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第10 裁判官の「良心」と本件の証拠調べの必要性

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【小目次】

第10 裁判官の「良心」と本件の証拠調べの必要性


1 日本国民の戦後責任


(1)一般に戦争責任や戦後責任として議論される問題は、

  一般に戦争責任や戦後責任として議論される問題は、日本人全体としてのそれであり、道義的・政治的責任の問題である。本件は法的な責任の有無を問うものであり、その責任の性格が異なることと、責任主体についても日本国家と企業という組織体が対象であり、この議論と直結するものではない。しかし、法的責任の有無は道義的・政治的責任の有無と無関係ではなく、むしろ、それを前提にしており、法的責任の有無の判断にあたっても、道義的・政治的責任の有無が影響することになるため、この点について触れる。

  戦時中の行為について、当時、加事行為に直接関与した人間がその関与の程度に応じて責任を問われるのはいわば直接の罪責として当然である。それに対して、戦時中に存在せず加害行為に直接関与していない戦後生まれの日本人が戦前の行為について、「私たちは何も知らない。直接、関与もしていない行為になぜ責任を問われるのか?」という問いを発することは一見正当であるかのように思える。

  しかし、戦後生まれの日本国民といえども日本国家の国民たることを止めない限り、日本国家の法的保護の下に存在していることは間違いがなく、また、日本国民として有形無形の財産を承継して日本国民として現に存在している以上、負の財産を承継するのは当然である。道義的・政治的責任が被害国民との関係で、被害の訴えに対する応答可能性(レスポンシビリティ)の問題であるということから考えれば、日本国民であるという立場にある戦後生まれの日本国民もこの意味での責任を免れない。まして、本来、組織として責任を負うべき日本国家が責任を果たさない状態を継続している時、他国民が問う「日本は何の責任も果たさない」という問いは、主権者たる日本国民にも向けられているのである。これはまさに戦後責任の問題である。

  本件の控訴人らが問いかけているのは、代理人や支援する会の会員、裁判官も含めた日本国民に対して「あなた方は、日本という国が加害行為に対して何の責任もとらないことを認めるのですか?」という問いであり、私たちはそれぞれの立場からそれに向き合い、応えることが道義的に求められているのである。それが日本国民一般の道義的・政治的責任である。

2 憲法上の「良心」規定と裁判官の責務


(1)日本国憲法が「良心」について規定しているのは、

  日本国憲法が「良心」について規定しているのは、憲法19条の国民に対する「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない」という規定と憲法76条の裁判官に対する「すべて裁判官は、その良心に従い独立してその職権を行い、この憲法及び法律にのみ拘束される」(76条3項)という規定のみである。

  規定上明らかなように、憲法19条は、国家による国民の個々人の「良心」への不干渉を定めている。一方、日本国憲法は、裁判官には国民に対するのとは異なり、「良心」に従うことを義務付けているのである。司法権を行使する裁判官として、憲法76条が何故、「良心」に従うことを義務づけているのかが留意されなければならない。

  それでは、日本国憲法が国民に保障する「良心の自由」とは何を意味し、裁判官に従うことを要求している「良心」とは何を意味するのであろうか。

(2)裁判官は「良心」に従うべき憲法上の義務

  裁判官は「良心」に従うべき憲法上の義務が存在する。そして、日本国憲法が敢えて裁判官に良心に従う義務を課した意味は何か。よく知られているように、日本国憲法76条の「良心」について、憲法学では、「主観的良心」説と「客観的良心」説とが対立している。しかし、この両説の結論はそれほど大きな隔たりをもっているものではない。「主観的良心説 も、良心に基づいて裁判官が法律を無視してよいとは言わず、客観的良心説も<およそ裁判官は皆すべての裁判官に共通した善悪の基準を共有する>と説くわけでもない」(西原博史『良心の自由 増補版』(成文堂)412頁)

  それでは、日本国憲法が裁判官に「良心」に従って裁判を行うべき義務を負わせている意味についてはどう考えるべきか。西原教授は、次のようにこの意味を説明している。

「裁判官が法の一義的な解釈によって回避できないと考える判決が自らの良心 に反する場合には、どうなるのか。ただ、この問いは、日本国憲法を前提とし た場合に、実際上はあまり意味をなさない。違憲立法審査権が裁判官に認めら れていれば、…中略…、道徳的な考慮を憲法解釈に反映させ、自らの良心に反 する法律を違憲と判決する可能性がある。さらに、法律全体を違憲としないま でも、できることは少なくない。宮沢が、『悪法』を前にした裁判官にできる ことを述べている。『どこまでも法実証主義的立場に立ちながら、与えられた 法―悪法―を解釈するにあたって、法の解釈というものに必然的に課される限 界の範囲内において、その社会で一般に承認された道徳則ともいうべきものを 最大限に作用させ、それによって、その具体的な事件において、法の悪法性を 少しでも減らそうと努める』。ここで『道徳則』云々の部分は、良心的である ことを義務づけられた裁判官が正当性を否認する法律の適用を回避する方策を 探る上で、『自らの良心の命じる所』と言い換えられる。良心に反する不正な 判決を回避するための法的フィギュアは、種々用意されている。日本国憲法が、裁判官に良心に従う義務を課すのも、法解釈を通じた幅広い法創造的機能に着 目してのことと考えられる。裁判官が安易に『職業倫理』の陰に隠れ、他の機 関に対する過度の敬譲に服するなら、違憲立法審査権を保障することを通じて 憲法が裁判官に期待した憲法保障の機能は、無に帰していく。それを防ぐため に、憲法は、裁判官に対して良心に従う義務を ― 具体的な法的効果を特に 想定しないまま ― 規定し、高度に公的な職業の遂行をあえて個人の人格性と結びつけた。それにより、裁判官の活動に関しても、実定法が悪かったことで判決に対する個人の人格的責任を逃れる道が切断される」(西原前掲書414~415頁)

(3)まさに日本国憲法が裁判官に「良心」に従う義務を規定した理由は

  まさに日本国憲法が裁判官に「良心」に従う義務を規定した理由は、憲法保 障を担う立場にある裁判官が自らの個人的な人格の中核たる「良心」に従うことによって、悪法に対して、人格を賭して対峙することによって、自らに与えられた権限を行使して、憲法を保障しようとした点にあるのである。本件のような日本国憲法自体の根本規範に違反するような違憲の国家行為が問われている時こそ、裁判官は自らの「良心」にかけて憲法保障を果たすことが国家機関として日本国憲法が裁判官に求める義務なのである。


3 日本政府の応答責任、裁判官の応答責任


(1)本準備書面の冒頭で本件で問われている責任について

  本準備書面の冒頭で本件で問われている責任について法的責任であると整理し、それに必要な限度で日本国民としての道義的・政治的責任について簡潔に触れた。ここでは日本政府の「責任」及び裁判官の「責任」について検討する。

(2)日本国民が戦争責任や戦後責任を他国民から問われる時

  日本国民が戦争責任や戦後責任を他国民から問われる時、そこに生じる責任 は、呼びかけられた時には呼びかけた人に応答しなければならないという「責め」が含まれることになる。ここでは、責任を問う者、責任を問われる者、責任を問われる歴史的事件の三つが少なくとも必要である。そして、責任を問う者は責任を問われる者との関係で互いに外部にある必要がある。責任を問う者が自らに加えられた侵犯行為が、植民地差別や人種差別、民族差別、性差別、戦争という人間の諸集団の区別の確立のために遂行されたとき、責任を問われた者は、個人として特定の歴史的事件に直接関わらなかったとしても、植民地差別や人種差別、民族差別は個人の心理の問題ではなく制度的な客観的な事態だから、相手方から責任を問われている以上、当該諸集団に属する者として、その「責め」を自ら遺棄したり、「問いかけ」から逃避することはできないこととなる。

(3)責任を果たすことは、呼びかけに応えることであるが

  責任を果たすことは、呼びかけに応えることであるが、直ちに自らの有罪を認めることでも謝罪すべき立場にあることを意味するわけではない。むしろ、自らの無罪を主張することによって呼びかけに応えるという責任の果たし方もあるのである。自ら特定の歴史的事件について無罪を確信するとき、責任を問われた際、応答義務としての「責任」は、呼びかけた人々を説得するために呼びかけた人々に語りかけ、説明する作業が含まれなければならない。

  本件の朝鮮女子勤労挺身隊は、戦前、日本政府が企業とともに日本国内において不足する労働力を補うため、植民地機構及び学校を通じて募集、連行し、民族差別に基づく劣悪な労働条件の下に過酷な労働に従事させ、自由を奪われる環境の中での労働を強いたものである。この朝鮮女子勤労挺身隊は、日本政府と企業によって作られた制度であり、それを通じて戦後日本国民でなくなった控訴人ら朝鮮の少女を被審者として搾取し、虐待したものである。朝鮮女子勤労挺身隊員の選択において、日本人女性よりも低い年齢の少女が選ばれたこと、待遇(寮から自由に外出できないことや賃金が支払われないこと)面及び工場での対応などにおいて民族差別があったこと、戦後、勤労挺身隊員に対して何の手当もされず放置され続けたことなどにつき、日本国民は、この問題の責任を問う韓国人である控訴人らの前で応答する義務を負う。そして、それ以上に、日本政府は、自らが組織として同一性を持っている大日本帝国が戦前にしたこの朝鮮女子勤労挺身隊による被害について、応答する責任を負うものである。

  しかるに、日本政府は、本件でも法的主張の穴に閉じこもり、事実の認否すら拒み、原告らの問いかけに正面から応答をしようとせず、逃げ続けている。まさに、この態度こそ、日本政府が道義的責任を放擲していることを如実に表す何よりの証左である。そして、裁判所についても、本件で問題となっている事実について向き合い、判断するという本来国家機関としてもっている責務だけでなく、日本国家を構成する国家機関として有する応答責任を回避し続けていると言わなければならない。原審判決などはその典型例である。裁判所のこのような対応について、「戦争中の日本政府によって搾取虐待された中国や韓国・朝鮮からの強制労働者の補償に関する訴訟が、敗戦後になって国民対非国民の区別に基づいて、日本国家の司法機関である裁判所によって却下されていることは銘記しておく必要があります。つまり、国民差別、民族差別は、戦争中の侵犯行為だけでなく、その侵犯行為の裁判や補償においても、継続的に機能し続けてきているのです」(酒井直樹『日本史と国民的責任』「帝国と国民 国家」(青木書店)158頁)と裁判所の対応自体が新たな差別として継続的に機能していることが批判されているのである。

(4)被控訴人日本国は応答責任の問題は無関係だというかもしれない

  被控訴人日本国は、本件は法的責任の有無を問う場であるから、道義的責任である。しかし、すでに控訴理由書に詳細に論じたとおり、日本国家が道義的国家たるべきことを日本国憲法は要請しているのである。

  日本国憲法の根本規範たるポツダム宣言の前提となるカイロ宣言中には、「第一次世界大戦の開始以後に日本国が奪取し又は占領した太平洋におけるすべての島を日本国からはく奪すること、並びに満州、台湾及び膨湖島のような日本国が清国人から盗取したすべての地域を中華民国に返還すること」、「日本国は、また、暴力及び強慾により日本国が略取した他のすべての地域から駆逐される」、「朝鮮の人民の奴隷状態に留意し、やがて朝鮮を自由独立のものにする」という、帝国日本の侵略戦争と植民地支配を不法なものとし、原状の回復を要求した文書があり、ポツダム宣言は、「カイロ宣言の条項は、履行せらるべく」(8項)とカイロ宣言を受け、その履行を求めていた。このようなカイロ宣言を受けたポツダム宣言に基礎づけられて成立した日本国憲法は、とくに前文及び9条において、わが国が次のような内容の道義性を備えた国家とならなければならないことを明示している。すなわち、憲法前文は、「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意」するとともに、「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認」し、さらに、「いずれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはなら」ず、普遍的な政治道徳に従うことが責務である、と規定した。これは、前記のカイロ宣言、ポツダム宣言に照らすとなおさら、わが国が過去の侵略戦争と植民地支配に対する反省を表明したものであることが明らかである。このような認識に立って、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼する」基本姿勢をもって安全と生存を図るとした上で、9条において、戦争の放棄と戦力の不保持を公権力に命じた。憲法は、このようにして、平和的道義国家の指針を定めたのである(甲E第2号証(「戦後補 償」の国家責任―立法不作為を中心に―、小林意見書7頁)。この「道義的国家たるべき義務」は、国家の行動原則であることを本質とするものである。しかも、それは、憲法価値の抜本的な転換を内容とするわが国公権力に宛てられた重要な指針である。したがって、立法、行政及び司法を含むわが国公権力がいずれも従わなければならない国家の行動原則なのである。

(5)道義的国家たるべき義務を

  このような道義的国家たるべき義務を行動原則とすることを憲法によって義務づけられている日本国家が、少なくとも応答責任を果たさず、逃げることは許されない。それは、裁判官も国家機関の一員として同様である。そればかりか、裁判官は憲法において「良心」に従うことが義務づけられているのであるから、真正面から呼びかけに応えることなく、逃げることは新たな侵略行為であるだけでなく、これらの憲法上の義務にも違反することとなるのである。

  本件のように日本国政府や日本を代表する企業が日本国憲法自体が要請する責任に背を向けている時こそ、裁判官は自らの「良心」にかけて自らに与えられた法解釈の権限を行使して正義の実現を目指さなければならない。それこそが、日本国憲法が裁判官に求める義務なのである。


4 本件における証拠調べの必要性


  わが国では、戦前、日本がどのようにして朝鮮を植民地としたのか、どんな植民地支配がなされたのか、本件のような戦時労働力動員が何故、どのようにして実施されたのか、そこに国家や企業がどのように関与したのか、これらのことにつき日本政府は明確に教えようともせず、殆どの国民が知ることもない。何故、日本に数多くの在日韓国人、朝鮮人が存在するのか、それが戦前の日本政府の行為によるものだということを知ろうとせず、表面的な韓流ブームとヒステリックな北朝鮮バッシングに明け暮れている。本件訴訟ですでに主張してきたように、日本は、戦前の植民地支配だけでなく、戦後、韓国と北朝鮮の分断国家が生まれるのにも大きく関わっている。そして、戦後、一貫して韓国の軍事独裁政権を支え、韓国の人権侵害に加担し続けてきたのである。

  高齢の控訴人らが「自らの生命のあるうちの解決を」と訴えている本件について、少なくとも植民地支配の実態とその中で実施された朝鮮女子勤労挺身隊の動員、他の戦時労働動員などがどのようになされ、そこに日本国家と企業がどのような関与をしたのかを知ることなしに、法的な評価を行うことはできない。

  裁判所としては、法的な判断の前提として十分な証拠調べが必要である。そのために、控訴人が申請する証人全員の採用が不可欠である。そして、まず、本準備書面でその概略を述べてきた植民地支配と朝鮮人戦時労働動員の実態を知るために山田昭次証人の採用が必要である。

以上



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