十二月二十三日
昨夜、総領事館警察の高玉清親氏来宅。外国人が受けた物的損害の一覧表を作ってもらいたいとのこと。なんと今日の昼までに、という。そんなことがらくにできるのは一国の大使館くらいなものだろう。我々にはそんな簡単な仕事ではない。だが、やりとげた。さっそくクレーガー、シュペアリング、ハッツに来てもらい、地区ごとに分担を決め、時間までにちゃんと仕上げた。それによると、ドイツ人の家で略奪にあったのは三十八軒。うち、一軒(福昌飯店)は燃やされてしまった。だがアメリカ人の被害ははるかに甚大だ。全部で百五十八軒にものぼる。
リストの完成を待っていたとき、ボーイの張が息せききってやってきた。日本兵が押し入り、私の書斎をひっくり返して、二万三千ドルほど入っている金庫を開けようとしているという。クレーガーといっしょにかけつけたが、一足違いで逃げられた。金庫は無事だった。どうしても開けられなかったとみえる。
昼食のとき、兵隊が三人、またぞろ塀をよじ登って入ってきていたので、どやしつけて追い払った。やつらはもう一度塀をよじ登って退散した。おまえらに扉なんかあけてやるものか。クレーガーが、午後の留守番をかってでてくれた。私が本部にもどる直前、またまた日本兵が、塀を乗り越えようとしていた。今度は六人。今回もやはり塀越しにご退場願った。思えば、こういう目にあうのもそろそろ二十回ちかくになる。
午後、高玉氏に断固言い渡した。私はこういううじ虫を二度とわが家に踏みこませない。命がけでドイツの国旗を守ってみせる。それを聞いても高玉は動じるようすもない。肩をすくめ、それで一件落着だ。「申し訳ないが、警官の数が足りないので、兵隊の乱暴を抑えることができないんですよ」
六時。家へむかって車を走らせていると、中山路の橋の手前が炎に包まれていた。ありがたいことに、風向きはわが家と逆方向だった。火の粉が北へ舞っている。同じころ、上海商業儲蓄銀行の裏からも火の手があがっていた。これが組織的な放火だということぐらい、とっくにわかっている。しかも橋の手前にある四軒はすでに安全区のなかにあるのだ。
わが家の難民たちは、雨の中、庭でひしめきあい、おそろしぺも美しく燃えさかる炎を息をのんで見つめていた。もしここに火の手がまわったら、この人たちはどこにも行き場がないのだ。かれらにとっての最後の希望、それは私だけなのだ。
張は、小さな石油ランプを四つ、モミの小枝で飾り付けた。目下のところ、照明といえばロウソクの残りのほかはこれしかない。それから赤いアドヴェントシュテルン(クリスマスに使う星形のロウソク立て)を出してきて、ロウソクに赤い絹のリボンを結びつけた。そうだ、明日は十二月二十四日、クリスマスだ。しかも娘のグレーテルの誕生日ではないか。
クリスマスだからといって、友人の靴屋が古いブーツの底を張り替えてくれた。そのうえ、革の双眼鏡カバーまで作ってくれたのだ。お礼に十ドル渡した。ところが靴屋は黙って押し戻した。張がいった。「そりゃ、受け取れませんよ」私に深い恩があるから、というのだ!
今目、シンバーグが棲霞山から持ってきてくれた手紙には(彼は、江南セメントエ場~南京間をふつう一時間半で往復する)、棲霞山の一万七千人の難民が日本当局にあてた請願書が添えてあった。あちらでもやはり日本兵が乱暴のかぎりを尽くしているのだ。
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