『見習い君主の混沌戦線』第5回結果報告(後編)
先日浄化された「小牙竜鬼の森の魔境」の近辺には、10年前までは「地下から湧き出る温泉を利用した公衆浴場」が存在しており、怪我や病気に悩む住民達の療養にも使われていた。10年ぶりにその地が混沌から解放されたことで、再び公衆浴場を復活させようという機運がカルタキアの人々の間で高まり、第六投石船団のカエラ(下図)を中心として、住民達と従騎士達が一体となった上での、温泉施設の再建計画が進められることになった。
カエラ達の出身地であるハマーンにはもともと温泉を利用した療養施設が多く、現国主のエドキア・カラーハも自身が搭乗する軍艦内に巨大な浴室を設置する程の入浴愛好家として知られている。とはいえ、カエラは採掘技師でも地質学者でもなく、ハマーンにおける温泉開発は歴代の契約魔法師達の研究の積み重ねの上で成り立っていたため、魔法の通用しないこの地における温泉の採掘や管理に関しては、現地の技術者達に委ねるしかなかった。
「ひとまず、我々はカルタキアの有識者達を信じて、彼等に言われた通りに汗を流せ。その汗を拭い落とすための大地の恵みを、我等自身の手で掘り出すのだ!」
カエラその声に従い、従騎士達は温泉の採掘作業に従事する。10年前の混沌災害の結果、地下水脈の流れが変わったこともあって、現在でも以前のような温泉を掘り当てられることが可能かどうか疑問視する声もあったが、都市部の水脈の変化からの推測に基づいた地質学者達の予想に従って、歴戦の採掘技師達の指示に従って採掘を続けた結果、無事に温泉の水脈を掘り当てることに成功する。
こうなると、あとはひたすら肉体労働者の出番となるのだが、当然のことながら、従騎士達は一般市民よりは身体能力に秀でている者が多いものの、剣や弓を操る筋肉と、採掘や土砂運搬のために用いる筋肉は微妙に異なるようで、慣れない形式の長時間労働に音を上げる者達もいた。中には「こんなことをするためにカルタキアに来た訳ではないのに……」と言いたそうな表情の者達もいた。
そんな中で、黙々と、それでいてどこか生き生きとした様子で作業をこなしている一人の従騎士がカエラの目に留まる。潮流戦線の
マリーナ・ヒッパー
である。農家出身のマリーナにとっては、このような地道な土木作業は慣れたものであり、日頃の洗練された弓騎兵としての彼女とは別人のように、日差しの強いカルタキアの空の下で地道にコツコツと働き続ける彼女の姿は、泥臭くもあり、そして瑞々しくもあった。
「貴公は確か、クルーガーの……」
「はい。現在は潮流戦線に所属しております、マリーナ・ヒッパーと申します」
額の汗を拭いながら、カエラに対してマリーナはそう答える。先刻から彼女は掘り出した大量の土砂の運搬作業で何度も現場を往復していたが、全く疲れた様子は見せていなかった。
「確か、私と同じアーチャーの聖印に覚醒したそうだな」
「はい。そこまでご存知頂けたとは、光栄です」
「立場上、どうしても潮流戦線の優秀な従騎士達の動向は気になるのだ。たとえダルタニアの民ではないとしても」
カエラの祖国であるハマーンは現在、大工房同盟と激しい対立関係にある。カルタキアにいる間は、仇敵であるダルタニアの面々が相手であっても遺恨は表に出さないように心掛けてはいるが、それでも「いずれは戦場で相見えるかもしれない相手」であるという意識は、どうしても消すことは出来ない。今のところ、マリーナの祖国であるクルーガー辺境伯領はハマーン子爵領とは直接的な敵対関係にはないが、今後の政局次第では衝突する可能性も十分にある以上、カエラとしても無関心ではいられない。
「無論、だからと言って、貴公達の成長の手助けを拒む気はない。何か助言出来ることがあれば、いつでも尋ねてくれて構わない。少なくとも、この地にいる間は、我等の弓も貴公等の弓も、矢の向かう先は同じだからな」
「ありがとうございます。ですが、今はまず、この作業に専念したいと考えていますので……」
「あぁ、そうだったな。邪魔してすまなかった」
「いえ、お心遣い、感謝致します」
マリーナはそう答えて、土砂の運搬作業に戻った。ちなみに、先日聖印を覚醒させて、従騎士として「一段階上の立場」となった彼女が、あえてこの土木作業に立候補したのは(昔取った杵柄であることに加えて)今の新たな聖印の力にまだ慣れておらず、戦場に出ることに対して一抹の不安があったから、という事情もあるのだが、他の従騎士達からしてみれば、「自分達よりも一歩先を歩いているマリーナ」が率先して真面目に肉体労働に勤しんでいる姿は、色々な意味で励みにもなっていたようである。
******
先日、カルタキアに新たな診療所が設立され、それに伴って多くの医療関係者がカルタキアへと招聘されることになった。カルタキアでは魔法が役に立たないため、その大半は純粋な医者、もしくは「魔法師崩れの医療技術者」であったが、その中にはハウラやアリアのような「医者としての知識を併せ持つ君主」も一定数存在していた。この世界において、医術に関する高度な技術を学べる機会は限られるため、必然的に上流階級である貴族の子弟、すなわち「聖印を受け取る立場にいる者達」の中に医者が多いのも自然な道理である。
その一人に、星屑十字軍に所属する
リーゼロッテ
という18歳の女医がいた。彼女の出自はごく平凡な農家だったが、実家が混沌災害で滅びた後に地元の君主に保護され、彼の下で医術を学び、医者としての道を歩むことになった。その後、諸々の経緯の末に祖国を離れ、星屑十字軍に加わることになったらしいが、その経緯について知る者は殆どいない。
「辺境の地だと聞いていたが、急造にしてはそれなりに設備も整っているな」
新築の診療所の設備を一通り確認しながら、彼女はそんな実感を口にする。それを可能にしたのは、やはりカルタキアに駐留中の従騎士達の中にも医療に関する知識を持ち合わせた者達が多いことが原因だろう。星屑十字軍の中だけでも、ニナ、リューヌ、そしてローレンなど、治療の才に秀でた者は多いからこそ、適切な医療知識が定着しているという側面もある。
そんな中、病気療養や保険衛生の観点から温泉を利用した公衆浴場が設立されつつあると聞いて、リーゼロッテも現地の状況を確認するために建設予定地へと向かうことになった。すると、そこで彼女は奇妙な風貌の人物と遭遇する。
それは、金のメッシュが入った髪を結い、仮面で素顔を隠し、黒い手袋を装着した人物である。身長はリーゼロッテよりも小柄であり、体格から察するに、おそらくは少年であろう。一見すると不審な人物のようにも見えるが、その手には医療関係者が用いるような精密器具が入っていると思しき鞄を持っていた。
「そこのお前、もしかして、医者か?」
リーゼロッテがそう問いかけると、仮面の少年は快活そうな声で答える。
「あ、いや、医者っていう程の者じゃないんだけど、一応、治療関係に関してはそれなりに知識があるから、この新しい施設の衛生管理面について調査するように頼まれてね」
「そうか、それならば丁度いい。私は星屑十字軍で軍医を務めているリーゼロッテ。私も保健衛生の観点から、この地の温泉の水質調査に来たんだ。もしよかったら、手伝ってくれ」
「うん。分かった。僕はユーグ。ユーグ・グラムウェル! よろしくね!」
ユーグ・グラムウェル
は、ヴァーミリオン騎士団に所属する15歳の従騎士である。彼もまた、リーゼロッテと同様、幼少期に故郷と両親を(彼の場合は戦争で)失った身であり、仮面と手袋は、その時に負った火傷の痕を隠すために身に着けているらしい。
こうして、ひとまず二人は、実際に源泉地から掘り出された温泉水の安全性を確認することにした。二人が源泉地に到着した時点ではカエラは別の現場の視察中で、マリーナが現場監督代行を担当していたため、ひとまずリーゼロッテは彼女に問いかける。
「少しいいか? この地で湧き出る温泉の水質について、人体に悪影響がないかどうか確認したいんだが」
「水質、ですか? 街の人々が言うには、10年前までは普通に温泉として活用されていたらしいですけど、それでも確認しておく必要があるのでしょうか?」
「この10年の間に、この地では混沌災害が何度も起きていたのだろう? だとしたら、その間に水質が変化している可能性もある。それに、水銀のような蓄積性・遅効性の毒が隠れているかもいれないからな。安心して使ってもらうためにも、細心の確認作業は必要だろう」
「なるほど。確かに、念には念を入れておくに越したことはないですね。分かりました。では、こちらに」
マリーナに案内される形で、リーゼロッテとユーグは温泉水を排水溝へと組み上げる器官の近くの工事現場へと赴く。その途上で、ユーグは鞄の中から一つの薬瓶を取り出した。
「水質を調べるなら、この検査薬を使ってみる?」
ユーグがそう言ってリーゼロッテに見せた薬瓶は、彼女にとっては初めて見る代物であった。しかし、その瓶に書かれている薬品名を見て、彼女にはすぐに察しがつく。
「もしかして、それはエーラムで用いられている検査薬か?」
リーゼロッテが以前に読んだ医療関係の書物の中で、エーラム魔法師教会(およびそこから脱落した者達を中心とする医療従事者達)が用いる薬品一覧の中に、確かにその検査薬の名前も掲載されていた。その実用性は既に実証されているものの、一般市場に流通している代物ではないので、現物を見るのは初めてである。
「うん。今回の遠征の前に魔法の力が使えないこの地でも活用可能な道具として、魔法師協会の人達からヴァーミリオン騎士団に支給された道具の一つなんだけど……」
そこまで言いかけたところで、ユーグはリーゼロッテが「星屑十字軍の軍医」だと言っていたことを思い出す。星屑十字軍は本来、聖印教会の一宗派による武装集団であり、聖印教会の信者達の中には、混沌を人為的に利用することを好まない者が多い。
「……あ、ごめん、エーラム製の薬品とか、教義的にまずかった?」
ユーグが持ち込んだ薬品は、直接的には「混沌によって生み出された産物」ではない。ただ、「混沌を日常的に利用している魔法師教会が作成した薬」という時点で、原理主義的な聖印教会信徒の一部からは忌避感を示されてもおかしくない一品ではある(魔法師協会と関係の深いヴァーミリオン騎士団のアストライア団長からは、星屑十字軍の面々と接する際には、こういった点について慎重に話を進めるように釘を刺されている)。
「いや、何も問題はない。使い方を教えてくれ」
リーゼロッテは淡々とそう答える。もともと彼女は、諸々のなりゆきの末に星屑十字軍の一員にはなっているものの、唯一神への信仰心は極めて薄く、あくまでも実利主義である。人々を救うために役に立つ道具があるならば、役に立つかどうかも分からない教義よりも優先すべきと認識していた。
(この人、聖印教会の人ではあるけど、別にそこまで「今の居場所」にこだわってる訳ではないのかな……)
ユーグは歩きながら検査薬のおおまかな使用法をリーゼロッテに説明しつつ、内心ではそんなことを考えていた。ユーグもまた、今はヴァーミリオン騎士団の一員ではあるものの、必ずしもその道を最初から志していた訳ではない。戦争で故郷が滅びることがなければ、おそらく全く別の道を歩むことになっていただろう。巡り合わせ次第では、今のリーゼロッテとは「居場所」が逆だった可能性もありうる。
そんな、似たような出自ながらも、結果的に相反する道へと進んだ二人は、採掘現場で温泉水を無事に採取した後、ひとまず領主の館の研究室を駆りた上で、じっくりと時間をかけてその成分を解析することにした。
******
その後、リーゼロッテとユーグが検証を進めた結果、この温泉水からは特に有害な物質は含まれていない、ということが確認出来た。その上で、二人はこの温泉内に含まれる成分を更に細かく分析していったところ、切り傷や火傷などに効く炭酸水素塩が多く含まれているということも判明する。
「混沌災害が頻発しやすいこの地においては、まさにうってつけの泉質だな」
「肌の再生を活性化するということは、美肌効果を期待したお客さんにも重宝されそうだね」
二人はそんな会話を交わしつつ、調査報告書を書きまとめていく。その上で、この温泉水を入浴以外の面でも活用する方法を模索しようと、街の住民からの意見を聞いて回っていたところで、住民達よりも先に、別の従騎士の中から、提案が出された。
「薬用飲料水として、その温泉水を活用することは出来ませんか?」
そう提案してきたのは、リーゼロッテと同じ星屑十字軍の
ニナ・ブラン
である(ちなみに、カルタキアに来たのはニナの方が先だが、星屑十字軍としてはリーゼロッテの方が古参である)。ニナもまた医療方面の知識に長けた従騎士の一人であり、以前に「温泉水を飲料用として用いている地域もある」という話を聞いたことがあったらしい。
「なるほど、確かにそれも一つの方策だな。人体に害を為す成分が無いことは実証済みだし、炭酸水素塩を人体に取り入れることで、肝臓病や糖尿病に効くとも言われている」
リーゼロッテがグラスに入った温泉水を手にしながらそう答えると、ニナは興味深そうな目でその温泉水を凝視する。
「それなら、私が試しに飲んでみてもいいですか?」
「まぁ、それは構わんが……」
そう言いながらリーゼロッテがグラスを手渡すと、ニナは色と匂いを確認しつつ、少しずつ口に含んでいき、最終的にはそのまま一気に飲み干す。
「うーん……、少し塩味がするような、しないような……?」
「まぁ、嗜好品として飲むものではないから、飲みにくくないなら、それで十分だとは思うが、本格的に商品化するなら、色々と工夫した方がいいかもしれないな」
「これを飲み続けたら、健康になれますかね?」
「いや、効果があるとすれば、もっと年配の人々だろうな。よほどの酒飲みでもない限り、私達の歳で肝臓病や糖尿病になる者はいないだろう」
「確かに、それもそうですね……。ありがとうございました。では、私はこれから、公衆浴場の建設現場に行ってきます。提出したい書類があるので」
そう言って駆け出していくニナをリーゼロッテが見送る中、傍らにいたユーグが声をかける。
「真面目そうな、いい後輩だね」
「……あぁ、そうだな」
リーゼロッテはそう答えながらも、内心では微妙に違和感も感じていた。
(前は、もっとビクビクした雰囲気の子だったような……?)
リーゼロッテはもともとニナとはそれほど接点があった訳でもないが、カルタキアに出発する前の彼女は、もっとおとなしい気性だったような気がする。まだ微妙におどおどした雰囲気は残していたものの、その頃に比べると随分と積極的になったように見えた。このカルタキアに来て以来、彼女も色々な意味で成長しているのかもしれない。
******
(私にも何か出来ることはないかと思ったんだけど、何も思いつかないな……)
第六投石船団の
シューネ・レウコート
は、溜息をつきながら公衆浴場の建設予定地のあたりを、何をすれば良いのかも分からないまま、同じ場所を何度もウロウロしていた。
現状はまだ源泉からの水路の建設途中で、それと並行して建物を建てるための建材が運び込まれている段階である。シューネとしては、今回は自軍の指揮官が責任者ということで、何らかの形で貢献したいと考えていたのだが、なかなか具体案が思いつかない。というよりも、自己評価が低すぎる彼女は、自分が何をしても足を引っ張りそうな気がして、何をするとも自分からは言い出せずにいたのである。
(はぁ……、こうやってウロチョロしてても邪魔なだけだろうし、宿舎に帰ろうかな……)
シューネがそんな思考に陥っていたところで、ふと一人の少女が彼女に声をかける。
「あの……、すみません、もしお忙しくなければ、ちょっとお話を聞いてもらいたいんですけど、いいですか……?」
おずおずとした語り口でそう言って語りかけたのは、ニナである。その手には何枚かの紙束があった。
「え? あ、はい……、その、別に忙しくはないんですけど……、なんでしょう?」
「実は、新しく作る浴室のデザイン案をいくつか考えてみたんですけど、どれがいいか、誰かに意見を聞かせてほしいと思って……」
ニナはそう言って、手元にあった紙束をシューネに手渡す。そこには、これから建設予定の公衆浴場の設計に関するデザイン案が何種類か記されていた。
彼女は先日の診療所建設に際して患者達を訪問した時に、療養中に精神的な不安で悩んでいる人々を目の当たりにしたため、彼等の療養のために公衆浴場を活用出来るようにすべく、身体が不自由な人でも使いやすいような浴場にするにはどうすれば良いか、ということを、民間療法の本を参考にいくつかの案にまとめていたのである。ちなみに、感染症対策として、湯の循環などについての配慮もその計画書の中には記されていた。
「すごい、こんなにも丁寧なデザイン案を、いくつも……」
「いえいえ、そんな、あくまで素人考えですから、ちゃんと使えるかどうかも分からないんですけど、その……、なんとか、怪我や病気に苦しむ患者の人達が、心も身体も安らげることが出来るような、そんなデザインにしたいと思って……」
ニナとしては、前日の療養所訪問の際には「話を聞くこと」しかできなかったというもどかしさがあったからこそ、今回は積極的に自分の意見を出そうと考えていたのである。ただ、実際にこの案をいきなり総責任者のカエラに提出に行くのはまだ怖かったため、比較的歳の近い、あまり高圧的な雰囲気がしない(それどころかニナ以上に周囲に対して怯えがちなオーラを放っている)シューネに声をかけたようである。
とはいえ、シューネは建築にも医療にも詳しい訳ではないので、具体的にどの設計案が妥当なのかの判断がつかない。だからこそ、どれを選べば良いのかも分からずに困惑していたのだが、そんな中、ニナの計画書の一部分が目に止まった時点で、シューネの中で素直な感想が言葉としてこぼれる。
「かわいい……」
それは、ニナがデザインした浴室に設置する小物類や壁紙の案である。精神的な癒やし効果を期待して、彼女は心が安らげるようなファンシーなデザインを心掛けていた。
「ほ、本当ですか……! 嬉しいです! でも、ちょっと可愛くしすぎると、男の人とかには、かえって落ち着かないと言われるかもしれないかな、とも思うんですけど、どうでしょう……?」
「それは、分からないですけど……、でも、男湯と女湯で別のデザインにしてもいいでしょうし……、いくつかデザイン案を見せた上で、希望調査を取る、とか、そういうのでも、いいんじゃないかと……」
「なるほど……、やっぱり、目に見えるものって、心に影響を与えるらしいですから、そこは慎重に考えた方がいいでしょうね……。あとは、出来ればリラックス出来るような音楽を流せたりすることが出来れば理想なんですけど、そこまでの人を雇う余裕はないですよね」
ここで、シューネの中で「一つの提案」が思い浮かぶ。
(あ……、いや、でも、それはさすがに……)
そんな彼女の表情の変化に、ニナはすぐに気付いた。
「どうしたんですか? 何か心当たりでも?」
「いや、あの、そんな心当たりって言えるようなものじゃなくて、その……」
ごまかそうとするシューネの表情から、ニナはなんとなく真意を察した。ニナ自身も、本来は自分から何かを提案するのが苦手が性格だからこそ、引っ込み思案なシューネの心理が読み取れたのかもしれない。
「もしかして、出来るんですか? 音楽?」
「いや、出来るってほどじゃないんだけど……、本当に大した腕じゃないんだけど……、一応、その、ヴァイオリンなら、少しは……」
「本当ですか!? じゃあ、お時間のある時だけでも披露してもらえるなら、きっと皆さんも喜んで……」
「いや、でも、ほんとに、そんな……、人前で聞かせられるようなものじゃくて……。だから……、ごめんなさい!」
シューネはそう言って、慌ててその場から逃げるように駆け出して行った。
******
その頃、カエラの従属君主である
キリアン・ノイモンド
は、彼女の名代として、建設現場の監督代行を務めていた。ハマーン貴族出身の彼の実家の領内にも温泉施設があったため、その知識と手先の器用さを生かして、他の従騎士達を取りまとめながら、自分自身も作業員として建築作業を進めていたのである。
(カエラ様の直属の部下として、僕がこの場を取り仕切らなければ)
彼は先日、マローダーの聖印に覚醒した身であるが、孤高の戦士としての宿命を象徴するその聖印とは対象的に、指導者としての彼の仕事ぶりは極めて精巧かつ繊細であった。作業量を考えても、施設の建築現場が最も多くの人手を要するであろうと考えた上で、テキパキと建築に向けての下準備を進めていく。
そこへ、(先刻シューネに逃げられたばかりの)ニナが姿を現した。
「あの……、すみません。公衆浴場の設計に関して、読んで頂きたい提案書があるのですが……、担当者の方はどなたになるのでしょうか?」
それに対してキリアンは、やや困った表情を浮かべる。
「担当者、か……。最終的な責任者はカエラ様だが、今は不在だからな……。ひとまず、僕が代わりに聞くことにしよう。どんな提案書なのか、見せてくれたまえ」
眼鏡越しに淡々とそう問いかけるキリアンの態度は、慣れていない人間にとっては(少なくともシューネに比べると)やや威圧的にも見えるが、ニナは臆する心を押し殺して、上目遣いに書類を提出すると、キリアンはそれを受け取り、黙々と内容に目を通す。そして一通りに内容を確認し終えたところで、キリアンはクイっと眼鏡を上げながら率直な感想を語り始めた。
「なるほど……。個人的には、この提案書の中の『第一案』が一番妥当だと思う。建材の量の都合上、全くそのまま採用という訳にはいかないが、怪我人の入浴のために配慮した浴室の構造などは、確かに盲点だった。おそらく、この仕組みは取り入れさせてもらうことになるだろう」
無愛想な態度ながらも好意的な返答をもらえたことに、ニナは満面の笑みを浮かべる。
「ありがとうございます! あの……、もしよければ、ここから先の工事の予定とか、教えて頂けますか? 可能な限り、色々とお手伝いしたいので……」
「そうだね……。まだ色々と不確定な状態ではあるんだが、現状ではまず最初に『本館』としての役割を果たすことになる大浴場施設の建設を進める予定だ。マリーナさんの報告によれば、泉源からの水路の完成にもそこまで時間はかからないようだから、まずはこの主要施設を実用可能な段階まで完成させた上で、水質や水温の調整方法を確認しながら試運用しつつ、そこから派生させる形で周辺施設の増設、という流れで進めていきたい」
「じゃあ、将来的には、その『本館』以外にも増築していく方針なんですか?」
「それは予算次第でもあるし、魔境浄化の状況次第でもある。建設途中のこの地で新たな混沌災害が起きたりしたら、増築どころではなくなるからな」
「確かに……。そう考えると、本当に大変な土地なんですね、カルタキアは……」
「そのために僕らがいる。そうだろう?」
「……その通りですね」
そんな会話を交わしつつ、ひとまずニナが去った後、しばらくしてまた別の少女がキリアンの許を訪れた。潮流戦線の
リンズ
である。
「すみません、カエラ様はこちらにいらっしゃいますか?」
「あぁ、申し訳ないが、今は不在だ。公衆浴場に関する案件なら、僕が代わり聞こう」
先刻と同様、(おそらく彼は無意識のうちに)眼鏡の奥から鋭い視線を向けながらキリアンがそう答えると、リンズは意を決した表情で語り始める。
「既にご存知かもしれませんが、今、私達が使っている共同浴室の掛け湯のための湯沸かし器が、潮風による影響と交換部品の不足で、故障が頻発しています」
「あぁ、確かに、その苦情は僕もよく聞いている」
「ですので、この機会に、その辺りの備品の新調のためにも、今回の温泉計画に、より多くの人員と資金を割いて頂きたいのです。身体を清潔に保つことは、疫病の蔓延を防ぐ上でも重要ですし、傷病者の治療の際にも効果的です。今回の温泉事業は娯楽施設という位置付けで考えている方々もいるようですが、それ以前の問題として、人々の健康のためにも必要なのです」
リンズとしては、過去に「とある疫病」と深く関わった経緯があるため、公衆衛生に関する知識もあり、この点をどうにか早急に解決してほしいと考えているらしい。そして、キリアン自身も医療にはそれなりに精通していることもあり、彼女の主張はすぐに理解出来た。
「なるほど。言いたいことはよく分かった。基本的には僕も同意見だ。ただ、費用は無尽蔵に出せるものではない。現存施設の修復と新施設の建造の同時並行は難しいだろうから、ひとまずはこの新施設の建設を進めた上で、僕達もこちらの最新設備を積極的に活用することで、身体を清潔に保てるように心掛ける、というのが現実的な選択肢ではないかな。今、僕達が使っている施設は、僕達がこの地を去った後は需要が激減する以上、今から積極的に投資すべき対象でもないだろう」
「確かに、それでもいいとは思うのですが、この施設は私達と市民の方々が高頻度で足を運んだとして、収容しきれるだけの規模なのでしょうか?」
「正直なところ、今の建築計画の範囲だと、それは少々怪しい。泉源自体は十分に確保されているようだが、それを有効活用出来るだけの規模の浴場を増設するには、どちらにしても費用はかかる。その辺りに関しては、カエラ様に相談してみるしかないが……」
彼等がそんな話をしているところに、ちょうどカエラが姿を現した。
「キリアン、こちらの建築状況は……、おや、その子は確か、潮流戦線の……」
「はい! 従騎士のリンズです! あの、カエラ様に、お願いがあって……」
改めてリンズは緊張した面持ちでカエラに対して、上述の内容を再び訴え、キリアンもそれに同意する旨を伝えると、カエラは少し考えた上で、微妙な表情を浮かべながら答える。
「あまり頼りたくはなかったが……、予算を捻出してもらえるアテも無くはない……」
「本当ですか!?」
リンズが目を輝かせてそう答えるが、そんな彼女に対してカエラは釘を刺す。
「ただし、そのためには、出資者の方々に満足して頂けるような施設にしなければならない。つまりは、どちらにしても『観光施設』としての豪奢な設備の充実が、まずは必要なのだ」
「なるほど……、確かに、無償で出資して頂く訳にはいきませんからね……」
リンズがそう答えたところで、キリアンはカエラの想定している人物に気付く。
「……もしかして、『陛下』ですか?」
それに対してカエラは無言で頷く。彼等にとっての主君であるハマーン子爵エドキアは、無類の入浴愛好家であると同時に、その派手好きで奔放な性格故に、上流階級の間でも顔が広いことで知られている。彼女が広告塔となって、各国の富裕層からの出資を引き出すことが出来れば、将来的にはカルタキア住民全員を収容出来そうな大浴場の建設にも繋がるだろう。
とはいえ、昨今のハマーンはノルド侯エーリクの末娘ウルリカ率いる遠征軍による侵略と略奪に晒されており、そこまでの余力が今のハマーンの国庫にあるかどうかも分からない。だからこそ、カエラとしては敬愛するエドキアに迷惑はかけたくない、という想いもあるのだが、ここはカルタキア駐留軍の一員としての立場を優先して、エドキアに直訴状を書くことを決意する。カエラはエドキアの「お気に入り」なので、おそらくその直訴は受理されるだろうが、だからこそ、カエラとしては申し訳ないという気持ちも強かった。
カエラのそんな心境を察しつつ、キリアンはひとまず現時点でエドキアが喜びそうな施設を提案する。
「そういうことなら、温泉の蒸気を利用した上で『サウナ』を併設するのはいかがでしょう?」
彼のその提案に呼応して、リンズもまた口を開く。
「サウナということなら、私はノルド出身ですので、ぜひ協力させて下さい」
確かに、サウナはノルドなどのアトラタン北方地方が発祥の地と言われており、リンズの中には豊富なサウナの知識もある。ただ、(彼女自身には何の罪もないとはいえ)現時点でそのノルド人による侵略・略奪の脅威に晒されているハマーン人としては、彼女のその発言に対しては、内心で少々複雑な心境にさせられていた。とはいえ、リンズの実直な瞳に対してそんな感情を表に出すのも大人げないと思ったのか、カエラは視線をそらしながら答える。
「そ、そうだな。おそらく陛下も、多様な施設が付随していた方がお喜びになられるだろう」
「……では、そのための増築計画を予定に捩じ込んでおくことにしましょう。温度や湿度の調整はリンズさんにも協力してもらうといて、サウナストーンやロウリュ用のアロマオイルの材料などについても、可能な限りこちらで手配しておきたいと思います」
「はい! 一緒に頑張りましょうね!」
こうして、エドキアを初めとする世界各地の貴族や富裕層の観光客を誘致すべく、当初の予定を組み替えて、大衆向けの大浴場よりも先に「高級浴場」を設置し、更にはノルド式サウナ室などの優先的に併設するなど、建設計画に微妙な軌道修正が加えられることになった。
******
それから数日後、カルタキアの人々と従騎士達の尽力により、新たな入浴施設は「仮完成」間近の状態へと至りつつあった。将来的には大規模な公衆浴場を建造するという前提の上で、まずは先立つ資金を獲得するために「上客」を招かなければならないという前提の上で、規模よりも質を重視した高級感溢れる施設が組み上げられる。
心身のリラクゼーション効果を引き出せるような「癒やしの空間」を全体的なコンセプトとした上で、お湯の清潔性を保てる循環構造を組み上げ、老人や重傷者の館内移動を容易にするような設備を揃え、程良く安らかな雰囲気を漂わせるような装飾を施し、更には浴室の隣にノルド式サウナやアロマオイルも完備しつつ、希望者には「飲泉」のためのサービスを用意するという、明らかな「富裕層向け」の観光施設を組み上げる。
このような「民衆による利用」を後回しにした建設方針に対して疑念を抱く者達も当然いたが、「これも将来のために必要な投資」という領主ソフィアのお墨付きを得られたことで、どうにか住民達の賛同を得ることが出来た。
こうなると、次に必要なのは、この施設目当てに来訪する「海外の富裕層」に向けての広告である。この点に関しては、星屑十字軍の
ポレット
と、第六投石船団の
ミルシェ・ローバル
が中心となって、カエラの執務室にて様々な手法が模索されていた。
先日の「秘密結社の魔境」への第一次浄化作戦で重傷を負っていたポレットは、自分自身も仮設営時の温泉を利用して療養に務めつつ、自分自身が肌で感じた体験を元に、人々にその魅力が伝わるような文面を色々と模索していく。
「リーゼロッテさん達の話によれば、美肌効果が期待出来るそうなので、まずはそこを全面に押し出すべきでしょうね……。『美人の湯』とか『美肌の湯』とか……」
日頃は聖職者として清貧な生活を心掛けているポレットであるが、彼女はもともと貴族出身なので、上流階級の人々がどのような言葉に弱いか、彼等がどのような価値に執着しているか、ということについて、心当たりはいくらでもある。その知識を生かした上で彼等の心を突き動かすようなキャッチフレーズをひねり出そうとしていた。
「……むしろ、本当の意味での富裕層を動かすなら、『若さを保つ』とか『いつまでも瑞々しく』とか、そういった言葉の方が響くかもしれませんね。大抵の貴族家において、主導権を握っているのは高齢層でしょうし。さすがに『若返り』とまで言ってしまうと、誇大広告扱いされてしまう可能性もあるので、『効果には個人差があります』と言える程度の謳い文句に留めておく必要はあるでしょうが」
幼少期に学んだ(彼女にとっては本来忌むべき文化である)貴族としての処世術を思い出しながら文面を構築していくポレットの傍らで、ミルシェはポレットの考案した文言を取り入れる形で張り紙全体のデザインを考えていた。
「たとえば、こういうのとか、どうカナ?」
そう言って彼女が提示したデザイン案に描かれていたのは、カルタキアの空と海と大地を背景に、優雅に温泉に浸かっている妙齢の黒髪の女性の姿であった。その周囲にポレットが考案した文言が下記並べられており、全体の配色やデザイン自体は悪くない。ただ、ところどころ、文字が間違っている箇所が散在していた。
「ま、まぁ……、文字の間違いは後で直せばいいとして、雰囲気は悪くないと思います」
ポレットのそんな評に対して、ミルシェは得意げに胸を張る。
「初めてながらいい感じに出来たナ!これが隠れた才能ってやつ?」
だが、そんなミルシェに対して、彼女達の隣で事務仕事をしていたカエラが言い放つ。
「駄目だ」
「え?」
「エドキア様の美しさが、これではまるで伝わらない!」
ミルシェのデザインの中心に描かれていた女性のモデルは、彼女達の主君にして、今回の出資者候補であるハマーン子爵エドキアである。ミルシェはカエラから「強い要望」を受けて、エドキアをデザインに組み込むように言われていたのだが、どうやらその完成度が、カエラの望む水準に達していなかったらしい。
「エドキア様はもっと美麗で、妖艶で、それでいてどこか少女のような可憐さをも持ち合わせたお方だ。この絵からは、その魅力が欠片も感じられない!」
カエラとしては「世界一お美しいエドキア様」を文字通りの広告塔とすることで、「エドキア様のような美しさを手に入れたい」と思っている貴族の女性達の心を掴もう、という思惑だったらしい。
「そ、そんなコト言ったって……、うちは別に画家じゃないシ、そもそもエドキア様にハイエツしたコトなんて、殆どないシ……」
いつもの冷静なカエラからは想像も出来ないような「理不尽な怒り」をぶつけられたミルシェは、明らかに困惑していた。そんな中、唐突にその部屋に一人の女性の声が響き渡る。
「それなら、この機会にじっくりと“わたし”をその目に焼き付けておけばいいんじゃないかしら」
扉の前に立っているその女性(下図)を見た瞬間、カエラは驚愕の声を上げる。
「エドキア様!? なぜここに!?」
「あなたが、わたしのために温泉を用意してくれるっていうんだもの。それなら当然、一番湯はわたしのものでしょう?」
齢四十を超えてなお多くの男性(および女性)を魅了する肢体の持ち主である「背徳の女王」ことハマーン子爵エドキア・カラーハは、お気に入りの女指揮官を前にして、少女のように無邪気な笑顔でそう語る。どうやら彼女は、カエラからの直訴状(兼招待状)が届いて以来、正式な杮落しまで待ちきれなかったらしい。
「しかし、当方としてはまだ、お迎えする準備が整ってはおらず……」
「別にいいわ。それなら、準備が整うまでの間、あなたにこの街を案内してもらうから」
皆がその奔放な行動力に呆然とする中、エドキアはカエラの手を引いて、カルタキアの街へと駆け出していった。
******
こうして、突然の来訪によってカルタキア全体を困惑させたエドキアは、翌日に完成した高級入浴施設の「一番湯」を堪能し、満足した様子でハマーンへと帰還する。なお、彼女の入浴中にヴァイオリン演奏をさせられた第六投石船団の従騎士は後日、「これまで生きてきた中で、一番緊張しました……」と語っていた。
そして、ミルシェはカエラの厳しい指導の下で何十枚もの没原稿を積み上げさせられた末に、最終的にようやく「及第点」として認めてもらえたエドキアの入浴図を完成させ、それを元に作られた広告がアトラタン全土に流布された結果、期待通りに多くの来客がカルタキアへと集まることになる。こうして、潤沢な資金を手に入れたカルタキアの人々は、ようやく自分達自身のための大規模な公衆浴場の建設を実現することになるのであった。
☆合計達成値:121(23[加算分]+98[今回分])/100
→生活レベル1上昇、次回の「拠点防衛クエスト(CE)」に10点加算
ヴァーミリオン騎士団の
ヴィクトル・サネーエフ
は、前回の桶狭間への調査任務の際に左腕を負傷していたこともあり、今回の浄化任務には加わらなかった。その間、自室で安静に療養していた彼は、包帯が巻かれた左腕を見つめながら、改めて「今の自分のあり方」について考えていた。
「俺と、あの死霊兵と、一体、何が違う……? どうして『こんな状態』で、俺は生きてる……?」
桶狭間で遭遇した死霊兵達に対して、ヴィクトルの中ではどこか奇妙な「同族意識」が芽生えていた。氏真の話によれば、彼等は元来は人間だった者達が、魔将の発する呪咀の力によって命を落とし、そして「人ならざる者」へと姿を変えられた存在らしい。そんな彼等に対して、なぜヴィクトルが同族意識を抱くのか、その理由を知る者は殆どいないが、彼等と対峙した時のヴィクトルの心中には、彼等のことがどこか他人とは思えないような、それでいて同情とも共感とも呼び難いような、そんな不思議な感慨が生じていたのである。
だが、その一方でヴィクトルは、自分と彼等との間に、明確な一つの「壁」があることも実感していた。少しずつ回復していく左腕を見つめながら、ずっとその壁の正体について考えていたヴィクトルは、やがて一つの答えに辿り着く。
「そうか……、心か!」
氏真が言うには、死霊兵達は既に人としての本来の魂も失われ、ただ魔将に従うだけの傀儡と化した存在であるらしい。実際にヴィクトルが彼等と戦った時も、彼等はそれなりに兵士として連携した動きが取れてはいたが、それはあくまでも命令どおりに動く人形としての動作であり、そこから「人としての意志」は感じ取れなかった。ヴァーミリオン騎士団の一員として、そしてカルタキアの人々を守る従騎士の一人として、あくまでも自分の意志に基づいて戦っている自分とは、明らかに異なる存在である、ということに気付けたのである。
「『こんな体』でも、まだ俺の心は死んではいない……」
そのことに気付いた彼は、左腕に巻かれていた包帯を外し、そして部屋の壁に立て掛けていたハルバードを手に取る。見た目にはまだ外傷は少し残っているように思えるが、柄を握った時の感覚には、もう全く違和感はない。彼は目の前に死霊兵達がいる状況を想像しながら、狭い室内でギリギリ天井にも壁にも触れない間合いで、敵を薙ぎ払うようにハルバードを真横に振るう。
「俺は……、これから先も《自らの意思で生きる》」
ヴィクトルがそう決意した瞬間、ハルバードを握る彼の手の甲に現れた聖印が、形を変えていく。それは彼にとって、「見習い君主としての自分」が「セイバーとしての自分」へと生まれ変わった瞬間であると同時に、改めて「人間としての自分」の存在を再認識した瞬間でもあった。
******
その頃、幽幻の血盟の
アシーナ・マルティネス
は、通い慣れた訓練場にて、練習用の武具を一通り並べた上で、一つずつ手に取り、かつて自分に武芸を教えてくれた人々のことを思い出しながら、一人静かに振るっていた。
****
平穏を求めた刀剣。
理想に燃えた大剣。
正義を目指した苛烈な槌。
意地と自由を愛した拳。
意思を貫いた弩。
全てを救う方法を探した槍。
想いを届けた言葉。
全てを等しく守護した盾。
****
少女にとって「彼等」は師であり、憧れでもあった。それえぞれが異なる光を抱えていた。少女は彼等のようになりたかった。少女にとって、彼等はいずれも等しく輝いて見える存在であった。
「この中から一つを選べば、きっとすぐにでも聖印は形になるでしょう……」
だが、彼女にはそれが出来なかった。彼女が目指していたものは「彼等」であり、特定の「誰か」ではなかったのである。一通りの武具の試し振りを終えた上で、彼女は改めて、自分の中の正直な気持ちに向き合う。
「私の体は一つだけ。人生も一度切り。だからきっと、手に入るのは一つなんです。でも、選ぶことはできない。何回考えても『唯一の物』は決められない。平穏も理想も救いも正義も想いも意地も守護も、どれかを置いていく事なんて私にはできない。どうせやるなら全部叶えたい……」
アシーナはそう呟いた上で、今の自分のままでは全部どころか何一つ叶えることは出来ない、という現実を受け入れつつ、改めて自分の選ぶべき道について考える。
「……なら、彼らの真似では足りない。彼らの方法ではない形でなければ全部は無理でしょう。まだその形がどうあるべきかはわからないけど、全部欲しいなら、それに見合った力が必要な事だけは確かです。欲張りかもしれませんが、この黄金の数々を一つだけにせず、全部持っていく事だけは決めました」
彼女は改めて自分にそう言い聞かせ、そして《欲しい物に見合う己を目指す》という誓いを心に刻んだことで、彼女の聖印は形を変えながら姿を消し、そして次の瞬間、彼女の「背中」に「ルーラーの聖印」として現れた。それはアシーナ自身の目で確認することは出来ないが、確かにそこに聖印が浮かんでいるということは実感出来る。
なぜ彼女の聖印が背中に現れたのか、その意味をアシーナはまだ知らない。そして、そこは彼女にとって「最適の場所」であると同時に、「最悪の場所」でもあった。
******
同じ頃、訓練場の別の一角では、第六投石船団の
ツァイス
が、盾を持った状態での走り込みに従事していた。彼の目指すスタイルは「パラディン」。身を挺して仲間を守ることに特化したスタイルであり、そのために強靭な肉体が必要であることは当然であるが、実はそれ以上に重要なのが、機動力を支えるための足腰の鍛錬である。
理由は二つ。まず、仲間を守るためには重量のある鎧や盾を装備する必要があるからこそ、その重さに耐えながらも戦場を移動出来るだけの基礎的な脚力が必要となる。その上で、刻々と状況が変化する戦場において、敵の奇襲に動じることなく臨機応変に味方を即座に庇いに行けるようになるためにも、やはり一定の俊敏性は不可欠であった。彼は訓練場を戦場に見立てた上で、様々な状況を想定しつつ、走り込みながらのシャドーカバーリングの訓練を繰り返す。
(誰も傷つかねえように、皆を守れるようにってのは変わらねえ。……あんな思いは、もうしねえんだ!)
かつてハマーン海軍の一員として、アルトゥーク戦役に従軍していた時の苦い記憶を思い起こしながら、ツァイスは自分にそう言い聞かせる。その想い自体はカルタキアに来る以前からの彼の中での至上命題であったが、このカルタキアでの幾度かの戦いを経て、ツァイスの中ではそれに加えてもう一つ、新たな目標も芽生えつつあった。
(だが、それだけだと傷つくやつがいる。困る奴がいる。だから、自分自身も守る。周りの奴らが気に病まねえように、笑ってられるように)
この地で様々な人々と出会い、言葉を交わし、時に衝突し、時に助け合う。そんな日々を送る中で、自分が周囲の人々を気遣うのと同じ想いを自分に向けている者達もいる、ということに、いつの間にか気付かされていたのである。
《自分自身も守れる力を手に入れる》
ツァイスの中でその言葉が一つの「誓い」として確立された瞬間、彼の聖印は形を変え、これまでには見せなかった新たな輝きを放ち始める。それはまさしく、彼が目指していた「守護者」としての光、すなわち「パラディン」の聖印の輝きであった。
「こんなことにも気付かねえなんて、まだまだ俺も未熟だな」
ツァイスは自嘲気味にそう笑いながら訓練場を後にしようとするが、ここでちょうど彼と入れ違いになるような形で、訓練場に「見覚えのある者達」が現れるのを目撃する。それは、一人の女海賊と、重装備に身を包んだ兵士達の姿であった。
******
「そろそろ、陸地での戦いにも慣れておかないとな……」
彼女はそう呟きつつ、訓練場の中心で大斧を振り上げながら、自身を取り囲む「巨大な盾を持った重装歩兵達」を相手に大立ち回りを演じていた。一般的な武人であれば、普通は足場が不安定な船の上よりも、揺れることのない陸地の方が戦いやすいと感じるものだが、幼い頃から海賊として生きてきたアイリエッタにとっては逆に調子が狂うのか、彼女はあまり陸戦は得意とはしていなかった。とはいえ、カルタキアでの戦いがしばらく続くことを想定した上で、陸での戦いの訓練も積む必要があると彼女は考えていたようである。
一方、そんな彼女の周囲を取り囲む重装歩兵達は、物々しい装備とは裏腹に、彼等の動き自体は熟練の兵士達の立ち振舞いからは程遠い様相であった。それもその筈、彼等の正体は、先日の武装船奪還作戦の時にアイリエッタ達と共に戦った船員達である。より正確に言えば、彼等はその前段階の第一次奪還作戦において、アイリエッタ達によって助けられた者達でもあった。
アイリエッタは先日の戦いでの経験を踏まえた上で「一人で大勢を相手に戦う訓練がしたい」と考えるようになり、その練習相手を探していたところ、彼等が自ら協力を申し出たのである。彼等自身、自分達ではまともな訓練の相手にはならないであろうことは自覚していたが、それでも全く動かない木偶人形を相手にするよりはマシだろう、というくらいの気持ちでの申し出であった。彼等は皆、共に海に生きる者として、自分達のために命懸けで協力してくれたアイリエッタに対して恩返ししたい、という気持ちを共有していた。
(アタシはまだまだ未熟だ……。海賊としても、君主としても……)
先日の武装船の奪還作戦において、自分がもっと早く敵を殲滅していれば、メルが撃たれることもなかった。二度目の作戦においても、(アレシアとツァイスのおかげで事なきを得たとはいえ)自分が仕留め損ねた敵による砲撃を許してしまった。そんな自分の力不足を実感しつつ、更なる力を求めて精進を重ねながら、改めて自分の心に誓う。
(これから先、何があっても、アタシは《海賊の誇りを貫く》)
彼女のその志に呼応するように、彼女の聖印は「マローダー」としての彼女の心を象徴する紋様へと姿を変えていく。その輝きを帯びた一撃は、彼女の周囲の「張りぼての重装歩兵達」の盾を、一気にまとめて吹き飛ばした。
「す……、すげぇ……、さっきまでとは、キレも威力も段違いだ……」
「これはもう、俺達じゃ相手にならねぇな……」
船員達が口々にそう呟く中、アイリエッタもまた、自分の聖印の変化を実感する。そして、すっかり感服した様子の船員達に対して、最後に笑顔でこう告げた。
「ここまで相手してくれて、ありがとな。ところで、出来ればもう一人、訓練に付き合ってほしいヤツがいるんだが……」
******
アイリエッタに紹介される形で訓練場に現れたのは、彼女と同じヴェント・アウレオの
ラルフ・ヴィットマン
である。彼もまた「マローダー」としての力を得るための「一対多」の訓練相手を探しているという話は、同僚のアイリエッタの耳にも届いていたようである。
「ありがとうございます、協力に感謝します」
ラルフは重装歩兵(の装備を来た船員)達に対してそう告げた上で一礼し、一度深呼吸した上で、鋭い左目で周囲を見渡す。船員達からすれば、巨大な斧を振るうアイリエッタよりは、まだ素手のラルフの方が対応しやすい相手だと思ったようだが、そんな彼等の油断が一気に吹き飛ばすように、ラルフは彼等に対して一瞬で間合いを詰め、即座に激しい蹴り技を繰り出す。先刻まで戦っていたアイリエッタとは全く異なるテンポで攻め立てるラルフの連打に船員達は戸惑いつつ、どうにか戦線を維持しようと踏み留まる。
そんな防戦一方の標的達を相手に着実に拳と脚で痛打を加えながら、ラルフの脳裏には、先日酒場で同郷の二人と交わした言葉が思い起こされていた。
****
これまで彼等は同じ従騎士として、兄弟のように同じ道を歩んできた。しかし、それぞれに君主として聖印を覚醒させようとしていることに対し、ラルフが微妙な心境を抱いているのを看破したジルベルトが、彼にこう問いかけた。
「同じ船に君主は三人必要ないってか?」
それに対して、ラルフが目線を合わせるのを避けつつも肯定すると、ジルベルトは笑いながらこう告げた。
「世界一の海賊船は海上に一隻しか存在しない、それを目指す限りはアンタ達とも戦わなきゃ」
彼のその言葉が場の空気を震わせる中、コルネリオもまた気丈に言い放つ。
「僕も絶対負けない」
****
彼等がどこまで本気なのかは分からないが、それは海賊として、そして君主として生きる者として、避けては通れない道であろうとラルフも覚悟していた。だが、このまま進み続けることによって、また「独り」になってしまいそうな、そんな恐怖心がラルフの心をよぎる。
(恐れるな、たとえ一人だったとしても、俺の野望は一つ、俺の道はただ一つ。それが見えているのだから、あとは前を見て走るだけだ)
ラルフは自分にそう言い聞かせつつ、揺れそうな心を抑え込む。そして、自分がヴェント・アウレオに加わる以前の頃の記憶をあえて呼び起こす。
(忘れるな、居場所を追われた悲しさを、後ろ指をさされた屈辱を)
乱戦状態の中で眼帯を付け直しながら、ラルフは自分の心に《孤独を恐れない》という誓いを刻み込む。そして次の瞬間、彼の聖印は新たな輝きと共に「マローダー」としてのその真の姿を露わにした。
「やった……、やった……!! もう、誰にも嘲笑わせたりなんかしない!」
ラルフは天を仰ぎながらそう叫ぶ。そして、立て続けの訓練で疲れ果てた兵士(船員)達がその場に倒れ込むと、ラルフは彼等に改めて一礼しつつ、今のこの場にいない二人の同郷の従騎士に対して、改めて複雑な想いを馳せるのであった。
******
その一人である
ジルベルト・チェルチ
は、その日の夜、一人で海岸沿いを歩きながら、ラルフ同様、酒場での彼等との対話の時の様相を思い出していた。
あの時、ジルベルトは「世界一の海賊になるためには、二人が相手でも手加減せずに戦う」と明言し、それに対してラルフもコルネリオも言葉の上ではその覚悟を共有する意志を示してはいたが、それでも二人がどこか歯切れの悪そうな様子であったことも感じ取っていた。
「あいつらは『オレたち3人』が一緒にいられなくなることに、不安を感じているのか……?」
ジルベルトの夢は、カルタキア1の海賊、ひいては世界一の海賊になることである。海の上でたった1人の、1番の海賊になることを目指すという夢は、絶対に譲る気はなかった。
「オレたちの人生はオレたちだけのもんだ。どうしても一緒に進めないなら、オレたちは互いの人生にとっての錨じゃなかっただけだろ」
そう呟きつつ、眼前に広がる夜の海から漂う潮の匂いと波音を実感しながら、改めて自分の中での「海」に対する強烈な憧れを再認識する。
「オレの人生は海だ。海で生きて、海で命を全うするのがオレの生き方でありたい」
ジルベルトのそんな想いに対して、二人がどんな感慨を抱くのかは分からない。だが、彼等がどう思おうが、ジルベルトの信念は揺るがない。
「いつかあいつ達と戦うことだってあるかもしれない、だからオレは強くならなきゃいけない。1番の海賊になるためにはあいつらだけじゃない、誰よりも強くなきゃいけない」
彼はそう述懐しながら、改めて《誰にも負けないための実力を得る》という誓いを懐きつつ、海に向かってサーベルを掲げる。そして、「いずれ衝突するであろう難敵」を想定しつつ、その刃で斬り裂くイメージを頭の中で構成していくと、やがてジルベルトの聖印が「セイバー」としての彼の未来を示す形状へと書き換えられていく。
「これが……、覚醒ってやつなのか……?」
自分の聖印に新たな力が宿ったことを実感しつつ、ジルベルトは直前の瞑想において思い浮かべた「難敵」のイメージを心の中で改めて鮮明化しようとするが、この時点では、まだはっきりとその姿は思い浮かべられなかった。それは、彼の中の何かが想像を拒否しているのかもしれないし、逆にそれが何者であっても揺るがない、という彼の決意の現れなのかもしれない。
「……やっぱ、寂しいとか、よく分からねぇな。オレには」
そんな言葉を呟きながら、月の光を背にジルベルトは宿舎へと帰って行く。彼の進む覇道の先に何があるのか、そして「二人の未来」とどう交わることになるのか、まだこの時点ではその光景は誰の目にも映ってはいなかった。
******
一方、そんなジルベルトとは対象的に、
コルネリオ・アージェンテーリ
は、宿舎で一人、愛用の弓を握りしめながら、「三人」が衝突するかもしれない未来に対して、強烈な不安感を抱いていた。
あの日の酒場での対話において、ジルベルトの言葉に引きずられる形で「絶対負けない」と宣戦布告したコルネリオであったが、心の中では、彼等と衝突する未来へと進む覚悟は出来ていなかった。コルネリオの中ではあくまで、ラルフとジルベルトとは「対等な三人組」という立場のままでありたい、というのが本音であり、2人との関係性が変わりつつある予感を感じつつも、自分がどうすべきか判断出来ていなかったのである。
今のコルネリオには、二人とは違う道へと踏み出す勇気はなかった。かといって、対等な関係で居続けることを諦め、2人のどちらかに従う、という関係性になることも許容出来ない。
「例えどんな道を行くとしてもね、僕はジルとラルを応援したいよ」
だが、いくらコルネリオが願ったところで、二人が異なる道を歩むことになる可能性は否定出来ない。そうなった時に、果たして自分はその状況を許容出来るのか。そして、どういった形で応援すれば良いのか。今のコルネリオには、その答えが分からない。更に言えば、そもそもコルネリオ自身の夢は何なのか、ということすら、今の彼の中では思い描くことが出来ずにいた。
それでも、どういう形であれ、《夢を追う仲間の力になる》という想いが、コルネリオの中で新たな誓いとして確立されていた。
「そのために、まずは力が欲しい」
コルネリオはそう思いながら、窓の外に輝く月に向けて、矢をつがえない状態のまま弓を構える。今の自分のままでは、身体的にも精神的にも、ラルフにもジルベルトにもついていけなくなってしまう、という焦りが、ずっと前から彼の心の中には広がっていた。
「……置いてかれるのがさ、一番恐いよ」
そんな想いを両手に込めた瞬間、その両手を結ぶように、弓につがえられる形で、一本の「光の矢」がコルネリオの視界に現れる。
「これは……!?」
驚いたコルネリオが手を緩めると、その「光の矢」は姿を消す。その正体が分からないまま、ふとコルネリオが自身の聖印に目を向けると、いつの間にかそれは「アーチャー」としての魂を暗示した紋章へと変容していた。
「今のは、幻……? それとも、一時的に聖印の力で『光の矢』を生み出した……?」
真相は分からない。だが、一つはっきり分かっていることは、コルネリオもまた、同郷の二人と同様に、「君主」としての明確な一歩を踏み出したということである。それはすなわち、彼等の物語が揃って「新章」へと突入したことを意味していた。
******
「おそらく、そろそろ皆が『自分の君主道』を見出し始める頃ですね」
ヴェント・アウレオの首魁エイシスは、資料整理の手伝いのために自身の宿舎を訪れていた部下の
アリア・レジーナ
に対して、ふとそう告げた。
「この地を訪れて以来、皆がそれぞれに『君主としての在り方』をはっきりと意識しつつある。そしておそらく、アリア、私の見立てが間違っていなければ、あなたにもそう遠くないうちに『その時』が訪れることになるでしょう」
首魁からのそんな期待を込めた言葉を受けたアリアは、これまでのヴェント・アウレオにおける自分の立場や役割を思い返しつつ、率直に問いかけた。
「エイシス様は、どうして私が船に乗ることを許してくださったのですか?」
その問いに対して、エイシスは少し間を開けた上で、眼鏡越し改めてアリアの目を見つめながら、はっきりと告げた。
「あなたの瞳から『本気の志』を感じ取ったからです。あなたがその志の先に何を求めているにせよ、貴族としての暮らしを捨て、この船の一員となる確固たる決意を示してくれた以上、拒む理由はありません」
アリアの心に宿った志の「真意」に、エイシスがどこまで気付いているのかは分からない。ただ、彼女がどれほど強い決意を抱いていたにせよ、それだけで自身の従属君主として迎え入れる理由にはならないだろう。
「今の私はエイシス様のお役に立てているでしょうか?」
アリアは治療技術に長けてはいるが、メサイアの聖印の持ち主であるエイシスから見れば、彼女の手で治せる傷の程度など、たかが知れている。無論、先日の桶狭間の調査活動時のような「エイシス不在の戦場」においては、彼女の技術は確かに有用なのだが、「エイシスの役に立っている」と彼女自身がはっきり実感出来る機会は少なかった。
「もし、私が自分の傷を癒やす気力も残っていない程に聖印の力を使い果たすことになった場合は、あなたの医術を頼らざるを得なくなる。その意味では、あなたは私にとっての『最後の切り札』でもあります。あなたが隣にいてくれるだけで、私は助かっているのですよ」
エイシスのその言葉は、確かに彼の本音ではある(「それ以上の深い意味」があるのかどうかは不明)。しかし、これまでエイシスがそこまで追い詰められるような事態に陥ったことはないし、そもそも、彼がそこまで追い詰められるような戦場において、アリア自身が無事でいられる保証はない。
これまでアリアは、エイシスに迷惑をかけないように、足手まといにならないようにという想いで彼に仕えてきたが、これから先も彼の隣に居続けるためには、彼の治癒能力の劣化版ではなく、エイシスとも、ヴェント・アウレオの他の面々とも異なる「自分でなければ果たせない役割」を担える存在となることが望ましい。その上で、彼女の中ではもう一つの目標があった。
《指揮官様が振り向いてくださるような女性になる》
それこそが、彼女がヴェント・アウレオに加わった最も根源的な理由である。改めてその想いを強く胸に刻み込んだ瞬間、彼女は自分の中で「何か」が目覚めたことを実感する。そして一通りの作業を終え、エイシスの私室を後にした後、改めて自分の聖印を掲げると、そこには「ルーラー」としての力が宿っていたのであった。
******
「カノープス様の行く末を見届けなさい」
(はじめは、カノンさんとマリーさんの事だけを考えていればよかった)
剣技を極めるカノープスと、馬術と弓術に長けたマリーナ。同郷のこの二人が実力を発揮できるように準備・交渉を整えた上で、戦後の後始末にも配慮を巡らせる。それがユリアーネが果たすべき役割であり、それ以外の従騎士達に関しては、潮流戦線の者達も、他陣営の者達も、彼女の中では、良く言えば端役、悪く言えば「駒」でしかなかった。
(でも、色んな人とつながりができ、皆さんの思いもすこしずつ分かり始めました)
胸元に浮かぶ小さな従属聖印に意識を向けながら、ユリアーネの心の中には、この地で出会った様々な人の顔が次々と浮かび上がる。本来ならば「道具」としてみなしておけば良かった筈の彼等のことが、いつしか「他人」と割り切ることすら出来なくなっていたのである。
(カノンさんの補佐が一番なのは変わりません。ですが……、きっとそれだけではダメです)
彼女がそう考えるようになったきっかけは、自分に対して好意を寄せてくれた地元の従騎士アヴェリアとの何気ない会話だった。
****
「実は私、捨て子なんだよね。それで育て親のお父さんに拾われてお世話になってたんだけど、ある日私が重大なミスをやらかして故郷を追い出されちゃってさ」
あっさりと彼女はそう告げたが、貴族令嬢であるユリアーネにとって、同じ従騎士の仲間達の中から発せられたその言葉は、あまりにも衝撃的であった。
「なにせ裏が真っ黒な村だったからね。ちょっとやらかしたらすぐ殺されるくらいには」
確かに、この世界にはそのような村があるということ自体はユリアーネも知っている。だが、それは彼女の中で、無意識のうちに別世界の話だと思いこんでしまっていたのだろう。そのような村で生きてきたアヴェリアが、どんな仕事に手を染めて生きてきたのか、という話もまた、ユリアーネの心に深く突き刺さっていた。
「麻薬とかスパイとかいろいろかなぁ。私も追い出される前は手伝っていたしね」
****
ユリアーネはこれまで、アヴェリアのような裏稼業の人間を無意識で駒として認識していた。だが、彼らも自分と同じ人間である。そして、もし運命が気まぐれを起こせば、自分がそちらの人間になっていたかもしれない。その事実に気付いたことで深い衝撃を受けたユリアーネは、動揺する自分の心境をマリーナに打ち明けた。
****
「アヴェリアさんのおかげで、ユリアは今まで見えていなかったものが見えるようになったんでしょ? ……カルタキアに来て、また1つ新しい物の見方を身につけた、良かったと思うけど」
マリーナはそう告げた。それでもまだ心の揺らぎが収まらないユリアーネに対して、彼女はこんなことも言っていた。
「自分が間違ったことをしていたなら直せばいい。それじゃ駄目かな?」
その上で、マリーナは最後にこう付言した。
「頑張れ。戦場では、考えて悩んで苦しんで出した答えの数だけ強くなるって義母さんが言ってた」
****
(マリーさんは、私が悩むべき道を示してくれた)
戦略・戦術上では駒として扱うことが当然必要な場合もある。それでも、彼らは彼らの人生を生きている。それを決して忘れてはいけない。
(彼らはたんなる駒じゃありません。みんな一人の人間です。それぞれがかけがえのない存在なんです。アヴェリアさんが、それを気付かせてくれた)
みんな何かの思いを持ち、誓いをして、この合同戦線に居る。共に歩む仲間だ。
(今の私には、この合同戦線の皆さんが仲間なんです。その全員が、それぞれ願いを持って、ここにいるんです)
そのことに気付いた時点で、ユリアーネの中で「答え」が見えた。
(あっ……。そうか。そうだったんですね。ここでは、それが私の役割……。気付いてしまえば、単純な事でした)
彼女の胸元の聖印が大きく光り、そして、新たな誓いと共に光の紋様は姿を変えていく。
《仲間の願いの成就を手伝う》
そんな彼女の決意を象徴するように、「ルーラー」としての彼女の魂を具現化した新たな聖印が、くっきりと彼女の眼前に浮かび上がった。
(やった……。やりました。私にも、できた……)
この瞬間、同郷の二人が一足先に辿り着いていた「君主としてのスタートライン」にようやく自分も立てたことをユリアーネは実感する。
(これで、カノンさんやマリーさんの足を引っ張る事もないはずです)
自分の中に宿った新たな力を噛み締めながら、彼女は改めて、君主としての自分が目指すべき未来に思いを馳せる。
(これまで以上に、私の全てを、仲間の願いのために)
******
その頃、彼女と同じ潮流戦線の一員である
エーギル
は、港のはずれで一人、海を見つめていた。潮風をその身に受けながら、やがて彼がゆっくりと目を閉じると、その心のなかに記憶の欠片が流れていく。それは少しずつ鮮明になり始めていき、彼はそれに手を伸ばした。その感触は、暖かかった。
****
「ルーノ、これ……、良かったら一緒に食べないか。テレサ先生から貰ったんだ。城下町の菓子店のいいやつなんだって」
そう言ってクッキーの入った箱を見せ、曖昧に笑う「彼」の顔は、今より少しばかり幼くて、少しだけ、苦しそうだった。
「あら、スーノが誘ってくれるなんて嬉しいですね。もちろん行きますよ」
その誘いに嬉しそうに返した自分がどんな顔をしていたのか、今はもう思い出せない。
**
やがて場面は陽射しの暖かなテラスへと移り、「彼」が紅茶を淹れてくれて、先程のクッキーが振る舞われる。色々な種類のクッキーが入っていて、赤いジャムが宝石みたいにきらきらして綺麗だった。
そして「彼」が、そのジャムの乗ったクッキーを一つ手に取り、口に運んで「美味しい」と笑って見せる。明らかに取り繕った「彼」の顔を見て、何故か自分は心底安心したように笑って、一つ、手に取る。わざわざ「彼」の取ったものとは別のものを選んで。
「君がそう言うのなら安心だ」、「今日は誘ってくれてありがとう」、そんなことを話しながら、それを口にした。
「……本当に、美味しいですね。ありがとうスーノ」
そこで記憶が途切れる。
***
暗闇の中で、誰かの啜り泣く声を聴いた。その声に「泣かないで、大丈夫」と言いたかった。きっと、自分とは別のモノになりたかったのだろう。その子を抱きしめて、優しくしてあげられる誰かに……。
****
気づいた時には、エーギルは港のはずれで一人、眠りに就いていた。辺りは暗くなっていた。痛む頭を振って、少し冷えた目元を拭う。
「スーノ、俺は……」
その場にいない筈の「彼」の姿が、エーギルの瞳にはうっすらと映っていた。エーギルは大剣を掲げながら、震えた声で言い放つ。
「……君を超える。君の過去も、今の君も。どちらも超えてみせる」
エーギルのその声に呼応するように、彼の聖印は「セイバー」の紋章へと形を変えていく。そして彼の胸の奥には、確固たる新たな決意が刻み込まれる。
《ルーノを超える》
それこそが、「エーギル」としての今の彼が果たすべき誓いであった。
最終更新:2021年05月26日 21:38