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皆本義博直話 昭和21年3月

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皆本義博直話 昭和21年3月

聞き書き:中島幸太郎

 「集団自決」事件で名を知られる赤松部隊すなわち海上挺進第三戦隊に所属する第三中隊中島一郎少尉は、昭和20年3月26日の夜、沖縄全体の海上挺進特攻の司令官である第十一船舶団長大町大佐とその一行を、沖縄本島司令部まで護送する特攻艇の操縦手として選抜され、他の一艇と共に米軍上陸前夜の慶良間列島渡嘉敷島を脱出した。

 しかし島の周囲は夥しい米軍艦艇に取り巻かれている。脱出行の成功は期待できるものではなかった。一艇は出発直後に沈没しその乗務者は渡嘉敷等に泳ぎついた。大町大佐を乗せた中島艇は消息を絶ったままとなった。

 戦後、中島一郎の父幸太郎は、本土に復員した赤松部隊関係者に手紙を送ったり面会を求めたりして、息子一郎の死のいきさつを知ろうと奔走した。その経過を一郎の二周忌にあたり幸太郎が綴ったものが、「沖縄戦 殉国日記」(昭和22年3月26日)である。 前半は息子から届いた手紙を中心にした「息子の日記」となり、後半は息子の死の謎を解く「父の日記」となっている。

 その中に赤松嘉次元部隊長や皆本義博元中隊長の手紙や証言があるが、未だ史料としての検討は加えられていないようだ。以下は、中島一郎一周忌を期して、昭和21年3月25日熊本の実家から埼玉県の中島家を弔問した皆本氏から、中島幸太郎が聞き書きした「皆本義博証言」である。なおこの「直話」は、1ヶ月前に届いた皆本氏からの書簡の内容を補充している。

  • 皆本氏が書いた「中島一郎」略歴の後に綴られています。乱丁があったが正常に復しました。送り書きのカタカナはひらがなにしました。漢字の右肩に「*」があるものは原文では旧字のものです。

  • 当稿を引用する方へのお願い:書き起こし文には私の間違いが含まれていますので、其の点を充分にご承知の上引用してください。また引用する方は当ページのURLを、必ず引用文に添えてください。食物の安全を流通過程で保障するのと同じように、資料典拠のトレーサビリティーを確保するためです。原文を独自に解読し直された方はその限りにありません。

(皆本氏が書いた「中島一郎」略歴の後に綴られています。乱丁があったが正常に復しました。送り書きのカタカナはひらがなにしました。漢字の右肩に「*」があるものは原文では旧字のものです。}

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皆本中隊長直話に依り判明せるその後の真*相は左記の次第である

昭和19年8月6日豊浜の幹部候補生隊の通知に依り遥に面会*に行った其の朝已に出発の〓〓面会*する事が出来なかった これは小豆島にある船舶特別幹部候補生隊の教育のため任命〓発したのであった 小豆島に於ける生活は詳細に知ることが出来なかったが是等若い特幹生の指導に当り「純〓なる心情に頭が下る思ひがした」と云いて手紙を寄せたことがあった、小豆島は八月二十八日出発し二十九日広島県江田島に着、船舶練習部第十教育隊に入り隊を整備した、9月1日動員を完結し海上挺身(ママ)第三戦隊第三中隊皆本隊附となった、9月4日宇品に面会*に行った時には既に特攻隊として動員が完了して居たのであった、私達には面会*中特攻隊であることも、既に動員が出て居る事も話に聞かなかった、然し一郎は特攻隊員として、心中既に覚悟は決まって居た事と思はれたが、其の気色を表さず面会*を終ったのであった。

那覇港に到着したのは九月二十六日で鹿児島には九日間も滞在して居た様だ、此の時手紙にて通信できたものと考えられたが其の便りはなかった 那覇市に上陸せず直ちに慶良間に向った、那覇市にある神社の大鳥居を海上遥かに眺めながら出発したのである(皆本さんは復員后宅にこられて那覇の大鳥居を出航の時に見、終戦になりて再び那覇に来た時見たものは唯此の鳥居だけ外には何物もない焼野原であったと述懐して居られた)九月二十七日二十三時隊は慶良間列島渡嘉敷に上陸した、次で十一月十日渡嘉志久に移駐した、茲にて昼*は特幹生の訓練に、防空壕の開鑿に懸命の努力が続*いた、此の附近は総てが珊瑚礁なので防
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空壕は総てノミでなければ掘る事は出来なかった、二月迄に漸く完成することが出来たが、此の壕内は如何なる砲撃にも危険のない完全な安全地帯*であった、訓練は又夜間に於て特別訓練が施された、特攻艇は長さ五米突巾一米突八分のベニヤ板を以て造られた、軽少なもので自動車のエンジンを据付け中央座席は一人乗りで艇の両*側に二本の爆薬を装備したものであった、夜間敵の船団*に襲いかヽり一挙に之を撃破すると云う特攻戦法で輸送船等は船腹に直径十五尺位の大穴を穿ち忽ち沈没すると云う事である、此のため夜間に於ける訓練は最も重要なもので附近の島嶼は如何なる暗夜中でも其の位置状況等を感識するの養成をせられたもので、是が最も大切な訓練であったとの事である(※)、十一月十日部隊は三部隊に分れ第一中隊は南方の阿波連に第二中隊は留利加波(※※)に第三中隊は中央部渡嘉志久に駐在して居った、一郎は第三中隊(皆本隊)で其の第一群長を命ぜられた 一個中隊は中隊長以下三十名で三個の戦闘群に分け一個の戦闘群は群長以下九名となって居た、中隊の編成は中隊長一名、戦闘群長三名、中隊伝令二名各戦闘群員八名宛三軍二十四となって居た
  • ※ 此の頃このような訓練ができる物理的条件が整っていたかどうかは疑問である。「戦落艇」の到着時期、舟艇壕の未完成、など
  • ※※ 留利加波の基地は建設途中で撤収して第二中隊も渡嘉志久に基地を置くことになったが、この聞き書きでは触れられていない

渡嘉志久は無人海岸となって居るが隊が駐屯してからは島の児童達は渡嘉敷より毎日の如く遊びに来た、そして一郎等と非常に親密になって来た、子供達が来ると部落の人たちも亦集って来た 一郎等は兵舎の側の海辺に花壇を造ったり菜園を造ったりした・・・(綴じ込み箇所のため約15字分解読不能)・・・・・
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子供達は兵隊によく懐いて来た 村の人たちの間でも一郎は非常に親まれ人気が良かった、此の辺の事情を皆本さんは「村の住民も中島少尉殿と到る所で君に多大な尊敬を払ひ、かつて住民の声を聞きしに「私達も中島さんの部下になりたい」と之真*に偽はざる声なりて」と書かれて居った

若い特幹生は海辺でよく相撲をとった、其の相手はいつも一郎であった、特幹生は花壇の側で故郷の事を語り合ったのも度々であった、赤い南西の月を眺めながら特攻隊として身を国家に捧げて居るとは云い此の人たちにも故郷には父あり母あり又兄姉弟妹もあった、千里を離れた渡嘉志久の浜に互に胸を抱き合ふて明日の命を知ることの出来ぬ心の中に親を憶ひ更に故郷に居る友達のこと迄憶ったことであろう、是等若い特攻隊員の語る純真*な言葉は、語る者も聞く者も感動の裡に時を過したのであろう、后日神奈川県*の並木実君の手紙はよく之等の消息を伝へてくれた「沖縄本島に収容されて戦友と語るは渡嘉志久に於ける生活であり話題はいつも中島小隊長の身上に落ちて行った、中島さんは今に必ず帰る様な気がする」と書かれてあった
  • (引用者注)この一節は皆本氏からの聞き書きから離れた部分があるようです。

十九年十{(「一」を訂正)月十日那覇に初めて空襲があった事を部隊に報告があったが慶良間は未だ戦〓は起こらなかった

二十年一月十日 陸軍少尉に任官した一郎の通信は一月十一日少尉になったと云って来たが此の通信が最后のものとなったのであった
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三月二十二日第十一船舶団長大町大佐は第五基地隊長鈴木少佐(※)以下副官等を従ひ那覇より慶良間に於ける作戦の状況視察に來島せられた。一般の観測は「敵の侵攻は早くて三月下旬恐らく四月初旬になるだろう」と云うものであった、翌二十三日大町大佐は阿嘉島にあった
  • ※ 第五基地隊長は三池明少佐。元海上挺進第三基地大隊長鈴木少佐と混同している。
渡嘉敷の第三中隊にては二十三日の昼食*を取って居た、看視中の兵より「敵機らしき数機を海上に認む」との急報があった、遥か洋上グラマン戦闘機が八機低空にて渡嘉志久の基〓に来襲した、敵機は投弾することなり、基地上空を旋回して去るかと見る間に再び来襲し数個爆弾を投下して退去した、中隊は俄然緊張し戦闘準備の位置に就いた 此の爆撃に依って軍倉庫は火災を起し外施設に若干の被害を受けた、防空壕の人人等に対し急據隠蔽作業が開始された、其の后八十余機のグラマン戦闘機が来襲し投弾銃撃を受け基地設備に対し被害を受けたのである、三月二十四日敵機三十~四十機常時上空に来襲攻撃を継続*し渡嘉志久の基地設備は更に被害を受けると共に民家も亦被害を受け火災を生じ火勢益々烈しく夜に至り全島は凄惨の状況を呈するに至った、日本軍のため軍民に死傷者続*出し其の収容は隊に於て行われたが兵は危険を冒して之に従事して三月二十五日よりは更に敵は艦砲射撃を併せて実施して来た、彼等は応戦する陣地に対し・・(綴込みのためコピー再現されない約16文字)・・・・・・・
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は何とも敵の攻撃に任せる外術はなかったのである、其のため死傷者は比較的少なかった

大町船団長は当時阿嘉島ヨリ座間味島に移って居たが渡嘉敷に対する敵の攻撃と更に慶良間周辺にある敵艦隊の状況より判断して一刻も猶予する事を得ず、直ちに全部隊を本島に移し一挙に敵を破るべき計画を決心せられ二十五日夜陰に乗じ三池少佐以下十五名を引率し橇舟を以て渡嘉敷に上陸、軍本部に到着せられた、本部に於て渡嘉敷全島に対する敵攻撃の情況を聴取すると共に全戦闘部員に対し沖縄本島転進を下命せられたのである、時既に二十時を過ぎていたのである、尚勤務隊の主力、整備兵の一部及海上勤務隊は渡嘉敷に残留し敵の上陸を邀撃すべき事を決定せられた、各中隊長は本下令に依り海辺に上陸作戦に備ひつつありし兵員並に整備の全兵員に対し特攻艇の泛水作業を命じたのである、此の時兵員は連日連夜の戦闘に疲労極に達して居たが本島進転に勇躍し泛水作業を行ひたるも種々なる悪条件のため進捗容易ならず完了したるは二十六日午前四時に及んだ、西南の夜は明るに一時間余りを余*すのみである 渡嘉志久より沖縄本島迄二十二哩(ママ)を航団を以て航行する時は二時間乃至三時間を要し夜の明け放したる然も百数十隻の敵艦が遊弋する慶良間海峡を横断する事は全艇全滅を来すは火を見るよりも炳(あきらか)にして遂に計画を変更の余儀なきに至ったのである 大町船舶団長は
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此の状情を見一日延期することに決し下令泛水の艇を再び陸上に曳揚隠匿することとなったのである 此の時赤松部隊長は意を決し事茲に至りては〓(※)団全艇を以てする敵艦艇攻撃実行せんとしたるも軍の命令来らず且沖縄方面に待機中の大部隊の特攻艇の計画が曝露する恐〓るを以て赤松部隊長の決心を中止するに至ったのであった、陸上曳揚作業は日出前完了する〓〓〓せられたるも兵員の疲労と日の出迄の時間少なき為進捗せず僅か第三中隊(皆本隊)に於て二艇を曳揚したるに過ぎず日の出迫るに及び大町船団長は最早万策施すに術なく全舟艇に対し最后の震決自沈すべき事を命ずるに至つたのである、特攻艇の若き純真*の人達は宇品出発の時より艇と死生を共にする事を誓つたのである、整備の兵亦生命を賭して愛護し来ったのである、敵の船団を目前にみつヽ之に一撃を加へる事もなく自沈することは到底なし得べき事ではなかった、兵隊は艇内に男泣きに泣いた、然も艇と死を共にすべき事を願った夜は既に明けんとして東天は紅を帯*びて来た、船団長は再び涙を呑みて艇の自沈を命令した、各中隊長は艇内に兵を説得し事茲に至っては萬止むを得ざることを、認めて六十余*隻の特攻艇は次々と渡嘉志久の浜に自らの手によって姿を消して行ったのである、敗者の悲哀が之等純真*なる若き人達に如何なる感激を与えたか〓記するに辞がないのである
  • ※獣扁に「ム」と見える。皆本書簡では「獨」

艇が波間に消え去ると仝時に敵の偵察機が基地を旋回飛来した、大町船団長は本島進転の計画挫折するや三月二十六日夕谷地に隊長外各中隊長等集合せしめ第十一船舶隊
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を直ち沖縄作戦に運用すべきことを痛感し之が指揮の為、今晩を期し敵艦艇群を突破本島に帰任すべく決意を披瀝せられた、之が護送に当りてはニ案があつた、一案は漁船を以て敵の目をのがれ帰隊すること、二は特攻艇による方法であつた、一の漁船については操縦を漁師が承知する者を得なかった、止むなく特攻艇による事〓じた、之が操縦の人選には重大の意義を持つことになつた、二艇は皆本隊の曳揚したものであつた、大町大佐は皆本隊より将校一名下士官一名最も優秀者を選出すべきことを命じた、皆本中隊長は赤松部隊長と協議〓〓中島一郎少尉及竹島伍長とを推挙し本重大任務決行の任を命じたのである 皆本中隊長は一郎に今回*の重大任務決行の経緯を話し一郎を措いて他に其の人無く、任務完遂を依頼されたのである、一郎は従容として、其の大任を拝受し、必ず其の大任を果すべき事を誓った、中隊の全員は壮行会*を開き心より一郎の壮行を祝福した、少ない日本酒を傾けて其の行を盛んにした 一郎はニコニコしつヽ平常と変らず「一寸行つて参ります、明日の晩は必ず帰って御目に懸りませう、何か本島から御土産でも持参しますから」と云う悟道に徹した挨拶であつた、午后十一時整備員に依る泛水に&font(#0a0,90%){(ママ)}行はれ出発準備は完了した、中隊全員は二人の勇士を見送るべく浜辺に出た 岬の方に何か点滅する暗信号があつた、皆本中隊長は直ちに火光を滅することを電話せられた、十三夜の月は中空に懸って居ったが空は薄曇であった十時二十分大町大佐は、鈴木、三池少佐以下部員を率ひて海辺に来られた、一郎の肩をたたいて
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「今晩はしっかり頼むぞ」と挨拶せられた「任務は御心配なく遂行致します」一郎の返事は凛として自信ある言葉であった、軍用行李は当番兵の池田文三軍曹が艇内に積み込んでくれた、本島上陸の場合大町大佐の部下として働くことを予想せられたからであった、十一時三十分一番艇には、大町大佐、鈴木少佐、山口中尉、操縦として一郎外に土肥技伍長、二番艇には三池少佐、新海中尉、木村少尉、竹島伍長、田中技上等兵が乗船した。大町大佐は「途中万一遭難することあるも両*艇は互いに救助し合はず一路那覇港目指して直行すべし」と云う訓示を輿へた十一時三十分、赤松部隊長以下中隊全員の静寂なる心よりの見送りを受けつヽ両*艇は島伝ひに北進出航したのである、航路は渡嘉敷北方を過ぎて儀志布島を経て針路を東にとり前島南方より那覇に向かって北東上するものであった、二番艇は儀志布島南方に於て東方に変針の直后連日の爆撃にて破損の個所に亀裂を生じ航行中拡大遂に浸水故障を生じ航行不能に陥り乗組員必至の努力功なく沈没するに至った、三池少佐以下全員遊泳によって辛うじて渡嘉敷島に帰着することを得た 是等遭難の報を得本隊よりは南少尉以下五名救護のため派遣せられた、一番艇は事故なく、二番艇の遭難は知るも「互に救助し合はず」の命に従ひ一路前進当時艇尾波を立てて前島南方を航進なりしことを認めたとの事であった一番艇は途中故障なければ二十七時(印刷後「日」と上書き訂正の痕)午前二時頃には沖縄本島に着する筈である本島船舶軍に連絡するも「大町隊長未だ帰島せず」との事にて、再度照会*するも其
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消息判明せず、特攻艇は小舟の事とて無電装置なく其の后の情報を知るを得ず、前島南方を那覇に向かって前進中を二番艇遭難者により望見せるを最后として、遂に其の消息を失うに至ったのである、那覇に於ける船舶団本部に於ても団長の消息不明は大いなる衝動を与へた、総ゆる方途を講じて本島間は勿論、神山島、前島並に其の附近の島嶼は漁船等を使用して総ゆる捜索を行なった、然し其の探査には何の得る所もなく消息は迷宮に入ってしまった、

其の后に於ける渡嘉敷島は敵の上陸する所となり部隊は応*戦するにも既に刀折れ矢尽*きたるの状況にして止むなく伝*令により阿波連、渡嘉志久等基地を発して谷間伝*ひに北進、北端の留利加波に集合茲を根據として糧秣、兵器、弾*薬なき防備に苦闘を重ねつヽ終戦まで頑張り八月二十五日、武装を解除し遂に戦闘を終わるに至った、此の間戦没者は勿論糧食の不足に依り兵は次々と斃れ其の三分の一を失ふに至った(兵二〇〇名の内六十九名戦病死し外一般従軍者七十名程戦病死者を生じた)

終戦后之等軍部隊は沖縄本島に移転せられた、大町大佐以下の情況を質すに杳として判明せず、一番艇は「八の十一号」の記号艇により難破により破片の捜索をなしたる之亦発見するに至らずして遂に手の下し様がなかった 本島に於ては大町船舶団長に対する種々なるデマが飛んだ「大町大佐以下米軍に捕はれて南方グァム島にあり」とか「洋上の無人島に漂着しロビンソン式の
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生活をなしつヽあり」とか憶測は種々流布せられた、然し当地前島附近より沖縄本島近く百数隻の敵艦が遊弋して居た、十三夜の月明、小艇なるも艇尾の波により発見せられたるか又は自動車エンヂンによる雷気発火は直ちに電波探知機に感じて敵駆逐艦又は水雷艇によりて襲撃せられ全員壮烈なる戦死を遂げたるものと認定するの外なく又然るべくして散華したものと思はるヽのである、

一郎の遺品は軍用行李を艇に積込んだ事により何物もなかった、嘗て宇品出発の時特攻隊を編成せらるヽや隊員は皆遺髪を船舶管理部に残したのであった、其の時皆本中隊長に従ひ一郎は特攻艇受取りのため出張中で遺髪を残すことなく早々として宇品を出航した、皆本中隊長は之等の事を能く知って居た、中隊長は一郎の心情を憶ひ且遺族のことを憶ふ時痛心切なるものがあった「彼が居室の附近に花壇を造った、其の中に真*白き光ある石を発見し、せめてはこの美しき小石を遺骨として遺族に届け中島少尉の霊を弔はん」との御厚情により態々慶良間列島渡嘉志久の海辺より御持参下されたのである(※)、三月二十五日熊本県泗水の自宅より皆本中隊長の温き胸に抱かれて懐かしの故郷へ帰ることができた、一度戦場に出づれば生還を期せざる事は豫て覚悟した所であり、且特攻隊として身も心も国家に捧げた一郎の事であった、然し目前に姿の変わった一郎の帰還を迎えた吾等遺族は痛心哀惜の情禁ずるを得なかった唯々合掌黙祷して冥福を祈るのみである、(約3字分空白) 終戦后八月二十三日留利加波の山上に白旗を掲げ全軍降伏の状を示し全員渡嘉敷の部落に下山小学校に於て休戦降伏の協定をした、下山する時すでに武装解除した、直ち座間味に米軍
  • ※ 折角の美談に水を注したくありませんが、「一番艇」が絶望となった昭和20年3月27日夜以降この直話を語る時まで、皆本中隊長が渡嘉志久の旧兵舎を訪れる機会があったかどうかは、「陣中日誌」などを読む限り甚だ疑問大しです。赤松隊(第三戦隊)が米軍に投降するに当っては、亡くなった隊員の遺骨の帰国ということが生存隊員の新たな「任務」となったことは間違いありません。其の中で、海上で遭難し行方不明となった中島隊員の「遺骨」に代わるものが苦心されたことは充分考えられます。
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の本部ある故座間味島に米軍の船にて移転八月二十五日迄在島、二十六日沖縄本島石川と云う部落に着、二十一年一月七日発一月十日復員する迄此の地に滞在した



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