哲学の年表まとめ

墨子_3

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第四十八 公孟

公孟子が子墨子に語って言うことには、「君子は自ら動かず、なにごとかを待つ姿とは、ここに問われれば、それに従い、ここに問われなければ、従わない。例えれば、鍾のようなもので、叩けば鳴り、叩かなければ鳴らないと。」と。子墨子が言うことには、「言葉には三つの物があるが、貴方は、多分、今、その一つを知るだけで、まだ、その三つの物と云う私が言うことの本質を知らないだろう。もし、大人が国家を運営して淫暴を行ったら、臣下が君の前に進み出て、君を諫めれば、きっと、君はこの臣下を不遜と言い、臣下が君の左右の者を通じて、君に諫めの言葉を献じたら、きっと、君はこの諫めの言葉を僭越な言葉と言うだろう。これは君子が持つ臣下の行いへの疑惑からのことがらである。もし、大人が政治を行う時、その時に国家に国難が生じさせるものごとなら、例えば、もし、敵の弩弓が放たれそうな状況の時、君子を、必ず、理由を示して諫め、それを回避できれば大人の利となり、このことは、鐘を叩かなくても、必ず、鐘が鳴ると言えるものである。」と。「もし、大人が正義の無い怪しげな行動を起こし、壮大で巧みな経略を作り上げ、さらに侵略戦争を行うべきと臣下は勧め、それを受けて罪無き國を攻伐し、その国を領有し、国君がその国を獲ることを願うなら、きっと、必ず、国君は、攻伐は臣下の進言として、叩けば鳴り、叩かなければ鳴らないという論理を使うだろう。また、荒野の土地にあって税収の無いものに税を掛け、出撃すれば敗戦の憂き目に合い、防衛しても勝利が得られず、はたまた、攻撃する側も決定的な勝利を得られず、守る側も攻める側も共に勝利が得られない。この様子は、鐘を叩きもしないのに、必ず、鐘が勝手に鳴るようなものではないか。」と。
「先に、貴方が言うことには、『君子が自ら動かず、なにごとかを待つ姿とは、これを問われれば、それに対して発言をし、これを問われなければ、それに対して発言をしない。これを例えれば、鐘が鳴るようなもので、鍾を叩けば鳴り、叩かなければ鳴らない。』と。今、未だに鐘を叩いてもいないのに、結果が生じたとするならば、貴方が言うに、これは貴方が語る、『鐘を叩きもしないのに、勝手に鐘が鳴る。』というものなのか。これなら、貴方が語る所の君子の行動とは違うのではないだろうか。」と。
公孟子が子墨子に語って言うことには、「誠意を持って善行を行うことを、人は、誰もが気が付かないことが有るだろうか。例えれば、良き宝石のようなもので、誰かに見つけ出されなくても余りある神の祝福がある。例えれば、美女のようなもので、誰かに見つけ出されなくても、人は争って美人を得ようとする。ところが、美人が外に出て自分から売り込めば、人はこの美人を得ようとはしない。今、貴方は広く人に面談を申し込み、そして、自説を説く、どういう訳で、そのような努力を行うのか。」と。子墨子が言うことには、「今、世の中は乱れ、美女を求める者は多く、美女は家から外に出ないと貴方は言う、たしかにそれでも、多くの人がこの美人を求めるだろう。ところが今、善を求める者は少ないので、努力して人に正しい道を説かなければ、人は正しい道を知ることは無いだろう。」と。「また、ここに二人の者がいて、この者たちは筮の占いが巧みです。一人は人のために出向いて筮の占い行う者で、もう一方の一人は家に居り外には出て行かない者です。家から出て行って人のために筮の占いを行う者と家に居て外には出ない者、その神の祝福は、どちらの方が多いと思うか。」と。公孟子が言うことには、「家から出て行って、人のために筮の占いを行う者の方に、神の祝福は多いだろう。」と。子墨子が言うことには、「仁と正義は等しい。出て行って人に正しい道を説く者の、その功績には善行が多いだろう、どうして、出て行って人に正しい道を説かないのか。」と。
公孟子が章甫の冠を頭に戴き、忽を帯に差し挟み、儒服を着込んで、その姿で子墨子に面談して言うことには、「君子は、最初に身なりの容を学んで、そして、人としての行いを学ぶか。それとも、人として行いを学んで、そして、身なりの容を学ぶか。」と。子墨子が言うことには、「人としての行いは、服装には関係が無い。』と。公孟子が言うことには、「どのような理由で、そこのことを知ったのか。」と。子墨子が言うことには、「昔、斉国の桓公は高冠をかぶり、広い帯を巻き、金の剣に木の盾を持ち、その姿でその国を治め、その国は平安に治まった。昔、晋の文公は大布の衣に、牝羊の皮服で、紐で剣を腰に帯び、その姿でその国を治め、その国は平安に治まった。昔、楚国の莊王は鮮やかな冠をかぶり、組紐を垂れ、縫衣・博袍を着、その姿でその国を治め、その国は平安に治まった。昔、越王句踐は剃った頭髪に入れ墨の、その姿で国を治め、その国は平安に治まった。これらの四人の君は、その服装は同じではないが、その人としての行いは、ただ、一つであった。私、翟は、このことに因り、人としての行いは、服装には関係が無いことを知ったのだ。」と。公孟子が言うことには、「なるほど。私は、このことを聞いて、言うことには、『善を行わずに、留めて置くことは良くない。』と。そこで、お願いですが、忽を帯から外し、章甫の冠を換えて、また、貴方様とお会いすることはよろしいでしょうか。」と。子墨子が言うことには、「いいですとも、また、会いましょう。もし、忽を帯から外し舍、章甫の冠を換えて、また、会ったら、すると、人としての行いは、さて、服装にあるのでしょうか。」と。
公孟子は言うことには、「君子は必ず古のものごとを説く言葉に服し、それから後に仁者になる。」と。子墨子が言うことには、「昔、商王紂の臣下で、卿の位の費仲は、天下を代表する暴人であり、箕子や微子は天下を代表する聖人だった。これらの者は、そのものごとを説く言葉は同じようであったが、ところが、ある者は仁者になり、ある者は仁者になっていない。周公の旦は天下を代表する聖人となり、関叔は天下を代表する暴人となった。これらの者は古のものごとを説く言葉に服す様子は同じであるが、ある者は仁者になり、ある者は仁者にはならない。つまりそれならば、貴方が述べた『君子は古のものごとを説く言葉に服し、それから仁者になる。』ということからすれば、これらのものは古を説く言葉にはならないのか。また、貴方は周の時代の法に従っているが、今のところ、それよりも古となる夏の時代の法に従ってはいない。貴方が思う古は、(その夏王朝から見れば)古ではないだろう。」と。
公孟子が子墨子に語って言うことには、「昔の聖王の序列では、上なる聖者は立って天子となり、その次は立って卿となり、そのまた次は大夫となる。今、孔子は詩や書に学識が広く、礼や楽に理解があり、万物に博識があります。もし、孔子に聖王の立場を執らせたら、きっと、孔子に天子とさせたのではないでしょうか。」と。子墨子が言うことには、「多分、ものごとを良く分かっている者は、まず、天帝を尊び、鬼神に仕え、人を愛しみ、用財を節約し、これらを総合して知力とするだろう。今、貴方が言うことは、『孔子は詩や書に学識が広く、礼や楽に理解があり、万物に博識がある。それを根拠に、言うことには、この様だから天子とすべきである。』と、このことは、人の歯の数を数えて、この人の歯の本数が多い、そして、その歯の本数を根拠に財物の富者と言うようなものだ。」と。
公孟子が言うことには、「貧者と富者や寿命と夭折は、ぐじゃぐじゃに混じり合って、その決定は天帝にある。だから、人間はその結果を損益評価することは出来ない。」と。また言うことには、「君子は、必ず、学ぶ。」と。子墨子が言うことには、「人に学ぶことの大切さを教えて、それでも、ものごとは天命に因るとの有命の論説を執る。このことは、まるで、人に冠を付ける前には頭髪を布で包むものだと命じながら、頭髪を布で包んだら、その肝心の冠を被る風習を取り上げるようなものだ。」と。
公孟子が子墨子に語って言うことには、「人の行いには正義があり、また、正義がない。鬼神の行いには吉祥は無く、また、吉祥をせず。」と。子墨子が言うことには、「古の聖王は、皆、鬼神は神明とし、禍福の源であり、鬼神による吉祥はあり、また、吉祥をせずの立場を執った。このことにより政治は治まって、国は安寧であった。桀王や紂王より以下、皆、鬼神に対して、神の存在は不明とし、鬼神が禍福の源では無く、鬼神による吉祥は無く、また、吉祥をせずの立場を執った。このことにより政治は乱れ、国は危うかった。このために先の時代の王の書に、『子、また、このことが有っていうに、その驕れる姿は、お前にある、不祥なり。』と。この言葉は、不善をなせば罰が有り、善をなせば賞が有ると語っている。」と。
子墨子が公孟子に語って言うことには、「儒者が説く喪礼では、主君と父母、正妻、正妻の長男の死亡では、三年間の服喪を行い、伯父、叔父、兄弟の死亡には服喪期間が一年間、他の親族では五月間の服喪、姑、姊、舅、甥の死亡には、皆、数か月間の服喪がある。また、喪を行わない間に、詩三百編を読み、詩三百編を演奏し、詩三百編を歌い、詩三百編を舞う。もし、貴方のこのような説に従うと、さて、君子は、いつ、統治の報告を聴くのだろうか。庶人は、いつ、仕事に従事するのだろうか。』と。公孟子が言うことにが、「もし、国が乱れたら、そこで初めて、国の統治を行い、国が治まっていたら、礼と楽を行う。国が治まるようなら、仕事に従事し、国が富むようであれば、礼と楽を行う。』と。子墨子が言うことには、「国の統治。国の統治を止めてしまえば、きっと、国の治安もまた無くなってしまうだろう。国が富むには、仕事に従事する、だから、富むのである。仕事に従事することを止めてしまえば、きっと、国の富みもまた無くなるであろう。だから、国を治めるといっても、統治を行うことを勧めることを飽きることなくおこなうのです、そうした後に統治は十分に行えるのです。今、貴方が言うことには、『国が治まっていたら、それならば、礼と楽を行い、国の治安が乱れていれば、それならば、国を治める。』と。この貴方の発言を例えれば、喉が渇いたら、井戸を掘って水を求め、病で死んだら、医者を呼ぶようなものだ。古、三代の暴王の桀王・紂王・幽王・厲王は、盛んに女楽の声楽の宴を開き、その国の民のことを顧みず、これらのことにより、王自身の身は刑罰で殺され、国は廃墟となったのは、皆、この楽に耽ることに浸ったためだ。」と。
公孟子が言うことには、「鬼神はいない。」と。また、言うことには、「君子は、必ず、祭祀を学ぶ。」と。子墨子が言うことには、「鬼神はいないと言う説を執り、一方、君子は祭礼を学ぶとは。このことはまるで、客がいないのに、客礼の儀式を学ぶようなものだ。つまり、魚がいないのに、魚を捕まえる籠漁を行うようなものだ。」と。
公孟子が子墨子に語って言うことには、「貴方は三年の服喪に対して非難されるが、貴方の唱える三日の服喪もまた非難すべきものです。」と。子墨子が言うことには、「貴方は三年の服喪により、三日の服喪を非難するが、このことは、ちょうど、ひと肌を脱いだ者が俱物を恭しく両手で掲げている様を、厳かさが無いと言うようなものだ。」と。
公孟子が子墨子に語って言うには、「ある者が知恵で人に勝ることがらが有れば、この者を知恵者と言っていいだろうか。」と。子墨子が言うことには、「愚鈍な者でも、ある知恵で人に勝ることが有りますが、さて、この愚鈍な者を知恵者と言うべきでしょうか。」と。
公孟子が言うことには、「三年の服喪から、私は私が父母を慕う気持ちを学んだ」と。子墨子が言うことには、「それは嬰児の知恵です。ただ、父母を慕っただけでしょう。嬰児が、父母がそばに居て貰えないからと、それで泣き叫んで止まないようなもので、この嬰児の有り様はどういうことでしょうか。これは、嬰児はまだ幼く愚鈍だからです。そうすると、三年も服喪する儒者が言う知恵とは、まさか、三年もかからずに育つ嬰児より勝っていることが有るのですか。」と。
子墨子が儒者に質問して言うことには、「どのような理由で楽を行う。」と。言うことには、「楽により楽を行うためである。」と。子墨子が言うことには、「貴方は、まだ、私の質問に答えていない。今、我が貴方に質問して言うに、『どうして家を建てる。』と。それに答えて言うのなら、『冬に家により寒さを避け、夏に家により暑さを避け、部屋で男女の居室を別けることを行う。』ではないか。つまり、このことで、貴方は私に家を建てる理由を説明している。今、私は貴方に質問して言うことには、『そのような理由で楽を行う。』と。貴方が答えて言うことには、「楽により楽を行う。」と。これではまるで、言うことには、『どのような理由で家を建てる。』の質問に、答えて、『家により、家を造る。』と言うようなものではないか。」と。
子墨子が程子に語って言うことには、「儒者が説く道で天下の治安を喪うこととなるものとしては、儒者が言う四政である。儒者は天帝の存在に対し不明と見なし、鬼神の存在に対し鬼神はいないとみなし、そして天帝・鬼神の存在を説明せず、このことにより天下の治安を喪うのに十分だ。また、厚葬久喪の説を取り、棺を幾重に重ねて棺槨を造り、死者を包むのに多くの衣装を作り、死者を墓地に送る様子は引っ越しをするような有様で、三年の哭泣の規定では、喪主は周囲に助けられて体を起こす演技をし、杖を使って歩く演技をし、耳は悲しみに聞こえないふりをし、目は悲しみによく見えないふりをする。このことにより天下の治安を失うのに十分だ。また、弦歌鼓舞の説を取り、周代のものを慣習だとして女楽の声楽を行い、このことにより天下の治安を失うのに十分だ。また、天命が有ると言う説を取り、貧者と富者や天寿と夭折、治乱や安危の帰結には天の定めがあり、人間が世の帰結についてとやかくすることは出来ないとし、上の立場となる者は天命の説を取り、きっと、統治への訴えを聴かず、下の立場となる者は天命の説を取り、きっと、仕事に従事しないだろう。このことにより天下の治安を喪うのに十分だ。」と。程子が言うことには、「極端ですね。先生が儒者を誹ることは。」と。子墨子が言うことには、「儒者の自説に凝り固まった者に、今、説明したこの四政の説が無いのであれば、それなら、私は、私の儒者への批判を次のように言うでしょう、『これは、誹謗の説である。』と。もし今、儒者の自説に凝り固まった者にこの四政の説が有るのなら、それなら、私は、私の儒者への批判を次のように言うでしょう、『これは評論であり、聞いたことを判断もせずに言っている訳ではない。』と。いうでしょう。」と。程子は挨拶もせずに、部屋を出て行った。子墨子が言うことには、「迷っているな。」と。程子が帰ってきて、部屋の後に座り、子墨子の前に進み出て、再び、質問して言うことには、「郷に先生の言葉を聞くべき者がいたとしましょう、先生の言葉のままですと、それでは聖王とされる禹王を誉めず、暴王とされる桀王や紂王を非難していないのではないでしょうか。」と。子墨子が言うことには、「そうではない。ものごとで、伝統の事例に応じ、議論を尽くしてから、そのものごとを行う。これは過去への弔問です。ものごとに手厚くしないといけないときは手厚く応じ、軽くしていい場合は軽く応じる。それを改めて、伝統の事例に応じ、議論を尽くしてから、このものごとを行う。このことは、荷車の曳き棒を振り上げて、蛾を追い払うような無駄なものです。」と。
子墨子は程子と談論し、孔子を講評した。程子が言うことには、「先生は儒学を否定します、ところがどうして、孔子を講評するのですか。」と。子墨子が言うことには、「孔子の説く説は、的を射ていて、それを変える必要が無いからです。今、鳥が地上に熱波が襲ったと聞けば、きっと、空、高く飛び、魚が地上に熱波が襲ったと聞けば、きっと、水底深くに行くでしょう。この熱波が地上を襲ったときに、古の聖王の禹王や湯王がこの事態になにごとかの対策をしようとしても、きっと、熱波の襲来を変えることは出来ないでしょう。この熱波に対し何もせず、ただ、熱波から避難する鳥や魚を愚鈍なものたちと非難できるでしょうか、禹王や湯王でも、時と場合によっては、それに従うと言います。それで、今、私、翟は、そのような、時と場合のものごとに応じる孔子を評論から外すことはないのです。」
子墨子の門前に遊学を希望する者がおり、身體は強良で、思慮は敏達で、子墨子に従い、学ぶことを希望した。子墨子が言うことには、「しばらくの間、学ぶか、私は、貴方を私に師事させようと思う。」と。子墨子の善き言葉に勧められて、子墨子に学んだ。1年経って後、仕官の斡旋を子墨子に求めた。子墨子が言うことには、「貴方には仕官の斡旋はしない。貴方は、私がする魯国の話を聞きたいか。魯国に血を分けた兄弟五人の者がいて、その父は死亡するも、その長男は酒が大好きで、父親の葬儀をしなかった。その四男が言うことには、『同じ親の子である私と父親の葬儀をしよう、今は、貴方は酒を飲むのを止めなさい。』と。四男は善き言葉を長男に勧め、そして、父親の葬儀を行った。すでに葬儀が終わった後、長男はその四男に酒を求めた。四男の言うことには、『私は、貴方に酒を買い与える約束をしたことは無い、貴方は貴方の父親の葬儀を行い、私は私の父親の葬儀を行った。ただ、どうして、五人兄弟の私ですから、私独りの父親でしょうか。貴方は父親の葬儀をしないので、人は貴方をあざけ笑う、それで貴方に勧めて父親の葬儀を行わせたのだ。今、貴方は義を果たし、私もまた義を果たし、ただ、これが私、独りの義でしょう。』と。貴方は、以前、学んでいなかったので、そこから人は貴方をあざけ笑おうとしていた、それで、貴方に学ぶことを勧めたのだ。」と。
子墨子の門前に遊学を希望する者がいた、子墨子が言うことには、「どうして、学ばないのか。」と。答えて言うことには、「私の親族に墨学を学ぶ者はいません。」と。子墨子の言うことには、「そうとは限らないだろう、ある男に美しいものを好む者がいても、それなのに、言うことには『私の一族に美しいものを好む者はいない』と、このことだけで、美しいものを好まないのか。それなら富貴を希望するとき、それなのに、言うことには『私の一族に富貴を求める者はいない。』と。このことで富貴を願わないのか。美を好み、富貴を願うことは、人が見ていなくても、それでも人は強くこれを求める。さて、正義は、天下の大器です、どうして、人が見ていることを求めるのか、人が見ていなくても、努力して、正義を行え。」と。
子墨子の門に遊学する者がいて、子墨子に語って言うことには、「先生は鬼神の存在を明知とし、鬼神は人の禍と福を行うと説きます。善行を行う者には鬼神はこの者を富まし、暴行を行う者には鬼神はこの者に災いを与えるとします。今、私が先生に師事することは長くなりましたが、なぜか、福を得られていません。考えてみますと、先生の言葉に不善があるのでしょうか。それとも、鬼神の存在が不明なのでしょうか。私は、どのような理由で福が得られないのでしょうか。」と。子墨子が言うことには、「貴方が福を得られないからだとして、私の言葉が、どうして、不善なのか。また、どうして、鬼神の存在が不明なのか。ところで、貴方は、徒刑の者を隠匿する刑罰があることを知っていますか。」と。答えて言うことには、「まだ、その刑罰のことを聞いたことはありません。」と。子墨子が言うことには、「今、北にある人がいます、貴方にある学説の編を与えます。貴方は十分にこの学説の編を受けた名誉がありますが、しかし、貴方は自らの名誉を学説の一部だけにしますか。』と。答えて言うことには、「そんなことはしません。」と。「ここにある人が居ます、貴方に百倍する能力を与えます。貴方は、終身、百倍する能力を与えてくれたその人の善き行いを誉めても、貴方はその百倍となる能力を一つも使うことをしないことをしますか。」と。答えて言うことには、「そんなことはしません。」と。子墨子が言うことには、「罪人一人を隠す者もまた罪が有り、今、貴方が隠していることがらは、ここで説明したようにまだまだたくさんあります。つまり、貴方は厚く罪が有る者なのです、罪が有る者が、どうして、福を求めるのですか。」と。
子墨子に疾病があり、弟子の跌鼻が前に進み出て、質問して言うことには、「先生は鬼神の存在を明白とし、鬼神は禍福を行うとし、鬼神は善行を行う者はこの者を賞め、不善を行う者はこの者を罰すると説きます。今、先生は聖人ですが、どうして、疾病が有るのですか。考えてみると、先生の言葉に不善があるからですか。それとも、鬼神の存在が明らかでは無いからですか。」と。子墨子が言うことには、「私に疾病があるからといって、どのような訳で、鬼神の存在が明らかでないことになるのか。人が病を得ることがらは多方面であり、病を寒暑に得ることが有り、病を労苦に得ることがある。(例えれば、屋敷で、)百の門の内の一つの門を閉じても、きっと、盗賊は、どうして、閉じた門だけを理由に、屋敷に忍び込まないのか。」と。
ある二三人の弟子で、重ねて、子墨子に弩弓の射撃を学ぼうとする者がいた。子墨子が言うことには、「だめだね。だいたい、ものごとを知りたい者は、必ず、その者の能力の及ぶ範囲を量って、それからものごとに従事する。戦いを良くする国士でも、戦場で戦いながら、同時に他人を助けることは、なかなか難しいものだ。今、貴方は国士の能力を持つ者ではないから、どうして、学問を学びながら、同時に弩弓の射撃を学ぶことが出来るのか。」と。
ある二三人の弟子が子墨子に、また、言うことには、「告子が言うことには、『正義を説いから、正義を行うことは非常に悪いことだ。』と。お願いします、告子を追放してください。」と。子墨子が言うことには、「それは出来ない、自分の論説を唱えて、それで自分の行動を非難することは、それでも、何も無いよりはましだ。」と。「北にある人がいて、『私、翟は、非常に不仁の人だ。』と言う。(儒者には、私がする)天帝を尊び、鬼神に仕え、人を愛しむことが、非常に不仁な行いであっても、それでも、(天下に対して)何もしないよりましだ。今、告子の言談は、ただただ、弁論のための弁論でしかないが、仁と正義を説いて、それでも、私を非難していない、告子の非難の弁論は、それでも、何も無いよりましだ。」と。
ある二三人の弟子が、また、子墨子に言うことには、「告子は、『仁を行うことは、他の何物よりも勝る。』と言っています。」と。子墨子が言うことには、「まだ、必ずしもそうでは無いだろう。告子が仁を行うと云うことは、これを例えれば、つま先立ちして身長が高いとし、胸を精一杯に反り返して、胸幅が広いとしているようなもので、長く自説を説き続けることは出来ないだろうね。」と。
告子が子墨子に語って言うことには、「私は国を治め、政治を行いたいと思う。」と。子墨子が言うことには、「政治とは、口に出してこのことを言えば、身は必ずこのことを行わなければいけないものだ。今、貴方は口に出して政治を行うというけれど、それに対して、身は、まだ、政治を行っていない。このことは貴方の身の乱れです。貴方は貴方自身の身を治めることが出来ていないのに、どうして、国の政治を治めることが出来るでしょうか。貴方が言葉という安易なところに逃げるのは、貴方の身の乱れです。」と。

第四十九 魯問

魯君が子墨子に語って言うことには、「私は斉国が我が国を攻めることを恐れています。我が国を助けることは可能ですか。」と。子墨子が言うことには、「可能です。昔、三代の聖王の禹王・湯王・文王・武王は、最初は百里四方の領地の諸侯でしたが、忠心を説き正義を行って、天下を取りました。三代の暴王の桀王・紂王・幽王・厲王は、怨念に復讐し、暴力を行い、そして受け継いだ天下を失いました。私の願いは、主君が、統治として、上には天帝を尊くし鬼神に仕え、下には百姓を愛しんで利を与え、厚く祭祀への奉幣を行い、他の諸侯への辞や令を丁重にして、早急に広く近隣の諸侯に礼を尽くし、国民を駆り立て、これらを以てすれば、斉国との軍事に対し、戦乱の災いを救うことが出来るでしょう。このようなことが出来ないのなら、実際の所、他に手立てはありません。」と。
斉国の軍団は魯国を攻伐しようとした。子墨子は斉国の将軍の項子牛に語って言うことには、「魯国を攻伐することは、斉国の大きな災い事です。昔、呉王は東に越を攻伐し、諸侯を会稽の地に集め、西に楚国を攻伐し、昭王を隨の地に幽閉した。北に斉国を攻伐し、斉国の将軍国子を捕虜にして呉国に帰った。諸侯はその復讐を計画し、百姓はその戦労に苦しみ、用財を生産することは無かった。この状況により、国は廃墟の様子となり、最後に呉王はその身は刑罰で殺された。昔、智伯は范氏と中行氏を攻伐し、晋国の三諸侯の地を併合し、諸侯はその復讐を計画し、百姓はその戦労に苦しみ、用財を生産することは無かった。この状況により、国は廃墟の様子となり、このことによって智伯は、その身は刑罰で殺された。このようなわけで、大国が小国を攻めることは、このことは、互いに攻撃し合うことであり、その災いは、きっと、その国に返ってきます。」と。
子墨子が斉国の大王に拝謁して言うことには、「今、ここに刀があるとします、この刀を人の頭を切ることを試みとして、ただちにスパッと切断しました、これを鋭利というべきでしょうか。」と。大王が言うことには、「鋭利だろうね。」と。子墨子が言うことには、「何度も、この刀で人の頭を切ることを試みて、ただちにスパッと切断します、これを鋭利と言うべきでしょうか。」と。大王の言うことには、「鋭利だろうね。」と。子墨子が言うことには、「刀は鋭利ですが、どうして、人を殺すと云う不祥を受けるのでしょうか。」と。大王が言うことには、「刀はその鋭利ではあるが、人の頭を切ることを試みる者が、その人を殺すと云う不祥を受ける。」と。子墨子が言うことには、「国を併合し敵軍を壊滅させ、敵国の百姓を殺したとき、一体、誰が、その人を殺したと云う不祥を受けるのでしょうか。」と。大王は天を仰ぎ、ものごとの責任の所在を思って言うことには、「私が、その人を殺したと云う不祥を受ける。」と。
魯陽の文君が将に鄭国を攻めようとしたとき、子墨子はこのことを聞いて、そしてこの攻伐を留めて、陽文君に語って言うことには、「今、魯国にあって四方の国境の内で、大都がその国の小都を攻め、大家がその国の小家を攻伐し、その人民を殺し、その牛馬や犬豚、麻布や帛布、米や粟、貨財を略奪されたら、いったい、どうしましょうか。」と。魯陽の文君が言うことには、「魯国の四方の国境の内の、皆は、私の臣下である。今、大都がその国の小都を攻め、大家がその小家を討ち、この貨財を奪う、このようであれば、私は、必ず、厳重にこれらの者を罰する。」と。子墨子が言うことには、「天は天下をあまねく有しています、また、君も魯国の四方の国境の内を有しています。今、貴方が兵を挙げて鄭国を攻めたら、天誅はその行いに至らないでしょうか。」と。
魯陽の文君が言うことには、「先生は、どうして、私が鄭国を攻めるのを止めるのか。私が鄭国を攻めるのは、天の志に従っているのだ。鄭人は三代に渡りその父を殺して王位を奪い、天は誅罰を加え、(その証として、)三年間、不作としたのです。私はその天の誅罰を助けるのです。」と。子墨子が言うことには、「鄭人は三代に渡りその父を殺して王位を奪い、そして天は誅罰を加へ、(その証として、)三年間、不作としたのであれば、すでに天の誅罰は十分です。今、また、兵を挙げ、その兵力で鄭を攻め、言うことには、『私は鄭を攻める、これは天の志に従っているのだ。』と。これを例えれば、ここにある人がいるとしましょう、その子供の腕力は強いのですが、頭の方の能力が足りない、それでその子供の父は、この子供を鞭で打つ、その隣家の父は棒を振り上げて、その子供を撃つ、そして言うことには、『私は隣の子供を棒で撃つ、これはその子の父親の志に従っているのだ。』と。なんか、変だと思いませんか。」と。
子墨子が魯国の陽文君に語って言うことには、「その隣国を攻め、その人民を殺し、その牛馬、粟米、貨財を略奪したことを、この戦功を竹簡や帛布に書き、金属や石に彫り鏤し、さらにこの戦功の銘文を鍾鼎に鋳込んで、後世の子孫に伝えて遺して言うことには、『私の占領の成果の多いことは比較できない。』と。今、賤しき者が、また、その隣家を攻め、その人民を殺し、その犬や豚、食糧、衣服を略奪し、また同じように、この略奪を竹簡や帛布に書き、このことの示す銘文を宴席に出す食器に書き、これにより後世の子孫に遺して言うことには、『私の略奪の成果の多いことは比較できない。』と。このようなことは、あって、いいのでしょうか。」と。魯国の陽文君が言うことには、「確かにそうではあるが、私が貴方の言論から世の中の様子を観れば、天下で、このようにあるべき姿と云うものは、まだまだ、そのようになってはいなのではないでしょうか。」と。
子墨子が魯国の陽文君のために言うことには、「世俗の君子は、皆、小さいものごとを理解しても、大きなものごとを理解できない。今、ここにある人がいるとしましょう、一匹の犬、一匹の豚を盗めば、この盗みは仁ではないと言います、ところが、一国一都を戦争で盗み取れば、それを正義と言います。これを例えれば、ちょっと有るものを見て、それを白色だと視て、それを白色と言い、一方では、しっかりそれを白色だと視ても、これを黒色というようなものです。このようなことで、世俗の君子は、小さいものごとを理解するが、大きなものごとを理解できないと、この言葉の示す通りです。」と。
魯国の陽文君が子墨子に語って言うことには、「楚国の南に啖人の国の者に橋というものがいて、その国では長子が生れば、生贄として、その子供を食らい、これを行えば、次に生まれる弟の生育に災いが無いと云う。美味であれば、その君主に贈り、君主が喜べば、その父を賞する。これは悪俗ではないだろうか。」と。子墨子が言うことには、「中国の俗といっても、また、似たようなものです。その父を殺し、そして、その子を賞める、このようであれば、なににより、その子供を食らい、そして、その父を賞するものと異なることがあるでしょうか。そもそも、仁と正義を用いなければ、どうして、夷人がその子供を食らう風習を非難することが出来るでしょうか。」と。
魯の君主の愛妾が死んで、魯の君主はこの愛妾のために誄と葬儀を行った。魯国の人は家族ではない愛妾のために君主が誄と葬儀を行ったことを前例として、それ以降、これに習った。子墨子はこのことを聞いて言うことには、「誄は、死人の志をあの世へと導くものである。今、君主の前例により、魯国の人は風習として家族ではない愛妾への誄と葬儀を行うという、このことは、まるで最初に首が来たら、後から立派な儀礼の服が付き添っているみたいなものじゃないか。」と。
魯国の陽文君が子墨子に語って言うことには、「私に忠臣のことを語る者がいます、家臣に対し伏せを命じれば伏せを行い、仰向けを命じれば仰向けを行い、待機を命じれば静かに待機し、呼べばただちに駆けつける、この家臣を忠臣と言うべきだろうか。」と。子墨子が言うことに、「この者に伏せを命じれば伏せを行い、仰向けを命じれば仰向けを行う、この有様は影に似ている。待機を命じたら静かに待機し、呼べばただちに駆けつける、この有様はこだまに似ている。貴方様は、どうして、影やこだまが欲しいのですか。もし、私、翟が言うところの忠臣となるべき者とは、上に過ちがあれば、この様子を窺って適時に諫め、臣下自身に善行があれば、それを上に相談しても、外部に広言してから善行を報告することはしません。外にはその国の邪悪な行いを正し、また、その国の善行を報告し、上の者の考え・指導に同調し、下は上を批難しない、このような姿で美善の源は上にあり、そして、民などの怨みや妬みは臣下の責任としてあり、安楽の源は上にあり、そして、世の憂いや杞憂は臣下の責任としてある。このような者を、私、翟は、忠臣と呼ぶべき者だと言うのです。」と。
魯君が子墨子に語って言うことには、「私には二人の子がいて、一人は学を好み、一人は人に財物を分かち与えることを好む、どちらの子供を太子とすることが良いでしょうか。」と。子墨子が言うことには、「まだ、どちらが相応しいか判りません。(財物を分かち与えることについて、)あるいは、賞与を行わなければいけない場面で財物を与えているのでしょうか。ただ、魚を釣る者の餌は、魚に賞与を与えている訳でもなく、鼠に餌を与えるのに毒虫を与えることは、鼠を愛しんでいる訳でもありません。私のお願いは、主君である貴方様が、その子供たちの志とその功労とを併せて、二人の様子を観て行くことです。」と。
魯人に子墨子の思想に賛同して、その子を学ばせた者がいて、その子は戦いで戦死した。その父は子墨子を子供の戦死について責めた。子墨子が言うことには、「貴方は、貴方の子供を私の所で学ばせることを希望し、今、(貴方の子供の)学びは終了し、(貴方の子供は戦場に赴き、)戦いで戦死した。ところが、貴方は怒っている。さて、穀物を出荷しようと希望し、穀物の出荷に応じたら、その出荷に応じたことを怒っている。何か、変ではありませんか。」と。
魯国の南方の鄙の人に、呉慮という者がいて、冬には陶器を造り、夏には耕作を行い、自ら舜王になぞらえていた。子墨子がこの人のことを聞いて、そして、この人に会いに行った。呉慮は子墨子に語って言うには、「正義は正義だけ、また、正義は正義だけだ、どうして、正義を口に出して行う必要があるのか。」と。子墨子が言うことには、「貴方が謂う正義とは、例えば、力を使って人が労苦するようなものがあり、財物を使って人に分かつようなものは有るのですか。」と。呉慮が言うことには、「ある。」と。子墨子が言うことには、「私、翟は、以前には、(貴方が行おうとする)正義を行おうとしました。私、翟は田畑を耕作し、そして、その収穫物で天下の人々を食わそうと考えたことは、しばしば、ありましたが、その後に一人の農夫が耕作になるだけでは、その収穫物を天下の人々に分けようと思っても、天下の人々には一升の粟を得ることも出来ません。例え、それが可能だったとしても、ただ、一升の粟を得たとしても、その量では天下の人々の飢えをその食料で満たすことは出来ないことは、判り切ったことです。私、翟は布を織って、そして、天下の人々に服を着せようと考えることは、しばしば、ありますが、その後に一人の婦人の織布となるだけで、その布では天下の人々に分け与えても、人々には一尺の布を与えることは出来ません。例え、それが可能だったとしても、ただ、一尺の布を人々が得たからと言っても、それだけでは天下の人々の寒さを暖めることは出来ないことは、判り切ったことです。私、翟は堅固な甲冑を被り、鋭利な武器を取り、諸侯の戦乱の災いを救おうと思うことは、しばしばありますが、その後に一人の匹夫の戦いとなるだけで、一人の匹夫の戦いでは敵の三軍を防げないことは、判り切ったことです。私、翟により、もし、先の時代の王が行った聖道を唱えずして、説明したような独りの行いを行うよりも、それよりも、先の時代の王が行った聖道の説を求め、聖人の言葉に通じ、そして、その古の辞を考察し、上には王公大人に正しい政道を説き、次には匹夫徒步の士に正しい道を説く。王公大人が私の言説を採用したら、国は、きっと、治まり、匹夫徒步の士が私の言説を用いたら、その人の行いは、きっと、修まるでしょう。このような訳で、私、翟は行動では、田畑を耕さないので飢餓の者を食わせられず、布を織らないので寒さに震える者に服を着せられないのですが、行動の功績は田畑を耕作するよりも賢く、それで飢餓の者を食わせ、織布では寒さに震える者に服を着させるのです。このために、私、翟は行動では、耕作や織布をしないのですが、それでも、功績は耕作や織布より勝っているのです。」と。呉慮が子墨子に語って言うことには、「ただ、正義だけ、ただ、正義だけ。いったい、どこに正義を行っているのか」と。子墨子が言うことには、「仮説を置いたとして、天下の人々が耕作することを知らなければ、耕作を人々に教え、人々に耕作を教えずに、ただ独り己だけで耕作を行う者と、その功績の結果である収穫量はどちらの方が多いか。」と。呉慮が言うことには、「人に耕作を教えたほうが収穫量は多いだろう。」と。子墨子が言うことには、「仮説を置いたとして、不義の国を攻めるときに、民衆を鼓舞して民衆に自ら進んで戦いを行わせることと、民衆を鼓舞することなく、民衆に自ら進んで戦いを行わせることなく、ただ、独り戦いに赴く者と、その戦功はどちらのほうが多いか。」と。呉慮が言うことには、「民衆を鼓舞して民衆に自ら進んで戦いを行わせるものの方が戦功は多いだろう。」と。子墨子が言うことには、「天下の匹夫や徒步の士で、正義を理解するものは少ない、それで、天下のことを教えるときに正義を説明して行う者には、その功績は多いものがあります。それならば、どうして、天下のことを教えるときに正義のことを言わないでしょうか。もし、民衆を鼓舞して、そして、正義を進める場面が得られるのなら、それなら、私は正義を、どうして、ますます、進めない訳が有るのでしょうか。」と。
子墨子は公尚過を越国に仕官させた。公尚過は越王に墨学の理念を説き、越王はたいそう喜び、公尚過に語って言うことには、「先生が、失礼ながらも、子墨子に対して、この越国に赴いて、この私、越王に教えて頂けるようにしてもらえれば、お願いします、あの占領した呉国の地の内、五百里四方の地を割譲して、そこに子墨子を封じます」と。公尚過はその提案の交渉を許諾した。そこで公尚過は子墨子の許に行くのに馬車五十台を列ね、その車列により子墨子を魯国に迎えに行き、言うことには、「私は、先生の教えた道をもって越王を説いた、すると、越王はたいそう、喜び、私に語って言うことには、『失礼ながらも、子墨子に対して、越国に赴いて、そして、私、越王を教えていただけるようにしてもらえれば、お願いします、あの占領した呉国の地の内、五百里四方の地を割譲して、そこに子墨子を封じます』と。」と。子墨子が公尚過に語って言うことには、「貴方は、越王の志をどのように観ているか。私が考えるに、越王が、本当に私の言説を聴き、私が説く道を採用するのなら、それならば、私、翟は、越国に行きましょう。しかし、私は空腹の様子を量り、そして、それに見合う食事を取り、身体の大きさを計って、そして、その大きさに見合う服を着きますから、私自身は群臣と同じ俸禄で十分です、どうして、領主の立場に封じるのですか。そもそも、越王は私の言説を採用しないでしょうから、私が説く道を用いられないのに、それでも、私が越国に行くことは、これはまるで、私の正義を売買しているようなものです。もし、私の正義に相応しい売買をするとすれば、中国が相応しいものになります。どうして、越国で私の正義を売買しないといけないのでしょうか。」と。
子墨子が魏越を仕官させたときに、魏越が言うことには、「もし、諸国の君子に拝謁を得た時に、そこでの最初に何を語れば良いでしょうか」と。子墨子が言うことには、「おおよそ、その国に仕官したときは、必ず、行うべき務めを選び、そして、従事しなさい。国家が混乱していれば、その場合は私が説く尚賢や尚同の説を語り、国家が貧窮していれば、その場合は私が説く節用や節葬の説を語り、国家が音を好んで宴の飲酒に耽っていれば、その場合は私の非楽や非命の説を語り、国家が天帝や鬼神への祭祀を避け礼が無いときは、その場合は私の尊天や事鬼の説を語り、国家が他国への暴奪を企て侵凌すれば、その場合は私の兼愛や非攻の説を語りなさい、このようなことが、私が言うことの、『行うべき務めを選び、そして、従事しなさい。』ということだ。」と。
子墨子は曹公子を仕官させた。曹公子は宋国に三年間、勤め、返って来た。曹公子が子墨子に対面して言うことには、「最初、私は、先生の門に遊学し、短い裾の褐色の衣を着、粗末な野菜と豆の汁物を食い、朝に食事を得たら、夕べには食事を得られず、そして、鬼神を祭祀した。今、先生の教えにより、家は最初より豊かになった。家が豊かになったので、謹んで鬼神を祭祀している。ところが、家来や召使は多く死に、六畜は増えず、身は病に沈む。私は、多分、まだ、先生が説く道の適切な用い方を知らないのだろうか。」と。子墨子が言うことには、「そうではないのだ。鬼神が人に求めることがらは多い、人は高く爵位や俸禄を得られるようになれば、その地位を賢人に譲り、財物が多ければ、それを貧者に分かつことを望むものだ。鬼神は、ただただ、祭祀で俱物が奉げられることを求めているだけでしょうか。今、貴方は高く爵位と俸禄を得ていても、その地位を賢者に譲らず、これは一つ目の不祥です。財物は多く所有していても、それを貧者に分かつことをしていません、これは二つ目の不祥です。今、貴方は鬼神に仕えることは、ただ、祀るだけで、(鬼神が求める公利の行為をしていなくて、)それなのに言うことには、『病はどこから来るのか。』と。この有様は、まるで屋敷の百門の内の一門だけを閉じて、言うことには、『盗賊は、どこから入ったのだろうか。』と同じです。これは、鬼神の本来のものとは違うものに福を求めているようなもので、さて、違いますか。」と。
魯の祭祀を司る祝は、一匹の豚を用いて鬼神を祭り、そして、鬼神に百福を求める。子墨子はこのことを聞いて言うことには、「これはだめだろう。今、人に物を施すことが薄く、それに対して、その人に求めることが厚ければ、きっと、人は、ただただ、その施しが自分に与えられることを恐れるだろう。今、一匹の豚を用いて鬼神を祭り、そして、鬼神に百福を求める、これは、ただ、祭祀の歳費の多寡で、牛や羊を用いて祀る費用のことを恐れたのだろう。古、聖王は鬼神に仕えるのに、天帝や鬼神を祀るだけで、特別な祈願はしなかった。今、豚を用いて鬼神を祀り、そして、百福を求める、これでは、鬼神がその豚一匹の俱物で百福を願われて富むよりは、俱物は無いけれど百福の願いもない、貧しい方が良いだろうね。」と。
彭軽生子が言うことには、「過ぎ去った過去のものごとは知ることが出来るが、これから来る未来のものごとは知ることが出来ない。」と。子墨子が言うことには、「仮説と置くとして、親は百里の郊外の地に住んでいて、なにごとかの難に遭ったとき、期限を一日とし、期日以内なら生き長らえ、期日が守れなければ死ぬ。今、ここに丈夫な二輪の車と良き馬があり、また、ここに農耕馬と四輪の荷車があるとしよう、貴方に選ばすとき、貴方はどちらの方を選んで乗るか。」と。答えて言うことには、「良き馬が曳く二輪の丈夫な車に乗る、それで速やかに行き着くことが出来るだろう。」と。子墨子が言うことには、「さて、どこかに、(知ることが出来ない)未来はあるのだろうね。」と。
孟山が王子閭を誉めて言うことには、「昔、白公は反乱を起こし、王子閭を拘束して斧や鉞を腰に当て、まっすぐに剣を王子閭の胸に当てて、王子閭に語って言うことには、『王に即位すれば生かし、王に即位しなければ殺す。』と。王子閭が言うことには、『なぜ、私を侮るのか。私の親を殺し、そして、私を王に即位させるために楚の国をあてがう、私が天下を得れば、これは不義、そうはならない、また、それならどうして楚の国で王の立場を得られるだろうか。』と。そして、王にならなかった。さて、王子閭の行いは仁者のものではないでしょうか。」と。子墨子が言うことには、「王子閭の行いは難しいことは、確かに難しいが、しかしながら、仁者の行いではないでしょう。もし、楚王の行いが無道であったのなら、それならば、どうして楚王の地位を受けて、楚王として国を治めなかったのでしょうか。もし、白公の行いが不義であるならば、どうして、楚王の地位を受けて、白公を誅罰し、そして、王の地位を返さなかったのでしょうか。このようなことで、私は、『王子閭の行いは難しいことは、確かに難しいが、しかしながら、仁者の行いでは無いのです。』といったのです。」と。
子墨子は勝綽を項子牛に仕官させた。項子牛は、三回、魯の地を侵略したが、勝綽はその三回の侵略に従った。子墨子がこのことを聞いて、子墨子は高孫子に命じて項子牛に願い出て勝綽を退任させて言うことには、「私は、貴方、綽を仕官させたのは、貴方に項子牛の驕慢をけん制させ、邪僻を正させるつもりでした。今、貴方、綽は俸禄を厚くしてもらい、そして、主君の項子牛と悪たくみを謀り、主君の項子牛は三回も魯を侵略し、貴方、綽はその三回の侵略に従う、これは、鞭を馬の尻ではなく、むながいに打つようなものです。私、翟は貴方の行いを聞き、これは、正義を口では言いながら行わない、このことは明らかな罪を犯すようなものです。貴方、綽はこの不善のことを知らないのではなく、俸禄の多寡が正義に勝ったのでしょう。」と。
昔、楚人と越人とは長江で舟戦を行い、楚人は流れに従って舟を進め、流れを迎えて舟を退け、戦況の利を見ては舟を進め、戦況の不利を見ては舟を退け、そこに操船の困難は無かった。一方、越人は流れに逆らって舟を進め、流れに従って舟を退け、戦況の利を見ては舟を進め、戦況の不利を見てはその舟を退けることは素早やかったが、越人はこのような操船にために、しばしば、楚人に敗れた。公輸子は魯国から南の楚国に遊学し、この地で初めて舟戦の装備を造り、鉤強の装備を製造した。退く舟は之を引掛け、進む舟には之で防ぎ、その鉤強の長さを計り、そして、鉤強を舟戦の兵器として制定し備え付けた。楚の兵舟にはこの装備があったが、越の兵舟にはこの装備が無かったので、楚人はこの装備により、しばしば、越人を破った。公輸子はその技巧を誇って、それにより子墨子に語って言うことには、「私には舟戦の備えに鉤強と云う装備がありますが、知っていますか、貴方の唱える正義に、また、鉤強と同じようなものはありますか。」と。子墨子が言うことには、「私が唱える正義での、鉤強と同じような備えは、貴方の舟戦の備えの鉤強より賢です。私の鉤強は、私がものごとを捕らえて鉤するのに愛しみを用います、また、捕らえて鉤する作戦を防ぐのに恭順の心を用います。相手を捕らえ鉤することに愛しみを用いなければ、きっと、相手は私に親しまず、相手が私を捕らえ鉤することを防ぐのに恭順の心を用いなければ、きっと、すぐに相手に侮られ、相手に侮られては、私には親しむことが出来ず、気持ちはすぐに離れ離れになります。だから、こもごも、互いに愛しみ、こもごも、互いに恭順し、そして、互いに利を与えるようにします。今、貴方は鉤して人を引き留め、人も、また、鉤して貴方を引き留めるでしょう、貴方が無理して人を防げば、人もまた無理して貴方を防ぐでしょう、こもごも、互いに鉤し、こもごも、互いに防ぐ、それは互いに害するようなものです。このような理由で、私の唱える正義の鉤強は、貴方の舟戦で発明した鉤強より賢なのです。」と。
公輸子は竹や木を削って鵲の模型を作り、作り終わってこれを飛ばすと、三日の間、落ちてこなかった。公輸子は自ら至巧の技と称した。子墨子は公輸子に語って言うことには、「貴方はこの鵲を作ったのか。しかしながら、車大工の匠が車軸を造るには及ばない。車大工の匠は少しの間に三寸の木を削って車軸を造り、その車軸は五十石の荷重に耐える。それで、私が、技術が巧みと考えるものは、人に便利を与えられれば、これを巧みと言いますが、人に便利を与えないのなら、それを拙いと言います。」と。
公輸子が子墨子に語って言うことには、「私は、まだ、貴方にお会いしていないときは、私は宋の国を得ようと思っていましたが、私が、貴方にお会いした後からは、私に宋の攻略を任すとしても、それに正義がないのなら、私はそれをしません。」と。子墨子が言うことには、「私、翟は、まだ、貴方とお会いする前は、貴方は宋の国を得ようと望み、私、翟が貴方にお会いした後からは、貴方に宋の国の攻略を任すとしても、正義が無ければ、貴方は攻略をしないと、そうならば、私は貴方に宋の将来を任せましょう。貴方が正義を行うことを務めるのならば、私、翟は、また、貴方に天下の将来を任せましょう。」と。

第五十 公輸

公輸盤は楚の国のために雲梯の兵器を造り、それが成功し、その雲梯により宋の国を攻めようとした。子墨子はこのことを聞き、斉の国から出発し、旅を行くこと十日十夜をかけて郢の街に至って、公輸盤に面談した。公輸盤が言うことには、「貴方は、私に何か言いたいことが有るのか。」と。子墨子が言うことには、「北方に私を侮る者がいます、出来ることならば、貴方のお力を借りて、この者を殺したいと思う。」と。公輸盤は同意しなかった。子墨子が言うことには、「お願いします。では、十金ではどうでしょうか。」と。公輸盤が言うことには、「私の正義として、堅く、人を殺すことはしない。」と。
子墨子は立ち上がって、再び、拝礼の礼儀をして言うことには、「お願いします。私の自説を貴方に説きたい。私は北の方より、貴方が雲梯を造ったのを聞いた。そしてそれを使って宋を攻撃すると言う。さて、宋に何の罪があるのでしょうか。荊国は土地が余るほどにあり、一方、それを耕す民衆は足らない。足りない民衆を殺し、そして、余りある土地を奪い争う、これは智と言うものでしょうか。宋に罪は無いのに、荊国は宋を攻撃する、これを仁と言うべきものでしょうか。知恵があるのに戦争の是非について争わないのなら、忠と言うべきではありません。戦争をして得るものが無ければ、強者と言えるでしょうか。貴方の義と言う雲梯は、確かに少人数は殺さないだろうが、城攻めでは多人数を殺す、これで正義の類を知っていると言えるでしょうか。」と。公輸盤は承服した。子墨子が言うことには、「それなら、貴方は宋の攻撃を中止するのですか。」と。公輸盤が言うことには、「それは出来ない。私は雲梯が完成したとすでにこのことを王に伝えている。」と。子墨子が言うことには、「それでは、私を王に拝謁させてください。」と。公輸盤が言うことには、「承知した。」と。
墨子は王に拝謁して、言うことには、「今、北にある人がいます、その人は自分の飾りの付いた車を捨て、隣に飾りが破れた車があれば、なぜか、これを盗もうとし、その人は自分の錦繡を施した服を捨て、隣に裾の短い褐色に染めた粗末な服があると、なぜか。これを盗もうとし、その人は自分が持つ肥えた肉を捨て、隣に粗末な食事があれば、なぜか、これを盗もうとします。このような者は、いったい、どのような人なのでしょうか。」と。
王が言うことには、「きっと、盗癖が有るのだろう。」と。子墨子が言うことには、「荊の地は、五千里四方の土地です、宋の地は、五百里四方の土地です、これは、ちょうど、飾りを付けた車と飾りが破れた車の違いです。荊の国に雲夢があり、犀に兕、また、麋に鹿などの動物は荊の国に満ち、江漢に棲む魚鱉や黿鼉の獲物は天下の富ですが、宋に棲むものはせいぜいが雉に兔で、狐に貍はいません、これはまるで肥えた肉と粗末な食事の違いです。荊の国には長松、文梓、楩楠、豫章などの銘木はありますが、宋の国には長木すらありません、これはまるで錦繡の服と裾の短い褐色に染めた貧しい服との違いです。私は、以前に、三回、宋を攻めることをしましたが、貴方が取る戦術はこれと同じようにするでしょう、すると、私は、大王が、きっと、正義に破れて、宋国を得られないだろうと思います。」と。王が言うことには、「そうかな。貴方の発言からはそうなのかも知れないが、公輸盤は私のために雲梯を造ってくれた、きっと、宋を取る。」と。
このとき子墨子は公輸盤を見、子墨子は帯を解いて、それを城壁と見立て、小さな札で雲梯の兵器と見立て、公輸盤は、九度、城攻めの戦術を変えながら行ったけれども、子墨子は、九度、この公輸盤の城攻めを防ぎ、公輸盤の攻城の兵器は尽きたが、子墨子の守備の備えはまだ余りあった。公輸盤は降参したが、それでも言うことには、「私には、貴方を防ぐ手段を知っているが、それを言わない。」と。子墨子が、また、言うことには、「私は、貴方が私を防ぐ手段を知っているが、私も言わない。」と。楚王がその訳を尋ねると、子墨子が言うことには、「公輸子の考えは、私を殺したいだけです。私を殺せば、宋は、多分、守り切れないだろう、だから攻めるべきだ。」と。「しかしながら、私の弟子禽滑釐たちは三百人、彼らはすでに私から授かった守備の実力の器を持つ、宋城の上にあって、楚の宋国を攻撃することを待っている。私を殺したからと言っても、私の弟子たちを根絶やしにすることは出来ません。」と。楚王が言うことには、「良く分かった。貴方の願い、宋を攻めることは無かったことにしましょう。」と。
子墨子の楚国からの帰り、宋国を通り過ぎるとき、天候は雨振りで、ある里の入り口の門の下で庇を借りて雨宿りをしようとしたが、里の入り口の門番は雨宿りを許さなかった。それで故事に言うことには、「ものごとを神のみぞ知るうちに治める者は、衆人はその者の功績を知らない、明々白々とものごとを争う者は、衆人はこの者たちのことを知る。」と。

第五十二 備城門

禽滑釐が子墨子に問うて言うことには、『聖人の言葉によると、鳳凰は現れず、諸侯は殷朝や周朝の国に背き、戦争は天下のいたるところに起きた。大国は小国を攻め、強国は弱国を獲る。私は小国を守りたいと願う。この願い事を行うにはどうしたらいいでしょうか。』と。子墨子が言うことには、『どのような方法で、大国が攻め来ることから守るのか。』と。禽滑釐が答えて言うことには、『今の世の常のこととして、攻撃する戦術・戦法は、「臨」、「鉤」、「衝」、「梯」、「堙」、「水」、「穴」、「突」、「空洞」、「蟻傅」、「轒轀」、「軒車」です。そこで問います、この十二の戦術・戦法から守る方法はどうしたらいいでしょうか。』と。子墨子の言うことには、『自分の城と水堀は整備されており、守備の兵器は備わり、薪や食料の備蓄は足り、上の者と下の者は親和し、また、周囲の諸侯の相互防衛の協定があること、これらのことがらが敵の攻撃から城を守るものである。また、守る者が良い戦法と思っていても、君子が提案された戦法を採用しないのなら、守備することは困難だろう。もし、君子が提案された戦法を採用したとしても、守る者にその戦法を行う能力が必ず有るとは限らない。守る者に、戦法を行う能力が無いのに、君子がその戦法を採用しても、守備することは困難だろう。つまり、守る者は必ず最善の戦法を提案し、そして君子が提案した戦法を採用できるものを戦略し、このような戦法の選択の後に、その戦法により守ることが出来るだろう。』と。
およそ、敵軍団から城を守る方法は、城壁は厚く高く築き、水を湛えた壕池は深く広くし、樓と堤は整備されており、守備の武具・施設は修繕などが為されており、薪や食料は籠城する人々を三月以上は支えることに足り、人民は多くて訓練が整い、官吏と住民は和し、大臣は君子に対し功労が有る者が多く、君主は信頼があり正義があり、万民はこの備えへの安心感は限りがない。それ以外のこととして、父母の墓が守備する土地にあり、山林草原湿地からの利益が十分にあり、地形が攻撃するのに困難で、また、守りやすく、住民には敵に深い恨みがあり、それは上の者に大きな功となり、褒賞の基準は明確で信じられ、処罰は厳格で民が畏れるに十分なことである。この十四のことがらが備わっていれば、住民は防衛を上の者の法による強制とはしない。それで、このような準備の後に城を守ることが出来るであろう。十四のものが一つでも欠けることが有れば、善戦したとしても城を守り切ることは困難だろう。
次に、およそ城を守る方法は、城門に備えるものとして「縣門」と「沈機」を造り、その「門扇」の高さは二丈、幅は八尺とし、これを造るのに共に同じようにし、門扇は接するようにし、重なる合わせは三寸とし、土を門扇の表面に塗っておくが、二寸を越えることはしない。城門周りの塹壕の深さは一丈五尺とし、広さは門扇の幅に合わせる。塹壕の長さは地形に合わせて調整し、塹壕の末端にはこの縣門を置き、その縣門に兵士一人を収容出来るようにする。敵が襲撃してきたら、それぞれの門扇で、それぞれの門扉の、うがって孔を開けて置いた、その孔を塞ぐ。縣門には二枚の門扇があり、都合、二か所の孔を塞ぐ。片方の門扇には孔をうがって、縄を繋ぎ、その綱の長さ四尺とする。城の四面四隅のすべてに「高樓」と「磨撕」を造り、貴族の子弟をその高樓に配置し、敵が迫ったら、その敵軍の状態とその進軍方向が左右に移動するところを監視させ、敵軍が迫ることを見失えば処罰する。
敵兵が坑道を造って攻め来るときは、我々は速やかに「穴師」を編成して士を選抜し、敵の坑道に対抗して坑道を掘らせる。対抗する坑道を使い、内弩を用いて敵の坑道の敵兵に対応する。
民間の家屋の木材・瓦石、これらで城の備えに利用できるものは、ことごとく、これらを供出させる。命令に従わない者は処罰する。
すべての築堤では、長さ七尺の土手を築くには「居屬」を一丁、五步には「壘」一組を準備する。五区間の築堤には「銕」一丁を用いる。「長斧」は、柄の長さを八尺とする。十步毎に「長鎌」一丁を配備し、柄の長さは八尺とする。十步毎に「斲」一丁と、「長椎」一丁を配備し、長椎の柄の長さは六尺で、槌の頭の長さは一尺とし、其の両端を尖らす。三步毎に「大鋌」一丁を配備し、鍬前の長さは一尺とし、鉄刃の長さは五寸とする。二丁の大鋌を交差して地面に置くと鋌刃は平らにおける、もし、鋌刃が平らに置けない場合は道具が良くなく、その二丁の大鋌の刃先は鋭くしておく。
敵の隧道に穴を開ける、もしくは、敵の隧道内の敵兵を攻撃には、必ず詳細に攻撃する隧道の広さ狭さに従い、斜めにその隧道に穴を開け、その穴を広げて、必ず敵部隊を平らげる。
樹木を粗く束ね、「柴摶」として使えるようにし、前面の樹木を積み重ね、長さ一丈七尺を一単位とし、それを外壁面とし、柴摶を用いて縦横にこれを内に置き、外面は強く土を塗り、塗った土の隙間が無いようにする。その急拵えの塁は広く厚くし、三丈五尺の城壁以上に施し、柴・木・土を使って出っ張りを塞ぎ、緊急にこの作業を行う。前面のでこぼこは、あらかじめ早くでこぼこを均して置き、十分に土を塗ることを施し、それにより、堞としての牆壁の機能を満たすようにする。十分にその外側に土を塗り、焼き払われたり柴摶を抜き取られたり出来ないようにする。
「大城」では一丈五尺の高さの「閨門」を造り、幅は四尺とする。「郭門」を造り、その郭門は城の外に在り、門には閂となる横木を造り、横木の二本の材木の端をそれぞれ門柱の角に当て、その横木の材木に孔をうがち、上の「堞」に綱で繋いでおく。また、塹壕に吊橋を造り、塹壕を掘って城を外からの連絡を遮断させ、板橋により連絡を行う。塹壕は外側を傾斜に掘り、板橋を用いて塹壕の上を連絡し、板橋の設置の傾斜は城の状況に合わせる。城内に「傅堞」を造り、それにより、「内堞」は傅堞の外側に造る。その間を堀切りし、深さ一丈五尺とし、敵の進撃を塞ぐのに薪を使い、薪を焼くことで敵の進撃を待つべし。
「令耳」は城に配属し、「再重樓」に駐屯する。再重樓の下で、城の外堞の内側を堀切りし、その深さ一丈五尺、広さ一丈二尺とする。樓もしくは令耳の役職の者は、皆、有力者を配置し敵に対し指揮し、射撃が得意の者は弩弓の射撃を指揮し、補佐により矢を研ぐ。
裾の障壁を形成するものは、堞に連続させ、高さは六尺、頭部の広さは四尺とし、皆、弩を操る兵卒の足場となる。「轉射機」の配備をし、機軸の長さは六尺、轉射機を土地に埋めて固定する深さは一尺とする。二つの木材を合して轉射機の「轀」を造り、轀の長さは二尺、その中にほぞ孔をうがち、「臂」を通させ、その臂の長さは「垣」に届くようにする。「城上」の二十步毎の割合で轉射機一機を配備し、うまく射る者に轉射機を操作させ、兵卒の交代は一人ずつ下り上りし、全員が轉射機を離れることが無いようにする。城上には百步毎の割合で「樓」一塔を造り、樓には四つの「植」があり、その植には、皆、「通舄」の建物を造る。通舄の下層は高さ一丈、上層は高さ九尺とし、広さと奥行きはそれぞれ一丈六尺とし、皆、窓を造る。城上の三十步毎の割合で「突」一基を置き、長さは九尺、広さは十尺、高さは八尺とし、地盤を掘り下げて広さ三尺、奥行きは二尺とし、窓を造る。城上には「攢火」を造り、攢火から矢が届く距離は城壁の下からの高さによって決め、火元は攢火の末端に置く。城上には九尺毎の割合で弩一丁、戟一丁、椎一丁、斧一丁、艾一丁の割合で配備し、すべての城上には累石、蒺藜を積み上げて置く。塹壕の長さは一丈六尺、台の長さは一丈二尺、横木の長さは六尺とし、この塹壕を埋める部分は三尺とし、渠を立てるには、堞の障壁に触れないように五寸ほど離す。「籍莫」の長さは八尺、幅は七尺とし、其の木の幅は五尺、中に麻を敷き支えとし、その端に綱を付けて、敵が攻めてきたら、「令」一人に籍莫を上げ下げさせ、その場を離れることが無いようにする。城上には二十步毎の割合で「籍車」を一機配備し、隧道戦の穴師に当たる者にはこの配備比率を用いない。城上には三十步毎の割合で礱灶を一台設置する。
水を運搬する用具は、必ず、麻布の袋とし、斗の容器には革盆を用い、十步毎の割合で一つを置く。斗の容器から水を汲む柄の長さは八尺、斗の容器の大きいものの容量は二斗以上にし三斗までとする。「敝綌」、「新布」の長さは六尺、「中拙」の柄は、長さ一丈とし、十步毎の割合で一つを置き、必ず大繩を用いて箭と為す。城上には十步毎の割合で「冘」(金偏+冘)一基を置く。水缶は、三石以上を容れるものを準備し、その大きさは小大入り雑じる。「盆」と「蠡」はおのおの二基を設置する。兵卒の乾飯を造り、人に二斗当を準備することを基準とし、降雨に備へ、床面が乾燥した場所に積み上げる。「使守」に対し城内や堞外の兵卒のために食事の運搬を行わせる。
機器装備を置く。砂礫や鉄を砕き、皆、「坏斗」に貯蔵する。陶者に薄い瓶を造らせ、大きいのは一斗以上で二斗までを容れ、それを用いて三つ一組を使い、密着結束してそれを「斗」と名称する。城上に「隔」を置く。棧の高さは一丈二尺、其の一方の末端を削る。「閨門」を造り、閨門の両方の門扇は、それがおのおの独立的に閉められるようにする。敵が池を埋め立てるのとから防護するには、火を用いて敵と戦い、ふいごを動かし、「馮埴」の外側内側に、柴を用いて「燔」を造る。「靈丁」は、三丈毎の割合で一つを置き、「犬牙」を靈丁に施す。十步毎の割合で一人を置き、柴にあって、内に帑、柴は半にして、「狗犀」を造り、「者環」の牆は七步毎の割合で一つを置く。
敵が火を付けた車を用いた攻撃から防護する。敵が「熛矢」を造り、火矢を城門の上に射上げる場合には、門扇をうがち、上に棧を造り、門扇に土を塗り、水を運搬するのに麻布の袋と斗の容器には革盆を用いて、敵の火矢の攻撃を防御する。門扇や「薄植」に、皆、孔をうがつこと深さ半尺とし、一寸間隔に一つの「涿弋」を埋め、弋の材質の長さは二寸、突出は一寸とし、それぞれ七寸間隔とし、厚く門扇や薄植に土を塗り、これにより火攻めに備える。城門の上に孔をうがち、それにより門の火災を防護するものとして、おのおの一つずつの「垂」の防火用水があり、容量の規模は三石以上とし、容器の大きさは小大入り雑じる。門の「植関」は必ず「環錮」し、「錮金」または鉄を使い植関の表面を板金する。「門関」の衡は二本を重ね、衡の表面を板金するのに鉄を用い、必ず堅固にする。門には「梳関」を備え、関は二尺とし、また、梳関の錠前があり、錠前を封印するのに守印を用い、時に人に命じて現地に行かせ封を確認し、関の衡が桓に差し込まれていることの、その淺深の様子を確認させる。門の警護の者には、皆、斧、斤、鑿、鋸、椎の大工道具を帯びることをさせない
城上の二步毎の割合で塹壕一箇所を置き、塹壕には旗竿を立て、旗竿の高さは一丈三尺とし、旗紐の長さは十丈とし、旗竿の横木の長さは六尺とする。二步毎の割合で「荅」一箇所があり、広さは九尺、奥行きは十二尺とする。二步毎の割合で連梃、長斧、長椎を、おのおの一丁を置き、槍は二十枚、周置は二步毎の割合で設置する。二步毎の割合で木弩一丁を配備し、木弩は必ず五十步以上の距離を射程とする。また、多く矢を作るために、竹箭だけでは無く、楛、桃、柘、榆の矢軸を用いても良いとする。矢じりの材質にはすべてを斉国製の鉄夫の鉄板を使用し、射手は分散して敵の「衝」や「櫳縦」を射撃する。
二步毎の割合で石を積み、積む石の重さは一か所千鈞以上を準備し、五百か所に積む。少なくとも百か所以下は無く、敵の「疾犁」の攻撃に対抗する。城壁は、すべて良好に営繕すること。二步毎の割合で「苙」を集積し、大きさは一抱えとし、集積地の長さは一丈とし、二十か所に集積する。五步毎の割合で「罌」一基を置き、水を運び貯める作業には奴婢を配置し、奴婢が運搬する水容器の「奚蠡」の大きさは一斗とする。五步毎の割合で犬の屍を積み、五百か所に積む、犬の屍の集積地の長さは三尺とし、屍を隠すのに革布を用い、其の端を塞ぎ、堅く弋に縛る。十步毎の割合で「摶」の柴束を積み、大きさは二抱え以上とし、集積地の長さは八尺とし、二十か所に集積する。二十五步毎の割合で「灶」の炊飯竈一基を設置し、灶は鉄製のもので一石以上を容れる大きさのもの一基とし、敵への防衛には湯を沸かし使う。また、城内に砂を集積し、千石を下回ることは無い。
三十步毎の割合で「坐侯樓」を設置し、樓は堞の障壁から突出すること四尺、広さ三尺、奥行き四尺とし、板を三面に巡らせ、密に板の表面を土で塗り、「夏」は樓の上を蓋う。五十步毎の割合で「籍車」一基を配備し、籍車は必ず鉄製の車軸で作る。五十步毎の割合で「井屏」一基あり、周囲の垣は、高さ八尺とする。五十步毎の割合で番所の「方」一か所を置き、「方尚」は必ず「関籥」を設置してこれを警備する。五十步毎の割合で薪を集積し、三百石を下回ることは無く、十分に表面を覆って土を塗り、外からの火で焼失しないようにさせる。百步毎の割合で「櫳樅」一か所を置き、地上より高さ五丈、構造は三層として、下層の広さは前面が八尺、後方が十三尺、その上層は下層の広さに応じて狭くする。百步毎の割合で「木樓」一か所を置き、樓の広さは前面が九尺、高さは七尺とし、樓の窓は樓の角に造る、城壁から突出すること十二尺とする。百步毎の割合で井戸一か所を設置し、井戸に十器の瓮を備え付け、木を用いて井戸枠を造る。水の器の容器は四斗から六斗までの大きさで百器を備える。百步毎の割合で一か所の「雑稈」を置き、大きさは二抱え以上のものとし、五十か所とする。百步毎の割合で櫓を造り、櫓の広さは四尺、高さは八尺とする。「衝術」を造り、百步毎に「幽竇」の暗渠を造り、広さは三尺、高さは四尺のものとし、千か所を置く。二百步毎の割合で「立樓」一か所を置き、城中の広さは二丈五尺二寸、長さは二丈、立樓自体が城壁から突出すること五尺とする。城壁の上の広さは三步から四步で、それにより門としての機能を果たす。「俾倪」の広さは三尺、高さは二尺五寸とする。「陛」の高さは二尺五寸、広さと長さはおのおの三尺とし、奥行きと広さはおのおの六尺とする。城上の四隅の「童異」の高さは五尺とし、四尉の指揮官が宿営する。
城上の七尺毎の割合で塹壕一箇所があり、旗竿の長さは一丈五尺とし、土に埋める深さは三尺で、堞から離すこと五寸とし、台の長さは一丈二尺、腕の長さは六尺半とする。「植」に一つの孔をうがち、ほぞの後の長さ五寸とする。台に二か所の孔をうがち、塹壕の階段の前端は堞より下げること四寸とする。塹壕を掘り、「坎」を掘り、覆うのに瓦を用い、冬日の馬夫の寒さに応じて行うが、これらのことの全ては、命令を待って行うが、あるいは、瓦を用いて覆ってもよい。
城上の千步毎の割合で「表」一か所あり、長さは一丈とし、水を捨てる者は表を操って表を揺らす。五十步毎の割合で廁一か所を置き、下を「圂」と同じ構造とする。廁に行くもの者は、武器を持って行かせない。城上の三十步毎の割合で「籍車」一基を配備するが、隧道戦の穴師の務めに当たる者にはこの比率を用いない。城上の五十步毎の割合で「道陛」一基を置き、高さは二尺五寸、長さ十步とする。城上の五十步毎の割合で樓一基を置き、「樓撕」は必ず二重とする。「土樓」は百步毎の割合で一基を置き、外門には「発樓」を置き、その発樓の左右に塹壕を掘る。樓を造り、「籍幕」を張り、棧の上には籍幕を張り出して外からの矢や石を防ぐ。城壁の上のすべての樓には居室を設置せず、または敵から隠すべきものは、すべてこれを撤去する。城下の周回道路の内側に百步毎の割合で薪の集積場一か所を置き、薪の集積は三千石以上を下ることが無いようにし、防火のために集積した薪の表面には土を塗る。
城上の十人毎の割合で「什長」一人を当て、「屬毎」に吏士一人を当て、また、「帛尉」一人を配属する。百步毎の割合で「亭」一か所を置き、亭の高垣は一丈四尺、垣の厚さは四尺とし、閨門には左右の二つの門扇を造り、おのおのが単独で閉められるようにする。亭毎に尉一人を置き、尉の者は必ず重厚忠信にして仕事を任じられる者を登用する。二つの屋舍は一つの井戸を共用し、灰、康、秕、秠、馬矢、などは、皆、これを厳格に収蔵する。
城上の軍備には、「渠譫」、「籍車」、「行棧」、「行樓」、「到」、「頡皋」、「連梃」、「長斧」、「長椎」、「長茲」、「距」、「飛衝」、「縣口」、「批屈」を備える。樓は五十步毎の割合で一か所を置き、堞の下には「爵穴」を造り、三尺毎の割合で一つあり、「薪皋」一つを造り、二抱えの大きさで長さは四尺半とし、必ず、取っ手を設けて置く。
瓦石で、重さ二升以上を上等とする。城上の砂は、五十步毎の割合で集積地一か所を置く。「灶」の炊飯の竈には鉄製の大釜を置き、砂の集積地と場所を同じところとする。木の大きなものは二抱えとし、長さは一丈二尺以上とし、その木の本を列ねて、名づけて「長従」と言う、五十步毎の割合で三十の木橋を置く。木橋の長さは三丈とし、必ず間隔は五十歩とする。また、兵卒に急速に、「壘壁」を造らせ、蓋瓦により壘壁を覆わせる。瓦、または、木製の瓶で、容量が十升以上を容れるものを、五十步毎の割合で十か所に置き、水を盛って蓄えておき、また、この貯留の水を利用する。五十歩毎の割合で二か所を配備するものは十步毎の割合で二か所としてもよい。
城下の里に住む人々が、おのおのその左右前後の人々との関係を保つことは、城内の者たちと同じようにする。城が小さくて人が多い場合、城から離れた郷の老人や年少者を国の他の地域や関係を持つ他の大城で保護する。敵が地域内に襲来すれば、敵は必ず城を攻撃することを考慮し、主人は、まず、城の周辺のものを取り払い、城の周りで炎上しないようにし、敵が城下に来襲したら、時に応じて吏卒の部署を換へて職務を行わせるが、炊事の担当の者は部署を変えることをせず、また、炊事の担当の者は城壁の上に登らせてはいけない。敵が城下に居たら、もろもろの盆瓮、耕作物を収容し、これを城下に集積し、百步毎の割合で一集積地を置き、集積地は五百か所を置く。城門の内部に居室を設けず、「周官」・「桓吏」を行い、また、「四尺倪」である斥侯を行う。「行棧」の内側の閈の、その二つの関に一つの堞を備え付ける。城場を除く、外の、池から百步以内の位置のある、牆垣や樹木は小大ことごとく取り壊し、伐木し、これらを除去する。敵が道を伝わり攻撃してくる昵道、傒近のようなもの、城場のようなもの、これらすべての箇所に、「扈樓」を造り、「竹箭」を道の中心に立てる。
「堂下」を守る「大樓」を造り、高く城に臨み、堂下に「散」を周らし、道の中で敵の攻撃に応じ、また、敵を待ち受け、時に三老で葆宮の中に居る者を召し、共に対策で先ず取るべき事を諮る。行動の計画案を上らせ、計画案に合意すれば、そこで、防衛体制に入る。防衛体制に入って防衛を開始したら、城を出て行くことを禁止し、舍屋を離れることを禁止する。もろもろの場所を守る者は、詳細に「卑城」「淺池」を理解し、そしてそれぞれの部署を守る。朝夕に声を挙げてこれを規律とし、徴兵で兵士が少壮であれば守り易い。
守備の方法は、城周五十步毎の割合で丈夫十人、丁女二十人、老小十人を配備し、これを計算すると五十步毎の割合で四十人の配備となる。城下の「樓卒」の人数は、おおむね城の周囲の長さの一步毎に一人の割合となり、城周二十步毎の割合で二十人とする。城の大きさの大小に、この比率を用いて兵卒の人数を比例すれば、これにより得られた人数で守備するのに足りる。敵が城壁の面に寄って来て、城に蛾傅の戦法を行う場合は、主人が先にこの蛾傅の戦法を知れば、主人に有利となり、敵は攻撃を止める。敵が攻撃するのに隧道を用いて行う場合は、十万のものの多い敵兵でも、攻撃では四方からの四つの隧道でしかなく、上術は広さ五百步、中術は広さ三百步、下術は広さ五十步である。それぞれで隧道の広さが百五十步を満たさないものは、主人に有利となり、敵の攻撃は止む。広さ五百步の隧道戦の場合、丈夫は千人、丁女子は二千人、老小は千人を配備し、およそ合計四千人を配備し、それにより広さ五百步の隧道戦に対応するのに足り、これが守術での兵員の人数である。老人や年少者で、兵事に従事しない者には、城壁の上で、隧道戦の守術以外のものを守らせる。
城から物を持ち出すのには必ず明らかな「填」の名簿を造り、官吏や住民に対し、皆にこの制度を知らせ認知させる。一人から、百人以上で、城から物を持ち出すのに填の章を使わず、その填の章に示す人では無い、および、その填の章が正式の物でなかったなら、千人の将以上の将官であってもこの行為を止め、城から物を持つ出すことを許可することは無い。城から物を持ち出して行き、そして、吏卒がこれを許可したならば、皆を処罰し、事細かに調べて上の者に報告する。この城の出入りは守城の重く禁じることで、このことは重大な犯罪の生じることがらであって、事細かに明らかにしない訳にはいかない。
城上に「爵穴」を造り、堞を下ること三尺とし、その外を広くし、五步毎の割合で一つの爵穴を造る。爵穴の大きさは「苴」を収納し、高きものは六尺とし、低いものは三尺とし、疎密の割合は地形に適するようにしてこれを造る。外側に塹壕を掘り、「格」を離れること七尺とし、「縣梁」を造る。城が狭くて塹壕を掘ることが出来ない場合は、塹壕は必要ない。城上の三十步毎の割合で「聾灶」一箇所を置き、人ごとに、苣を手に取り、その長さは五節とする。敵が城下に進軍し、鼓音を聞いたら、苣を焼き、復鼓すれば、苣を爵穴の中に入れて、外を照らす。もろもろの籍車は、皆、鉄板で覆い、籍車の柱の長さは一丈七尺とし、その柱を土に埋める深さは四尺とし、籍車の台の長さは三丈以上で、三丈五尺までとし、「馬頰」の長さは二尺八寸とし、籍車の力を試して、これで「困」を造り、「失」は、その四分の三を地上に出す。籍車の、その台の長さは三尺、四分の三を地上に出し、馬頰はその四分の三が中に在る。馬頰の長さは二尺八寸とし、台の長さは二十四尺とし、それより以下は用いない。困を設けるには大車輪を用いる。籍車の「桓」の長さは一丈二尺半、もろもろの籍車は、皆、鉄板で覆い、復車はこれを補助する。
敵が池を埋め立てて来襲するときは、このために「水甬」を作り、深さは四尺、強く厚くしてこれを埋めて置く。十尺毎の割合で一基を置き、それを覆うのに瓦を使い、命令を待つ。木の大きいものの円周の長さは二尺四分となるものを使って、これをうがち、炭火を其の中に置き、そして合せてこれを重ねて、籍車を用いてこれを投げる。「疾犁投」を造り、長さは二尺五寸、大きさは二抱え以上とする。「涿弋」は、弋の長さは七寸とし、弋の間は六寸とし、その末端を削る。「狗走」を準備し、広さは七寸、長ささは一尺八寸、「蚤」の長さは四寸とし、「犬耳」を狗走に施す。
子墨子が言うことには、『城を守る方法は、必ず城中の木を数え、十人で担ぐ大きさを十挈と規定し、五人で担ぐ大きさを五挈と規定し、およそ物の軽重は挈の比率で人数を規定する。薪樵の挈を規定するには、壮者の挈が有り、弱者の挈が有り、皆、その任務に適うとする。およそ、挈は軽重を規定するもので、人に対しておのおのその任務を与える。城中に食料が無くなると、大殺を行う。城門を離れること五步の地点で、大いにこの場所に塹壕を施し、地面より高きことは三丈とし、地面より下って地下水に至るまでとし、「賊」をその中に施し、上に「発梁」を造り、そして「機」をこれに施し、薪土を被せ、道として行けるように見せかけ、傍らには「溝壘」を造り、飛び越えることが出来ないようにして、そして城から出撃して挑みかかり、また、停止する。敵が深く侵入すれば、機を引き、梁を発し、敵を虜にすることが出来るであろう。敵が恐れ慄き、疑心を持てば、これにより城から離れるだろう。』と。

第五十三 備高臨

禽滑釐先生が再拝々々して言うことには、『敢えて、質問します、敵人が土を積み上げて「高」を造り為り、それを用いて我が城に対峙し、薪や土を共に「高」の上に載せ、それを用いて「羊黔」の戦法を取り、櫓をその「高」の上に組み上げて薪や土と共に前進し、遂に敵の櫓が城に接し、弓手と弩が共に櫓に登ったら、このような戦法を行うことに、どのような対処をすればよいでしょうか。』と。
子墨子が言うことには、『貴方は「羊黔」の戦法への守備を質問するのか。羊黔の戦法は、実は稚拙な戦法であって、この戦法は用いると兵卒を疲労させるには十分だが、これを用いて城を攻撃破壊するには足りない。羊黔の戦法を守備するには、「臺城」を造り、臺城を用いて羊黔に対峙し、臺城の左右に「巨」を張り出し、それはおのおの二十尺とし、「行城」の高さは三十尺とする。強弩を用いて敵の羊黔に乗る敵兵を射ち、「技機」で羊黔の敵兵を倒し、「奇器」により羊黔を口口(二字不祥)し、そのようにすれば、きっと、羊黔の攻撃は破れるだろう。
羊黔が城に対峙することに備えるために連弩を載せた車を用意し、材料の大きい方の角材の辺は一尺とし、長さは城壁の厚さの薄い厚いに合わせる。車の前後の両軸にはそれぞれ三輪を付け、車輪は箱で覆い、その車輪の上下は箱を上下に重ねて覆う。左右の横の張り出しとして二つの「植」を置き、車の左右の張り出しは「衡植」と呼び、その衡植は車の左右にあり、皆、衡植には車との接続の丸いほぞを造り、丸いほぞの大きさは内径四寸とする。左右の衡植に弩を装着し、皆、植の台座にあって、連弩のそれぞれの弦鉤は弦を用いて、大弦に連動させる。連弩の臂(台座)の前後のそれぞれの箱は同じ大きさとし、箱の高さ八尺、弩の軸は下箱から離すこと三尺五寸。連弩全体を納める郭は銅と同じ材料とし、重さは一石三十鈞。弦を引くに轆轤を用いて、弓弦の張りの程度を調整する。箱の大きさは三つ抱え半とし、左右に「鉤距」を備え、鉤距の大きさは角材の四方は三寸、車輪の板厚は一尺二寸、鉤距の臂の幅は一尺四寸、厚さは七寸、長さは六尺。横臂の箱から外の長さは等しくし、「蚤」は一尺五寸、「距」を備え付け、幅は六寸、厚さ三寸、長さは箱体と同じとし、「儀」を備え付け、「詘勝」を備え付け、上下出来るようにする。「武」を造るのに重さは一石、材料の大きさは周囲を五寸のものを用いる。矢の長さは十尺、繩を用いて矢の端に結びつけ、機に取り込み、如如として、戈射する、「磨鹿」を用いて矢を巻き取り箱体に収容する。収容する矢は弩臂より高い場所で三尺とする。弩を用って無数に射出し、人毎に六十本の矢を支給し、小矢を用いる場合、支給の制限は無い。十人でこの連弩の車を操作する。敵に備え、高樓を造り、この連弩の車で敵の進入路を射る、城壁の上には「荅」、「羅」、矢を配備する。

第五十六 備梯

禽滑釐先生が子墨子に師事すること三年が経ち、手足はひび割れやたこが出来、顔面は真っ黒になり、わが身を酷使して子墨子に師事したが、自分の願望を発することは無かった。子墨子は禽滑釐のこのような姿を気の毒に思い、そこで酒を用意し干し肉を準備して、大山に出向いて葇を抜いて座として、ここに座らせ、そこで禽滑釐に酒を勧めた。禽滑釐は、子墨子の振る舞いに再拝して、感謝の声を挙げた。子墨子が言うことには、『他に、何か欲しいものはあるか。』と。禽滑釐が再拝々々して言うことには、『それでは、守道について質問したい。』と。
子墨子が言うことには、『しばらく、世事を忘れよ、しばらく、世事を忘れよ。』と。『古に守道の術を持つ者がいたが、内には民衆に親しまず、外には治政を盟約することなく、少数を用いて大衆に対抗し、弱者を用いて強者を軽んじて、それで本人は殺され、国は亡び、天下の笑いものとなった。貴方は守道の術のその結果の、このことを慎重に判断しないと、恐らくは貴方の身を亡ぼすことになるだろう。』と。禽子は再拝頓首して、『守道についての質問の、その答えを得られることを願います。質問します。敵は大勢力で武勇があり、我が池を埋め立て、軍師兵卒が整列して進軍し、「雲梯」は既に準備され、攻撃の設備はすでに整っており、武装した兵士は多く、争って我が城壁に登って来る。この攻撃に対処するには、どうすれば良いでしょうか。』と。子墨子が言うことには、『雲梯への守備を問うのか。雲梯は重い兵器であり、その移動は非常に困難である。守備には「行城」を造り、城のもろもろの樓と互いに連携させ、これらを用いて城の中に間隔を置いて築く。行城の設置には城内の広い狭いを基準に、場所で適したところをもって判断するが、行城やもろもろの樓との間に幕を張るので、その間隔は広くしてはいけない。行城を造る方法は、城壁より高いことは二十尺とし、上に堞を備え、広さ十尺、左右に「巨」の張り出しの台座を出すこと、おのおの二十尺とし、「巨」の高さや広さは行城の造る方法と同じようにする。堞には「爵穴」と「煇鼠」を造り、「荅」のその外側に施し、「機衝」、「錢城」があり、その幅は敵の雲梯の頭部と同じとし、その雲梯と行城との攻撃が混じり合うことに備えて「鐫」、「剣」を準備し、衝で武装するもの十人、剣で武装するもの五人を配備し、その皆は、武勇が有る者を用いる。
目が良い者には城壁の上から敵を監視させ、鼓を用いて敵発見を発信し、敵を挟んで敵を射、射撃を重ねて敵を射る、機を出撃させて敵を倒し、城壁の上から繁く、矢、石、砂、炭を投げ下ろし、敵に降らして、薪火、水湯を用いて敵への攻撃を助ける。褒賞の基準を詳細明確にし、また、処罰を行い、平静を日常の基準とするが、防衛に従事するときには迅速を基準とし、個々人が判断することが生じることが無いようにする。このようであれば、きっと、「雲梯」の攻撃は敗退するであろう。』と。
守備には「行堞」を施し、堞の高さは六尺で、天端を斉一で等しくし、「剣」をその前面に施し、「機」を用いて「剣」を発射する。敵の「衝」が接近して来たら、機を後方に下げ、敵が接近しなければ、「剣」を発射する。「雀穴」は三尺で、底部を斉一で等しくし、「蒺藜投」は必ず前に押し出して立て、車を用いて蒺藜投を移動させる。
城外に「裾」を施し、城壁を離れること十尺、「裾」の厚さは十尺。「裾」を造る樹木を伐るには、大小の樹木の根本から樹木を断ち切り、十尺の長さを「傳」と称し、大小の材木を混じらせて、深く材木を埋め、堅く「裾」を築き、埋めた材木が引き抜けないようにする。城上には二十步毎の割合で「殺」一基を設け、「殺」には「鬲」一基が有り、「鬲」の厚さは十尺、「殺」には二つの門が有り、門の幅は五尺。「裾門」は一基とし、これを施して浅く埋め、堅く築くことをせず、埋めた材木が抜けやすいようにする。城壁の上から「裾門」付近の状況を見て、「桀」を配備する。
「縣火」について、「灶門」のある城壁には四尺毎の割合で「鉤樴」一基、五步毎の割合で「灶」一基を配備し、灶門には「鑪炭」の設備を置く。来襲した敵人をことごとく灶門内に誘導し、火を焚いて灶門内を焼き、縣火による攻撃は灶門内を焼くことに続ける。「載」を出撃させて、隧道の穴の上に据え付け、その幅は隧道の穴の幅とする。二基の「載」の間には「火」一基があり、それぞれ、皆を据え付け、ふいごを用いて火を燃やし、そして「載」と「火」を共に火を隧道の坑内に発射する。敵人が火を取り除き、再び、攻撃して来たときは、「縣火」を再び隧道の坑内に投げ下し、敵人は、はなはだ、火攻めに苦しみ、このために兵を引き、そして退却する。さらに、我が決死隊により左右の穴門から出撃し壊滅した敵軍を追撃させる。
「賁士」や「主将」の立場の皆は、城鼓の音を聴き、そして、出撃し、また、城鼓の音を聴き、退却入城させる。そして、徒歩の兵を出撃させて伏兵の戦法を施し、夜半に城壁の上の四面で鼓を打ち鳴らせば、敵人は必ず戸惑う、このようであれば、必ず、敵軍を破り、敵将を殺すであろう。白衣を用いて軍服とし、号令を用いて連携し、このように行えば、きっと、「雲梯」の攻撃は敗退するであろう。』と。

第五十八 備水

城内の塹壕の外側の城を巡る周道は、幅は八步とする。敵の水攻めに備えるために十分に注意して城を巡る周道の四方の高さを測る。城の地形が城の中が下り勾配であれば、その城の内に排水の用を施し、そして低い土地には、その土地を深く掘り泉を湧きあがらせる。そして、水位計を井戸の中に置き、城外の水位を見て城内の井戸の水位が深いことが一丈以上であれば、城内を掘って泉を水で満たす。
(十隻の)船を並べて十隻の「臨」と規定し、一つの「臨」の定員を三十人とし、乗員は弩を扱い四方を窺って弩を撃たせ、必ず善く船を操って「轒轀」の戦術に適うようにさせる。二十船を一隊と規定し、舟を操る技能者で武勇の有る者三十人を選び、船と共にし、その中の二十人の人を弩の任に置き弩を撃たせ、剣甲と鞮瞀による鎧兜で武装する、残りの十人の人をその任に置き、舟への攻撃を排除する。最初に、舟に乗る技能者を養成し、技能者の兵舎とは異なる兵舎を造り、そこでその技能者の父母や妻子を食わせて、船での脱走を防ぐ人質とする。
敵の水攻めの攻撃の状況を監視し、「轒轀」の戦術を執る「臨」の船団の配備状況により、城の外の堤を決壊させ、城壁の上に射機を設置して素早く射かけてこの船団を助ける。

第六十一 備突

(隧道戦で用いる坑道の入口として、)城上の百步毎の割合で「突門」一基を置き、突門におのおの「窯灶」を造り、その竈の位置は突門から内側に四から五尺とし、その突門の上を瓦葺きで作り、雨水が突門の中に入らないようにする。官吏は突門を塞ぐ任務を管理し、車の二つの輪を用い、それを、木を用いてこれを束ね、その表面を土で塗り、突門の内に繋いで置き、突門の広い狭いを計算させて置き、その車の二つの輪を突門の中に配置する位置は四から五尺とする。窯灶を置き、門の旁にふいごを置き、窯灶を満たすのに柴や艾を詰めて置き、敵が侵入して来たら、車輪を投げ下して敵の侵入路を塞ぐ。ふいごを使って灶の柴や艾を燃やす。

第六十二 備穴

禽滑釐先生が再拝々々して、言うことには、『質問いたします、古の人で上手に攻撃する者が居り、大地に坑道を掘り、その坑道に入って、柱を縛って火を付け、地下からの火攻めにより我が城を壊し、城が壊れると、或は、坑道の中の兵士がこのようなことを行うことに、どのように防御すればよいでしょうか。』と。子墨子が言うことには、『「穴土」の戦術への守備を問うのか。「穴土」の戦術に備えるには、城内に高樓を造り、それにより注意深く敵人を偵察監視する。敵人の変化が有り、垣を築き、土を集積することが、常態と違う場合、または、急に地下水が濁ることが生じ、それが常態と違う場合は、この現象は敵が大地に坑道を掘っているからであり、急いで、城内に塹壕を掘り、その大地に坑道を掘り、敵の坑道に対応する。井戸を城内に掘ることを行い、五步毎の割合で井戸一基を掘り、城壁の足下に造り、土地が高い場所では、一丈五尺、土地が低い場所では、地下水の得る深さより三尺ほど上の位置で井戸を掘るのを止める。陶芸者に瓶を造らせ、大きさは四十斗以上を容れるものとし、固く瓶の口を覆うのに薄い革を用い、その瓶を井戸の中に置き、耳の聞こえが聡い者に、瓶の上に伏して、地下の音を聴かせ、詳細に敵の坑道の位置を知り、坑道を掘って敵の坑道を迎え撃つ。
陶者に「月明」を造らせ、長さは二尺五寸で、太さは六抱えとし、月明は中をくり抜き半分に割った構造とし、それを合わせて坑道の中に施し、下半分を偃と呼び、上半分を覆と呼ぶ。坑道を支える柱の外側は十分に満遍なく土を塗り、その柱に土を塗ったものは焼けることはない。柱は柱が焼けることがないようにする。煙導管は十分にその半割を合わせた、その管の合わせ目に土を塗り、煙が漏れることが無いようにする。両方の端は皆、このように行い、坑道の掘削と共に煙導管を前に進める。下側は大地に接触させ、康、または、灰を煙導管の中に詰めるが、中を充満させることはない。灰や康は長くした五本繋ぎの煙導管に詰め、左右の煙導管は共に交差することが無いようにする。穴の内側の口に灶を造り、窯のような構造とし、七から八員の艾を容れて、左右の煙導管は皆、このようにする、灶は四橐を使う。敵の坑道と、ちょうど、遭遇する場合は、「頡皋」を用いて、敵味方の相互の坑道の間の壁を衝き、速やかに橐をふいごを使い、これを燻らす。必ず、明らかに橐を燻らす作戦を習った者に行わして、灶口を離れないようにさせる。
木製の連版は坑道の高い低い、広い狭いによって、調整し、坑道を掘る穴者に連版と共に掘り進ませ、その連版は溝を穿って矛を容れて置き、その疏數を参分して、それにより管本体の防護と配置を助ける。敵の坑道と遭遇したら、連版を用いて遭遇した穴に当て、矛を使って煙導管を守り、煙導管が敵により塞がれるのを妨害し、煙導管が塞がれたら、連版を引いて、そして、退却し、片方の一つの管が敵に遭遇して、煙導管を塞がれたら、その煙導管を穿って、その煙導管に煙を通じさせ、煙導管が通じれば、速やかに橐をふいごを使い、橐を燻らす。坑道の内より坑道の左右の音を聴き、音がすれば、速やかに敵の坑道の前を絶ち、敵の坑道が前進することがないようにする。もし、敵兵が坑道に集結すれば、敵の坑道を塞ぐのに柴を用い、土を塗って、連版を焼かれることがないようにする。このようにすれば、きっと、「穴土」の戦術による攻撃は敗退するであろう。』と。
敵の攻撃が我が城に至ることが、急激で通常の進撃速度で無い場合は、慎重に「穴土」の戦術に備える。「穴土」の戦術による攻撃が有ることを疑うときは敵の攻撃に応じて、坑道を準備することを急速に行い、敵の坑道が、まだ、到達していない場合は、慎重を期して追って坑道を延ばすことをしない。およそ、坑道を使って攻撃する者を破るには、二十步毎の割合で縦穴一基を置き、縦穴の深さは十尺、穿つ幅は十尺、掘って前に進み、一步毎に三尺を掘り下げる、十步毎に坑道の掘進を留め、左右に横掘進し、高さと広さはおのおの十尺とする。
「殺」に「両罌」を埋め、深さは城に地盤と同じ高さにし、その上に板を置き、板を連ねて、それにより井戸の音を聴く。五步毎に密。梓、または、松の木材を用いて穴戸を造り、戸穴には両に蒺藜があり、皆、その長さはその戸と同じとし、戸に環を取り付けて開閉し、石を外郭として積み上げ、その高さは七尺とし、堞の障壁をその外殻の上に加える。階段を造るのに石を用いることはせず、縣陛の吊はしごを用いて上下して出入する。炉とふいごを備え、ふいごは牛皮を用い、炉には二つ瓶を備え、ふいごは橋管を用いて、ふいごで風を送ること百十、おのおのにまた燻ることは四十什で、炭を燃やして之を塞ぎ、炉に炭を満してこれを覆い、送気が漏れて煙導管から抜け出ることが無いようにする。敵人が急速に五百歩の位置に坑道を近づけたなら、迎え撃つ坑道の位置を高くし、または、低くする。我が坑道に敵の坑道が接近しない場合は、斜めに坑道を掘ることにより味方の坑道を敵の坑道に通じさせる。坑道の中で敵人と遭遇したときは、皆、敵人を防いで、追うことはせず、戦う前に逃げ、「鑪火」が燃えるのを待ち、直ちに退却し、横穴に入る。
「殺」に「鼠竄」があり、その鼠竄には扉と錠前を取り付け、独り、軍令に従い、往来してその中を行くことが出来る。「穴壘」の中におのおのに一匹の犬が居り、犬が吠えれば、つまり、人が居る。艾と柴とを切り、長さ一尺とし、それを窯灶の中に置き、最初に窯壁を積み上げて、敵の坑道に対して連版を造る。立坑を掘って城壁の足元に近接させ、三丈毎の割合で一か所を掘り、外側の広い狭いの地形を見て視て、そして、立坑を掘ることを行うが、慎重に地形を判断して立坑の掘削を無駄にしないこと。城の地形が低く、敵の坑道の位置が高いために敵の坑道の探査を行うことが難しい場合は、立坑を城内の地盤に掘り、三から四の立坑を掘って、新しい瓶を立坑の中に入れ、耳の聞こえの聡い者を瓶の上に伏させて、敵の坑道の音を聴く。詳細に坑道のある場所を探知し、味方の坑道で敵の坑道を迎え撃つ。坑道を掘り、敵の坑道と遭遇しそうな場合は、「頡皋」を造り、それは必ず堅材を用いてそれを造り、鋭利な斧を備え付け、武勇の者三人に命じて敵の坑道を攻撃するのに頡皋を用い、敵の坑道に液体を注ぎ込むのに汚物十余石のものを用いる。速やかにこの立坑の中に伏せ、艾をその上に置き、七から八員の用い、盆にて立坑の口を覆い、煙が立坑の上から排気されないようにして、そのふいごの口に沿って、素早くこれをふいごで送気する。車輪を用いて「轀」を造る。車輪を一つに束ねるのに麻の紐を水に浸し、車輪の中を土で塗ってそしてこれを束ねる。鉄の鎖を懸けて、まさに敵軍の坑道の口に当てる。鉄の鎖の長さは三丈とし、端に環を設け、片方の端に鉤を取り付ける。「鼠穴」は深さ七尺、五寸の幅とし、柱の間は七尺、二尺毎に一本の柱を置き、柱の下は礎石に着いて居り、二本の柱は共に一つの員士がある。二つの柱は材質を同じとし、員士を横にし、柱の大きさは二抱え半とし、必ずその員士を強固にし、柱と柱とは交わることは無い。
坑道に二つの窯を据え、すべての坑道には「月屋」を造り、坑道の管理に官吏と舍人を、おのおの一人ずつを置き、必ず水を置く。「穴門」を塞ぐのに車両の車輪を用い、「轀」を造り、その表面を土で塗り、坑道の位置が高い低い、その幅が広い狭いを基準として「轀」を準備し、坑道の中に坑口から四から五尺の位置に入れ、これを綱で繋いで置く。坑道の管理に当たる者は敵が「伏門」を攻撃するときは、「轀」を転がして敵の攻撃を塞ぎ、窯には、三員の量の艾を容れるものを造り、その敵の突撃に対し味方の伏兵が待つ坑道に誘導する。味方の伏兵は敵の突撃の傍らに取り付き、二つのふいごを稼働させて伏兵を守り、艾を燻らさせて敵が離脱することがないようにする。「穴矛」は鉄を用いて造り、長さは四尺半、大きさは鉄製の鉄銊と同じようにし、つまり刃は二矛と同じである。内側に煙導管から離れること一尺とし、斜めに坑道を掘り、上方に坑道を掘り敵の坑道の中心部に当たれば、そこで敵を攻撃する矛の長さは七尺である。坑道の中に「環利」の率を造り、坑道には二つを備える。立坑を城下に掘り、兵士の体を立坑の中に入れ、敵の坑道が通じるのを待つ。板の上に居て、そこから一所を掘り、終われば、板を動かして、次の一所を掘る。
「頡皋」には二つの台を造り、そして片側にその植を埋め、それから、鉤をその両端に付ける。もろもろの坑道や立坑を造る者は五十人、男女は相半ばとする。五十人で坑内の掘削に従事し、坑道の仕口を前に進めることを行い、掘った土を「六参」の土もっこに受け、麻縄を結び付けて、それにより土もっこの引き上げの準備を整えて、土もっこの下を持ち上げて、そして、土を引き上げ捨て、規定の時間が終われば坑道を掘る七人は「退壘」の中で休息する。「大廡」一棟を造り、坑道を掘る道具をその中に貯蔵する。
敵の坑道掘削を阻むには、先に城外の池の周辺で、木や土器の欠片を取って、これを立坑の穴を埋め立てる雑多の芥とし、その立坑を掘り、深さは地下水の高さに到るとする。既に接近した坑道を阻むには鉄の斧を造る。鉄の刃と柄の長さが四尺あれば、それで長さは十分に足りる。敵が、もし、坑道を掘る場合は、また、対抗の坑道を掘って、これに対抗する。
鉄製の鉤の刃先の長さ四尺のものを造れば、それで長さは十分に足り、坑道が敵の坑道に通じたときは、敵の坑道の穴師を鉄製の鉤で引掛ける。短矛、短戟、短弩、虻矢を造れは、それで十分に足り、敵の坑道と通じたら、まず、味方の坑道を守る。金属製の剣を使えば問題はなく、長さ五尺、銎とその木製の柄を造り、柄は刃を固定する「慮枚」を設け、それにより敵の坑道の穴師を刺す。「戒持」の瓶は、三十斗以上を容れるものを用い、穴中に埋め、丈毎に一基、それで敵の穴師の声を聞く。坑道を造るには、高さは八尺、幅は十分に支柱を立てるものとする。鑪の牛皮、橐の皮及び煙導管を備え、見方を守る坑道には左右二列を置き、靃と艾を煙導管の中に充填し、坑道が通じたら、これらを使って敵兵を燻ぶす。斧の鉄刃は研ぎ立てし、柄の長さは三尺、見方を守る坑道に四丁を置く。土もっこを造り、見方を守る坑道に四十個を置き、鍬は四丁を置く。斤、斧、鋸、鑿、瞿を造れば、それで十分に足りる。鉄の「校」を造り、見方を守る坑道には四個を置く。中櫓を造り、高さは十丈半、幅は四尺とする。横穴には八櫓を造り、蓋を備え「稿枲」を造れば、それで十分に足り、それにより、坑道の中を灯す。とくに「醯」を持参し、敵が坑道を燻ぶせば、その「醯」で目を洗い治療し、目を治療するには、坑道の方々に換気孔を分けて設けて、坑道をふいごで送気し、水を容れる盆に醯を盛って坑道の中に置き、大盆には水を貯める量が四斗を欠くことが無いようにする。もし、敵が坑道を燻せば、目を盆の上の醯の水に伏せ、または、醯の水を目に注ぐ。

第六十三 備蛾傅

禽滑釐先生が、子墨子に再拝々々して言うことには、『あえて質問致します、敵兵が攻めの強弱を繰り返し、遂に我が城に取り付き、(敵将は、)「人に遅れて城壁を登れば、この者をまず斬る。これを軍法となす。』と、宣言し、城に塹壕を掘りこれを基地とし、城壁の下を掘削して坑道や空間を造り掘り、城への前進や坑道の上にある構造物を攻撃することは止まず、この攻撃に次いで弩弓を射ることは激しい、このような敵が攻撃を行うことに対処するにはどのようにすれば良いでしょうか。』と。
子墨子が言われたことには、『貴方は、「蛾傅」の戦術への防衛方法を質問するのか。蛾傅の戦術は、まことに怒ると表現するようなものである。防衛には「行臨」を造り、敵兵を射、「校機」で敵兵を圧殺し、敵兵を引く抜き、「太氾」で敵兵に迫り、「焼荅」を敵兵に覆い被せ、砂や石を敵兵に降らせれば、こうすれば、きっと、蛾傅の攻撃は敗退するであろう。』と。
蛾傅の攻撃に備えるには「縣脾」を造り、その木板の厚さは二寸、前後の奥行は三尺とし、側面の幅は五尺、高さは五尺と定め、さらに加えて「下磨車」を造り、滑車の回る径は一尺六寸とする。兵卒一人に対して城壁外側の二丈四方の空間を割り当て、武器の両端に刃を取付け、それで武装して縣脾の中に入り、鉄の鎖を使い、二つの腕を持つ「上衡」に吊り下げ、このような機械を造らせて、力がある四人にこの装置を上下させ、城壁の外壁面から離れないようにする。縣脾の装置を施すのは、おおまかに二十步毎の割合で一基とし、敵の攻撃隊が押し寄せる場所は六步毎の割合で一基とする。
「纍荅」を造るときは、横と縦の函の長さはおのおの二尺とし、木を用いて上の横木を造り、麻の綱を用いてこれを編み、その綱を油に漬し、中には油を塗り、鐵の鎖を造り、その両端の横木を引っ掛ける。敵が城に対し蛾傅の攻撃をすれば、「焼荅」を用いて敵兵を覆い、「連梃」、「抄大」、などを使って防衛する。車両の車輪の、軸間が広いものを用いて、車輪で「圉犯」の戦術を行う。その二つの車輪に刃を取り付ける。車輪の(車軸周りに板を)束ねて、念入りにその上を土で塗る。(車軸周りの板で出来た空間の)中を満たすものとして「榆」または「蒸」を使い、棘を使って側面を造り、この装置を名付けて「火捽」と言い、あるいは「傳湯」と言い、これを攻撃の武器とする。敵がこの武器に引き寄せられたら、傳湯を焼き、固定している綱を切って、これを転がり落とし、武勇の兵士に転がり落ちる傳湯の後を追わせ、そして、敵を撃たせる。これを用いて武勇の兵士の先駆けの攻撃とし、城上はこれにより城が壊滅するのを防ぐ。
城下には木の下側を鋭くした、鋭い杙を多く造り、杙の長さは五尺、周囲の大きさは半尺以上とし、皆、その根元を尖らせ、それを五列に建設し、その列間の幅は三尺、杙の下側の三尺を地中に埋め、「大耳」として杙を立てる。「連殳」を造るには、長さは五尺、太さは十尺とする。「梃」の長さは二尺、太さは六寸とし、綱の長さは二尺とする。「椎」の、その柄の長さは六尺、「椎」の頭の長さは一尺五寸とする。斧の、柄の長さは六尺、刃は必ず鋭くする。皆の其の後一基を築く。「荅」の幅は一丈二尺で、その奥行は一丈六尺とし、「前衡」を垂らす長さは四寸、両端が接することは一尺とし、互いに重ね合わせるが、魚の鱗のような重なりとはせず、その後列に付ける。中央の「木繩」は一本で、長さは二丈六尺とする。荅と樓とが接しない箇所は牒を建設して隙間を塞ぎ、しばらくの間、急に建設した牒を風に曝し乾燥させ、荅には落とし窓を造り、風により上下させる。牒を建設した状態が悪く、壊れることが疑われる箇所は、最初に木材を埋めることを行い、十尺の板一枚を一箇所に施し、木材を設置して堞の土壁が壊れた場合は、木の柱材を打ち込み。そして、「慮盧薄」を木の柱材に押し付ける。その盧薄の表の長さは八尺、幅は七寸、縦は一尺を一枚とし、ときどき、打撃を与えて、盧薄を押し下げ、盧薄の上下の隙間に土を詰め込み、そして、これを突き固める。
「経一」、「鈞」、「禾樓」、「羅石」を、荅の柱の内側に縣け、柱の外側に懸けてはいけない。「杜格」は四尺を地中に埋め、その高いものは十丈、木には長短の長さのものを混じらせ、その上を鋭くし、そしてその内側と外側に厚く土を塗る。杜格の前列を造り、「行棧」、「縣荅」とする。城郭の隅に樓を建造し、樓は必ず城郭の隅に直角とする。積土は五步毎に一箇所、貯め置き、それは二十個分の土もっこの量以下とはしない。「雀穴」は十尺毎に一箇所を置き、堞から下がること三尺の位置とし、それの外側を広くする。城上の、「樓」、「散」と「池」に「轉傅」を行い、「革盆」を置く。もし、敵が攻撃の行く手を変えれば、直ちにその後方を攻撃し、火攻め遭えば敵は統率を失うであろう。火攻めで、火を点火することは急速に行うことが重要である。
およそ、蛾傅の戦術で攻撃する者を殺す方法は、「薄」を城外に置き、城壁から離すこと十尺とし、「薄」の厚さは十尺。「操」を切る方法は、大小の木をことごとく切り倒し、十尺の長さを「断」と称し、城壁から離して深く埋めて堅固にこれを築き、抜くことが出来ないようにする。二十步毎に「殺」一基を置き、「殺」には「鬲」が有り、厚さは十尺とする。「殺」には二つの門が有り、門の幅は五步、「薄門」の「板梯」を埋めるが、築くことをせず、抜けにくくする。城上から「薄門」が見えるところに「搗」を置く。
「縣火」では、四尺毎の割合で「椅」一基を置き、五步毎の割合で「灶」一基を置き、「灶門」には「爐炭」を配備する。敵軍を誘導して、敵兵をすべて灶門の内に入らせ、火を燻らせて門を焼き、縣火を火に次いで投げ下ろし、「載」を引き出して立て、その「載」の幅は隧道の幅に合わせ、二つの「載」の間に火一基あり、そのすべてを立て、そして鼓の音を待って、燃やし、さらに合図に合わせて共にこれを発射する。敵兵が火を取り除いて、再び、攻撃するときには、縣火を、再び、投げ落とせば、敵兵はとても攻撃に苦しむだろ。
敵が悲鳴を挙げることをすれば、その瞬間、我が決死隊に対し左右の「穴門」から突撃させて、敵の残留部隊を攻撃させ、「賁士」や「主将」に対し、皆、城からの鼓の合図を聞かせて、出撃させ、また、城からの鼓の合図を聞かせて退却入城させる。この戦術により、しばしば、兵器を引き出し、また、伏兵を施し、夜半に、城上の四面で鼓を打ち鳴らし鬨の声をあげれば、敵人は必ず戸惑い、軍を破り、敵将を殺すことが出来るだろう。白衣を軍服とし、合言葉を用いて互いを認識する。

第六十八 迎敵祠

敵が東方から攻め来れば、これを東壇で神を迎え祀り、壇の高さは八尺、堂の広さは八尺とする。年八十の者を八人、祭を青旗により司り、青神を現す旗の長さ八尺のもの八本、弩は八弓、八を発声し、そして終わる。この時、必ず青の服を着、その犠牲には雞を用いる。敵が南方から攻め来たら、これを南壇で神を迎え祀り、壇の高さは七尺、堂の広さは七尺とする。年七十の者を七人、祭を赤旗により司り、赤神を現す旗の長さ七尺のもの七本、弩は七弓、七を発声し、そして終わる。この時、必ず赤の服を着、その犠牲は犬を用いる。敵が西方から攻め来れば、これを西壇で神を迎え祀り、壇の高さは九尺、堂の広さは九尺。年九十の者を九人、祭を白旗により司る。素神を現す旗の長さ九尺のもの九本、弩は九弓、九を発声して終わる。この時、必ず白の服を着、その犠牲は羊を用いる。敵が北方から攻め来れば、これを北壇で神を迎え祀り、壇の高さは六尺、堂の広さは六尺。年六十の者を六人の、祭を黒旗により司る。黒神を現す旗の長さ六尺のもの六本、弩は六弓、六を発声して終わる。この時、必ず黒の服を着、その犠牲は猪を用いる。郊外の社にある諸名大祠を城内に遷し、靈験ある巫女が、あるいは、勝利を祈るのなら、壽の犠牲を給付する。
およそ、気を望み、大将に気が有り、小将に気が有り、往に気が有り、来に気が有り、敗に気が有りと、十分に、この気の所存を明らかにすることが出来る者は、成敗、吉凶を知ることが出来る。巫、医、卜の、長ずることがらを有する者を挙げ、薬を備えて、これを舎屋に保管し、善く巫の業を舎屋で行うときには、必ず国の公の神の社に近いところで行い、必ずこれを敬神すべし。巫や卜は国守の請願により行い、国守、独りが、巫や卜によるこの請願の望気を知るだけである。
巫や卜が国に出入して流言を行い、驚愕させて官吏や民衆に敵を恐れさせることは、慎重にこのことを監視して、断じて、その罪を赦してはいけない。望気する舍屋は守備軍の官舍に近い場所とする。賢大夫および及び方技を有する者、もしくは、技巧を有する者を養って、これらの者を守備に従わす。屠殺、酒造の技能の者を取り挙げて、厨房を設け仕事を与えて、これらの者を守備に従わせる。
およそ守城の方法は、「縣師」は守城の事業を受け、葆塁を出でて、溝池や防備を巡視し、通路や泥の構築や草を見、城を保全する。百官は財物を供出共有し、百工は仕事に就き、司馬は城を視て、卒伍を治める。守門を設け、二人は右扇を掌り、二人は左扇を掌り、四人は閉門を掌り、百人の武装兵士はこの場所に駐屯する。城上に步毎の割合で甲士一人、戟士一人、その小者は三人。五步毎の割合で伍長を置き、十步毎の割合で什長を置き、百步毎の割合で百長を置き、傍らに大率を置き、中軍に大将を置き、皆それぞれに司吏、卒長を置く。
城上の階の司として、有司はこれを守り、中軍を中処に移し、緊急性を選択して、これを奏上する。士分の皆の者には職務の割り当てが有る。城の外、矢の届く範囲で、その障害物を壊し、これを利用して敵が防護壁とすることは無い。城より三十里の内では、薪、蒸、酒は皆を城内に入れる。犬、猪、豚、雞は、その肉を食料として、其の骨を回収して「醢腹」を作り、病傷者の療養食に利用する。城内の薪、蒸、廬室、矢の届く範囲、これら皆に土で覆いを掛けることを行う。夕刻には、犬を繋ぎ、馬を繋ぎ、固く繋ぎ止めることを命じる。静から夜に鼓の音を聞いて、鬨の声を挙げることは、敵の気を覆うことがらであり、民衆の意を固くすることがらであり、そのため、ときどき、鬨の声を挙げれば、民衆は気がくじけない。
(迎敵祠の)祝、史は四望の、山川、社稷に敵との戦いを告げ、敵の進軍に先だって、城内に退く。国君は白い礼服を着て太廟に戦勝を誓い、陳べるには、『敵の其人、不道をなし、正義を治めず。』と。その敵王の、言うことには、『予は、必ず、お前たちの社稷を破壊し、お前たちの百姓を滅ぼすことを誓う。』と。『我が臣下たちよ、日夜に自らを励まし、それにより我に勤め、心を和し力を合わせ、兼ねて、我を助けて、おのおのは、お前たちの守るべき職務に死ね。』と。既に誓い、国君は退出する。中軍の大将は太廟の右側に参列し、祝、史は国の神の社に参列する。百官は共に参列し、門に「斗鼓」し、右に旂を置き、左に旌を置き、隅に「練名」を置く。射を三回、射ち、戦勝を告げ、五種類の兵器に武威は備わり、そして、百官は祭壇より下り、祭場から出でて待ち、軍団に鬨の声を上らせて我が郊邑を望む。鼓を打つことを命じて、にわかに鬨の声を上らせ、役司馬は門の右側より弓を射ち、「蓬矢」、これを射ち、旗を三度、振り、弓弩は旗を振ることを継いで、射撃を行い、「校」は門の左側より作法を行い、最初に「揮」を行い、木石の武器を使うことは「揮」の行いに継ぐ。祝、史、宗人は国の神の社に奉告し、告文を覆うのに甑を用いて為す。

第六十九 旗幟

守城の方法にあって、木を扱う部隊の隊旗を蒼旗とし、火を扱う部隊の隊旗を赤旗とし、薪樵を扱う部隊の隊旗を黄旗とし、石を扱う部隊の隊旗を白旗と為し、水を扱う部隊の隊旗を黒旗とし、食を扱う部隊の隊旗を菌旗と為し、決死隊の部隊の隊旗を倉英の旗とし、「竟士」の部隊の隊旗を雩旗とし、「多卒」の部隊の隊旗を雙兔の旗とし、「五尺童子」の部隊の隊旗を童旗とし、女子の部隊の隊旗を梯末の旗とし、弩士の部隊の隊旗を狗旗と為し、戟士の部隊の隊旗を旌旗とし、剣盾の士の部隊の隊旗を羽旗とし、車を扱う部隊の隊旗を龍旗と為し、騎馬の部隊の隊旗を鳥旗とする。およそ、探し求める部隊の旗名が隊旗規定書に無いものについては、その部隊が担当するものの形を使って隊旗の名前とする。それぞれの部隊は城上に旗を挙げ、備品・用具で官が管理する財物を要求し、要求したものが足りたならば旗を下ろす。
およそ守城の方法にあって、石の蓄積は有り、樵薪の蓄積は有り、菅茅の蓄積は有り、雚葦の蓄積は有り、木の蓄積は有り、炭の蓄積は有り、砂の蓄積は有り、松柏の蓄積は有り、蓬艾の蓄積は有り、麻脂の蓄積は有り、各種金属と鉄の蓄積は有り、粟米の蓄積は有り、井戸及び炊事場などは有り、重要な人質を収容する住居は有り、各種部隊のおのおのの部隊と隊旗は有り、「節」のおのおのの辨は有り、軍法・法令のおのおのの規定は有り、「軽重」・「分數」のおのおのに要請は有り、道路を巡視することを主管する者の規則は有る。
亭尉はおのおのの隊の幟を造り、竿の長さ二丈五尺、帛の長さ一丈五尺、幅が半尺幅のものは大の分類である。敵軍が城の前の池の外側の淵に取り付き攻撃を始めたら、城上に初めに軍事の鼓を三つ打ち、幟一旗を挙げ、池の中周に到れば、鼓を四つ打ち、幟二旗を挙げ、敵兵が城壁に至れば、鼓は五つ打ち、幟三旗を挙げ、「馮垣」に至れば、鼓は六つ打ち、幟四旗を挙げ、「女垣」に至れば、鼓は七つ打ち、幟五旗を挙げ、大城に至れば、鼓は八つ打ち、幟六旗を挙げ、大城の半以上に敵が乗り込んで着たら、鼓を休みなく連打する。夜は幟の代わりに火を用いて行い、火を掲げる数は幟の数と同じようにする。敵軍が退却し包囲を解けば、敵の退却に合わせて幟を挙げる数は、敵の進撃の時の数に合わせるが、鼓を打つことはしない。
城に(階段状祭祀壇となる)「隆」を構築するには、土地の(一辺の)長さは五十尺四方とし、四面の四門を置く位置の長さは四十尺、その次(の段の一辺の長さ)は三十尺、その次(の段の一辺の長さ)は二十五尺、その次(の段の一辺の長さ)は二十尺、その次(の最終段の一辺の長さ)は十五尺、高さは四十五尺を下回ることはない。
城上の吏卒の衣章は服の背に付け、卒は頭巾の上に付け、城中の吏・卒・民の男女は、皆が服に付けた衣章や微職により区分し、また、男女の区分を判るようにする。城下の吏卒は衣章を肩に置き。左軍は衣章を左の肩に置き、中軍は衣章を胸に置く。
おのおのの部隊に鼓を一つ配備し、中軍は初めに鼓を三打する。毎回の鼓による合図では三打し、これを十回繰り返し、諸部隊・部署の鼓を配備しているところの官吏は、慎重に鼓を中継して鼓の合図に応じる。鼓の合図に応じるに時に、本来の鼓の合図に応じる時に応じない、また、鼓の合図に応じなくても良い時に応じた場合は、鼓の合図を掌る者を処罰する。
道の幅は三十步とし、城下の階段を挟む道は、おのおの二本とする。その井戸には鉄製の甕を置く。井戸への通路の外側に屏を造り、直径は三十步とし、これを「圓」の形に作り、高さは一丈とする。「民圂」を造り、垣の高さは十二尺以上とする。「巷術」や周道は、必ず之の門を造り、門に二人はこれを守り、信符の所持が無ければ、通行を許さず、命令に従わない者は処罰する。
色々な(祭祀で奉げる)「牲格」を警備する者は、(戦勝祈願をして)三回出撃して敵を撃退すれば、国君は命令を出して、この者を召し、食事をこの者に賜い、大旗を与え、百戸の村の村役場に任命し、もし、その村が他人の財物であれば、大旗をその村役場に建て、村民皆に、明白にこの者の武勇を知らせ、これを某子の旗と呼ぶ。「牲格」の内の広さは二十五步、外の広さは十步、(牲格を飼う)「表」は地形に合わせて建設する。
卒を招集し、軍事教練に参加させ、号令の前後左右を判らせ、兵卒で疲労する者は交代で休息を取らせる。

第七十 號令

国家を安定させる方法は、土地の条件を克服することより始まり、土地のその条件を克服することを得れば、きっと、成功することが出来、土地のその条件を克服することが得られないのであれば、国家建設の労働は報われず、成功は無い。人の事業もまたこのようなものであり、備えについて、まずその備えが無いもの者は、それにより、主君を安心させることは出来ず、官人、士卒、民衆が心を一つにしない場合は、その原因は、皆、その将軍や長官にある。もろもろの賞罰を行い、また、統治が十分に行われているのは、それは必ず王公の指導にある。しばしば、人を任命して領地を巡視させ、国境の辺城、関所、要塞の守り、また、域外の外敵の侵攻に備えて苦労する者をねぎらい、褒賞を与え、さらにまた、その守備の兵卒の物資が十分か、不足か、地形は適切か、などの辺境を守るものごと、守備のその器材備品が常に十分であることなどを報告させる。辺境の県邑で、その地の樹木の生育が悪ければ、きっと、用いることが出来る材木は少なく、田が開けていなければ、食料は少なく、大きな屋根の家が無くて、草葺き屋根の家であれば、(現金収入となる帛の材料の)桑樹が少ないかどうかを観察させる。収入が多ければ、(田畑が不足していても)民は十分に食える。
「内堞」や「内行」に棧を造り、兵器を取り置いて棧の上に備え置き、城上の官吏、兵卒、炊事夫は、皆、その宿舎は大道の内側に造り、おのおのにその分担する部署の任務に当たる。炊事夫は兵卒十人に二人を当てる。割符を担当する者を養吏と言い、養吏一人を門に置き、諸門を監視し、門を警備する者および城からの入退城に関わる「守禁」の命令書を有する者、以外の皆は、用事の無い者が立ち止まってその門の傍らにたむろすることをさせないようにし、命令に従わない者は誅殺する。
敵人が来襲して来たら、城周千丈の城の場合は、必ず城郭で敵軍を迎へれば、城主の人に有利である。城の大きさが千丈に満たな城は敵を迎え撃ってはいけなく、敵の部隊の軍勢の多寡を偵察して、敵軍に応対する。このことは守城の大体である。ここまでに示したことがらの中に無かったものは、皆、心理の術策と人事にこれを交えて対処する。およそ守城は速やかに敵を破ることをもって上策とし、その籠城の日を繰り延べて、持久戦により救援が来るのを待つのは、守城の戦術に詳しい者が取るものである。他に、これらのことがらに該当しなければ、きっと、城を守ることは出来る。
城を守る方法は、敵が、まだ、村を離れること百里以上の距離にあるとき、城将はこの間合いで、すべての五官及び百長を招集し、また、富人や重室の親を人質として、この者たちを官府に収容し、慎重に信頼の置ける者を任命して人質の守衛をさせる、厳重に注意して任務に当たらせる
敵軍が城に取り付く足下では、守る大将の陣営の士官は三百人を下だることは無く、四面を守る四門の将官は、必ず功労の有る臣下や戦争に死亡した遺族の者を選抜し、士官の従卒はおのおの百人を当てる。門将がその担当する守備の門と併せて他の門を守る場合は、他の門との間に必ず高樓を建設して挟み、射撃の上手な者を任命し、その高樓に駐屯させる。女郭や馮垣には士官一人を任命し、士官一人がこれを守備し、士官には重室の子を任命する。
五十步毎の割合で「撃」一隊を置く。城中の里を八部に分割し、それぞれの部ごとに官吏一人を置き、官吏はおのおの四人の兵卒を従え、それにより、「衝術」及び里中を巡視する。里中の父老を「小」と称す。里中の守備の事について、そして里中の会計の任務に関与しない、残りの「小」の者により、里を分割して四部を作り、その部ごとに長一人を置き、部の長により往来を尋問し、時間外の通行を制限し、通行に不審が有る者は、尋問などにより、部の長は部内の悪事を摘発する。官吏は兵卒四人以上を従え、それ以上の人数で分守している者は、大将は必ず、その者のために信符を作り、大将は人を任命して城内を巡視するときは信符を携帯させ、信符が合わず、また、合言葉に答えられない者で、伯長以上の立場の者なら、この者を引き留め、このことを大将に報告する。もし、引き留めるはずの者を引き留めず、または、官吏や兵卒がこの者が行くことを赦したなら、皆を処罰する。もろもろの罪があって(死体を晒す、車割き刑などの)死罪以上の重罰の場合は、刑罰は、皆、その父母、妻子、同じ親に産れた者に及ぶ。
もろもろの男女にあって城上に居り城を守る者は、十人毎に弩兵六人、兵卒四人を当てる。徴発された女子、老人や年少者には、人一人に矛一丁を当てる。
にわかに危急のことが生じたら、中軍は速やかに鼓を撃つこと三打、城上の道路や里中の街路など、皆、外出を禁止し、外出する者は処罰する。女子が城を防衛する「大軍」に参加する場合で、隊列行動するときは、男子は左を行き、女子は右を行き、男女が並び混じって行動することを禁止し、また、皆、その守備の持ち場に就き、命令に従わない者は処罰する。守備の持ち場を離れる休息する者を三日に一回の割合で割り当て、このことは敵の襲撃に備えるためである。里正は住民と共に皆を守って里門に宿泊し、官吏はその担当する里中の部を巡視し、里門に来た場合、里正は官吏のために門を開き官吏を里に入れる。里正と官吏は共に父老が守備しているところ、行き止まりの路地、寂しい人が居ない場所などを巡視する。姦悪の民が謀反を企て、敵と連携を行った場合、その罪は車裂とする。里正と共に父老および官吏で部を管理する者は、姦悪の民を摘発できなければ、皆、処罰し、姦悪の民を摘発した場合は、連帯責任を赦し、また、この者に黄金を褒賞し、摘発した人たち、その人毎に二鎰を与える。大将は人を任命して巡視を行わせ、冬の長夜は五回、巡視し、夏の短夜は三回、巡視する。四面の四門の官吏、また、皆、自らその守備する部署を巡視することは、大将の巡視のようにし、命令に従わない者は処罰する。
もろもろの竈は必ず防火塀を作り、煙突は高くし屋根より突き出す高さは四尺とする。慎重に火を扱い、失火を起こさないようにし、失火した者は処罰し、何事かの企ての一端で失火し事故を起こす者は、車裂にする。伍人組で事前に摘発が出来なければ、処罰し、事前に摘発出来れば、連帯責任を赦す。火を消火する者は騒ぎ立てることをせず、また、守備の部署を離れ、巷をむやみに動き回り消火に当たる者は処罰する。その部の里正および父老で守備を担当する者、これらの巷を担当する部の官吏たち、皆は、消火活動をすることが出来、部を担当する官吏はすみやかに人を任命し、火事を大将に報告させ、大将は信頼おける人を任命し、左右の兵卒を率いて消火活動を行わせ、部を担当する官吏で報告することを失念して、報告しなかった者は処罰する。火事に関係するもろもろのことにおいて、女子にも死罪の処罰がある。また、失火に連座する、全員に対し、それまでの処罰で罪の贖いなどのことがらが有る場合はそれを無効とし、その火事により乱事を企てる者に至るまで処罰は法の規定に従うこと。
城を囲まれたときの重い禁令のものは、敵兵がにわかに城に殺到すれば、厳しく官吏や住民に命令して勝手に騒ぎ立てないようにし、三人が集まったり、二人が連れ添ったり、互いに見つめ合って、泣いたり涙を流したり、または目配せして、手を挙げ相手を探り合ったり、相手を指さしたり、互いに呼び合ったり、互いに招き寄せたり、互いに相手の足を踏んだり、互いに相手を投げ飛ばしたり、互いに相手を殴ったり、互いに相手を撫でたりするのに体や衣服を用いて行ったり、互いに相手を訴えて口喧嘩したり、また、命令が無いのに敵の動向を探る者は、厳重に処罰する。伍人組がこのような者を摘発できなければ、厳重に処罰し、事前に摘発出来れば、連帯責任を赦す。伍人組の者が城を越えて敵に投降した場合、伍人組で摘発が出来なければ、厳重に処罰し、共に伯長と敵に投降すれば、隊吏を厳重に処罰し、共に官吏と敵に投降すれば、隊将を厳重に処罰する。敵に投降する者の父母、妻子、同じ親に産まれた者は、皆、車裂にする。最初に、投降することに気が付けば、連座を赦す。隧道の掘削に当たり、敵に怯んで隧道掘削の持ち場を離れたら、厳重に処罰する。伍人組が摘発できなければ、厳重に処罰し、持ち場の離脱を摘発すれば、連帯責任を赦す。
速やかに城を守り、敵を進撃路に撃退し、敵を降してその後に再び攻撃できないようにした場合、速やかに城を守った者をそれぞれの隊から二人を、上奏して褒賞を賜る。もし、包囲戦に勝った場合、城の周囲一里以上ならば、城将は城から三十里以内の土地に封じ関内侯と爵位を与え、輔将もしくは司令の者は上卿の爵位を賜り、丞及び官吏の丞に対応する立場の者は、爵位として五大夫を賜り、官吏、豪傑共に堅守を行った者から十人を選び、また、城上の官吏で五官の等級に対応する者は、皆、公乗の名誉を賜る。男子で守備の任命の等級を持つ者は、爵を持つ人ごとにその爵を二級進め、女子は錢五千を賜り、男女老小の、それぞれの小隊の分隊長の者は、人ごとに錢千を賜る。これより後三年間は、賦役に関わることがらがあっても無効とし、三年間は租税しないことを公布する。これらのことがらは官吏と住民が城を堅守し、包囲戦に勝つ戦法として進めるものである。
兵卒で大門の中に駐屯する者は、「曹」への駐屯は兵卒二人までとする。勇敢な兵卒を前行に任命し、伍人連座制を敷き、おのおのがその左右前後の者の責任を取らせる。勝手に部署を離れる者を処罰する。門尉は日中に三回、兵卒を査閲し、夕刻に、鼓を打ち、門を閉じて、一回、査閲し、太守は時に人を派遣してこの実行に参加させ、命令違反で逮捕した者の名を上奏させる。食事はすべて部署内で取り、外食を行うことを禁じる。太守は必ず慎重に細かく観察し、謁者、執盾、中涓および婦人の御前に侍従する者の、志意、顔色、使令、言語などの状況を探偵する。飲食を国君に奉る場合は、必ず人を任命して毒見を行い、すべてが、規定通りでない場合は、食事を捨て、その理由を調べる。太守への謁者、執盾、中涓および婦人の御前に侍従する者に不審なことがらが有れば、太守は即日にこの者に処罰を降し、この者を断罪し、もしくはこの者を束縛する。命令に従わず、および、遅延して集合する者は、すべて処罰する。必ず、その時に当たって、誠実にこの者を戒める。兵卒がもろもろの門の下に朝夕に警護に立ち、もしくは、座る場合は、おのおのの年の年少、年長を考慮して、当番の順番を決め、朝夕に任務に当たるに、整列順は先ず有功有能の者を右にし、それ以外の者の皆は、その次に立つ。五日ごとに官は、おのおのの勤務でふざけている者、日常生活がたるんでいる者、好んで他人を侮辱する者、これらを調べて報告することを、五日に一回、行う。
もろもろの人士に外からの使者が来た場合は、必ず、(太守は)城将を任じて、使者との対応を執らせる。(入城する者が、)城より出て再び帰城して味方する、もしくは、地方の県を巡行し帰城した場合、必ず、信頼の置ける者に命じて、最初に、その帰城し見方する者が使う宿舎を点検させ、その後に出向いて帰城した者を迎え、門守に確認して、その後に宿舎に入らせる。帰城し見方する者の部下となる者は常にその者の行くところを確認してから、随行し、その者に付き従うが、その者が連れて来た下の者の指示には従わない。必ず、XXが随行することを待つ。(XX二字欠字)。
(城下以外の地域からの)「客卒」は主人を守る、つまり、その城の防衛を行えば、主人もまた客卒を守る。城中の兵卒は、その村を同じとする、あるいは、その村が既に敵軍に降っていたら、慎重にこれらの兵卒を処遇し、時折、その担当する部署を入れ替え、同じ村の者は、守備する場所を同じ場所とならないようにする。「階門」の官吏のために割符を作り、割符が合っていれば門の中に入れ、労をねぎらい、割符が合っていなければ、取り調べ、太守に報告する。城に入場する者で、衣服や他の持ち物が命令の通りで無い者への取り調べは規定通りである。
「宿鼓」は大門の中を守るところに置き、暮時には、騎馬武者もしくは使者に命じて「節」の執行を執らせ、城を閉じる者は、皆、規則に執り行う。夕刻の昏鼓を告げる鼓は十打し、もろもろの門亭は、皆、昏鼓を聞いて門を閉じる。(昏鼓以降に)外出する者を処罰し、必ず、束縛し外出する理由を尋問し、そして、その罪への処罰を行う。早暁に文鼓を管理し、鼓を打ち、(文鼓以降の)外出を許す。もろもろの城門の官吏はおのおのの担当する部署に出向き、城門の鍵を請求し、門を開き終えたら、また、城門の鍵を返納する。割符と「節」を保有していたら、この禁令を適用しない。
敵が襲撃して来たら、樓鼓を五回連打し、また、何度もこの鼓の合図を繰り返し、(各部署は)小鼓を交えて、この樓鼓の合図に応える。小鼓を五回連打し、遅れて軍に集合する者は、処罰する。命令は必ず人々が畏れるのに足りるようにし、褒賞は、必ず、人々が利と感じるものに足りるようにし、命令は必ず実行し、命令が出たら必ず人々は従い、命令が実行されるべきところが実行されていなければ、その理由を調査する。合言葉は、夕刻には夕刻の合言葉が有り、合言葉を間違えていたら、処罰する。
守備の門には規定を作り、これを太守が署名して「某程」と称し、街の区画ごと、街の階段ごと、もしくは、門ごとに掲示し、往来する者、皆に、見させて認知させる。
もろもろの官吏、兵卒、住民にその将官や長を殺傷しようと謀る者が居たら、謀反と同罪とし、これを捕捉し、報告する者には、黄金二十斤を賜り、慎重に捕捉した者を取り調べ処罰する。その分担する職務ではないのに、勝手にその職務に就き、もしくは、その正当に業務を行うべきことがらでないのに、勝手にその業務を行う者を処罰する。もろもろの官吏・兵卒・住民が、その居るべき部の区域に居ないで、勝手に他の区域に入れば、ただちにその者を捕縛・収容し、都司空、もしくは、候の監視下に入れ、候は太守に報告する。捕縛・収容せずに、勝手にこのようなことを許せば、関係者を処罰する。謀反する者、城を売る者、城を脱走して敵に降伏する者、これらの者一人を捕らえたら、命令によりこの功績に対し、(その者に関わる人で)死罪の刑罰の者二人、「城旦」に関わる刑罰の者四人を功績の代償として罪を赦す。城に背き父母に仕えることを捨てた者の、この者の父母妻子を逮捕・拘留する。
すべての民間の材木、瓦、もしくは、藺石の数を調査・報告し、そのものの長短大小を記録し、対象とすべきものを対象としなかった場合は、官吏に罪がある。もろもろの兵卒・住民で城上に居住する者は、おのおのの、その左右の者と連帯保証とし、左右の者に罪が有って、それを報告しなかった場合、その伍人組に連帯責任の罪が有る。もし、伍人組内の罪人を捕らえた場合、もしくは、この者を官吏に報告した場合、伍人組の皆にこのことを褒賞する。もし、伍人組内では無く、最初に他の伍人組内の犯罪を知り報告した場合、その伍人組内の皆に、その本来、与えられる褒賞を倍とする。
城外の防衛に令を任命し、城内の防衛に守を任命する。令、丞、尉の部下が逃亡した場合は罰の代償を入れることを許し、逃亡者の人数が満十人以上であれば、令、丞、尉の爵位をおのおの二級引き下げ、人数が百人以上であれば、令、丞、尉の階級を剥奪して兵卒として守備に当たらせる。もろもろ罪の代償を行う者は、必ず、敵の捕虜を捕まえた後、代償を入れることを許す。
民間の財物や粟米を用いて「凡器」に交換することを希望する者を募集し、希望すれば、すべてを購入せよ。また、村人の知り合い関係や兄弟に罪人が居り、または、県中に在住していない、などであっても、罪を代償しようと希望する者、もしくは、粟米、錢金、布帛、他の財物により、罪を代償することを希望する者は、これを許す。
伝言を担当する者は十步毎の割合で一人を選任し、伝言することを滞留させたり、伝言の内容が不足させたりした者は、処罰する。もろもろのことがらで利便があると思われるものは、速やかにそれを太守に報告する。官吏・兵卒・住民に関わることがらを提言したいと願う者、速やかに提言の報告を行い、これを官吏に請願し、請願の上奏を遅延させ、または、上奏しなかった者は、処罰する。
県令はおのおののその県の中の豪傑、もしくは、謀士、居大夫、性格が重厚な人物、人口の数の多少を上奏する。
官府城下の官吏・兵卒・住民の家は、その家の前後左右の住民と連携して防火の連帯保証を行う。火事を発生させ、自宅が焼け、さらに火元となり延焼して他の人の家を焼けば、処罰する。
もろもろの人々を集めて弱小者を脅迫し、人の婦女を強姦し、集まって騒ぎ立てる者は、皆、処罰する。
もろもろの城門もしくは亭にあって、慎重に往来して行く者の割符を取り調べ、割符や伝書が疑わしい、もしくは、割符を保持しなければ、その者の皆を、県廷に連行し報告する。その往来させた背景を詰問する。任務の割符や伝書を保持する者は、規則に従い官府に宿営させる。その往来する者の知り合い、また、その兄弟で面会を希望する者がいれば、面会の為に官府に召し出すが、里や街中で面会を許可しない。三老や守閭は繕夫に嘱託して面談への対応を行わせる。もしくは、他の職務を行う者で微職な者は、里中に入ることを許さない。三老は庶民の家に入ることは許可しない。命令を里中に伝える者は鳥の羽の目印を付け、目印の羽は三か所の「差」で管理し、庶民の家はおのおののその「官中」に命令を伝言し、命令を失う、もしくは、命令の伝達を遅延する者は、処罰する。家には警備を配置し食料を管理する。官吏・兵卒・住民で割符や節を保持しない者が、勝手に里中や街に入った場合、官府、官吏、三老、守閭の者が制限しなかった場合、関係者の全員を処罰する。
もろもろの守備する器械、財物を盗み、また、集団で盗む者、盗む財貨の値が一錢以上は、皆、処罰する。官吏・兵卒・住民の、おのおのの名前を木札に大書し、これをその所属する部署に掲げる。太守はその部署を確認し、その所属しない者が勝手に部署にいる者を、処罰する。城上では毎日、一回は敷物を持ち上げ、敷物を交換させ、人が敷物の下に隠し持つ物で禁中に指定されたものを隠して報告していない者は、処罰する。
官吏・兵卒・住民で死亡した者は、その死亡した人の家族を呼び寄せ、慰労金を与え司空は死亡者を葬るが、家族が死体に取り付いて泣くことは許可しない。戦病傷が甚だしい者は家に帰り、病傷を治療させ家で十分に保養を行い、医師の診察を与え、薬を給付し、酒は一日二升、肉は一日二斤を支給し、官吏に命じて、しばしば、里中の家に行かせ、病傷の状況を視て、その病傷が癒えたようであれば、報告書を提出して上の者に仕えさせる。偽って自ら傷を付け、職務を避けることを行うは、この者と三族にまでに処罰を行う。戦争が止めば、太守は官吏に命じて、官吏自ら死傷者の家に行き、門戸において死傷者への哀悼を行わせる。
敵が去り、戦争が終われば、塞祷を催す。太守は命令により邑中の豪傑・傑力の者のもろもろの者で戦功が有る者を聞き取り、また、必ず太守自ら死傷者の家に行き、死傷者を弔哀し、太守自ら戦争で戦死した者の後のことを確認することを行う。敵による城の包囲が終われば、城主は速やかに使者を関係する者たちの許に行かせ、関係するものたちの労をいたわり、戦功が有る者、および、死傷者の数を挙げて、爵位・俸禄を与え、太守は自ら祖廟に尊寵し、明白に祖先を貴び、その死傷者たちの怨みを敵に向けさせる。
城上の兵卒、もしくは、官吏のおのおののその左右に連帯保証を持たせ、もし、城に対して外の勢力の為に謀を企む者がおれば、父母、妻子、同じ親に産まれた者、その皆を処罰する。連帯保証の左右の者が、企みを知っていて捕縛や通告をしなかった場合は、連帯保証の皆を、共に罪を同じくとする。城下や里中の庶民も、皆、連帯保証をおこなうことは、城上の定めることと同じとする。謀を企てる者を捕縛や通告をする者がいれば、この者の褒賞として役を封ずるのに千家の邑の長の身分をもって行い、もし、その連帯保証関係の左右の者でなく、他の伍人組の者を捕縛や通告する者ならば、この者を二千家の邑の長に封ずる。
城の禁止事項として、兵卒、住民に対し敵の旗印や軍団の旗印を求める者は欲する者は罰に落とし、処罰する。命令に従わない者は、処罰する。その立場に無いのに勝手に命令を出す者は、処罰する。命令を取り違える者は、処罰する。檄に拠り駆けて城を下り、また、戦況に応じて城を上下するのに他の者と同じ行動を取れない者は、処罰する。合図に合わせた応答ではないのに、勝手に大声を出す者は、処罰する。勝手にものを失う者は、処罰する。敵を誉め見方をけなす者は、処罰する。部署を離れ私語を発する者は、処罰する。城の鼓の音を聞き、遅れて部署に集合する者は、処罰する。人は自らの名前を名札の板に大書し、これをその部署に掲げ、太守は必ず自らその先後を視察し、その部署ではないのに、勝手にこの部署に入り込む者は、処罰する。部署の同輩左右の者とその部署を離れ、同輩と共に他の部署に入る、連帯保証関係の同輩左右の者が謀反の者を捕らない、私書を隠し持つ、請願や拝謁を願うことを行い或は他人の為に敵への手紙を書く者、敵から城を守備する事を忘れて自分の一家の事を行う、戦死した住民の妻や嬰児を盗む、これらの皆は、断じて赦すことは無い。
城上の人を確認して、これを名簿に記録する。割符や「節」を保持せずに勝手に軍中を移動する者は処罰する。敵が城下に駐屯すれば、これにより、しばしば、その部署への配属を変えるが、炊事夫を変えることはしない。敵を誉め、敵が少数なのに多いとみなし、敵が乱れている姿に対し混乱は治まっているとみなし、また、敵が攻撃する戦法が拙速なのに巧妙と評価する者は、処罰する。敵と城の主人とが、互いに語り合い、互いに物の貸し借りがあってはならず、敵が矢を射るに矢文を用いても、読み上げることは無く、外の敵が内の見方に有利な条件を示して、応じることは無く、命令に従わない者は、これらの皆、処罰する。禁ずることとして、敵への矢文を挙げ、もしくは書を用いて敵に矢を射ることを行わず、命令を犯す者は父母、妻子の皆を処罰し、身は城上に晒す。このような犯罪を行う者を捕縛・報告する者がいれば、この者に黄金二十斤を褒賞する。時間外に、外出する者は(処罰する)、ただ、太守および太守の「節」を所持して使者となる者だけである。
太守が城に入り防衛に臨めば、必ず、慎重に父老、官吏、大夫に質問し、もろもろの怨恨関係、仇関係、復讐関係があって、互いに打ち解けない関係にある者は、その人を招集して、明白に城の防衛のためにこれらの打ち解けない関係を解きほぐす。太守は、必ず、自らその人を他の人と区別し、これらの者を記録し、これらの者をその怨恨関係者などと隔離させ、私怨により城、もしくは、官吏のものごとを害する者がいれば、父母、妻子、その皆を共に処罰する。その城に対し外部の敵の為に謀る者は、三族共に誅罰する。敵に謀る者の情報を得た者、もしくは、その者を捕縛や報告した者がいれば、その守備する所の邑の、大小の規模に応じてこの者を長に封じ、太守はその邑長の印を授け、尊重・寵愛し、この者を官職任用し、官吏・大夫及び兵卒・住民に対し、その皆に明らかにこの者を周知させる。
邑の豪傑の外に多くの諸侯と交遊を持つ者は、常にこの者を召して、上の者に対しその者が常に太守に拝謁していることを邑人に通知させ、十分のこの者を味方に所属させ、居住する所の官吏は上の者に対し報告し、しばしば、この者に神祀りの餞俱を提供させ、また、勝手に諸侯や豪傑がその者のところに出入することが無いようにさせ、この者から関連の親族の人質を取る。各郷村の長者、父老、豪傑の親戚・父母・妻子、必ず、これらの者たちを尊敬・寵愛し、もし、貧しくて自ら食料を自給できない者がおれば、上はこの者に食料を給付する。また、勇士の父母・親戚・妻子には、皆、時に酒肉を賜り、必ず、この者たちを敬い、この者たちが居住する場所は、必ず、太守の近くにする。「守樓」は人質を置く「質宮」を監視できる場所に置き、そして、注意が行き届くようにする。必ず、密にその守樓の壁を土で塗り、また、守樓は下から上を見えないようにし、上から下を監視し、下から上に人が居るか居ないかを判らないようにする。
太守が民との信頼関係を保つこととは、官吏は貞廉、忠信、無害であって、ものごとを任せられる人物を登用し、城上での飲食・酒・肉をとることを禁止することをせず、錢金、帛布、財物などはおのおの自分自身でこれらのものを守り、厳重に互いに盗み合うことが無いようにする。葆宮の牆は必ず、牆の垣を三重にし、さらに葆宮を警備するものとして、皆、音が出る瓦や釜を牆上に積み重ねる。門には官吏を配備し、もろもろの里区域の門の、開閉を管理し、必ず、太守の「節」の携帯を必要とする。葆宮の警護には、必ず、兵士で重厚なる者を任用する。官吏で忠信なる者を選任し、害を起こすことなく、ものごとを任せられる人物を登用する。これらの者に部署を警護させ、太守は葆宮に十尺の高さの垣を築き、垣は葆宮の牆門に連絡させて周囲に廻らせ、太守の閨閥関係にある者を、「司馬門」の護衛を命じることは無い。
吉凶を見る望気者の宿舎は必ず太守の宿舎の近隣に置き、巫の宿舎は必ず公社の近隣に置き、必ず、巫を敬って巫に神事を行わせる。巫・祝・史と望気者は、必ず、善き言葉によりを民衆に告げ、太守の請問により太守に神の「報」を奉り、太守は独りその請問への神の報を知るだけである。この者たちが民衆に中身の無い報を与え、望気の報が妄言として不善の言葉を発し、民衆を驚き恐れさせれば、断じて赦すことは無い。
食料の備蓄を調べ不足していなければ、食料を自給する住民に対しおのおのが自らの、家の五種の穀物の備蓄の数量を見積もらせ、期限を定め報告させ、その数量に問題点があれば、官吏はよくこもごも、その数量を集計・計画し、報告の期限が過ぎ、隠匿して備蓄の見積もりをせず、または備蓄の見積もりをしても全数で無い場合は、官吏・兵卒に命じて調査・確認をさせ、このような場合は、皆、処罰する。隠匿の事情を知って報告する者がいれば、その備蓄の十分の三を与える。粟米、布帛、錢金を収容し、畜産物が城内にあれば、皆、官の収容のためにその代価を平時の価格に直し、(供出・収容を証する)主券を供出した人に与え、その代金を書す。戦争が終われば、皆、おのおののその代金の金額により賠償する。また、その購入代金の高い低い、多い少ない、その高を用いて爵位を賜い、官吏となることを希望する者はこれを許し、その官吏となることを希望しない者は、購入代金の高により賜賞の爵位・俸禄を受け、もしくは、その者の親戚や関係者で罪人が居り、その罪の贖いとして財物を出すことを希望する者は、命令によりこれを許す。その恩賞を受ける者は葆宮に太守との拝謁をさせ、拝謁ではその者に代わり、その親に褒賞を授与する。また、さらに御上を助けようと願う者は、褒賞となるその爵位・報償を倍にする。(備蓄の見積もり書は、)「某県の某里の某子の家の食する人口二人、備蓄穀物六百石、某里の某子の家の食する人口十人、備蓄穀物百石。」(のようにする。)粟米を供出するのに期日を定め、期限を過ぎて供出しない者の供出は、王公はこれを没収し、供出していないことを、知り報告する者がいたら、その没収する量の十分の三を褒賞する。慎重に情報を管理し、住民に我が城上内の粟米の備蓄量を知らせてはいけない。
太守が城へ入城すれば、最初に斥候の選任を手始めとし、斥候を獲得できれば、この者を宮内に宿泊させ、我が守衛の備えを敵に知られないようにする。斥候の為に特別な宮を建て、その者の父母妻子の皆を、其の特別な宮に同宿させ、衣食酒肉を支給し、信用できる官吏が、十分にこの者たちをもてなす。斥候が到着、もしくは、任務から帰着したら、偵察の首尾を問う。太守の宮には、外環を三重に巡らし四隅に太守の宮の樓を造り、内環にも樓を造り、樓より葆宮に連絡する環の幅は一丈五尺とし、これを道とする。葆には居室を造らない。三日に一回、敷物を挙げて、敷物を取り調べ、茅を宮中に布き、厚さ三尺以上とする。斥候を敵地に派遣するには、必ず郷邑の忠信で、善重の士を選任し、親戚、妻子が居れば、手厚くこの者たちをもてなす。必ず斥候の敵地への派遣を重要視し、そのためにその親、もしくは妻子の衣食を給付し、特別な宿舎を建て、関係者と衆人とを同じ場所に集合させることをせず、この者たちに酒肉を支給する。
他の斥候を派遣するときは、この者への待遇・処遇は前の斥候と同じようにし、帰還して、互いに参集して報告が信用できれば、厚くこの者たちに恩賞を賜い、斥候を三回、派遣され、三回ともに信用が出来れば、重くこの者に恩賞を賜う。恩賞を賜うことを希望せず、官吏となることを希望する者は、この者に二百石の官吏として任用する。太守はこの者に二百石の官吏の印を珮授する。その官吏となることを希望せず、恩賞の俸禄を受けることを希望する者は、皆、前の例と同じようにする。斥候で深く敵の主な国内に侵入する者がいて、この情報を質問して審らかで信用が出来れば、この者を褒賞することは他の斥候の恩賞の倍とする。その恩賞を受けることを希望せず、官吏になることを希望する者は、この者に三百石の官吏として任用する。
国防の士としての褒賞を受ける者は、太守は必ず自身自らこの国防の士のその親の、その親の所に出向いて、その報償の授与の見守りに立ち会う。その者が再び御上を助けようと希望した者へは、その報償、爵禄、その者の関係者の罪人の罪の贖いなどの規定の適用を倍にする。
斥候の派遣は城下から十里以上に出さず、高く測候に便利な所にいて、目印を立て、目印は三人でこれを監視し、そこから城に至るまでには三箇所の目印があり、城上の狼煙と互いに見えるようにし、昼間は狼煙を挙げ、夜間は火を掲げる。敵が押し寄せて来た情報を住民から聞き、審らかに敵の陣形から必ず攻撃態勢を確認し、小城で自ら敵の進撃を守備出来ないことを判断し、すべてのその地区の老人弱者、粟米、畜産を保全する。迅速に斥候を派遣する者は五十人を超えることは無く、敵が堞に到達すれば目印の場所から離れる。慎重に判断して遅延してはいけない。斥候の「曹」の駐屯では三百人を越えることは無く、日が暮れて斥候を偵察に出し、目印の徽章を付ける。空の坑道、要塞などの敵人が行き来する場所には、敵人を追跡させる者を、里毎に三人を下回らないように配置し、夜明けに出発して追跡させる。詰め所の「曹」のおのおの場所にその目印を立て、城上はこの「曹」との連絡を取る。斥候は「曹」を出発し、「陳」の目印を越えること。「遮」は郭門の内外に駐屯し、その目印を立て、兵卒の半数を門内に駐屯させ、その兵卒の人数の多少を敵に判らせないようにする。もし、敵の急襲があって、敵が「陳」の目印を越えるのを確認すれば、城上より指図の旗によりこの事態を指し、「遮」は郭門に駐屯したままで、鼓を打ち、合図の旗を整えて、それにより戦いの準備を整え、指図の旗の指す所に従い、敵を確認すれば、一旗の旗を掲げ、城下の境界線に入れば、二旗の旗を掲げ、城郭に取り付けば、三旗の旗を掲げ、城郭に侵入したら、四旗の旗を掲げ、城を取り囲んだら、五旗の旗を掲げる。夜は火を用い、火の数、その皆は、旗を掲げるのと同じようにする。
城郭の外側百步の区画に対し、牆垣、樹木の大小にかかわらずすべての樹木を伐採除去する。城郭の外の使用していない井戸は、すべてこれを埋め、水を汲むことが出来ないようにする。城郭の外の無人の家屋はすべて解体するし、庭木はすべて伐採する。もろもろのそれにより城を攻撃するのに使用できるものは、すべて、城中に入れ、その所有者おのおののものを記録させ置く。戦争が終わって、おのおののその記録により城内に収容したものを受け取る。戦争にあっては収容したものの証書の券を作り、その発行した証書の枚数を記録する。木材について、すべてを城内に収容出来ないものは、これを焼き払い、敵が材木を収容して、これを利用できないようにする。
住民は自ら木版名札に自分の名前を大書し、名札をその人が所属する部署に掲げる。有司はその管理する部署・区域を規定し、そこでの従うべき処罰規定を定め、その処罰規定から罪を取り締まる。身分を誇り正義を侮り、淫らに騒ぎ立てて静穏を保たず、路にあってはたむろし、職務を忘れ処理を遅延し、時機を失って親を避難させないなど、その罪を取り締まる。やかましく騒ぎ立てる者共を処罰し、その罪を断罪する。上を誹り、上を諫めず、勝手気ままに不吉な発言をする者は、その罪を処罰する。勝手に楽器を演奏する、賭博を行うことは軍中では許さず、それを行えば、その罪を取り締まる。有司の命令でなければ、勝手に馬車を走らせることは許さず、人が走ること、このようなことが有れば、その罪を取り締まる。勝手に牛馬を軍中に放すことは許さず、このことが有れば、その罪を取り締まる。飲食が規定の時間に取らない場合は、その罪を取り締まる。勝手に軍中で歌い、また、泣くことは許さず、このことが有れば、その罪を取り締まる。おのおのの罪に対して罰を執り行い、ことごとく、処罰し、有司がある者に罪が有ることを見て処罰しない場合は、有司を同じように罰し、もし罪があることを見逃すことがあれば、また、処罰する。およそ将官・軍師がその部下を指揮するのに法度を失念していたら、処罰する。およそ有司が、兵卒・官吏・住民に対して誓約・命令を周知すること行わなかった場合は、罪を犯した者の代わりに有司が罪に服す。およそ人を市中に殺人した場合には、死刑の刑罰を行うには上の意見を確認する。
「謁者」は「令門」の外に侍し、令門に二つの「曹」の詰め所を建て、門を挟んで待機し、食事は交代で取り、曹に人が居ない状況を作らない。門下に侍する謁者には長一人を配置し、太守はしばしば、太守の許に報告書を提出させ、その戦死者の名簿を見、また、門尉とその官長とを監督し、戦死者が発生したら太守の許に報告させる。四人の謁者は令門を挟んで内に駐屯し、二人の謁者は散門を挟んで外に駐屯する。客が拝謁を願う時は、謁者は武器を帯びて門前に立ち、食事は交代で取り、警護に就く侍者の名を報告する。
太守の室の下に高樓を建て、候者は、馬車に乗り、もしくは、騎馬兵卒で道を門外から来る者、および、城中で非常のものごとを発見したら、ただちにこれを太守に報告する。太守はこれにより城上の発見した城門及び邑吏が関わるその非常のことがらを参上し、報告する者を待ち、報告により非常のことがらを確認し、樓下の者は発見者の報告を受けて、それにより太守に報告する。
「中涓」に兵卒二人を配置し、散門を挟んで内に駐屯し、門は常に閉じ、食事は交代で取り、中涓には長者一人を任命する。守宮を巡らす「術衢」には、「屯道」を置き、おのおののその両側に垣を設け、高さは一丈、「埤倪」の樓を造り、埤倪を造る最初に「雞足」を置き、監視の兵卒二人は監視を保ちつつ食事を行う。また札書を受け取ると、必ず、慎重に札書を取り調べ、偽りの有無を調べ、もし、偽りの札書で不法であれば、拝謁を求める者を止め、詳細を詰問する。
屯道の垣の外、路の巷に、皆、樓を造り、高く里中を監視し、その樓には鼓一基と壟灶を置く。もし、なにごとかが起きれば、鼓を打ち鳴らし、官吏が到着したら止める。夜は火を用いて鼓所の場所を示す。城下は五十步毎の割合で廁一か所を置き、廁は圂と同じように上に造り置く。罪の過ちの請求があるが処罰するほどでもない者は、廁を掃除させて、厠を人々に利用させる。

第七十一 雑守

禽滑釐先生が問うて言うことには、『敵の軍勢が多く、勇猛・驕慢で、武威を見せつけ、それにより主人を脅迫する。薪土を共に積み上げ、それで「羊黔」を造り、土を積み上げ「高」を造り、それを用いて我が民に迫り、櫓を築いて兵卒と共に前進し、ついにこの櫓が我が城壁に接し、甲装の兵士と弩弓の兵士を共に櫓に登らせたら、これを撃退するにはどうしたらよいでしょうか。』と。
子墨子が言われたことには、『貴方は、「羊黔」の戦術への守備方法を問うているのか。』と。羊黔は攻撃方法でも稚拙なものである。この戦術は兵卒を疲れさせるには十分だが、これにより城を攻撃するには不足する。羊黔の攻撃方法には、遠くから攻めれば、遠くからこれを防ぎ、近くから攻めれば、近くからこれを防げば、損害は城には及ばない。矢や石を休み無く敵に降らせ、左右の弩弓の者は迅速に射ち、城壁の上の大きな石の支えを外して転がし落とせば、勝利の望みはすでに確実である。我が精鋭の兵卒を励まし、慎重に後顧の憂いが無いようにすれば、守る側の者は降伏することの重大性を感じ、攻める側の者は退却することを軽く考える。勇気を養い、気を高く奮い立てば、民心は百倍し、敵兵を多く捕らえた者をたびたび褒賞すれば、兵卒は怠ることが無くなる。
敵が土を積み上げて休まず、我が守備側がこれを止めることが出来ず、ついにこの積み上げた土手が我が城に接すれば、「雲梯」の戦術を防ぐ方法で、この羊黔の戦術に対する。
およそ、(城壁に対し土手を築いてから行う羊黔の戦術で用いる、)「堙」、「衝」、「雲梯」、「臨」の攻撃に対峙する方法は、必ず城の地形に応じて、この戦術に対峙し、石材が足りなければ、木材を用いて、敵の雲梯に対抗する廓を造る。廓の幅は敵の雲梯に対し左に百步、右に百步とし、そこから休みなく矢を射下し、石、砂、灰を用いてこれらを投げ降らし、薪火、熱湯を用いて助攻とする。精鋭の兵卒を選抜し、慎重に後顧の憂いを取り去り、褒賞の基準を審らかにし、同時に処罰を行い、平静を常の姿とするが、敵に対峙するときは緊急をもって行い、行動には勝手な考慮が生じさせないようにし、勇気を養い高く奮い立てば、民心は百倍し、多く敵を捕らえた者にたびたび褒賞すれば、兵卒は怠ることはない。衝、臨、梯、これら皆の攻撃には、「衝」の兵器を用いて、これを突き破る。
「渠」の長さは一丈五尺、その土台を土に埋める深さは三尺、台座の長さは一丈二尺。渠の幅は一丈六尺、その竿の長さは一丈二尺、荅の高さは四尺。渠を立てる時に堞に接触しないように五寸、離す、竿は渠の十丈毎に竿一基を立て、渠の荅の大きい規模のものの数は、里毎に二百五十八基を立て、渠の荅は百二十九基を立てる。それぞれの外部の道は要塞化して、これにより敵の進撃を阻む。敵の進撃を阻むために、その障害とする為に「三亭」を築き、亭の三つの隅は、これを織女星の三ツ星のように三か所連携させ、互いに敵の攻撃から防御させる。各所の大きな丘、山林、水路、丘陵、田畑のあぜ道、郭門、もしくは里邑への門は、要塞化し、また、邑人を識別する徽章を造り、それを用いて往来する者の人数を取り調べ、また、敵の偵察が潜伏している場所を追跡探知させる。
城外からの資産を持つ住民は、最初に城中の官府、民宅、室署は、その資産の大小を調べて分処し、資産を持つ者が、あるいはその兄弟、知り合いの者の、城内の所に居住したいと願えばこれを許す。城外の家屋の粟米、畜産、財物、色々なもので城の防衛に役立つものは、送付して城中に入れ、戦争が至急に迫れば、門内に積み上げる。民の粟米・帛布・金錢・牛馬・畜産を献上したら、これら皆を平時の価格に置き直して、所有者に主券を与えて品物の価格を書す。それぞれの人物におのおののその得意とすることがらに従事させ、天下の事に対応し、その職分を均等にすれば、天下の事は得て、それぞれが好む職分を行わせれば、天下の事は整い、また、職分に応じて強者や弱者をそれぞれに配置すれば、天下の事は備わる。
狼煙台を築くにはこれを円形に築き、高さは三丈以上にし、高台の法は斜面とする。(狼煙の掲揚の)「臂梯」を造り、(二つ折りの)梯子の両腕の長さは三丈、「連版」は三尺、括り付けるのに繩を用いて連版を列ねる。塹壕は二重に巡らし、吊り橋を架ける。火を保つ「壟灶」を備え付け、亭には鼓一基を置く。「寇烽」、「警烽」、「乱烽」の、火を伝え、順次、この連絡に応じ、主国に連絡が到着して止み、その事件が緊急となるものは狼煙を吊り下げる綱を引いて、狼煙を上下させる。烽火が既に揚がれば、その場合、鼓を五打して伝え、また、火を用いてこれを連絡し、敵が進撃して来ることがらの、兵力の多少を伝え、遅滞することはしない。敵の去来が頻繁である場合は、烽火の連絡は休むことなく行う。
敵を遠くに見れば一烽を挙げ、国境に敵が入れば二烽を挙げ、敵が要所の守りを射れば三烽三鼓を挙げ、城郭に対峙すれば四烽四鼓を挙げ、城に対峙すれば五烽五鼓を挙げる。夜は火を用いて行い、このような数とする。守烽を守る者の任務は重要である。斥候の人数は五十人を超えることは無く、敵が堞に到達すれば、敵の接近に従って斥候は退却し、遅滞することは無い。日暮れて斥候を出し、斥候の全員に徽章を付けさせる。大きな丘、山林など、これらすべての場所で敵の痕跡があれば追跡し、日が出てから敵を追跡し、追跡する者は里毎に三人を下ることは無く、おのおのその目印台に立ち、城上に追跡の結果を報告する。斥候は里から出撃し田畑に目印台を置き、斥候の兵卒は郭の内外に駐屯し、旗幟を立て、その兵卒の半ばは郭の内に居り、兵員の多少を敵に判らせないようにする。もし、警戒が発令されたら、規定の「外表」の旗を挙げ、敵を発見したら、規定の「次表」の旗を挙げる。城上からは指図旗を用いて応答を示し、斥候は「坐鼓」を打ち鳴らし、指図の旗の種類を正し、それにより戦備を整え、指図旗の示し意図する所に従う。城外の田園の男子は指図旗の指示により戦備を整えて斥候の指示に従い、女子は速やかに城上に走り入る。もし、敵を発見すれば、「鼓伝」を行い、城に連絡が至って鼓伝は止む。目印台を守る者は三人とし、さらに「郵表」を立て、そこから敵を監視し、太守は、しばしば、騎馬、もしくは、官吏に指令して巡視・監察させ、それにより、その勤務状況を報告させる。其の「曹」には鼓一基を置く。敵を発見すれば、鼓伝を行い城に連絡が至って鼓伝は止む。
一人が一日一斗の食事を取れば一年では三十六石の食料となり、三分の二斗を取れば一年では二十四石の食料で、四分の二斗を取れば一年で十八石の食料で、五分の二斗であれば一年では十四石四斗の食料で、六分の二斗であれば一年では十二石となる。一人が一日一斗の食事ならば、毎食五升を食べ、三分の二斗の食事ならば、毎食三升小半を食べ、四分の二斗の食事ならば毎食二升半を食べ、五分の二斗の食事ならば毎食二升を食べ、六分の二斗の食事ならば毎食一升大半を食べ、(この計算での基準は一人)一日に二回食事を取るとしている。飢餓による死を救う場合は、一日に二升を割り当てる者の期間は二十日、一日に三升を割り当てる者の期間は三十日、一日に四升を割り当てる者の期間は四十日、このように分配を割り当てれば、結果として、住民は九十日の間、飢餓からの死亡を免れる。
敵が接近してくれば、速やかに国内各所の城から離れた郷の金器、もしくは銅、鉄及び他の金属類であって、それを用いて城の防衛に有用となる物を収容する。最初に県官の住居、官府での不急のもの、木材の大小長短、そのおおよその数量を調べ上げ、ただちに、急いで収容を行う。敵の接近が危急でなければ、民間の家屋を解体し、樹木を伐採する。民から家屋解体の猶予などの請願があっても、その請願を聞き届けてはいけない。柴を収容するのに、積み上げる方法は魚鱗のように交互に積み重ねをせず、使うときに取り易くさせる。材木ですべてを城内に収容出来ないものは、この取り残す材木を焼き、敵がこの材木を使えないようにする。材木を積み上げるときは、おのおのの長短大小、形の良し悪しによりそれぞれを仕分けする、城の四面の外、それぞれの城郭の内に材木を積み上げ、色々な木で大きい材木は、そのすべての大きな材木には「関鼻」の穴を刳り、これを集積する。
城を守るについて、司馬以上の者の任用では、その者の父母、血を分けた兄弟、妻子が、人質として主人の所で監視されている者であれば、その人質を理由として堅守をするであろう。都司空は大城に四人を置き、候は二人を置き、県候は城の面ごとにそれぞれ一人を置き、亭尉、次司空は、「亭」ごとに一人ずつを置く署。官吏の守るべき所に配属される者で、職務に対する才覚は足り、廉信であり、その父母・血を分けた兄弟・妻子たちが葆宮の中に留め置かれている者であれば、近習の侍吏となることが出来る。それぞれの官吏には必ず人質を取り、それにより職務を任じることが出来る。
大門を守る者は二人とし、門を挟んで立ち、通行する者に対して、その外出する理由を取り調べさせる。おのおのの四人の戟士は、門を挟んで立ち、大門を守る者の下に配属する。官吏は日に五回、この者たちを巡察し、捕縛した者の名を報告させる。
城池の外側の周道に関所を設け、必ず通行する人を疑わしいと判断すれば、往来するもの、夜に外出する者、この者を束縛し、その疑わしいとの判断が粗末な者は処罰される。牆外の水中には「竹箭」の障害物を置き、竹箭の幅は二步とし、竹箭の上端は水面下に五寸とし、使用する竹には長短を交え、前外の廉の配置は三列とし、外側の列の竹は外側に向け、内側の列はまた内側に向ける。
三十步毎の割合で弩と廬を一基ずつ配置し、廬の幅は十尺、長さは一丈二尺とする。ある部隊に急が迫ったら、速やかにその隊に近き部隊の者を派遣し急が迫った部隊を助け、其の次の位置にある部隊は応援に出たその部隊の守備区域を受け継ぐ。
太守の節を保持する者の出入には、「主節」に命じて、必ず、節に記入した任務書の内容を疏書し、その節の内容を記録させ、その任務の内容を判断して、そして、その任務に赴いた者の帰還の報告を待ち、節に記す任務の内容と報告とを照合し取り調べる。節を保持する者が城から出るには、出る箇所の門の管理者に対し、書類と節を保持する者が城から出る時に、その節を保持する者の名を言わせ記録させる。
百步毎の割合で一隊を配備する。「閤」は太守の宿舎に連絡させるが、その経路は錯綜させ、室を穿って抜け道を造る。復道を造り、復道に墉垣を築き、その墉垣の上部の仕上げは美しくする。
雑穀類の生産について、民家には三年間分の雑穀類の食料の備蓄を命じ、その備蓄により甚だしい干ばつで、年の収穫が無い事態に備える。
常に辺境の県にはあらかじめ、芫芒、烏喙、椒葉などの毒草を栽培・備蓄させ、家の外の水路や井戸で埋められるものは埋め、(常の時には、)これらの毒草をその中に入れてはいけない。平安なときには危機のときのことを踏まえて指図し、危機のときには安全な方法を指図する。
敵が襲来すれば、もろもろの門戸のすべてに、孔を穿って、孔に幕を垂らして覆い、おのおの、二種類の幕を作り、一つは孔を穿って、この孔に縄を繋ぎ、その縄の長さは四尺、孔の大きさは指の太さとする。
敵が襲来して来たら、最初に牛、羊、猪、雞、犬、鳧、鴈を殺し、その皮、筋、角、脂、脳、羽、これらすべてをはぎ取り、収穫する。使・檟・桐・栗の木で、鉄の矢じりの軸を作り、大きな蘭の木で衡柱を造る。事態が急なため、にわかには遠くでの材料が得られない場合は、近場の屋敷外の林から材料を集めさす。集めさす、その材料の量の多寡を割り当てる。(国城と)同じようにして、城郭の準備を行い、「撃」を造り、撃は三角の形に造る。重さ五斤以上の色々な林木を、水中に漬す場合は、筏一艘分より多くしない。茅を積み上げたもの、または、薪を積み上げた、その表面を土で塗るときは、厚さ五寸より厚くする。官吏は、おのおの、その部界の中の財物で、それにより城の防衛に役に立つものを調べ上げて、太守に報告する。
人には、人を誹る者が居り、人に利を与える者が居り、容貌が悪い者が居り、容貌が美しい者が居り、長身の者が居り、策士が居り、勇者が居り、工作に技巧な者が居り、仕事に有能な者が居り、内政に長じる者が居り、外交に長じる者が居り、善人な者が居り、良く音を聞き分ける者がいる。太守は、必ず、その得意とするところを持つ者を調べ上げ、その人の身分に応じて処遇して、これらの者を登用する。
民が互いに憎み、または、官吏に抗議する、官吏はそのような問題を解決したことがらは、すべて、その内容を札に記録し、この記録を保存する。その記録により、後に告訴が起こされたときは、これを参考とする。
色々な人で身長が低く、みかけの身長が五尺未満のために兵卒として採用できない者を署吏として使い、官府または宿舎の給事をさせる。
投石材や矢じりの砥石などの色々な諸器材に用いるものは、すべて、丁寧に保管し、おのおの積み分けて、その数量を記録する。「軺車」を造るときは梓の木材を使い、矢を軺車に載せ、車輪の幅は十尺、轅の長さは一丈、四輪に造り、幅は六尺。板箱を造り、長さは轅と同じとし、高さは四尺、丁寧に上を覆い、中を整えて、矢を載せるようにする。
子墨子が言うことには、『およそ、城を防衛出来ない理由が五つあり、城が大きいのに人が少ないことは、第一の守城出来ない理由であり、城が小さいのに人が多いことは、第二の守城出来ない理由である。人が多いのに食料備蓄が少ないのは、第三の守城出来ない理由であり、市場が城から遠く離れていることは、第四の守城出来ない理由であり、財物の蓄積が城外にあり、富人が城外に居住することは、第五の守城出来ない理由である。一万家の規模の民衆を率いて、守城が出来る、その城の大きさは方三里である。』と。
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