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「沖縄ノート」"IX-「本土」は実在しない"より

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「沖縄ノート」エピローグ

"IX-「本土」は実在しない"より


「沖縄ノート」
著者 大江健三郎 
発行 岩波書店
岩波新書(青版)762
1970年9月21日 第1刷発行

裁判原告による切り取りは、文脈を無視したいささか歪曲の恐れもあるので、この著作の意図および文意文脈がわかる、最小限度の引用を試みます。



IX-「本土」は実在しない


僕が、ここに書きつづけてきた、沖縄を核(コア)として、日本人としての自己検証をめざすノートは、しだいに論理的な完結の印象とともに閉じることができぬものと自覚されてきた。僕はこのノートを開いたまま自分のうちに持ちつづけるだろう。いうまでもなく僕は、そもそものはじめから自分がくりかえしてきた、日本人とはなにか、このような日本人ではないところの日本人へと自分をかえることはできないか、という内部への問いについて、どうなのだ、いくらかなりとおまえの非カな腕が押している、重い蝸牛の車は前をむいて進んだのか、と揺さぶりをかけられるのを感じないではいない。それに対して僕は、ますます自分の視界にうす暗い霧がかかってきた、と不甲斐ないことを中間報告するのではあるが、しかしこの問いかけを自分の内部の永久運動体として持ちつづけてゆこうとしていることをもまた、後戻り不能の歯どめのようにやわな自分の頭と肉体のすぐわきに打ちこむ杙(くい)の言葉としてここに記しておきたいのである。

『沖縄救済論集』におさめられた東京からの新聞記者の旅行記の文章に、いくぷん雑駁ではあるが、沖縄の現実に接して、それに密着した、しかも人間的な根源のところにまっすぐはいりこんでくる性格の観察力を感じさせる、次のような一節があった。
―204―

孤島苦とは?
――お前は生きてゐるか?
――生きてをります。
――お前の動脈を絶って、血の循環をとめてみろ――

僕はこのような言葉を、うわすべりな比喩としてでなく、想像カの発揮のためのとっかかりとして所有したいのであるが、実際にくりかえし、自分の動脈を絶って、血の循環をとめてみるようにしつつ、さきの命題を考えつづけたいとねがうのである。佐藤・ニクソン共同声明以後、日本人の、沖縄についてエゴイズムをさらけだした態度、沖縄とそこに住む人次を中心にすえて思考するところの想像力の欠如の、様ざまな実例は、ますます頻繁にあらわれ、僕の視界いちめんに山積みされようとするかのごとくである。

たとえば沖縄の国政参加について、沖縄の現場で、また本土で研究生活をおくってきた沖縄の学者によって、それぞれに、沖縄と日本全体の近代史と未来イメージに根ざした検討が、おたがいに正面から激突するようにしておこなわれている。本土の政治家たちは、そのような沖縄での検討にあいつうじる深みに想像力の基盤をおきつつ、国政参加の課題を考えているか? まったくみもふたもないほど露骨に、本土のエゴイズム、陋劣なお家の事情にのみのっとって
―205―

沖縄の国政参加がここでいじくり廻されているのではないか。

三月なかぱ本土の報道は突然に、沖縄の国政参加のための法案の今国会への提出が危ぷまれる状態になったと報じ、そもそもの国政参加の早急実現の口火が、首相の唱導によってきられたことを思い出させつつ、ほかならぬかれの自民党の、候補者の公認調整(!)が難航しそうであるために、引き伸ばし策がとられている模様だと解説した。国政参加の課題を中心にして、沖縄の存在の、歴史と本質に深くえぐりこんだ検討が、沖縄の現場でなされている時、わずかながらにしてもそれに答えるどころか、党の内部のお家の事情によって、わが保守党は法案の提出時期を算段しているというのである。

もっとも、国政参加の課題への、かれらなりの留保条件が、一応はまともな響きのする言葉によっていることは日ごろの例にもれない。自民党外交調査会では、《完全復帰前に、沖縄代表議員に対して、沖縄関係だけでなく、すべての案件について、議決権を与えるのは、憲法にふれるおそれがある》といい、おなじ党の憲法調査会でも「憲法上疑義がある」という意見が出るという調子であった。

数日たって自民党政調審議会は、《沖縄住民が現在租税負担をしていないことなどを理由》とする異論があったとわざわざ示しつつ、しかし大勢は、沖縄住民の国政参加についての特別措置法案を認める方向にあるという、中間報告をした。報告は、外遊中の党の実力者の帰国をま
―206―

って政府・与党首脳会議を開き、考え方をまとめるという情報をともなっていた、党の実力者の! そのように自己中心的な、すなわち沖縄そのものに動機があるのではない曲折をへて、わざとらしい工作による一連の貸しや借りをつみたてたあと、結局は沖縄の国政参加の課題を自民党が決定し、そして議会が決定したのであったが、ここではっきりしているのは、これらの全経過にわたって、沖縄からの声が二の次以下であったことのみならず、実は憲法についても誰ひとりまともに原理的に考えてみたのではないことである。

沖縄の民衆にとって、これまではもとよりこれからはより直接的に、日本人の議会で議決される「すべての案件」が、「沖縄関係」である。すべてが沖縄とそこに住む人間に関係がある。そのように具体的に問題を展開しないまでも、現在の沖縄のありようは、憲法にふれるおそれがないのか、憲法上疑義がないのか? 沖縄の国政参加について、いま実際的なプログラムを身勝手にいじくりまわしながら、憲法の名を持ち出す時、自民党の政治家たちはその廉恥心において手が震えるということはないのか? これはハノイに旅したアメリカ人たるスーザン・ソンタグが発見してきた用語であるが、かれらに倫理的想像カ moral imagination はいささかもないのか? もとより僕はこのような暗くあてどない憤りの声をかれらに日本人の名においてつらなっているところの、そこから吹きあげてくるなまぐさい風にあたると、まったく意気沮喪してしまう、おぞましい自分の内部の墜道にむけて発するのみなのであるが。
―207―

このような報道とかさねあわすようにして新聞は、慶良間列島の渡嘉敷島で沖縄住民に集団自決を強制したと記憶される男、どのようにひかえめにいつてもすくなくとも米軍の攻撃下で住民を陣地内に収容することを拒否し、投降勧告にきた住民はじめ数人をスパイとして処刑したことが確実であり、そのような状況下に、「命令された」集団自殺をひきおこす結果をまねいたことのはっきりしている守備隊長が、戦友(!)ともども、渡嘉敷島での慰霊祭に出席すべく沖縄におもむいたことを報じた。僕が自分の肉体の奥深いところを、息もつまるほどの力でわしづかみにされるような気分をあじわうのは、この旧守傭隊長が、かつて《おりがきたら、一度渡嘉敷島にわたりたい》と語っていたという記事を思い出す時である。

おりがきたら、この壮年の日本人はいまこそ、おりがきたと判断したのだ、そしてかれは那覇空港に降りたったのであった。僕は自分が、直接かれにインタヴィユーする機会をもたない以上、この異様な経験をした人間の個人的な資質についてなにごとかを推測しようと思わない。むしろかれ個人は必要でない。それは、ひとりの一般的な壮年の日本人の、想像力の問題として把握し、その奥底に横たわつているものをえぐりだすべくつとめるべき課題であろう。その想像力のキッカケは言葉だ。すなわち、おりがきたら、という言葉である。一九七〇年春、ひとりの男が、二十五年にわたるおりがきたら、という企画のつみかさねのうえにたって、いまこそ時は来た、と考えた。かれはどのような幻想に鼓舞されて沖縄にむかったのであるか。か
―208―

れの幻想は、どのような、日本人一般の今日の倫理的想像力の母胎に、はぐくまれたのであるか? 

まず、人間が、その記憶をつねに新しく蘇生させつづけているのでなければ、いかにおぞましく恐しい記憶にしても、その具体的な実質の重さはしだいに軽減してゆく、ということに注意をむけるべきであろう。その人間が可能なかぎり早く完全に、厭うべき記憶を、肌ざわりのいいものに改変したいとねがっている場合にはことさらである。かれは他人に嘘をついて瞞着するのみならず、自分自身にも嘘をつく。そのような恥を知らぬ嘘、自己欺瞞が、いかに数多くの、いわゆる「沖縄戦記」のたぐいをみたしていることか。

たとえば米軍の包囲中で、軍隊も、またかれらに見棄てられた沖縄の民衆も、救助されがたく孤立している。そのような状況下で、武装した兵隊が見知らぬ沖縄婦人を、無言で犯したあと、二十数年たってこの兵隊は自分の強姦を、感傷的で通俗的な形容詞を濫用しつつ、限界状況でのつかのまの愛などとみずから表現しているのである。かれはその二重にも三重にも卑劣な強姦、自分たちが見棄てたのみならず、敵にむけるはずであった武器をさかさまに持ちかえておこなった強姦を、はじめはかれ自身に、こまかし、つづいて瞞着しやすい他人から、もっと疑り深い他人へと、にせの言葉によって歪曲しつつ語りかけることをくりかえしたのであったろう。そしてある日、かれはほかならぬ強姦が、自分をふくめていかなる者の眼にも、美しい
―209―

つかのまの愛に置きかえられえたことを発見する。かれは、沖縄の現場から、被害者たる沖縄の婦人の声によって、いや、あれは強姦そのものだったのだと、つきつけられる糾弾の指を、その鈍い想像力において把握しない。

【引用者註】日本兵による強姦については、佐木隆三氏が証言をもとにルポルタージュしている。

慶良間の集団自決の責任者も、そのような自己欺瞞と他者への瞞着の試みを、たえずくりかえしてきたことであろう。人間としてそれをつぐなうには、あまりにも巨きい罪の巨塊のまえで、かれはなんとか正気で生き伸びたいとねがう。かれは、しだいに稀薄化する記憶、歪められる記憶にたすけられて罪を相対化する。つづいてかれは自己弁護の余地をこじあけるために、過去の事実の改変にカをつくす。いや、それはそのようではなかったと、一九四五年の事実に立って反論する声は、実際誰もが沖縄でのそのような罪を忘れたがっている本土での、市民的日常生活においてかれに届かない。一九四五年の感情、倫理感に立とうとする声は、沈黙にむかってしだいに傾斜するのみである。誰もかれもが、一九四五年を自己の内部に明瞭に喚起するのを望まなくなった風潮のなかで、かれのペテンはしだいにひとり歩きをはじめただろう。

本土においてすでに、おりはきたのだ。かれは沖縄において、いつ、そのおりがくるかと虎視眈々、狙いをつけている。かれは沖縄に、それも渡嘉敷島に乗りこんで、一九四五年の事実を、かれの記憶の意図的改変そのままに逆転することを夢想する。その難関を突破してはじめて、かれの永年の企ては完結するのである。かれにむかって、いやあれはおまえの主張するよ
―210―

うな生やさしいものではなかった。それは具体的に追いつめられた親が生木を折りとって自分の幼児を殴り殺すことであったのだ。おまえたち本土からの武装した守傭隊は血を流すかわりに容易に投降し、そして戦争責任の追及の手が二十七度線からさかのぼって届いてはゆかぬ場所へと帰って行き、善良な市民となったのだ、という声は、すでに沖縄でもおこり得ないのではないかとかれが夢想する。しかもそこまで幻想が進むとき、かれは二十五年ぷりの屠殺者と生き残りの犠牲者の再会に、甘い涙につつまれた和解すらありうるのではないかと、渡嘉敷島で実際におこったことを具体的に記憶する者にとっては、およそ正視に耐えぬ歪んだ幻想をまでもいだきえたであろう。このようなエゴサントリクな希求につらぬかれた幻想にはとめどがない。おりがきたら、かれはそのような時を待ちうけ、そしていまこそ、そのおりがきたとみなしたのだ。

日本本土の政治家が、民衆が、沖縄とそこに住む人々をねじふせて、その異議申立ての声を押しつぷそうとしている。そのようなおりがきたのだ。ひとりの戦争犯罪者にもまた、かれ個人のやりかたで沖縄をねじふせること、事実に立った異議申立ての声を押しつぷすことがどうしてできぬだろう? あの渡嘉敷島の「土民」のようなかれらは、若い将校たる自分の集団自決の命令を受けいれるほどにおとなしく、穏やかな無抵抗の者だったではないか、とひとりの日本人が考えるにいたる時、まさにわれわれは、一九四五年の渡嘉敷島で、どのような意識構
―211―

造の日本人が、どのようにして人々を集団自決へと追いやったかの、およそ人間のなしうるものと思えぬ決断の、まったく同一のかたちでの再現の現場に立ちあっているのである。

【引用者註】当時、軍はその内部では、沖縄住民のことを「土民」と呼んでいた。「土民」は南方植民地住民を呼ぶときの言葉であったし、信用できないという気持ちがにじんでいる。「独立混成第15連隊本部陣中日誌」

罪をおかした人間の開きなおり、自己正当化、にせの被害者意識、それらのうえに、なお奇怪な恐怖をよびおこすものとして、およそ倫理的想像カに欠けた人間の、異様に倒錯した使命感がある。すでにその一節をひいたハンナ・アーレントのアイヒマン裁判にかかわる書物は、次のようなアイヒマン自身の主張を収録していた。「或る昂揚感」とともにアイヒマンは語ったのである。

《およそ一年半ばかり前〔すなわち一九五九年の春〕、ちょうどドィツを旅行して帰って来た一人の知人から私は或る罪責感がドイツの青年層の一部を捉えているということを聞きました……そしてこの罪責コンプレックスという事実は私にとっては、謂うならば人間をのせた最初のロケットの月への到着がそうであるのと同じぐらい、一つの画期的な事件となったのです。この事実は、それを中心に多くの思想が結晶する中心点となりました。私が……捜索班が私に迫りつつあるのを知ったとき……逃げなかったのはそのためです。私にこれほど深い印象を与えたドイツ青年のあいだの罪責感についてのこの会話の後では、もはや自分に姿をくらます権利があるとは私には思えなかった。これがまた、この取調がはじまったときに私が書面によって……私を公衆の前で絞首するように提案した理由です。私はドイツ青年の心から罪責の重荷
―212―

を取除くのに応分の義務を果たしたかった。なぜならこの若い人々は何といってもこの前の戦争中のいろいろな出来事や父親の行動に責任がないのですから。》

おりがきたとみなして那覇空港に降りたった、旧守備隊長は、沖縄の青年たちに難詰されたし、渡嘉敷島に渡ろうとする埠頭では、沖縄のフェリーボートから乗船を拒まれた。かれはじつのところ、イスラエル法廷におけるアイヒマンのように、沖縄法廷で裁かれてしかるべきであったであろうが、永年にわたって怒りを持続しながらも、穏やかな表現しかそれにあたえぬ沖縄の人々は、かれを拉致しはしなかったのである。それでもわれわれは、架空の沖縄法廷に、一日本人をして立たしめ、右に引いたアイヒマンの言葉が、ドイツを日本におきかえて、かれの口から発せられる光景を思い描く、想像カの自由をもつ。かれが日本青年の心から罪責の重荷を取除くのに応分の義務を果したいと、「或る昂揚感」とともに語る法廷の光景を、へどをもよおしつつ詳紬に思い描く、想像力のにがい自由をもつ。

この法廷をながれるものはイスラエル法廷のそれよりもっとグロテスクだ。なぜなら「日本青年」一般は、じつは、その心に罪責の重荷を背おっていないからである。ハーレントのいうとおり、実際はなにも悪いことをしていないときに、あえて罪責を感じるということは、その人間に満足をあたえる。この旧守備隊長が、応分の義務を果たす時、実際はなにも悪いことをしていない(と信じている)人間のにせの罪責の感覚が、取除かれる。「日本青年」は、あたか
―213―

も沖縄にむけて慈悲でもおこなったかのような、さっぱりした気分になり、かつて真実に罪障を感じる苦渋をあじわったことのないまま、いまは償いまですませた無垢の自由のエネルギーを充満させて、沖縄の上に無邪気な顔をむける。その時かれらは、現にいま、自分が沖縄とそこに住む人々にたいして犯している犯罪について夢想だにしない、心の安定をえるであろう。それはそのまま、将来にかけて、かれら新世代の内部における沖縄への差別の復興の勢いに、いかなる歯どめをも見出せない、ということではないか?

おりがきたら、とひたすら考えて、沖縄を軸とするこのような逆転の機会をねらいつづけてきたのは、あの渡嘉敷島の旧守傭隊長のみにとどまらない。日本人の、実際に膨大な数の人間がまさにそうなのであり、何といってもこの前の戦争中のいろいろな出来事や父親の行動に責任がない、新世代の大群がそれにつきしたがおうとしているのである。現にいま、若い世代の倫理的想像カの世界において、在日朝鮮人をめぐりどのような事態がおこっているかを見よ。ごく一般の愚かしい高校生が、なにものとも知れぬものにつながる使命感、「或る昂揚感」に揺り動かされて、その稚い廉恥心すらそこなうことなく、朝鮮高校生に殴りかかる実状を見よ。この前の戦争中のいろいろな出来事や父親の行動と、まったくおなじことを、新世代の日本人が、真の罪責感はなしに、そのままくりかえしてしまいかねない様子に見える時、かれらからにせの罪責感を取除く手続きのみをおこない、逆にかれらの倫理的想像力における真の罪責感
―214―

の種子の自生をうながす努力をしないこと、それは大規模な国家犯罪へとむかうあやまちの構造を、あらためてひとつずつ積みかさねていることではないのか。

沖縄からの限りない異議申立ての声を押しつぷそうと、自分の耳に聞こえないふりをするのみか、それを聞きとりうる耳を育てようとしないこと、それはおなじ国家犯罪への新しい布石ではないのか。佐藤・ニクソン共同声明のあと、われわれの政府がおこなっている工作と宣伝は、まったく剥きだしにその方向づけにある。「沖縄問題は終った」という呪文は、じつはそれをくりかえしとなえることによって、沖縄への罪責感、戦争責任・戦後責任はもとより、沖縄からの異議申立ての声ともども、「沖縄」そのものが実在しなくなることすらをめざしての、まことにその根源において全破壌的な、恐しい呪文である。

あヽ蛇皮線の糸の途絶え―。そのやうに思ひがけなく、ぷつつりと―とぎれたやまと・沖縄の民族の縁(エニシ)の糸。

敗戦後一年の秋に折口信夫が沖縄を憶った文章のむすぴの、この激しい嘆きの言葉は、組踊りに綜合される音楽、舞踊、演劇が、沖縄戦における風土と人間の壊滅とともに失なわれてしまった、とする観測においては、あやまった見とおしに立って発せられた。沖縄の音楽、舞踊、演劇は、強靱にまもりぬかれた。しかもそれは民衆のうちがわから自然発生するかのように折
―215―

にふれて湧きおこってくる芸能から、組踊りの完成された様式にいたるまで、すべての段階において滅びることがなかったのである。もっともそれはほかならぬ沖縄の民衆自身の子によってまもりぬかれたのであり、土地接収に抵抗する現場でも、蛇皮線の音楽と即興の琉歌が提示されるような内発性によって、そのエネルギーを充填されつづけてきたのであり、やまとの氏族がその復興のためになにごとかをなしたというのではなかった。

むしろ、折口信夫の洞察にかかる、もっとも深い核心において、確かにぷっつりとやまと・沖縄の民族の縁(えにし)の糸は、とぎれてしまっていたと、現在も、未来にわたっても、根源のところで、蛇皮線の糸の途絶えのようにも、それはとぎれてしまったままだ、というべきであるかもしれないのである。なぜなら、現在のおよそ反・歴史的な方向づけのなかの、端的にいえば米軍基地にうずまっている沖縄島で、軍政のもとにドル貨をもちいる生活をしながら、執拗に沖縄芸能を守る行為のうちには、占領軍へのはっきりした拒絶と共に、やまと民族へのしたたかな拒絶もまた、こめられているのではないかと、正当に疑われるからである。

僕は『沖縄の母親たちその生活の記録』におさめられた、すでに一挿話というよりはるかにその限界をこえて普遍的な問いかけを発してくる状景を想起する。それは若くして本土の紡績工場で働き、差別と闘わねばならなかった婦人が沖縄に帰省してのち、今度は新しい日々の闘いにむかった回想を語る文脈にあらわれてくるものである。最初の結婚において、子供に
―216―

めぐまれず離縁された彼女は、五人もの子沢山の教員の後妻となった。沖縄戦において、南部戦線にかりだされた夫の留守を、老いた義母と子供らをかかえて彼女ひとりが守らねばならない。空襲、砲撃をさけて彼女たちは一族の亀甲墓(きつこうぱか)にかくれる。

《そうしたある日、突然アメリカ兵がやって来ました。そのときの様子はいまも忘れられません。おばあさんは、墓場から出るといきなり、トーシンドーイの歌をぶっつけて、
「サンラー、イチャガスイラー("三郎どうする"という意味で、さわぎのときのふざけことば)、ワラビンチャーモーレー(子供たちよ舞え)」
といって、畑のなかで、トーシンドーイを舞い狂いました。》

那覇の民謡『唐船どうい』は、危険にみちた海の旅を乗りこえて中国からたどりついた唐船に、あるいは家族、あるいは知人とその消息をもとめて、いっさんに港へ走る人汝の叫び声にはじまっている歌であるが、この場合、その歌の言葉の意味あいを、老女の激しい踊りにかさねあわせつついちいち穿鑿する必要はないであろう。日本軍に戦火のなかで見棄てられ、そしてついに異様に強大な敵軍のまえに投降しなければならぬ、その絶体絶命の場所で、歌いつつ舞い狂う老女は、そのまま日本軍、米軍をともに拒絶しながら、沖縄の民衆としての自己表現に、すべての情念を燃やしている人間である。

そのようなきみの言葉は誇大に響く、という声があるかもしれない。しかし本土のどのよう
―217―

な地方の方言によってであれ、子供たちよ舞え、と歌い叫びつつ、巨大な占領軍の武器のまえで舞い狂う老女を実際に想像できようか。それがおよそおこないがたい想像だとすれば、沖縄のこの無名の老女と、われわれの間には、容易にこえがたい裂け目が開いているのであり、その深い裂け目の向うで舞い狂っている老女によって、まずわれわれはしたたかに拒絶されていると認めるべきであろう。日本軍が戦場に老女を見棄て、米軍が瓦礫の上で老女を降伏せしめた、しかしそのふたつの強権につながるもののいずれもが、そしてそれはいまやほかならぬわれわれが、ということにおいて今日の課題なのであるが、この老女から突き離され、見かぎられているのである。誰がこの舞い狂う老女を、真に屈伏せしめえよう?

沖縄の民衆の意識構造のひとつのかたちとして、中央指向性ということが、しばしばいわれてきた。歴史において、本土からむりやり入りこんでいった強大な力がそれを要求したのである。またそのような被差別状況からの脱出をねがうものたちが、みずから中央への指向を選んだのでもあった。民衆のもっとも低辺の層にたいして、中央指向を強要する強権の暴カがどのようなことをしたかは、大戦中、重慶を中心に活動した日本人の反戦同盟による放送テキストのひとつが、次のようにきわめて具体的に語っている。数多くの沖縄出身の兵士たちにむけて、前線の向うがわからこの声は語った。

《……慶良間に起った事実。赤神という出世兵士の家族が暮しに困って、税金を納めなかっ
―218―

たので、役場員がどなりこんだ。……「なんだ、金がないないといって、こんな金めのものがいるではないか。子供だとてもやはり日本人で、お上に奉公する義務があるんだ。今は国家の大事なときだから、子供を売って税金を納めろ!」母親は涙を流して「そうではありましょうが、この子は出征した夫のたったひとりの忘れがたみですから、夫の無事に帰るまで待ってください」というと、「おまえはそういうけれど、よく考えてみるがいい。どうせわれわれ臣民は、おそかれはやかれ御奉公しなければならないのだ。それに子供は親のためにはどんな苦しみをしのんでも親孝行する義務があり、また親は当然そうさせる権利があるのだ……」とついに母親をときつけて、その子供を売らせることにした。その金は全部税金として取上げていった。そして、その若い母親も後には那覇の辻町に女郎として身を落してしまった。》

稚拙な語り口ゆえにかえってその現実性を疑うことのむつかしいこの挿話の(故古堅宗憲氏の実兄もまた、糸満の漁師に売られかけた幼時の経験を語ったことを想起されたい)、語り手たる反戦兵士が、そのように赤裸な国家権力に強制されての中央指向を、その行動と思想によって乗りこえている人間であったであろうことは疑いようもない。それは証拠不足の単なる憶測にすぎぬではないか、政治的スローガンのうちに人間的な選択とその思想としての展開の劇を見るのは軽率なのではないかというためらいがあるとすれば、それをつきやぷるには日中戦争の前線の向うから、日本と沖縄の現実を見わたす者の眼になにがどのように見えたかを、想
―219―

像することだけで充分であろう。

逆にいえぱ、いったい誰がどのようにして、ごの兵士の視野を、日本の「中華思想」的感覚の枠内に、日本本土へむけての中央指向性の限界内にとどめておきえたであろう。この反戦兵士は、続いて次のように報告し、昭和十六年八月の八重山での反戦集会と、そこにのりこんできて演説者の学生たちを逮捕しようとした巡査が、民衆の袋だたきにあったことをつたえているのである。《だが、沖縄出身の兵士たちよ、あなたたちの家族は子供を奴隷に売らねばならぬほど餓えているが、あなたの同胞のなかには、すでに今度の戦争の侵略的罪悪を自覚し、反戦反軍部の運動をやっている勇敢な人もある。》

これまでにものべたように、伊波普猷や伸原善忠をはじめとする、一応は本土の体制に協カ的な人間として戦争をのりこえた、沖縄の先駆的な知識人についても、かれらの生涯の全体を眺めるうちに、またかれらの自己表現の細部を注意深くみるうちに、そこには決して日本の「中華思想」的感覚にのみこまれず、天皇制国家のピラミッドを支える中央指向性にたいしても、したたかな相対主義の自由を放棄することのなかった面だましいが実在することを、僕は見出さぬわけにゆかなかった。

そして「戦後」の二十五年、米軍の核兵器をもふくむ前進基地として、膨大な量の毒ガスと同居し、原子力潜水艦によって港と魚たちを汚染され、朝鮮戦争からヴィエトナム戦争にいた
―220―

る、ずっと持続した戦争の現場に、日本および日本人から放置されてきた沖縄の人間が、どのようににがい民衆意識、意識構造をあらためて獲得して、日本、アジア、世界へとひろがる鋭い、幻想なしの展望の中心にかれら自身を置くにいたったかを、それにつなげて考えようとすれば、もっと若くもっとたくましい面だましいの沖縄の人々が、まさにはっきりと、しかも多様に、僕の眼のまえに立ちならぶ。

そしてそのような現実の認識を踏まえては、沖縄の人間の中央指向性ということも、いわば窪んだ幻のイメージとしてのみ、ほかならぬ本土の日本人に保有されているだけではないかと、疑われるのである。たとえば、戦前の沖縄における選挙の、本土からの輸入侯補がまことに赤裸にしめしたような中央指向性の考えかたを、現在の沖縄とそこに生きる人々が決して受けいれはしないであろうことを確認しつつ、しかもなお本土には今日、そのような存在を沖縄にあらためて「輸出」できるやもしれぬという、「中華思想」的感覚の強権の幻想がありうることを考え、そのふたつのあいだの落差を見つめることこそが、本土の日本人自身にとって、いまや切実な課題であると思われるのである。

ここで僕は、自分がこれまで終始つかってきた「本土」という言葉と、それが二十七度線の両側の民衆の意識構造にかかわって、また日本の強権にかかわって、内包するところのものに、あらためて面とむかわねばならない。おそらく僕はここに書きつづけてきた文章において、沖
―221―

縄という言葉と同じほどにもひんぱんに、「本土」という言葉を使用してきた。しかもその文字を書きつけるたびに僕の内部でひそかな抵抗感があり、なにごとか留保条件をつけなければならぬという欲求につながる、気がかりな異物感がふくらんできたのであった。「本土」とはいったいなにか、「本土」の日本人とはいったいいかなるものか?

言葉としての「本土」は、まずふたつの意味づけに分離して検討されなけれぱならない。沖縄へやってきた旅行者、そこに滞在する報道者が、並はずれて鈍感な人間だというのでない場合、かれは沖縄に住む人々と話しながら、一種くちごもるような躊躇をこえて、「本土」という声を発するのがつねであろう。それは沖縄―内地という対比関係あるいは、沖縄―日本という対比関係をしのばせる言葉を使用することを自分が望まぬゆえに、または、相手に遠慮するゆえに、沖縄を訪れる人間が発明した苦しまぎれの用語法であった。それは、内地という言葉を希望しないゆえに、あるいは、日本という言葉を沖縄に対比して用いることをはばかるゆえに、すなわち、消極的(ネガテイヴ)な動機で選ぴとられた言葉であった。したがって、果たして「本土」という言葉にあたる実体が積極的(ポジテイヴ)に実在するのか、どうか、とみずから間いつつ、「本土」という言葉が使用されてきたのではなかったのである。それを考えればなおさらに「本土復帰」という政治的決定によって、沖縄―「本土」の言葉としてのダイナミズムが、その内容はあいまいなまま解消されようとしているいま、僕はあらためて、「本土」という言葉の実体を、積極
―222―

的(ポジティブ)に把握したいとねがうのである。

沖縄における知識人の、複雑かつ微妙な意識の繋りを、そのひだひだにはいりこんでとらえつつ、そのまま埋没するのではない強い平衡感覚をそなえた、詩人であり指導的なジャーナリストでもある『沖縄精神風景』の著者は、幾重もの屈折をこめて「本土」という言葉のなりたちとつかわれかた、それにからむ心理の網を語っていた。

《……いまの沖縄はたしかに異常な境遇である。その異常性を百も承知ですごす側と、それを眺めてなにかと気を回す側とでは立場はずいぶん違う。いま沖縄の方で、日本? を呼ぷのに日本ではいけないのである。そこで考え出したのが「本土」である。新聞の編集者が、ない知恵をしぽってひねり出した名称は、内地でもなくまさに本土である。

 内地は戦前から沖縄人のコンプレックスから禁句同様になっていたので、とうとう本土と言い変えたわけである―、と沖縄人はいうかもしれない。これは明らかに苦肉の策である。その「本土」がいまでは「本土」で立派に通用するようになった。
 相手の顔色をよむということは、それが卒直であればあるほどぎこちないものである。善意に満ちておれぱなおさらで、これはかえって余計な負担になるものだ。ある人が沖縄人との対話のさなか「日本では……」といった。もちろん彼は日本人? である。きいているものも日本人? のつもりでいるし、その点についていささかの疑念をさしはさむ余地もないのである
―223―

が、相手はあわてて「いや本土では」とすかさず言い直されると困ってしまうのだ。》

言葉の質量において、この「本土」という言葉が、沖縄人という言葉の重さ、確実さの前にいかに稀薄であるかを、この文章そのものが具体的にくっきり浮びあがらせる。重く沈黙して、しかし穏やかな微笑は失なわないままに、「善意に満ちた」日本人? に対していたであろうこの沖縄人が、いったいあなたにおいて自覚されている本土、本土人の、積極的(ポジティブ)な意味内容とはどのようなものですか、と訊ねかえしたとすれば、相手はそれこそ徹底的に言葉に窮したにちがいないであろう。消極的(ネガテイヴ)な、その場しのぎの方便によって「本土」という言葉があみだされ、積極的(ポジテイヴ)な内容は確かめられないままに通用してき、そして「本土復帰」という言葉が、この二十五年間まことに一歩ずつ地道に確かめられてきた、真に沖縄的なるものの存在を、なしくずしに吸いこんでしまおうとしているのである。

それによって「本土」の日本人は、気懸りな異物のように自分の存在を主張し、その主張にまっすぐ耳をかたむけるとすれば、隈りない異議申立ての声となってそれが響くことに気づき、ひいては、「本土」の日本人たることの根底を疑わねばならなかった、恐しい未決の課題たるところの沖縄を、衛生無害な既決の箱に整頓しようとしているのである。またそれによって、沖縄に根ざしている新しいアジア観を、またそこに生きる人々が、自分の血で洗うようにして塵や挨から守ってきた憲法の精神、自立した民主主義の感覚を受けとめることを拒もうとして
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いるのである。

それは、日本が沖縄に属する、という命題のマイナスの面をそのままひきつぐとともに、すなわちほとんど永久化するであろう核基地沖縄のしっぽに、日本列島が縛りつけられている状態を、あらためて自分からひきうけるとともに、この命題のプラスの面、すなわち、いま沖縄で発見され、確認され、経験によって補強しつつ持続されている、新しいアジアにおける日本の展望を根こそぎにし、そのまま枯死せしめようとしているということであろう。

いま沖縄において、核時代におけるあらゆる日本人の死と再生の契機を、そのままに具体化してみせているところの開いた傷口に対して、頗かぷりしたままでいる姿勢を、ついに後戻り不能なところにまで固定化するということであろう。そのような現実の見とおしをふまえて「沖縄問題は終った」と、おおかたの日本人がいう事態になれば、その時、太平洋の向うで「日本間題は終った」と、さばさばした顔の連中がうそぶく声もまた、はっきり聞えてくる筈である。その時はまた、もっと切実な憤怒と苦渋に恥ちた声が「日本問題は終った」と、広大なアジァ大陸において宣告するのを聞く時でもまたあるのではなかろうか?

沖縄人の意識構造を分析しつつ、東江平之氏は、《「本土」という変則的語が通用しているだけでも驚異である、「本土へ行く」といえば、どこへ行こうがあとは問題にはならない程に「本土」は全部同質的に知覚されるのである》と指摘していた。そのような古い意識構造を克
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服した、新しい沖縄の人々が、沖縄、沖縄人の実質において、「本土」の日本人につきつけてくる限りない異議申立ては、それをまともに聞く「本土」の人間にたいしで直裁に、「本土」という消極的(ネガテイヴ)な言葉には、あいまいな幻想よりほかの実体はないのであり、虚像「本土」を信じぬところの人間に正面から揺さぶられれば、われわれ「本土」の人間のにせの安定はただちについえさるであろうことを教える。

また沖縄に対して「本土」とはほんとうに実在したのか、と疑う声はただちに、中国に対しての「本土」日本、アメリカに対しての「本土」日本という、およそ実質のありうべくもない言葉への連想へとわれわれをみちびく。そこに立ちいたりつつあらためて、自分が沖縄で、「本土」の日本人として、という言葉を頻発してきた事実を自省する時、僕は、ひとつの息苦しい出発点に立つのである。消極的にのみ獲得された「本土」としての日本、「本土」人としての日本人という認識、凹型の認識こそは、アジアの新しい展望にむけての、積極的な凸型の、多様性のある想像力を縛る最悪のナワであった。

いま沖縄の現場で、「本土復帰」にいたるなしくずしの一体化のいちいちを見つめつつ、沖縄を隈りない異議申立ての場所として機能させつづけようと主張しているところの、戦後の沖縄がつくりだした新しい人間たちにとって、消極的な「本土」の単純なイメージは実在しない。いまにも島ぐるみかれらをのみこもうとする巨大な困難の渦巻きのまえで、かれらこそは自由
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な、多様性のある想像力において、沖縄を、日本を、アジアを、そして世界を見る。すなわち、かれらは、沖縄に開いている血を流しつづける傷のような歴史の切り口を、その全体の展望において見る。僕はかれらの存在とかれらの眼の見るところのものにむかって、自分の想像力をつねに働きかけつづけることをねがい、それなしでは自分の、日本人とはなにか、このような日本人ではないところの日本人へと自分をかえることはできないか、という問いかけ自体が、みにくく萎んでしまい、あわれに朽ちてしまうことを認める。

僕はこの沖縄ノートを到底、自分の内部において閉じることができないが、それは僕自身における戦後民主主義について、また倫理的想像力について、自分のうちがわの暗く血の匂いのする深みにスクリューのようにも自分自身をねじこみつつ考えつづけるための手がかりとして、それを強く必要とするからである。それを手離すことが、もっとも厭らしく恐しい宙ぶらりんの虚空へと自分自身がはじきとばされてしまうことであるのを、しだいに深く自覚するからである。

僕はいまポータブルラジオから、沖縄全軍労が第三波ストライキを回避することに決定した、という報遣を聞く。あえて眼をとじるまでもなく、あの暗く荒あらしい雨風のうちなる集会とビケ、上原全軍労委員長とその周囲の人々の風貌と声、それをこえてデモの列につらなるまことに様ざまな多数の顔が濃く明瞭によみがえる。ある声はいう、かれらは屈伏した、反戦
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をめざすかれらのかかえこんでいた、基地労働者としての矛盾は、かれら独力でになうに重すぎた。ここでまたひとつ「沖縄問題は終わった」のだと。しかし僕は、その声にたいしてはっきり頭をふる。その意見を僕は決して受けつけないだろう。かれらぱ屈伏しない、かれらの苦渋にみちた矛盾の、重い梁の交叉を、かれらの撓めた背は、なお確実に背負いつづける。そのようなかれらの存在は、そのまま日本の状況を切り裂く鉈の役割を果たすであろう、沖縄の人間としてのかれら自身は、真に人間的に生きることで執拗に抵抗しつづけるであろう。僕は沖縄にくりかえし旅行することによつてその確信をこそまなんだのである。

僕はまた、集団自決をひきおこすことになつた島を再訪しようとして拒まれた旧守備隊長に、おまえはなにをしにきたのだ、と間いかける沖縄の声のひきだした答が、「英霊をとむらいにきました」というものであつたこと、抗議の列をすりぬけて、星条旗をつけた米民間船に乗った旧守傭隊長が、ついに渡嘉敷島にいたり花束を置いていったという報道をグラフ誌に見出す。

日本人とはなにか、このような日本人ではないところの日本人へと自分をかえることはできないかという暗い内省の渦巻きは、新しくまた僕をより深い奥底へとまきこみはじめる。そのような日々を生きつつ、しかも憲法第二二条にいうところの国籍離脱の自由を僕が知りながらも、なおかつ日本人たりつづける以上、どのようにして自分の内部の沖縄ノートに、完結の手だてがあろう?

〔七〇年四月〕

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