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中日新聞WordBox:大江健三郎・岩波書店沖縄戦裁判

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大江健三郎・岩波書店沖縄戦裁判



 住民に自決を強いたと書かれ名誉を傷つけられたとして、沖縄県の渡嘉敷島で日本軍の特攻舟艇の戦隊を指揮していた故赤松嘉次氏の遺族と、座間味島の戦隊長だった梅沢裕氏が2005年、「沖縄ノート」の著者大江健三郎氏と岩波書店に出版差し止めなどを求めて大阪地裁に提訴した。口頭弁論で大江氏は「集団自決は戦争下の国、日本軍、現地の軍までを貫くタテの構造の力で島民に強制された。命令書があるかないかというレベルのものではない」との考えを示した。判決は3月28日。     ×      ×  ●沖縄ノート 大江健三郎著  1970年に岩波書店から出て53刷を重ねる。政治や民俗、基地問題などを考察した沖縄論で、日本人論でもある。集団自決の記述は計10ページほどで、出典を明記。関係者への取材をしていないことも記した上で「集団自決は(中略)『部隊の行動をさまたげないために、また食糧を部隊に提供するため、いさぎよく自決せよ』という命令に発するとされている」などと記述。座間味島の戦隊長に関する記述はない。     ×      ×  ●「集団自決」の真実 曽野 綾子著  作家で、日本財団会長も務めた曽野綾子氏が1992年に「ある神話の風景」(PHP文庫)として出し、2006年に改名してワックから出版。沖縄戦での集団自決に軍命があったとする資料の多くが「鉄の暴風」(沖縄タイムス社、1950年初刊)を孫引きしたもので、さらに同書は現場にいなかった人物のまた聞き情報で書かれていると指摘。渡嘉敷島民などへの取材で「軍命はなかった」と結論づけた。


集団自決の軍命あったか 「大江健三郎・沖縄戦裁判」3月判決 歴史教科書は「軍関与」復活

(2008年1月17日掲載)

●真実見えず、火種消えず


 2008年、沖縄県は穏やかな新年を迎えた。07年は、戦時中の住民の集団自決をめぐる「日本軍の命令・強制」が歴史教科書から削除されたことが問題化し、県民大会で怒りが爆発した。この問題は、「軍の関与」を示す記述で決着する運びとなったが、3月には自決命令の有無を争点とする「大江健三郎・岩波書店沖縄戦裁判」の判決が予定されており、火種は消えていない。

 (社会部・都留正伸)

■隊長は「生きろ」と


 女性が畑仕事をしていた。那覇市の西約30キロに浮かぶ座間味島(座間味村)。1月でも気温は20度を超え、山は青々としている。一休みした女性に声を掛けた。「また玉砕の話? 生きてる者の務めと言うけど…」。90歳という女性は幾度も同じ話をしてきたのだろう。歓迎する表情ではなかった。

 座間味は米軍から爆撃や艦砲射撃を受け、上陸前に住民234人が自決した。女性は仲間4人と軍の逃走の案内や弾薬運びをし、手投げ弾をもらった。「4人で囲み、友人がピンを抜いて岩にたたきつけた。でも爆発しなかった」。なぜか、その時、死にたくないと思った。山にはツツジが咲いていた。

 自決命令について尋ねると、「隊長の梅沢裕さんは『生きるだけ生きなさいよ』と言ってくれた」という答えが返ってきた。ただ「集団自決のテレビを見ると何も言えなくなる」と口を閉ざした。

 証言は、時系列や人間関係などで理解できない面もあったが、重要な内容を含むことは間違いない。正直、困惑した。

■兄はうそつきでない


 別の体験者は全く異なる証言をした。当時、兄が村の助役だった宮平春子さん(82)さんもその1人。壕(ごう)に兄がきて「米軍が上陸する。玉砕するよう軍から命令があった」と告げた。兄は3人の幼児を抱き「こんなに大きく育てたのに」と涙したという。その直後、別の壕に移された宮平さんは助かったが、兄と子どもたちは果てた。

 「梅沢隊長は『命令は出していない』と、兄がうそをついているようなことを言う。隊を離れた人が銃殺されたとき、兵士が『これは隊長命令だ』と言っていた。米軍は怖いと教えられたけど、優しかった。うそつきはどちらかね」

 宮平さんは自宅前の海を見ながら、今でも鮮やかに当時を思い出すという。「グラマンはガガガガガってくるけど、日本の飛行機はウーと悲しげな音で軍艦に突っ込んで行った。泣きながら手を合わせました」

 潤んだ目が、これが真相だと訴えていた。

■曽野氏著書で問題化


 集団自決が政治問題化した背景に、曽野綾子氏の「『集団自決』の真実」の存在がある。沖縄では渡嘉敷島(渡嘉敷村)や沖縄本島のチビチリガマ(自然窟(くつ))などでも集団自決が起きた。軍が渡した手投げ弾を爆発させ、死にきれないと、男が親や妻、子どもを切り付け、撲殺した。

 教科書には「日本軍によって集団自決を強要された住民や虐殺された住民も含まれ」などと記述され、軍命は事実として扱われてきた。だが、曽野氏は渡嘉敷島の取材で「住民集団自決の軍命はなかった」と結論づけ、軍命を前提に日本軍を断罪した大江氏の「沖縄ノート」を批判。梅沢氏らの提訴につながった。

■今もすべては話さず


 だが、沖縄戦は、そう単純なものではなかった。証言集の刊行を続ける元高校教師宮城恒彦さん(74)は「人々はいまだに口をつぐんでいる。座間味出身で自決の生き残りの私にも、すべてを話そうとしない。数日、聞き取りをしただけでは何も分からない」と、曽野氏に疑問を投げかける。

 同じく20年以上、証言集めをしている宮里芳和さん(60)は、冒頭の女性の証言に触れ「軍に協力する防衛隊があるのに、なぜ女性に弾薬運びを依頼したのか」と梅沢氏の行動をいぶかる。

 生きろと言いながら手投げ弾を渡したことも疑問だ。沖縄大の屋嘉比(やかび)収准教授(日本近現代思想史)は、集団自決は「生きて虜囚(りよしゆう)の辱(はずかし)めを受けず」との空気を生む軍の存在があった所だけで起きたとした上で、「武器を手放すことは軍紀違反で、命令なしにできない」と指摘。手投げ弾の譲渡は軍命そのものと見る。

 沖縄で見聞きした集団自決の証言や資料は、思想信条によって解釈が180度異なっていた。そうした中、大阪地裁で初の司法判断が示されるが、多数を納得させるのは困難な情勢だ。「沖縄戦の調査はまだ途上にある」。複数の研究者は、そう考えている。
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