『見習い君主の混沌戦線』第6回結果報告(後編)
「風通しが悪いな」
星屑十字軍の
リーゼロッテ
は、カルタキアの郊外の一角に位置する孤児院の内部を確認した上で、そう呟いた。
この建物は、10年前の混沌災害で大量の孤児が発生した際に、行き場を失った子供達が雨風を凌ぐための場として、突貫工事で急造した建物である。それから時が流れ、当時の子供達の大半は独り立ちして孤児院を去ることになったが、最近になって再び街の近辺で混沌災害が多発するようになったことで、親を失う子供が少しずつ増えつつある一方で、近隣の街や村から、行き場を無くした子供達の引取先を求める声も増加しつつある。
そういった難民を受け入れるかどうかについてはまだ結論は出ていないが、少なくとも現状の孤児院は(もともと長期間使い続けることを想定していないため)老朽化しているため、この機に建て替えた方が良いのではないか、という声が上がっていた。リーゼロッテはその声を聞いた上で、まずは現存する孤児院の問題点を確認するために現地を訪れ、そして最初に実感したのが「風通しの悪さ」だった。
「窓の位置からして、風が吹き抜けられる構造になっていないし、大部屋の中に無駄に衝立が多くて、空気が籠もりやすくなってしまっている。こんな状態では、夏場になればカビも生えやすくなるだろう」
その説明に対して、孤児院の職員が申し訳なさそうに答える。
「衝立については、その、年長の子供達の中には、着替えを他の子に見られたくないという声があって……」
「それは人として当然の感情だ。むしろ、個別の部屋を与えずに無理矢理押し込めて、そこから無計画に衝立を作るから、こんな構造になってしまうんだろう。きちんと最初から部屋を分けた上で、定期的に扉を開いて換気の時間を作ればいいだけのこと」
復興期の混乱の中で建てたとはいえ、あまりにも杜撰な設計に、リーゼロッテは思わず溜息をついた。とはいえ、この職員達がこの建物を設計した訳でもない以上、ここで彼等を責めても意味はない。
気を取り直して彼女は、浴室、トイレ、上下水道などの構造についても確認するが、明らかに老朽化以前の問題として、そもそも水回りの構造自体に問題があるように思えた。
「これはもう、完全に一から建て直した方が良いのではないか……?」
彼女が呆れ顔でそう呟いたところで、後方から一人の男性の声が聞こえてくる。
「やはり、軍医殿も同意見のようだな」
その声の主は、金剛不壊のラマン・アルトであった(下図)。
「アルト艦長、なぜここに?」
「実は今回の孤児院復旧に際して、我が主君、ハルーシア公が出資金を提供する予定なのでな。どれほどの予算が必要なのか、その見積もりを確かめるために、有識者の意見を聞きたいと考えていたところだったのだ」
ラマンはこれまで、カルタキアでの近況を何度か手紙でハルーシア公アレクシス・ドゥーセに知らせていた。その中で記されていた孤児院の惨状に心を痛めたアレクシスが、自ら私費を投入して子供達を救いたいと考えたらしい。おそらくアレクシス自身は純粋な憐憫の念からの出資なのであろうが、ハルーシアの重臣達から見ても、カルタキアは南方航路の要所である以上、この機に出資して関係を深めておくことに異論はなかったようである。
そして、ラマンもまたリーゼロッテと同様、「一から建て直すべき」という意見をソフィア達に進言していた。
「まず、そもそも立地自体が良くない。言ってしまえば、カルタキア全体の中で見ても、どちらかと言えばここは貧民街であり、あまり治安の良くない区域だ。この街の未来を背負う子供達の生活環境として、望ましいとは言えまい」
カルタキアは比較的貧富の格差が少ない街だが、それは「富裕層と呼べる程の富裕層が少ない」というだけの話であり、相対的に貧しい人々は当然存在する。現在の孤児院が建てられたのは、そんな人々が住む区域であり、水回りの構造が良くないのも、おそらくはこの貧民街全体の問題なのだろう。
「無論、孤児院だけを救えば良いという問題ではないが、まず最優先で救うべきは子供達だろう。だからこそ、全く別の場所に新たに孤児院を新設すべきというのが、私の意見なのだが、いかがかな? 軍医殿」
「その点については、私も異論はありません。ただ、今のこの地よりも、孤児院の建設地としてふさわしい土地があるならば、の話ですが」
リーゼロッテとしても、今のこの立地が望ましいとは考えていない。しかし、今までこの地が使われ続けてきたのは、おそらく、他に適した土地がなかったからであろう、ということは予想出来る。
「では、軍医殿はどのような土地が望ましいとお考えかな?」
「公衆衛生の面から考えて、まず、水回りの確保が最優先です。今のこのカルタキアの上下水道の構造がどうなっているのかは分かりませんが、おそらく、現時点でその辺りの整備が整っている地区には既に住宅が立ち並んでいるでしょうし、その外側に新たな土地を築くとなると、改めて配水のための工事が必要となるでしょう。そうなると、都市計画そのものに影響を与えることになる以上、いくらハルーシア公の出資金があると言っても、そう易々とは……」
そこまで言いかけたところで、リーゼロッテは「あること」を思い出した。つい先日まで彼女自身が建設に関わっていた新施設のことを。
「……ありましたね。上下水道を新たに整備しつつある、公衆衛生面においても最適の土地が」
「どうやら、同じことを思いついたようだな」
******
それから数日後。新設の公衆浴場に程近い場所に新たに孤児院を建設するという方針が発表された。その設計図には、リーゼロッテの意見を取り入れて換気性に配慮したデザインが採用されており、公衆浴場建設のために引いた水路を利用する形で、子供達の入浴用の水源も確保することが前提となっていた。
もっとも、その水源は当初は、将来的に建設予定の「大衆向け公衆浴場」のために準備していた水路の流用であり、それを先に孤児院の子供達のために用いるという決定に対しては少なからぬ反発もあった。最貧層を救うための手段としてはあまりにも厚遇すぎて、これではむしろ逆差別ではないか、という意見もあったが、「親の愛を受けられぬ不遇への埋め合わせとしては、これでも十分とは言えない」というラマンの言葉によって押し切られる形になった。
とはいえ、それでも町の住民達からの嫉妬を買いかねない措置ではあるため、年長組の子供達は公衆浴場の掃除や施設の整備などの労働に従事する、という方針も打ち出された。快適すぎる環境に甘えることなく、いずれ自立するための力を養うためにも、まずは単純労働から少しずつ見に付けていくことが必要ということに加えて、公衆衛生に関する基礎知識を身につけるという意味でも、最初の労働環境としては望ましいという考えてもあったようである。
そして、もともとリーゼロッテは大衆浴場の建設にも関わっていたこともあり、今回の建設作業においても助言役として同行することになった。彼女は決して建築学の専門家ではないが、以前の孤児院の惨状を目の当たりにしているからこそ、きちんと設計通りの構造に組み上がるかどうかの確認のために、現場に足を運ぶことにしたらしい。
やがてそんな彼女の元へ、ヴァーミリオン騎士団の
ヴィクトル・サネーエフ
に御者を務める荷馬車が到着する。彼はリーゼロッテからの依頼で、様々な物品の買い出しに出かけていた。
「御苦労だったな。依頼した品は、これで全部か?」
「あぁ。間違いはないと思うが、一応、確認してみてくれ」
ヴィクトルは荷馬車に乗せた箱を一つ一つ降ろしつつ、リーゼロッテに中身を開いて見せていく。正直なところ、それらが何のための道具なのかはヴィクトルにはよく分からなかったが、リーゼロッテに言わせると、寄生虫や感染症への対策のために必要な物品らしい。
「君は随分と博識なようだが、一体、どこでその知識を?」
「昔、エーラムの魔法師に師事していたんだ」
「あぁ、なるほど。道理で……」
ヴァーアミリオン騎士団の一員であるヴィクトルにとっては、エーラムの魔法師が人並み外れた知識を有していることはよく知っている。とはいえ、エーラム出身者が今は聖印教会に属しているというのは、何か深い過去がありそうにも思えたのだが、ヴィクトル自身もあまり自分の過去については触れられてほしくない立場ということもあり、あえてそこに踏み込もうとはせず、話題を変えることにした。
「ところで、建築現場の人手は足りているのか?」
「問題ない。と言っても、今は休憩シフトの関係上、少人数になってはいるんだが……」
「それなら、俺も少し手伝おう」
ヴィクトルはそう告げると、腕まくりをして建材を取りに行こうとする。
「いや、お前も今、荷物を運んできたばかりだろう?」
「運んだのは馬だ。俺じゃない。むしろ、馬にこそ休憩時間が必要だから、その間の暇つぶしに手伝わせてもらうだけだ」
「そうか……。まぁ、体力が有り余っているなら、それもいいだろう。ただし、無理はするなよ。私の目の前で過労で倒れるようなことは許さないからな」
「心配ない。力仕事には慣れている」
ヴィクトルとしては、この機会にカルタキアの一般住民の生活を体験しておきたい、という気持ちもあったらしい。それは、自分達が生活するために必要な街の様々な施設を築くために労働に勤しむ人々のことを、もっとよく知りたいという思いなのかもしれない。彼は軽々と建材を抱え上げた上で、土木作業員に対して声をかける。
「この木材は、どこに運べばいい?」
「おぉ、すげーな、アンタ。片手でそんなに軽々と……。とりあえず、あっちに持って行ってくれ。それが終わったら、ちょっとこっちの建材を支えてもらえないか? 釘打ちをしたいんだ」
「分かった。これを届けたら、すぐに戻る」
そんなやり取りを交わしつつ、ヴィクトルはすぐに住民達と打ち解けながら、孤児院の建築作業に勤しむのであった。
******
それから数日後。無事に新たな孤児院は完成し、子供達はそれぞれの荷物をまとめて引っ越し作業を始める。子供達の中には、いくらボロボロだったとはいえ、長年過ごした旧孤児院を離れることへの寂しさも垣間見れた。なりゆきで子供達の引っ越し作業も手伝うことになったヴィクトルは、そんな子供達の心情を慮ってか、まだ使えそうなテーブルや椅子などは荷馬車に乗せて、新たな孤児院へと運ぶことにした。
「捨てなくてもいい思い出まで、無理して捨てる必要はないからな」
ヴィクトルはそう呟きつつ、年少の子供達も一緒に馬車に乗せた上で、新たな孤児院へと向かう。最初は不安そうな表情も見せていた子供達だったが、いざ実際に新たな住居を目の当たりにすると、彼等は目をキラキラと輝かせた。
「すごーい! 部屋がたくさん!」
「こんな綺麗なベッドで寝ていいの!?」
彼等がそんな声を上げる中、孤児院の様子を見に来た(ヴィクトルとは同郷の)潮流戦線の
ハウラ
が声をかける。彼女の中では、自分の原点たる子供の頃を思い出したい、という思いもあったらしい。
「今は綺麗でも、きちんと掃除しないと、すぐに汚くなるっすよー。ベッドのシーツも、こまめに洗濯しないと、いつの間にか虫とか湧いてたりするから、気をつけるっすー」
「はーい!」
素直にそう答える子供と、そんな彼等を微笑ましく見守るヴィクトルを見ながら、ハウラは昔に想いを馳せる。そんなハウラの視線に、ヴィクトルも気付いた。
「ハウラ」
「な、ななな何すか!? 別に見つめてなんかないっすよ!!」
声をかけられたハウラは、なぜか狼狽したような様子を見せるが、ヴィクトルは子供達に対しての笑顔と同じくらいの微笑ましそうな表情で語りかける。
「お前がこれまでに見てきた旅の話とか、語ってやればいいんじゃないか?」
「い、いやいやいや、何言ってるんすか! 私(アタシ)の話なんて、何一つとして、面白いことなんてないっす!」
それは純粋な謙遜なのか、「子供達には言えないような話」が多いのか、それとも「ヴィクトルの前では言いたくない理由」があるのか、真相は分からない。
「そうか。俺は聞いてみたいけどな、お前の話を」
「ま……、まぁ、それはまたいずれお話する機会はあるかもしれないっすけど、そんなことより、面白い話というなら、むしろ……」
「ハウラ! 頼まれてタ絵本、出来たヨ!」
そう言って、ミルシェは一冊の「手作り絵本」を提示する。その表紙を見た瞬間、ヴィクトルはあることに気付く。
「もしかして、それって、俺達の故郷の……」
「そうっす。黒涙病にまつわる伝承を題材にした絵本っす」
黒涙病とは、ノルドの一地方で稀に発症する特殊な病気であり、それに関連した様々な伝承が存在する。その中の一つである、とある君主とその従者の女性の物語を描いた絵本が彼等の故郷には伝わっており、ハウラもその絵本が大好きだった。その物語をカルタキアの子供達にも伝えたいと思い、彼女は以前から懇意の関係にあったミルシェに依頼して、その絵本を再現してもらったのである。
「一応、ハウラから聞いたイメージに合わせて描いてみたつもりだケド、どうカナ?」
ミルシェは先日の温泉宣伝用のイラストのためにカエラから(無理矢理)絵の特訓させられたこともあって、画力が飛躍的に上達していたようで、見たこともない筈のノルドの豊かな自然の情景なども、それらしい雰囲気を感じ取れる程度には描けている。
「いいかんじっす!」
「すごいな! まるで俺達が子供の頃に見てた絵本そのものみたいだ……」
ハウラとヴィクトルがそんな反応を示していると、周囲の子供達は興味津々の瞳で見つめる。
「なにそれ? どんな話?」
「聞かせて! 聞かせて!」
「はいはい、今から読んであげるっすよー」
ハウラはそう告げて、その場に腰を下ろし、子供達を相手に絵本を読み聞かせ始める。そんな彼女の様子を、ヴィクトルとミルシェは穏やかな笑顔で見つめていた。
******
潮流戦線の
エイミー・ブラックウェル
は、ここ最近の連戦の疲れもあって、この日は魔境にも防衛任務にも向かわず、特にあてもなくカルタキア内を散策していた。
(この間の戦いの傷はもう癒えた筈なのに、なぜだか今は、戦場に赴く気になれない……)
もしかしたら、慣れない戦場を何度も転々としている間に、身体だけでなく、精神的にも疲弊してしまっているのかもしれない。そんな中、ふと見覚えのある人物の姿を見かけた、先日の秘密基地の魔境の浄化作戦で同行した
リューヌ・エスパス
である。彼女はこの街の領主の書庫から、何冊かの本を持ち出していた。その様子が気になったエイミーは、声をかけてみる。
「リューヌさん、先日はお世話になりました」
「あぁ、エイミーさん。こちらこそ、あの時はありがとうございます。もうあの時の傷は大丈夫ですか?」
「えぇ。それはもう平気なのですが……、その本は?」
「世界各地の色々な冒険譚です。孤児院の子供達に読み聞かせたら喜ぶんじゃないかと思って」
先日のハウラの絵本の読み聞かせが好評だったようで、子供達からはもっと色々な話が聞きたいという要望が高まっているらしい。ちなみに、手にしているその本の表題には「英雄王エルムンドの叙事詩」「紅蓮の姫と紺碧の翼」「境界線上の魔王城」「翠玉剣の騎士」などといった文字列が並んでいる。確かに、いずれも子供達が好みそうなタイトルであった。
「正直、どれもかなり古い書物で、ちょっと子供には分かりにくい表現とかもあるので、ある程度簡略化しながら読んだ方がいいかな、という気はするんですけど……」
「そういうことでしたら、私もお手伝いしましょうか?」
エイミーとしても、気分転換に、これまでとは全く違う何かに打ち込んでみた方がいい、と考えたのかもしれない。
「いいんですか? じゃあ、ぜひお願いします」
こうして二人は、リューヌが借りてきた本の中から、子供達が喜びそうなエピソードを抽出し、それを分かりやすく読み砕く方法を吟味することになった。
***
翌日。二人は孤児院へと向かい、そしてリューヌが子供達を相手に読み聞かせを始める。エイミーは、リューヌが途中で疲れた時の代役のつもりで同行していたが、リューヌの朗読は非常に軽快で、子供達も彼女の語り口に興味深々な様子で聞き入っている。
(これなら、私の出る幕はないかな……)
エイミーがそんなことを考えている中、リューヌは用意していた最後の本を読み終える。
「……こうして、人々をくるしめていた暗黒王はたおされ、リオーネ王国には平和がもどりました」
最後の一節を読みきったところで、リューヌが、ふぅ、と一息をつくと、それまで黙って聞き入っていた子供達からは歓声が上がる。
「おもしろかったー!」
「ねぇねぇ、つぎのおはなしは?」
子供達からそんな声が上がる中、リューヌは困った顔を浮かべる。
「ごめんなさい、今日持ってきた話はもうこれで全部……」
「えぇー」
「もっとききたーい!」
残念そうな彼等の声を聞いたリューヌは、困った顔を浮かべつつ、隣りにいたエイミーと目をあ合わせた瞬間、あることを思いつく。
「じゃあ、この間、私(わたくし)たちが魔境を浄化した時の話でもいいですか?」
「え? なにそれ!?」
「どんなおはなし!?」
子供達の食いつきが予想以上に良好だったため、リューヌとエイミーは互いに頷きつつ、秘密結社「テラー」との戦いの物語を、口頭と身振り手振りで再現し始める。特に打ち合わせもしていない、即興の解説劇だったが、実際に体験していたこともあり、臨場感は抜群だった。
「……そしてこの時、正義の味方・アイザック仮面が現れ、皆に変身ベルトを手渡したのです」
「それを手に取った私は、市民の皆さんを守りたいという思いを込めて、こう叫びました。ギルフォード流わらしべ盾術奥義『かっこいいポーズ』!」
リューヌはそう叫びながら、実際に「その時のポーズ」を披露すると、子供達からは更なる歓声が沸き上がる。やはり、言葉だけでなく、視覚的な情報もあった方が、子供達にも伝わりやすいらしい。そのまま二人は全員分の変身ポーズや敵の奥義発動の場面などを再現しつつ、テラーとの激戦を(記憶にある限り)忠実に再現する。
「すげー! かっこいい!」
「わたしもおっきくなったら、おねーちゃんたちみたいな、えすくわいあになるー!」
「みんなでいっしょに、このまちをまもるんだー!」
口々にそう叫ぶ子供達を目の当たりにして、リューヌもエイミーも、相次ぐ戦いで疲弊していた精神が、少しだけ癒やされたような心地になっていた。
******
一方、年長組の子供達には、清潔で快適な住居と引き換えに、公衆浴場の清掃などの仕事が課せられることになった。業務内容自体は単純労働だが、これを機に衛生管理の大切さを理解してもらうためにも、正しい知識を身に着けさせるために、ヴェント・アウレオの
アリア・レジーナ
と、星屑十字軍の
ニナ・ブラン
が講師役を務めることになった。
まずはアリアが、清掃係としての心得を子供達に解こうとする。
「人間の身体は、普通に生活していくだけでも自然に汚れが発生するものよ。その汚れを洗い流すためには入浴が不可欠。その過程でどうしても浴場に汚れが付着するわ。もし、その汚れを放置したまま次の人々が入浴を始めれば、最悪の場合、その汚れを経由して病気がうつってしまうかもしれない。だから、浴室の清掃係という仕事は、決して軽んじて良い職務ではなく……、あ、こら! そこ! 話を聞きなさい!」
明らかによそ見をしている子供に対してアリアは注意するが、全体的に、あまり子供達の心には響いていない様子である。アリアなりに子供に分かりやすい表現を心掛けてみたつもりではあるが、それでも、どこか堅苦しい雰囲気が残ってしまっている。それに加えて、そもそもこれまでろくに学習する機会すらなかった孤児達にとっては「話を黙って聞く」ということ自体に慣れていないようであった。
「よくわかんねーけど、よーするに、マジメにやれ、ってこと?」
「そうよ。そうしなければ、いずれ恐ろしい病気が街中に蔓延してしまうかもしれないわ」
「んー、でも、ぶっちゃけ、俺達今まで、ここよりずっと汚い風呂にしか入ってこなかったけど、それでも別に病気にならなかったしなぁ」
「それは、運が良かっただけ。そんな油断が積み重なって、一つの街を滅ぼした事例だってあるのよ」
アリアがそこまで言うと、子供達の中の一人が、数日前にハウラが読み聞かせていた絵本のことを思い出す。
「もしかして……、黒涙病みたいな病気になっちゃうの?」
黒涙病はハウラ達の故郷に特有の病気であり、その具体的な症状や感染ルートについては、アリアはあまり詳しくは知らない。だが、ひとまずここはその話に乗ることにした。
「黒涙病どころか、もっと恐ろしい病気になってしまうかもしれないわ。そうならないためにも、油断せず、日々清潔な生活を保つことが必要なの。分かった?」
彼女のその言葉で、子供達にもある程度は伝わったようである。そんな中、女子組の中から、アリアに対してこんな質問が投げかけられる。
「ちゃんと清潔なお風呂に入るようにしたら、お姉さんみたいに、きれいな人になれるの?」
「私のようになれるかどうかは、一人一人の努力次第、としか言えないわ。でも、最低限、清潔な生活を心掛けなければ、絶対に無理ね」
「そう、ですか……」
「でも、安心なさい。この公衆浴場には、身体を清潔にするだけでなく、更なる美を追求するための施設も併設されているわ。それを受けるには、それなりのお金が必要になるけれど、ここで働いていれば、いずれはそちらの施設の補佐役を務める機会も出来る筈。そうなれば、自然とその知識も身についていくことになるわ」
実際、この公衆浴場には、海外から来訪した富裕層向けの高級エステティシャンも雇われている。さすがに、何の知識も経験もない今の孤児達にその補佐役を任せるのは無理があるが、いずれは彼等の中から、そういった方面の才覚がありそうな人物を助手として抜擢するという計画もあった。
(とはいえ、具体的な技能修得の前に、基礎的な教育機関を確立させることの方が先のような気もするわね。最低限、黙って話を聞く訓練だけでも施さないと、何も身につかないわ……)
アリアがそんな想いを抱いている中、その傍らではニナが、別の子供達を相手に「手袋」を配っていた。
「お掃除の時って、手が荒れやすいので、良かったら、使って下さいね」
そう言って一人一人に手渡ししていたニナであったが、自分と同世代くらいの、明らかに自分よりも大柄な少年を前にして、ふと気付く。
「あ、ごめんなさい。私の手を基準に作ってしまったから、これじゃあ小さすぎましたね……」
ニナがそう呟いたところで、周囲の子供達が驚く。
「え? この手袋、手作りなの!?」
「はい。医療用の手袋って、すぐに汚れて使えなくなってしまうので、時間のある時によく自分で作ってるんです。でも、男の子用は作ったことがなかったので……。もし良かったら、今から手の大きさを測らせてもらってもいいですか?」
彼女はそう言って、自分よりも一関節分くらい大きそうなその少年の手を取ろうとするが、彼はそんなニナの手を弾き飛ばす。
「お前に、そんなことまでしてもらう必要なんてない!」
「え……? いや、別に、そんな大変な作業でもないですし……」
「俺は、お前みたいな苦労知らずの奴の施しなんて、受けたくないんだ!」
「施しだなんて……、ただ、私は、皆さんのお手伝いをしたいと思っただけで……」
「お前に何が分かるんだ! どうせ俺達のことを、内心では蔑んでるんだろう? 哀れみの視線で俺達を見つめていれば、自分が聖女にでもなれると思ってるんだろう? そんな自分本位の偽善者の力なんて、借りたくない!」
その少年の言葉は、ニナの心に深く突き刺さった。確かに、自分と彼等とでは、育ってきた環境が全く違う。ニナは両親から愛され、十分な教育を施されてきた。彼等のために手袋を編む程度のことなど、ニナにとっては造作もないことなのだが、彼女がそう思えるのは、自分が恵まれた環境で育ってきたからに他ならない。だが、自分と同世代のこの少年にとっては、それが「あたりまえのこと」ではない。他人からの(少なくともニナにとっては)些細な善意を受け取ることに対してここまで抵抗感を示してしまうという精神性の違いに、ニナは愕然としていた。
しばしの間、気まずい沈黙が流れた後、ニナは心の中で様々な葛藤を抱えながらも、へにゃっとした笑顔で、ゆっくりと言葉を絞り出す。
「それでも人を救うことが私の理由なので」
少年は、その言葉に対してどう返して良いか分からない。周囲の孤児達も、明らかに自分に対して冷たい目を向けているのは分かる。そして彼自身もまた、ニナに対する劣等感から不条理な暴言を吐いてしまった自覚はある。更なる沈黙が広がる中、その場に別の少年の声が響き渡った。
「ニナ、モップを持ってきたよ」
その声の主は、星屑十字軍の総帥レオノール・ロメオであった(下図)。彼はいつもの礼服ではなく、作業用の軽装を身にまとい、膝から下の脚と肘から先を捲くりあげた状態で、数本のモップを持って入口近くに立っていたのである。
「レオノール様!? その格好は……」
「今日は僕も特に仕事がないから、掃除を手伝わせてもらおうと思ってね」
「いや、でも、そんな、レオノール様がわざわざ……」
「僕だって、この公衆浴場を使わせてもらっているんだ。日頃は他の仕事があるから余裕がないけど、出来れば僕自身の手で毎日掃除したいくらいさ。他人に借りを作りたくない、という気持ちは、僕にもよく分かる」
レオノールはそう言いながら、ニナと話していた少年に視線を向ける。どうやら先刻の会話は彼の耳にも聞こえていたらしい。
「でも、残念ながら僕は無力だから、僕一人で自分の身の回りのことを全部こなすことは出来ない。料理だって、掃除だって、洗濯だって、決して得意という訳ではないけど、それでも、出来れば一人で全部やりたい。でも、皆が僕に求めている仕事と並行して、それらを全てこなすことは出来ない。だから、他人を頼らざるを得ないんだよ。所詮、僕達はまだ子供なんだから、他人に頼らざるを得ないのさ。残念だけどね」
現在、カルタキアに滞在する者達の中で、レオノールは最大級(子爵級)の聖印の持ち主である。そんな彼が自分のことを「無力」と評するのは、ある意味でニナ以上に「嫌味にしか聞こえない発言」かもしれない。だが、さすがにここまで「別格」の存在にそこまで言われてしまっては、少年も返す言葉がない。
少年は気まずそうな表情を浮かべながら、ニナに語りかける。
「俺は、お前が作った手袋なんて、付けたくない。だから……」
そこまで言ったところで、彼は少し視線をそらしつつも、強い決意を声に込めて続ける。
「……俺に、手袋の編み方を教えろ」
少年がそう言った瞬間、周囲の子供達が笑い出した。
「えー? アナベルが編み物?」
「やったことないくせに!」
「似合わねー!」
彼等が馬鹿にするような声でそう囃し立てる中、アナベルと呼ばれたその少年は、露骨に顔を紅潮させつつも、大声で叫ぶ。
「うっせー! 今から覚えるんだよ! こいつに出来て、俺に出来ないなんてことはないだろ!」
そんな少年からの想定外の要望に対して、ニナは笑顔を浮かべたまま答える。
「もちろんです。編み物なんて、別に難しいことじゃないですし、誰だって出来ますよ」
「おぉ。今はまだ出来ないから、こいつらがお前の手袋を借りるのは認めるけど、いずれはこいつら全員の分、俺が編めるようになってやる!」
彼は強い決意と共にそう言い放つが、周囲の子供達は苦笑を浮かべていた。
「えぇー、アナベルの手作りとか、やだなー」
「私、ニナさんの手袋の方がいい」
「……てめーら、今に見てろよ! ぜってー、俺の方がこいつより上手く編めるようになってやるからな!」
子供達がそんな会話を交わす様子を、レオノールは微笑ましく眺めていた。一方、ニナも表面上は微笑みを浮かべ続けていたものの、内心では複雑な心境を抱えていた。
(レオノール様が来てくれたから、彼も少しは心を開いてくれたけど、私だけだったら、彼とは何も分かり合えないままだったかもしれない……)
ニナの中では、彼から投げられた言葉は、今も重くのしかかっていた。自分にとっては「当たり前のこと」が、自分と異なる環境で育った者には「当たり前」ではない。自分にとっての「善意」が、自分と異なる立場の者には素直に受け取ってもらえない。その事実を突きつけられたニナは、表面上は和やかな雰囲気に合わせて笑顔を見せつつも、心の奥底ではまだそのことを引きずり続けていたのである。
ニナとしては、自分と異なる価値観の人の発言を否定する気はない。この少年とも、まだ本当の意味で分かり合えたとは言えないし、完全に理解出来たとも言えないが、それでも、理解しようと努力し、寄り添いながら、解決策を探し出していくしかないと考えていた。
だからこそ、彼女は彼の言葉に込められた意味を理解しようとしていたのだが、彼の立場に寄り添って考えようとすればするほど、それが自分の中での「潜在的な疑念」とオーバーラップしてしまう。というのも、ニナは彼に指摘される以前から、自分が人を救う資格があるのか、自分のやっていることは、ただの自己満足かじゃないか、自分が善人だと信じたいだけじゃないかと、ずっと悩んでいたのである。
ニナがあまり前線任務へと赴こうとしないのは、純粋な「怖さ」が原因だった。未来都市の魔境調査に参加した時も、結局、アレシアの足を引っ張ることになってしまった、という自責の念にとらわれていた。それは自分でも出来ることを探そうとして、最近は生活支援方面の仕事に従事しているが、その過程においても、どこか後ろめたさは感じていた。
だが、それでもニナは、人を救うことを止める気はない。彼女が立場が弱い人と関わって、少しずつ自身が成長しているうちに、純粋に人を救う行為自体を、ようやく自分の中でも素直に肯定出来るようになり始めている。しかし、今回の少年の言葉に深く動揺してしまったことからも分かるように、まだ彼女の精神には、どこか不安定さも残っている。彼女がこの迷いを断ち切るためには、彼女の中での「君主」としての確固たる心の覚醒が必要なのだろう。
☆合計達成値:147(52[加算分]+95[今回分])/100
→生活レベル1上昇、次回の「拠点防衛クエスト(CF)」に23点加算
「カリーノ様が、このカルタキアの地にご到着されたのですね!」
潮流戦線の
リンズ
の耳にその報が届いたのは、彼女が廃坑の魔境へと向かった直後であった。リンズは早速、カリーノに割り当てられる予定の宿舎の部屋を管理人から聞き出し、彼女の帰還前に掃除と設備点検を始める。リンズにとってカリーノは命の恩人であり、「ご主人さま」として慕っていた人物でもある。少しでも彼女が快適に暮らせられる環境を整えておきたいと考えるのは、リンズの中では当然の行動原理であった。
その上で、今後の彼女のために、何かもっと自分にも出来ることはないか、と考え始めたリンズは、このカルタキアに来て以来、何度か目の当たりにしてきた領主のソフィアの為政者としての手腕を思い出す。
今のリンズは、本来の年齢よりも幼く見える程度の肉体しか持ち合わせておらず、戦いに向いた体格とは言いがたい。その点に関して言えば、10年以上幼女体型のままのソフィアと似た存在と言えなくもないのだが、そんなソフィアは肉体的な未熟さを補って余るほどの「ルーラー」としての特殊な力を用いて、この街において欠かすことの出来ない存在となっている。その意味では、彼女のような「単純な戦闘能力だけではない方向」から人々を助けられる君主こそ、リンズが目指すべき理想形のように思えた。
(カリーノ様はまだこの地の様子には順応されていないでしょうから、色々とお困りのこともあると思います。そんなあの方を支援するための力を私が身につけることが出来れば……)
現実問題として、今のリンズには、ソフィアのように「為政者」として人々を導くだけの人望もカリスマもないし、自分が将来そのような立場になることも想像は出来ない。だが、「ルーラー(支配者)」の聖印は、必ずしも人民の統治者としての資質にある者だけに宿るとは限らない。カリーノのように身体を張って前線で戦う者達がより戦いやすくなるような環境を整えるために、陰ながらルーラーの力を用いる者達もいる。それは言わば、「人々を救うために、世界を支配する者」としてのルーラーの生き方であった。
《私の力で人々を救う》
ソフィアのような力を身につければ、それも可能になるだろう。そう考えたリンズが、そんな願いを強く心に抱いた瞬間、彼女の聖印は眩い輝きと共に「ルーラーの聖印」としての姿へと生まれ変わる。
(これが私の……、君主としての力……)
聖印の覚醒によって、己の心身が強化されたことを実感したリンズは、新たに生まれ変わったその力を用いて、さっそく主人の部屋の清掃を再開するのであった。
******
先日の「渓谷の魔境(桶狭間)」の浄化作戦は、過去に例を見ない程の投影体の大軍との激戦となったが、多くの従騎士達の活躍によって、どうにか彼等が魔境の外へと流れ出る前に短期決戦で浄化することに成功した。そして、この戦いを通じて、幾人かの従騎士達は、改めて「自分の道」を見定めるに至ることになる。
その典型例が、金剛不壊の船員である
ルイス・ウィルドール
であった。ハルーシアの名門貴族出身の彼は、リンズとは対象的に、カルタキアに来る前から「人民を支配する者」としてのルーラーの資質を期待され続けていた。実際、ルイスは以前から知略に関しては一目置かれており、多くの人々が彼に軍略家としての道を歩むことを期待しており、艦長のラマンもまた、ルイスはいずれ優れた「ルーラー」になるだろう、と周囲に語っていた。
しかし、ルイスはそんな自分の適正を自覚しつつも、本当に自分が進むべき道がそれで正しいのか、迷いがあった。だからこそ、このカルタキア遠征を通じて、自分自身の新たな可能性を見出そうと考えていた。しかし、この地で様々な任務を経験すればするほど、改めて自分の君主としての天分が肉体ではなく頭脳に宿っている、ということを実感した彼は、遂に決意を固める。
ラマン達が出払った巨大軍艦「金剛不壊」の甲板にて、彼は自身の聖印を掲げながら呟いた。
「民を守れる君主は、武勇に優れる君主でなくてはならない訳でなく、その知恵をもって導く者だっていい」
どのような形であれ、《自らの天性を活かし、皆の力となる》ことこそが、君主としての自分の進むべき道だと、はっきりと彼は確信したのである。
「分かっていたのに、ずっと『剣』を諦められなかったのは、きっと僕自身が自分の『知』に自信が無かったから」
しかし、この地に来て以来、未来都市の魔境においても、渓谷の魔境においても、自分の立てた作戦や推理が功を奏して、結果的に多くの仲間達を救うことになった。もちろん、それは多くの仲間達が自分を信じて戦ってくれた結果でもある。そんな彼等との対比の上で、ルイスはようやく、明確に自分の生き様を確立させるに至った。
「ここに来て、みんなと戦って、確かめた今なら言える。僕は知をもって、民を、皆を導こう。それがルイス・ウィルドールの在り方だ!」
ルイスが改めてそう決意した瞬間、彼が掲げていた聖印は新たな輝きを放ちながら、彼に備わった特性を明確化した姿へと形を変える。こうして、カルタキアの地にまた一人、新たな「ルーラー」が誕生することになった。
*******
一方、ルイスと同じく「渓谷の魔境」から帰還した幽幻の血盟の
エルダ・イルブレス
は、彼とは対象的に「マローダー」としての道を歩もうとしていた。
エルダは常に全身甲冑を着込んでいるため、「武人」としての印象が強い人物ではあるが、決して好戦的な性格ではない。そんなエルダがあえてマローダーという、本来の気性とは相反する道を歩もうとしていたのは、以前に岩礁の魔境での戦いにおいて、自分一人で魔物殲滅しきれなかったという悔恨の念があったからである。先日の渓谷の魔境の浄化作戦に参加したのも、タウロスから「一人で多くの敵を倒す術」を学ぶためであった。
だが、目の前でその真髄を目の当たりにしたからと言って、自分もそれが実行出来るかは分からない。そもそも、これまでとは明確に異なる戦い方を身につける以上、今まで通りの自分では駄目だろう、という想いもある。場合によっては、遠距離に陣取った敵を相手に一人で応戦するために、大剣だけでなく飛び道具の使い方も学ぶべきなのかもしれない。そんな想いを抱きながら、エルダは訓練場へと向かおうとしていたが、その途上で一人の少女に声をかけられる。
「あ、エルダさん!」
それは、以前に岩礁の魔境の調査任務を依頼した少女、アタルヤであった。
「この間は、本当にありがとう。兄さんもすっかり元気になって、また二人で一緒に漁に出られるようになったわ」
「そうですか。それは何よりです」
エルダはそう答えたが、あの岩礁の魔境で自分の無力さを思い知らされたエルダにとっては、あまり良い思い出ではなかった。
「とりあえず、あの魔境はどうにか浄化されたみたいだけど、もしまた海方面で調査任務があったら、私が水先案内を務めるから、いつでも言ってね」
「いえ、さすがにもうあなたを危険に晒すのは……」
「私、そこまで幼子でもないよ! 確かに、戦いでは役に立たないかもしれないけど、船の動かし方だったら、並の従騎士の人達よりは、私や兄さんの方が上だし」
「それはそうかもしれませんが……」
「でもまぁ、今は色々な国の海軍の人達も来てるみたいだし、さすがに私達の出る幕はないか」
少しおどけたような表情でそう語るアタルヤに対して、エルダはやや浮かない声色で答える。
「本来なら、この街の人々を守るのは私の仕事なのに、私の力が足りないばかりに、彼等の手を借りねばならず、そのために事件の解決が遅れてしまったこと、申し訳なく思っています。しかし、私がこれから聖印の力を覚醒させることが出来れば、私一人でも多くの魔物達と戦えるようになります。そうなれば、今後は私一人でも……」
エルダが意気込んでそこまで言いかけたところで、アタルヤが遮るように口を挟む。
「別に、一人で戦う必要なんてないじゃない。仲間がいるなら、頼るのが当然じゃないの? 確かに、兄さんを助けられたのはエルダさん一人のおかげじゃないかもしれないけど、エルダさんがいなかったら、兄さんを助けることは出来なかった。それは間違いないわ」
アタルヤのその言葉に対して、鎧兜の下のエルダがどのような表情を浮かべていたのかは分からない。だが、アタルヤは彼女の反応など気にせず、そのまま語り続ける。
「だから、私も兄さんも、エルダさんには心から感謝してるし、申し訳なく思う必要なんて、これっぽっちもないわ。そして、エルダさんがこれから先も、私達のために戦ってくれるのなら、無理せずに他の人達を頼ってほしい。私達じゃ頼りにならないっていうなら、せめて『頼りになる仲間の人達』のことくらいは頼ってよ。エルダさんが一人で無理して戦って、もし万が一、エルダさんの身に何かあったら、私達だって困ることになるんだから」
彼女のその言葉は、エルダの心にはそれなりに響いた。確かに、一人で全てを解決出来るならばそれに越したことはないが、無理をしすぎて自分が倒れてしまっては、結果的に街の人々を守ることも出来なくなってしまう。
「一人でも戦える力を得ること」が必ずしも「一人で戦い続けること」に直結する訳ではない。
アタルヤとの対話を通じてそのことを改めて教えられたことで、エルダの心の中で何かが湧き上がってくる。それは「マローダー」としての力に目覚めたとしても、決して自分一人だけの力には溺れず、《必要なときには仲間を頼る》という誓いであった。
そしてこの後、訓練場に辿り着いた彼女が聖印を掲げると、既にその聖印は「マローダー」としての彼女の新たな人生を象徴する形状へと、変貌を遂げていたのであった。
******
その頃、彼女と同じ幽幻の血盟の一員であり、渓谷の魔境の浄化作戦でも彼女と同行していた
ハル
は、明かりのない自室で、ひとり過去のことを思い出していた。
現在、ハルの身体に宿っているのは、主君であるソフィアから与えられた従属聖印である。しかし、彼はソフィアから聖印を受け取る前に、魔境で混沌核に触れた際に自力で一度聖印を作り出した過去がある。だが、その時はなぜか彼の身体が謎の拒絶反応を示してしまい、自らの心身に、自身で制御出来ぬ程の変調が発生してしまったのである。
魔境内で起きたその奇怪な現象に対して、他の兵士達が不気味に思って彼から遠ざかっていく中、彼を救ってくれたのが、ローゼルであった。彼女はすぐさま彼に駆け寄り、ハルよりも小柄な体躯であるにもかかわらず、彼を支えながら魔境の外へと連れ出し、そして主君であるソフィアの元へと彼を連れて行ったのである。
その時のハルは、自分が自分で無くなっていく恐怖から、徐々に本来の意識を失いつつあったが、それでもローゼルが繋いでくれていた手の感触だけは、はっきりと覚えている。もしかしたら、その手から感じられるローゼルの温もりがあったからこそ、身体が異形の姿へと変質しつつある中でも、彼は自我を失わずに済んだのかもしれない。
最終的に、ローゼルの必死の尽力によってソフィアの元へと辿り着いたハルは、その身に宿っていた聖印を一度ソフィアに預けた結果、どうにか身体に起きていた異変は収束する。その後、ソフィアが改めて従属聖印をハルに与えた時は、彼の身体は素直にその聖印を受け入れていた。どうやら、「借り物の聖印」であれば、彼の身体は拒絶反応を起こさないらしい(ハルとしては、この自分の特異体質の原因についての心当たりも無くはないが、確証までは抱けていない)。
いずれにせよ、この時にローゼルに助けられたことが、ハルが「彼女の執事」を目指す契機となったことは言うまでもない。
(ぼくの目的はローゼル様の執事になること。ですが、そのために必要な物を身につけようとせず、ただ自分の力を試していたのが今までのぼくでした)
彼女が求めている「理想の執事」がどのような存在なのかは、ハルにはよく分かっていない(もしかしたら、それはローゼル自身にも分かっていないのかもしれない)。絵本に出てくるような理想の人物ということは、おそらく万能の天才として描かれているのではないかという推測は可能だが、具体的にどのような能力が必要なのか、というイメージが明確化出来なかったが故に、彼はこれまでの任務においても様々なことに挑戦し、時には華々しい成功を収める一方で、上手くいかずに空回りすることもあった。
(だから、ここからです。ローゼル様のそばにいる将来の自分のイメージ……、その『ぼく』は何を持っているのか? まずはそれを見つけなければ)
彼は自分自身にそう言い聞かせる。ただ闇雲に高みを目指すのではなく、明確な未来像を描いた上で、その理想像に近付くための具体的な道を見つけ出さなければならない、という考えに至ったのである。そのためにはまず、『執事に必要な何かを見つける』ということが第一だということを、改めて自分の心に刻み込む。
そしてこの瞬間、ハルは自分の中に眠る聖印に、これまで感じたことのない違和感を感じる。
「……あれ?」
部屋の中で一人、自身の聖印を掲げてみると、そこには新たな紋様が刻まれていた。それは、現在このカルタキアに駐留する従騎士達の中で、まだ誰も到達したことがない「メサイア」の聖印の姿であった。
「これが、ぼくの生きる道、なのか……?」
無意識のうちに覚醒したことに若干の疑念を感じつつも、ハルはその新たな聖印を改めて見つめながら、自分の目指すべき執事像について、改めて想いを巡らせるのであった。
******
時を同じくして、ハルにとっての「お嬢様」である
ローゼル・バルテン
は、訓練場の隅の長椅子に一人座りながら、実家から持ってきた絵本をしばらく眺めていた。そこには、彼女が子供の頃からずっと求め続けている「理想の執事」が登場する物語が描かれている。
彼女は改めてその物語を自分の中で噛み締め、これまで自分の中で馳せてきたその物語への強い想いを思い出しつつ、あえてその絵本をぱたんと閉じて、自分に向かって語りかける。
「『理想の執事』を見つける……。決してその誓いをなくしたわけじゃない。小さい頃からの憧れだもの」
それは今も昔も、彼女にとっての明確な行動原理である。この点に関して言えば、やはりハルよりも彼女の方が(「本来の自分の夢」である分)その目的意識もより強いのかもしれない。
「でも、ただ待ってるだけじゃダメなのよね。今までは、自発的に探していたつもりだったけど……。結局、いつだって私を肯定してくれる都合のいい存在が欲しかっただけだもの」
ローゼルは子供の頃から「やや特殊な家庭環境」で育ったこともあり、自己肯定感が低かった。だからこそ、そのような存在を求めようとしていたのであろうが、やがてそのような「都合の良い存在」を求める自分自身にも、改めて嫌悪感を抱くようになってしまう。だが、そのまま負の思考のスパイラルに陥るような彼女ではなかった。彼女は自分自身の「嫌な部分」に目を向けた上で、今の自分の進むべき道を見定めることにしたのである。
「私の『理想の執事』……、きっと見つけて見せるけど、その前にやるべきことがある」
彼女は閉じた絵本を側に置いて、近くにあった弓に持ちかえ、的の前に立つ。
「私は、私が目指す『理想の淑女になる』。執事を見つけるのは、それからよ」
彼女はその近いの言葉と同時に弓を強く握り、聖印に力を込める。すると、彼女の聖印は徐々に形を変え、新たな力が宿り始める。そんな彼女の想いを載せた矢は、見事に的の中心を打ち抜いた。彼女は満足げにほほ笑みながら、改めて呟く。
「まずは私が、『この人についていきたい』って、そう思わせるような君主にならなきゃ」
この時、彼女の中で具体的な「執事像」が描けていたのかどうかは定かではない。だが、少なくとも「自分の目指すべき淑女像」だけは、彼女の中で少しずつ明確化されつつあった。
******
その日の夕刻。ローゼルが去った後の訓練場にて、ヴァーミリオン騎士団の
アルス・ギルフォード
は、訓練場で剣を振るように「盾の素振り」を続いていた。同僚達の何人かは既に己の道を確立して、従騎士として次の段階へと足を踏み入れている中、彼女の聖印はなぜか未だに、その内側に秘められた「真の姿」を露わにしてはいなかった。
アルスの中では「目指すべき君主像」は既に定まっている。彼女はその盾を以って人々を護る「パラディン」への道を、ずっと前から志していた。そして、これまでの戦いを通じて、アルスは他の従騎士達と比べて遜色のない活躍を果たし、聖印を成長させてきた。にも関わらず、この日もアルスの聖印は、彼女の望む力を彼女に与えようとはしなかった。
パラディンとなるために、あと自分に足りないものは何なのか。自分の心の中で、まだどこか迷いがあるのか。自分にはまだパラディンとして生きる覚悟が足りないのか。様々な疑念が湧き起こる中、彼女はふと、先日の秘密結社での任務のことを思い出す。
日頃は、人を傷つけることを嫌い、誰かを護るために戦うことを旨としている彼女であるが、あの時はあえて自分を精神的に追い込み、敵に対する明確な殺意を抱いて任務に挑んだ。あの怪人を倒すためには、それが必要だと考えたからである。その結果、無事に宿敵を倒し、任務の達成には成功はしたが、彼女自身の中に残ったのは、虚しさだけであった。ただひたすらに、目の前の標的を打ち倒すためだけに憎悪に身を任せ拳を振るう。それは彼女が望んだ「人を護れる術」とは程遠かった。
その虚しさの理由を考えているうちに、アルスは数日前に幽幻の血盟のレオナルドとの間で交わした会話を思い出す。彼女は「自ら攻撃することが苦手だ」と語ったのに対して、彼は「死んでほしくないのだろう」と答えた。
(……死んでほしくない、ですか)
アルスの中で、それは妙に納得がいく理由だった。
(そうか……、私はずっと……、死が怖かったんですね)
傷ついてほしくないと、自ら傷つけたくもないと思うのは、死を恐れるから。これまで、漠然としか自覚出来ていなかった「自分がパラディンを目指す理由」の根底にある自らの深層心理を、アルスはここで初めて自覚する。そして彼女がふと空を見上げると、その視界の先では、赤く染まった夕日が、今にも沈みかけていた。彼女はそれに向かって手を伸ばし、ゆっくりと握りしめる。
「死から全て守り切ることができなくても……、それでも、私の手が届く限りは」
彼女がそう決意した瞬間、その身に宿った聖印は、「パラディンとしての輝き」を放ち始める。こうして彼女は《死から人を護る》という誓いを胸に、新たな一歩を踏み出していくのであった。
******
その頃、アルスと共に秘密結社の魔境の浄化作戦に参加していた第六投石船団の
ユージアル・ポルスレーヌ
は、港で一人、物思に耽っていた。そこに漂う潮の香りは、故郷のハマーンとは少し異なっていたが、それが地形によるものなのか、混沌の作用なのかは分からない。
「ずっと考えていたの。私はお姉さまのお役に立ちたいのか、お姉さまのようになりたいのか……」
ユージアルの心の中には、常に自身の指揮官であるカエラへの憧れがあった。だが、その「憧れ」の正体が何なのか、彼女自身の中で見定められていなかったのである。
「……今なら分かるの。私はお姉さまに“なりたい”訳じゃないの」
彼女はそう呟いた上で、懐から護身用の短剣を取り出し、自身の髪の根元に刃を当てる。カエラに憧れて伸ばし、結い上げたその長い黒髪を断ち切ることで、今までの自分そのものに決別しようとしたのだが、ここで、先日ファニルに言われた『悩みや迷いを切り捨てず、抱えて前に進め』という言葉を思い出し、思い留まる。
「違う……。出来ないから逃げるんじゃないの。ここに来て、私がやりたいことにやっと気付いたから」
ユージアルは、当初はカエラのようなアーチャーを目指していた。しかし、小牙竜鬼の森の魔境の浄化作戦において、架橋作戦における一夜城戦術を提案し、そしてタウロスを相手にデルトラプス姉弟の前線への投入を直訴した頃から、少しずつ彼女の意識が変わり始める。
「きっと、あの時に出てきた言葉。それが私がここで見付けた“やりたいこと”なの」
彼女が二人を推薦したのは、彼等の『生き様』を後押ししたかったから。そして、先日の秘密基地の魔境への突入前に、リューヌとの会話の中で無意識のうちに出てきた『かっこいい姿になりたいんじゃなく、かっこいい生き様の手助けをしたい』という言葉に、今の自分の心の声が込められたことに気付いたのである。
「武器も、知識も、“それ”を成し遂げるために全部利用するだけなの。それだけは……、間違えちゃダメなの」
その上で、《私に出来ることを見付ける》という決意を胸に、ユージアルは聖印を掲げると、その聖印は「ルーラー」として生きる決意を固めた彼女の心を象徴する形状へと変化していく。
「これが、今の“私に出来ること”なの」
新たな姿へと生まれ変わった聖印を見つめながら、彼女はそう呟くのであった。
******
その頃、星屑十字軍の
ワイス・ヴィミラニア
は、自室で一人、チェスの盤面上のコマを動かしながら、自身の生き方についての考えを巡らせていた。
彼女もまた、アルスやユージアルと共に秘密基地の魔境の浄化に協力していたのであるが、そのことはカルタキアの公的な歴史書にも、星屑十字軍の活動記録にも残っていない。それが決して公表することが許されない所業であるということは彼女自身が一番分かっていたし、そのことが公になれば、彼女自身だけでなく、星屑十字軍そのものの名誉をも傷つけることになりかねない暴挙であるという自覚もあった。それでもあえて断行したのは、それが必要であると考えたからである。仲間を守るために汚れ仕事に手を出すことを、彼女は一切厭わなかった。
そんな彼女が今、気にかけているのが、同郷のヴィクトルの同僚でもある、ヴァーミリオン騎士団のアレシアとアルスである。アレシアとは先日発掘された温泉にて、アルスとは路地裏にて、それぞれに言葉を交わし、彼女達の高貴な魂に素直に感服していた。
「彼等の様な方々こそ、当方の望んでやまなかった理想。ですが、彼等の様な方々は、得てして当方の様な悪党によって翻弄され汚され、その輝きは瞬きの内に鈍く穢れてしまう……」
ワイスはそう呟きつつ、盤上を見つめながら、このカルタキアという地において、そしてこの世界において、自分自身が果たすべき役割が何なのか、ということを改めて熟考する。彼女の世界観においては、この世界には確かに「善」と「悪」は存在する。しかし、チェスの駒とは異なり、この世界の構成員達は、それぞれに自分の意志で行動する。同じ陣営であれば協力するとも限らず、異なる陣営だからといって敵対するとも限らない。ワイスは自分のことを「悪党」と自認しているが、それは必ずしも「善なる者」の敵であることを意味していない。
「……であれば、当方が悪を、彼らの輝きを穢すものを討伐しなければ。そして、その輝きを永遠のものにする為の法則作りを……」
彼女は、自分自身が「善と悪の線引きを作る側の人間」になりたいと願った。その上で、《全ての善なる者を守る悪になる》という決意を固める。
「その為の力を、我が手に寄越せ」
彼女は自身の聖印を見つめながらそう呟くと、その形状は「世界の理(ことわり)を司る者」としての聖印へと、姿を変えていく。こうして、現在のカルタキアの中では八人目となる「ルーラーの従騎士」が誕生したのであった。
******
一方、そんなワイスとは対象的な形で秘密基地の魔境から帰還した、彼女と同じ星屑十字軍の
コルム・ドハーディ
もまた、そろそろ自身の聖印を覚醒させたいと思い初めていた。
(聖印を覚醒させるためには何が必要で、今の俺には何が足りていないのだろう……?)
コルムはそんな思いを抱きながら、彼はこれまでの自分の「従騎士としての歩み」を思い出しながら、改めて「君主としての自分」のことを省みる。彼もまた、これまでに戦場で多くの投影体達との戦いを繰り広げ、その聖印の規模は同僚達には決して引けを取らないところまで成長している。では、精神面においては、どうなのか?
(俺には為すべき目標があって……)
心の中でそこまで呟いたところで、彼はふと気付く。「自分が将来成し遂げたいこと」については明確なビジョンがあったものの、「自分自身が目指したいスタイル」についての具体像については全く考えていなかった、ということに。
(そうか! そこが定まっていなかったから……)
コルムはそのことに気付いた上で、改めて自分が目指すべきスタイルは何なのか、ということについて思い悩み始める。自分の為すべき目標を達成するために、最適なスタイルは何なのか。様々な可能性を思い浮かべてみるが、明確な具体像をイメージ出来ない。思わぬ壁にぶち当たったコルムは、しばらく考え込んだ後に、ふと一つの着想に至る。
(礼拝堂に行けば……、自分の原点を強く想い起こさせる礼拝堂に行けば、何か思いつくのではないのだろうか……)
そう考えたコルムは、このカルタキアにおいて聖印教会の面々が築いた礼拝堂へと赴く。既に陽は落ちた時間帯だったこともあり、その場には誰もいなかった。彼は改めて最前列の椅子に、一人静に腰掛ける。
(ここに来たのは初めてではないが、改めて来ると、ここが礼拝堂なんだなって感じる)
コルムはそんな想いを抱きながら、自分の内面に秘めた感情に向き合い始めた。
(ここが神に信仰を捧げるところ。あいつらが信仰している神に対して……)
ここで彼は、昔の出来事について思い返す、忘れもしないあの日のことを。故郷の村が「見知らぬ部隊」に襲撃され、村人が殺される様を。
(俺はあいつらのしたことを絶対に許さない、必ず制裁を加えてやる。《”正義”はなされればければならない、たとえ世界が滅ぼうとも》)
彼がそう強く願った瞬間、彼の目の前に、新たな姿へと生まれ変わった「キャヴァリアーの聖印」が姿を現す。
(なるほど、襲撃されたときに特に記憶に残っていた騎兵の姿からこうなったのか……。復讐心を忘れないために……)
複雑な想いが去来する中、彼は改めてその聖印に向かって呟く。
「必ず目的を成し遂げてみせる」
その言葉と共に、コルムは礼拝堂から去っていった。
先日、アーチャーとしての力に目覚めたばかりのヴェント・アウレオの
コルネリオ・アージェンテーリ
は、その覚醒時の感覚を忘れないように、あえて任務には赴かず、集中的な特訓に打ち込んでいた。
「ただ待っているだけじゃ、着いていくだけじゃ、力になるどころか足手まといだ」
同郷のラルフやジルベルトに比べて、常に自分は「一方後ろ」を歩いてきたという劣等感と共に生きてきたコルネリオは、ここに来て、そんな自分から脱却しようとする想いを強めていく。
「『追いつく』ことじゃなくて、『一歩前に出る』ことを目指すくらいが丁度いい、のかな……」
そんな決意を胸に秘めつつ、聖印を統御する力を身につけたい、使いこなせるようになりたいという想いから、誰もいない時間帯を見計らって、訓練場で一人、弓矢の訓練に明け暮れていたのである。そして、彼が手にしていたのは、これまでとは異なる弓であった。
コルネリオは、2年前にシスティナの実家にいた頃から、ずっと同じ弓を使っていた。当時の彼はまだ12歳であり、その当時の弓の師範から、当時の彼の筋力に合わせた(当時の彼にとっては張りの強い)弓を渡され、それを今までずっと使い続けてきたのである。それは彼にとって、まだ自分が実家にいた頃、まだ母が存命だった頃の思い出と紐付けられた弓であり、彼が尊敬していた弓の師範から「戒め」と共に貰った品でもあった。それを使いこなせるようになることが、コルネリオにとっての目標だったのである。
だが、その弓は(高品質かつ丁寧な手入れや補修が施されていたため傍目には分かりにくいが)あくまでも子供向けの「訓練用」の弓であり、14歳になった今のコルネリオが実戦で用いるには、弓としての性能が追いつかなくなりつつあった。コルネリオ自身も、これまでにその違和感に薄々気付きつつはあったのだが、アーチャーとしての聖印の力に目覚めたことで、より一層、その「不釣り合い」が顕著になっていく。
そして先日、ツァイスとアルスと共に訓練をしていた際に、二人からそのことを指摘され、試しに別の弓を用いて試射してみたところ、見違えるように鋭い矢を放つことが出来たことで、彼は長年愛用していた「故郷から持ち出した弓」を手放すことを決意する。
「『誰より先に動き、より遠くを見据えるのが弓手』……だったね、先生」
かつての師匠の言葉を思い出しながら、今の自分の身体に合った、より実践的な弓を構えて、練習用の的に向かって、訓練用の矢を放ち続ける。すると、徐々に彼は自分の中の聖印の力が、その手を介して矢の先端部分に向けて集まりつつあることを実感する。
「もしかして……、これが、アーチャーだけが使える聖印技法、《光弾の印》?」
コルネリオは、その矢を放つ前に更に集中力を高めていくと、徐々に矢の先端が輝きを増し、そして、的に向かって放った瞬間、その矢はまさに光弾のごとき速度で吸い寄せられるように的へと向かい、そして着弾する直前に光が炸裂してその的が破壊される。それはまさしく、まだこの地の従騎士達が誰も到達していない、アーチャーとしての真の力に目覚めた瞬間であった。
「……ありがとう、アルス、ツァイス」
コルネリオはそう呟きつつ、ここから先は《自分で一歩踏み出す勇気を持つ》という誓いを胸に刻み込む。これまでラルフやジルベルトの影に隠れていた最年少組のコルネリオであったが、ここに来て遂に彼等に先んじる形で、君主として新たな領域へと踏み込んでいくことになるのであった。
******
そして同じ頃、もう一人の従騎士が、コルネリオと同じように「本格的な聖印覚醒」を目指して修練を積んでいた。金剛不壊の
メル・アントレ
である。彼(彼女?)はこれまで、コルネリオ以上に「自分は皆の足手まとい」という意識が強く、少なくとも従騎士としては、なかなか目立った武勲を上げられずにいた。
だが、キャヴァリアーとしての力に目覚めた後の初実戦となる渓谷の魔境の浄化作戦において、彼女(彼?)はラマンが倒し損なった数多の死霊兵団の壁をこじ開けて、他の従騎士達をラマンの元へと合流させる役割を果たすことに成功した。この戦いを通じて、「聖印の力を発動させながら騎乗する感覚」を掴めた彼(彼女?)は、その感覚を忘れる前に更なる高みに挑むために、ひたすら乗馬場にて訓練を重ねることで、キャヴァリアーとして更なる高みを目指そうと励んでいたのである。
カルタキアに来て以来、メルにとっては受難の日々が続いていた。港の拡張工事の際には鯨に飲まれかけたところをラマンに助けてもらい、武装船の強奪事件ではアイリエッタを助けようとして敵の銃弾で肩を撃ち抜かれた。その間に発生していた市民の暴走事件の折には、自身の歌声によって多くの人々を救うことに成功したものの、それは君主としての力とはまた別次元の、彼(彼女?)固有の才覚によるものであった。
もともと、メルは武人としての才覚を期待されていた訳ではなく、その歌声をラマンに気に入られて金剛不壊に乗ることになった身である以上、ラマンが「君主としてのメル」に対して何をどこまで期待しているのかは分からない。だが、本当にメルのことを「ただの歌い手」としか見ていないのであれば、そもそも従属聖印を与える必要すらなく、一人の軍楽隊の一員として遇すれば良いだけの話である。
おそらくラマンの中では、メルに君主としての一定の才覚があると見越した上で、彼を自身の従属君主としたのであろうし、おそらくはメルもそのことについては薄々気付いているのだろう。だからこそ、メルの中でも「君主としても、皆の役に立ちたい」という気持ちは日に日に高まっていたようである。
そんな想いを込めながらメルが乗馬訓練を続けていると、やがて彼女(彼?)の聖印の光が騎乗中の馬を包み込み始める。そして、その聖光を介して、メルの心の中に、その乗騎の心が入り込んでくるのを実感する。
(これが……、キャヴァリアーに特有の、乗騎と心を一体化させる力……?)
一般的には、この力は《王騎の印》と呼ばれている。キャヴァリアーはこの力を発動させることによって、人馬一体となって縦横無尽に戦場を駆け巡ることが可能となる。全てのキャヴァリアーの術技の基礎中の基礎であり、この力を使いこなせることこそが、キャヴァリアーとしての第一条件と言われていた。メルはその状態のまま、自らの手足を動かすかのような感覚で馬の四肢を操ることで、自分自身がこれまでとは別次元の存在へと昇華したことを実感する。
「自分もこれでやっと誰かの役に立てるよね。待っててね、みんなのこと僕も助けるから、支えるから……。それに、まだみぬ相棒の隣にも、胸を張って立てるといいなぁ。僕にだってできるってところ、ちゃんと見せるからさ!」
メルは強気にそう意気込みつつ、これから先はこの新たな力を用いて《仲間を守る》ということを、改めて深く心に刻むのであった。
最終更新:2022年01月14日 09:30