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大江よ。おまえはもう死んでいる!

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東京報告会 徳永弁護士報告
平成20年7月19日
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逆転勝訴の方程式

大江よ。おまえはもう死んでいる!

平成20 年7 月
沖縄集団自決冤罪訴訟
原告弁護団
弁護士 徳永信一


1 「まさか…!?」の不当判決

3 月28 日大阪地裁で深見裁判長が下した判決は、予想もしなかった全面敗訴であった。周知のように、この裁判の最大の争点は、座間味島、渡嘉敷島において発生した住民の集団自決に関し、これを命じる隊長命令があったか否かである。この最大の争点につき、「命令それ自体まで認定するには躊躇を禁じえない」としながら、「文科省の立場」なるものや「軍の深い関与」なるものを理由に、隊長命令を真実と信じる相当な理由があったとして、これを事実として断定的に記述した『沖縄ノート』の著者大江健三郎と故家永三郎著『太平洋戦争』を出版した岩波書店を免責にしたのだ。

判決前、弁護団はさまざまな判決パターンを想定し、コメントを検討していたが、まさか「真実と信じる相当な理由」があったとして敗訴するとは・・・。全くの想定外であった。

2 真実相当性とは?-「勘違いだが、仕方がない」-

弁護団の予想が甘かったと言われればそれまでである。しかし、それなりの根拠はあったのである。『沖縄ノート』の出版継続を宣言している大江健三郎や岩波書店にとって、「真実であるとは認められないが、真実と信ずるにつき相当な理由があった」とされたことは決して喜べるものではないのである。そのことは『沖縄ノート』の増刷に関して解説するが、ここでいう相当な理由(法律家の世界では、真実相当性ないし誤信相当性、あるいは単に相当性とも言う)がなんであるかについて若干の説明をさせて頂く。

最高裁判例が定めている名誉毀損のルールは、たとえ名誉毀損があったとしても、それが➀公共の利益に関することであれば、➁真実であると立証されれば違法性はないというものである。そして➂真実性の立証に失敗した場合であっても、表現時の情報資料に照らし、真実だと誤信したことにつき、相当な理由(「勘違いだが、仕方がない」と言える事情)があれば、故意・過失を阻却するとして免責されるのである(昭和41 年最高裁判決)。

この判決を機になされた新聞報道によれば、誤信相当性は、真実性の証明を緩和したものと捉えられている節がある。真実性の証明ができなくとも合理的な根拠がいいのだという捉え方もあるようだ。が、これは間違いである。名誉毀損訴訟では、それが意見論評(意見・推測として述べた論評)なのか事実言明(事実として述べた言明)なのかが争われる。表現の自由の要請から、意見論評としての名誉毀損はたとえ、合理的な根拠がなくとも許されるが、事実言明としての名誉毀損は、その言明が事実として立証されるか、真実相当性がなければ、合理的な根拠があっても免責されない。『沖縄ノート』の表現は、両隊長の自決命令を大江の推論や意見としてではなく、厳然たる事実として摘示しているのである。

では、相当性が合理性と違うのであれば、それは何か。最高裁判例は、事実摘示にかかる相当性の認定について極めて厳格な立場をとっている。i 結論から言えば、真実性の証明と相当性との違いは、証明の程度の問題ではない。それは基準時の相違によって生じる基礎資料の違いによって生まれる判断の違いなのである。書かれたときに真実であるとの証明があると考えられたことも、後に真実ではないことが明らかになることがある。その場合、表現は違法であるが、故意(悪意)、過失は阻却されるため免責されるとするのが「真実と信ずるにつき相当な理由」のである。日常用語に翻訳すれば、「勘違いだが、勘違いしても仕方がなかった」と言い換えることができるだろう。ii いずれも口頭弁論終結時を基準時とし、根拠となる資料が全く同一となっている本件では、真実性の証明はないが、誤信相当性はあるという原判決の判断は、最高裁判例が故意・過失の阻却事由としている誤信相当性を取り違えたものである。

3 奢れる岩波の自縄自縛 ~『沖縄ノート』増刷の愚挙~

弁護団が、仮に岩波・大江が敗訴を免れるとしても、相当性を理由に救済されることはありえないと考えていたことにはそれなりの理由がある。『沖縄ノート』出版継続の意思を表明していた岩波・大江にとっては、それは全く救いにならないからだ。真実と信じたことについての相当性はあるから責任はないとしても、真実の証明それ自体がないとの原判決の判示は、違法性の宣告である。原判決が正しいというのであれば(彼らは判決後そうコメントしていた)、『沖縄ノート』の表現が違法な名誉毀損であることを認めたことになり、その後の出版・販売の継続は許されない。少なくとも、判決で違法であると宣言されながら、その出版を継続することにつき、もはや「勘違いしても仕方がなかった」と言い訳することはできないのだ。

もともと真実相当性とは、過去の名誉毀損表現につき、表現時に真実であると信じるに足る資料に基づいて記述したものが、後に表れた証拠によって真実ではなくなる場合に表現者を救済するために認められたものである(例えば、ロス疑惑は一審、二審は有罪、最高裁で逆転した)。現在も販売されている書籍について適用を論じるべきものではないのである(逆転判決前なら、M氏を殺人者として書いても真実性はないが相当性ありとして救済されるが、逆転無罪後にも増刷出版が継続されていたら、相当性で救われることはない)。

驚いたことに、『沖縄ノート』は、判決後も続々と増刷されており、5 月7 日59 刷が確認されている。愚かな暴挙である。勝訴を宣伝した大江・岩波としては、今更、出版を停止するわけにはいかないのだろう。奢れる岩波の自縄自縛といえようか。おそらく敗訴判決であれば、さすがの岩波も増刷を見合わせていたであろう。一審の勝訴判決が、大江・岩波の最大の足枷となってしまったのである(何たる皮肉か!)。大江・岩波側が、判決後の増刷出版を正当化するのには、改めて隊長命令の真実性を立証しなければならない。iii
そうでなければ、大江健三郎が『沖縄ノート』の記述を書き直すほかはない。iv

4 「文科省の立場」なるもの ~隊長命令は証明されていない~

原判決が、隊長命令の記述を、「勘違いだが、仕方がない」として免責した最大の根拠は、教科書検定意見に表れた「文科省の立場」なるものだった。原判決は、平成17 年度の教科書検定までは、集団自決が軍令によるものであったことは通説であり、教科書の記載についても容認され、軍命の記述を否定した平成18 年度の検定意見についても、その後の政治運動により浮動的となり、口頭弁論終結時(12 月21 日)には、未だ固まっていないとした。

これは明白な間違いだ。そもそも平成17 年度の検定時点において軍命説が通説であるわけがない。『鉄の暴風』にはじまる軍命令説は、まず、渡嘉敷島の赤松命令説について曽野綾子著『ある神話の背景』において覆され、『沖縄県史10 巻』でも、家永三郎著『太平洋戦争』(第2版)においても、削除されている。平成12 年には宮城晴美著『母の遺したもの』により、座間味島の《梅澤命令説》は覆った。平成13 年に発行された歴史学者・林博史著『戦争と民衆』では、両隊長の命令は否定されており、以後、隊長命令を肯定する学説は世に出ていない。原判決は、布村審議官が軍命説をもって当時の通説であるとした国会答弁を指摘するが、布村審議官が「従来の・・・通説」であるとしていた発言における「従来」を省き、発言当時の文科省の認識だとして認定しているのである。なんとも杜撰な事実認定をした深見裁判長の責任は大きい。v

また、口頭弁論終結時(12 月21 日)において平成18 年度の検定意見は固まっていないとした点も明白な誤りだ。平成18 年3 月31 日に公表された教科書検定の結果では、軍の命令や強制をいう記述は認められなかった。ところが、その後沖縄メディアを中心として沸き上がった反対運動は9月29 日のいわゆる11 万人集会において頂点に達し、検定済の教科書の訂正申請を受け付けるという事態に至った。しかし、就任当初、沖縄の世論に迎合するかにみえた渡海文科相も、軍命記述については次第に慎重な姿勢を示すようになり、12 月18 日の各紙で報道されたように教科書小委員会の結論は、「隊長命令は証明されていない。軍命ないし軍による強制の記述は認めない」というものであった。9人の専門委員から提出された意見書においても「隊長命令が証明されている」としたものは一つもなかったvi

平成18 年度の検定意見が公表されて以来、集団自決をめぐる教科書問題は、沖縄マスコミの政治的論調に煽られ、政治的な課題となり、揺れ動いてきたが、こと軍命の存否については、文科省の立場は「証明されていない」で一貫しており、揺れ動くことはなかったのである。

口頭弁論終結(12 月21 日)から5日後の12 月26 日に公表された訂正申請に対する検定結果は、軍の「関与」に関する訂正は認めながらも、軍による「命令、強制」の記述は認めないという従前の基本姿勢を堅持するものであった。これをもって教科書検定をめぐる政治的混乱は一応の決着をみた。vii

少なくとも、検定問題が決着した12 月26 日以後は、「軍命は証明されていない」という文科省の立場は、周知の事実となったといえよう。その後に増刷された『沖縄ノート』における隊長命令を事実として摘示する記述やこれを前提事実とする個人攻撃の記述は、真実性はもとより、相当性、すなわち「勘違いだが仕方がない」として開きなおることもできないことは明らかである。viii

5 「軍の関与」から「隊長命令」を推認する論理の飛躍

原判決が「文科省の立場」なるものに次いで、誤信相当性の根拠としたのは、「軍の深い関与」なるものであった。そもそも「軍の関与」については、原告弁護団も争うところではない。集団自決において用いられた手榴弾は軍の兵器であるし、集団自決の発生には米軍に対する恐怖があったことが指摘できるが、島民が米軍の攻撃に晒されたのは、駐留していた軍隊の存在と無関係ではない。

しかし、「軍の関与」と「隊長命令」とは全く別のことである。文科省の検定意見は、「軍の関与は集団自決の主たる原因である」と認めているが、それにも拘わらず、「軍命は証明されていない」とし、これを事実として摘示する教科書の記述を認めなかった。「軍の関与」から「隊長の関与」を直線的に推認し、かかる推認を根拠に、「隊長命令」を信じる相当な根拠とした原判決の論理的破綻は明らかである。

原判決がいかに恣意的で偏向しているかは、「軍の関与」として認定している兵隊と住民のエピソードをみれば明らかである。宮城初枝は、米軍上陸にあたり、親しくしていた木崎軍曹から「万一のときは、これで潔く自決しなさい」として手榴弾を渡され、数人の女子青年団員らとともに自決を試みたが不発弾のため果たせなかった。米軍の攻撃を受けながら逃げまどう初枝らは、斬り込みの準備をしていた部隊と合流するが、内藤中尉や梅澤隊長は、初枝らと再会し、「死んだのではないかと心配したが無事でよかった」と喜んでいたことが記録されている。 隊長が自決を命じ、これを強制したのであれば、初枝らの身を案じ、無事を喜ぶことはあるまい。「軍の関与」の中には、逆に、隊長の命令を否定する状況証拠というべきものが少なくないのだ。ix

こうした「軍の関与」が、隊長命令を推認する根拠とならないことは明らかである。原判決は、『鉄の暴風』に資料的価値を認め、曽野綾子著『ある神話の背景』や宮城晴美著『母の遺したもの』の証拠価値を限定し、照屋証言、知念証言を偏見をもって眺め、破綻した金城重明証言、富山新順証言、吉川勇助証言の信用性には一切触れるところがない。その証拠評価における偏向には目に余るものがあるが、多面的な「軍の関与」をもって隊長命令の論拠とする飛躍は、そうした原判決の恣意性の表れである。

6 進歩的知識人の黄昏 ~青ざめる大江健三郎~

原判決後の大江健三郎のコメントをテレビで見て驚いた。彼はこう言ったのだ。「私の書いた『沖縄ノート』を裁判官が正しく評価して下さったことに感銘を受けています」と。彼が、全く判決を読まないで記者会見に臨んだことは明らかだった。なぜなら、原判決は、大江がこの裁判のなかで主張したテクスト無視のまやかしの数々については、これを論破した当方の主張を認め、いずれもきっぱりとしりぞけていたからだ。偏向著しい深見裁判長も、さすがに、大江の呆れたまやかしまでは擁護しきれなかったのである。

大江の「まやかし」とは、第1に『沖縄ノート』では、赤松隊長や梅澤隊長の名を伏し、元守備隊長としているのだから、赤松隊長らの名誉を棄損するものではないという匿名論。第2に『沖縄ノート』に書かれている隊長の「命令」とあるものは、軍のタテの構造による日々の活動への圧力ないし時限爆弾としての命令のことであるとするタテの構造命令論ないし時限爆弾命令論。第3に『沖縄ノート』は、両隊長を悪人だと個人攻撃した箇所はなく、曽野綾子が自らを神の視点に置いてする一方的なリンチだとしたのは、「罪の巨塊」の「塊」を「魁」と誤読したことに起因し、赤松秀一も弁護団もこの曽野綾子の誤読に影響されているとする曽野誤読論である。

第1の点は、当時の渡嘉敷島の守備隊長は、赤松隊長であり、座間味島の守備隊長は梅澤隊長ただ一人である。私たち大阪人は、那覇市の市長の名前は知らないが、那覇市の市長が痴漢を働いたとの報道があれば、それが名誉を棄損するものであることは明らかであろう。判決もこの論点は一蹴している。

第2の点は、「命令」を軍のタテの構造の力だとか、時限爆弾の命令だとかいったことを窺わせる解説は、『沖縄ノート』のなかのどこにもないことは大江自身も認めており、判決もまた、「命令」を大江のように読むには、大江の個人的な解説を受けなければ無理であり、「《住民は、部隊の行動をさまたげないために、また食糧を部隊に提供するため、いさぎよく自決せよ》」という命令のことを指すものだとした。

第3の点は、自称保守派の文芸評論家の山崎行太郎がブログ等で喧伝しているものと同じであるが、法廷に出てきた大江が「罪の巨塊」は、集団自決の夥しい数の死体の塊のことだとの講釈を滔々と述べたのには驚かされた。曽野綾子が「巨塊」を「巨魁」と誤読し、死体の塊のことを極悪人だと勘違いしたのだというのだ。断っておくが、曽野綾子の著作は「罪の巨塊」を「巨魁」とした誤りはどこにもない。また、「人間としてつぐなうことは、あまりにも巨きい罪の巨塊の前で、かれはなんとか正気で生き伸びたいとねがう。」の文脈に照らし、一般読者は「罪の巨塊」を、赤松隊長の犯した罪の大きさか、罪にまみれた赤松隊長の姿をいうものと捉えることはあまりにも明らかである。判決は「被告大江は、罪の巨塊とは自決者の死体のことであり、文法的にみて、『巨きい罪の巨塊』が渡嘉敷島の守備隊長をさすと読むことはできないと供述する。しかしながら、沖縄ノートは、全体として文学的な表現が多用され、大江自身、『巨塊』という言葉は日本語にはないが造語として使用した旨供述するように、必ずしも文法的な厳密さを一貫させた作品とは解されない」とし、一般読者はそれを「渡嘉敷島の守備隊長の犯した罪か、守備隊長自身を指しているとの印象を強く抱く者も存するものと思われる」とした。

大江の仰天証言のあと、曽野綾子に感想を尋ねたことがあるが、「そんなくだらないこと、ほっておきなさい。もっと大事なことがあるはずです。大江さんの悪文のせいです」と一蹴された。すべては大江の悪文によるものであった。しかも曽野誤読論は、大江による曽野綾子の文章の悪質な誤読によって生じたものである。誤読による誤読説。「幽霊の正体みたり枯れ尾花」のような話であった。

さて、控訴審の展開にとってなによりも特筆すべき点は、原判決が、『沖縄ノート』が赤松隊長のみならず、梅澤隊長についても名誉毀損していることを認定したことである。この認定が、大江自らの供述に依拠していることを考えると、控訴審でもその事実認定は覆ることはないと思われる。死者である赤松元隊長に対する名誉毀損ではなく、生きている梅澤元隊長に対する名誉毀損が正面から争われることになる。このことは大江・岩波にとって脅威であるはずである。

通常の名誉毀損の枠組みが妥当する梅澤元隊長に関して、大江・岩波に勝ち目がないことは、既に論じ切ったところである。

原判決は、大江が青ざめる判決だったのだ。

7 人間の尊厳について

大江健三郎は、法廷での尋問の様子を朝日新聞の連載コラム「定義集」に取り上げた。そこでは、徳永弁護士からき反対尋問として『ある神話の背景』の一節を読み上げるように求められたと書いてある。戦後、富野少尉が曽野綾子に「むしろ、私が不思議に思うのは、そうして国に殉じるという美しい心で死んだ人たちのことを、なぜ、戦後になってあれは命令で強制されたものだ、という言い方をして、その死の清らかさを自ら貶めてしまうのか。私にはそのことが理解できません。」と語った下りである。大江は、これに対し、「このように言うものこそ、人間の尊厳を貶めるものです。」と大見得を切って反対尋問が終わったことになっていた。

実際には、その尋問をしたのは大江側の弁護士であり、徳永弁護士の反対尋問は、そこからはじまった。わたしは、大江の文章によって無能な弁護士として描かれ、弁護士としての名誉を著しく棄損された。この下りは、後日、朝日新聞紙上において訂正記事がだされたが、大江からはなんの謝罪の言葉もない。

いくらなんでも敵の弁護士と見方の弁護士とを間違えるはずもないし、主尋問と反対尋問を間違えるはずもない。勘違いではありえない。-大江は耄碌しているのか、悪意なのか、この記事に接してからしばらくわたしは考えあぐねたが、今、これは、事実を軽視し、自己の観念を優先させる大江の文学的な手法による常習的なものだという結論に達した。こういうことを平気でやる手合いなのである。

もっと大切なことがある。大江は富野中尉が述べた言葉を捉え返すべきたとしたことをもって、「死の美化」「殉国の思想の復活」だとして、それこそが、人間の尊厳を貶めることだと警鐘を鳴らしている。しかし、徳永はまさにこうした大江の思考こそが、戦後民主主義の落し穴であったと考えているものである。沖縄県史や村史に収録された体験記を読めば、息を飲むような覚悟をもって逍遥として死んでいった村民の自決の実態が描かれている「清らかな尊厳死」というに値するものである。大江の言葉は、その清らかな尊厳死の事実から目を背けるものでしかない。

大江が、サルトルの模倣者であることは、かつて正論に記述したことがあった。今回のウイルの原稿においてもそのことに付言している。サルトルとカミュの論争のことを思わざるをえない。革命のなかで死んでいった踏み石として死んでいった労働者の死をどう考えるかということをめぐる論争だったと記憶している。歴史的必然による歴史の発展法則を基本において死の意味や価値を論じる左翼の論法に対し、カミュは、「シーシュポスの神話」を対峙させた。この論争のことは、靖國神社の英霊を「犬死」だとして貶める靖國訴訟の原告団や反日的な左翼の論法に対して感じた怒りのようなものと結びついている。サルコジ大統領が高校で読み上げるよう指示した「モケの手紙」は、英霊の遺書と通じる。戦前の日本も、共産主義も、歴史のなかで頓挫した理想をかかげていた。その結果や後世の歴史的評価によって、犬死して貶められたり、英雄として讃えられるのだとしたら、人間の尊厳などありはしない。彼らは、国を愛する気持ちとその勇気によって讃えられるべきなのである。

小林秀雄の次の言葉を大江に対する回答としたい。
「過去の時代の歴史的限界性を認めるのはよい。しかし、その歴史的限界性にもかかわらず、その時代の人々が、いかにその時代のたった今を生き抜いたかに対する尊敬の念を忘れてはだめだ。その尊敬の念を忘れたところには、歴史の形骸があるばかりだ」

大江をはじめとする戦後の進歩的知識人に対する我々のプロテキストは、このことに尽きる。あの時代の《たった今》を精一杯に生きた先人に対する尊敬の念を忘れ、後智恵で人々を裁く姿勢そのものが、「人間の尊厳」に対する最大の冒涜なのだ。

以上

i それは、行為時を基準にして調査可能な資料に照らして真実であると判断できるものでなければならないし(平成14 年最高裁判決)、摘示事実との同一性がなければならないとする(平成11 年最高裁判決)。

ii 現在ないし将来の名誉侵害の差止めについて誤信相当性が免責要件とされていないのはそのためである(昭和61 年最高裁判決)。

iii 従って、控訴審は、大江・岩波が隊長命令の真実性を立証する必要に迫られ、原告弁護団は、これを叩くという形をとることになる。皮肉なことに、勝訴した大江側が、挙証責任を負うという状況に追い込まれているのだ。

iv 隊長命令があったことを断定的に事実摘示する表現は改め、それが大江の推論や意見に過ぎないことを読者に分かるよう書き直すことになる。例えば、上地一史著『沖縄戦記』を引用したあとに、「仮にここで述べられていることが本当だとすれば」という留保を書き加えることなどが考えられる。

v 同じく文科省の官僚である銭谷初等中等教育局長は、平成19 年4 月の教育再生特別委員会において、「この点について現在様々な議論があり、例えば近年、当時の関係者等からこの隊長の命令を否定する証言等が出てきている。また沖縄戦に関する研究者の近年の著作において、軍の隊長命令の有無は明確でないという著作もある」と答弁している。

vi 9 名の専門委員のうち、原剛、山室建徳、秦郁彦の3 名は、軍の命令及び強制は無かったと結論付けている。我部政男は、「軍命令」は「軍民一体化」論理の範疇のものとし、高倉倉吉は、軍命の存在を確実に証明できる資料は得られていないとし、外間守善も集団自決を含む責任は日本国にあるというものであり、軍命ないし強制に言及していない。大城将保は、集団自決の原因として「軍官民一体の戦闘」を指摘するが、追い込まれた住民の心理から、「梅澤隊長が自決命令を出していないと主張することは無意味である」というだけであり、その存否についての論証を回避している。軍命を積極的に主張している林博史もまた、自著『戦争と民衆』において、赤松隊長や梅澤隊長からの命令はないとしたことに対する弁解に終始し、「集団自決当日に自決せよという軍命令がなかったと見られるということを書いただけで、軍による強制がなかったということではありません」とするだけである。軍命の論証としては、「渡嘉敷島では軍が手榴弾を事前に与え、『自決』を命じていた」とし、破綻している富山新順の証言を鵜呑みにする主張があるだけである。結局、9 名の専門委員の意見書は、いずれも本件訴訟で真実性が問題となっている隊長の命令を証明する証拠はないとする点においては一致している。

vii 軍の命令や強制を認めなかった訂正結果に対し、沖縄のメディアは「軍が強制を認めず」(沖縄タイムス)「軍の命令を認めず、強制、強要、誘導を認めず」(琉球新報)と報じて不満を表明したが、朝日新聞や毎日新聞は、軍の関与を認めたことを一歩前進と捉えて積極的に評価した。もとより原告弁護団は、軍の関与を否定したことはない。しかし、「軍の関与」は多様であり、命令の存在を否定する「善い関与」も多々あることから、「軍の関与」から「軍命令」を直線的に推論することはできないことは明らかである。

viii 「軍の関与」に関する訂正を広く認めた教科書検定に対しては軍命否定説の陣営においても賛否が分かれている。個人的意見だが、今回の訂正検定は、歓迎すべきことだと考えている。命令がないとすれば、ではなぜ集団自決が生じたのかという疑問が生じる。そのときはじめて、集団自決の実態に関心が集まることになる。命令がなかったことの最大の証拠は、沖縄県史、渡嘉敷村史、座間味村史に収録された集団自決を生き残った方々の体験記なのだ。軍の命令によって集団自決が発生したということは、これまで集団自決の体験者の記録から人々の関心をそらす役割を果たしてきた。戦後民主主義の最大の問題である想像力の貧困が、ここで端的な形をとって表れていることを見て取れる。

ix 集団自決によって負傷した住民に赤松隊の救護班が派遣された事実(『ある神話の背景』)、金城重明が赤松隊長に手当場所の指示を受けた事実(金城証言調書)。死期の近いことを悟った長谷川少尉が傍にいた藤田上等兵と山下伍長に手元の刀を手渡し「自分はもう駄目だから、この日本刀で刺し殺してくれ。それから、この娘たちはちゃんと親元へ届けてやって欲しい。」(『潮だまりの魚たち』宮里郁江)。忠魂碑前から解散後、怪我をして薬を求めてきたハル子に対し、日本兵が「薬はない。雨に濡れているようだけど、危ないよ。軍の中にも、それがもとで、破傷風で死んだ者もいるから、気をつけなさい。こんな怪我をしているのに生きているなんて、あなたは神様みたいな人だね。」(『潮だまりの魚たち』渡慶次ハル子)。忠魂碑前から解散後、「日本兵から『すぐに敵兵はすぐ近くまで攻めて来ていて、危険だから、島の裏海岸を通った方が安全です』と親切に、指示をしてくれました」「途中で、本部に米を届ける日本兵達に遭遇し、少し分けてくれないかと頼むと、主任の山元上等兵に、『分かりました。しかし、私たちも必死の覚悟でいくのですから、生きて戻れるなら、あげましょう』」(『潮だまり』宮里トメ)。


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