が何事かを誉めることが有れば、その何事かを為すことを推薦するのに褒賞名誉で行い、その何事かをなすことを脅すのに刑罰で行えば、私が思うに、人は「兼」の行いをして互いに愛しみ、それぞれが互いに利することに従うだろう。これを例えれば、ちょうど、火が上に立ち上り、水が下に流れるのと同じように、天下にそれを為すことを防ぎ止めることは出来ないだろう。
従って「兼」、互いに立場を尊重することの行いは、聖王の道であり、王公大人の安堵する理由であり、万民の衣食が足ることがらなのだ。このために君子は「兼」の行いを詳しく理解し、そしてこれを行うことに努力する以外にはなく、人として君主の立場となっては必ず恵みを、人として臣下の立場となっては必ず忠心を、人として父の立場となっては必ず慈しみを、人として子の立場となっては必ず孝心を、人として兄の立場となっては必ず友として、人として弟の立場となっては必ず悌(年長者への敬い)でなければいけない。このため、君子は、(人が)恵君、忠臣、慈父、孝子、友兄、悌弟となることを願わない訳にはいかず、この「兼」の行いのようなものは行わない訳にはいかないのだ。これは聖王の道であり、そして万民の大いなる利なのだ。

第十七 非攻上

今、ある人がいて、その人は果樹園に入り、その桃や李を盗む、衆はこれを聞いてその行いを非とする。上の者で政治を行う者はこの報告を得て、この者を処罰する。これはどういうことだろうか。それは他人に損害を与え、自分の利とするからである。人が犬・猪・鶏・豚を盗むような者となっては、それは正義では無く、なおさら、人が果樹園に入って桃や李を盗むより罪の重さは甚だしい。これはどういうことだろうか。人に損害を与えることがいよいよ多いことにより、その仁でないことは甚だしく、その罪はますます重いからだ。人が厩舎に入って、人の馬や牛を盗み取るような者となっては、それは仁では無く、なおさら、人の犬・猪・鶏・豚を盗むより罪は甚だしい。これはどういうことだろうか。その人に損害を与えることがますます多いからである。つまり、人に損害を与えることがますます多いことは、その仁ではないことは甚だしく、罪はますます重い。罪の無い人を殺し、その衣服を奪い、戈や剣を奪い取るような者となっては、それは正義では無く、なおさら、人の厩舎に入り馬や牛を盗み取るよりも罪は甚だしい。これはどういうことだろうか。その人に損害を与えることがますます多いからである。このように人に損害を与えることがますます多いことは、その仁でないことは甚だしく、罪はますます重い。このような場面では、天下の君子は、皆、そのことを知ったのちにこのことを非とし、これを正義では無いと言う。今、大いに国を攻めることを行うに当たっては、他国を攻めることを非とすることを理解せず、そのうえで攻略を誉め、攻略を正義と言う。このことは正義と不正義との区別を理解していると言うことが出来るだろうか。
一人を殺すとこれを不正義と言い、必ず一人を殺した刑罰が有るが、もし、この説明を使うとするならば、十人を殺すと不正義は十倍となり、必ず十人を殺した刑罰があり、百人を殺せば不正義は百倍となり、必ず百人を殺した刑罰が有るだろう。このことはつまり、天下の君子は、皆、これを理解して、そしてこの殺人の行為を非とし、これを不正義と言う。今、大いに不正義を行い、国を攻めることは、つまり、攻略で人を殺すことを非とすることを理解せず、そのうえで攻略を誉め、これを正義と言う。考えると、このことは不正義を理解していないのだ。そのような訳で、他国を攻略し、それが正義だとした言葉を書いて後世に遺す。もし、その他国を攻略することの不正義を理解していれば、いったいどのような理屈により、その他国を攻略した不正義を書き、それを後世に遺すだろうか。
今、ここにある人がおり、ちょっと黒を見て言うには、『黒』、じっと黒を見て言うには、『白』と。すると、このことからするとこの人は白と黒の区別を知らないのだ。ちょっと苦みを舐めて言うには、『苦い』、たっぷり苦みを舐めて言うには、『甘い』と。すると、きっとこの人に対して甘いと苦いとの区別を知らないとするだろう。今、小さく非を行えば、すると、それは非の行いだと理解する。大いに国を攻める非を行えば、すると、それを非の行いだと理解せず、そのうえで攻略を誉め、攻略は正義だと言う。ここに正義と不正義との区別を理解していると言えるのだろうか。このことにより、天下の君子の、正義と不正義との区別の乱れを知るのだ。

第十八 非攻中

子墨子の語って言われたことには、『古代の王公大人が、政治を国家に行う者は、まことに名誉の基準を明確にすることを行い、賞罰にあっては、刑事と政治に過失がないことを願っていた。』と。このことにより、子墨子が言われたことには、『古代の者に語録があり、計画しても結果が得られなければ、既往のことから将来のことを理解し、発見により隠蔽を知る。計画することがこのようであれば、結果を得て、その物事を理解するべきなのだ。』と。
今、軍の動員はしきりに行われ、冬の行軍は寒さを恐れ、夏の行軍は暑さを恐れる。つまり、冬と夏はこのことから行軍は行うべきではない。春の動員は民の耕作や果樹の生業を止め、秋の動員は民の収穫の生業を止める。今、わずかに一季節の生業を止めても、それでも百姓は飢えと寒さに凍えて死ぬものは数えきれないほどだ。今、仮に軍の動員の利を計算してみると、弓矢、旗印や陣幕、鎧や盾・大盾を揃えて出撃しても損耗・破損して持ち返れないものは数えきれない。また、矛や戟、戈や剣、馬曳戦車を揃えて出撃しても砕け折れ損傷して持ち返れないものは数えきれない。さらに、その従軍する牛や馬は肥えた姿で行くが、痩せた姿で返り、また、従軍し死亡して返ってこない牛や馬は数えきれない。さらに、戦場への道程は遥かに遠く、糧食は兵站が途絶えて補給が続かず、従軍する百姓で死亡する者は数えきれない。さらに、百姓たちの故郷での暮らしは不安定で、日々の食事は一定ではなく、端境期の飢えと収穫期の飽食とがあるはずが季節に寄らずに飢えが現れ、百姓が行軍の道中に疾病に遭い死亡する者は数えきれない。軍勢を失う場面の多いことは数えきれなく、軍勢を失い全滅することは数え切れない。そして、里で祀られるはずの鬼神がその祀りを行うはずの神主を失うことは数えきれない。
国家が政令を発して、民の財産を奪い、民の利を無駄にする、このようなことは甚だ多い。そうではあるが、どのような理由で戦争を行うのか。言うことには、『我々の戦勝の名誉を誇り、さらに占領により利を得ることを計画する。その利のために戦争を行う。』と。子墨子の語って言われたことには、『その自分たちが勝ったことの利を確認してみると、利用すべき利点は無い。』と。その戦勝で得るものを確認すると、反って失うことの方の多いことに及ばないだろう。今、三里四方の城、七里四方の城郭を攻めるとする。これを攻撃するに精兵を用いず、それも敵を殺すこともしないで、そのままに得ることが出来るだろうか。人を殺すこと、多い場合は必ず万の数字を数え、少ない場合でも千の数字を数える。その後に三里四方の城、七里四方の城郭を獲得することが出来るだろう。今、戦車の動員力が万ほどの大国の内には、廃城の数は千を数え、戦争に勝たなくても広く地味が肥えた土地への入植が出来るところの数は万を数え、戦争に勝たなくてもその土地を開拓できる。そうであるならば土地はあまり有ることがらで、士や民は不足することがらだ。今、士や民の死を尽くし、下の者が上の者を批判することを厳密に取り締まり、それにより空き城を奪い合う。つまりこのことは、足りないものを捨てて、そして余っているものを大切にすることなのだ。政治を行うことがこのようであれば、それは国が行うべき責務では無いのである。
攻撃や戦闘の場面を讃える者が語って言うには、『南、すなわち荊や呉の王、北、すなわち斉や晋の君が、始めて天下に諸侯として封じられた時、その領地の四方の大きさは、まだ数百里にも達しなかった。人(平民)や徒(農民農奴)の人口は、まだ数十万人にも達しなかった。攻戦の事績により、土地の広さは数千里にも広がり、人徒の人口は数百万人にも達した。このような訳で攻戦をしてはいけないとは決めつけられないのだ。』と。子墨子の語って言われたことには、『四つや五つの国は多分、利を得ると言えても、それでも攻戦は国が行うべき道として取ってはいけないと言わざるを得ない。例えれば、医薬は人の病とともにあることを当然とするようなものだ。』と。今、ここに医師がいるとしよう、その良き効能の薬を調合し、天下の病に罹った者のところに行ってこれを万民に処方すれば、万民はこれを服用するだろう。もしただ、四、五人だけに処方して治癒の利を得ただけとするなら、それではこれは万人に行うべき薬では無いと言うだろう。そのため、孝行の子はその親に服用させず、忠臣はその主君に服用させないのだ。古代の、国を天下に封じられた、その上古の諸侯の事績はその伝説を耳で聞き、近世の諸侯の事績は目で見ることがらで知っているが、攻戦によって滅びた者は数えきれないのだ。どのようなことでそのことを知ったのか。東方に独立した莒という国があったが、その国は甚だ小さく、大国の間に挟まれていたのに、それでも熱心には大国への儀礼を行わなかった。大国も莒国のその外交の姿勢により莒国への愛しみも利することもしなかった。そのため、東は越の人がその領土を狭め削り取り、西は斉の人が領土を併合して領有した。莒国がこの斉国と越国との間に滅んだ理由を考えると、これは攻戦によるものだ。南は陳国や蔡国と云う知られた国といっても、その国が呉国と越国の間に滅んだ理由は、また攻戦によるものだ。このために子墨子が語って言うことには、『古代の王公大人は、まことに領土を得ることを願い、領土を失うことを嫌い、安定を願い、危険を嫌う。それならば攻戦は非としないわけにはいかないのだ。』と。
攻撃や戦闘の場面を讃える者が語って言うには、『それはその国の民衆を収め用いることが出来なかったので、そのために滅んだのだ。我々は上手に我々の民衆を収め用いる。この民衆を使って天下に攻戦すれば、だれが敢えて服従しないだろうか。』と。子墨子が語って言われたことには、『貴殿は、上手に貴殿の民衆を収め用いるとするが、貴殿はそれでも古代の呉闔閭ではないでしょう。古代の呉闔閭は民衆を訓練すること七年、呉闔閭は甲冑を身に着け兵卒を指揮し、三百里を走って宿営し、注林に駐屯し、冥隘の街道に出撃して、柏挙の地に戦い、楚国を誅罰し、そして宋国と魯国とを朝貢させた。夫差の世になって、北上して斉国を攻撃し、汶上に駐屯して、艾陵の地に戦い、大いに斉の人を破り、斉国を大山で平定した。東に向かい越国を攻め、三江五湖を渡り、そして越国を會稽で平定した。九夷、中国全土の国で服従しない国はなかった。このときにあっても、動員を解除せず、孤児にその戦没者した親のことを褒賞せず、群衆に施しをすることはなく、自らその己の力を頼み、その己の功績を誇り、その己の智力を誉め、兵卒の訓練を怠り、そして、姑蘇に臺、観望の塔を築いたが七年たっても完成しなかった。この状況になって、呉の国に夫差への離反する機運が起きた。越王句践は呉の国の上の者と下の者とが互いに与しないことを見て、越の民衆を取り込み、その軍勢で復讐をなし、北の城郭に攻め入り、大内を渡り、王宮を囲み、これにより呉国は滅んだ。
昔、晋国に六人の将軍がおり、その中で智伯より強者はいなかった。智伯は、己の土地は広く、人徒の人口は多くなることを企み、それにより諸侯に対抗することを願い、そこから己の英名を立てようとした。攻戦は速やかで、智伯は己の士の内から剛毅の者を選抜し、皆、舟や車を操る常備軍の衆を列ね、その軍勢で中行氏を攻めてその領土を占領保有した。その企みはすでに成った。また、さらに范氏を攻めて、これを大いに破り、三家を併せて一家としたが、併合は止まなかった。また、さらに趙襄子を晋陽に囲んだ。この状況になって、韓や魏は同盟して相談して語るところに、『古代の言葉に、「唇が無くなると歯は寒い。」と。趙氏が朝に滅べば、我々は夕に滅びるだろう。趙氏が夕に滅べば、我々は朝には亡ぶだろう。』と。詩に言うに、『魚は水中にいなければ、陸は魚にどのような意味があるだろうか。』と。これにより、三人の君主は心を一つにして力を合わせ、門を開き、道の障害物を取り除き、甲冑を身に着け軍勢を興し、韓と魏は外から、趙は内から、智伯を攻撃し、これを大いに破った。
この故事により、子墨子は語って言われたことには、『古代に言葉があって言うには、君子は水を鏡とせず、人に鏡を見る。』と。水に鏡を見れば、顔の形を見、人に鏡を見れば、そこに吉凶を知る。今、攻戦をもって利とすることは、どうして、試みに攻戦を為すことを智伯の故事に鑑みないのか。これからすれば、攻戦を為すことが不吉にして凶であることを、すでに心得て理解するべきだろう。

第十九 非攻下

子墨子が語って言われたことには、『今、天下が誉め、それを善とすることがらのもの、その善とすることがらとは、いったい、どういうことだろうか。その善とすることがらは、上には天帝の利に適い、また、中には鬼神の利に適い、そして、下には人の利に適うがために、それで善とすることがらとして誉めるのか。それとも、善とすることがらが上には天帝の利に適わず、また、中には鬼神の利に適わず、そして、下には人の利に適わないとしても、それでも善とすることがらとして誉めるのか。下天の愚かな人なら理解させられるとしても、その者でもきっと言うだろう、善とすることがらは、上には天帝の利に適い、中には鬼神の利に適い、そして、下には人の利に適うから、それで善とすることがらとして誉めるのだ。』と。
今、天下の同じく正義とすることがらのものは、聖王の法である。今、天下の諸侯の多くの皆は、敵の攻伐を免れ、近隣を併合してその国君を兼ね、そしてこの有り様を誉めて正義とする名目があるが、果たして、その実態を理解しているのか。これを例えれば、盲目の人に、白と黒の名を命じて、そしてその命じた物を白と黒の色ごとに分別することが出来ないのと同じだ。つまり、区別が出来ると言えるのだろうか。このようなことで、古代の知識者が天下の為に計ったことには、必ず慎重にその事業の正義を熟慮し、そしてその後に行動を起こし、このようにして実行すれば事業への疑念は無い。速やかに成功の願いは通じ、その希望することがらを得て、そして祝福する天帝鬼神の振る舞いは百姓の利に従う。つまりこれが知識者の計る統治の道なのだ。このことから、古代の仁なる人で天下を保つ者は、必ず大国となるための攻伐を為す説に反対し、天下の和を第一にし、四海の内を統治し、そして天下の百姓を率い、生業に努めることにより天の上帝や山川の鬼神に臣事した。この有り様は、人を利することが多く、成功はそれにより大なのだ。このことにより、天はこのような国政を賞賛し、鬼神はこのような国政を富まし、人はこのような国政を誉め、このような国政を為した者は貴いことには天子となり、天子の富は天下にあり、その高名は(上帝鬼神と並び)天地に参列し、今に至るまで廃ることはない。これはつまり知識者の計る統治の道である。(聖王が)先の時代の天下を有した、その理由なのだ。
今、王公大人、天下の諸侯はそうでは無い。必ず皆はその臣下から武勇の士を選抜し、皆はその兵舟戦車を操る兵卒を列ね、堅固な甲冑や鋭利な兵器を作り、それにより進軍して罪無き国を攻伐する。その国家の辺境に侵入し、その国の果樹や作物を簒奪し、その国の樹木を伐採し、その国の城郭を破壊し、そしてその城溝や城池を埋め、その国の神饌の犠牲となる動物を盗み取り、その国の祖廟を焼き払い、その国の万民を殺し、その国の老人幼児の生活の支えを覆し、その国の重兵器を捕獲移動し、進撃して敵の城門に兵器を突き刺して、言うには、『攻撃命令に死ぬ者を上等とし、敵を多く殺す者はその次とし、身は傷つく者を下とする。まして、戦列を離れて逃亡するもの者は、その罪は死罪として赦すことはない。』と。このようにして大衆を脅す。さて、敵国を破りその国君を兼ね、敵軍を覆し、その敵国の万民を虐殺することは、それは聖人の業績を乱すことではないのだろうか。考えてみると、このことは天帝を利すると出来るのだろうか。それは天帝の支配する人を使い、天帝の支配する邑を攻める。これは天の民を殺し、神の位を剝奪し、社稷を覆し、その社稷を祀る神饌の犠牲となる動物を盗み取ることだ。つまりこのことは上には天の利に適わない。考えてみると、このことは鬼神を利すると出来るだろうか。それは鬼神の支配する人を殺し、鬼神を祀る神主を滅ぼし、先の時代の王を廃絶し、万民を虐殺し、百姓は離散する。つまりこのことは中には鬼神の利に適わない。考えてみると、このことは人を利すると出来るだろうか。それは人の支配する人を殺し、そしてそれが人を利するとするとは、この有り様だ。また、その費用を考えてみると、民の生業の根本を終わらせ、天下の百姓の財産を使い尽くす有り様は、数えきれない。つまりこのことは下にも人の利に適わないのだ。
今、戦を起こす時の不利を示すものとして、言うことには、『武勇でないこと、戦機に利が無いこと、兵卒が十分に軍事演習をしていないこと、兵員が多くないこと、士と卒とが和合しないこと、城壁が守り切れないこと、敵城を囲んでも長く続かないこと、進撃が速くないこと、攻撃の継続力が強くないこと、人心を束ねる力が堅固で無いこと、友好国の諸侯が疑念を持ち、友好国の諸侯が疑念を持つと敵は調略の可能性が生じること、戦意が衰えることだ。』と。このような不利のものを揃えて、戦争を起こせば、きっと、国家は軍隊を失い、また、百姓は生業の行いを放棄する。
今、試みにその攻伐を行う説を好む国を見てみよう。もし、中規模な紛争を企てるなら、指揮官となる君子や庶民の士の数はきっと千人を数え、それに兵卒となる農夫農奴の数は十万を加え、やっとその後に軍としての作戦行動に足りる。戦役の長いものでは数年を数え、速やかに終わるものでも数か月を数える。そのため、上の者は統治を行うのに時間が足りず、士はその官庁で政務を行うのに時間が足りず、農夫は農作業の時間が足りず、婦人は紡績や織機の作業の時間がたりなり。つまり、このことは、国家は軍隊を失い、また、百姓は生業に努めることを放棄し、そしてまた、その国の馬曳き戦車は疲弊し、陣幕、三軍の武器、武具の備えなど、五分の内の、その一を残し得れば、それは上出来である。さらにまたその軍勢は道路に散り失せ、戦場からの道程は遥か遠くて、糧食では下の者には欠食が続き、兵卒の飲食のとき、雑務係はこの糧食の不足からの欠食による飢えと寒さに凍え疾病となり、そして溝や塹壕の中に転がり死ぬ者は数えきれない。これでは攻伐を行う説を好む国の人に利はなく、天下の害をなすことは大きい。しかるに王公大人は、好んで戦争を行う。つまりこのことは天下の万民を抹殺することを好んでいることなのだ。それでいいのだろうか。今、天下の戦争を好む国、斉、晋、楚、越、もし、この四か国の者に万民の利という意味を天下に理解させれば、これにより、四か国の皆、その国の人口を十倍したとしても、それでもその国の大地を開墾し尽くすことは出来ない。それは人が足りないのに大地が余っているからである。今、また土地を争うことにより、反って人を互いに傷つけ損なう。つまりこのことは足りないものを損ない、一方、余りあるものを積み重ねるようなものである。
今、そのような攻伐を好む国君にあっては、さらにその攻伐を好む説明を飾り、そして、子墨子の説を非として言うには、『攻伐の行為を不正義としても、物事を利するではないか。昔、禹は有苗族を征服し、湯王は桀王を討伐し、武王は紂王を討伐して、この皆は立って聖王となった。これはどのようなことなのか。』と。子墨子の言われたことには、『貴殿は、未だに私の言葉の比類を理解していない。まだ、その理由を明確に理解できていない人なのだ。』と。彼らの行いは、いわゆる、攻伐ではなく、誅罰というべきなのだ。昔、三苗族の時代では大いに天下は乱れ、天は禹王に命じて三苗族を殺させた。妖しい太陽が夜に出て、血が降ること三日、龍は廟に生まれ、犬は市中で慟哭し、夏に水は凍り、大地は裂け地下の黄泉にまで及び、五穀は成熟の時期が狂い、民は大いに恐れた。高陽は玄宮において禹王に命じ、禹王は自ら天からの目出度い命令を受け取り、有苗族を征服した。四方に雷鳴は響き、人面鳥身の神が現れて、瑾を持して侍り、有苗族の吉祥を失わせて、有苗族の軍隊は大いに乱れ、後に遂に有苗族は衰微した。禹王は有苗族を征服し、それにより山川の名を明らかにし、物事の上下を区分し、万物の決まり事を定め、これにより鬼神も人民も間違いを為さず、天下はそれで静まった。これが、禹王が有苗族を誅罰した理由なのだ。夏王朝の桀王の時代に至って、天に酷命があった。日月の運行は乱れ、寒さ暑さは入り雑じって到来し、五穀は枯死し、鬼神は国中に叫び、鶴が啼くことは十日余りであった。天は湯王に鑣宮にて命じ、湯王に夏王朝の天下を治める大命を受けさせた。天は、『夏王朝の徳は大いに乱れ、天はすでに天のその夏王朝への統治の大命を終えさせた。湯王に夏王朝の都に進軍させ、夏王朝を誅罰させ、必ず、汝、湯王を勝たせる。』と。湯王はそこでその軍勢を率いて、進軍して有夏の国境に向かい、天帝はひそかに有夏の城を暴動破壊させた。しばらくして神が来りて告げることには、『夏の徳は大いに乱れる、進軍してこれを攻めよ。我は必ず、汝、湯王を大いに有夏に勝たせる。』と。『我はすでに天命を受け取った。天は、この融に命じて火を有夏の国城の西北の隅に降させた。』と。湯王は桀の軍勢を引き受けて誅罰戦に勝ち、諸侯は薄の地に集まり、天子となる天命の推薦を受けたことを明らかにし、四方を通じて、天下の諸侯で服従しなかったものはいない。つまりこれが、湯王が夏王朝の桀王を誅罰した理由なのだ。商王紂の時代に至って、天は紂王の徳は秩序を保たなくなり、祀りを行っても適切な時期では無かった。夜を日に継いで、十日間、土を薄の地に降らし、支配の印の九鼎は場所を遷し、妖しい婦人は夜に出歩き、鬼神は夜に哭き、女は男装を行った。天は肉を降らし、茨は整備されているはずの国道に生え、紂王はますます自ら放逸をなした。赤鳥は珪を口に含み、周の岐社に下り、言うには、『天は周の文王に命じて殷を討ち、国を治めさせる。』と。泰顛は帰属し、黄河に緑図が現れ、大地には乗黄の神馬が現れた。武王は功業を引き継ぎ、夢に三神を見て、神が言うには、『予はすでに殷の紂王を酒の悪徳に沈め漬けている。出撃してこれを攻めよ。予は必ず、汝、武王を大いにこれに勝たせよう。』と。武王はそこで狂夫、紂王を攻め、商地域の周王朝を覆し、天は武功に天子の印の黄鳥の旗を賜った。武王はすでに殷に勝ち、天帝の予告を成し、もろもろの神を分かちその祀る神主を定め、先王の紂王を祀り、四方の国々に通じ、そして天下に朝貢しないものはなく、つまり、湯王の業績を襲った。これはつまり武王が紂王を誅罰した理由である。もし、この三人の聖王の者をもってこの事業を見れば、戦いはいわゆる攻伐ではなく、誅罰なのだ。
しかしながら、その攻伐を好む国君にあっては、さらにその攻伐を好む説明を飾り、そして、子墨子の説を非として言うには、『貴兄は攻伐を不正義としますが、物事では利になるのではないですか。昔、楚の熊麗は、始め、楚国、睢山の谷間を治め、越王の繄虧は有遽より出でて、始めは越に一領地を封じられ、唐叔と呂尚とは斉と晋とに一領地を封じられた。これらは、皆、その領地の四方の大きさは数百里だけだった。今、国々を併合することによって、天下を四分して、これを領有する。これはどういうことなのか。』と。子墨子の言われたことには、『貴殿は未だに私の言葉の比類を理解していない。まだ、その理由を明確に理解できていない人なのだ。』と。古代の天子が始めて諸侯をそれぞれの領地に封じたとき、その封地の数は万に余りあった。今、国を併合することにより、万国に余りあった国の皆は滅亡し、そして四か国が独り立つ。これを例えると、医師が万人に余りある人々に薬を処方して、そしてただ四人だけが治癒したようなものだ。つまり、この医師を良医と言ってはいけないのだ。
しかしながら、その攻伐を好む国君にあっては、さらにその攻伐を好む説明を飾って言うには、『私は、金や宝玉、子女、領土が足りないとするのではない。私は正義の名の下に天下に立ち、徳をもって諸侯が従うことを願っているのだ。』と。子墨子の言うことには、『今、もしそのように、正義の名の下に天下に立ち、徳をもって諸侯が従うことを求める者がいるのなら、天下はこの者に服することを求めて、正義の名の下に天下に立って、諸侯が従うことを待つべきだ。天下を統べるために攻伐の手段に拠ることは久しい。例えば、童子が遊びで馬となって足を疲れさせているようなものだ。今、もし信により諸侯と交わり、己より先に天下の諸侯を利する者がいたら、大国に不正義はあるだろうか。きっと、己の国と同じように小国を憂い、大国が小国を攻めるだろうか。きっと、己の国と同じように小国を救い、小国の城郭が不完全ならば、これを修理し、衣服や食料の補給が途絶すれば、きっと、補給を委ね、神祀りの幣帛が足りなければ、きっと、幣帛を提供して神祀りを共にするだろう。このようにして大国が小国に功を成せば、きっと、小国の国君は感謝するだろう。人が攻伐に疲れ、その間に己が休息すれば、きっと、己の軍隊は強いであろう。政治が寛大で恵深く、己の国の治世の緩みを引き締めれば、民は必ず移り住む。攻伐に変えて、己の国を治めれば攻伐の成果よりも必ず利は倍になるだろう。己の軍の費用を計算し、そこから諸侯の諍いを諫めれば、きっと、必ず諸侯の信を得て、利は増すことが出来る。諸侯の諍いを監督するのに正義をもって行い、そして、己が名を正義にし、必ず努力して己の民衆に寛大であり、己の軍隊の振舞は信とさせ、その信なる軍隊で諸侯に軍事支援すれば、きっと、天下に敵はいなくなるだろう。これを諸侯に行うことは、数えきれなくなるだろう。この方法は天下の利であるが、しかしながら、王公大人は理解していても、これを用いない。つまり、これでは天下を利する巨大な責務を理解しないと言えるだろう。』と。
このために子墨子の言われたことには、『今、天下の王公大人居子、まことに天下の利を興し、天下の害を除くことを願うならば、しきりに自らが先に攻伐を行うようなことは、これは実に天下の大いなる害である。今、(君子は、天下に)仁と正義を行おうと願い、上士となろうと願い、上には聖王の道に適うことを願い、下には国家百姓の利に適うことを願う。このためには非攻の説を行うというものを、その大いなる利によりこれを理解しない訳にはいかないのだ。』と。

第二十 節用上

聖人が政治を一国に行えば、一国の利を倍にすることは可能だ。これを大いにして政治を天下に行えば、天下の利も倍にすることは可能だ。その利を倍にすることとは外に領土を取ることではない。その国家の内政により、その国家の無用な費用を取り除けば、これにより利を倍にすることに足りる。
聖王は政治を行うに、その国に政令を発して、事業を興し、民を使い、財を用いる。民や財を用いるのに効用を考慮せずに事業を行う者はおらず、そのために財を用いて無駄にすることはなく、民への利益の分配を心配することなく、その利のある事業を興すことが多い。その衣服を作るのは何のためか。それにより冬は寒さを防ぎ、夏は暑さを防ぐことを行う。およそ、衣装を作る道理は、冬は暖かさを加え、夏は涼しさを加えるものであり、質素実用でなければ衣装として使わない。その建物を作るのは何のためか。それを作るのは冬の強風と寒さを防ぎ、夏の暑さと雨を防ぎ、盗賊が襲っても警備の固さを加えるものであり、質素実用でなければ建物として使わない。その武器五種類を作るのは何のためか。それを作るのは戦乱や盗賊を防ぎ、もし、戦乱や盗賊があれば、武器五種類を保有するものは勝ち、もっていない者は勝てない。このために聖人は兵器五種類を作ったのだ。およそ、兵器五種類を作るのに、軽くて鋭利であり、堅牢にして折れ難くし、質素実用でなければ兵器として使わない。その舟や車を作るのは何のためか。それを作って車は丘や平野を行き、舟は川や谷を行き、四方の交通の利便を通じさせる。およそ、舟や車を作る道理は、軽くして利便性を加え、質素実用でなければ使用しない。およそ、このような物を作るときに、効用を加えずに作る者はいない。このようなことで、財を用いても無駄にせず、民への利の分配を心配することなく、その利のある事業を興すことが多い。
良くあることで、大人が好んで集める珠玉、鳥獣、犬馬を集めず、その代わりに実用の衣裳、実用の建物、実用の甲冑、実用の兵器、実用の舟や車の数を増やせば、(同じ財で)数では倍に出来るだろう。このようなことは難事ではなく、そのために、なにをかを倍にすることが難しいだろうか。ただ、人口は倍にするのは難しい。然しながら、人口を倍にする方法はある。昔、聖王は法を作って言うことには、健康な男は年二十歳で実家に居てはいけない。女子は年十五歳で、結婚しないのはいけない。これは聖王の法なのだ。聖王はすでに没し、ここに民衆は勝手気ままとなり、健康の男子で早く一家を持ちたいと希望する者は、時に二十歳で一家を持ち、遅く一家を持ちたいと希望する者は、時に四十歳で一家を持つ。これにより、その早く一家を持つ者と遅く一家を持つ者とを計算からともに除くと、(一家を持つ者の平均の歳は)聖王の法に遅れること十年である。もし、皆が(一家を持ち)三年の間に許嫁を持てば、子が生まれるのはそれから二三年であろう。聖王の法は民衆に早く一家を持たせるためだけでなく、それにより人口を倍にすることが出来るのだ。そして、これしか方法がないのだ。
今、天下の政治を行う者は、その国の人口を少なくするものの原因は多く、その民を使役することで疲弊させ、その国の徴税は厚く、民の財は足らず、凍え飢え死にする者の数は数えきれない。さらに大人はただ戦争を興し、隣国を攻伐し、戦役の長いものでは一年、速やかに終戦しても数か月だ。男女は久しく逢えないことになり、これは人口を少なくする原因だ。また戦争の動員で生活は安定せず、日々の食事の回数も一定せず、病気を発症して死ぬ者と、塹壕や隧道を使った攻城火攻めへの従軍、攻城や野戦に従軍して死ぬ者の数は数えきれない。このような政治を行う者からすれば、人口を少なくする原因はこのような数々のことにより起きるのではないだろうか。それで、子墨子の言われたことには、『無用の費用を省くのは、聖王の道であり、天下の大利なのだ』と。

第二十一 節用中

子墨子が語って言われたことには、『古代の明王や聖人が天下に王となり、諸侯を統治したその根源は、統治する民を愛しみ、欺くことを控え、民を利し、重税を控え、忠(あざむかず)と信(うたがわず)の気持ちを共に保ち、また、民に忠と信の気持ちを示すことを利によって行い、これをおこなうことは終身に渡り飽きることなく、死に際しても統治の行いに飽きなかった。』と。古代の明王や聖人が天下に王となり、諸侯を統治したその根源は、このような事である。
このような訳で古代の聖王は、節用の法を定め行い、そして言うことには、『およそ、天下の諸々の多くの工人、車職人、皮職人、陶工、冶金工、家具職人、大工など、おのおのがその得意とするその職に従事させよう。』と。また、言うことには、『およそ、民が使う用途にその供給が足りれば、それで十分だ。』と。諸々の機能や飾りを加えても、それが民の利を増やさないのなら、聖王は行わなかった。
古代の聖王は飲食の法を定め行い、そして言うことには、『飲食により空腹を満たし気力を蓄え、手足を強くし、耳目が聡明であるなら、それで十分だ。五つの味わい、良き香りの調和、遠国の珍しく怪しく異なった物を調達しない。』と。どのような理由でそのようなことを知ったのか。古代の堯王は天下を治め、南は交阯を慰撫し、北は幽都を降し、東西は日の出入する所に至るまで、朝貢しない者はなく、その厚き愛しみは隅々までに及んだ。(その堯王は)黍と稷とを特別に区別せず、肉料理は皿を重ねず、土の器に飯を盛り、土の器で汁をすすり、柄杓で酒を壷から酌んだ。神祀りの直会、外交の晩餐、儀式での饗宴、これらを聖王は行わなかったのだ。
古代の聖王は衣服の法を定め行い、そして言うことには、『冬は紺染の紺緅の衣を着て、軽くて暖かく、夏は葛の絺綌の衣を着て、軽くて涼しければ、それで十分だ。』と。諸々の機能や飾りを加えても、それが民の利を増やさないのなら、聖王は行わなかった。
古代の聖人は猛禽や噛みつく獣が人を襲い、民を害することのために、それに対して民に武器を使って暮らすことを教え、言うことには、『剣を帯び、剣で刺せば獣の体に突き入り、剣で振り撃てば獣の体を断ち、剣で横に払っても剣は折れない、これは剣の利点である。』と。甲冑を衣とするならば軽いことが利点で、甲冑を着て動いても武器は使用できる、これは甲冑の利点なのだ。
車は重い荷を運んで遠くに行け、車に乗れば移動は容易で、車を引けば運搬に便利だ。移動を容易にして人を疲れさせず、車の利により運搬は速やかで、これが車の利なのだ。古代の聖王は、大きな川や広い谷は渡ることが出来なかったので、舟や楫を作って民の利とし、渡ることが出来ればそれで十分だとした。上の者は三公諸侯に至ると言っても、舟や楫を特別な物には変えず、湊の人も舟や楫を飾り立てなかった。川を渡ることが舟の利なのだ。
古代の聖王は節葬の法を定め行い、そして言うことには、『衣は三枚重ね、それで肉体が腐り朽ちるのに十分で、棺の板の厚さは三寸、それで骨が朽ちるのに十分で、墓穴の深さは地下水に届かず、臭気の流れが漏れ出ないのなら、それで十分だ。死者は既に葬ったのならば、生きているものは長い期間、喪に服し、哀悼を示すことはしてはいけない。』と。
古代、人が始めて生まれ、まだ建物が無かった時代、小高い山や丘に穴を掘ってそこに住んだ。聖王はこの状況を考慮して、穴を掘って暮らすことに対して言うことには、『冬には穴居は風や寒さを避けることが出来るが、夏になると、穴居の下は湿り気を持ち、穴居の上は湿気で蒸す、おそらく民の気分を痛めるだろう。』と。それで建物を建設して、民の利とした。そうすると、その建物を作るこの方法とはいったいどうだったのか。子墨子の語って言われたことには、『その家の壁はそれにより風や寒さを防ぎ、屋根はそれにより雪霜雨露を防ぎ、その室内は清潔であれば、その家で祭祀の儀礼は行える。部屋の仕切りは男女を区分けが出来れば十分で、それで家としては十分だ。』と。諸々の機能や飾りを加えても、それが民の利を増やさないのなら、聖王は行わなかった。

第二十五 節葬下

子墨子の語って言われたことには、『仁なる者が天下のために物事を企てる態度は、何事かを明らかにすることにより孝なる子が親のために物事を企てる態度と異なるところはない。』と。今、孝なる子が親のために何事かを企てるときに、どのようにするだろうか。言うことには、『親が貧困なら、親を富ます物事に加わり、人民が少なければ人民を多くする物事に加わり、大衆が乱れたならば、きっと、これを治める事業に加わる。』と。このことを実行するにあたって、力が足りないことはあるだろう、財が足りないことはあるだろう、智恵が足りないことはあるだろう、その場合は孝なる行いを止めてしまうだろう。だが、力を余し、為すべき謀り事を隠し、利益を残し置き、その状況で親のために孝なる行いをしない者はいない。三つの務め(富ます、多くす、治める)がこのようであるように、孝なる子が親のために物事を企てるにあっては、まず、余力を残すようなことはしないのである。
仁なる者が天下のために物事を企てると言っても、また、このようなことなのである。言うことには、『天下の貧しき者を、きっと、この者を富ます事業に加わり、人民が少なければ多くする事業に加わり、大衆が乱れたら、きっと、これを治める事業に加わる。』と。このことを実行するにあたって、力が足りないことはあるだろう、財が足りないことはあるだろう、智恵が足りないことはあるだろう、その場合は為すべき事業を止めてしまうだろう。だが、力を余し、為すべき謀り事を隠し、残し置いた利益を捨て、その状況で天下のために仁なる行いをしない者はいない。三つの務め(富ます、多くす、治める)がこのようであるように、仁なる者が天下のために物事を企てるにあたっては、まず、余力を残すようなことはしないのである。
今、昔の三代の聖王はすでに没し、天下の正義を失うようになるに及んで、後世の君子の、ある者は、厚葬久喪を行うことが仁であり、正義であり、孝なる子の事業だと考え、ある者は、厚葬久喪を行うことが仁ではなく、正義でもなく、孝なる子の事業ではないと考える。君子の言うには、『二人の先生が互いに説くものは、言論では互いに非と言い、行動でも互いに真反対だ。』と。先生の皆が言うには、『私の説は、上代の堯王・舜王・禹王・湯王・文王・武王が行った方法を引き継ぎ述べているものなのだ。』と。然しながら、言論では互いに非と言い、行動でも互いに真反対で、それで後世の君子は、この二人の先生の言論に疑惑を持つ。もし仮にこの二人の先生の言論に疑惑を持つのなら、それではしばらく試みに、この言論を引用し、その説が述べるところのことがらを国家万民に行わせて、その言論の結果を見てみよう。
厚葬久喪は、どうしてこの三つの利を企てることが出来るのだろうか。私が考えるに、もし、厚葬久喪が仁であり、義であり、孝子の事であるとの言葉に従い、その勧めを用いるならば、厚葬久喪が本当に貧困者を富まし、少ない人口を増やし、社会秩序の危険を安定させ、戦乱を治めさせることが出来るのか。この仁であり、義であり、孝子の事なるものは、人の為に企てることを勧めないわけにはいけないものだ。仁なる者が厚葬久喪の行いを天下に広め、誰が努力して民に厚葬久喪を行うことを誉め、そしてその厚葬久喪の行いを廃止することが無いようにするのだろうか。考えて見るに、その厚葬久喪の行いを説く言葉に従って、その勧めを用いると、厚葬久喪は、実は、貧困者を富まし、少ない人口を増やし、社会秩序の危険を安定させ、戦乱を治めさせることは出来ないのだ。このことは、仁では無く、義でも無く、孝子の事でもない。人の為に何事かを為す者が阻止しなくてはいけないことである。仁なる者は必ず厚葬久喪の行いを天下から取り除き、廃止して、そして、人々に厚葬久喪の行いを非と理解させ、そして自身にも厚葬久喪の行いをしないようにさせなければいけない。さらにこのような訳で、天下の利を興し、天下の害を除き、国家百姓に対し国家が治まるようにさせるには、古代より今までに厚葬久喪を行ったことはない。どのようにしてそれを知ったのか。今、天下の士君子は、それでもなお、厚葬久喪を行うに当たり、厚葬久喪の行い自身は利害関係では無いとの疑念は多い。そのために子墨子が語って言われたことには、『それならば、しばらく試みにこの疑念から比べて考えて見よう。』と。今、厚葬久喪を執り行う者の言葉に従い、この厚葬久喪の祭事を国家に行うとしよう。これが王公大人で喪葬を行う者の場合、執り行う者の言うことには、『棺槨は必ず板を厚くして重くし、棺の埋葬の埋める土の厚さ必ず厚くし、遺体を包む衣衾は必ず多くし、遺体を覆う文繡は必ず多くし、陵墓は必ず巨大にする。』と。匹夫や賤しき人の死者の葬儀では、ほとんど家産を使い尽くし、諸侯の死者の葬儀では、舎屋や府庫を空にし、それにより金玉や珠宝を死者の全身に帯び、それを組紐で結び付け、車馬は墓穴に埋蔵し、また必ず天幕や帳を設置する者は多い。鼎や鼓、机や筵、壺や濫、戈や剣、羽や旄、象牙や犀革など、これらを帯びさせて死者を埋め、満足する。もし、送葬の決まりに従えば、執り行う者の言うことには、『天子の殉死として殺す人数は、多い場合は数百人、少ない場合は数十人。将軍大夫の殉死として殺す人数は、多い場合は数十人、少ない場合は数人とする。』と。
喪葬について厚葬久喪の方法に従う場合はどうすれば良いのであろうか。それを執り行う者が言うには、『哭泣する様は通常の悲しみの時とはことなり、声はしわがれに潰し、喪服である麻衣に涙を垂らし、喪の仮小屋に住み、苫の蓆に寝て土塊を枕にし、ともども無理に食事をしないことを、これを飢と称し、薄着をすることを、これを寒と称し、顔形では目を落ち窪め、顔色はどす黒くし、耳目ははっきり聞こえず見えず、手足はやせ衰えて役に立たない風体にする。』と。また、執り行う者が言うには、『上士が喪に服す時、必ず助けられて立ち上がり、杖を使って歩き、この服喪の姿で過ごす期間は三年間とする。』と。このような規則、このような説明、このような方法で、王公大人に対してこの服喪の方法を行わせたら、きっと、必ず朝早く登朝し、五官六府の行政を指導し、農地開発を行い、倉庫を満たすことは出来ないだろう。農夫にこのことを行わせたら、きっと、必ず朝早く家を出て夜遅く帰り、耕作や果樹園芸を行うことは出来ないだろう。各種の工人にこのことを行わせたら、きっと、舟や車を作り器具や皿を作ることは出来ないだろう。婦人にこれを行わせたら、きっと、早朝に起き宵に寝て、糸を紡ぎ、布を織ることは出来ないだろう。詳細に厚葬の方法を考察すると、たくさんのその土地から生産されてきた財を埋めることを行うものだ。久喪の方法を考察すると、久しく物事にたずさわることを禁じるものだ。財のすでにあるものは、死者に付してこれを埋め、後に生を得る夫婦の和合は、久しく之を禁止し、そのような有様で厚葬久喪に富ませることを求めるのは、これを例えれば、耕作を禁止して、そして収穫を求めるようなものだ。厚葬久喪に富を得る方法を得られることなど無い。
このような訳で厚葬久喪により家を富ますことを願ってもそれは不可能で、また、厚葬久喪により人民を多くしたいと願っても、思うに、それは出来るだろうか。その厚葬久喪の方法を説くところからは、また、不可能なのだ。今、厚葬久喪の方法で政治を行うとすると、君が死ぬと、この喪を行うのに三年、父母が死ぬと、この喪を行うのに三年、妻と長男の死、この五組の皆の死亡の服喪は三年で、その後、伯父・叔父・兄弟・衆子の喪は一年、近縁の親族は五か月、姑・姉・甥・舅の皆は数か月の服喪がある。そして、服喪中に瘦せ細ることへの厳格の決まりがあり、顔形では目を落ち窪ませ、顔色はどす黒くし、耳目ははっきり聞こえず見えず、手足はやせ衰えて役に立たない風体にする。また言うには、『上士が喪に服す時、必ず助けられて立ち上がり、杖を使って歩き、この服喪の姿で過ごす期間は三年間とする。』と。このような規則、このような説明、このような方法でこの服喪の方法を行わせたら、きっと、その国の飢餓は約束され、また、それはこのようなのだ。このために、百姓は冬に寒さをしのげず、夏に暑さをしのげず、疾病にかかって死ぬ者は数えきれない。さらにそれにより男女の交わりの妨げを為すことが多い。このためにこれらにより民を多くすることを願うことは、例えれば、人に剣を持たせて戦わせ、その人に天寿を願わせるようなものだ。厚葬久喪に民を多くする方法を得られることなど無い。
このような訳で厚葬久喪により人民を多くすることを願っても、すでにそれは不可能なのだ。では、厚葬久喪により刑罰や行政を治めようと願うことは、考えてみて、それは可能のだろうか。その厚葬久喪の説くところからは、また、不可能なのだ。今、厚葬久喪によりにより政治を行うのに、国家はきっと貧しくなり、人民はきっと少なくなり、刑罰や行政はきっと乱れるだろう。このような規則、このような説明、このような方法を行い、上の政治を行う者にこの厚葬久喪を行わせれば、きっと統治を聴くことが出来ず、下の生業を行う者にこの厚葬久喪を行わせれば、きっと事業に従事することは出来ない。上の者が統治を聴かなければ、刑罰行政は必ず乱れ、下の者が事業に従事しなければ、衣食の財はきっと足りないだろう。もし、衣食の財が足りなければ人の弟となる者は、その兄に衣食の支給を願い、得られなければ不弟となり、弟はきっとその兄を怨むだろう。人で子の立場となる者は、その親に衣食の支給を願い、得られなければ不孝となり、子はきっとその親を怨むだろう。人で臣の立場となる者は、衣食の支給を君に求めて得られなければ、不忠となり、臣はきっとその上の者の立場を乱すだろう。これにより淫行邪悪な民は、外に出ては、きっと、衣服は無く、家に入っては、きっと、食料は無く、心の内に恥辱を抱き、さらに淫行暴力を行い、それは禁じることが出来なくなる。このために盗賊は多くなり、そして、良き治安は少なくなる。盗賊を多くして、良き治安を少なくする有り様に、この様子にあって治安を求めることは、例えば、人にその場で三回転させて、そしてきちんと立っていろと命じるようなものだ。治安が保たれると説くものなど得られることなど無い。
このような訳で厚葬久喪により刑罰や行政を治めることを願うが、それはすでに不可能なのだ。大国が小国を攻めることを禁止しようと願うことは、考えて見るとそれは可能なのだろうか。その厚葬久喪の説からすれば、また、不可能なのだ。このような訳で、昔の聖王は既に没し、天下は正義を失い、諸侯は力で征服を行う。南に楚、越の王がおり、また、北に斉、晋の君がおり、この皆はその兵卒を訓練し、その兵卒を使い攻伐・併合して、その君王を兼ねて政治を天下に行う。このような訳でおよそ大国が小国を攻めない理由には、小国に物資の蓄積は多く、城郭は整備され、上の者と下の者とが協調しているからだ。これを理由として大国は小国を攻めることを成し遂げようとはしない。その国に物資の蓄積は無く、城郭は整備されず、上の者と下の者とが協調していなければ、これを理由として大国は小国を攻めることを成し遂げる。今、厚葬久喪の行いにより政治を行うことは、国家はきっと貧しく、人民の数はきっと少なく、刑罰と行政はきっと乱れるだろう。このように国家が貧しければ、これにより国に物資を蓄積することは出来ない。このように人民の数が少なければ、これにより城郭や城溝・城池は貧弱となる。このように刑罰と行政とが乱れれば、出撃して戦っても勝てず、城郭に入り守っても堅固ではないだろう。この大国が小国をせめることを禁止することを願うのは、すでに不可能なのだ。上帝や鬼神の福を求めようと願うなら、考えて見るに、それは可能だろうか。その厚葬久喪の説からすれば、また、不可能なのだ。今、厚葬久喪の行いから政治を行えば、国家はきっと貧しく、人民の数はきっと少なく、刑罰と行政はきっと乱れるだろう。このように国家が貧しければ、神饌の粢盛や酒醴は清らかに準備できないだろう。このように人民の数が少なければ、上帝や鬼神を祀ることに仕える者は少ないだろう。このように刑罰と行政が乱れたならば、祭礼は適切な時節に行えないだろう。今、上帝や鬼神に仕えること、このように政治を行うことを禁止すれば、上帝や鬼神は、最初、上より上帝や鬼神を祀らないことをなだめようとして、言うには、『我を祀る人が居ることと、祀る人がいないこととで、どちらが良いことか。』と。言うには、『我を祀る人が居ることと、祀る人がいないこととを、選ぶことはしない。そして、我、上帝や鬼神であっても上帝や鬼神を祀らないことの積み重なった罪に禍と罰とを降し、そして祀らぬ者を見捨てる。』と。つまり、どうしてまた、厚葬久喪により刑罰や行政を治めることが出来るであろうか。このため、古代の聖王は葬埋の決まりを作り、言うには、『棺は板の厚さ三寸、それで体が朽ちるのに足り、体を包む衣装は三着、墓穴は悪臭を覆うのに足りることを定める。』と。これにより、墓穴に葬るに当たっては、下は地下水に及ぶことは無く、上は悪臭を地上まで通じることは無く、墓を覆う塚は耕作地の畝のようであれば、それで十分とした。死亡したら、すぐに葬り、残され生きている者は久しく哭くことはせず、そして速やかに生業に従事し、その人の得意とする生業を行い、これにより互いに利するのだ。これが聖王の葬埋の決まりなのだ。
今、厚葬久喪を執り行う者が語って言うことには、『厚葬久喪は、それにより、貧しきを富まし、寡少の人口を多くし、危機を安定させ戦乱を治めることは出来ないとは言うけれども、それでもこれは聖王の方法なのだ。』と。子墨子の言われたことには、『そうではない。昔、堯王は北の八狄を教化し、事業の中に死し、蛩山の山陰に葬られた。遺体を包む衣装な三着、榖木で作った棺、葛の紐を使ってこの棺を封緘して、既に棺を墓穴に降ろして哭をし、墓穴を土で満たして塚は作らない。すでに埋葬したので、牛馬は墓を覆う塚の場所を歩いた。舜王は西に七戎を教化し、事業の中に死し、南己の市に葬られた。遺体を包む衣装は三着、榖木で作った棺、葛の紐を使ってこの棺を封緘し、すでに埋葬したので、市の人はこの塚の場所を使った。禹王は東に九夷を教化し、事業の中に死し、會稽の山に葬られた。遺体を包む衣装は三着、桐棺の板の厚さは三寸、葛の紐を使って棺を封緘し、棺を封緘する紐を絞っても結び合わせないが、それでも墓穴の場所を通っても埋葬の不都合で陥没させず、墓穴を掘る土地の深きは、下は地下水までは掘らず、上は悪臭が地上まで通ることはない深さとする。既に埋葬したら、掘った余剰の土を墓穴の上に集め、墓塚は耕作地の畝のようであれば、それで十分だとした。』と。
今、王公大人の葬埋を行うことは、古代の聖王の様とは異なる。必ず、大棺に中棺を納め、革製の棺は三重に施し、璧玉は必ず具え、戈と剣、鼎と鼓、壺と濫、文繡の錦と白き練帛、大鞅の馬具と萬領、輿馬と女楽の楽器は、皆、具わる。言うことには、『必ず、陵墓の内の坑道は交差させ、墓塚は常なる山稜の様とせよ。』と。これでは民の生業を止め、民の財を使い尽くすことを行い、そのようなことは数えきれない。その無用なことを行うとは、このようなことである。このために、子墨子が言われたことには、先に私が語ったことに言うのに、『考えてみると、その厚葬久喪を勧める言葉を基準として、その厚葬久喪を行わせて、その厚葬久喪の結果を調べてみると、本当にそれにより貧しきを富ませ、寡少な人口を多くし、危機を安定させ戦乱を治めることが出来るのだろうか。つまり、仁のことであり、正義のことであり、孝子のことである。厚葬久喪は人のために何事かを企てる者には、進めてはいけないことである。考えてみると、また、その厚葬久喪を勧める言葉を基準として、その厚葬久喪を行わせれば、このような、人の厚葬久喪は、本当にそれにより貧しきを富ませ、寡少な人口を多くし、危機を安定させ戦乱を治めることが出来るのだろうか。きっと、仁ではないだろう、正義では無いだろう、孝子のことではないだろう。人のために何事かを企てる者には、厚葬久喪は阻まないわけにはいかないのだ。』と。この故により、国家を富ますことを願って、酷く貧しさを得、人民の人口を多くしようとして、酷く寡少な人口を得、刑罰と行政で治めようとして、酷く混乱を得る。大国が小国を攻めることを禁止することを願って、それはすでに不可能で、上帝や鬼神の福を求めようと願って、逆に禍を得るだろう。上の者が行う葬送の儀礼を堯王・舜王・禹王・湯王・文王・武王の取る方法に比べると、まことに昔の聖王の方法に逆らい、下の者が行う葬送の儀礼を桀王・紂王・幽王・厲王が為した事に比べると、合致するようなものだ。もし、このことから今の葬送の儀礼を見れば、つまり厚葬久喪は聖王が取る方法ではないのだ。』と。
今、厚葬久喪の儀礼を執る者が語って言うことには、『厚葬久喪が聖王の方法で無いのなら、どのような理屈が有って、中国の君子が、この厚葬久喪を執り行ってそれを止めることもせず、対して厚葬久喪では無い方法を選ばないのか。』と。子墨子が言われたことには、『このいわゆる、その風習を便宜として、その風俗を正義としたものだけだ。』と。昔、越の東に輆沐と云う国があり、その国の長男として生まれると、これを解体して食う。この風習は弟に良いことだと言う。その祖父が死ねば、その祖母を背負って野に捨てる。言うことには、『夫に先立たれた妻とは共に住んではいけない』と。この風習で上の者は政治を行い、下の者は風俗とする。これを行って止めることは無く、このやり方を取り、他のやり方を選ばない。どうもこの風習は仁と正義の道なのだろう。このいわゆる、その風習を便宜として、その風俗を正義とするものなのだろう。楚の南に炎人と云う国があり、その親戚が死ねばその肉体を腐らせて肉を捨てる。その後にその骨を埋め、それで孝なる子となることが出来る。秦の西に儀渠と云う国があり、その親戚が死ねば、柴や薪を集めて死体を焼き、死体を燻し上げて、これを登遐と云う。その後に孝なる子となることが出来る。この風習で上の者は政治を行い、下の者は風俗とする。これを行って止めることは無く、このやり方を取り、他のやり方を選ばない。どうもこの風習は仁と正義の道なのだろう。このいわゆる、その風習を便宜として、その風俗を正義とするものなのだろう。若し、このような三か国のものから厚葬久喪を見れば、きっと、その三か国の葬儀の儀礼は薄いだろう。もし、中国の君子から厚葬久喪を見れば、きっと、その厚葬久喪の儀礼は厚いだろう。中国の君子のようであれば、きっと、儀礼は大いに厚く、三か国のもののようであれば、きっと、儀礼は大いに薄いのなら、それなら葬儀埋葬の決まり事はあるのだろうか。ここで、衣食は人の生きるための利である。しかしながら、衣食に決まりごとはある。葬儀埋葬は人の死ぬための利である。それならどうして葬儀埋葬に決まりごとが無いはずはない。子墨子が葬儀埋葬の決まり事を定め行って言うことには、『棺の板の厚さは三寸、それで骨が朽ちれば十分だ。衣類は三枚、それで遺体を腐らせば十分で、地を掘る深さは下に水たまりが無く、臭気を上に漏らすことが無く、塚はそこが埋葬地だと分かれば足り、それで十分だ。埋葬の行きに哭き、帰りに哭き、帰って来て死んだ者の衣食の財を分配し、祭祀を執り行い、それにより孝を親に行う。』と。それで言うには、『子墨子の方法は、死した者と生くる者の利を失わないとは、このことなのだ。』と。
このようなことで子墨子が語って言われたことには、『今、天下の士君子は、強く願うに当たり、仁と正義を行い上士となることを願い、上には聖王の道に適うことを願い、下には国家百姓の利に適うことを願う。このために、節喪の政治を行うようなものは、これを理解しない訳にはいかないのだ。』と。

第二十六 天志上

子墨子が語って言われたことがある、『今、天下の士君子は、小を知って大を知らない。』と。どのようなことでこのことを知るのか。その一家一族に所属する者によりこのことを知る。もし、一家一族に所属していて罪を家長から得ても、まだ、近隣の他の一家一族の下に逃避する場所はある。しかし、親戚や兄弟がこのことがらへの認識するところは、互いに、このことがらから戒めを受けて、皆は言うだろう、『戒めない訳にはいかない。慎まない訳にはいかない。どうして、一家一族に所属していながら、罪を家長から得て、そこから、改めてなにごとかが出来るだろうか。』と。ただ、一家一族に所属する者だけに、このようなことがらだけとするのではなく、国に所属するとしても、又、その通りなのだ。国に所属し、罪を国君から得ても、まだ、隣国に処罰から逃避する場所は有る。しかしながら、親戚や兄弟がこのことがらへの認識するところと、同じように互いに為したことがらから戒めを受けて、皆は言うだろう、『戒めない訳にはいかない。慎まない訳にはいかない。どうして、国に所属していながら、罪を国君から得て、そこから、改めてなにごとかが出来るだろうか。』と。このことは、処罰を逃避する所はあるけれど、互いが為したことがらを戒めることは、やはり、このような有り様であり、これは普遍的である。まして、処罰を逃避するところが無ければ、互いに為したことがらを戒めることはさらに増して普遍的であり、そのような後にこのことは理解されるであろう。また、ある言葉に、このことについて語って言うには、『明るい昼間に罪を得れば、きっと、罪を逃避することを罰する。これが言うこととは、罪を逃避する所は無い。』と。天と云うものは、森林・渓谷・静かな場所に人は居ないだろうとしてはいけない、照らされたものごとは、必ず、天はこれを見ている。このようではあるのだが、天下の士君子は天に対しておろそかにして互いに戒めるということがらを理解しない。このことにより、私が説く、『天下の士君子は、小を知って大を知らない。』と云うことを知る理由なのだ。
それではつまり、天は、人の行いを見ている以外に、なにごとかを求め、なにごとかを嫌うのか。天は正義を求め、そして、不義を嫌う。それならば、天下の百姓を率いて正義に従事すれば、天下の士君子は天が求めることがらを行うことになるであろう。天下の士君子が天の求めることがらを行えば、天もまた天下の士君子が願うことがらを行う。それならば、天下の士君子は、なにごとかを願い、なにごとかを嫌うのだろうか。天下の士君子は幸福や俸禄を願い、災いや祟りを嫌うだろう。天下の士君子が天の求めることがらを行わずに、そして、天が求めないことがらを行うこととは、それは天下の士君子が天下の百姓を率いて、災いや祟りの中に生業に従事しているようなものだ。それでは、なにごとにより、天が正義を求め、不義を嫌うかを知ったのか。答えて言うことには、『天下に正義があれば生存が出来、正義がなければ死滅する、正義があれば富み、正義がなければ貧困となり、正義があれば治安は保たれ、正義がなければ混乱する。』と。つまり、天は、民の生存を願い、民の死滅を嫌い、民の富むことを願い、民の貧困を嫌い、民の治安が保たれることを願い、民に混乱があることを嫌う。これにより、天下の士君子が、天が正義を求め、不義を嫌うことを願っていることを知る理由なのだ。
言うことには、『さらに、正義は政治なのだ。下の者から上の者を正すことはせず、必ず、上の者から下の者を正す。』と。この理由は、庶民は努力してなにごとかに従うが、未だ、自分自身の都合を脇に置いて、自分の行いを正すことが出来ない、それで士が、庶民が為すなにごとかの行いを正す。士は努力してなにごとかに従うが、未だ自分自身の都合を脇に置いて、自分の行いを正すことが出来ない、それで将軍大夫が、士が為すなにごとかの行いを正す。将軍大夫は努力してなにごとかに従うが、未だ自分自身の都合を脇に置いて、自分の行いを正すことが出来ない、それで三公諸侯が、将軍大夫が為すなにごとかの行いを正す。三公諸侯は努力して統治を行うが、未だ自分自身の都合を脇に置いて、自分の行いを正すことが出来ない、それで天子が、三公諸侯が為すなにごとかの行いを正す。天子は未だ自分自身の都合を脇に置いて、自分の行いを正すことが出来ない、それで天が、天子が為すなにごとかの行いを正す。天子は三公に正すことを行い、諸侯、士、庶民たち、天下の士君子はこのように上の者が下の者を正すことを明確に理解している。
天が天子を正すことを行っているが、天下の百姓は未だに上の者が下の者を正すことを明確に理解していない。このために、昔の三代の聖王の禹王・湯王・文王・武王は、天が天子を正すことを行うことを願っており、明確に天下の百姓にこのことを説明し、そこから牛・羊を飼い、犬・猪を飼い、清らかに供物や御酒を造り、それにより上帝と鬼神を祭祀し、そして、幸福を天に祈らなかった者はいない。私はいままでに天下の幸福を天では無く、天が天子に祈ったということを聞いたことが無い、これが、私が、天が天子に正すことを行うことを知る理由なのだ。このような訳で、天子は天下の貴さの極みであり、天下の富の極みなのだ。そのために、天子が富み、また、貴いということは、天の意向であり、天下の百姓はその天子の指導に従わないといけないのだ。天の意向に従う者は、ともに尊重することで互いを愛しみ、互いに利を与え、結果、必ず、褒美を得るだろう。天の意向に反する者は、互いに差別して嫌悪し、互いに傷つけ合い、結果、必ず、天罰を得るだろう。それなら、このような人々の中で、誰が天の意向に従い、褒美を得、誰が天の意向に反して天罰を得るだろうか。子墨子が語って言うことには、『昔の三代の聖王、禹王・湯王・文王・武王は、この天の意向に従い褒美を得た者である。昔の三代の暴王、桀王・紂王・幽王・厲王は、天の意向に反し天罰を得た者である。』と。それなら、禹王・湯王・文王・武王がその褒美を得たのはどのようなことに因るのか。子墨子の語って言うことには、『そのおこないにあって、上には天を尊重し、中には鬼神に仕え、下には人を愛しむことを行ったからである。』と。それで天の意向が云うことには、『私の愛しむことがらとは、互いに尊重し相互に愛しむこと、私の利を与えることがらとは、互いに尊重し相互に利を与えること。人を愛しむこと、これを普遍的に行い、人に利を与えること、これを隅々まで行き渡らせることを行う。』と。それで貴くは天子となり、富みは天下にあるようにさせ、万世の子孫はその業における、善なる行為を伝承し讃え、その行いを天下に施し、今に至るまでこの聖王の事績を讃えて、これらの王を聖王と謂う。それならば、桀王・紂王・幽王・厲王が、その天罰を得たのはどのようなことに因るのか。子墨子の語って言うことには、『そのおこないにあって、上には天帝を謗り、中には鬼神を馬鹿にし、下には人を損ねることを行ったからである。』と。それで天の意向が云うことには、『私の愛しむことがらに対し、互いに差別して嫌悪し、私の利を与えることがらに対し、相互に損なう。人を憎むものごとを普遍にし、人を損ねることを世の隅々まで行き渡らせることを行う。このため、本来なら寿命を終えるはずが出来ず、その人生を終わらせて、今にいたるまでこの王たちを誹り、そして、この王たちを暴王と謂う。』と。
それでは、なににより天が天下の百姓を愛しむのを知ったのか。その互いに尊重すること、これを明らかにすることにより知ったのである。どのようなことで、その互いに尊重することを、明らかにしたことを知るのか。その互いに尊重すること、これを保つことにより知るのである。どのようなことで、その互いに尊重することを保っていることを知るのか。その互いに尊重すること、これにより百姓を食わすことで知るのだ。どのようなことで、その互いに尊重すること、このことで百姓を食わすことを知るのか。中華四海に囲まれた内側、穀物を食う民衆は、牛や羊を飼い、犬や猪を飼い、清く供物や御酒を造り、それにより上帝や鬼神を祭祀しないものは居ない。天に邑人がいれば、この祭祀を行い上帝や鬼神を愛しまない者はいない。既に、私は、一人の罪なき人を殺す者は、必ず、一つの天罰があると述べた。罪なき人を殺す者は誰か、それは人である。この天罰の罪を赦す者は誰か、それは天である。もし、天が天下の百姓を愛しまないとすると、どのような理由があって、人と人とが殺し合ったことに対し、それでも天はこの天罰を赦すのであろうか。ここから、私が、天が天下の百姓を愛しむことを知った理由なのだ。
天の意向に従うものは「義政」、正義の政治である。天の意向に逆らうものは「力政」、力の政治である。それであれば「義政」は、どのようにすればよいのであろうか。子墨子が語って言われたことには、『大国なら小国を攻撃せず、大家なら小家の財物を奪わず、強き者は弱き者を脅かせず、身分が貴い者は身分が賤しき者に驕らず、詐者は愚者を欺かない。』と。この行いは、必ず、上には天を利し、中には鬼を利し、下には人を利し、この三つの利により利を与えないところは無い。これにより、天下の良き名を挙げて、この君王を聖王の列に加え、この君王を聖王と唱える。「力政」はこれとは異なる。発言は「義政」に背き、行動は「義政」に逆らい、それは偽りの善に馳せるようなものだ。大国なら小国を攻撃し、大家なら小家の財物を奪い、強き者は弱き者を脅かし、身分が貴い者は身分が賤しき者に驕り、詐者は愚者を欺く。これは、上には天を利せず、中には鬼を利せず、下には人を利せない。この三つの不利の利を与えないところは無い。そのため、天下の悪名に挙げて、この君王を暴王の列に加え、この君王を暴王と唱える。
子墨子の語って言われたことには、『私に天の志があるのは、例えれば、車輪を作る人に規(コンパス)があり、建築の匠の人には矩(差金)があるようなものだ。』と。車輪を作る人や建築の匠はその「規矩」を使って、天下に直角と円形を描き図る。車匠の言うことには、『規定に当てはまるものは正しく、規定に当てはまらないものは正しくない。』と。今、天下の士君子の記した書物は、数えきれないほどあり、ここでは示せない、また、その書に載る言葉もまたことごとくは数えきれない。上には諸侯に仁や正義を説き、下には列士に仁や正義を説く。その仁や正義について、その説くものは大いに正しいものからは遠い。どのようなことから、正しいものから遠いことを知るのか。言うことには、『私は、天下の明らかなる法を得ることにより、その書に載る言葉の是非を判断したのだ。』と。

第二十七 天志中

子墨子が語って言われたことには、『今、天下の君子で仁と正義を行おうと願う者は、正義より生じることがらを考察しない訳にはいかない。』と。既に述べたように、正義より生じることがらを考察しない訳にはいかないことについて、その正義はどこから生じて来るのだろうか。子墨子の言われたことには、『正義は、愚鈍で心賤しき者からは生じず、必ず、貴く知性が有る者から生じる。』と。どのようなことで、正義が愚鈍で心賤しき者からは生じず、貴く知性が有る者から生じることを知るのか。言われたことには、『正義は正しく物事を正す。』と。どのような事で、正義は正しく物事を正すことを知ったのか。言われたことには、『天下に正義が有れば、きっと、統治が可能で、正義が無ければ、きっと、統治は乱れるだろう。このことにより、正義が正しく物事を正すことを行うと知ったのだ。』と。愚鈍で心賤しき者は、初め、政治を貴く知性が有る者が行う結果を得、その後、政治を愚鈍で心賤しき者が行う結果を得た。これが、私が、正義は愚鈍で心賤しき者からは生じず、必ず、貴く知性が有る者から生じることを知った理由なのだ。それでは、どのような者を貴いとし、そのような者を知性があるとするのか。言われたことには、『天を貴いとし、天を知性とし、それを究極とする。』と。そうすると、正義は、やはり、天から生じるのだろうか。今、天下のある人が言うには、『まことに天子は諸侯よりも貴く、諸侯は大夫よりも貴いというようなことは、迷うことなく明らかにこれを理解する。しかし、私は、未だに天は天子よりも貴く、そして、知性があることを知らない。』と。子墨子が言われたことには、『私は天が天子よりも貴く、そして、知性があることを知る根拠を持っている。』と。言われたことには、『天子が善を行えば、天はきっとこれを褒賞し、天子が暴力を行えば、天はきっとこれを罰し、天子に疾病、災い、祟りが有れば、必ず、斎戒沐浴して、清らかに御酒や倶物を造り、それにより天帝鬼神に祭祀を行い、すると、天は、きっと、天子の疾病、災い、祟りなどを取り去る。一方、私は天が幸福を求めて天子に祈ったことを知らない。これが、私が、天が天子より貴く、そして知性があることを知る根拠なのだ。このことを理解できないのなら、これ以上、語ることは無い。』と。また、先の時代の王の書に、『天は、人が為すことを明らかにすることを怠らないことを人に知らせている。』と。これにより私が説くところのことを知ったのだ。言われたことには、『聡明で物事の道理に通じているものは、それは天である、それ故に地上世界に臨み統治する。』と。このことは、天は天子よりも貴く、また、知性を持つことを語っている。では、貴く、知性を持つ者は天なのか。言われたことには、『天を貴くとし、天を知性あるものとして、究極とする。』と。それでは、正義はどうして天から生じたのであろうか。このことについて、子墨子が言われたことには、『今、天下の君子が、誠実に統治の方法に従い人民に利を与え、仁と正義の根本に基づき、統治の方法を考察することを願うなら、天の意向を尊重しない訳にはいかない。』と。そうすると、天の意向により、それに従って己自身を慎まない訳にはいかないことになる。
それでは、天は何を求め、何を憎むのか。子墨子の言われたことには、『天の意向は、大国が小国を攻め、大家が小家の安寧を乱し、力の強き者が力の弱き者に暴力をふるい、詐者が愚者を謀り、身分の貴き者が身分の賤しき者に驕ることを求めない、これは天が希望しないことがらである。このことを理解しないなら、これ以上、語ることは無い。』と。人は、余力を持つ者は互いに生業を営み、良き方法を知る者は互いに教え合い、余財を持つ者は互いに分け合うことを願うものである。また、上の者は努めて統治の是非を聴くことを、下の者は努めて事業に従事することを願うものだ。上の者が勤めて統治の是非を聴けば、きっと、国家は治まり、下の者が仕事に従事すれば、きっと、財物や用役は足りる。もし、国家が治まり財物や用役が足りれば、きっと、国内ではそれを用いて清く御酒や倶物を造り、それにより天帝や鬼神を祭祀し、対外的には円形の碧玉や朱玉の財宝を造り、それにより四方近隣の諸侯を招聘することが出来るであろう。諸侯に恨みは生じず、周囲の国境では紛争は生じないだろう。国内では飢饉でも備蓄を食い、勤労の合間に休息を取り、その万民の営みを保持すれば、きっと、君臣上下の関係では上は恩恵を、下は忠義を為し、父子弟兄の関係では上は慈恵を、下は孝行を為すであろう。このために、ひたすら、天の意向に従うことを明らかにし、天の意向を奉じて、広く天の意向を天下に施せば、きっと、刑罰と行政は治まり、万民は和し、国家は富み、財用は足り、百姓は寒さに暖かい服を着、飢餓に十分に食えることを得て、利便安寧となり生活の憂いは無くなるであろう。このことにより、子墨子が言われたことには、『今、天下の君子は、誠実に統治の道(方法)に従い人民に利を与え、仁と正義の根本に基づき、統治の方法を理解することを願うなら、天の意向を尊重しない訳にはいかない。』と。
さらに、天子が天下を支配することとは、これを例えれば国君や諸侯がその国の四境の内の領土を支配していることに異なる所はない。今、国君や諸侯がその国の四境の内の領土を支配していて、その支配する臣下や国の万民に不利益をあたえることを希望するだろうか。今、もし、大国の立場に居たら小国を攻め、大家の立場に居たら小家の安寧を乱し、この行いにより褒賞と名誉を得ようと願っても、きっと、得られず、誅罰は、きっと、やって来る。天が天下を支配することは、このようなことと異なるところは無いのだ。今、大国の立場に居たら小国を攻め、大都の立場に居たら小都を討伐し、これにより幸福と俸禄を天に祈り得ることを願っても、幸福と俸禄はきっと得られず、逆に災いと祟りがきっとやって来るだろう。それなら、天が求めることがらを行わずに、天が求めないことがらを行えば、それならば、天もまた、人が願うことがらを行わず、逆に人が願わないことがらを行うであろう。人が願わないことがらとは何であろうか。言われたには、『病気・疾病・災い・祟りである。』と。もし、すでに天が求めることがらを行わないで、逆に天の求めないことがらを行えば、これは天下の万民を率いて災いや祟りの中で生業に従事することである。このために、古代の聖王は明確に天帝や鬼神の祝福することがらを理解し、そして、天帝や鬼神の嫌うことがらを避け、それにより、天下の利を興し、さらに天下の害を除くことを願った。このことにより、天が寒さや暑さを為すことに季節があり、四季は調和し、天候降雨は時節に適い、五穀は成熟し、家畜は繁殖生育し、疾病・災害・疫病・飢餓は来襲しない。これにより、子墨子が言われたことには、『今、天下の君子、誠実に政治を治める道(方法)に従い民に利を与え、仁義の根本に基づき統治をおこなうことを理解しようと願うなら、天の意向を尊重しないわけにはいかないのだ。』と。
しかしながら、天下には不仁や不祥とされるものごとがあり、言うことには、『子は父に仕えず、弟は兄に仕えず、臣下は君に仕えないようなことが有る。』と。このため、天下の君子は、このようなことがらを挙げて、不祥なことがらと謂う。今、天は天下に互いに尊重することをさせ、互いに愛しみ、万物を成長成熟させてこれを利用する。百人の人智を超えるような英知の人のような人物の、このような人物は天が与えたことがらであって、民はこのような人物を得て、これを利用する。このような人物は君に仕えていない不仁の人と言うべきであろうか。しかしながら、その人物のことを天に知らせることをしなければ、その人物が不仁・不祥であることを知らないであろう。このようなこととは、私が説明する、所謂、君子は細部を理解するが、大きな全体を理解できないと謂うことだ。
また、私が、天が民を愛しむことは天下の隅々まで行き渡らせることを知る理由があって、言われたことには、『日月星の動きを見極め、それにより日月星の動きを明らかにして、春秋冬夏の四季を把握し、そこから四季それぞれの生業を規定し、四季での雷雨・降雪・降霜・降雨を計り、五穀や苧麻を成長させ、民にこれらの収穫を得させ、そしてこれらの収穫物を蓄え利用させ、山、川や渓谷の治山治水を行い、多くの事業を行い、さらにまた民の行いの善と否の判定に臨み、王公侯伯の区別を定め、この民を率いる王公侯伯により賢者を褒賞し、また暴者を処罰し、野生の鳥獣を駆除し、五穀や苧麻の生業に従事し、これにより、民の衣食での生産物として利用させた。古代から今に至るまで、未だこのようなことが無かったことは無い。』と。今、ここに人が居り、打ち解けてその子を愛しみ、努力を尽くし勤めに励みその子に利を与えた。その子が成長した後、その子が父の求めに応じることが無ければ、このことにより、天下の君子の皆はこの子の行いを不仁・不祥と言うだろう。今、天は天下に互いに尊重することをさせ、互いに愛しみ、万物を成長成熟させてこれを利用する。百人の人智を超えるような英知の人のような人物の、このような人物は天が与えたことがらであって、民はこのような人物を得て、これを利用する。このような人物を君に仕えていない不仁の人と言うべきであろうか。しかしながら、その人物のことを天に知らせることをしなければ、その人が不仁・不祥であることを知らないであろう。このようなこととは、私が説明する、所謂、君子は細部を理解するが、大きな全体を理解できないと謂うことだ。
また、私が、天が民を愛しむことを天下の隅々まで行き渡らせることを知る理由のことがらは、ここで示したことがらだけではない。言われたことには、『無罪の人物を殺す者には、天は不祥を与える。』と。無罪の人物とは誰の事だろうか。言われたことには、『人である。』と。人を殺す者に不祥を与えるものは誰であろうか。言われたことには、『天である。』と。もし、天が民を愛しむことを天下の隅々まで行き渡らせることがないならば、どうして、どのような理由があって、人は無罪の人を殺し、それにより天はこの殺人をした人に不祥を与えるだろうか。このことにより私が、天が民を愛しむことを隅々まで行き渡らせることを知る理由なのだ。また、私が、天が民を愛しむことが隅々まで行き渡らせることを知る理由のことがらは、このようなことだけに留まらないのだ。言われたことには、『人を愛しみ、人に利を与え、天の意向に従い、天の褒賞を得た者がいる。人を憎み、人に害を与え、天の意向に反し、天の罰を得た者がまたいる。』と。人を愛しみ、人に利を与え、天の意向に従い、天の褒賞を得た者とは誰なのか。言われたことには、『昔の三代の聖王、堯王・舜王・禹王・湯王・文王・武王のような者、このような者である。』と。堯王・舜王・禹王・湯王・文王・武王は、どのような事業に従事したのだろうか。言われたことには、『互いに尊重することに従事し、互いを差別することに従事せず。』と。互いに尊重することとは、大国の立場に居て小国を攻めず、大家の立場に居て小家の安寧を乱さず、強き者は弱き者を脅かさず、大勢は少数に暴力を振るわず、詐者は愚者を騙さず、身分が貴い者は身分が賤しき者に驕らないことである。このことを観れば、上には天帝に利を与え、中には鬼神に利を与え、下には人に利を与え、この三つの利の利を与えないところはなく、これを天の徳、公平な分配と言う。天下の善なる名を収集して、古代の聖王の列に加え、言われたことには、『これが仁である、正義である、人を愛しみ、人に利を与え、天の意向に従い、天の褒賞を得た者である。』と。ただ、このような事だけでなく、竹簡や帛布に書き、金や石に彫り刻み、槃盂に刻み、後世の子孫に事績を伝え残した。言われたことには、『何ごとかによりそれを行おうとするのか。』と。それは、その、人を愛しみ、人に利を与え、天の意向に従い、天の褒賞を得た者を人々に知らせようとするのだ。詩経の『皇矣』の書にこのことを語って言うことには、『帝が文王に言うには、吾は明徳を思う。声が良いことをもって良いこととはせず、夏朝の改革をもってお手本とはせず、特定のなにごとかを特別に意識せず、帝の決まりごとに従う。』と。帝は、その法則に従うことを良しとし、それで殷朝が定めた法則を挙げて、これを賞め、貴いことには天子となり、富は天下にあり、名誉は現在に至るまで賞賛されている。それで、その、人を愛しみ、人に利を与え、天の意向に従い、天の褒賞を得た者は、既にこのように名誉を得て記録に留め、それにより傳遺に留まるべきである。その、人を憎み、人に害を与え、天の意向に反し、天の罰を得た者は誰なのか。言うことには、『昔の三代の暴王、桀王・紂王・幽王・厲王のような者がそうである。』と。桀王・紂王・幽王・厲王は、どのような事業に従事したのだろうか。言われたことには、『差別に従事し、互いの尊重することに従事をしなかった。』と。差別とは、大国の立場に居て小国を攻め、大家の立場に居て小家の安寧を乱し、強き者は弱き者を脅かし、大勢は少数に暴力を振い、詐者は愚者を騙し、身分が貴い者は身分が賤しき者に驕ることである。このことを観れば、上には天帝に利を与えず、中には鬼神に利を与えず、下には人に利を与えない、三つの不利を与えないところはなく、これを天賊と謂う。天下の醜き名を収集して、その名を暴王の列に加え、言うことには、『これは仁では無く、正義では無い。人を憎み、人に害を与え、天の意向に反し、天の罰を得た者なのだ。』と。ただ、このような事だけでなく、また、その事績を竹簡や帛布に書き、金や石に彫り刻み、槃盂に刻み、後世の子孫に伝え残した。言われたことには、『何ごとかによりそれを行おうとするのか。』と。その、人を憎み、人に害を与え、天の意向に反し、天の罰を得た者を人々に知らせようとするのだ。『大誓』の書にこのことを語って言うことには、『紂王は越の国に勢力を張り、あえて、上帝に仕えなかった。上帝に対する先祖からの神祇を棄て、その上帝や鬼神を祀らなかった。』と。そこで言うことには、『私(武王)には天命が有る。私の長兄の伯廖が天命を受け継ぐことはない。天もまた紂王を見捨てて、そして、紂王は天下を保てなかった。』と。天が紂王を見捨て、そして、紂王が天下を保てなかったことを観察すると、それは天の意向に反したからである。このため、その、人を憎み、人に害を与え、天の意向に反し、天の罰を得た者は、既にこのように醜き名を得て記録に留め、それにより傳遺に留まるべきである。
このようなことで、子墨子は、天の天意があることは、人に例えると、車輪を造る職人に規(コンパス)があり、建築の匠には矩(定規)が有ることと異なることは無い。今、車輪を造る職人が規(コンパス)を操るのは、それにより世の中の円と不円とを測定・区別し、言うことには、『私の規に当たるものはこれを円と言い、私の規に当たらないものは不円と言う。』と。このことにより、円と不円について、皆は心得て、そして、その区別を理解すべきものとなる。この理解すべきものという根拠は何なのだろうか。それは円の定義が明らかであるからだ。建築の匠もまたその矩(定規)を操るのは、世の中の正方と不正方とを測定・区別しようとするからである。言うことには、『私の矩に当たるものはこれを正方と言い、私の矩に当たらないものはこれを不正方と言う。』と。このことにより、正方と不正方について、皆は心得て、そして、その区別を理解すべきものとなる。この理解すべきものという根拠は何なのだろうか。それは正方の定義が明らかであるからだ。このため、子墨子は、天の意向が有ることとは、上には天の意向により天下の王公大人の刑罰や行政を行うことを規定しようとし、下には天下の民に善となる学を授け、言談を行うことを図ろうとするのである。その行いを観察すると、天の意向に従うことを、これを、意向を適切に行うと言い、天の意向に反することを、これを、意向を適切に行わないと言い、その言談を観察すると、天の意向に従うことを、これを、言談を適切に行うと言い、天の意向に従わないことを、これを、言談を適切に行わないと言い、その刑罰や行政を行うことを観察すると、天の意向に従うことを、これを、刑罰や行政を行うことが適切に行われていると言い、天の意向に従わないことを、これを、刑罰や行政を行うことが適切に行われていないと言う。それで、これを定め置いて法律とし、これを献立して儀礼とし、これを用いて、天下の王公大人卿大夫が為す行いの、その仁と不仁とを量ることは、これを例えると、ちょうど黒と白とに分別するように明確にしようとするのである。このようなことで、子墨子が言われたことには、『今、天下の王公大人士君子が、誠実に政治を治める道に従い、民に利を与え、仁義の根本に基づき明察したいと願うならば、天の意向に従わない訳にはいかない。天の意向に従うものとは、正義の法なのだ。』と。
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