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私たちを信じてほしい

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pipopipo555jp

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『青い海』1971.6
6.22慰霊の日特集 特別寄稿
"集団自決"の島 渡嘉敷島の兵士と村民

"私たちを信じてほしい"

赤松嘉次  
(元海上挺進第三戦隊隊長)

戦後このかた、渡嘉敷島での村民の集団自決を命じた本人と伝えられ、昨年の訪沖の際には抗識デモにあって、ついに島に上陸できなかった"赤松夫尉"が、「これ以上誰も傷つけたくないが、せめて若い人たちには真相を知らせたい」と、はじめて心境をしたためた手記の全文。
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夢想だにしなかった激しい抗議デモ


月日のたつのは、まことに早い。私たち海上挺進第三戦隊の生存者の有志達が、戦時中の基地であった渡嘉敷島の人々に招かれて、戦没者の二五回目の慰霊祭に参列するため訪沖して一年余りになる。私が沖縄に行くことについては、旧隊員の中でも異論はあったが、私自身別段気にすることもなく出掛けた。

出発前、沖縄のほうから空港でマスコミの取材が予想されるので、ノー・コメントでとおしてほしい旨の連絡があったので、ある程度のことは予想していたのだが、あのような激しい抗議デモは夢想だにしなかったし、また、あれ以来約半月にわたり、沖縄の新聞で論議されたのには、驚きというより全く戸惑ったというのが実感である。

それまでにも、本土では数回週刊誌等にとりあげられていたが、私は興味本位的な記事であり、あのような内容のことが、沖縄の方々に深く信じられているとは、夢にも思っていなかったのである。

本土でも戦後しばらく、この様な暴露的な読物や映画が多く出廻り、世人のひんしゅくを買ったが、ようやく生活が落着くと共に、多くは姿を消していったので、沖縄における私達のことも、時日と共に真相が明らかになるものと信じていた。もち論、その間沖縄の知人との文通も途絶えており、現地沖縄の様子もわからぬまま、慰霊祭参列のための訪沖となり、あの事件に遭遇したのである。

私には大学にいっている娘がある。あのいまわしい事件が報道されたあとで、娘が「お父ちゃんは軍人だった。軍人は住民を守るのが義務ではないか」と私を難詰したことがある。その通りであり、いかにして島を死守し、最後の一兵まで闘うかという状態の中でも、われわれは住民をなるべく戦闘にまき込まないよう心掛けた。今更、弁解がましく当時のことを云々する意志は毛頭ないが、沖縄と本土の若い世代の人々にまで誤解されるのはつらい。このたび「青い海」の編集部から、現在の気持を書いてほしいとのたってのすすめもあり、「私達を信じてぽしい」という気持から筆をとった次第である。

私達海上挺進第三戦隊の戦闘記録は、昭和二一年一月、浦賀に復員した時復員局に提出、昨年八月には隊員の要請もあったので、タイプ印刷にして隊員及び関係方面に配布したので、私達の戦闘行動については、いまさら云々する必要はない。

当時、私達の部隊は、ベニヤ板製のモーターボートに二一〇キログラム爆雷二個を積んで米軍船団を夜襲、体当りを敢行する特殊部隊であり、このような部隊は慶良間に三個、沖縄本島に三個の計六個戦隊が配置されていた。隊員は第三戦隊の場合、当時二五才であった私を長に、一六~一八才の特別幹部候補生で編成され、総員一〇四名。候補生は、入隊後三カ月の速成教育ののち沖縄に赴き、開戦時には事故、病気等で一〇〇名を割っており、装備としては拳銃(弾丸六)、軍刀と前記のモーターボートであった。他に二〇年二月中旬、整備隊及び基地勤務隊の計二〇〇名ばかりが、機関銃二、軽機関銃六、小銃一九七丁をもって私のもとに配属された。この隊は全員召集兵で編成されており、隊長の西村大尉の五二才を頭に、戦隊の者とでは親子ほど年令の差違があった。このことは爾後の戦闘において、いろんな不便と不合理を生じることになる。

私は軍司令部の意向により、すみやかに海上特攻の準備を完成すべく、村民にも協力を求めてこれに全力を注入し、陸上戦闘の準備としては、基地隊が私の配属される以前に海岸につくった若干のタコツボ程度で、なんの準備もなく米軍の上陸を迎えた。

村民は指揮下になくなんらの指令もなし


加うるに当時における軍民の関係であるが、二月中旬まで基地大隊が在島して防衛召集とか対村民関係をやっていたらしく、これが沖縄本島転出後、防衛隊は私の指揮下に入れられたが、対村役場の関係は全くなかった。もちろん、米軍が上陸前に出撃してしまう隊長に、米軍上陸後の相談などする必要はなかったのであり、従って、村当局が米軍上陸に備え、どこから指令を貰い、どのような計画を持っていたかは今もって疑問である。また出撃失敗後、船舶団長大町大佐より戦隊及び配属部隊を指揮して渡嘉敷島を死守するよう命ぜられたが、村民に関してはなんらの命令、指示も受けずに戦闘に突入したのである。

顧みるに、三月二一日夜、舟艇出撃の諸準備完成を機に、私は渡嘉敷部落に帰り、村長以下村の有志と夕食を共にし、今日までの協力を感謝すると共に、今後の協力を要請したのであるが、両者の意志疎通をはかるため、早くから更に多くのこの様な機会を持つべきであったと反省している。

以上のような状況下で彼我の戦力を比較する時、無限大の米軍の上陸を迎えたのであるが、水際で万才突撃を敢行していたならば、一瞬にして玉砕し、島の歴史は今と大きく変っていたであろうし、またこのような嫌な問題は起きなかったであろう。

軍民ともに防ぎょの苦しさ味わう


しかし、舟を失った私は任務を沖縄本島の支作戦であると解釈し、渡嘉敷島にできるだけ多くの米軍を、できるだけ長く拘束して主作戦正面の戦闘に寄与しようと決心したのである。あたかも眞田幸村が上田城に秀忠二万の軍を拘束して、関ケ原の戦に参加させなかった様に。軍隊とは華々しく戦って散るものだと思っている人々にとって、あるいは卑怯な様に思えたかも知れないが、これを行った渡嘉敷島の軍隊及び村民は、とうてい口では表現できない持久防ぎょの苦しさを味わったのである。それは、当時の世相として捕慮になれば、本人はもちろん家族まで村八分になり、その地に居られなくなると信じられている時、残念ながら部隊の軍人の中から数名の脱走者を出し、また幸にして村民側にはなかったが、部隊では新開中尉をはじめ、十数名の栄養失調による戦病死者を出したことで、その苦しさの一端は容易に想像できるだろう。

疲労しきって満足に歩けない身体で、黙々と壕を掘り、射たれっ放しで乏しい弾薬をもってただただ敵の近接を待つのは(主陣地では、小銃のみ三〇メートル以上の射距離での射撃を禁止した)、異常なる精神力を必要としたのである。このような状況下においても、大半の村民が八月一二日に集団投降するまで、軍と共に苦しい中を頑張ってくれたことは、唯々感謝のほかなく、他の地区に例を見ないのではないかと、今もって信じている。

村民のなかに憎しみや悪意はない


ただ三〇余名の方が、私の勧告にもかかわらず、八月二四日の武装解除まで軍と行動を共にせられ、戦後他の村民との間になにか溝ができたかに聞いているが、あるいは村民の集団投降がもう少し遅れ、八月一五日を迎えていたなら、村の歴史も少しは変っていたであろうと思うのは私の考えすぎだろうか。また、伊江島の人々が米軍の保護下で渡嘉敷の部落で生活していたことも、苦しい山の生活をつづける村民にとっては大きな苦痛であったであろう。

八月二四日、米軍に武装解除された部隊を、涙を流して送ってくれた村民、昨年三月、慰霊祭に旧部隊のものをあたたかく迎え、夜の更けるのを忘れて語り合ったとか、また島に上隆できなかった私に、わざわざ土産を持って那覇まであいに来てくれた村民に、私はあの島の戦史にあるような憎しみや、悪意を見い出し得ないのである。

どうか私達を信じてほしい。そして私達が沖縄の人々と共に、苦しい闘いを共々に協力して戦い抜いた様に、次の世代の若い人々も、仲良く将来の日本を背負って頂きたい。


【引用者註】「これ以上誰も傷つけたくないが」といいながらも赤松元隊長は、文面を読めばわかるとおり、島民の悲惨な"集団自決"を一顧だにせず、ただただ部隊の苦労を語るだけで、島民など多数を処刑したことの悔恨すら述べていない。沖縄の人々の憤激を買った文章である。