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金光翔「<佐藤優現象>批判」4/4

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金光翔「<佐藤優現象>批判」4/4 註

(『インパクション』第160号(2007年11月刊)掲載)
金光翔(キム・ガンサン)一九七六年生まれ。会社員。韓国国籍の在日朝鮮人三世。gskim2000@gmail.com

目次
  • 金光翔「<佐藤優現象>批判」1/4
    • 1.はじめに
    • 2.佐藤優の右派メディアでの主張
      • (1)歴史認識について
      • (2)対北朝鮮外交について
      • (3)朝鮮総連への政治弾圧について
    • 3.佐藤優による主張の使い分け
    • 4.佐藤優へ傾倒する護憲派ジャーナリズム
  • 金光翔「<佐藤優現象>批判」2/4
    • 5.なぜ護憲派ジャーナリズムは佐藤を重用するのか?
      • (1)ナショナリズム論
      • (2)ポピュリズム論
      • (3) 格差社会論
      • (4)「硬直した左右の二項対立図式を打破」―〈左〉の忌避
    • 6.「人民戦線」という罠
      • (1)「ファシズム政権の樹立」に抗するために、人民戦線的な観点から佐藤を擁護する
      • (2)「論壇」での生き残りを図るために、佐藤を擁護する
    • 7.「国民戦線」としての「人民戦線」
    • 8.改憲問題と〈佐藤優現象〉
  • 金光翔「<佐藤優現象>批判」3/4
    • 9.「平和基本法」から〈佐藤優現象〉へ
    • 10.おわりに

※『インパクション』掲載時の傍線は下線に、傍点は太字に、それぞれ改めている。
※※ 誤字・出版社による表記ミスを、適宜改めた。(2008年7月7日))



(1)岩波書店労働組合「壁新聞」二八一九号(二〇〇七年四月)。

(2)ブログ「猫を償うに猫をもってせよ」二〇〇七年五月一六日付。

(3)ただし、編集者は佐藤が右翼であることを百も承知の上で使っていることを付言しておく。〈騙されている〉わけではない。

(4)「佐藤優という罠」(『AERA』二〇〇七年四月二三日号)中のコメントより。

(5)インターネットサイト「フジサンケイ ビジネスアイ」でほぼ週一回連載中の〈ラスプーチンと呼ばれた男 佐藤優の地球を斬る〉(以下、〈地球を斬る〉)二〇〇七年三月一五日「6カ国協議の真実とは」。

(6)馬場公彦は、「一九三〇年代以降の中国侵略を皮切りに東アジアへの領土・利権の拡張をもたらした植民地主義を清算し、三〇年代に再帰しないために新たな東アジア地域主義を模索していく必要がある」と述べている(馬場公彦「ポスト冷戦期における東アジア歴史問題の諸相」『アジア太平洋討究』第四号、二〇〇二年三月)。馬場にとって、朝鮮の植民地化のプロセスや植民地支配は、「植民地主義」ではないらしい。佐藤の認識との共通性が露呈している。
  なお、『獄中記』では、「北朝鮮人」(一四頁)、「僕は韓国語でなく、朝鮮語を勉強した」(三七八頁)という表現がある。佐藤は、「韓国語とは語彙や敬語の体系が違う「朝鮮語」」(「即興政治論」『東京新聞』二〇〇七年九月一八日)とインタビューで答えているので(恐らく、朝鮮語のカギカッコは記者だろう)、佐藤は本気で「韓国語」と「朝鮮語」を別物としたいのだろう。この規定は、以下のような「国益」上の判断から来ていると思われる。「僕(注・佐藤)は、朝鮮半島が統一されて大韓国ができるシナリオより、北が生き残るほうが日本には良いと思う。統一されて強大になった韓国が日本に友好的になることはあり得ないからね」(〈緊急編集部対談VOl.1 佐藤優×河合洋一郎〉雑誌『KING』(講談社)ホームページより)。植民地支配・冷戦体制固定化による民族分断への責任を無視する、帝国主義者らしい発言である。なお、『獄中記』には、「本文の脚注には編集を担当した馬場公彦氏(学術一般書編集部編集長)につけていただいた部分と筆者(注・佐藤)が書き下ろした部分がある」(四六一頁)とあるが、こうした表記・用法に関する注やカギカッコはないから、岩波書店は会社として、こうした表現を認めていることになる。〈平和〉〈人権〉を放棄するのはさておき、〈学術〉まで放棄してしまうのはいかがなものか。

(7)〈地球を斬る〉二〇〇七年三月二九日「安倍政権の歴史認識」。

(8)斎藤貴男「佐藤優という迷宮・」『週刊読書人』二〇〇七年六月一日号。

(9)〈地球を斬る〉二〇〇六年七月六日「彼我の拉致問題」。

(10)佐藤優「六者協議と山崎氏訪朝をどう評価するか」『金曜日』二〇〇七年一月一九日号。なお、『金曜日』二〇〇七年九月二八日号は、「福田康夫はなぜ嫌われるか」なる「特別取材班」による記事を掲載しており、ここでは、「一時帰国・した五人の(注・拉致)被害者を北朝鮮に帰す方向で動いていた」福田について、「福田氏に「私の手で拉致問題を解決する」と(注・拉致被害者家族が)言われても、容易に信じられるはずがない」としている。また、二〇〇一年一二月の「不審船」事件についても、公海上での撃沈・殺人という日本側の問題に触れないどころか、当時官房長官だった福田の軟弱(?)な対応振りを非難している。かつては北朝鮮バッシングに抗していた『金曜日』が、〈佐藤優現象〉の過程で、対北朝鮮外交に関して路線転換した(しつつある)ことが読み取れる。近いうちに来るであろう日本と北朝鮮の手打ちにより、戦後補償が切り捨てられることは徹底的に批判されなければならないが、ここにはそうした問題を提起する足場すらない。

(11)〈地球を斬る〉二〇〇七年三月二二日「北朝鮮の情報操作」。

(12)「原田武夫国際戦略情報研究所公式ブログ」二〇〇七年五月一三日付。

(13)〈地球を斬る〉二〇〇六年四月一三日「北朝鮮からのシグナル」。

(14)佐藤優「対北朝鮮外交のプランを立てよと命じられたら」『別冊正論Extra 02決定版 反日に打ち勝つ!日韓・日朝歴史の真実』二〇〇六年七月。

(15)佐藤優・和田春樹「対談 北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)問題をどう見るか」『情況』二〇〇七年一・二月号。そもそも特定組織への政治弾圧には原則的に反対すべきであると考えるが、「すでに在日は朝鮮総連の必要性を認めていないだけでなく、朝鮮民族が日本で生活していく上で有害な組織と認識し始めている」(金賛汀『朝鮮総連』新潮新書、二〇〇四年五月、二〇〇頁)などという言説が大手を振ってまかり通っている以上、朝鮮総連を潰そうという動きにはより明確に反対せざるを得ない。総連が数多くの誤りを犯してきたことは確かだが、在日朝鮮人団体(韓国国籍・朝鮮籍・日本国籍は問わない)のうち、大衆レベルでいまだに機能しているほとんど唯一の団体であることは明らかではないか。大衆団体も民族教育もない状況での(金賛汀の言う)「日本社会との共生」が、若い世代においては、ごく一部の知識層の韓国国籍・朝鮮籍保持と大多数の帰化に帰結することは自明だろう。総連バッシングを容認・黙認しているリベラル・左派の多くは、少し前までは「共生」「多文化主義」を擁護していたような気がするのだが。

(16)〈地球を斬る〉二〇〇七年八月八日「米下院の慰安婦決議(上)」。

(17)佐藤優「米「慰安婦」決議と過去の過ちを克服する道」『金曜日』二〇〇七年八月一〇日号。なお、佐藤の記事は、米下院「慰安婦」決議に関する梶村太一郎「これが「慰安婦」についての動かぬ史実 議員立法で補償の実現を」の次に掲載されている。決議に関する明白な両論併記であり、「人権」を掲げる同誌にとって記念すべき号と言える。なお、片山貴夫は、注(7)で引用した佐藤の「慰安婦」決議に関する文章を今年三月二九日に北村肇編集長にメールで示し、注意を促していたというから(「片山貴夫のブログ」二〇〇七年五月三一日付)、『金曜日』は確信犯だった、と言える。

(18)〈地球を斬る〉二〇〇七年八月八日「米下院の慰安婦決議(上)」。

(19)〈地球を斬る〉二〇〇七年八月一五日「米下院の慰安婦決議(下)」。

(20)「「慰安婦」決議再提出へ 米議会日本政府の責任問う・ 日本の妨害判明」『しんぶん赤旗』二〇〇六年一二月七日、「日本慰安婦決議案・阻止のためにあがくが…」『中央日報(日本語版ホームページ)二〇〇七年七月二〇日、ほか。

(21)森達也・大塚英志「「石橋・中曽根論争」をどう読むか」『新現実』Vol.4 二〇〇七年四月。対談は二〇〇七年二月九日付。

(22)『金曜日』二〇〇七年五月一一日号。

(23)ブログ「猫を償うに猫をもってせよ」二〇〇七年五月二四日付。

(24)佐藤が『金曜日』で連載「佐藤優の飛耳長目」を開始したのは二〇〇六年三月一〇号からであるが、興味深いことに、ほぼ同時期の二月一七日号で、国民投票法案に関する『金曜日』のスタンスが制定阻止から変化している(同号「編集後記」糟谷廣一郎執筆箇所参照)。この号から、手続法制定派の今井一が『金曜日』誌面に頻繁に登場し、二〇〇七年三月の国民投票法案公聴会には、与党の推薦で出席しているが、『金曜日』は今井のそうした活動の問題性を問うこと無く、国民投票法成立直後に発刊された二〇〇七年五月一一日号にも今井は登場して自説を展開している(坂本修との対談。対談自体は成立前の「四月二五日収録」とある)。その号の編集後記で糟谷は、「手続法成立反対の立場からは、(注・手続法制定派が)まるで改憲派に加担しているかのような非難があることは承知している。しかし、これから発議・投票と進むなかでは、解釈改憲と明文改憲による「九条改悪を阻止する」で一致しておきたい。同じ九条護憲の立場同士で近親憎悪のような不毛な対立はしたくない」と述べている。自分たちが国民投票法成立に貢献しておきながら、批判を封じるという醜悪な振る舞いを演じている。佐藤優への極端な入れ込みと全く同様に、「平和」「人権」を守る目的から見れば誤って敷かれたレールが、その後の展開で犯罪性と醜悪さを拡大していることは明白であるにもかかわらず、自分たちの誤りを認める最低限の勇気と社会的責任感を欠いているために、これまでの誤った方針を一層強化することで(当然、犯罪性と醜悪さはより一層拡大する)、自分たちは誤っていなかったと正当化しようとしている。『金曜日』は定期購読者が支えているらしいから、本気で「平和」「人権」を守りたいと考えている人間は、編集部の体制が変わるまで同誌の購読・購買を「ボイコット」すべきではないか。
  また、何か事件があった際に、専門家ではない有名人や文化人にコメントを求める傾向も、この頃から顕著になりはじめるように思われる。便宜上、この傾向を「護憲派のポピュリズム化」と呼んでおこう。例えば、この時期にライブドア事件が起こっているが、そこで「二人の識者」としてコメントが求められているのは、高村薫と香山リカである(「ライブドア事件をどう読み解くか」『金曜日』二〇〇六年二月三日号)。この後、香山リカは、『金曜日』誌面に頻繁に登場するようになる。こうした「護憲派のポピュリズム化」の中に、「護憲」や「平和」について有名人や文化人のメッセージを求める傾向、広告的なキャッチコピーによる「わかりやすい」護憲のメッセージを打ち出していこうという傾向を加えてもいいだろう。こうした傾向が相まって、現在の『金曜日』の、誰に読まれたいのか分からない、ぬるい誌面が構成されていると思われる。
  なお、二〇〇六年二月前後にある程度まとまった、こうした動きは、二〇〇五年九月一一日の衆議院選挙における自民党圧勝への驚愕・絶望から生じていると、ここでは仮説を立てておきたい。

(25)「片山貴夫のブログ」二〇〇七年六月二日付。なお、同ブログは、佐藤優を重用するリベラル・左派を徹底的に批判しており、私も多くを学んている。

(26)〈地球を斬る〉二〇〇七年六月六日「新帝国主義の選択肢」。

(27)『国家と神とマルクス』太陽企画出版、二〇〇七年四月、一九四~一九五頁。

(28)笑うべきことに、『金曜日』は二〇〇七年九月二一日号から「解釈改憲論に勝ち抜くための論理」なるシリーズを開始している。『金曜日』はまず佐藤と勝負すべきではないのか。

(29)『国家の罠』新潮社、二〇〇五年三月、三九八頁。

(30)上野千鶴子「金富子氏への反論」『インパクション』一五九号、二〇〇七年九月。なお、反論対象となっているのは金富子「「慰安婦」問題と脱植民地主義」『インパクション』一五八号、二〇〇七年七月。徐京植は既に、上野との論争の中で、「ナショナリズムは悪だ、なぜならそれはナショナリズムだから―そんな粗雑な循環論法が流通している空間では、いったんナショナリストというレッテルを貼られそうになった者は、なにはともあれ自分からその致命的なレッテルを剥がそうと懸命になるほかないようだ」と、上野の言説が前提としているものを指摘している(日本の戦争責任資料センター編『ナショナリズムと「慰安婦」問題』青木書店、一九九八年、一六八頁)。なお、金富子は、「粗雑であるばかりでなく、フェミニズムからもほど遠く、日本と韓国の歴史修正主義者たちに親和的な歴史認識・現状認識が、二一世紀に韓国の「日本学」研究者(注・金富子が同論文で批判する朴裕河)から提起され、それが日本の「良心的」知識人、マスコミ、フェミニストなどによって「お墨付き」をもらうという倒錯的状況」を「危機的」だとしている。この「倒錯的状況」は、〈佐藤優現象〉と間違いなく同質の問題性を含んでいる。それにしても、朴裕河ブーム(?)にせよ〈佐藤優現象〉にせよ、まとまった形で批判したのが在日朝鮮人しかいないという日本の(特に左派の)現状の悲惨さに呆れざるを得ない。

(31)馬場公彦「戦後東アジア心象地図の中の日本」『中国21』第10号、二〇〇一年一月。

(32)前掲「ポスト冷戦期における東アジア歴史問題の諸相」。

(33)〈地球を斬る〉二〇〇七年九月一二日「外相交代と対露外交(上)」。佐藤は「国権主義者」を自任しているが、だとすれば中韓の「ナショナリズム」には肯定的であるべきだろう。自分は右翼を自任しておきながら他国のナショナリズムは否定するのならば、ネット右翼と同じだ。なお、佐藤の議論に共感し、近年の中国の「ナショナリズム」を批判するリベラル・左派は、戦前の中国の反帝・抗日ナショナリズムと近年の「ナショナリズム」は違うのか、戦前の中国のナショナリズムをどう評価するのか、説明すべきであろう。

(34)「反日ナショナリズム」の核心は、「いままで日本に対して、われわれ周りが甘すぎたから、日本はドイツみたいになれなかったんだよ。ドイツがすべてよいかどうかは別にして」(劉彩品「私は「反日」と言ってはばからない」『前夜』第八号、二〇〇六年夏号)という民衆の状況認識であると思われる。問われているのは、「反日運動」が「ナショナリズム」かどうか、という問題ではない。この認識の妥当性である。そして、私は、この認識の妥当性を全面的に肯定する。それを「ナショナリズム」と呼ぶならばそれはそれでよい。「反日ナショナリズム」に関して、本文中では日本のメディアでの用法に準じたが、私自身は肯定していることを付言しておく。

(35)前掲「ポスト冷戦期における東アジア歴史問題の諸相」。

(36)佐藤が高橋哲哉を批判していることも、リベラルに好まれる一要因になっていると思われる 。高橋の正論を「左翼」とレッテルを貼って否定しようとする衝動は、リベラルまで含めたマスコミ関係者には確実にある。佐藤には、そうした衝動がよく分かっているのだと思われる。

(37)上村の主張は、以下の発言を想起させる。「『イスラエルがパレスチナ人に対してやっていることがテロの原因ではなく、ただ私たちイスラエル人を憎んでいるからやるのだ』というのが右派の言い分です」(イスラエル人平和活動家の発言。土井敏邦『現地ルポ パレスチナの声、イスラエルの声』岩波書店、二〇〇四年四月、一八六頁)。上村のこんな文章を真に受けたら、若い読者が、「政治とは無関係に、中国人は日本人をただ憎んでいる」と思うようになることは明らかだろう。上村は、毎日新聞の記者を長く務め、2ちゃんねるでは適切にも「中国版黒田勝弘」と命名されている。中国への謝罪は済んだとして、「日本は戦後60年、摩擦や対立を過度に恐れ、避けよう避けようと懸命になってきた。そろそろ、対立すべき時は対立し、その上でそれを乗り越えるための努力をする時期が来ているように思う」(『毎日新聞』二〇〇五年一月五日)と提唱している人物である。同書の刊行は、近年の岩波ジュニア新書の右傾化の一つの象徴であろう。

(38)大沼保昭『「慰安婦問題」とは何だったのか』(中公新書、二〇〇七年六月)。大沼は、米国下院での慰安婦決議に関連して、「アジア女性基金の業績は、ドイツを含めた他の国々と比較しても、決して見劣りするものではなく、胸を張ってよいものだと思います。ただ、それが世界に理解してもらえなかったのは、日本政府とアジア女性基金の広報能力に決定的な欠陥があったからだと思います」と述べている(秦郁彦・大沼保昭・荒井信一「激論「従軍慰安婦」置き去りにされた真実」(『諸君』二〇〇七年七月号)。この発言は、「国民基金」の政治的役割を、大沼がよく自覚していることを示している。なお、以下でも触れるが、「国民基金」の呼びかけ人の一人である和田春樹は、佐藤の盟友である。

(39)これは、イスラエルの九〇年代のリベラル・左派主導による、それ自体が抑圧であった対パレスチナ「和平政策」が第二次インティファーダによって頓挫し、右派の強硬策の支持に回ることと同じ構図である。

(40)この段落での引用は、上野千鶴子『生き延びるための思想』岩波書店、二〇〇六年二月、第六章から。

(41)渡辺治「「構造改革」政治時代の幕開け」『現代思想』二〇〇五年一二月号。

(42)佐藤優「民族の罠 第五回」『世界』二〇〇五年一一月号。

(43)渡辺治『構造改革政治の時代―小泉政権論』花伝社、二〇〇五年。

(44)〈地球を斬る〉二〇〇七年九月五日「日本国家の弱体化に歯止めを」。

(45)「ゴー宣・暫」第五幕第一場『SAPIO』二〇〇七年三月二八日号。

(46)「民族の罠 第六回」『世界』二〇〇五年一二月号。

(47)このことは佐藤には明瞭に自覚されていると思われる。佐藤は、〈地球を斬る〉では、「山口教授をはじめとするまじめな左翼、市民主義陣営の声に、保守の側が真剣に対応することが日本の社会と国家を強化するために必要と思う」と述べている(前掲「日本国家の弱体化に歯止めを」)。一見、本文で引用した「バカの壁」云々と同じことを言っているように見えるが、重要な違いがある。『世界』での「バカの壁」云々の文章では、〈左右図式〉自体が否定されているのに対して、佐藤はここでは、「保守」が「左翼」と対峙するという枠組みを何ら否定していない。

(48)護憲派ジャーナリズムが、自らが「左」であることを担保しながら「左」であることを否定する態度は、〈佐藤優現象〉の成立・拡大の一因になっていると思われる。そのことを、片山貴夫と『金曜日』北村肇編集長とのメールでのやり取りから考えよう(以下、引用は「片山貴夫のブログ」二〇〇七年六月二日付より)。北村は、
 ①「佐藤さんにコラムを依頼したのは、単なる「右派論客」とはみていないからです。実際、何回か話をしたのですが、一流の思想家です。何かと刺激を受けることも多い人物です。岩波書店の編集者や斎藤貴男さん、魚住昭さんらが懇意にしているのも、その「実力」を知ったからと推察します。」(二〇〇七年三月五日付)
 ②「佐藤氏の「物の見方」と編集部のそれが同一しているわけではありません。場合によっては誌上での討論もありえます。しかし、コラムニストから降りてもらうようなことは考えていません。次元の違う問題と思います。/本誌は「論争する雑誌」としてスタートしました。必ずしも考え方の一致しない著者の登場は、多くの読者から支持されてもいます。」(三月二七日付)と述べているが、興味深いのは、二つの返信の矛盾である。すなわち、①は、『金曜日』が「左」であることを前提とした上での弁明だが、②は、『金曜日』が「左」であることを否定した弁明となっている。『金曜日』は、「左」であることの自己否定と、「左」であるとの自己規定が並存しているのである。本文で述べたように、佐藤を護憲派ジャーナリズムが使うのは、「左」であることの自己否定が一因である。ところが、自分たちが「左」であると自己規定するからこそ、佐藤が「〈左右の図式〉を超えて活躍する一流の思想家」であるという表象が世間で作り出される。かくして、護憲派ジャーナリズムが「左」であることを自己否定するために佐藤を使うことは、その表象に基づいてより容易に遂行される、というからくりが生まれる。

(49)この「5」で挙げた論点から考えると、注(24)で指摘した「護憲派のポピュリズム化」と〈佐藤優現象〉との問題の同質性を確認することができる。
  例を挙げよう。井筒和幸ほか『憲法を変えて戦争へ行こう という世の中にしないための一八人の発言』(岩波ブックレット、二〇〇五年八月)は、一八人の著名人のメッセージが掲載されており、二〇〇五年八月上旬に、中央紙・ブロック紙・地方紙の計四二紙に一頁全面広告で掲載されたが、この広告で使われようとしたキャッチコピーで「今回の趣旨を具現化した言葉」として挙げているのは、「確かに、ムカツク国はある。/だからこそ、キレてはいけないのです。」である(ただし、実際には採用されなかった。「今月の広告時評 憲法九条を広告・する」『広告批評』二〇〇五年九月号)。ここでの「ムカツク国」が、北朝鮮を指していると一般的に解釈されることは、二〇〇五年八月時点において(そして現在でも)、議論の余地はない。ここには、〈佐藤優現象〉と同じ、北朝鮮を「敵」として自明視する姿勢が、鮮明に表れている。無論、こうした広告が世に出た際に、在日朝鮮人が被る被害への呵責の念など欠片もあるまい。
  「護憲派のポピュリズム化」は、この「5」で挙げた論点を当てはめれば、「反日」の訴えを正当に受け止めない姿勢・衝動を持ち(①)、愚民観を持ち(②)、若者向けであり(③)、主張のいかんを超えた有名人・文化人を志向している(④)、といった点からも、〈佐藤優現象〉と共通点を持つ。そして、北朝鮮敵視と在日朝鮮人の人権の無視が、そのコロラリーである。

(50)「民族の罠 第六回」『世界』二〇〇五年一二月号。

(51)佐藤優・魚住昭『ナショナリズムという迷宮』朝日新聞社、二〇〇六年一二月、二五二頁。

(52)佐藤優「集団自決の教科書検定問題で文部官僚を追い込め」『金曜日』二〇〇七年九月一四日号。佐藤ら右派が「日米同盟」の堅持を主張しながら、集団自決に関する教科書検定で文科省を批判することはおかしくない。アメリカの有力シンクタンクも、沖縄での米軍基地の拡張・新設にあたって、「台湾海峡という紛争水域周辺の重要な地域に足場を確保するために」、沖縄に海兵隊撤退などの「見返り」を与えることを主張している(浅井基文『集団的自衛権と日本国憲法』集英社新書、二〇〇二年二月、六三頁)。「見返り」には、歴史認識に関する沖縄の声に日本政府が配慮することも含まれよう。無論、「日米同盟」を支持するリベラルによる文科省批判も、同様の計算が多かれ少なかれ働いていると見るべきだろう。

(53)「5①」でも指摘したが、リベラルはすでに日本の過去清算は終わったものと認識しているのだから、論理上、在日朝鮮人が特別永住者として韓国国籍・朝鮮籍のままでいることを否定することになる。なお、総連弾圧と並行して、坂中英徳・浅川晃広を中心とし、在日朝鮮人の日本国籍取得を推進する主張が論壇上で活発に展開されていることにも留意する必要がある。坂中が民族団体を「日本国籍の取得を徹底的に拒否してきた」として激しく攻撃することからもわかるように、総連の消滅は、在日朝鮮人を「コリア系日本人」とするプロジェクトにとって、これ以上ない贈物であろう。詳しくは、宋安鍾「「コリア系日本人」化プロジェクトの位相を探る」『現代思想』二〇〇七年六月号参照。

(54)2ちゃんねるなどに見られる差別書き込みは、「ネタ」として若者が交流するためのツールであって、排外主義ではないとする解釈は、その典型だろう。在日朝鮮人の人権を守るのではなく、ネット右翼に「ネタ」というエサを与えて飼い慣らしておいた方が、社会統合上、よいということだ。なお、九〇年代以降、多くの先進国で排外主義が活発化したことが報告されているが、背景としては、単に「グローバリゼーションで没落した人、没落しそうな人が、排外主義の基盤になっている」だけではなく、ここで指摘したような構図があるように思われる。すなわち、グローバリゼーションによる「国民」統合の失敗を回避するために、マイノリティに対する排外主義の動きを、リベラルが容認・黙認する、という構図である。

(55)馬場は言う。「戦後の日本・日本人に対する強烈な同化への欲望と、それに匹敵するほどの反発と不信が同居する彼らの様々な葛藤や矛盾は、「在日問題」として、日本政府・自治体に対する権利要求、人々の偏見に対するクリティカルな言論活動、自らのアイデンティティを掘り下げ表現した「在日文学」や「在日」による様々な芸術活動の中で展開されている」(前掲「戦後東アジア心象地図の中の日本」)。この叙述には、「在日問題」とは、在日朝鮮人の直面する社会的・法的差別や人権侵害のことではなく、「在日」の存在自体のことであるとする馬場の意識が露呈している。また、「不公平な弱者救済を受ける人間」として、「もはや差別などほとんど無きに等しいのに今だに非差別者としての特権のみを得ている、女性や在日や部落」を挙げる(「深夜のシマネコBlog」二〇〇六年九月一五日付)赤木智弘が、「論壇」や若年者労働運動で持てはやされるのも、ここで指摘したことの一側面であろう。
  なお、佐藤は、日本がファシズムの時代になり、「国家に依存しないでも自分たちのネットワークで成立できる部落解放同盟やJR総連の人たち」が叩き潰されると、左右のメディアも弾圧されて結局何もなくなると主張する(「国家の論理と国策操作」『マスコミ市民』二〇〇七年九月号)。ところが、佐藤は同じ論文で、緒方重威元公安調査庁長官の逮捕について、「国民のコンセンサスを得ながら朝鮮総連の力を弱める国策のなかで、今回の事件を(注・検察は)うまく使っている」と述べており(傍点引用者)、朝鮮総連の政治弾圧には肯定的である。この二重基準に、「国民戦線」の論理がよく表れている。「国民戦線」の下では、「人権」等の普遍的権利に基づかない「国民のコンセンサス」によってマイノリティが恣意的に(従属的)包摂/排除されることになる。

(56)原型は、古関彰一・鈴木佑司・高橋進・高柳先男・坪井善明・前田哲男・山口二郎・山口定・和田春樹「共同提言「平和基本法」をつくろう」『世界』一九九三年四月号。その後、同「共同提言 アジア・太平洋地域安保を構想する」『世界』一九九四年一二月号、古関彰一・前田哲男・山口二郎・和田春樹「共同提言 憲法九条維持のもとで、いかなる安全保障政策が可能か」『世界』二〇〇五年六月号、が発表されている。二〇〇五年版では、恐らく政治情勢上の判断から、論理や表現がぼかされているので、ここでは一九九三年版に基づいて論じている。

(57)「自衛隊合憲論ではない」としているが、「平和基本法が成立したとき、国会は国土警備隊(注・自衛隊の名称を変えたもの)を合憲と認める」とあるので、明らかな自衛隊合憲論である。

(58)国連軍への「参加は慎重にすべき」とあるが、「「国連軍」を、各国と協力しつつ具体的な形で提案する」ともある。なお、同提言は、「国際(国連)警察的な活動」に参加するのは「日本部隊」であって軍隊ではないとする。だが、同「部隊」が任務とするのは「非軍事を中心とする国連の平和維持活動など」であって(傍点引用者)、軍事参加が否定されているわけではない。

(59)『東京新聞』二〇〇四年五月二日。

(60)この点は、上田耕一郎「「立法改憲」めざす「創憲」論」(『世界』一九九三年八月号「平和基本法―私はこう思う」所収)でも指摘されている。呆れることに、前田哲男は『自衛隊』(岩波新書、二〇〇七年七月)において、「平和基本法」の一九九三年版について、「(注・自衛隊を)「最小限防御力」にまで縮小・分割していく。その一方で、軍縮を手がかりとしながらアジア諸国との和解をなしとげ」ると記述している。論理が逆転しているではないか。藤原帰一は、「(注・中国が)もし(注・アメリカの)ミサイル防衛を阻止したいのであれば、それと引き換えに中距離ミサイルの設備更新をはじめとする軍拡を断念しなければならない」としている(「多角的核兵力削減交渉「広島プロセス」を提言する」『論座』二〇〇七年八月号)が、当然日本のミサイル防衛についても同じ論理が適用されるだろう。現実の一九九三年版の方が、今のリベラルの論理と気分にはるかに忠実である。

(61)佐藤はイスラエルを賞賛し、「外務省でも私、東郷さん、そして私たちと志を共にする若い外交官たちは、日本とイスラエルの関係を強化する業務にも真剣に取り組みました。彼ら、彼女らは、「私たちはイスラエルの人々の愛国心から実に多くのものを学ぶ」ということを異口同音に述べていました」(『獄中記』三九七頁)と書いている。イスラエルのレバノン侵略戦争を佐藤が肯定していることは既に触れたが、佐藤は同書で、「中東地域におけるイスラエルの発展・強化は、イスラエルにとってのみでなく、日本にとっても死活的に重要です。なぜなら、私たちは、人間としての基本的価値観を共有しているからです」(同頁)とも述べている。佐藤は、日本をイスラエルのような国家にしたいのだと思われる。

(62)自衛隊の情報保全隊による市民監視について、佐藤は言う。「外務省でも、外務省にとって好ましくない団体の集会に行くなど国内調査をしていた。行政側の文脈としては「当たり前」の仕事でもあるが、国民がその言い分を額面通り認めてはならない。自衛隊がやったことは、結社の自由に対する侵害などの問題性をはらんでいる。警察や公安調査庁などを含め、どこまで国家がこういうことをやっていいか。その線引きがない。冷静な議論を通じて国民が決めていく必要がある」(『河北新報』二〇〇七年六月一〇日)。ここでは、国家が市民を監視すること自体は否定されていない。「線引き」さえあれば正当化される。国家による市民へのスパイ行為を否定しない佐藤を、「監視社会化」に批判的であるはずの斎藤貴男が賞賛するのは、やはり奇妙だというほかない。せめて斎藤には正道に戻ってもらいたいものだ。

(63)馬場は、この一節での注で、船橋洋一「過去克服政策を提唱する」(同編『いま、歴史問題にどう取り組むか』岩波書店、二〇〇一年)を挙げているが、興味深いことに、船橋の記述と馬場のそれとは重要な違いがある。船橋は同論文では、「平和の時代にあっても、国際協力事業で命を失った人々もいる。平和維持活動(PKO)で命を落とした人々もいる。今後も日本の平和を守るために尊い生命を犠牲にする人々がでてくるだろう。それは日本人に止まらないかもしれない」(一六五頁)と述べている。馬場の「ビジョン」では、PKO参加5原則すらない、PKOに止まらない、今後の軍事活動が想定されており、追悼対象は日本人の「慰霊」であることがわかる。なお、一九九三年版の「平和基本法」はその構想の現実化において、「旧帝国軍隊を想起させる靖国神社への死者の合祀や、市民社会への違法な諜報活動なども停止されなければならない」としている。逆に言えば、旧帝国軍隊を想起させない戦死者追悼施設、国家による市民への合法的な諜報活動は否定されていない。

(64)佐藤の論理からすれば当然であるが、佐藤はテロ特措法延長を支持している。〈地球を斬る〉二〇〇七年九月一九日「総理大臣の辞任」参照。

(65)川端清隆「テロ特措法と安保理決議―国連からの視点」『世界』二〇〇七年一〇月号。なお、同論文に対して、小沢は次号に反論を寄せている(「今こそ国際安全保障の原則確立を」『世界』二〇〇七年一一月号)。小沢は、護憲派ジャーナリズムに食指を動かしてきたわけだが、これは、一九九三年版の「平和基本法」時と同じ構図である(渡辺治『政治改革と憲法改正』(青木書店、一九九四年)参照)。前回の政治過程が、日本社会党の自衛隊合憲論への転換と、党の消滅に帰結したことを忘れるべきではない。なお、小沢の同論文の、国連決議があれば武力行使に自衛隊が参加しても合憲とする主張に対し、朝日新聞は社説で疑問を呈して、「安全保障に関する基本法」などに関する「体系的な議論」が必要だとする(二〇〇七年一〇月六日)。自治労も「平和基本法」を支持しており、「平和基本法」への警戒を怠ってはなるまい。

(66)吉田康彦『国連改革』集英社新書、二〇〇三年一二月、五七頁。

(67)佐藤の同論文の読解については、岩畑政行のブログ「政治ニュース 格物致知」二〇〇七年九月二三日付「護憲的安全保障について」から示唆を得た。無論、佐藤の主張は柄谷行人の「憲法九条=統整的理念」論から来ているが、ここでは、柄谷の主張が、たかだか憲法九条をプログラム規定として解釈するものに過ぎなかったことが浮き彫りになっている。実際に、九・一一事件以降の柄谷の言説は、「戦争への参加」への屈服の自己正当化という特徴を持っている(高和政「湾岸戦争後の「文学者」」『現代思想』二〇〇三年六月号参照)。

(68)前掲「集団自決の教科書検定問題で文部官僚を追い込め」。

(69)安江良介『同時代を見る眼』岩波書店、一九九八年(原文発表は、一九九二年三月二一日付)。

(70)『藤田省三著作集2 転向の思想史的研究』みすず書房、一九九七年、一〇六~一〇七頁。

(71)〈地球を斬る〉二〇〇七年七月四日「愛国心について」。

(72)例えば、最上敏樹は、アメリカやイギリスなどの諸国のテロへの「不安や焦燥感」に全く理由がないとは言えないから、有志連合形式の武力行使を抑えるために、国連を「国際的な警察活動の中心へと戻してやることが必要だ」とする(最上敏樹『いま平和とは』岩波新書、二〇〇六年三月)。国連主導の「対テロ戦争」である。なお、当然ながら、国連主導であったとしても、日米を参加国とした国々と北朝鮮との武力衝突、戦争への発展は起こりうる。二〇〇六年の北朝鮮のミサイル発射実験、核実験に対して決議された安保理決議も戦争の道につながりうる。

(73)日本の常任理事国化がいかに問題か、日本がこれまで国連の場で米国に追従していかに夜郎自大に振舞ってきたか、そしてそのことがリベラルにいかに認識されていないかについては、河辺一郎『日本の外交は国民に何を隠しているのか』(集英社新書、二〇〇六年四月)参照。



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