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小嶺勇夫『集団自決の重傷者を救け出した』
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渡嘉敷村史資料編(昭和62[1987]年3 月31日出版)p389
集団自決の重傷者を救け出した
渡嘉敷 小嶺勇夫(当時十六歳)
(引用者注)括弧つき小見出しは引用者が付したもので原文にはありません
集団自決の重傷者を救け出した
(鰹船で空襲に遭う)
(役場の連絡員として)
(食糧の苦労)
(日本軍にかくれて山おりる)
(鰹船で空襲に遭う)
一〇・一〇空襲のときは、ぢようど嘉豊丸という鰹船に乗って餌とりをやっている最中でしたね。
他にも源三丸や神祐丸と徴用された船があったが、僕なんか、海に入って餌とっているとき、機銃掃射され、爆弾も落とされて、機関長の古波蔵鉄彦さんが、やられて亡くたり、船は、爆弾が命中して、粉々に砕けて沈みました。
"空襲だ"と気付いてサバニで逃げ出したのです。僕らが逃げ出すころは、えびす丸という軍用船が燃えていましたね。
サバニのまわりは、大きな魚がたくさん浮いて、僕らは、それを掻きわけ掻きわけサバニを漕ぎ、やっとの思いで海岸にたどりつき、アダンのしげみに隠れた。
(役場の連絡員として)
船はないし、遊んでいるわけにもいかないので、役場に仕事を見つけて、軍との連絡員をしていました。
それからですよ、村の人たちが避難小屋や横穴の防空壕を本気になって作りだしたのは。私もイチャジシに避難小屋を作りました。
三月二三日の空襲のときは、村長命令で非常持出しの戸籍簿を持って逃げ出したのですが、雨の中を、あっちこっち逃げまわるうちに紛失してしまいました。
その後、敵が上陸してきたので、村長命令で"上の本部に全員集結するように"といわれたので、村の青年たち二〇名ぐらいで、各壕や避難小屋に伝えてから、役場からサイダーやら缶詰などを貰ってきて、別れの乾杯をして、登っていったのは夜の九時頃で、そこで各自分散して家族のところや知り合いのところに行った。
僕は、北山(ニシヤマ)に金城という親戚の避難小屋があったので、そこに行くと、避難小屋に七・八世帯が一緒に住んでいました。
北山(ニシヤマ)というと、今の玉砕場と呼んでいるところですが、ここで一週間ほど暮らして、イチャジシにある自分の避難小屋に帰りましたが、二日もかかりました。(今だと一時間もかからないところですよ)
(食糧の苦労)
ここに七月の中頃までいたのじゃないかと思います。食糧は米とソテツを貯えてあったので、あんがい困らなかったし、また、近くに日本軍の集積所もあったので、食糧など盗んだりしたものです。
この集積所は、最後に米軍に焼き払われてしまいました。困らないといっても、草の葉やバショーの新芽を入れた雑炊ですよ。
また、焼跡、米軍が焼夷弾で山を全部焼きましたからね。その 焼野が原に、ナガディルーといって、山羊や兎がよく喰う草があるでしょう。
それを入れたり、ンジャナバー(苦菜)やバショーの新芽が半分以上も入った雑炊です。
油や調味料もだいぶ持っていたし、バショーの新芽は、食べられる草をとりつくして後です、アクを抜かないと食べられないし、ゆがいてアク抜き、あれもそうです、ふきも、それでも豚脂がなけれぼ、喉にかかって食べられたものじゃない。
山にいるとき、従兄が、ハブに打たれて、衛生兵の手当で助った、山は焼けているので、ハブも少なくなっていたと思いますよ。
イチャジシも食糧が少なくなって、次は、ウフジシクピーに移って、稲苅りしたのは、ウフジシに移ってか、その前だったかなー。
とにかく、命をつなぐ為にいろいろな事をしました。
他人の畑から芋を掘るのは、誰でもやっていたし、稲を苅るのも、他人の田だろうが、自分のものだろうが、山に一番近い田圃から苅りはじめました。
(日本軍にかくれて山おりる)
あれは、八月十五日に山おりたから、十三日か十四日、僕らの壕に大人たちが集まって、何か相談をして、従兄が村長の証明を持って、米軍のところに行ったのです。
村の人たちを日本軍は監視していたから、見つかったら殺されますから、隠れておりて、米軍と打ぢ合わせをして来た。
僕は、最初どうなっているか、わけが判らなかったですよ。
みんな、山おりる準備をして、サージャーグヮという所まで来て、何か合図をしたら、アメリカ兵がむかえに来てくれたですよ。
村民の命を救ったのは、僕の従兄です、最初に一〇名ぐらいおりて、次つぎにおりて来ました。
それから、今、思い出したけど、玉砕場で負傷したり、生き残っていた人たちを米軍は、裏側から登って来て半分ぐらい助けた、というのか、保護していました。
僕も、五、六名ほど本部に連れていって手当をしましたよ。
今、民宿をしているチングシのおばあさんと息子、それに、その親戚の仲村渠はつ子さんなど。