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被告準備書面(5)要旨2006年9月1日

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被告準備書面(5)要旨2006年9月1日





被告準備書面(5)要旨
2006年9月1日
(被告らの主張)

第1 集団自決は日本軍(=隊長)の命令によるものである。


1 沖縄戦における住民の犠牲と日本軍の作戦


(1)太平洋戦争と沖縄戦

1945年(昭和20年)1月、大本営は、「帝国陸海軍作戦計画大綱」及び「決戦非常措置要綱」を決定し、本土確保を作戦の主眼とし、
「本土防衛の為縦深作戦遂行上の前縁を南千島、小笠原群島、沖縄本島以南の南西諸島、台湾及び上海付近とし之を確保すること」
が定められ、沖縄作戦は本土確保のための前哨戦として性格づけられた。

これに先立って、沖縄を含む南西諸島には、1944年(昭和19年)3月に、大本営直轄の第32軍(通称、球部隊)が新設されたが、同年末に同軍最強の第9師団がフィリピン決戦のため抽出・転用され、兵力不足となり、沖縄守備軍に多数の沖縄住民が召集・徴用された。

日本軍にとって、沖縄戦は、できるだけ長期間米軍に抗戦し、米軍の損害を増大させ、それによって米軍の本土上陸の時期を延ばし戦力を消耗させるという「出血持久作戦」であり、沖縄を国体護持のための「捨石」とするものであった。(以上、乙30・琉球政府編集発行「沖縄県史8 沖縄戦通史」43頁以下など)

(2)沖縄戦と県民の犠牲

沖縄戦での住民の戦没者は約15万人から16万人と推定され、
「日米両軍の戦闘員の戦死者数よりも、非戦闘員である一般住民の戦没者数が多いところにこの沖縄戦の最大の特徴があった」
(「石原昌家証言」4頁・乙31『家永・教科書裁判第三次訴訟高裁編3沖縄戦・草莽隊・教育現場』所収)。

住民の戦死傷者の被害の態様には、
「義勇隊」
「直接戦闘」
「弾薬、食糧、患者等の輸送」
「陣地構築」
「炊事、救護等雑役」
「食糧供出」
「壕の提供」
「馬糧蒐集」
「飛行場破壊」
「集団自決」
「道案内」
「遊撃戦協力」
「スパイ嫌疑による斬殺」
「漁撈勤務」
「勤労奉仕」
などによる死傷が含まれており(乙32・沖縄県生活福祉部援護課「戦闘参加者概況表」)、住民のこれらの死傷については、「戦闘参加者」として、戦傷病者戦没者遺族援護法の補償の対象とされている。

(3)住民の犠牲と日本軍の「軍官民共生共死の一体化」方針

日本軍第32軍は、一般住民を
「義勇隊」
「弾薬、食糧、患者等の輸送」
「陣地構築」
「炊事、救護等雑役」
「食糧供出」
「壕の提供」
「馬糧蒐集」
「道案内」
「遊撃戦協力」
「漁撈勤務」
「勤労奉仕」
などに狩り出した。

日本軍第32軍司令部(球第1616部隊)は、1944年(昭和19年)11月18日に&fint(b){「報道宣伝防諜等に関する県民指導要綱」}(乙33・大城将保編・解説「沖縄秘密戦に関する資料」所収)を定め、
「60万県民の総決起を促し、もって総力戦態勢への移行を急速に推進し、軍官民共生共死の一体化を具現し、いかなる難局に遭遇するも毅然として必勝道を邁進するにいたらしむ」
との方針を示し、これに従って島田叡沖縄県知事は、「県民悉く武装」し「特攻精神の権化たらん」ことを強調し、「驕米を一挙に葬り聖慮を安んじ奉らん」と県民に呼びかけており(乙30・「沖縄県史8」49頁)、住民は、日本軍のこの「軍官民共生共死の一体化」方針により総動員され、上記戦闘協力をさせられ、悲惨な犠牲を強いられたものである(乙11・安仁屋政昭証言、乙31・石原昌家証言など)。

(4)防諜対策と住民のスパイ視

沖縄においては、沖縄がかつては琉球王国であったこともあり、明治以来、「皇民化教育」が盛んに行われ、教育勅語に示された「一旦緩急あれば義勇公に奉公し」という皇民たるべきものの基本精神の発露が強く要求されてきた(乙30・「沖縄県史8」48頁)。また、「生きて虜囚の辱めを受けず」との戦陣訓は住民にも浸透していた。

他方、日本軍部は、沖縄県民は「皇室国体に関する観念徹底しおらず」などと、沖縄県民の皇民としての忠誠心に疑いを抱いており、沖縄戦に際しては、日本軍第32軍司令部(球第1616部隊)は「報道宣伝防諜等に関する県民指導要綱」(乙33所収)においてスパイ取り締まりの方針を示した。

そして、住民を戦闘協力に狩り出し住民が多くの軍の機密情報に接していたことから、日本軍の将兵たちは住民をスパイ視し、多くの住民がスパイと疑われ、日本軍によって殺害された(乙8・「沖縄県史8」397頁以下、乙31・石原昌家意見書45頁以下、乙33・「沖縄秘密戦に関する資料」解説7頁以下)。

(5)「玉砕」方針

前記のとおり、日本軍は徹底抗戦で沖縄を死守し、玉砕することを方針としており、軍官民共生共死の一体化の総動員体制のもと動員された住民に対しても、捕虜となることを許さず、玉砕を強いていた(乙33・「沖縄秘密戦に関する資料」解説9頁以下)。

2 慶良間諸島(座間味島、渡嘉敷島等)における集団自決と日本軍


(1)軍官民の総動員体制

慶良間諸島には、1944(昭和19年)9月に陸軍海上挺進戦隊が配備され、座間味島に第1戦隊(梅澤裕隊長)、阿嘉島・慶留間島に第2戦隊(野田義彦隊長)、渡嘉敷島に第3戦隊(赤松嘉次隊長)が駐留し、1945年(昭和20年)3月の米軍進攻当時はこれらの戦隊のみが慶良間諸島の守備隊であった。

これらの戦隊は、住居の提供、陣地の構築、物資の運搬、食糧の供出・生産、炊事その他の雑役等に村民を狩り出すとともに、村民の住居に兵士を同居させ、さらには村民の一部を軍の防衛隊に編入した(乙9・「沖縄県史10」685~702頁、甲B6・「母の遺したもの」181頁以下)。また、軍(=隊長)は村の行政組織を軍の指揮下に組み込み、全権を握り、これらの軍への協力を、防衛隊長、村長、助役、兵事主任などを通じて命令した(乙13・「渡嘉敷村史」198頁、甲B6・215頁)。まさに、軍官民共生共死の一体化による総動員体制が構築されていたのである。

座間味村では、防衛隊長兼兵事主任の宮里盛秀助役が、伝令役の防衛隊員であり役場職員である宮平恵達を通じて軍の命令を村民に伝達していたもので(甲B6・「母が遺したもの」96、212,215頁)、渡嘉敷村では、村長の古波蔵(米田)惟好氏や防衛隊長の屋比久猛祥氏(乙10・6頁、乙13・196頁)、兵事主任の新城(富山)真順氏(乙13・197頁)らが軍の指示命令を村民に伝達していたものである。

兵事主任は、徴兵事務を扱う専任の役場職員であるが、軍の命令を住民に伝達する重要な立場にあった(乙13・197頁)。

また、防衛隊は、陸軍防衛召集規則(昭和17年9月26日陸軍省令第53号・乙34)に基づいて防衛召集された隊員からなる軍の部隊そのものであり、沖縄では、1945年(昭和20年)1月から3月の沖縄戦にかけて大々的な防衛召集がなされ17歳から45歳の男子が召集の対象とされた(乙11・安仁屋証言138~142頁)。

したがって、兵事主任や防衛隊長の指示・命令は、軍(=隊長)の指示・命令そのものであった。

(2)玉砕方針、訓示

沖縄の日本軍は「玉砕」することを方針としており、慶良間諸島においても軍官民共生共死の一体化の総動員体制のもと動員された村民に対し捕虜となることを許さず、玉砕を強いていたものである。

座間味島では、1942年(昭和17年)1月から太平洋戦争開始記念日である毎月8日の「大詔奉戴日」に、忠魂碑前に村民が集められ、「君が代」を歌い、開戦の詔勅を読み上げ、戦死者の英霊を讃える儀式を行ったが、村民は、日本軍や村長・助役(防衛隊長兼兵事主任)らから戦時下の日本国民としての「あるべき心得」を教えられ、
「鬼畜である米兵に捕まると、女は強姦され、男は八つ裂きにされて殺される。その前に玉砕すべし」
と指示された(甲B6「母が遺したもの」97~98頁)。

阿嘉島では、第2戦隊の野田義彦隊長が、1945年(昭和20年)2月8日の「大詔奉戴日」に、住民に対し
「いざとなったときはいさぎよく玉砕するように」
との訓示を行っている(乙9・730頁の大城昌子の手記にも「阿嘉島駐屯の野田隊長から、いざとなった時には玉砕するよう命令があったと聞いていました」とある)。

(3)機密保持と捕虜禁止、自決命令

座間味島や渡嘉敷島に配備された海上挺進戦隊は、海上船舶特攻隊の秘密部隊であり、慶良間諸島は「秘密基地」となったが(甲B6・161頁以下)、前記のとおり兵士が民家に寝泊りし、住民が軍の陣地の構築、物資等の運搬などに従事したことなどから、軍の機密を住民が知ることは避けられなかった。そこで、軍は住民が島外に出ることを制限し、スパイ防止のための印を衣服に付けさせるなどして監視した(甲B6・185~186頁)。

また、住民が米軍の捕虜となることは、敵に機密情報が漏れることになることから避けなければならないこととされ、軍は、住民に対し、捕虜となることを禁止し、
「米軍の捕虜となった場合は女は強姦され、男は八つ裂きにされて殺される」
などと告知し、いざというときは自決するよう指示していた(甲B6・97~98頁、乙13・199頁)。

(4)国及び県の認定

また、国及び沖縄県は、座間味村及び渡嘉敷村の集団自決は日本軍の隊長の自決命令によるものであると認定しているものである。

すなわち、乙32「戦闘参加者概況表」は、国が調査にもとづき戦闘参加者と認定した住民の戦闘協力の態様をまとめたものであるが、座間味村や渡嘉敷村の集団自決は、
「狭少なる沖縄周辺の離島において、米軍が上陸直前又は上陸直後に警備隊長は日頃の計画に基づいて島民を一箇所に集合を命じ『住民は男、女老若を問わず軍と共に行動し、いやしくも敵に降伏することなく各自所持する手榴弾を以って対抗できるところまでは対抗し愈々と言う時にはいざぎよく死に花を咲かせ』と自決命令を下したため住民はその命をそのまま信じ集団自決をなしたるものである」(5頁)
とされている。

(5)座間味島の集団自決と軍の命令

ア 自決命令の存在を示す歴史資料

準備書面(1)及び(3)に記載したとおり、座間味島での集団自決については、軍ないし軍の隊長の命令があったことを示す多くの資料がある。

(乙2・『鉄の暴風』)(乙3・「沖縄戦記(座間味村渡嘉敷村戦況報告書)」所収『座間味戦記』7頁)(乙4・山川泰邦著『秘録 沖縄戦史』)(乙5・上地一史著『沖縄戦史』)(乙6・下谷修久発行(『悲劇の座間味島 沖縄敗戦秘録』座間味村村長田中登氏の序文、座間味村遺族会会長宮里正太郎氏の序文)(乙8・『沖縄県史 第8巻』)(乙9・『沖縄県史 第10巻』 宮里とめ氏の手記、宮平初子氏の証言、宮里美恵子氏の手記、宮平カメ氏・高良律子氏の手記)(乙6甲B5・「母の遺したもの」宮城初枝氏の手記)(乙21-2・座間味村から沖縄県援護課あて回答文)

イ 座間味島での軍の自決命令の存在

以上の資料から明らかなように、座間味島では、1945年(昭和20年)3月25日の夜に、米軍の上陸を目前にして、米軍の艦砲射撃のなか、防衛隊長である宮里盛秀助役の指示により、防衛隊員が伝令として、軍の玉砕命令が出たので玉砕(自決)のため忠魂碑前に集合するよう、軍(=隊長)の命令を住民に伝達して回り、その結果集団自決に至ったものである。

梅澤隊長が具体的にどのように命令を発したかは必ずしも明確でないとしても、前記のとおり、軍は、軍官民共生共死の一体化の方針のもと、いざというときは玉砕するようあらかじめ村民に指示しており、軍の部隊である防衛隊の隊長であり兵事主任でもある助役の宮里盛秀氏が、軍の自決命令が出たことを防衛隊員から村民に伝えさせ(防衛隊員以外の兵士が伝達に同行していたとの証言もある・乙21-2)、自決のため集合させたことは明らかであり、この自決命令は軍の命令にほかならない。村民たちが軍の自決命令が出たと認識していたことも明らかである。

また、村民に自決のために手榴弾が渡されているが、手榴弾は貴重な武器であり、軍(=隊長)の承認なしに村民に渡されることはないと考えられ、実際にも、手榴弾は防衛隊員その他の兵士から渡されている。

また、軍は、米軍が上陸してくることを認識しながら、住民を他に避難させたり投降させるなどの住民の生命を保護する措置をまったく講じていなかったが、このことは、軍が住民を玉砕させることにしていたからにほかならない。

以上のとおり、座間味島の住民の集団自決は、軍の玉砕(自決)指示・命令によるものであることが明らかである。そして、座間味島における軍の最高指揮官は梅澤隊長であったのであるから、座間味島の集団自決は「梅澤隊長の自決命令」により行われたというべきである。

(6)渡嘉敷島の集団自決と軍の命令

ア 自決命令の存在を示す歴史資料
準備書面(1)に記載したとおり、座間味島での集団自決については、軍ないし軍の隊長の命令があったことを示す多くの資料がある。

(乙2・『鉄の暴風』)(『慶良間列島渡嘉敷島の戦闘概要』・乙10「ドキュメント沖縄闘争 新崎盛暉編」所収)(乙4・『秘録 沖縄戦史』)(乙5・『沖縄戦史』)(乙6・『悲劇の座間味島 沖縄敗戦秘録』)(乙8・『沖縄県史 第8巻』)(乙9・『沖縄県史 第10巻』)、郵便局長徳平秀雄氏の証言、元渡嘉敷村長米田惟好氏の証言)(『家永第3次教科書訴訟第1審 金城重明証言 安仁屋政昭証言』乙11『裁かれた沖縄戦 安仁屋政昭編』所収)(乙12・朝日新聞1988年6月16日付夕刊記事)(乙13・『渡嘉敷村史』)

イ 渡嘉敷島での軍の自決命令の存在
*1) 以上の資料から明らかなとおり、
渡嘉敷島においては、米軍が上陸する直前の1945年(昭和20年)3月20日、赤松隊から伝令が来て兵事主任の富山(新城)真順氏に対し渡嘉敷部落の村民を役場に集めるように命令し、富山氏が軍の指示に従って17歳未満の少年と役場職員を役場の前庭に集めると、兵器軍曹と呼ばれていた下士官が部下に手榴弾を2箱持ってこさせ、集まった20数名の者に手榴弾を2個ずつ配り、
「米軍の上陸と渡嘉敷島の玉砕は必至である。敵に遭遇したら1発は敵に投げ、捕虜になるおそれのあるときは、残りの1発で自決せよ」
と訓示した(乙12、乙13-197頁)。

渡嘉敷島において、軍を統率する最高責任者は赤松隊長であり、手榴弾は軍の厳重な管理のもとに置かれていた武器である。兵器軍曹が赤松隊長の意思と関係なく、手榴弾を配布し自決命令を発するなどということはありえない。すなわち、この時点であらかじめ軍(すなわち赤松隊長)による自決命令があったことが明らかである。

*2)そして、米軍が渡嘉敷島に上陸した3月27日、
赤松隊長から兵事主任に対し、「住民を軍の西山陣地近くに集結させよ」という命令が伝えられ、安里喜順巡査らにより、集結命令が村民に伝えられた(乙12、乙13-197頁)。さらに、同27日夜、村民が同命令に従って、各々の避難場所を出て軍の西山陣地近くに集まり、翌3月28日米軍の艦砲や迫撃砲が打ち込まれる状況の中で、村の指導者を通じて村民に軍の自決命令が出たと伝えられ、軍の兵士である防衛隊員が軍の陣地から出てきて自決用の手榴弾を住民に配り、そこで集団自決がおこなわれたのである(乙11-279頁~287頁・金城重明氏証言、乙9-768頁~769頁・古波蔵(米田)惟好氏証言)。

赤松隊長が具体的にどのように命令を発したかは必ずしも明確でないとしても、前記のとおり、軍は、軍官民共生共死の一体化の方針のもと、いざというときは捕虜となることなく玉砕するようあらかじめ村民に指示しており、軍が陣地近くに住民を集結させ、軍の部隊である防衛隊員が軍の陣地から自決用の手榴弾を持って出てきて村民たちに配布し、軍の自決命令が出たと伝えられ、その結果村民の集団自決が行われたものであり、軍の命令によって集団自決が行われたことは明らかである。また、村民たちが軍の自決命令が出たと認識し自決したことも明らかである。

そして、赤松隊長は、渡嘉敷島における軍の最高指揮官であったもので、軍の自決命令は赤松隊長の命令にほかならない。


第2 本件書籍の摘示事項及びその重要な部分の真実性


1 本件書籍一「太平洋戦争」について


原告が、原告梅澤の名誉を毀損していると主張する本件書籍一の記述の重要な部分は、原告梅澤が集団自決を命じたとの事実であるが、前記のとおり、原告梅澤が住民に対し自決命令を出したことは真実である。

2 本件書籍三「沖縄ノート」について


原告は、「沖縄ノート」の記述は原告梅澤及び赤松大尉が集団自決命令を下したとの事実を摘示するものであると主張するが、すでに準備書面(1)で述べたとおり、自決命令が座間味島や渡嘉敷島の守備隊長によって出されたとは記載しておらず、原告梅澤や赤松大尉を特定する記述もない。

したがって、「沖縄ノート」の記述は原告梅澤及び赤松大尉が集団自決命令を下したとの事実を摘示するものでないことが明らかであり、原告の主張は失当である。

なお、「沖縄ノート」が座間味島及び渡嘉敷島について軍ないし隊長の自決命令があったことを摘示するものであるとしても、軍ないし隊長の自決命令があったことが真実であることは前記のとおりである。


以上


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