『見習い魔法師の学園日誌』第11週目結果報告(解決編)


5、子供達の戦い

「あなた……、あの時、ユタに絡んでいた人よね……」

 森の中でオーキスが遭遇したその人物の名は、ベル。かつての名は、ベル・ドルトゥス。嫉妬からユタに対して嫌がらせをしていた元生命魔法学部の上級生である。現在の彼は故郷のアストロフィに帰り、邪紋使いとなり、傭兵団「赤い月光」に入団した後、エーラムのアストロフィ邸の護衛任務に就いている。先日の魔法修得試験では、ファーストエイドの被検体として自らの身をクリープ達のために差し出すなど、かつての自分を反省した上での贖罪の道を歩んでいた。
 だが、オーキスはそのような話は聞かされていない。そして今のベルは、オーキスとヴィルへルミネの目の前で、瀕死の重傷で倒れていた。

「た、たのむ……、解毒薬を……」

 うわ言のように彼はそう訴える。この世界における一般的な「解毒薬」は、それほど高価な品物ではない。魔法学生ならば容易に手に入る代物であり、何かあった時のために常備している学生も多い。そして実際、オーキスもヴィルへルミネも、この時点で鞄の中に入っていた。

「これでいいですか?」

 状況に混乱していたオーキスの横から、ヴィルへルミネが先に動く。彼女が解毒薬を処方すると、ベルは少し表情が楽になったような様子を見せるが、まだ身体そのものが重症であることには変わりない。

「オーキスさん、回復魔法って使えます? 私は未習得なんですけど……」

 ヴィルへルミネがそう言ったところで、ベルは立ち上がった。

「いや、大丈夫だ。俺達がお前にしたことを思えば、これ以上の助けを頼める立場じゃない」

 彼は足取りもおぼつかない様子で、しかし、その目には激しい憎悪と憤怒の感情を浮かべながら、闘争心を剥き出しにした形相で街の方面に向かって歩き出そうとする。ただ、今の彼の表情から読み取れる感情は、かつてオーキス達に対して八つ当たりの暴力を振るっていた時とは明らかに別物であることがオーキスには読み取れた。

「そんな身体で、何をするつもりなの?」
「止めなきゃならねぇんだ……、あの闇魔法師達を!」

 強い決意を込めた口調でそう語るベルに対して、オーキスは溜息をつきながら、キュアライトウーンズをかけた。

「お前……」
「とりあえず、事情は話してもらうわ。そのための『情報料』として、今の魔法と解毒薬だけじゃ足りないっていうなら、もう一回かけてもいいけど」
「いや、十分だ。十分すぎる……」

 明らかにまだ傷は完治していない状態だが、それでもベルはそう答えた上で、オーキス達に対して事情を説明する。自分がアストロフィ所属の邪紋使いになり、今はエーラムの同国邸で働いていることを告げた上で、彼は「本題」を語り始めた。
 ベル曰く、現在のアストロフィ邸には、素性の知れない者達が頻繁に出入りしているらしい。彼等の正体について、邸宅の主であるハーラルやその側近達に聞いても何も教えてはくれなかったため、昨晩、独断でその者達の中の三人を尾行したところ、この森の中へと入り込んだという。

「三人のうちの一人はサーヤという名の中年の女で、俺がここに赴任してきた時から出入りしていた。言葉の訛りと雰囲気からして、おそらくはバルレア人だと思うんだが、ハーラル卿に対する接し方からして、多分、アストロフィの人間じゃない。残りの二人の名は、たしかネメシスとアルゴール、だったと思う。この二人は数日前から顔を見せるようになった。サーヤとは知り合いのようだったが、顔つきから察するに、バルレア人ではなさそうだった」

 やがて彼等が森の奥深くへと入った辺りで、ネメシスが鞄の中から(暗闇の中だったため、はっきりとは見えなかったが)「小さな何か」を渡し、それに対してサーヤが謎の「呪文」を唱えた結果、その「小さな何か」が「巨大な多頭蛇型のガーゴイル」の姿に変わったという。

「多頭蛇、ですか……」

 ヴィルへルミネは、師匠から聞いたクロードの予言を思い出し、軽く寒気を感じる。

「あぁ。あれはおそらく、タルタロス界のヒュドラがモデルになっているんだろう。で、サーヤの奴はこう言ったんだ。『そこに隠れている奴を倒せ』ってな。多分、俺がずっとつけてたのがバレてたんだろう。そのガーゴイルは俺に対して毒霧のようなものを吐いてきやがった。正直、俺はそいつをまともに食らった時点で『こいつには勝てない、そして逃げることも出来ない』と観念して、その場で『死んだふり』をすることにした。ダセェ話だが、他に仲間もいなかったあの場では、それが唯一の生き残る道だと判断したんだ」

 そして、ベルのその判断は正解だった。その一撃で「尾行者」を倒したと判断したのか、それ以上の追撃はなかった。その直後、アルゴールの声で再び呪文のような何かが唱えられた後に、ヒュドラの気配は消え、そして彼等の足音は街の方へと向かって戻って行ったという。

「多分、奴等は『ヒュドラのガーゴイル』の召喚実験をしたかったんじゃないかと思う。で、俺が尾行してたのに気付いて、練習相手にちょうどいいと考えたんだろう」

 それはあくまでもベルの推測にすぎない。だが、確かにそう考えれば、彼等のその不可解な行動も納得がいく。ヘラクレスは「ガーゴイル封じのための微弱な結界は残してある」と言っていたが、それが防げなかったのは、結界の力が弱かったからなのか、結界の範囲外だったからなのか、それとも別の要因なのか、この時点ではオーキスにもヴィルへルミネにも判断がつかない。そして、ヴィルへルミネは今の話を聞いた上で、改めてベルの身体を心配そうな様子で見詰める。

「ヒュドラの毒って、たしか、英雄ヘラクレスをも死に至らしめたっていう猛毒ですよね……」
「本来のヒュドラはそうだったのかもしれんが、俺に毒霧を浴びせたのは、所詮『ヒュドラの形をした石像』だからな。とはいえ、それでもアンデッドとしての俺の身体でも打ち消せない程度の猛毒ではあったし、実際、奴等がいなくなったら街に戻ろうとしていた俺も、その毒の進行を自己回復能力で打ち消すのが精一杯で、満足に動ける状態じゃなかった。だから、お前達には本当に感謝する」

 ベルがそう言って改めて街へと歩き出そうとすると、オーキスは再び声をかけた。

「それで? 今からまたもう一度倒されるために、戦いに行く気なの?」
「俺一人じゃ勝てないことは分かってる。だから、ひとまず魔法大学の誰かにこのことを伝えるさ。一応、魔法師崩れの身として、闇魔法師の存在は許してはおけないからな」
「その三人が闇魔法師だという証拠はあるの?」
「少なくとも、エーラムの魔法師なら、きちんとそう名乗る筈だ。だが、俺はサーヤに『あなたは魔法師なのですか?』と聞いた時、奴は答えをはぐらかした。それに、俺は魔法の記憶は消されているが、なんとなく雰囲気で『エーラムの魔法』かどうかは分かる。サーヤが使っていた魔法はともかく、俺が倒れている間にアルゴールが唱えていた呪文は、明らかに普通の魔法じゃない。まぁ、俺の勘違いかもしれんが、どちらにしても、あんな胡散臭い連中が出入りしてる現状を、黙って放置する訳にはいかない。アストロフィのためにもな」

 そもそも、彼はフラメア率いる傭兵団「赤い月光」の一員であり、ハーラル直属の武官ではない以上、ハーラルが怪しげな人物と接触している可能性があるならば、そのことを魔法師協会に対して内部告発することに躊躇はなかった。ハーラルは子爵家の一族とはいえ、彼から見ればあくまで「勤務先の管理人」にすぎない。

「それで、もし協力者が得られたら、その身体であなたも戦いに行くつもり?」
「当然だ。あの毒霧をまともに受けたら、並の魔法師では耐えられないだろう。だが、俺なら一発くらいは耐えられる。俺が一回食い止めている間に、どうにかしてもらうさ」

 つい最近まで嫉妬に狂って後輩に嫌がらせをしていた男とは思えないような発言だが、オーキスは彼のその言葉から、嘘偽りは感じられなかった。おそらく、当時の彼は「自分の目指していた自分になれないことへの閉塞感と絶望感」から、心を乱していたのだろう。それが、邪紋という「力」を手に入れたことによって、ようやくその負の感情から解放され、それまでの自分の愚かさをようやく客観視出来るようになったらしい。だからと言って、過去の所業が消える訳ではないが、オーキスはそんな彼の背中から、二度目のキュアライトウーンズを放つ。

「お前……」
「この状態なら、二回くらいまで耐えられる?」
「あぁ……、恩に着る。そして、あの時は本当にすまなかった……」
「それは今回の件が終わってから、改めてユタに言うことね」

 この二人の過去の事情を知らないヴィルへルミネは、彼等が何の話をしているのか分からない。ただ、最初にベルと遭遇した時にオーキスから感じられた不穏な雰囲気が、少しだけ緩和されているように見えた。
 そんな微妙な空気を抱えつつ、彼等はエーラムの市街へと向かって歩みを早めてく。

 ******

 セレネの捜索に向かったエイミールとヴィッキーは、幸いなことに次々と「目撃情報」に遭遇する。さすがに、道行く人々に片っ端からガーゴイルと闇魔法師のことを聞いて回っていたため、多くの人々の目についていたらしい。
 ヴィッキーがクールインテリジェンスを用いた上で、それらの情報から彼女の足取りを推測しつつ、更に捜査を続けて行くと、やがて彼等は重要な証言に辿り着く。

「その子なら、なんか男二人と一緒に、路地裏の方に向かって歩いてたな」
「男二人!? どんな奴だ!?」

 エイミールが食い気味に聞き寄り、外見的特徴を聞き出すと、ヴィッキーはその旨をテレコミュニケーションを通じてクロードへと伝える。そしてクロードがその情報を他の「通話中」の面々に伝えると、ゼイドが反応した。

「その二人組、ユーミル邸に来ていた奴等かもしれない……」

 ゼイドはあくまでも遠方から遠眼鏡で見ただけだが、確かに外見的特徴は一致していた。そして、少なくとも片方は魔法師であることが確定している。そのことを踏まえた上で、クロードは張り込み班の面々に「配置変え」の指示を出す。

「では、ゼイド君はヴィッキー君達と合流して下さい。ただ、ユーミル邸の近辺はまだ警戒する必要がありますので、ロゥロア君とルクス君はユーミル邸の近辺へと移動して、マシュー君と合流をお願いします。おそらく、ウィステリアに関してはこれ以上監視を続ける意味はないですから。そして、サンドルミア邸もおそらく今回に関してはシロなので、ディーノ君とエルマー君もセレネ君の捜索に回って下さい。アストロフィ邸には、まもなくフェルガナ先生率いる正規の査察隊が到着しますので、バーバン君とロウライズ君はそのまま監視の継続をお願いします」

 その話を聞いた上で、クロードの目の前にいたジュードが問いかける。

「クロード先生、テレコミュニケーションの『窓口』の数、まだ余裕はありますか?」

 テレコミュニケーションで通話出来る人数には限界がある。クロードは10人まで「通話先」として脳内登録することは出来るが、同時に何人まで通話を「開きっぱなし」の状態に出来るかと言われると、また話は変わってくるだろう。

「まぁ、あと一人くらいなら、どうにかしましょう……」

 こうして、ひとまずジュードを中心とした「追加のセレネ捜索隊」が結成されることになる。そんな中、クロードの脳裏にまた新たな「連絡」が届いた。

「あ、今、ヴィッキー君から続報が届きました。エル君、ご指名です」
「え? 僕ですか?」
「君のロケートオブジェクトがまた必要になるようです。ヴィッキー君の案によると、ちょっと『回数』が必要みたいなので、精神回復薬が必要でしょうね。その辺にあるやつ、好きなだけ持って行っていいですよ」

 ******

「な、なんか人いっぱい来てんど!」
「さすがフェルガナ先生、動くのが早いな……」

 ルクレール邸の二階の窓からアストロフィ邸の様子を伺っていたバーバンとロウライズは、窓越しにフェルガナ率いる査察隊が集まって来る様子に気付く。そして彼女達は、有無を言わさず邸宅の敷地内へと乗り込んで行った。

「無礼な! ここをアストロフィ子爵家の私邸と分かった上での狼藉か!」

 すぐさま邸宅から現れた執事風の男がそう叫ぶが、フェルガナは捜査令状を掲げて叫び返す。

「貴殿等には、闇魔法師を無許可でエーラムに連れ込んだ容疑がかけられている。おとなしく邸内の捜査に協力されよ。断るならば、今すぐ闇魔法師もろとも、この屋敷を焼き尽くす」

 そう言い切った瞬間、上空に屋敷を取り囲むように「異界の飛空船団」が現れる。

「おぉぉぉぉ!? な……、なんだぁ!?」
「オルガノンフリート! 浅葱流派の最高峰と言われる召喚魔法だ……」

 バーバンとロウライズがその圧倒的な迫力を前に気圧される中、執事風の男は一歩も引かずに言い返す。

「ハッタリも大概にされよ。そのような無法が許されると思うほど、魔法師協会は愚かではあるまい」
「我等には人々の安全を守る義務がある。その義務を果たすためなら躊躇はしない。闇魔法師を逃がすための時間稼ぎを続ける気なら、貴殿もまた奴等と同罪だ」
「そんな横暴な理屈に我等が屈するとでも……」

 執事風の男がそう言ったところで、屋敷から一人の青年が出てきた。

「もういい! もはやこれまでだ!」

 その青年の顔は、既に焦燥しきっていた。

「アストロフィ子爵邸の管理人、ハーラル殿でよろしいか?」
「そうだ! 私は闇魔法師に脅されて、仕方なく奴等に利用されていたのだ! 頼む、私を奴等から解放してくれ!」

 彼はそう言いながら、自らフェルガナの元へと駆け寄る。

「殿下……」

 執事風の男はそう呟きかけるが、そこで口を噤む。

「ご英断、感謝致します」

 フェルガナはそう告げると同時に、上空のオルガノンフリートに対して、屋敷の側面の「開け放たれた窓」の近辺の庭に対して一斉射撃を命じる。

「ぐはっ!」

 そんな断末魔の声と共に、姿を消してその窓から外に逃げようとしていた一人の男が、その場に倒れ込む。それを合図にするように、一斉に査察隊は邸内へと突入を開始した。

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「作戦は失敗だ。早くエーラムから逃げろ。俺もどうにかこの包囲網を突破して……」

 パンドラ製の通信用魔法杖から聴こえてきたその声は、そこで途絶えた。「魔法杖を持っていた男」は、「隣にいる男」に対して、呟くように語りかける。

「とりあえず、アストロフィ邸に戻らなかったのは、正解だったみたいだな」
「あぁ、やっぱり、下町のアジトがバレた時点で、とっとと手を引くべきだったんだ。バルレアの連中に肩入れしすぎた……」

 二人の男は溜息をつく。この二人は今、エーラムの町外れの路地裏で浅葱の召喚魔法シェルタープロジェクションを用いて生み出した「異界の地下室」の中にいる。魔法杖通信をしていた男の名はネメシス。もう一人の男の名はアルゴール。彼等はいずれも、闇魔法師組織「パンドラ」の一員である。

「で、どうする? 本当にこのまま、あいつらを見捨てて逃げるか?」
「まぁ、こいつに『人質』としての価値があるなら、捕虜交換を申し出るという選択肢もある訳だが……」

 二人の視線の先には、縄で縛られた状態で眠っているセレネの姿があった。彼等は当初、道端で自分達のことを探っていたセレネを発見した時点で、彼女を拉致して尋問することで、魔法師協会側がどこまで「自分達」のことを把握しているのかを確認しようと考えていた。
 そのために、彼女に接触した上で、仲間だと思わせて油断させた状態で路地裏へと連れ込み、背後から彼女にスリープの魔法をかけ、そして即席でこの「地下室」を召喚した上で、彼女を縛った状態で起こし、そして実際につい先刻まで、彼女から直接情報を聞き出そうと尋問していたのである。
 ところが、実際に一度彼女を起こして話を聞いてみたものの、全く有益な情報は聞き出せなかった。その上で、彼女の口ぶりから「本当に何も分かっていない状態で、闇雲に探し回っていただけ」だと判断した彼等は、仲間からの魔法杖通信がかかってきたところで、再びセレネをスリープで眠らせて、そして現在に至る。

「こいつ、どう考えてもただの馬鹿だろ。最初は、馬鹿を装ってごまかしてるだけかと思ってたが……」
「そうだな……、まぁ、そうでもなければ、『あんなやり方』で俺達のことを探ろうとはしないだろう。その時点で気付くべきだったな……」
「こんな奴のために、俺達の仲間を解放してくれると思うか?」
「分からん。そもそも、今の時点でまだ生きているかどうかも分からんしな……」
「多分、『俺達の仲間』は全員お縄だと思う。『バルレアの連中』は分からんが……」
「サーヤ女史あたりはもともと単独行動していることが多いから、たまたま勝手に外に出てて難を逃れてる可能性はあるかもな」

 彼等がそんな話をしている最中、地下室に設置されている通報装置が鳴り響く。どうやら、誰かが「入口」を見つけて、侵入してきたらしい。

「見つかったか! カムフラージュしたつもりだったが……、さすがはエーラムの連中だな」
「安心しろ。こういう時のために、出入口は二つある。反対側から逃げれば……」

 そう言いかけたところで、別の警報が鳴る。

「何!?」
「両方バレたのか!?」

 二人が困惑する中、彼等の籠もっていた地下室に、二つの異なる方向から「侵入者」が現れる。片方から現れたのは、ヴィッキー、エイミール、ゼイド、ディーノ、エルマーの五人。そしてもう片方の入口からはジュード、ジャヤ、テラ、ティト、イワンの五人が現れた。
 ここに至るまでの間に、ヴィッキー達はまず手分けして「セレネを連れ去った二人」の目撃証言を探した結果、「少なくとも、貴族街の外には出ていないらしい」という結論に至り、この時点で「シェルタープロジェクションで地下に隠れている可能性」に思い至ったヴィッキーは、エルに頼んで「最も近くにあるシェルタープロジェクションの入口」を探させたところ、路地裏内で確かに「入口」を発見したのである。その上で、ヴィッキーは更に「別の入口」がある可能性も考慮して、エルに場所を移動させて何度か同じ魔法をかけてもらった結果、見事に「二つ目の入口」も発見するに至った(なお、当のエル自身はこの過程で精根尽き果てたようで、この時点で「ジュード組が突入した入口」の近くで小休止していた)。
 そして、入って来ると同時にエイミールが叫ぶ。

「貴様ら! セレネ君に何をした!?」

 この時点で、ネメシスとアルゴールは、この手元にいる少女に「人質としての価値」があると確信し、ネメシスは彼女の首元にナイフを突きつけながら答える。

「まだ何もしていない。そして、彼女がどうなるかは、お前達次第だ」
「何だと!?」
「俺達は、お前達と争うつもりはない。ただ、黙って俺達がエーラムから立ち去るのを見送ってくれればいい。俺達がエーラムの外に出るまで何もしなければ、その時点で彼女は解放してやる」

 だが、ネメシスがそう言った直後に、彼がナイフを突き付けている筈のセレネの姿が、一瞬にして「帽子をかぶった、少し大きな猫」の姿へと変わる。

「な!?」

 それと同時にエルマーの足元に「セレネ」が現れ、そして次の瞬間、「猫」は姿を消す。困惑するネメシスの横で、全体を見ていたアルゴールは即座に状況を理解した。

(今のは、ケットシー……、そうか、奴等の「影」に隠れていた猫妖精が、「妖精の輪」を使ったのだな)

 「妖精の輪」とは、妖精界(ティル・ナ・ノーグ界)の住人達が引き起こす特殊な現象の一つであり、彼等は離れた場所にいる者達の立ち位置を「入れ替える」ことが出来る。そして今、エルマーの影の中に隠れて密かに同行していた猫妖精のアルヴァンが、影の中から「自分」と「セレネ」の場所を入れ替え(その結果として「影の中に入れない存在」であるセレネはエルマーの足元に出現し)、その直後にアルヴァンは再びエルマーの影の中へと戻ったのである。

「ネメシス、ガキだと思って甘く見てる場合じゃない。ここは全力で突破するしかないぞ」
「あぁ、そうだな。まだ切り札は使いたくはなかったが、やむを得ん!」

 二人はそう言って背中合わせの体制となり、ネメシスはヴィッキー達に、アルゴールはジュード達に向かった状態で、懐から「小型の魔石像」を取り出しつつ、「ディスペルマジック」の魔法を唱え始める。
 この瞬間、ティトが調べた情報を共有していた面々は、彼等がこの場で「小型化されたガーゴイルの封印」を解こうとしていることに気付き、そして即座にゼイドが手前のネメシスに対してカウンターマジックの魔法を唱える。この時、ゼイドは目の前にいる男が「先刻スリープをかけようとしたのを、自分のカウンターマジックで止めた相手」だということに気付いていた。

(あの時とは違って、今度は奴も本気……。だが、それでもここはもう一度、この可能性に賭けてみる。今の俺に出来ることは、これしかない!)

 そこにヴィッキーがアシストをかけ、更にエルマーの影の中からアルヴァンもまたゼイドに対して祝福の加護を与えつつ、彼の運命そのものを特殊な魔力によって捻じ曲げた結果、ゼイドのカウンターマジックは奇跡的な威力へと増幅され、ネメシスのディスペルマジックを失敗させる。
 一方、アルゴールの方は無事に封印解除に成功し、ジュード達の目の前には巨大な怪鳥スチュパリデスのガーゴイルが現れる。だが、ここでテラは、ティトが話していた「圧縮魔法」の性質を思い出した上で、反対側にいるネメシスの方を指しながら、ジャヤに対してこう叫んだ。

「ジャヤ! あの石像に対して、ディスペルマジクを!」

 先刻の時点でテラから「図書館組の得た情報」についても聞かされていたジャヤはすぐにその意図を理解し、テラのアシストも得た上で「ネメシスが持っていた石像」にディスペルマジックをかけると、その場に「三ツ首の魔犬ケルベロスの姿を模した巨大なガーゴイル」が現れる。そしてジャヤは叫んだ。

「その怪鳥を倒せ!」

 ティトの調べた情報によれば、圧縮された魔石像は「ディスペルマジックをかけた魔法師」の指定した相手を攻撃する(ただし、その「最初の攻撃対象」を倒した後は、手当り次第に暴れ始める)。その情報を信じてジャヤがそう命じると、魔犬はその言葉通りに怪鳥に向かって襲いかかった。ジュード達を襲おうとしていた怪鳥は、やむなく魔犬への応戦を強いられる。

「ば……馬鹿な!」
「お前、何やってんだ!?」

 ネメシスとアルゴールが混乱する中、ヴォーパルウェポンをかけた木刀を手にしたディーノがネメシスに斬りかかり、そしてエイミールとティトはエネルギーボルトを立て続けに放つ。そんな彼等をジュードはアシストで、イワンはリウィンドで支援した結果、ネメシスは深手を負ってその場に膝をついた。

「こ、こんなガキどもに……」
「落ち着け、ネメシス」

 そう言いながら、アルゴールはネメシスに回復魔法をかける。その間にも魔犬と怪鳥は地下室を破壊しそうな勢いで大乱闘を繰り広げていたが、やはり天井の低い戦場では魔犬の方に分がある状態であった。そんな中、怪鳥が苦し紛れに翼を荒げて突風を起こすと、その風がゼイドの羽織ってたローブを一瞬剥ぎ取り、そして彼の顔が初めて衆目に晒される。

(あれが、ゼイドの素顔……)

 今まで、ずっと顔を隠し続けていたことから、一部の学生達の間では「よほど特殊な外見なのでは?」「実は人間ではないのでは?」などと噂されていたが、その素顔は「隠さねばならない素性の持ち主」とは思えぬ程度には「普通の少年」であった。ゼイドは慌ててローブを被り直すが、この時、一人だけ彼の素顔に見覚えのある人物がいた。ネメシスである。

(あれは確か……、あの方の息子……?)

 一方、エルマーは手元にセレネの身体を揺らしながら声をかける。

「大丈夫!? 怪我はない!?」
「むにゃ……、あれ? エルマーちゃん……? あの悪者達はどこに……、って、なんかみんな戦ってるぞ!」
「そうだよ! みんなで助けに来たんだよ」
「よし! なんかよく分からないけど、セレネもここは頑張るぞ!」

 先刻までは手が縛られた状態だったため、魔法発動に必要な動作も取れなかったセレネだが、その状態から解放されたことで、彼女は(先刻一度起こされた時に密かに思いついていた)「秘策」を披露する。

「エルマーちゃん、リアクションよろしくだぞ」

 小声でセレネはそう告げつつ、自分達の後方に「カルディナ・カーバイト」の幻影を作り出す。エルマーはすぐにセレネを意図を察した。

「カルディナ先生! 助けに来てくれたんですね!」

 その声を聞いたネメシスとアルゴールは、驚愕の表情を浮かべながら、そのカルディナの幻影を目の当たりにする。

(カルディナ・カーバイトだと!? あの「実力だけなら若手最強」と名高い放蕩魔法師までもが参戦してくるとは……)
(そういえばあのガキ、カーバイトだと名乗っていたような……、しまった、奴の直弟子だったのか……)

 裏虹色魔法師カルディナ・カーバイトの悪評と実力は、闇魔法師達の間にも既に浸透していたらしい。既に劣勢だった彼等は、その幻影が本物かどうかを確認出来るだけの冷静さを持ち合わせておらず、戦意喪失させるには十分すぎるほどの衝撃であった。

「ここまで、だな……」

 ネメシスはそう言って魔法杖を捨て、そしてアルゴールも黙って頷き、降伏の意を示す。彼等は(先刻までセレネが縛られていた)縄でその身を拘束されるが、この時、ネメシスは自分を縛り上げるゼイドに対してこう言った。

「なぁ、お前……、ライアスだろう?」

 その発言にゼイドは驚愕し、そして思い出す。父の弟子の一人に、この男とよく似た外見の「ネメシス」という名の魔法師がいたことを。だが、この場で肯定する訳にはいかない。

「……人違いだ」
「そうかい……、まぁ、それならそれでもいいさ。お前がそう言うならそうなんだろうよ。お前の中ではな……」

 それ以上、その男は何も言わなかった。なお、この間も魔犬と怪鳥の戦いは続いていたが、彼等の体躯ではこのシェルターの入口を通って外にでることは出来ないと判断したヴィッキー達は、ひとまずそのまま二体の巨大ガーゴイルを放置した状態で、二人の捕虜と共に「エルが外で待っている方の出入口」経由で、シェルターを後にした(なお、この時点ではまだネメシスもアルゴールも「カルディナ」が幻影であることに気付いていなかった)。
 そして、助け出されたセレネはエルマーから事情を一通り聞いた上で、皆に深々と頭を下げる。

「みんな、助けに来てくれて、本当にありがとうだぞ! セレネが油断したばっかり、こんなことなってしまって、ごめんだぞ……」

 さすがに少し気落ちした様子の彼女に対して、ヴィッキーが答える。

「まぁ、そこまで気にせんでもええで。結果的に言えば、セレネちゃんのおかげでこいつら捕まえることが出来たんやし。セレネちゃんがおらへんかったら、カルディナ先生も来てくれへんかったかもしれへんしな」

 あくまで、(捕虜達が真相に気付いて暴れようとしたりしないように)「この場にカルディナがいる」という状況を装った上での発言だったが、実際のところ、セレネがいなければ「カルディナ」が出現していないことは事実でもある。

「ただ、義兄さんに心配かけたことだけは、反省して下さいね。本気で狼狽してましたから」
「おいこら、ジュード! 余計なことを言いうんじゃない!」

 アイアス兄弟のそんなやりとりに対して、セレネはどう反応すれば良いのか分からない。先日、彼にプロポーズされた時のことを思い出して、赤面しながら下を向く。そんな彼女に対して、エイミールは短く一言だけ告げる。

「ともかく……、無事で良かった……」
「うん……、心配かけて、ごめんだぞ……」

 そんな二人のやりとりを見ながら、義弟のジュードは「自分達の方の事情」(discord「出張購買部」7月16日)を思い出す。

(「あの人」は、メルキューレ先生と一緒に貴族街の巡回に行ってた筈ですけど、今はどうしているんでしょう……?)

 ******

 その頃、オーキス、ヴィルへルミネ、ベルの三人は、市街の中心部である魔法学校の校舎内まで辿り着く。ひとまず高等教員の誰かと合流して事情を話そうと考えていたのだが、ここで彼女達は「ロシェルを乗せたシャリテ」と遭遇した。

「オーキスちゃん! あなたも捜索に来たの?」

 シャリテがそう語りかけると、オーキスより先にベルが反応した。

「この狼、喋るのか!?」

 ベルはあの乱闘騒ぎの時に「アネルカ」とは面識があったが、「狼のシャリテ」とは初対面である。一方で、シャリテの側もベルとは直接組み合っていなかった上に、早目にあの場からは退散していたため、彼の顔までは覚えていない様子であった。その辺りの事情を全て知ってるのはオーキスだけだが、説明すると長くなる上に、今の時点で説明する必要もないと判断した彼女は、あえてベルを無視してシャリテからの問いに答える。

「あなたの捜索しているものと同じかどうかは分からないけど、そんなところよ」

 オーキスはそう答えつつ、ロシェルに問いかける。

「で、今のあなたは『どっち』なの?」
「わたしは『ロシェル』よ。さっきまでシャリテはお養父様と一緒に貴族街を巡回してたんだけど、お養父様は別件が入ったから、私が代わりに同行することにしたの。狼が一頭だけで街を歩いてたら、普通の人はビックリするだろうし」

 普通は「巨大な狼を連れた少女」が歩いているだけでも十分に驚愕案件ではあるが、それでも狼単体で徘徊している状態よりはまだマシだと判断されたのだろう。少なくともこの魔法都市エーラムにおいては「魔獣を連れた魔法師」自体は、そこまで珍しくはない。
 なお、現在の「ロシェル」は厳密に言えばメルキューレの正規の養女ではないが、これまでずっと彼の養女として暮らしてきて、そして今後も実質的に彼の保護下にあることから、今後も変わらずメルキューレに対しては「父」として接することにしたらしい。
 一方、ベル同様に「彼女達」の事情を知らないヴィルへルミネは、直観的にロシェルに対してこう問いかける。

「あなた、ヤーナマゥナですか?」
「え? ヤーナ……? 何それ?」

 ロシェルもシャリテも揃って首をかしげる。

「あ、違うんですね……、えとですね、ヤーナマゥナは動物と信頼関係を結んでいる女の人の事を言うんです。おぉばあちゃんの故郷にはたまに居たらしいです」
「信頼、か……。まぁ、そういうのとは、またちょっと微妙に違うのかもね、私達は」

 シャリテがそう答えたところで、ロシェルはオーキスに現状を説明する。

「さっき、シャリテが『怪しい男』を捕まえたのよ。で、そいつは『御禁制の魔法薬』を誰かに届けようとしてたみたいなんだけど、なかなか口を割らないから、とりあえず、その薬の最初の持ち主を探そうと思って、その薬の匂いをシャリテに嗅がせて、同じような匂いを探してるの」

 「御禁制の魔法薬」ということは、闇魔法師絡みの話である可能性が極めて高い。当然の如くベルが強い興味を示す一方で、ヴィルへルミネは嫌な予感を感じ取りつつ、周囲の匂いを慎重に嗅ぎ分けているシャリテに語りかける。

「それで、その……、この辺りにその気配があるんですか?」
「えぇ……。というか、段々近付いて来ている気がするわ。貴族街から、こちらの方に向かって来ているような……」

 シャリテがそう答えると、オーキス達は思わず周囲を警戒する。そんな彼女達の視界には、喫茶「マッターホルン」の看板が映っていた。

 ******

「随分、張り切ってるようだね、シャロン君」

 エマのお見舞いを早目に切り上げてマッターホルンに戻ったクグリは、店内に大量に並べられたテーブルと大皿、そしてその上に載せられた様々な料理を見ながら、厨房の中にいるシャロンに向かってそう語りかける。

「えへへー、せっかくマッダーホルン貸し切ってのお食事会させてもらえるだ。頑張ってりょーり作るだ!」

 そう言いながら、彼はテキパキと準備を進めていく。とりあえず、ヨハネスの食の好みが分からないこともあってか、好きなものを好きなだけ食べられるバイキング形式を選択したらしい。

「やっぱり、山のごちそーとがっこーのりょーりを並べたビュッフェーがよさそうだら!」
「確かにね。これだけ色々あれば、きっと気に入ってくれる料理もあるだろう」

 そんな会話をしている中、やがてヨハネス達が到着する。

「よーこそー、マッターホルンへー」

 シャロンがそう声をかけると同時に、クグリも深々と礼をする。

「はじめまして、ヨハネス陛下。店長代理のクグリ・ストラトスと申します。どうか本日は、ごゆるりと当店で楽しい一時をお過ごし下さい」
「ありがとう。色々と噂には聞いているよ。この店にしかない特別な味付けの料理も色々あるんだってね」
「えぇ、まぁ、それはもう……」

 何か「余計な噂」まで届いていそうな気がしたクグリは少し嫌な予感がしたので、あえて少し釘を刺すことにした。

「……陛下、本日はビュッフェ形式のお食事を用意しておりますので、あくまでも『お気に召した皿』だけ食べて頂ければ結構です」
「そうだね。せっかく用意してくれたのだから、出来れば全部味わってみたいけど、そんなに沢山は食べられないから。でも、僕のためにそこまで配慮してくれた君の真心だけは、全て残さず僕の中に刻み込ませてもらうよ」

 さわやかな笑顔を浮かべつつそう答えたヨハネスを目の当たりにして、クグリは内心で様々な思いを巡らせる。

(なるほど……、これは確かに女の子達が騒ぎ出しそうな美少年だとは思う。ただ、明らかにロウライズ君とはタイプが違いすぎる。やっぱり、どこか妙だな……)

 表面上は平静を装いつつ、そんなことを考えていたクグリに対し、ヨハネスはそのまま話を続けた。

「あと、出来ればこの子、クヌートも、僕と一緒にご飯を食べさせてもらってもいいかな? クヌートも味覚は人間と同じだから、人間が美味しいと感じるものなら、きっとこの子も喜ぶよ」

 そう言って彼は自分の傍らにいるガーゴイルを指差す。どうやら、ここに至るまでの間にカロンとはすっかり仲良くなったようで、クヌートはカロンの持ってる猫のぬいぐるみを(カロン自身には触れないように気を配るような姿勢で)前足で撫でていた。
 そんなクヌートの後方には、この店に入る直前に合流したジョセフの姿があった。彼は申し訳なさそうな顔を浮かべながら、クグリに問いかける。

「大変失礼な質問だとは思うが……、本日の食材の入手経路は心配ないのだろうな?」

 要人暗殺において、毒殺は常套手段である。

「さすがに店長もそこは気を配ってくれてると思うし、シャロン君もちゃんと自分で味見しながら食べてるから、大丈夫だと思う。心配なら、僕が全て毒味してから提供することにしてもいいけどね」

 クグリがそう答えたところで、今度はアーロンが口を開く。

「そういうことなら、ボクがやりましょうか? この間、アイアンウィルを覚えたので、どんな食材でもボクなら耐えられると思います」

 彼は、一部の学生達が「マッターホルンの料理を全制覇するには、アイアンウィルは必須だ」などと話していたのを思い出したらしい。

「いや、アイアンウィルは『食べたくないものを食べる時』には有効かもしれないけど、別に毒に対する耐性が付く訳ではないから。どっちかというと、こういう時に必要なのはイミュニティの方だけど、習得者はこの場にはいないだろうし」

 彼等がそんな話をしていると、ヨハネスが割って入る。

「僕としては君達を信用してるから、別にそこまで気を使ってくれなくてもいいけど、せっかくだし、みんなと一緒に美味しいものを食べたいから、君達が食べて『美味しい』と思ったものを僕に勧めてくれないかな? そしたら、僕もクヌートも君達と一緒にそれを食べるから」

 周囲の面々を見渡しながら彼がそう告げると、アーロンがさっそく動き出す。

「じゃあ、まずボクが一通り味見してみますね」

 そう言ってアーロンが最寄りのテーブルの皿に近付くと、そこには、ヴィッキースペシャルを用いたパスタや、「シルーカ・メレテス大絶賛」の札が貼られたプリンなどと並んで、不気味な見た目の料理が載せられた皿があった。

「これ……、もしかして、虫……?」

 彼がそう呟くと、横からツムギが覗き込む。そこにあるのは、バッタのような形をした生き物を食材とした、山岳民特有の料理であった。

(なんか、イナゴの佃煮っぽいかも……?)

 どうやら彼女の祖国(の一部)にも、似たような郷土料理があるらしい。ちなみに、これはマッターホルンの正規メニューではない。

「せっかくだからー、エーラムであんま食べられない食材も集めただー」

 シャロンはそう言いながら、その隣に今度は「蜂の幼虫」の煮物を持ってくる。これもまた、一部の山間部においてはポピュラーな食材であった。

(こ、これはさすがに……、いや、むしろ、今こそアイアンウィルを使う時!)

 アーロンは小声で呪文を唱えて「意志の力」を強化した上で、意を決して「バッタのような何か」を口に入れてみる。

「あ……、意外と美味しい、かも……?」

 とはいえ、あえて最初の一皿目に勧めるような品でもない。そんなことを思いながら、続けて隣のハチノコにも手を伸ばそうとするアーロンを、ヨハネスは後方から相変わらず涼し気な笑顔で見詰めている。そんな彼に対して、ツムギは小声で問いかけた。

「あの……、この世界では、虫を食べることって、一般的なのでしょうか?」
「国によるだろうね。バルレアにも、時々そういう人もいるよ。僕はまだ食べたことないけど」

 そうは言いながらも、別に食べること自体にはあまり抵抗は無さそうな口ぶりである。むしろ、その隣にいるクヌートの方がどこか怯えている様子であった。

「あなた、ライオンさんなのに、虫がこわいの?」

 カロンがそう問いかけると、クヌートはゆっくりと頷く。そんな彼(?)を見て、カロンはますます愛らしく思えてきた。

「なんだか、味覚だけじゃなくて、心も私たちとあんまり変わらないみたいね」

 ******

 マッターホルンの店内でそんな会話が繰り広げられている中、シャーロットは警戒のために店の外を巡回していた。一応、バリーは入口近くで店の内外両方に目を配っていたため、シャーロットは彼の視界の範囲外となりそうな場所を重点的に調べていく。
 そんな彼女は、店からやや離れた場所に公道の隅に設置されている「黄土色の箱」を発見する。材質が何なのかはよく分からないが、屈めば中に人が入れる程度の大きさであった。

(なんでしょう……? ちょっと怪しい気もしますが……)

 そう思った彼女がその箱に近付こうとした瞬間、今度は店の周囲の生け垣の一角から人の気配を感じる。いつもなら、ここで「そこにいるのは誰です! 出てきなさい!」と叫ぶ彼女であったが、今回は状況が状況だけに、より慎重な対応が必要ではないかと考え始める。

(もし、この中に悪い人達が隠れているとしたら、私一人では対応出来ない……、でも、今からバリー先生を呼びに行ってる間に逃げられるかもしれない……)

 そう考えた彼女は、ひとまずその生け垣の一角に対して、足止めのために(通用するかどうかは分からないいが)スリープの魔法の詠唱を始める。だが、その直後に生け垣の中から「見知った人物」が現れた。

「待て待て! オレ達だ!」
「レナードさん!?」

 彼に続いて、中からノアとダンテも現れる。

「すみません、ボク達、ずっとここに張り込んでたんです」
「星が教えてくれたんだ。ここが決戦の場になる、ってことをな」

 そんな彼等の声に反応して、バリーが近付いてくる。

「シャーロット君、そこに誰かいるのかい?」

 だが、その瞬間、彼等の視界に「異様な光景」が飛び込んできた。それは、明らかに禍々しいオーラを帯びた「毒の息吹」が、公道側から店全体を覆うように迫ってきたのである。

「なんだ!?」
「ポイズンブレス!?」
「やっぱり、ここだったな!」
「いや、毒は聞いてないですよ!」

 学生達がそんな叫び声を上げる中、バリーは即座に店内のヨハネスに対して元素障壁をかけようとするが、その前に彼等と毒霧の間に謎の「黄土色の防壁」が現れる。

「え?」
「こ、これは一体……?」
「魔剣の加護か?」
「バリー先生の魔法?」

 実際のところ、レナードの魔剣は全く反応していないし、バリーも何もしていない。その「黄土色の壁」によって毒の息吹は店まで届く前に消失した。ここで、シャーロットはあることに気付く。

(今の壁の色……、あそこの道端にあった箱と同じ色だったような……)

 シャーロットがそう思って道端の方に視線を向けようとすると、その前に「巨大な多頭蛇の魔石像」が現れた。材質的には「クヌート」に似ているようだが、大きさは比べ物にならない、平屋建ての建物以上に巨大なガーゴイルであった。

「出やがったな!ガーゴイル!」

 レナードはそう叫ぶと同時に、「魔剣」を構えてヴォーパルウェポンの魔法を(副作用の激痛に耐えながら)かける。その隣でダンテもまた木刀を構えるが、目の前にいるガーゴイルを見て、明らかに「今の自分では勝てない」ということは本能的に察知する。だが、それでもここで退く気は毛頭ない。

(勝てる勝てないじゃねえんだよ……、勝たなきゃいけない相手なんだよ……。ここで負ける訳にはいかねえんだ! 負けたくねえんだよ!)

 ダンテが心の中でそう叫んだ瞬間、彼が首飾りにしている、修学旅行の時に謎の女剣士から貰った「指輪」が光り、彼の目の前に「あの時の女剣士が持っていた、剣と盾が一体化した武具」が現れる。

「これは最高の獲物ですね」

 その「武具」から、そんな声が聴こえてきた。それは確かに、「あの時の女剣士」の声だった。

「お前、やっぱりオルガノンだったんだな!」
「えぇ、そうです。では、私は好きに暴れますので、あなたはここから退避を」

 「彼女」がそう告げた上で、オルガノンとしての「擬人化体(女剣士の姿)」を生み出そうとするが、その前にダンテは「彼女」の柄を握り締める。

「いいや。『お前』を使いこなして初めて『ダンテ・ヲグリス』だ」
「……いいでしょう。ならば、使いこなしてみなさい」

 彼女はそう言うと、擬人化体の具現化を取りやめ、そのまま「武具」としてダンテに身を委ねる。この時、ダンテは本能的に感じ取っていた。おそらくは彼女が「自分が探し求めている魔剣」であるということを。
 そんなダンテの「魔剣」に対して、シャーロットはヴォーパルウェポンをかけ、そしてノアはいつでも回復魔法をかけられるように魔法詠唱の準備を整えると、レナードが先陣を切って魔剣で切りかかった。

「ぶったぎってやるぜ! この毒蛇ガーゴイル!」

 そう言って、いくつもあるガーゴイルの頭の一つに斬りかかる。その一撃は確かに命中し、その蛇頭はもがき苦しむ。

(すげぇ! これが魔剣の力か……)

 これまでに味わったことがない感触にレナードが興奮する中、別の二つの蛇頭が両横からレナードを襲おうとするが、そこに二つの影が割って入った。シャリテとロシェルである。マッターホルンの付近で「魔法薬の匂い」を探していた彼女達は、目の前に現れた巨大な怪物を目の当たりにして、まずは仲間を救おうと決意したのである。シャリテは強靭な体皮で、ロシェルは頑丈な人造皮膚で、その蛇の攻撃を弾き返す。

「お前ら!」
「なんかよく分からないけど、こいつがヘラクレスの言ってた『ガーゴイル』って奴なのね!」
「私だって戦えるってとこ、見せてあげる!」

 一方、別の蛇頭はダンテに襲いかかるが、彼もまたその「謎の魔剣」の「盾の部分」によってその防ぐと、そのままスライドさせる形で「刃の部分」で逆に蛇頭に深手を負わせる。
 そして、ダンテにヴォーパルウェポンをかけるために前線に出ていたシャーロットにもまた別の蛇頭が牙を剥こうとするが、そこに(シャリテ達と共にこの場を捜索していた)ベルが割って入り、彼女の代わりに蛇頭の牙をその身で受け止める。

「下がってな! 風紀委員!」
「あなたは、あの時の……!?」

 シャーロットもまた「あの時の乱闘騒ぎ」の現場にいた一人である。

「魔法師は前線に立つもんじゃねぇ! それは俺達、邪紋使いの仕事だ!」

 つい最近まで「前線で戦う魔法師(常磐の生命魔法師)」を目指してた男がそう叫ぶと、シャーロットは「少なくとも、今の彼は敵ではない」ということを確信した上で、彼の武器にもヴォーパルウェポンをかけ、ノアと同じくらいの後方にまで下がると、ノアがベルに対してキュアライトウーンズをかける。
 そして、そんな三人の「乱入者」の後方では、オーキスが歯がゆそうな顔でその戦場を見つめていた。

(私の封印が解ければ……、皆を守るために戦える……)

 彼女はそう思いながら、再びナイフをその手に握り、自らの身体を刺そうとするが、横からヴィルヘルミネが止める。

「何するんですか! オーキスさん!」
「私には力が必要なの! 皆を守るための力が! そのためには、またもう一度瀕死状態にならないと……」
「ダメです、そんなの! 一歩間違ったら、力の封印が解ける前に死んじゃうじゃないですか!」

 二人が大声でそんなやり取りをしていると、その音に気付いたガーゴイルの蛇頭の一つが、二人に向かって襲いかかってきた。

「いいわ! 来なさい! あなたに私の身体の封印を解いてもらうわ」
「やめて下さい! 危険です、オーキスさん!」
「ミーネは下がってて! あなたのことは、私が守るから!」

 そう叫んだ瞬間、オーキスは自分の身体に「何か」が起きたことを実感する。

(え? これって……)

 オーキスはすぐさまその「異変」の正体に気付くと、一瞬にしてヴィルへルミネの身体を抱きかかえて高速で駆け出し、蛇頭の襲撃をあっさりと避ける。それは明らかに「12歳の少女」の動きではなかった。

(封印が解けてる……。もしかして、私が知らない間に、私の封印に変化が……?)

 実はノギロは、オーキスの力の再封印の時に、微妙に「解除条件」を変更していた。実際に自分が重症を負わなくても、本当に危険な状態になった時には、自分の意志で解けるように切り替えていたのである。それは、「今のオーキスなら、力を誤った形で使うことはない」と信じていた上での措置だったのだが、そのことを彼女に告げなかったのは「彼女に、自ら危険な場所へと飛び込んでほしくない」という想いがあったからである(なお、これが魔法師協会に許可を得た上での仕様変更なのか、彼の独断なのかは不明である)。

「オーキスさん、もしかして、今……?」

 ヴィルへルミネも、オーキスの身体能力が明らかに格段に上昇していることはすぐに分かった。

「大丈夫。どうやら封印は解けてるみたいだけど、私はちゃんと『私』のままでいられている。だから……、私は『私』として、皆を守るために戦うわ。この『化け物』としての力を使って」

 オーキスがそう告げると、ヴィルへルミネも頷く。

「分かりました。でも、今のオーキスさんは決して『化け物』なんかじゃない。ちょっと力が強いだけの、私と同じ『普通の女の子』です。だから、無理はしないで下さい」
「……ありがとう、ミーネ」

 そう言って、オーキスもまた多頭蛇との戦いへとその身を投じるのであった。

 ******

「おいおい、話が違うじゃないか、カブトムシさん。あんたが近くにいる状態なら、ガーゴイルの召喚は出来ないんじゃなかったのか?」
「その筈だ。おそらく、あのガーゴイルは既に別の場所でこの世界に召喚された状態から、何らかの形で封印され、その封印が何者かによって解かれた、といったところだろう。だが、ここは我の結界の中である以上、奴の本来の力は発揮出来ない。かなりその力は抑制されている筈だ」

 シャーロットが見つけた「道端に設置された黄土色の箱」の中で、アツシとヘラクレスはそんな会話を交わしていた。彼等もまた、この地で決戦が起きることを見越して、この「箱」の中でずっと張り込んでいたのである。なお、この「箱」はアツシが「神格としての力」を用いて作り出した特殊な「神器」であり、先刻の毒の息吹を食い止めた「謎の防壁」もまた、彼の力によって生み出した代物である。
 彼の「本来の名」は、アツシ・アライ。「アライ神族」と呼ばれる特殊な神格兄弟の末弟である。彼等はかつて人間として「地球」に生を受けながら、地球の危機を「特殊な材質の箱」の力を用いて救ったことで「神」へと昇格した者達の投影体であった。

「うーん、なんか、分かったような分からないような理屈だけど、要するに、あのガーゴイルは『戦って倒さなきゃいけない相手』なんだよな?」
「そうだな。少なくとも我には、それ以外に止める方法は分からん」
「OK、分かった。それなら、俺も行かせてもらうぜ。このカワカミの赤バットでな!」

 アツシはそう言って、自らのバットにヴォーパルウェポンの魔法をかける。

「分かった。それなら我も同行しよう。そして、我の力をお前達にも授ける。お前には、我が力を受け取る資格がある」
「大丈夫なのか? 前にビートが『神の力は重複しないから、自分はヘラクレスの加護を受けられない』って言ってたけど」
「それは『相性が悪い神』の場合の話だ。お主の場合は、どの世界の神族とも全く接点のない、ある意味で『異次元の神』だ。あまりにも異質すぎて、『他の神との相性』という概念そのものが存在しない」
「なんか、褒められてるのか馬鹿にされてるのか良く分からないけど、とりあえず、力を貸してもらえるなら、ありがたく受け取るぜ!」

 アツシがそう言うと、ヘラクレスは彼の肩に乗る。そして、その状態で「箱」の外に出たアツシは、多頭蛇に向かってバットで殴りかかる。そしてヘラクレスは叫んだ。

「我が宿敵・ヒュドラへと立ち向かう、果敢なる若者達よ! 『英雄神の加護』をその身に受けて、真の勇者となれ!」

 その声が響き渡ると同時に、その場にいる学生達は、自分の身体能力(特に筋力)が急激に上昇していくのを実感する。更にそれに続けて、アツシも叫んだ。

「みんな! 俺の力も受け取ってくれ! 姉ちゃん直伝の最強奥義、ダンボールの加護を!」

 その声と同時に、各人の着ているアカデミー制服にも謎の加護の力が付与されることになったのだが、まだこの時点では、彼等はその効果には気付いていなかった。

 ******

「今、外から『ダンボール』っていう言葉が聴こえたような……」

 マッターホルンの店内において、唯一その単語の意味が分かるツムギがそう呟く。なお、「彼女の住んでいた地球」には(少なくとも彼女が生きていた時代においては)「アライ神族」なるものは存在しない。おそらくは、無限に存在すると言われる並行世界の地球の一つなのだろう。
 ともあれ、店の外に「巨大な石像の怪物」が現れたことは彼等にも分かっていたため、当然、店内は激しい緊張感に包まれていた。

「偶発的投影、という可能性は低そうだね……」

 クグリは呟くようにそう言った。

「へーかが狙われてるー、ってーことだか?」
「少なくとも、その可能性を警戒する必要はありそうですね……」

 シャロンとカロンがそんな会話を交わす中、アーロンがヨハネスに忠告する。

「とりあえず、陛下はここを動かないで下さい。ボク達とバリー先生が、絶対に守りますから」

 そうは言いつつも、現実問題として今のアーロンは戦闘で役に立ちそうな魔法はまだ修得しておらず、建物の窓から見る限り、今はバリーの姿が確認出来ない。とはいえ、このタイミングでバリーが行方をくらますことはありえないので、おそらく、ここからは死角になるような場所で、何か手を打ってくれているのだろう、とアーロンは信じいていた。
 だが、その提案にに対して、ヨハネスは疑問を呈する。

「いや、むしろそれは危険じゃないかな? もしボクが狙いなのだとしたら、この建物まるごと焼き払うという手段に出るかもしれない。むしろ、ここは皆でバラバラに逃げて相手を撹乱させた方がいいんじゃない?」

 それに対して、横からジョセフが口を挟む。

「いえ、敵が何者かは分かりませんが、それが可能なら最初からそうしている筈です。あえてその手段を取らないということは、それだけの大規模魔法などを用いることが出来る者ではないか、もしくは何らかの『出来ない理由』があるのでしょう」
「なるほど……、確かに、そうかもしれないね……」
「ですから、我々は、少なくとも私は、陛下のお側を離れる訳にはいきません。最悪の場合、私が盾となって陛下が逃げる時間を稼ぐのも、護衛の任務ですから」
「そういうことなら、確かに、今は僕はここを動かない方が良いのかもしれない。ただ、外で君達の学友が戦っているのなら、君達も外に出て彼等の支援をした方がいいんじゃないかな。この建物の中に刺客がいるとは思えないし、いざとなったら、僕にはクヌートがいるから、そこまで僕にピッタリとくっついていなくてもいいよ」

 一見すると正論のようにも聞こえるそのヨハネスの言葉に対して、あえてジョセフは一つの疑問を彼に対して投げかけた。

「無礼を承知の上でお伺いします。陛下としては、我々が近くにいない方がご都合がよろしいのでしょうか?」
「どういう意味かな?」
「先程も申し上げた通り、我々としては陛下を一人にする訳にはいきません。しかし……」

 ジョセフはそう言って、あえて「クヌートの隣」に傅くようにしゃがんだ姿勢を取った上で、ヨハネスに対して、眼鏡越しの上目遣いでこう言った。

「パレット(調色板)殿がお一人で行動されたいのであれば、それをお止めするつもりはありません。それが陛下を守ることに繋がるのであれば」

 この瞬間、ジョセフ以外の学友達は、ジョセフが何を言っているのか分からなかった。だが、この場にいる者達のうち、学生達を除いた「二人」は、すぐにその言葉を理解する。

「……気付いていたの?」

 少年のような声でその言葉を発したのは、ジョセフの隣にいる「クヌート」であった。この魔石象が初めて発する「声」に、カロン達は驚愕する。そんな中、ジョセフは笑顔でそのクヌートに向かって、優しいそうな笑顔を浮かべながら答える。

「はい、陛下。大変失礼ながら、私の学友達と、そして我がエーラムの高等教員クロード・オクセンシェルナによって、お二人の素性を調べさせて頂きました。と言っても、気付いたのはつい先刻ですが」

 その言葉に、ジョセフ以外の学生達が更に混乱する中、「ヨハネス」は不敵な笑みを浮かべ、そして「明らかに今までとは異なる声色」で語り始める。

「なるほど、さすがは名門オクセンシェルナ家の門主。ノルドにはオクセンシェルナ出身の名軍師が多いと聞くが、これは仮にバルレアを統一出来たとしても、その後で色々と苦しめられることになりそうだ……」
「へ、へーか……?」
「どういういこと、ですか?」

 全く状況を把握出来ていないシャロンとアーロンにそう言われたのを無視して、「ヨハネス」はジョセフに笑顔を浮かべながら、こう告げる。

「そこまで分かっているのなら、話が早い。では、陛下のことはお頼みしますぞ」

 「ヨハネス」はそう告げたところで、彼のその姿は「クヌートそっくりの魔石像」へと変わる。

「えぇ!?」

 カロンがそんな声を上げて驚く中、その「ヨハネスからクヌートへと姿を変えた者」は、店の外へと向かって走り出す。誰もが皆、何がどうなっているのか分からずに言葉を失う中、ツムギが皆に問いかける。

「この世界の君主の人って、姿を変えることも出来るの?」

 彼女のそんな率直な疑問に対しいて、クグリは端的に答える。

「君主にはいない。それが出来るとしたら、ミラージュの邪紋使いくらいだね」

 そして、もしそうだとすれば、クグリの中での辻褄は合う。「あのヨハネス」がミラージュだとすれば、エマが一瞬心を奪われたのも、ミラージュ特有の「相手を魅了する能力」の効果だと解釈すれば無理もない。
 だが、クグリが冷静にそう言えるのは「あの場面」に遭遇していなかったからでもある。アーロンがすぐさま反論した。

「いや、でも、あの人は確かに僕達の前で聖印を……」

 そこまで言ったところで、アーロンは思い出した。あの時、ヨハネスが聖印を出した時点で、彼の手の中には「クヌート」が抱かれていたことを。

「……え? まさか、あの時、聖印を出していたのは……」

 アーロンがそう言いながらクヌートの視線を向けると、その頭上には「子爵級聖印」が掲げられていた。

「そう、僕だよ。僕が本物のヨハネス。君達が僕だと思って接していたのは、ミラージュの『パレット』。まぁ、仕事上のコードネームらしいから、本名は誰も知らないんだけど……、今まで、彼が僕の影武者を務めてくれていたんだ。ずっと騙してて、ごめん……」
「で、でも、今、君主の人は姿を変えることは出来ないって……」

 ツムギがそう口にしたところで、「ヨハネスと名乗るガーゴイル」が答える。

「僕は姿を変えたんじゃない。魔境の中で発生した混沌事故(ハプニング)の影響で、姿だけが『異界のガーゴイル』に変えられてしまったんだ……。でも、そのことを知られると国が乱れるから、殆どの人達にはこのことを隠した上で、元の姿に戻る方法を探すためにこのエーラムに来た」

 そんな真相を知らされて皆が驚愕する中、最も動揺していたのはカロンであった。

「あ、あの……、わたし、陛下に対して、ずっと失礼な態度を……」
「いや、君は何も悪くないよ。騙してたのは僕達の方だし、それに……、正直、嬉しかった。ここに来る途中で、僕に触れた女の子達がみんな体調を崩してたらしくて、それで『元の姿に戻るまでは、誰にも触っちゃいけない』ってパレットに言われてたから、ちょっと寂しかったんだ。でも、君がステュクス(カロンのぬいぐるみ)を介して僕の近くにいてくれたおかげで、僕の心は救われたんだ。本当に、ありがとう」
「い、いえ、そんな、とんでもないです! 私はただ、その、陛下のそのお姿が『かわいいな』と思って、近くで見ていたかっただけで……」

 そこまで言ったところで、カロンは思わず赤面する。

「あ……、いや、その……、こんな言い方も失礼ですよね! ごめんなさい!」
「どうして? 君にそう言ってもらえて、僕は嬉しいよ。こんな姿の僕でも可愛いと言ってくれる人がいるなら、それもそれで僕にとっては救いになる。まぁ、『君が好きになってくれたこの姿』のまま、君の隣に居続けるという訳にもいかないから、そこは申し訳ないんだけど」
「いえ、そんな、めっそうもないです。すみいません、いろいろと、ほんとうに……」

 もはや何をどう返せば良いのか分からずに完全に混乱した状態のカロンを眺めながら、クグリは内心でボソリと呟く。

(なるほど……、あの影武者の振る舞いは、ちゃんと「本物」を忠実に再現していた訳か……)

 ******

(なぜだ!? なぜあんな子供達相手に、ヒュドラのガーゴイルが苦戦する!? 奴等の所持するガーゴイル達の中でも、最強クラスの存在ではなかったのか!?)

 マッターホルンの目の前で繰り広げられている戦いを目の当たりにして、一人の女魔法師は焦っていた。彼女の名はサーヤ。バルレア・パンドラに所属する闇魔法師である。現在、彼女は魔法で自分の姿を消した状態で戦局を見守っていたのだが、ただでさえヘラクレスの即席結界によってヒュドラの力が弱められていた上に、アツシによってコーティングされたダンボール装甲がヒュドラの毒の威力を完全に打ち消してしまっており、ろくに彼等に傷を与えられてもいない。逆に二本の魔剣と二人の人造人間、更には二柱の神と巨大狼という謎の力の合わせ技によって、ヒュドラの方が明らかに劣勢に立たされていた。

(戦いが長引けば、すぐに正規の魔法師達が現れる。それでは瞬殺されて終わりだ。ヒュドラが奴等を引きつけている間に、一気にあの店を焼き払ってしまう手もあるが……、今、ここで私が魔法を使えば、おそらく「奴」にこの場所がバレてしまう)

 彼女の視線の先には「マッターホルンの屋根の上に登り、あえてヒュドラとの戦闘を子供達に任せた上で、全神経を集中させて周囲に気を配っているバリー」の姿があった。

(おそらく奴は「あのヒュドラを呼び出した者」が近くにいると考えたのだろう。そして、悔しいが、一人の魔法師としての実力は奴の方が圧倒的に上……、どうする? もういっそ、このまま諦めてバルレアへと戻るか……、いや、仲間を奪われた状態のまま、何も成し遂げられずにおめおめと変える訳にはいかない。せめてヨハネスの首だけでも奪わなければ……)

 そんな彼女の視界に「ライオン型ガーゴイル」の姿が目に入る。

(あれは確かヨハネスの護衛……、そうか、ならば今のうちに店内に入って、至近距離からヨハネスを……、いや、むしろこれは、私を誘い出すための罠か……?)

 彼女がそう逡巡しているところで、その「ガーゴイル」はその姿が「筋骨隆々とした半裸の男」へと変わる。その瞬間、アツシの肩に乗っていたカブトムシが叫んだ。

「なぜ、我がそこにいる!?」
「え? どういうこと?」

 アツシには全く意味が分からなかったが、その半裸の男は、かつて「人間」だった頃のヘラクレスそのものである。

(ヒュドラを挑発するなら、やはりこの姿だろう)

 パレットと名乗るミラージュの邪紋使いは、そんな思惑から、かつて見たことがある「異界の英雄ヘラクレス」の絵画そっくりの姿に変身したのである。そして実際、ヒュドラはその「ヘラクレスの姿」に完全に視線を奪われ、注意力散漫になったところに、レナード、ダンテ、アツシ、ロシェル、シャリテ、オーキスによる六連撃が繰り出された結果、いよいよ本格的に追い詰められていく。それでも果敢に蛇頭を「ヘラクレスの姿を模したミラージュ」へと向けて襲いかかるが、それらの攻撃は全てあっさりと避けられてしまう。

(これはもう、今すぐ逃げるか、決死の特攻をかけるかの二択……)

 その瞬間、彼女は強烈な目眩に襲われた。

(な、なんだ……、これは、スリープか……? なぜ私の居場所がバレ……)

 彼女は意識を失いそうになるものの、自分自身にアシストの魔法をかけることで、どうにか意識を保つ。だが、次の瞬間、バリーが自分のいる方へと(ライドサイクロンの魔法を使って空を飛びながら)迫って来た。

(くっ! もはやこれまで! ならばいっそ……)

 彼女がそう考えて、本気の攻撃魔法を彼に対してかけようとするが、それより一歩早く近付いたバリーが、彼女のいる周辺に対して強烈な風属性の攻撃魔法をかけ、まともに直撃したサーヤはその場に倒れる。そして、集中力が途切れたことによってその姿があらわになり、即座にバリーによって組み伏せられた。

「バルレア・パンドラのエージェント、サーヤだな?」
「……あぁ」
「見つけたのが俺で良かったな。一歩間違えば、あそこのお嬢さんに焼き尽くされていたぞ」

 バリーはそう言いながら、「少し離れた場所で、左手に遠眼鏡、右手に火炎瓶を持っているハンナ」の姿を指し示す。

(あー、バリー先生に先に見つけられちゃったか。残念。バルレア・パンドラのエージェントだったら、何か面白い魔法具とか持ってそうだから、上手いこと死骸を確保出来れば儲けものと思ったんだけどなぁ……)

 ハンナは先刻のエルとの会話から、おそら「ヨハネスの命を狙うバルレア系の闇魔法師」が出現するのではないか、と勝手に予想を立てていたのである。

(まぁ、いいや。他事にかまけてる場合じゃないしね。ヨハネス陛下、早く店から出てきてくれないかな♪)

 遠方からそんな思いを抱きながら、ハンナは遠眼鏡の照準を店の出入口へと戻す。そんな彼女の個人的思惑など知る由もないまま、組み伏せられた状態のサーヤはバリーに問いかける。

「なぜ、私の居場所に気付いた?」
「スリープの魔法にかかった時、抵抗するために魔法を使っただろう? いくら姿を消していても、魔法を使えばそこに魔法師の気配を感じ取ることは出来る」
「いや、その前に、私の居場所が分からなければ、スリープの魔法もかけようがないだろう! どうやって見つけた?」
「見つけてなんていないさ。ただ、どこかこの近くにいる筈だと思ったから、片っ端からスリープの魔法をかけ続けていた」
「なん……、だと…………?」

 サーヤの目には、バリーはただ周囲を見渡していただけのように見えたが、実は彼は「自分が魔法を使っていること」を悟られないように気を配りながら、ひたすら周囲にスリープをかけ続けていたのである。バリーの一族は「魔法を使う時に演武を舞うこと」で知られているが、それは「その方がより魔力を高めることが出来る」という理由でやっているだけで、別に舞わなくても魔法は使えるし、魔法を使っていること自体を隠匿したまま発動させることも出来る。

「まぁ、こんな気の長いやり方が出来たのも、あいつらがヒュドラの相手をしてくれてたおかげだ。どうだ? すごいだろ、うちの見習い魔法師達は?」
「そうね、最底辺の下っ端ですらこのレベルなら、私達の勝てる相手じゃなかったわ……」

 諦めきった表情でサーヤがそう呟いたところで、既に満身創痍だったヒュドラのガーゴイルに対して、ダンテが懇親の力を込めた一撃を叩き込む。

「喰らえぇぇぇぇぇぇぇぇ!」

 その一撃でガーゴイルの身体は破壊され、その力の根源であった混沌核にまでその「魔剣(のオルガノン)」が到達する。

「喰らいます」

 魔剣のオルガノンは淡々と呟きながら、その混沌核を自らの内側へと吸収し、そしてダンテの手元から姿を消す。時を同じくしてレナードの手元の魔剣もまた消滅し、そして副作用に耐えながら魔法を使い続けていたレナードと、慣れない力を多用しすぎて体力が限界に達していたオーキスは、二人同時にその場に倒れる。
 皆が二人に駆け寄る中、ノアはレナードの傷を魔法で癒そうとするが、彼に触れた途端、彼の身体の「古傷」が熱を帯びていることに気付く。

(これは……、キュアライトウーンズでは治せないかも……)

 そう判断した彼(彼女)は、まずファーストエイドを発動させて「通常の治癒魔法で治療可能な状態」にしてから、改めてキュアライトウーンズの魔法をかけることで、どうにか彼の一命を取り留める。一方、オーキスに対しては、店の中からカロンとシャロンが窓を空けて身を乗り出した状態でキュアライトウーンズをかけることで、どうにか彼女も無事に意識を取り戻した。

「おい、ダンテ! お前、なんで俺に魔剣を預けてくれたのかと不思議に思ってたが、お前の方がもっと強え魔剣を隠し持ってやがったんだな!」
「まぁ、そういうことになるのか? いやあ、俺もよくわかんねえんだけどさ」

 実際、ダンテも「彼女」についてはろくに分かっていない。ただ、おそらく再び「ゴルフ場」に戻ったのだろうと考えた上で、いずれまた彼女に会いに行かなければな、と考えていた。

「それにオーキス! お前、いつの間に普通に『あの力』を出せるようになってたんだよ!」
「私もよくわからないわ。でもまぁ、多分……、それが出来るようになったのは、あなた達のおかげね……」

 オーキスは、自分の心の成長をもたらしてくれた周囲の面々に対して内心で改めて感謝しつつ、彼女の中では微妙な関係にあった「ロシェル」にも声をかける。

「あなたとも、これから先は仲良くしていきたいわ。ある意味、似たような存在なのかもしれないし」
「そうね。私も、あなたのことは、もう少しよく知りたいと思う。正直、まだよくわからないことが多すぎるから」

 彼等がそんな「よくわからない話」を繰り広げている中、なぜか「一番よく分からない存在」である筈の「アツシの力」には誰も触れないまま、やがて「ヨハネス(の姿に戻ったパレット)」と「クヌート(として振る舞っているヨハネス)」が彼等の前にも現れ、一人一人の功を手厚く労うのであった。

 ******

 その後、ネメシス、アルゴール、サーヤの三人の身柄は、今回の件の捜査本部長であるフェルガナの元へと引き渡され、アストロフィ邸で拘束された者達の証言とも照らし合わせた上で、「これ以上の潜伏者はいない」と判断された結果、この件に関する捜査はひとまず終了となった。一方で、ロゥロアが目撃した「左右の瞳の色が異なる魔法師」については「今回の件とは直接的には無関係」ということで、引き続き別件(魔力増幅薬)での指名手配状態は続けるものの、それ以上の捜索には踏み切らなかったようである。
 なお、地下室に残されていた二体のガーゴイルに関しては、報告を受けたフェルガナが乗り込んだ時点で、死闘を勝ち抜いた満身創痍のケルベロスだけがその場に残っていたが、彼女の手であっさりと倒されたらしい。
 そして、アストロフィ邸はしばらく魔法師協会が差し押さえた上で内部を慎重に調査することになったため、ヨハネス(パレット)とクヌート(ヨハネス)は(彼等自身もまた、今回の事件における「重要参考人」であるという事情もあり)、魔法師協会が用意した特別宿に数日間滞在してもらうことになった。

6、真相と後日談

 翌日、クロードは改めて、今回の一連の事件に関して「事件の真相」に強い興味を示していた(独自の推理を展開していた)者達を集めて、今回の顛末の全容について解説することにした。なお、ここで彼が語った内容は、彼の推理に基づいた上で、関係者各人に確認を取った上での「ほぼ真実に近いと思われる推論」である。

「今回の騒動は、実質的に二つの事件が絡み合って進行していたのです。一つは『ヨハネス殿の身体の変異事件』、そしてもう一つは『ヨハネス殿の暗殺未遂事件』です。そしておそらく、それぞれの事件に関わっていた人々の大半は、もう一つの事件については殆どもしくは全く把握していませんでした」

 一つ目の事件は、バルレアの瞳で発生した。アストロフィ子爵ヨハネスは、子爵級聖印を有してはいるものの、まだその聖印を十分に使いこなせてはいない。だが、いずれは魔境を浄化しなければならない身として、彼は自ら「魔境浄化の実戦訓練」を側近のフラメアに申し出たのである。フラメアは「まだ早いのではないか」と躊躇しながらも、現実問題として巨大な混沌核の浄化にはヨハネスの聖印が必要となる以上、早目に体験させた方がヨハネス自身のためでもあると判断し、周囲には黙って密かに魔境調査団に同行させる形で、ヨハネスを魔境へと連れ出したらしい。
 なお、この魔境遠征の間、ヨハネス不在を悟られないように、アストロフィに昔から仕えていた「パレット(調色板)」という「通り名」を持つミラージュに影武者を依頼していた。パレットはもともとはブレトランド南部のヴァレフール伯爵領出身であり、当時の騎士団長ケネス・ドロップス(現:ケネス・カサブランカ)の懐刀の一人であったが、十数年ほど前に諸々の経緯の末に同じ幻想詩連合の一員であるアストロフィへと出向になり、その際に先代アストロフィ子爵に心酔し、そのまま彼の側近となったらしい(ちなみに、パレットの師匠の名はパロット(鸚鵡)、弟弟子の名はパペット(人形)という。無論、いずれもあくまで「通り名」である)。
 パレットはこれまでにも何度も様々な人物の影武者を務めてきた「歴戦のミラージュ」であり、ヨハネスの影武者を務めるのもこれが初めてではなかったため、当初は気楽な気持ちで引き受けていた。
 ところが、この魔境遠征で彼等は凶悪な混沌事故(ハプニング)に遭遇し、ヨハネスはその身体を「異界のガーゴイル」に書き換えられてしまった。魔境においてこのような事故が発生すること自体はそこまで珍しくはないが、大抵の場合、その変化はそこまで長時間継続するものではなく、魔境を出た時点で元の姿に戻ることが多いのだが、バルレアの魔境では、その効果がそのまま永続してしまう事例が稀に発生する。今回のヨハネスの一件が、まさにそれだったのである。
 幸いなことに、変化が発生したのは外見だけで、ヨハネスの心までは混沌には侵されず、国家としいてのアストロフィの生命線である子爵級聖印を維持することは出来た(似たような事例においては、聖印が混沌核に書き換わってしまったという記録もあるため、この点に関しては不幸中の幸いである)。だが、この事実が知られれば国内外に著しい悪影響を及ぼすと判断したフラメアは、その現場にいた者達以外には極力この事実を伏せた上で、ヨハネスの姿を元に戻す方法を模索した。
 その結果、高位の生命魔法師の中には「ポリモルフ」という、外見を変化させる魔法を使える者もいるという話に辿り着いたフラメアは、旧交のあった生命魔法師のノギロ・クァドラントに相談したのである。これに対してノギロが「門外不出のエーラムの特殊魔法具を使えば、元に戻せる可能性はある」と返信したため、フラメアは藁にもすがる気持ちで、彼に幼子爵を委ねることにした。その状況を自然に演出するために「留学」という名目を考案し、真相が発覚するリスクを減らすために、パレットとヨハネス自身以外の供を一切付けずに、ひっそりと送り出すことにしたのである(その背景には、フラメアとパレットとの間の絶対的な信頼関係があった)。
 なお、「ガーゴイル化した姿のヨハネスの身体に触れた女学生達もまたガーゴイル化した」という案件については、後にノギロが調べたところによると、どうやら「まだ身体が未完成の子供にしか効かない程度の混沌の伝染性」が今のヨハネスの身体には内在しているらしい。これについては当初彼等も全く無警戒だったのだが、実際にジュノ達が体調不良を起こしたという話を聞いた時点で、念のため学生達の「接触」を禁止することにしたらしい。なお、ジュノ達からの二次(三次?)感染については、彼女達自身が完全に魔物化する前に食い止められているせいか、今のところそれらしき症状が発生したという報告は届いていない。
 ここまでの説明を終えた時点で、ジョセフはクロードに問いかける。

「クロード師が感じ取った『予兆』の件については、ノギロ師には伝えていたのですか?」
「えぇ、もちろん」
「ということは、ノギロ師はその時点で、ヨハネス陛下が狙われるかもしれない、ということには気付いていたと思うのですが、それでもその『第一の事件』のことを、クロード師にすら伝えていなかったのですか?」
「ノギロ先生は、義理堅い人ですからね。アストロフィ側から『絶対に他の者には漏らすな』と言われて、そのことを既に承諾していたのだとしたら、たとえ協会の意に反してでも、漏らしはしないでしょう。ましてや私はアストロフィと敵対関係にあるノルドに多くの弟子を送り込んでいる身です。私がその情報を漏らすことがないとノギロ師自身が信じてくれたとしても、アストロフィ側がそれを快く思わないと判断したら、私には漏らしません。あの人は、そういう人です」
「その結果として、アストロフィ自体が危機的状況に陥るリスクが増えたとしても、ですか?」
「はい。あの人が重視しているのは、あくまでも『個人間の友誼』であって、『友人の政治的成功』ではありません。そもそも今回の案件は、あくまで『闇魔法師』を介在させたことがエーラムの規律に反していただけで、アストロフィ内での主導権や聖印の奪い合いに関して、契約魔法師でもない我々がどちらかに加担する義理はありません。アストロフィという国全体から見ても、今回の暗殺事件が失敗に終わったことが、長い目で見てプラスになるかマイナスになるかは分かりませんからね」

 実際、アストロフィ国内においても、主戦派のフラメア達の施政に反対している国民は決して少なくないし、客観的に見ても、彼女達の方針が最終的にアストロフィを崩壊へと導いてしまう可能性は決して低くはない。そのような案件だからこそ、エーラムの魔法師としては、彼等の権力闘争に対しては適度な距離感が必要となる。

「おそらく、ノギロ先生としては『今の自分は個人的友誼に基づいて動いているからこそ、政治的陰謀と闇魔法師問題が絡み合った事件には関わるべきではない』と判断したのでしょう。だからこそ、暗殺未遂問題については我々に託した上で、自分はヨハネス殿の身体を治す方法の解明に全力を注ぐことにしたのだと思います」

 以上が、クロードから見た今回のノギロの行動に関する見解である(ちなみに、この話をしている時点で、まだノギロは研究室から出て来ていなかった)。
 そして、ここからが問題の「第二の案件」、すなわちヨハネス暗殺未遂事件の話である。

「この暗殺未遂事件には、少なくとも三つの勢力が関わっています。一つ目は、アストロフィ内における反フラメア派としての文官勢力および彼等と結託したハーラル卿。二つ目は、バルレアの瞳の浄化を阻止しようとしているバルレア系パンドラ。そして三つ目は、『異界の魔石像(ガーゴイル)』を呼び出す技術を持つ闇魔法師集団です。この第三の勢力に関しては、パンドラの一員と言って良いのか微妙な存在のようですが、ひとまずここでは『パンドラ石像派』とでも呼んでおくことにしましょう。彼等の本拠地がどこにあるのかは不明ですが、世界各地で彼等の仕業と思しい『ガーゴイル発生事件』が勃発しているので、それなりの規模のある集団だと思われます」

 学生達が捕まえた捕虜達のうち、イェスタとサーヤはバルレア系パンドラ、ネメシスとアルゴールはパンドラ石像派のエージェント、ということになる(もっとも、イェスタに関してはまだ「エージェント見習い」とでも呼ぶべき立場だったようだが)。証言は微妙に食い違っている箇所もあるが、クロードが総合的に判断した結果、今回の暗殺未遂事件は、この三者の利害が一致したことで引き起こされたらしい。
 まず最初に結託したのは、ハーラル達とバルレア系パンドラである。彼等は共通の敵である「瞳を浄化しようとするフラメア派」を倒すために、彼女達の旗頭であるヨハネスの暗殺を共同で考案した。ただし、前者にとっては「ヨハネスの聖印をハーラルが手に入れてアストロフィの主導権を握ること」が目的であるのに対し、後者は「ヨハネスさえ死ねば、その聖印をハーラルが手に入れようが、消失しようが、どちらでもいい」と考えていたため、既にこの時点で内在的対立要素を孕んでいた。
 そして、前者の目的に合致する形でヨハネスを暗殺するために最適な手段として、石像派の持つ「小型化されたガーゴイル」を用いることが最適だとバルレア系パンドラは考えた。すなわち、ハーラルが管理するエーラムのアストロフィ邸にて、密かにヨハネスの寝所にガーゴイルを設置し、彼が寝静まった時点で急襲させ、その命と聖印を奪う、という作戦を計画したのである。
 ただし、この場合は当然、ハーラルによる暗殺を疑う者は現れるであろう。エーラムの論理としては、それでも作戦が成功すればハーラルを新たなアストロフィ子爵として認める他ないのだが、肝心のアストロフィの国民の大半はそれでは納得しないだろうし、最悪の場合、国が分裂することにもなりかねない。そこで、カモフラージュのために、エーラム全体で大規模なガーゴイル災害を引き起こし、その混乱の中で命を落としてしまった、という体裁が必要だと考えたのである。
 バルレア系パンドラからこの作戦への協力を要請された石像派は、バルレア勢が所有している様々な「バルレアの瞳でしか産出されない投影装備およびそれを元に作られた魔法具」を対価として受け取ることを条件に、彼等の作戦に助力することになった。石像派はバルレア勢に対して『ディスペルマジックで解除可能な小型化封印を施された魔石像』を手渡した上で、カモフラージュのための「ガーゴイル大量発生」のために、まずは下町の一角にアジトを築いて下準備を進めた上で、最終的には(ほぼ無人の)ユーミルの邸宅を密かに占領して、そこから各地の貴族の邸宅を無差別の攻撃することで「ユーミルによって引き起こされたガーゴイル事件」と周囲に誤認させる、という作戦だったらしい。
 無論、現実問題として聖印教会の敬虔な信者である現ユーミル男爵がそのような手段を採る可能性は低い、と冷静に考える人も多いだろうが、それでも、アストロフィにとっての最大の敵対勢力であるユーミルの国際的信用を多少なりとも下げることが出来るなら(少なくとも「エーラム内の別邸の管理不行き届き」で責められる可能性は十分にあるだろう)、それだけでも十分に意味のある作戦であった。仮にユーミルが冤罪だと分かったとしても、その場合は「パンドラによる無差別殺戮」という結論にまとめられれば、自分がその黒幕だという事実は隠し通せるとハーラル達は考えていた(なお、当のパンドラ両派にしてみれば、自分達の悪評が広がったところで、今更何の問題もなかった)。
 しかし、実際にはゴシュによって「下町のアジト」は発見され、ゼイドとマシューによって「ユーミル邸の乗っ取り」は失敗し、バルレア勢から石像派に手渡される筈だった「ガーゴイルの大量召喚のために必要な資材となる魔法薬」もまたシャリテによって奪われてしまったため、結果的に彼等の「大量ガーゴイル召喚」の陰謀は完全に頓挫し、最後は苦し紛れにサーヤが携帯用ガーゴイルの封印を解くことでヨハネス滞在中のマッターホルンを襲う程度のことしか出来なかった、というのが今回の事件の顛末である。
 ここで、今度はジャヤがクロードに疑問を投げかける。

「バルレア勢にしても、石像派にしても、基本的には『より強い力』を求めている集団だということは分かった。魔境に出現する投影装備も、強大なガーゴイルも、手にした者は大きな力を得ることになる。だが、その上で彼等は、最終的に何を目指しているのだ? 力を得ること自体が目的なのか? それとも、その力を得た上で何かを成そうとしているのか?」
「それについては、おそらくそれぞれのグループ内でも意見は統一されていないと思います。ブレトランドのパンドラの場合は、最終目標の違いに基づく四つの派閥が併存しているようですが、バルレア勢や石像派に関しては、どちらかというと『目標』ではなく『手段』の共通性によって形成されている集団のようですから」

 だからこそ、彼等の行動原理は読みにくく、事前対応が難しい。その意味では、今回の場合は政治権力と結びついて動いてくれたことで、比較的その足取りが追いやすかった側面もある。

「なお、今回捕らえた石像派の者達の話によると、彼等は自分達が呼び出すガーゴイル達の出身世界を『ユグドラシル宇宙』と呼んでいるようです。その世界の中にも『地球』と呼ばれる区域があり、そこに存在する『グレイブヤード』という組織に所属する一人の技術者によって、それらのガーゴイルは生み出されているらしいのですが……、この世界のことについては、まだ分からないことが多すぎて何とも言えません。ただ、もしその世界の詳しい話が分かれば、彼等の具体的な目的も見えてくるかもしれませんね」

 ちなみに、その技術者の名は不明だが、彼等の間では「マイスター」と呼ばれているらしい。その話をゼイドが黙って(しかし、フードの中では複雑な表情を浮かべながら)聞いている横で、今度はテオフラストゥスからも質問が投げかけられた。

「今回の二つの事件が同時に発生したのは、本当にただの偶然なのでしょうか?」

 確かに、「ヨハネスがガーゴイルの姿となった状態でエーラムに来ることで、ヘラクレスの結界を解かざるを得なくなったタイミング」で「バルレア勢が石像派に協力を依頼する」という状況は、一見すると明らかに出来すぎているように見える。

「それについては私も気になっていたのですが、彼等の証言を信じるならば、どうやら私の当初の想定とはかなり異なる形で連動していたようです」

 今回の暗殺事件に関わっていた三派の尋問の結果から察するに、どうやら彼等はいずれも「ヨハネスが連れていたガーゴイル」の正体には気付いていなかったらしい。むしろ、ハーラル達は当初「ヨハネスの護衛が、得体の知れないガーゴイル一体だけ」という状態から、そのガーゴイルが「相当に強大な力を秘めた魔物」ではないかと警戒していた。その上で、「奴等もまた、どこか別の闇魔法師組織から戦力提供を受けているのでは?」という疑惑もあったという。
 その話を伝えられたバルレア系パンドラの面々は、その時点で真っ先に「石像派がフラメア達に協力しているのではないか?」と疑い、旧知の存在であった「左右の瞳の色が異なる闇魔法師」経由で石像派に探りを入れてみた結果、その時点で彼等は全く関与していなかったことが判明し、逆にそこから協力体制の構築へと話が進んでいったらしい。
 ここで石像派が彼等への協力を決意した背景には、前述の魔法具提供だけでなく、彼等自身の根源的な行動原理自体も関係していた。というのも、その話を聞かされた石像派の面々は「そのライオン(ネメアーの獅子)型ガーゴイルがエーラム内にいる状態なら、むしろそれを触媒とする形で『十二の魔物』を元にしたガーゴイルの大量召喚は実現させやすいかもしれない」という憶測に至ったのである。もともと彼等(石像派)の中でエーラムは「ガーゴイルが出現しやすい土地」という認識であり(それは実際に過去の様々な事象が証明している)、その意味では彼等自身にとっても「本格的な大規模召喚のための実験の機会」として最適な候補地だったらしい(なお、ヘラクレスの対ガーゴイル結界に関しては、彼等は存在すら認知していなかった)。
 そして、彼等がこのタイミングがガーゴイル召喚に適していると判断した理由はもう一つあった。これはまだエーラムでは未実証の仮説だが、「投影体の出現には、世界的に一定の『周期』がある」という俗説が存在する。そして、石像派の面々はヨハネスが連れている「ネメアーの獅子」のことを「最近になって偶発的にこの世界に投影された存在」であろうと予想していたため(実際、その予想も半分は正解なのだが)、「今こそ『ヘラクレスの伝承由来のガーゴイル』を呼び出す好機」と判断したらしい。
 つまり、今回の事件を引き起こした三派連合は「勘違いと思い込みによる連合」であった。その上で、それぞれに自分達の目的を達成することしか頭になかったため、肝心なところで連携が上手くいかず、最終的にはハーラルもあっさりとパンドラを切り捨てて命乞いをすることに躊躇はなかったようである。
 なお、現在もまだ諸々の取調べ中ではあるが、ハーラルはあくまで「闇魔法師に脅されて協力しただけで、本当は暗殺計画などやりたくなかった」と証言している。彼の処遇をどうするかについては、アストロフィ内の問題として、ヨハネス(実質的にはフラメア)に丸投げするというのが、今のところのフェルガナの方針であるが、仮にハーラルの証言を信用するとしても「エーラムへのハーラル一派の立ち入り禁止」程度は要求するつもりなので、いずれにせよエーラム内のアストロフィ邸には、新たな主が必要となるだろう。
 パンドラ両派に所属する者達(イェスタ、サーヤ、ネメシス、アルゴール、etc.)の処遇については、クロード達よりも更に「上」の機関に委ねることになるため、この場で明言出来ることは何もない。ただ、いずれも貴重な情報源となりうる存在であるため、何らかの司法取引が発生する可能性もある。それもこれも、彼等が大量殺戮を決行する前に取り押さえることが出来たが故であり、その点については間違いなく学生達の功績であった。
 クロードとしては、これで概ね伝えるべきことは伝えたつもりであったが、ここでジュードが手を挙げる。

「あの、一応の確認なのですが……、今回の件に関してはアストロフィ以外の国は関与していない、という結論で良いのですよね?」

 ウィステリア出身の彼としては、やはりどうしてもそこが一番気になるらしい。

「そうですね。状況的には他の国が裏で関与していてもおかしくない事件でしたが、今のところはその形跡は見られません。しいて言えば、ユーミルが冤罪にされかけた、というくらいです」

 ジュードがホッと胸をなでおろした横で、今度はテラが発言する。

「ここまでのクロード先生の説明で、私としても概ね納得は出来ます。ただ……、他の可能性は本当にありえないのでしょうか?」
「どういう意味ですか?」
「確かに『全てが偶然となりゆきの結果』と解釈しても不自然のない事件ではあります。しかし、私にはこの『矛盾なく展開された経緯』が逆に不気味にも思えるのです。裏で誰かが全ての糸を引いていたのかもしれないという懸念が拭えないのですが……、これは杞憂でしょうか?」
「確かに、その可能性も完全に否定することは出来ません。その場合、鍵になりうる人物は、誰だと思います?」
「『二つのパンドラを結びつけた人物』が、どうしても気になるのです」

 先刻のクロードの説明の中では一瞬で流されてしまった存在である、左右の瞳の色が異なる魔法師。その男は、かつてこのエーラムで「危険かもしれない魔法薬」を学生達に対して配布していた人物でもあった。
 その時に渡された薬をまだ密かに持っているテオフラストゥスが黙ってその話に聞き入っている中、クロードは淡々と答える。

「確かに、私もその点は気になっています。もしかしたら、最初のヨハネス陛下の混沌事故の時点から彼が裏で操っていた可能性も否定は出来ない。しかし、憶測だけで考えるならば他にもいくらでも可能性を語ることは出来ます。たとえば……」

 クロードはそう前置きした上で、考えうる限りの仮説を次々と提示しながら、それらの仮説を立証するにはどのような証拠が必要になるか、逆にどのような証拠が見つかれば否定することが出来るか、といった「状況把握のために必要な検証の手順」について簡単に説明していく。そんなクロードの姿を目の当たりにして、ジョセフは思わず小声で呟いた。

「これが時空魔法師の頂、クロード・オクセンシェルナの実力か……」

 ******

 この日の夜、丸二日以上研究室に籠もりきりだったノギロが、ようやく部屋から姿を表した。少し疲れている様子ではあるが、その表情は充足感に満ち足りている。

「大丈夫? お義父様……」

 オーキスが心配そうに見詰める中、ノギロは静かに頷く。

「バリー君とクロード君から、魔法杖通信で大方の話は聞いています。私が持ち込んでしまった厄介事を解決するために、あなたにも無理をさせたようですね」

 オーキスはまだ今回の事件の全容までは聞かされていないため、「私が持ち込んでしまった厄介事」という言葉の意味は理解出来ないが、何の話をしているのかは概ね察しがつく。

「無理はしていないわ。私自身が望んだことだから」

 はっきりとした自我を感じさせる瞳で彼女がそう答えると、ノギロは黙って静かに笑顔を浮かべる。そして彼は魔法杖通信を通じて、エーラム特別宿の宿主に連絡して「ヨハネス(パレット)」と「クヌート(ヨハネス)」に、「エーラムの一角にある特殊な施設」へと足を運ぶように要請した。

 ***

「結論から言えば、陛下のそのお身体を治すために今から私がおこなおうと考えているのは、ディスペルマジックを応用した私の創作魔法です。ディスペルマジックは『魔法によって組み上げられた混沌の効果』を分解する魔法ですが、これは陛下の体内に宿っている全ての混沌の産物を一度分解する、という手法です。これが何を意味しているか、お分かりですか?」

 特殊な魔法陣が書かれた施設において、ノギロは「ガーゴイルの姿をしたヨハネス」にそう問いかけた。その傍らには「ヨハネスの姿をしたパレット」もいる。

「もしかして……、聖印も壊れてしまう、ということ?」

 聖印もまた、元は混沌から作り出された産物なのである。

「はい。あくまでも一時的な現象なので、陛下の強い御志があれば、すぐに元通りに聖印を組み直すことは可能です。しかし、もし陛下の中での御心が揺らいでしまっている状態では、その再構成に失敗してしまう可能性もあります、その場合、聖印は混沌核となり、陛下は身も心も完全な怪物となってしまうかもしれません。おそらく、今よりも遥かに強力な……」
「それなら、他の人に一旦、聖印を預けた方がいいのかな?」
「確かにそれも一つの方法です。しかし、その場合、聖印を失った瞬間に、陛下の魂が混沌に飲み込まれてしまう可能性も発生します。ただし、聖印は『誰か』の手で引き継がれることになり、アストロフィ子爵領を存続することは可能となります。もっとも、その場合、誰にそれを引き継いでもらうのか、という問題はある訳ですが」

 少なくともこの状況下では、ハーラルだけは絶対にありえない。ただ、傍流や遠縁でも良いと割り切るのであれば、他に候補もいない訳ではない。

「……成功の可能性が高いのは、どっち?」
「私の見立てが間違いでなければ、聖印をお持ちになった状態で、ご自身で組み直すやり方の方が、成功率は高いと思われます。もっとも、それは陛下の中で『自分が君主として生きていく意志』をはっきりと固めている場合、に限った話はでありますが」

 つまり、「自分がアストロフィの君主として生きていける可能性の高さ」を優先するか、「最悪でも確実にアストロフィの聖印を存続させること」を優先するかの二拓ということである。それに対して、ヨハネスは即答した。

「それなら、他人に預けたりはしない。僕が責任を持って、この聖印をきちんと組み直す。それが、父様からこの聖印を引き継いだ者としての責務だから。ここで逃げ出すようなら、何のために皆に迷惑をかけてまでここまで来たのか分からない。今度はちゃんと『人間の姿』で皆に御礼を言うって、決めてるんだから」

 はっきりとした強い意志を抱いてそう断言したヨハネスを見て、ノギロは笑顔で頷く。

(なるほど……、ただ見目麗しいだけの御令息ではなかった、ということか。むしろ、この自我の強さがあるからこそ、この状況でも混沌に心を飲まれなかったのかもしれない)

 そんな感慨を抱きつつ、パレットが見守る中、ノギロは術式を開始しようとしたところで、ヨハネスはノギロにこう言った。

「ひとつ、お願いしたいことがあるんだけど、いいかな……?」

 ***

 それからしばらくたった後、その施設の特別施術室から「ノギロ」「ヨハネス」「クヌート」の三人が現れると、廊下には前日の「接待・護衛組」の面々が待っていた。ヨハネスは施術直前に、ノギロに「昨日のみんなを、この場に呼んでほしい」と告げていたのである。
 三人を目の当たりにした瞬間、最初に口を開いたのは、カロンであった。

「成功したんですね、陛下」

 彼女は「ヨハネス」の目を見つめながら、そう言った。すると、「ヨハネス」は聖印を掲げながら笑顔を浮かべる。

「ありがとう。僕が何も言わなくても、気付いてくれたんだね」
「はい。『ライオンだった時の陛下』と同じ目をしていましたから」

 彼女のその言葉を聞いて「クヌート」がすぐさま「ヨハネス」の姿に変化し、「聖印を持ったヨハネス」の隣に立つ。

「私と並んでも、区別がつくかい?」
「はい。やっぱり、違います。うまく説明は出来ないけど……」

 そう言われた「聖印を持っていないヨハネス」は苦笑を浮かべつつ、再び「クヌート」の姿に戻る。

「百戦錬磨のミラージュでも、『子供の目』は欺けない、ということですよ」
「悔しいが、その通りのようだな」

 二人の「大人」がそんな言葉を交わすと、その場に集った他の子供達も笑顔を浮かべる。

 ******

 その後、ヨハネスは「今回の件に関わった全ての学生達」に真相を告げた上で、一人の「短期留学生」として、彼等と共に基礎教養の講義を受けることになった。当初は「建前」として設定された留学計画だったが、せっかくここまで来た手前、彼としてもきちんとその「建前」を果たした上で帰りたいと考えたらしい。もちろん、せっかく仲良くなった彼等とすぐに別れるのが寂しい、という本音もあったのだろう。
 パレットに関しては、今後しばらくは「クヌート(ライオン型ガーゴイル)」の姿のまま、最初から自分がクヌートであったかのような素振りで、今後も彼の周囲を護衛し続けることにした。なお、ミラージュの変身はあくまでも「一時的な幻影の姿」であるため、ヘラクレスのガーゴイル結界には抵触しないことから、ひっそりとヘラクレスは結界を復活させる。
 アストロフィ邸の扱いに関しては、フェルガナ達がくまなく調べ尽くした結果、「危険な物品はもう何も隠されていない」ということが判明したため、ひとまずは「留学中のヨハネスの宿舎」として、彼に返されることになった。当面はパレットやベル、そして今回の陰謀には加担していなかったと認定された一般使用人達に囲まっる形で、ヨハネス自身がこの屋敷の主として住まうことになる。
 また、ジュノ達四人に関しても、ノギロはヨハネスに用いた時と同じ手法で彼女達の混沌を除去した上で、ヨハネスが聖印でその混沌の欠片を浄化していった(彼女達の場合は聖印も邪紋もその身体には宿っていないため、比較的容易に施術はおこなわれた)。その上で、クグリから「エマの事情」を聞かされていたパレットは、彼女の心を邪紋の力で弄んでしまったことを謝罪する。

「お詫びに、今度は君の想い人の姿になって、君の要望に答えてあげようか?」

 冗談めかした口調でそう言ったパレットに対して、エマは笑顔で答える。

「いえ、もうすぐ始まる学園祭までに、あの人は答えを出してくれると言ってくれました。だから、私はあの人を信じています」

 照れながらそう語ったエマを目の当たりにして、こんな純真な彼女を悩ませてしまったことを思い返したパレットは、改めて「ちょっとした罪悪感」に苛まれる。
 一方、今回の事件には殆ど関与しないまま状況に流されていただけだったエンネアは、結果的に流れで「真相」を聞かされたことで、ノギロの生み出した「混沌を分解する術式」に強い興味を抱き、その詳しい内容を解析しようとするも、今の自分では到底理解出来ない高度な技術であることに愕然とし、改めて勉学に勤しむ決意を固める。
 そしてもう一人、意外な人物が勉学への決意を固めていた。ダンテである。彼は次に彼女(魔剣)と出会う時に備えて、今までとは違う自分にならなければならない、という意識が芽生えたらしい。ここに来てようやく「遅れてきた純血の魔法師」が目覚めたようである。
 こうして、新たな学友を迎えて学内の雰囲気も少しずつ変わりつつある中、まもなくエーラム魔法学校最大のイベント、「学園祭」が幕を開けることになるのであった。

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最終更新:2020年08月02日 19:11