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宮城晴美氏陳述書2007年6月27日

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宮城晴美氏陳述書2007年6月27日





陳  述  書
2007年6月27日

大阪地方裁判所第9民亊部 御中

                  宮 城  晴 美

原告梅澤裕ほか1名被告株式会社岩波書店ほか1名間の御庁平成17年(ワ)第7696号事件について、以下のとおり陳述いたします。

1 経歴

私は、1949年(昭和24)11月、沖縄県座間味村に生まれました。
私の学歴及び職歴は以下のとおりです。(学歴は省略)

【職  歴】
  • 1974年(昭和49)4月  沖縄思潮編集委員会勤務
  • 1976年(昭和51)3月  同委員会解散のため退職
  • 同年     同月  月刊誌「青い海」出版社入社
  • 1982年(昭和57)5月  同社退社。フリーランスライターとなり、県内民間企業社史の執筆編集に携わるかたわら、新聞、雑誌に執筆(戦争と暴力、女性問題、教育問題等)。
  • 1984年(昭和59)4月  夜間は定時制高校非常勤講師(公民)を勤める(4年間)。
  • 1985年(昭和60)    『座間味村史』編集事務局勤務(村からの委託により、プロジェクトを立ち上げる)
  • 1989年(平成元)10月 『座間味村史』(全3巻)発刊によりプロジェクト解散
  • 1990年(平成2)4月  那覇市へ女性史編集のため非常勤職員として勤務
  • 1991年(平成3)4月  那覇市職員として採用。総務部女性室で那覇女性史編集に携わる
  • 2001年(平成13)4月  人事異動により市民文化部歴史資料室へ。『那覇市史』の戦後史編集を担当。現在に至る(2006年4月から名称が歴史博物館に変更)

2 座間味村の「集団自決」に関する調査・執筆について


私は、1945年(昭和20年)3月に座間味村で発生した「集団自決」について調査し、原稿を執筆してきました。その主なものは次のとおりです。

(1) 1970年(昭和45年)国際大学在学中、

安仁屋政昭先生の日本史の講義を受講した際に、安仁屋先生から沖縄戦をテーマにしたレポートの提出を求められ、はじめて母や叔母たちから聞き取りを行い、「座間味島の集団自決」のタイトルでレポートを提出しました。これは後に儀部景俊編『沖縄戦―県民の証言』(日本青年出版社、1972年)に同タイトルで収録されました(乙64)。

この原稿では、「その晩のことです。梅澤部隊長から軍命令として集団自決がいいわたされたのです」と書きましたが、これは、私の叔母や島の人たちが「部隊長の命令で“玉砕”した」と話していましたので、そのように書きました。書く段階で、文言は母の手記「血ぬられた座間味島」(『悲劇の座間味島』所収)を参考にしたと思います。

(2) 安仁屋政昭先生からの声がけで、

1972年(昭和47年)~73年(昭和48年)にかけて、座間味村民の戦争体験を調査しました。これは、当時沖縄県教育委員会によって計画が進められていた『沖縄県史 第10巻 沖縄戦記録2』への掲載を目的としたもので、約30人の住民から話を聞き、延べ21人分を原稿としてまとめました。この原稿は、1974年(昭和49年)3月に刊行された同書(乙9)に掲載されています。

(3) 1985年(昭和60年)~87年(昭和62年)にかけて、『座間味村史』

(1989年刊)執筆のため、座間味村における戦争に関する調査を実施しました。住民の戦争体験の聞き取りは当然のことですが、明治時代の琉球処分(廃藩置県)以降、日本の近代国民国家建設の過程で沖縄はどのように日本国家に組み込まれていったか、つまり、戦争への道がどのように敷かれたのか、そして座間味村はその影響をどのように被ったかについて、政治、経済、教育、文化、思想等、多角的な面から資料収集を行いました。さらに戦時下における日本軍と住民の関係について、住民だけでなく行政サイドからも調査しましたが、行政文書は戦争ですべて焼失していましたので、ほとんどが聞き取りによる調査でした。

『座間味村史』のうち、私が執筆した主な項目は次のとおりです。
  • 上巻―「第2編歴史 第3章明治・大正期、第4章昭和戦前期、第5章戦場下の座間味村(乙49)、第6章慶良間列島制施行」
  • 中巻―「第4編 教育・文化のうち、第1章学校教育及び第2章社会教育」
  • 下巻―「第7編 村民の戦争体験記」のうち、18名について聞き取り・執筆、3名について事実関係の確認とリライト。

(4) 1997年(平成9年)から2000年10月頃まで、本の執筆のため、

これまで取材した人たちをはじめ、「集団自決」の遺族や関係者から聞き取り調査を行い、単行本『母の遺したもの 沖縄・座間味島「集団自決」の新しい証言』(高文研、2000年 甲B5)を出版しました。

(5) その後も折に触れて「集団自決」が行われた当時、座間味島にいた人々から

話を聞いています。
またその後に書いたものとして、「仕組まれた『詫び状』―宮村氏の名誉回復のために―」(『歴史と実践』第26号2005年7月 乙18)があります。

3 甲B5『母の遺したもの』(2000年12月)について


(1) 私がこの本(「本書」といいます)を出版したいきさつは、

本書の「約束から10年―」(7~10頁)に書いたとおりです。

母が原告の梅澤氏に送ったものとされている甲B32は、母が私に託す前のノートのコピーと思われますが、母は、『沖縄敗戦秘録―悲劇の座間味島』(下谷修久・乙6)に収録された自分の手記「血ぬられた座間味島」と自筆のノートを開き、この二つのどこがどう違うのかを私に説明しました。そしてノートの「てにをは」の訂正や表記の変更、三者が読んで意味のわかりにくい箇所の補足訂正など、二人で話し合いながら、私がノートに赤ペンで書き込みをし、本書第一部に収録しました。それが「母・宮城初枝の手記」です。

母はかねてから、このノートを活字にしたいので、私に手伝ってほしいと話していました。手伝ってほしいというのは、先ほどの文章の添削だけでなく、「秘密基地」にされた島の状況や「集団自決」の歴史的背景、住民の悲惨な体験などを加筆することです。つまり母は、自分の手記はあくまでも個人的な体験であり、誤解を招きかねないと危惧していたのです。母がとくに気にしていたのは、「集団自決」が美化されていることでした。「お国」のために立派に死んだと表現されることに強く反発していたのです。

母の意向にしたがって、私は「母・宮城初枝の手記」を第一部とし、第二部(「集団自決」― 惨劇の光景)、第三部(海上特攻の秘密基地となって)を加えて本書を刊行しましたが、本書を執筆するにあたって、私はそれまで聞き取りを済ませた住民に再度戦時体験を確認し、また戦後生活の苦悩を含めた調査を改めて行いました。本書に記載した体験者の証言は、すべて私が直接聞き取ったものです。

また、あえて第四部(母・初枝の遺言―生き残ったものの苦悩)を書いたのは、戦後の梅澤氏の行動が許せなかったからです。当時の守備隊長として、大勢の住民を死に追いやったという自らの責任を反故にし、謝罪どころか身の“潔白”を証明するため狡猾な手段で住民を混乱に陥れた梅澤氏の行動は、裏切り以外の何ものでもありませんでした。私の母も宮村幸延氏も、亡くなるまで梅澤氏の行動に苦しめられ続けたのです。この第四部は、終わりのない座間味島の「戦後」を書いたものといった方が良いのかもしれません。

(2) 部隊長命令についての手記の書き改めについて


本書の手記では、母は、『家の光』掲載の手記(乙19)や『沖縄敗戦秘録―悲劇の座間味島』(下谷修久・乙6)掲載の手記に書いた「午後十時頃梅沢部隊長から次の軍命令がもたらされました。『住民は男女を問わず軍の戦闘に協力し、老人子供は村の忠魂碑前に集合、玉砕すべし』」との記述を削除し、本書38~40頁にあるように、3月25日夜に助役の宮里盛秀氏らに付いて梅澤部隊長のところに行ったときのことを書き加えました。

「老人と子供たちは軍の足手まといにならぬよう、忠魂碑の前で玉砕させようと思いますので弾薬をください」
との助役の申し出に対し、梅澤隊長はしばらく沈黙したのちに、沈痛な面持ちで
「今晩は一応お帰りください。お帰りください」
と、そのときは申し出に応じなかったもので、『家の光』(乙16)や下谷修久氏の本(乙6)に掲載した手記に書いたような梅澤部隊長の命令があったとはいえないというものです。

原告の梅澤氏は、3月25日夜の助役とのやりとりについて、
「決して自決するでない。生き延びて下さい」
と述べたと主張しているとのことですが、母は、1977年(昭和52年)3月26日の33回忌の日に私に経緯を告白して以来、本書に書いてあるとおり
「今晩は一応お帰りください。お帰りください」
と述べたと言っています。母は梅澤部隊長に申し訳ないという気持ちにかられて告白し、手記を書き改めたのですから、「決して自決するでない」と聞いたのなら、当然そのように私に話し、書いたはずです。

本書262頁に書きましたように、母は、1980年(昭和55年)12月中旬に那覇市のホテルのロビーで原告の梅澤氏に面会し、1945年(昭和20年)3月25日の夜の助役と梅澤氏とのやり取りについて詳しく話しましたが、梅澤氏は当夜の助役らとの面会そのものについて覚えていませんでした。「決して自決するでない」との梅澤氏の言い分は、記憶にないことを、自分の都合がいいように、あたかも鮮明に記憶しているかのように記述したものと思われます。もし記憶しておれば、梅澤氏はその時訪ねてきた助役・宮里盛秀氏の名前を、前述の「仕組まれた『詫び状』」(乙18)117頁で紹介しましたように「宮村盛秀」と、遺族の戦後改姓の苗字を書くはずはありません。

母は、少なくとも自分の目の前での部隊長の自決命令はなかったということでそのことを梅澤氏に告白し、手記を書き改めたのですが、確かに3月25日の助役とのやりとりの際に、梅澤部隊長は自決用の弾薬は渡していませんが、
「今晩は一応お帰りください。お帰りください」
といっただけで、自決をやめさせようとはしていません。住民が自決せざるをえないことを承知のうえで、ただ軍の貴重な武器である弾薬を梅澤氏自ら渡すことはしなかったというに過ぎなかったのではないかと思います。

後で述べるとおり、座間味島の日本軍は住民に対し、捕虜となることを禁止し、捕虜になった場合にいかに恐ろしいことになるかを教え込み、そして米軍上陸の暁には玉砕するよう訓示してきました。米軍の上陸が目前にせまったとき、自決用の手榴弾を渡すなどして、住民を自決するしかない状況に追いやったのは日本軍です。その最高指揮官が梅澤部隊長だったことを考えますと、これだけ大勢の住民が「集団自決」に追い込まれた事実は否定しようがなく、梅澤氏が自分には何ら責任がないのだと今日の行動に至ったことが、私にはむしろ疑問でなりません。

(3) 第3次家永教科書訴訟と母


母は、第3次家永教書訴訟を機会に自分の体験を含め沖縄戦をトータルで考えるようになりました。つまり、座間味島の「集団自決」の沖縄戦における位置づけについて自分なりに検証を始めました。ある日、母は新聞を切り抜きながら、
「国はいったい何を考えているのか」
「今度の裁判の証人である安仁屋先生がおっしゃるように、住民たちは自分で勝手に死んだのではない、国に殺されたのだ、日本兵による虐殺も“集団自決”も根はひとつであるのに、国側は(亡くなった人間の数の)バランスを問題にしている。こんな許せないことってあるか」
と怒っていました(「母は怒っています 教科書裁判をめぐって」(1988年2月19日沖縄タイムス夕刊 乙65)。

母の遺品から当時の家永裁判に関する新聞の切り抜きが多数出たことには驚きましたが、この裁判が母に自分の手記を活字にする決意をさせ、しかも娘の私に、自分の手記だけでは梅澤氏に責任がないような誤解を与えてはいけないからと、「集団自決」の歴史的背景や住民の惨劇を加筆して発行するよう指示したのだと思います。ちょうど梅澤氏が神戸新聞や東京新聞に自らの“潔白”を訴えだしたことで、住民がいかにも勝手に死んだような書き方がされたため、母は
「梅澤命令を訂正したことで、軍の命令がなかったことになってはいけない。隊長が3月25日の夜に会ったときに直接命令を下していなくても、住民は軍からの命令だと信じたことは事実だ」
と話していました。そして母自身も、駐留した日本軍と一つ屋根の下で暮らすようになってからは、「鬼畜米英」に捕まると女は強姦されてから殺されると教えられましたし、一人の軍曹から「立派に死になさい」と手榴弾を渡されたことで、死ななければならないという気持ちに追い込まれたわけですので、軍の駐留があったからこそ「集団自決」は起こったと、身をもって体験した一人だったのです。

(4) 助役の指示について


本書第三部215頁以下の「『玉砕』観念に支配されて」の項で、
「『命令は下った。忠魂碑前に集まれ』と、恵達から指示を受けた住民のほとんどが、梅澤部隊長からの命令だと思った。というのも、これまで、軍からの命令は防衛隊長である盛秀を通して、恵達が伝令を務めていたからである」
と書いたうえで、宮里盛秀助役について
「彼は村の助役として、三年余りにわたって『大詔奉戴日』の儀式を執り行い、住民の戦意高揚、天皇への忠誠心を指導してきた人物であった。追いつめられた住民がとるべき最後の手段として、盛秀は『玉砕』を選択したものと思われる」
と書きましたが、これが、母の手記の書き改め部分とともに悪用され、座間味島での「集団自決」について日本軍や梅澤部隊長に責任がないという主張の根拠とされたことについて、大変遺憾に思っております。

私は執筆の際、宮里盛秀氏が戦意高揚、天皇への忠誠心を指導してきた人物であったとしても、座間味島の日本軍の指示や命令なしに勝手に住民を「玉砕」させることが可能であったのかどうか疑問がありましたので、盛秀氏の父・宮村盛永氏の「自叙伝」(乙28)から、
「今晩、忠魂碑前で皆玉砕せよとの命令があるから、着物を着替えて集合しなさい」
という盛秀氏の発言部分を同時に掲載しました。

本書を書くにあたって、盛秀氏の妹の宮平春子さんから当時のことについて聴き取りをし、本書(216頁以下)にも書きましたが、春子さんを自宅に訪ねた際、山道の清掃作業に出かけているとのことで、私も那覇に戻る船の時間的制約がありましたので、春子さんを作業現場に訪ね、話しを聴かせてもらいました。ただ、宮里家の家族構成や壕の位置などの基本的な説明で話しがやや長引いたため、一緒に作業している皆さんから早く終わるよう急かされ、春子さんに迷惑がかかってはいけないと、私の方からの質問を遠慮し、春子さんの話すままに聴き留めました。したがって、1945年(昭和20年)3月25日夜の盛永氏の「自叙伝」にある「今晩、忠魂碑前で皆玉砕せよとの命令がある…」というやりとりについては、春子さんから話を聞くことはできませんでした。

しかし、後述するように最近宮平春子さんからその陳述書(乙51)に書かれている話を聞くことができました。春子さんの話によって、盛秀氏が座間味島の日本軍から、
「米軍が上陸してきたら玉砕するように」
と命令されていたことがはっきりしました。

ただいずれにせよ、私自身の不用意な文章の書き方が、日本軍の被害者でもある盛秀氏をいかにも加害者のような誤解を与えたことに、深く反省しております。後述するように、日本軍は住民に捕虜となることを禁じ、米軍上陸の暁には玉砕するよう訓示をしていたのです。さらには、自決用の手榴弾まで渡されていた人たちもおり、住民は日本軍によって自決するしかないという状況に追い込まれていました。また、村の行政は梅澤部隊長が指揮する日本軍の完全な支配下にあり、助役・兵事主任・防衛隊長は軍からの住民に対する命令の伝達機関となっていました。つまり、宮里盛秀助役ら村の幹部は、あらかじめ座間味島の日本軍から、米軍上陸時には玉砕するよう指示・命令されていたもので、だからこそ、助役らは梅澤部隊長に自決用の弾薬をもらいに行ったのであり、梅澤部隊長も自決をやめさせようとはしなかったものと考えられます。

(5)防衛隊について


本書(159頁)に「防衛隊は法的には根拠はなく、『兵役法』による防衛召集とは性質をことにするものであった」と書きましたが、安仁屋政昭先生が指摘しておられるように、防衛隊は陸軍防衛召集規則(陸軍省令)によるものでした。


4 集団自決と軍の命令について


座間味島の「集団自決」の状況は、本書第二部「『集団自決』惨劇の光景」などに書いたとおりです。

また、1944年(昭和19年)9月に日本軍の秘密基地となった以後、住民が「集団自決」に追い込まれるまでの座間味島の状況については、本書第三部「海上特攻の秘密基地となって」に書いたとおりです。

そこに書いたような状況から、座間味島の「集団自決」は日本軍の命令によるものと言わざるをえないと考えられます。その理由は次のとおりです。

(1)「軍官民共生共死の一体化」方針


沖縄の日本軍(第32軍司令官牛島満中将)は、1944年(昭和19年)11月18日に「報道宣伝防諜等に関する県民指導要綱」(乙33)を策定し、「軍官民共生共死の一体化」の方針を打ち出し、軍官民一体の総動員作戦を展開していました。

(2)座間味島での「軍官民共生共死の一体化」(陣地構築、食糧増産など)


本書に書きましたように、1944年(昭和19年)9月に座間味島に駐留を開始した日本軍も、この方針のもとに、住居の提供、陣地の構築、物資の運搬、食糧の供出・生産、炊事その他の雑役等に村民(男女青年団など)を駆り出し、村民の住居に兵士を同居させ、さらには村民の一部を軍の防衛隊に編入しました。生活になくてはならない漁船も船員ごと接収しました。

村は日本軍の「軍官民共生共死の一体化」の総動員体制に組み込まれたのですが、軍は村役場の会議室と地元の青年団が建設した青年会館に作戦本部を置き、村の行政組織を軍の指揮下に組み込み、村長、助役(=兵事主任、防衛隊長)などを通じて、村民に対して動員命令を下していました。

(3)秘密基地化と「捕虜」禁止・スパイ防止


本書に書きましたように、座間味島、阿嘉島、渡嘉敷島などは日本軍の海上挺進戦隊の秘密基地となりました。

座間味島では、軍は、スパイ防止のため、村民にスパイでないことを証明する布切れを付けさせていました(本書187頁)。また、軍は、機密保持のため、村民に島外への移動を禁止し、さらに米軍に投降することを堅く禁止しました。投降して米軍の捕虜になったからという理由で日本軍によって処刑された住民が実際にいます(乙49『座間味村史』上巻366~368頁、乙50『座間味村史』下巻48、106、115頁)。

(4)軍の玉砕訓示・指示など


座間味島の村民は、日本軍の隊長や兵士から、
「米軍の捕虜となった場合は女は強姦され、男は八つ裂きにされて殺される」
などと脅され、いざというときは「玉砕」(自決)するよう、繰り返し言い渡されていました。

座間味村に駐留していた日本軍は、村民とともに「玉砕」する方針を取っており、村民に対して米軍が上陸したときは玉砕するよう訓示していました。

大詔奉戴日に座間味島の忠魂碑前で日本軍出席のもとで村民に「玉砕」の訓示がなされていたことは本書(96~98頁)に書いたとおりです。これは、当時農業組合の職員であった宮里美恵子さんや婦人会の活動をしていた宮里とめさんから、
「この儀式に参加していた日本軍の将校から、鬼畜米英に捕まると女は強姦されてから殺され、男は八つ裂きにされる。その前に玉砕するように」
と訓示されたという証言を記録したものです。住民の倍もの日本軍が駐留しているため、自分の家に泊まっている将兵の名前以外はほとんど知らず、したがって訓示した将校の名前は知らないということでした。

また、宮村文子さんは、基地大隊の小沢隊長が、1944年9月の駐留直後に座間味島の浜辺に島の青年団を集め、米軍が上陸したら耳や鼻を切られるなどの虐待を受け、女は乱暴されるから自決するよう指示されたということを鮮明に覚えています(乙41陳述書)。私は宮村文子さんからこのことを直接聞きました。

座間味村の阿嘉島と慶留間島に駐留していた海上挺進第二戦隊の野田義彦戦隊長は、1945年(昭和20年)2月8日の大詔奉戴日に慶留間島の分校の校庭で住民に対し、米軍が上陸したときは玉砕するよう訓示しています(乙48與儀九英氏の回答書、乙49『座間味村史』上巻357頁、乙9『沖縄県史 第10巻』730頁)。この自決命令に従い、また、米軍上陸前後に住民は日本兵から自決をするよう指示され、その手段として手榴弾などが渡されました(乙9『沖縄県史』746頁宮平初子、738頁以下宮里とめ、甲B5『母の遺したもの』46頁宮城初枝、100頁宮平重信、乙50『座間味村史』下巻61頁宮里育江、乙51宮平春子陳述書、乙52上洲幸子陳述書、乙53・2007年5月14日付朝日新聞朝刊記事、乙62宮里育江陳述書など)。

夥しい数の米軍の艦船等によって島を包囲され、航空機による空爆や艦砲射撃による激しい攻撃が続く中、逃げ場を失っておびえている村民の元に届いたのが、
「軍の玉砕命令が発せられた」
という伝達でした。かねて日本軍の兵士から自決するよう指示されたり、自決用の手榴弾を渡された住民は、日本軍によって「集団自決」に追い込まれたのです。

(5)助役(兵事主任・防衛隊長)の伝令と軍命


座間味島の住民の多くは、1945年(昭和20年)3月25日の夜、役場職員の伝令から忠魂前に集まるよう伝えられています。この伝令は日本軍の駐留以来、軍の命令を住民に伝える役割があり、彼が艦砲射撃の中を息せき切って忠魂碑前に集まるよう伝えにきたことだけでも、住民は軍から自決命令が出たと受け止め、晴れ着を着て忠魂碑前に向かったのです。

これは、先に述べましたように、座間味島の人たちが、あらかじめ日本軍から米軍上陸時には投降することなく、玉砕するよう指示されていたからにほかなりません。捕虜となった場合、かねてから日本軍によって流布された鬼畜米英に殺されるという恐怖心が植え付けられていたことは当然ですが、秘密基地としての島の役割が敵に知られることをおそれ、住民が信用できない、あるいはスパイになりかねないという差別意識を持つ日本軍からどんな仕打ちを受けるかわからないという恐怖心も働いていたと思います。

座間味村の助役(兵事主任兼防衛隊長)の宮里盛秀氏は、1945年(昭和20年)3月25日の夜、父盛永氏らに、
「軍からの命令で、敵が上陸してきたら玉砕するように言われている。まちがいなく上陸になる。国の命令だから、いさぎよく一緒に自決しましょう。敵の手にとられるより自決したほうがいい。今夜11時半に忠魂碑の前に集合することになっている」
と告げたとのことですが(乙51宮平春子氏陳述書)、前述しましたように、私も最近宮平春子さんからそのとおり話を聞きました。盛秀氏ら村の幹部は、あらかじめ日本軍から、米軍上陸時には村民は自決するよう指示されていたので、伝令を通じて自決のため忠魂碑前に集合するよう村民に軍の命令を伝えたものと考えられます。

また、本書218~219頁にも書きましたが、忠魂碑から引き返してきた助役一家が農業組合壕に戻った際、大勢の住民が入っていて
「ここは役場職員の壕です。一般の方々は出てください」
と盛秀氏は住民に呼びかけます。しかし奥に入っている住民から
「死ぬなら全員一緒だ」
「壕を出されたら自分たちはどうすればよいのか。一緒に死なせてください」
と反発と懇願の声が上がりますが、その時に盛秀氏が
「皆さんは自由にしてください。自分のことは自分で考えてください。私には自分たちの責任しかとれず、あなた方の責任まではとれないのです」
と話したことが春子さんの証言でわかりました。つまり、盛秀氏が命令して「玉砕」しようというのであれば、何も住民を壕から追い出さず、一緒に死ねばよいだけのことですが、盛秀氏は、軍からの命令に従って自分の家族と役場職員の身の処し方を考えていたと思われます。

5 梅澤部隊長の指示・命令


このように、座間味島の「集団自決」は日本軍の指示・命令によるものと考えられますが、当時の座間味島の日本軍はすべて梅澤部隊長の指揮下にあり、梅澤部隊長が最高指揮官だったことは改めて言うまでもありません。そのことは、防衛庁防衛研修所戦史室著「沖縄方面陸軍作戦」(乙55)の232頁にもはっきりと書いてあります。したがって、座間味島の日本軍の指示・命令は最高指揮官である梅澤部隊長の指示・命令ということになります。

梅澤部隊長は、基地隊の小沢隊長や海上挺進第二戦隊の野田部隊長と同様、機密保持のため村民に投降して捕虜となることを許さず、米軍上陸時には村民も玉砕するとの方針を取っていたことは間違いないと思います。そして、この方針に従って、梅澤部隊長やその部下たちは宮里盛秀助役ら村の幹部に自決の指示・命令をし、助役らはこれを村民に伝え、前述したように自らは家族と役場職員で行動を共にしたと考えられます。また、日本兵らもこの梅澤部隊長の方針に従って村民に自決を指示したと考えられます。

助役ら村の幹部は頻繁に日本軍の本部に通い、梅澤部隊長らから様々な指示・命令を受けていました。それが、連日のように軍の命令として住民にもたらされた食糧の増産や供出、陣地構築などです。3月25日の夜に助役らが梅澤部隊長に玉砕用の弾薬をもらいに行ったのは、あらかじめ軍から玉砕を指示されていたからにほかならないと思いますが、その際に梅澤部隊長は、指示に従って助役らが玉砕することをわかっていながら、「今晩は一応お帰りください」と言っただけで、助役らを帰しています。このとき、梅澤部隊長が玉砕の指示・命令を取消し、村民を保護し、また、捕虜となることを認めていれば、「集団自決」は発生することはなかったはずです。

梅澤氏も、1980年(昭和55年)12月の私への手紙(乙66)で、「村の方々の集団自決は当時の実情の如何を不問私以下軍側の影響力が甚大であり当時軍を代表する者として全く申訳なき次第であります。」と、「集団自決」について責任を認めていました。

6 琉球新報の記事(甲B13)について


私が「軍命はなかったが」と発言したように書いてありますが、私はそのようには認識していませんし、そのように述べてはいません。

7 本書第四部「母・初枝の遺言」について


(1) 厚生省の調査


本書252頁に、厚生省(引揚援護局職員)の調査が1957年(昭和32年)4月に行われたと書きましたが、1956年の誤りではないかと思います。それは、母が13回忌の年だったかな?と言ったことで、私は確認をせずに1957年と書いたのですが、その後、『座間味村史』上巻416頁の戦後の年表に、1956年12月28日に南方連絡事務所から調査に来て、母が出席したという記録を見つけました。

このとき、隊長命令については、
「住民は隊長命令で自決したといっているが、そうか」
との質問に
「はい」
と答えたと書きましたが、それ以上に自分から説明はしなかったとのことです。

(2) 『沖縄県史 10巻』の聞き取り調査


本書258頁以下に『沖縄県史 10巻』の聞き取り調査での証言について、証言者に再確認したところ、「『証言』としては隊長命令はなかった」と書きましたが、それは、多くの住民は「隊長命令があった」と話しており、具体的にいつ隊長からどのように命令があったかということについては、そのような具体的な「証言」はなかったということです。また、自決体験者の悉皆調査をしたわけではなく、亡くなった方も大勢いらっしゃいますので、その方々が誰から直接指示されたかについてはわかりません。

(3)梅澤氏の反撃


本書266頁以下に「梅澤氏の反撃」について書きました。

① 神戸新聞(昭和60年7月30日 甲B9)に母初枝の話が掲載されていますが、母から神戸新聞の取材を受けたという話は聞いていません。神戸新聞の記者は電話で母に取材したといっているとのことですが、母の話として記事に書かれていることは母から聞いている話と相違します。
「最後まで生き残って軍とともに戦おうと梅澤隊長が言った」
などと母が新聞記者に話すはずはありません。本当に取材を受けたのか疑わしいと思います。

神戸新聞(昭和62年4月18日 甲B11)に、
「集団自決は、部隊長の命令ではなく、戦時中の兵事主任兼役場助役だった兄の命令で行われた」
との親書を宮村幸延氏が梅澤元部隊長に寄せたとの記事が掲載されました。その真相については、2000年夏に宮村幸延氏に会って話を聞き、本書268~269頁に書きました。また、その後「昭和史研究会会報第44号」に幸延氏が捺印したとされる書面(「証言」甲B8)が掲載されましたので、2005年7月に再度幸延氏とその妻文子さんに会い、「証言」を見せて話を聞きました。そのときの幸延氏と文子さんの話は「仕組まれた『詫び状』―宮村氏の名誉回復のために」(『歴史と実践第26号』乙18)に書きました。幸延氏は私が示した甲B8の「証言」を見て、
「あのときは、前夜の酒が残った状態で朝から酒を飲まされ、何も覚えていない。自分がこんなことを書く理由はないし、書けるわけもない」
と言い、
「別紙証言書は私し(宮村)が書いた文面でわありません」
との書面(乙17)を私の目の前で書きました。

以上のとおり相違ありません。


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