第4話(BS56)「天機之壱〜光を蝕む病〜」 1 / 2 / 3 / 4

+ 目次

1.1. 流浪の末弟

「タケル! 大変だ! これを見てくれ!」

 とある町の一角に位置する宿屋の客室に、一人の青年がそう叫びながら駆け込んできた。この青年の名はライザー(下図)。聖印教会系の月光修道会が経営するバランシェ神聖学術院の一員であるが、現在は故あって休学し、世界各地を旅している。


「どうした? ライザー」

 宿屋の中にいたのは、ライザーより少し年上の青年である。彼の名はタケル・ニカイド(下図)。彼もまた神聖学術院の一員であり、現在はライザーと共に修行の旅に出ていた(その経緯についてはブレトランドの光と闇4を参照)。


 タケルに対して、ライザーは、街で手に入れた「新聞」を見せる。この世界では、活版印刷技術がある程度広まっており、少し大きな街であれば、いくつかの「出版社」が様々な発行物を街中で売り捌いている。ライザーが持ってきたのは、「真偽不明ながらも話題となっている世界各地の様々な情報」をまとめたゴシップ紙であり、その第一面には以下のような見出しが大々的に掲げられていた。

「ユーミル男爵ユージーン・ニカイド、ここ数日姿を見せず。休養? 一部では死亡説も流れる」

 バルレア半島東岸に位置するユーミル男爵領の国主ユージーン・ニカイド(下図)は「敬虔な聖印教会信徒にして、智勇に優れた猛将」として知られており、タケルの実兄でもあった。


「あの兄貴が!? まさか……、上の兄貴は、病気になったことがないほどの健康体だったのに」

 タケルが「上の兄貴」と評しているのは、彼とユージーンの間にはもう一人、エイル・ニカイドという「下の兄貴」がいるからである。なお、その新聞の下の方には「弟エイルによるクーデターか?」という文言も記されていたが、タケルはそれには気付かなかった。

「どちらにしても、お前としては放っておく訳にはいかないだろう?」
「そうだな。なんだかんだ言って、心配は心配だな。ライザー、申し訳ないが、一度、診に行ってもいいか?」

 タケルはこれまで兄達には劣等感を抱いていたこともあり、あまり積極的に自分から彼等に関わろうとはしなかった。しかし、本質的には義理人情に厚い性格である彼にとって、たとえ疎遠でも兄は兄なので、このような知らせを目の当たりして、何もせずにいる訳にはいかない。

「当然だ。私も行く。実は私も昔、バルレアに行っていたことがあるから、ある程度土地勘は残っている。お前には色々と世話になってるし、一度、実家に挨拶に……」

 と、そこまで言ったところで、ライザーは「自分の言い回し」に「語弊」があるかのように思えてしまい、焦ったように口調を乱す。

「あ、うん、その、友人としてな。友人として、お前の実家に一度挨拶に行かなければ、と思っていたところだ。友人として」

 ライザーがなぜかタケルから目線をそらしつつ、「友人として」を散々強調した上でそう告げると、二人はすぐさまバルレアへ向けて出発する準備を始めるのであった。

1.2. 過労の次兄

 ユーミル男爵領を治めるユージーン・ニカイドは、幼い頃から文武両道の騎士として周囲から一目置かれる存在であった。だが、彼は修学の過程で「世界の真理」を追い求めるようになり、最終的には聖印教会の教義に辿り着いたことで、唯一神への強烈なまでの信仰心に目覚め、以後は「ニカイド家の当主」としての責務よりも、「神の戦士」としての使命を優先するようになり、彼の君主としての覇道は苛烈化していくことになる。
 そんな彼を支えているのが、彼から見れば「上の弟」に相当するエイル・ニカイド(下図)であった。ユージーンが聖印教会の教義を重んじるが故にエーラムからの契約魔法師の派遣を拒否していることもあり、現在の彼の施政下においてはエイルが実質的に国政を一手に担っていた。


 元来、ユージーンには為政者としての才能はあった。だが、今の彼は「国を治めること」よりも、バルレア半島の中央に位置する「巨大な魔境(バルレアの瞳)の浄化」を最優先に掲げるようになった結果、内政を軽んじる傾向が日に日に強まり、(他国に先を越されないように)強引な浄化計画の遂行のために国費と人員が過度に投入された結果、ユーミルの行政機関は深刻な財政難と人材不足という危機的状況へと陥りつつある。
 そんなユーミルにおいて「宰相」の役割を果たしているのがエイルである。彼は兄のユージーンや弟のタケルに比べると体格には恵まれなかったが、学問に関しては幼少期から兄以上の才覚を発揮していたこともあり、家督は兄に任せた上で、自分は学者としての道を歩む筈であった。しかし、瞳の浄化に固執した兄の統治下で国が傾くのを見過ごすことは出来ず、人材不足のユーミルの官庁において、兄の補佐官として寝る間を惜しんで働き続ける日々を送るようになる。
 この時点においても、エイルはあくまでも一人の官吏長として兄を支えるつもりだったので、自分自身が君主になる気はなかった。だが、数年前にとある事件が起きて、彼は思わぬ形で聖印を手にすることになる。
 当時、軍備を整えるための金策と住民からの不満の対応に追われて官吏達が次々と過労で倒れていく中、官庁内で彼等の怨念に混沌核が結びつき、危険な混沌災害が発生しようとしていた。この時点で近くに混沌を浄化出来る者は誰もいなかったため、エイルは反射的に「自分がなんとかしなければ」と思い立ち、その混沌核に手を伸ばす。すると、彼のその想いに応えるように、混沌核は「聖印」へと変わり、彼は「君主」としての力を手に入れたのである。
 ユージーンの実弟が混沌核から自力で聖印を作り出したという事実は、聖印教会にとっては本来ならば世界中に喧伝すべき大朗報だが、そもそもの混沌核が生まれた経緯が経緯だけに、あまりこの事実は積極的には広げられなかった(そして、その数年後に末弟タケルもまた「混沌核から聖印を作り出す」という快挙を成し遂げるのだが、その事実も同様の理由から、一部の熱心な信徒達の間以外では、それほど広まってはいない)。
 エイルの身体に宿った聖印は「為政者の聖印」と呼ばれる系統の特性を持ち、彼はその力を対外戦争や魔境浄化ではなく、主に国内の政治経済の安定化のために用いた結果、法の整備や統治機構の効率化に成功した。その結果、部下達の労働時間もある程度までは短縮出来るようになったが、それでもまだ厳しい環境が続いていることもあり、最近は聖印の力を「部下達の心身を癒すための治癒の力」としても用いるようになった。
 こうしてエイルが統治者としての才覚を発揮していく過程で、当然、国民達の間には、ユージーンに代わってエイルが国を治めるべきだと考える人々も増えていくことになるのだが、あくまでもエイルがここまで身を粉にして尽力するのは兄と国を愛しているが故であり、自分と兄の間で争いが起きることは絶対に避けねばならないと彼は考えている。故に、自分自身は絶対に武器を手にせず、生涯兄に臣従することを誓っている。
 ちなみに、そんな彼の唯一の心の拠り所は、仕事の合間のささやかな甘味の摂取であり、その手の小売店の視察も兼ねて頻繁に市井に降って様子を見ていることもあってか、それなりに市民感覚もあると言われている。それが、現在のユーミル男爵領の屋台骨を支えているエイル・ニカイドという人物の実像であった。
 だが、いつもは冷静沈着なこのエイルという稀代の名宰相も、今はいつになく狼狽していた。先日、実兄ユージーンが「謎の奇病」で倒れ、現在も意識不明の状態が続いていたのである。国政自体はエイルがいれば現状は切り盛り出来るが、もしここで兄が命を落とすことになれば、この国は旗印を失うことになる。現状、ユージーンには子供はいないため、必然的にその時はエイルが後継者として推されることになるだろうが、エイルとしてはその「最悪の事態」を避けるために、打てる限りの手段を講じようと四苦八苦していた。
 そんな中、末弟タケルがユーミルの居城に帰還したという知らせが届いた。執務室で彼を待つエイルの耳に、扉を叩く音が聞こえてくる。

「入れ」
「失礼します」

 そう言って、数年ぶりの再会となる末弟タケルが入って来た。神聖学術院への留学と最近の修行の旅を経て、すっかり精悍な顔つきへと成長した弟は、頼もしそうな笑顔で声をかける。

「久しぶりだな、兄貴」
「あぁ、久しぶりだな、タケル。こんな状況で帰って来ることになるとは……」

 もともとエイルは(兄や弟とは対照的に)あまり覇気を表に出す気性ではないが、今はいつも以上に、その声に力がない。

「あのユージーンの兄貴が倒れたと聞いたから、何があったのかと思ったんだが」
「そうだな。私も今のところ詳しいことは何も分かっていない。何にせよ、倒れたままでは如何ともしがたい。早く原因を究明したいところなのだが」

 そこまで言ったところで、彼はタケルの後ろに控えているライザーの存在に気付く。

「ところで、そちらの、彼……?」

 エイルはそこまで言ったところで、ライザーの物腰に少々違和感を感じる。神聖学術院の男子制服を着ているが、全体的な雰囲気や体格の細さ、腰の位置などから、女性のようにも見える。

(女性だとしても、あえてそのような姿をしているということは、何か事情があるのだろう。だとすれば、そのことをわざわざ指摘するのも無粋。だが、この場合、「彼」と呼ぶべきか「彼女」と呼ぶべきか……)

 エイルは少し考えた上で、より無難かつ確実な呼称で呼ぶべきだろうと判断する。

「……名前を教えてもらえるかな?」

 ひとまずそう問いかけられたライザーは、かしこまった様子で答える。

「これは失礼しました。私はライザーと申します。日頃、弟君にはお世話に……」

 そこまで言ったところで、部屋の反対側の扉から、一人の女性が現れる(下図)。彼女の名は、ジークリンデ・ベルウッド。聖印教会から「ユーミル大司教」として認定されている聖職者の女性であり、この地区における「教皇の代理人」に相当する人物である。ニカイド家の三兄弟の幼馴染でもあり、特にユージーンとはこの地の布教活動における盟友関係にあった。また、彼女も昨年までは神聖学術院に在籍していたので、タケルにとっては「先輩」でもある。


「あれ? あなた、イーラちゃんよね?」

 唐突にジークリンデはライザーに対してそう問いかける。それに対して、ライザーは露骨に慌てふためいた様子を見せた。

「あ、あの、これは、えーっと……」

 どうやらエイルの直観は当たっていたらしい(「イーラ」とは、アトラタン大陸北岸地域の一部で使われる「女性名」である)。そして、せっかく空気を読んで黙っていたエイルの心遣いは、あっさりと台無しにされてしまった。

「ジークリンデ……、特に呼んではいない筈だが……」

 エイルはため息をつきつつ、唐突に現れた幼馴染の大司教に苦言を呈する。

「客人に突然声をかけるのは失礼であろう」
「あー、ごめんなさい。懐かしかったから、つい。でも、どうしたの? なんか随分昔と印象が変わったけど。お姉さんは元気?」

 どうやら、ライザーが男装をするようになったのは、比較的最近の話らしい。そして「彼女」には「お姉さん」がいるらしい。この辺りの事情はタケルも知らされていなかった話なのだが、立て続けに勝手に事情を暴露されてしまったライザー(イーラ)は動揺を隠しきれずにいた。

「あ、いや、あの、その件に関しては、その、色々ありまして……」

 ジークリンデはライザーが「姉」と共にバルレアを訪れた際に、姉共々助けられた恩人であるが、ライザーは「彼女にとって自分は『これまで助けた数多の少女の一人』にすぎない」と思っていたため、男装状態でも気付く程に鮮明に覚えていてもらえたことに、嬉しさと申し訳なさと恥ずかしさが入り混ざって、完全に思考が停止してしまっていたようである(なお、ライザーとは神聖学術院の在籍機関も若干被ってはいるのだが、学内での接点は無かったらしい)。
 客人(弟の学友)に対しての身内の失礼な物言いに対してエイルは表情を歪めつつ、ひとまず二人の間に割って入る。

「久しぶりに会って懐かしい話もあるだろうから、しばらく別の部屋で話してはどうだ?」

 ライザーの様子から、彼女がタケルの視線を気にしているように見えたこともあり、ひとまずタケルの目の前でこれ以上「何か」を暴露されるのは忍びないと思ったのか、エイルがそう声をかけたのに対し、ライザーはますます恐縮した様子を見せる。

「あ、いえ、そこまで気を遣って頂く訳には……」

 そんな彼女とは対照的に、ジークリンデの方は淡々と答えた。

「いや、私の方も一応、ちょっと色々と伝えなきゃいけないことがあってね。タケルもいるなら、ちょうどいいわ。『あの病気』に関して、色々と分かったことがあるから」

 彼女はそう告げると、エイルとタケル、そしてなし崩し的にライザーも連れて、「謎の奇病」に苦しむユージーンが眠る病室へと向かうことになった。

1.3. 病床の長兄

 病室に到達すると、ジークリンデはベッドの上で意識を失ったまま横たわるユージーンの上着を脱がせつつ、彼の身体を転がすようにうつ伏せ状態にした上で、その背中をエイル達に見せる。すると、そこにはユージーンが日頃掲げている聖印と同じ形の「痣」が出現していた。更に注視して見ると、その痣の部分の肌が、腐敗しかけているように見える。

「これは……」

 エイルがその禍々しい様相に対して絶句する一方で、ジークリンデは淡々と語り始める。

「多分、これは『聖印由来の病気』だと思う」

 ジークリンデ曰く、かつて、同じような病気がこのバルレア地方の君主達の間で出現したという記録があるらしい。当時の聖印教会の見解としては「聖印が人を害する筈がない。このような病気が発現するということは、誤った聖印の使い方をしていたからだ」という解釈論が一般的だったようで、結局、具体的な対策は何も採られることはなかった。今でもそのような形で、一種の「天罰」だと解釈するのが、聖印教会の中では本流の見解らしい。

「だから、これは表沙汰にしない方がいいと思う。不信心者扱いにされかねないから」
「そんな症例があったのか……」

 エイルは博識な学者ではあるが、医学に関してはまだ学び始めたばかりなので、まだそこまでの知識には至っていなかったらしい。

「まぁ、私は幼馴染のよしみで、このことは『上』には伝えないでおいてあげるから」
「すまないな」
「で、たしかバランシェの神聖学術院に、この病気に関して研究していた人がいた筈」

 唐突にその名が登場したことに、エイルとタケルは揃って声を荒げる。

「なに!?」
「そうなのか!?」
「人体学部のカダフィ先生っていう人でね。ホーデリーフェと親しかったから、一応、私も面識はあるのよ」

 ホーデリーフェとは、ジークリンデの双子の妹である。彼女もまた姉と同時期に神聖学術院に留学し、そして現在も教養学部(アメジストの学部)に在籍している。当初から「将来の大司教」となることを示唆されていたが故に実学志向の強かったジークリンデとは対照的に、ホーデリーフェは幅広く様々な異界の文化や芸術を学ぶことに勤しむ、趣味人型の研究者であった。

「より正確に言えば、親しかったというか、『そういう関係』だと噂されてたくらいの間柄だったみたいなんだけどね。詳しくは私も知らないけど……。で、確かそろそろ、ちょうど神聖学術院が新規生徒募集のために学部見学を一般開放してる時期だから、部外者でも話を聞きに行くにはちょうどいいかもしれない。それに、タケルは今も学籍はあるんでしょ?」
「あぁ、まぁ、一応……」

 タケルとしては、自分自身の修行の旅がまだ中途半端な状況で学術院に戻るのは不本意ではあったが、さすがに今はそんなことを言っている場合でもないことは分かっていた。そして、そこにライザーが横から口を挟む。

「そういうことでしたら、私の姉が人体学部にいるので、私が仲介役になれば、話も通しやすいかもしれません」

 彼女はそこまで言ったところで、タケルに対して向き直る。

「今まで黙っていてすまなかったが、実は聖徒会書記のサンドラは、私の姉なんだ」
「え? あの人が……」

 二人がそんなやりとりをかわしている中、兄を救うための手段がようやく見えてきたことでエイルも少し気を持ち直したのか、ライザーに向かって頭を下げる。

「事情はよく分からんが、知人がいるのであればありがたい。協力してくれるのであれば感謝しよう」

 なお、この時点でエイルの中では、神聖学術院との交渉役として、自分が現地に赴く必要があることは既に覚悟していた。タケルも「王族」ではあるとはいえ、あくまで学内においては「学生」の立場にすぎない以上、ここは国を代表する人物として、自分が出向くのが筋であると考えたのであろう。
 そんな決意を固めている宰相の隣で、大司教は改めてライザーに視線を向けつつ、タケルに対して「会話の流れを無視した質問」を問いかける。

「で、タケルが戻ってきたのは分かるんだけど、彼女も一緒に連れてきたということは、これはやっぱり、そういうアレなの?」

 実際のところ、ジークリンデがこの「国家機密」を暴露する場にライザーを連れてきたのは、彼女が神聖学術院の制服を着ていたから、というのもあるが、彼女のタケルを観る視線から、少なくとも彼女の方には「その気」があるように思えたから、という事情もある。

「ん? 何を言っているんだ?」

 本気で意味が分からず首を捻るタケルの横で、ライザーは顔を紅潮させながら両掌をジークリンデに向けて激しく震わせながら否定する。

「い、いやいやいや、あの、ちちちちちち違います、違います。あの、あの、彼には、他にちゃんと、心に決めた方がいますので……」

 タケルはライザーに「そのこと」を話した覚えはないのだが、どうやら旅立つ前に彼女は「彼に関する諸々の噂」を調査していたらしい。

「なに? そうなのか?」

 今度はエイルがタケルに食い気味に問いかけてきた。

「今は関係ないだろ、そんなこと。今はまず、ユージーンの兄貴のことの方が優先だろ?」
「そうだな。まず今はそちらを先に考えるとしよう。だがしかし、こういう時だからこそ、考えておかないといけないことでもあるからな」

 実際、ユージーンにもしものことがあった場合、後継者問題はどうしても発生する。分家筋まであたれば後継者候補がいない訳ではないが、本家の三兄弟がいずれも独身という現状は、あまり好ましい話ではない。

「兄貴だって似たようなものじゃないか」
「いや、私は結婚する訳にはいかん」

 エイルとしては、自分が兄に先んじて子供を作ると後継者問題が複雑化すると考えているらしい。その意味では、国主でありながら独り身であり続けているユージーンが諸悪の根源なのだが、彼は彼であまりにも殉教者精神が強すぎるが故に、見合いを進められても「バルレアの瞳を攻略するまでは、そのようなことにかまけている暇はない」の一点張りであるという。

(まったく、この兄弟は揃いも揃って……)

 ジークリンデは内心で改めて呆れ果てている。ジークリンデとホーデリーフェは、先代ユーミル大司教であった父から「今後の聖俗協力関係の強化のために、ニカイド家の三兄弟のいずれかの許に嫁ぐように」と促されていたのだが、幾度となく縁談を仄めかすような話題を振っても三人とも全く「その気」が感じられなかったので諦めた、という経緯がある。
 ともあれ、ひとまずはユージーンの病気を治すための手がかりを掴むため、エイルとタケルはライザーと共に神聖学術院へと向かうおいう方針を固め、ジークリンデに後のことを任せた上で、弟二人は病床の兄にもひとまずの別れを告げる。

「必ず治すから、しばらく待っていてくれ」
「待ってろよ、俺が絶対、助けてやるからな」

 そう言って二人はライザーと共に病室から退室し、廊下に出たところでエイルは二人に改めて語りかける。

「私がしばらくここを離れるとなると、仕事の引き継ぎが必要だ。私は今からそれを早急に済ませて来る。ライザー殿には客室を用意するから、出発の日まではそちらを使ってくれ。タケル、お前の部屋は、そのままにしてあるから」
「助かります」
「ありがとな、兄貴」

 一方、三人のそんな会話を扉越しに聞きながら、ジークリンデは小声で呟く。

「せめてタケルには、きちんと『所帯』を持ってもらわないと、この国、どうなるか分からないしね……」

 その僅かな希望を「イーラ」に託しつつ、心の奥底で彼女は「本音」を述懐する。

(別に、私でも良かったんだけどな……)

 この時、彼女の心の中で思い描かれていたのが「三人」の中の誰だったのかは、後世の歴史家達も誰一人として解き明かすことが出来ない、永遠の謎である。

1.4. 令嬢学長

 それから数日後、エイル、タケル、ライザーの三人はブレトランド北部を支配するアントリア子爵領へと到達し、同国の中心部に位置するバランシェ神聖学術院へと近付きつつある中、同学内の人々は、外来の人々を対象とした体験入学会の準備で奔走していた。
 バランシェ神聖学術院は、その名の通り、バランシェの街の中心に位置する学術機関であり、聖印教会内でも混沌に対して寛容な姿勢を示す月光修道会が出資者となって設立され、この街の領主が学長を務めている。約一年前に先代学長ミリシーズが混沌災害によって急死し、その後を継いでこの街と学術院を統括することになったのが、当時まだ18歳で、生命学部(エメラルドの学部)の一学生の身分にすぎなかった、ブランジェ・エアリーズという女性である(下図)。


 彼女はアントリア騎士団副団長アドルフ・エアリーズの長女であり、一年前の混沌災害を鎮める際に活躍した「自力で混沌から聖印を作り出した三聖者の一人」として、学内の人々から圧倒的な支持を受けて後継者に選ばれるに至った(なお、残りの二人のうち、一人はタケルであり、もう一人は現在のヴァレフール騎士団副団長レヴィアンである)。
 そんな彼女の傍らには、神聖学術院の学生達の代表機関である「聖徒会」で書記を務めるサンドラ(下図)の姿があった。彼女は人体学部(ルビーの学部)所属の学生であり、ライザーの実姉でもある。神聖学術院では、教員以外は原則として学内での聖印の所持は認められないが、彼女を含めた聖徒会役員の四名だけは例外的に学長からの従属聖印を受け取れる立場であるため、現在、彼女は学内における警備隊長としての役割を担っている。そしてまた、彼女は学長ブランジェの「恋人」でもあった(その詳しい関係についてはブレトランドの光と闇4を参照)。


 この日もブランジェは自身の学長室にサンドラを招いて、優雅な朝の紅茶を楽しんでいたが、その「恋人」から、あまり聞きたくない言葉を聞かされる。

「学長、もうすぐ次の体験入学希望の方々の説明会になりますので、軽く一言ご挨拶して頂くだけで結構ですから、ご出席頂けますか?」
「そうね、やらなければいけないものね……」

 ブランジェは、そういった形での「不特定多数への挨拶」は苦手らしい。同世代や年下の女学生達を相手に語らうのは得意分野だが、今回は体験入学希望者の保護者の人々も同席し、その中には各国の有力な貴族も含まれているであろうことを考えると、迂闊な発言は控えなければならない。必然的に、多方面に気を使った発言が求められることになる。
 どのような言葉でお茶を濁せば良いものか、とブランジェが思考を巡らせる中、ふと改めて「恋人」のサンドラの様子を見ると、彼女もまた、どこか疲れたような表情を浮かべている。

「サンドラちゃん、大丈夫? 顔色が悪いみたいだけど……」
「あ、はい。ご心配には及びません。学内警備の強化のために、ここ数日仕事が増えていたので、それで少し疲れが出ているだけです」

 学外から様々な人々が来訪する以上、当然その中には、様々な勢力からの密偵が紛れ込んでいる可能性は十分にある。実際に、彼女自身の妹(イーラ/ライザー)が潜入していた過去もある以上(本来ならばそれを取り締まるべきところを、あえて見逃していたのは彼女の私情による勝手な裁量なのだが、その点はブランジェも許していた)、入念にその対策を講じておく必要はある。

「実際、不確定情報ではありますが、既に学内で怪しげな人物を見かけたという話もあります。どうか学長もお気をつけ下さい」

 サンドラはそう告げて、警備任務のために一足先に学長室から去って行く。そんな恋人の後ろ姿を、ため息交じりに見送るブランジェであった。

1.5. 母娘君主

 同じ頃、神聖学術院の入口付近では、体験入学希望者とその保護者や関係者の人々が長蛇の列を形成しつつあった。入学希望者の大半は子供達だが、中には成人済みの学徒や、老後の趣味の一環で学問を志そうとする熟年層の面々の姿もあった(半年ほど前に、ヴァレフール騎士団の先代副団長が学生として入学したという噂が、こういった傾向を生み出したという説もある)。

「体験入学希望の方は、こちらで受け付けています! 聖印をお持ちの方は、こちらの列にお並び下さい!」

 来客達に対してそう叫びながら誘導しているのは、聖徒会で会計を務める経営学部(キャッツアイの学部)所属の学生・シャルルである(下図)。彼は、体型的には通常の人間の少年と変わらない風貌だが、その頭部には獣のような耳が生えており、その姿は来客者達を驚かせる。


「なんだ、あいつ?投影体か?」

 来客達の一部はシャルルを見てそう訝しむが、彼はその獣耳の上に、れっきとした聖印を掲げていた。彼はアロンヌ地方出身の「投影体の血を引く少数民族」の末裔であり、その姿は「獣人」と呼ばれる投影体(もしくは邪紋使い)に酷似しているが、既に何世代にも渡ってその祖先の投影体の特徴が受け継がれた結果、既にそれが「混沌による一時的変異」ではなく、この世界の秩序体系の中に溶け込まれた一つの遺伝子として定着している。本来は混沌と相容れない筈の聖印を掲げていることこそが、まさにその証明であった。
 無論、聖印教会内において、そのような「混沌によってもたらされた特徴」をその身に残す一族の存在を許すか許さないかに関しては、それぞれの宗派ごとに異なる見解が存在する。だが、この神聖学術院の主な出資者である月光修道会は、聖印教会内でも最も寛容な宗派と言われており、彼のような存在が聖徒会役員として選ばれていること自体が、学術院としての方針を体現しているとも言える。
 そして、彼によって誘導された二つの列のうち、「聖印をお持ちの方」の列に並んだ人々は、入口受付にて「命の危険が発生した時以外は、聖印は使わない」という旨を記した誓約書への署名を求められていた。上述の通り、本来は学内では教員と聖徒会役員以外の聖印所持は禁止であり、聖印を持った者が入学する場合は一度聖印を他者に預ける義務があるのだが、さすがに体験入学のための来客者にそこまで求めるのは難しいため、このような形での妥協策が施行されることになったのである。
 そんな中、聖印所持者の列に並んでいた「重装備に身を包んだ一人の女騎士」(下図)が、自身の署名の順番が回ってくる直前で、列を整備しているシャルルに問いかけた。


「聖徒会長さんは、どちらにいらっしゃるのかしら?」

 そう問いかけた彼女の足元には、10歳前後くらいの一人の小さな少女もいる(下図)。この二人が「体験入学希望者」とその母親であろうと想定した上で、シャルルは答えた。


「この後、月光講堂にて皆さんを相手にご挨拶させて頂く予定です」

 彼がそう答えたところで、順番が回ってきたその子連れ騎士は誓約書を受け取ると、それを娘に手渡した上で、もう一枚誓約書を要求した。その様子に、シャルルを含めた周囲の者達は驚いた表情を浮かべる。

「そちらの娘さんも、なんですね」

 シャルルがそう告げると、「娘」は実際にその小さな掌から聖印を発現させた。シャルル自身も「子供」に分類される年齢ではあるが、その彼よりも明らかに年下の幼女がサインをしている様子は、改めて周囲の者達を驚かせている。そして彼女達は署名を終えたところで「来客君主」と書かれた腕章を手渡された。同じ腕章を渡された者達の大半は壮年の男性達なので、この母娘がその腕章を装着している様子は、嫌が応にも周囲の目を引くことになる。
 この女騎士の名はウルスラ。そして、娘の名はラーヤ。血脈的にはブレトランド中西部に位置する(始祖君主レオンの生誕の地と言われる)フォーカスライト大司教家の血を引く二人であるが、今はその身分を明かさず、流浪の君主として各地を転々としながら、その聖印の力を用いて様々な人々を助ける、そんな旅を続けている。昨年、大陸北部のヴァンベルグの港町ハルペルにて開催された始祖君主レオンの生誕祭で、この学術院の聖徒会長であるエルリックがラーヤに体験入学を勧められたことで、今回の体験入学会に足を運ぶことになったのである(その過程はブレトランドの光と闇6参照)。
 これまでずっと母と娘だけの二人旅を続けてきたことで、ろくに同世代の友人を作る機会が得られなかったラーヤにとっては、今回の体験入学は人生の大きな転換点になるかもしれない。だからこそ、この学術院が「娘を安心して任せて良い機関」か否かを、この機会にしっかりと見極めなければならないとウルスラは考えていた。

1.6. 遍歴の司祭

 受付を終えた来客達が、歓迎の挨拶と諸説明を聞くために、学内の中心地に位置する月光講堂へと誘導され、徐々に列が残り僅かとなっていく中、先刻のウルスラとラーヤのちょうど中間くらいの世代の女騎士(下図)が、列の整理を続けていたシャルルの前に現れた。


「体験入学希望の方は、こちらへどうぞ」

 そう言われた彼女は、どう答えるべきか少々迷いつつ、シャルルに問いかける。彼女がこの地に来た目的は、体験入学とは全く別の別件であった。

「すみません、少しお尋ねしてもよろしいでしょうか?」
「なんでしょう?」
「お忙しい時に来てしまって、申し訳ないのですが、こちらの学長先生にお伺いしたいことがありまして」
「ほう?」
「私は、月光修道会の司祭のシェリア・ルオーネと申します。先日辞任されたベスダティエ司教の後任を巡る問題に関して、学長殿にご相談させて頂きたいと考えています」

 ベスダティエ司教とは、この神聖学術院の出資団体である「月光修道会」を統括する立場にあった聖印教会の君主であるが、先日、ブレトランド南部のヴィルマ村の付近で発生した「とある事件」(ブレトランド another内の「ブレトランド開拓記」5・6話参照)を契機にその地位を退くことになり、現在、月光修道会の代表者の座は空席となっている。
 シェリアはその事件の収拾に協力した月光修道会の君主の一人であり、序列としては「司教」の一つ下に相当する「司祭」の立場であるが、今のところいずれの教区を統括する立場にもなく、世界各地を遍歴して人々を助ける任務に当たっている。彼女としては、このまま月光修道会が責任者不在の状態が続くことは望ましくないと考え、ひとまず各地の月光修道会系の有力者達に、次期代表の選出に関する意向を確認するために、まずはこの学術院の統括者であるブランジェに話を聞こうと考えたらしい(なお、彼女には「ノア」という名の邪紋使いの侍従の少年がいるが、神聖学術院は邪紋使いや魔法師が足を踏み入れることを原則禁止しているため、今回は学外の宿屋で待機していた)。

「なるほど。分かりました。では、とりあえず、こちらへどうぞ」

 そう言って、シャルルはシェリアに「来客君主」の腕章を手渡した上で、月光講堂の近くにある聖徒会施設の来客室へと案内する。彼にとっては全くもって想定外の来訪者であったが、月光修道会の未来に関わる案件をもたらす使者ということであれば、丁重に対応する必要がある。既に体験入学者達の列は収束に向かっていたこともあり、彼は一般生徒達にその場を任せて、自らシェリアを客室へと護送することにしたのであった。

2.1. 二人目の発症者

「この神聖学術院は、唯一神様の加護の下、様々な知識を学ぶための学術機関です」

 月光講堂内の大ホールにびっしりと敷き詰められた椅子に着座した来客者達を前にして、聖徒会長のエルリック・エージュ(下図)は爽やかな笑顔を浮かべながら、そう語り始めた。


「今のこの世界は、混沌によって支配されています。しかし、それでも我々はこの世界で生き続けることが出来ました。それはなぜでしょうか?」

 言葉の上では「問いかけ」の形式になってはいるが、その答えは、聖印教会の者達であれば誰もが認識を共有している。もっとも、体験入学の希望者は聖印教会の信徒だけではないため、この点に関して、エルリックは明確に「神聖学術院としての見解」を伝える必要があった。

「それは、この世界を作り出した唯一神様が、我々に力を与えて下さるからです。それが最も分かりやすい形で我々の目の前に現れたのが『聖印』です。しかし、唯一神様から与えられた力は、それだけではない。そもそも我々人間自身が、知性を有し、道具を用いることが出来ること自体、唯一神様が我々をそのようにお創りになられたからです。では、なぜ唯一神様はそのような我々をお創りになられたのでしょう?」

 この「問いかけ」に関しては、少し間を開けた上で、エルリックは話を続ける。

「その答えは誰にも分かりません。しかし、分からないからといって、それは探し求めることを放棄する理由にはなりません。むしろ神の御意志を知るためのあくなき探究心こそが、この世界の真理の追求へと繋がり、それが『聖印を初めとする様々な技術』の確立に繋がってきた。この神聖学術院は、そんな探究心ある人々のための学び舎です」

 エルリックがそこまで言ったところで、来客の中から、明らかに聖印教会の関係者と思しき風貌の人物から、唐突に質問を投げかけた。

「今の発言は、少し引っかかる。まるで魔法や邪紋も『神のお造りになられた力』であるかのようにも聞こえる説明だが、それがこの神聖学術院の見解、ということなのか?」

 それに対してエルリックは、穏やかな笑顔のまま柔らかい口調で答える。

「あくまで私の見解ですが、それに関しては、今の時点では明確な結論は出せません。ただ、今のところは危険な可能性が高く、実際に多くの事故や暴走が起きている以上、学生の安全の確保のために、この学術院では暫定的な措置として、魔法師の方や邪紋使いの方のご来場はお断りしております」

 月光修道会が出資者ではあるものの、他宗派の信徒や、そもそも聖印教会信徒ですらない学生もいる以上、学生の代表であるエルリックとしては、明確に特定の教義解釈を掲げる訳にはいかない。故に、宗教的原理ではなく、あくまでも「安全性の確保」という理由を掲げた上で、実質的に聖印教会の最大公約数的な方針に従うというのが、聖徒会会長としての彼の処世術である。
 エルリックのその説明に対して、質問者は納得したのかしていないのか微妙な表情を浮かべつつも沈黙したため、彼はそのまま話を続けた。

「無論、その過程で道を誤った人々は『誤った技術』に手を染めることもある。その結果として、この世界が更に危険な道へと辿ってしまう可能性もある。もっとも、何が正しい力で、何が誤った力なのか、ということについても、神の身ならざる私達に計り知れることについては、限界もあるでしょう。それでも、その限界の可能性を広げていくために学び続けることこそが、この神聖学術院の設立理念なのです」

 エルリックはそこまで述べた上で、傍らに座っていた(同世代の)学長に視線を向けた。

「では、次に、この学術院の学長にして、このバランシェの町の領主でもあるブランジェ・エアリーズ様からお言葉を賜りたいと思います」

 彼女が登壇する様子を目の当たりにした来客の一部からは、にわかにザワつき始める。

「あれが学長?」
「若すぎないか?」

 そんな彼等を前にして、ブランジェは意を決して苦手な「全体挨拶」を始める。

「皆さん、ようこそ神聖学術院へ。皆さんが将来を決める上で、この体験入学が一つの……」

 ブランジェがそこまで言ったところで、自身の視界内で起きた「異変」に彼女は気付いた。会場の奥で警備を担当していたサンドラが、明らかに気持ち悪そうな顔をしながら、フラついた足取りで会場の外に出ていく姿が見えたのである。

「……好機となることを願っています」

 ブランジェはそこまで言い終えたところで、あっさりと挨拶を切り上げて、足早に舞台裏へと消えていく。あまりにも短すぎる挨拶に会場内に困惑する空気が広がっていることにも気付かぬまま、彼女は講堂の裏口から外へと走り出した。そんな中、たまたまちょうど受付業務を一通り終えて行動に向かおうとしていた会計のシャルルが、裏口から出てきた彼女に声をかける。

「あ、学長。さきほど、月光修道会のシェリア司祭という方が面談を……」

 シャルルは彼女にそう語りかけたが、その声にも(シャルルの存在自体にも)ブランジェは全く気付かぬまま、一目散に講堂の反対側へと激走する。
 すると、そこには真っ青な形相で倒れているサンドラの姿があった。

「サンドラちゃん、どうしたの!?」
「すみません、なんだか分からないんですが、急にこのあたりが苦しく……」

 サンドラは、左肩を抱えながらそう答えつつ、苦悶の表情を浮かべ、そして意識を失う。まだ息があることは確かだが、明らかに体力が衰弱していることも間違いない。ブランジェはひとまず自身の聖印の力を用いて彼女の体力を回復させようとするが、「治癒の力」を宿している筈のブランジェの聖印を持ってしても、全く回復する気配が感じられない。
 これは通常の怪我や病気ではないと判断した彼女は、サンドラの上着を脱がした上で、シャツのボタンを緩めて彼女の左肩をはだけさせると、そこには「聖印の形をしたドス黒い痣」が広がっており、その痣の部分の肌が腐りかけているように見えた。
 毒物の専門家であるブランジェは、かつて似たような症状の病気がバルレア地方で流行したことがある、という話を聞いたことがあった。ブランジェは顔面蒼白になりながらも、必死で彼女を救う方法を考える。そして、偶然にも数日前に確認した教員達の研究実績一覧の中に、人体学部のカダフィがこの病気についての論文を発表している、という記事があったことを思い出した。
 ブランジェは即座に学長権限で来客用の馬車を借り、サンドラを乗せて(やや離れた場所に位置している)人体学部へと向かっていった。

2.2. 子供達の邂逅

 あまりにも短い学長挨拶に戸惑っていた来場者達に対して、何事もなかったかのように続いて登壇した職員達によって「学内見学」に関する諸注意を伝えられた後、来客者達には自由に見学したい学部へ向かうように示唆された。
 ラーヤとウルスラは講堂を出た後、設置されている学内地図を見ながら、まずどこから行こうかと相談を始める。そんな中、豪奢な貴族服をまとった、ラーヤより少し年上くらいと思しき一人の少女(下図)が語りかけてきた。


「あら、あなた、私とあまり歳が変わらないみたいだけど、聖印持ってるの?」

 彼女の目には、ラーヤの腕に装着された「来客君主」の腕章が目立って見えたらしい。

「はい。あなたは?」
「私はローズモンド伯爵領の宰相を務めるアルフォート子爵家のエリーゼよ。そちらが、あなたのお母様?」

 その少女から視線を向けられたウルスラは、笑顔で頷きながら答える。

「はじめまして。あなたも、この学術院に通うつもりなのかしら?」
「まぁ、随分熱心に勧誘してもらったからね。一度くらいは顔を出してみてもいいかな、と」

 少し照れたようにそう語るエリーゼの話ぶりから、おそらく彼女を勧誘したのも聖徒会長のエルリックなのだろうな、とウルスラは推察する。そんな彼女の背後から、一人の「お付きの者」と思しき中年男性が、やや心配そうな表情を浮かべながら語りかけてきた(なお、彼女には「ヴェルトール」という名の邪紋使いの執事の青年がいるが、神聖学術院は邪紋使いや魔法師が足を踏み入れることを原則禁止しているため、今回は学外の宿屋で待機していた)。

「その歳でもう聖印を授かっているということは、さぞや御高名な君主家の方なのですよね?」

 彼の目には、その点が心配に思えたらしい。もしウルスラ達が伯爵家以上の家格出会った場合、エリーゼのこの態度は(子供の発言とはいえ)明らかに無礼かつ不遜である。

「そうでもないわ。私と娘は大した家柄もない、ただの自由騎士よ」

 ウルスラがそう答えたことで、その男性は安堵の表情を浮かべる。実際には、彼女の実家であるフォーカスライト大司教家は聖印教会内の位階としてはかなりの高位なのだが、彼女自身はあくまで「自分は家を捨てた身」と考えているため、彼女にとってはこれが真実なのである。

「そっか、本当に色々な人達がいるのね」

 エリーゼがそう呟いたところで、彼女達の後方から、今度はラーヤよりも年下と思しき少年(下図)が声をかけてきた。


「ねえねえ、そこのおねーちゃん達、ちょっとお菓子貰いすぎちゃったんだけど、一緒に食べない?」
「お菓子!?」

 誰よりも早く反応したのは、ラーヤでもエリーゼでもなく、ウルスラであった(彼女は極度の甘党である)。実際、その少年の手には大量の菓子類が抱えられている。

「さっき、そこでね、オータグァワさんって人が、子供向けにお菓子を配ってて、それで、貰うために何回も何回も並び直してるうちに、一緒に来た子達とはぐれちゃってさ。みんなにあげようと思ってたんだけど、渡す相手がいなくなっちゃったから」

 どうやら、彼等は少し遅れて到着した結果、講堂に入りきらず、その代わりに学内の職員達が子供向けにそういったサービスを提供していたらしい。

「む、無駄にするのも、勿体無いし、貰っておくわ」

 ウルスラがそう言うと、その少年は彼女達に菓子を次々と渡していく(なお、彼にとってウルスラが「おねーちゃん達」の範疇に含まれるのかどうかは不明である)。そして、一通り配り終わったところで、エリーゼが皆に提案した。

「もしよかったら、一緒に回らないかしら?」
「そうね。私も、同じくらいの歳の子達と話してみたかったし」
「まぁ、どうせ一緒に来た子達もどこにいるか分からないし、僕も僕でおねーちゃん達と一緒に勝手に回るよ」

 こうして、たまたまこの場で出会った三人の子供達は、それぞれの保護者と共に学内を同行することになった。
 ちなみに、この少年の名はグリン。このバランシェの西方に位置するマージャ村の孤児院の一員である。彼が言うところの「一緒に来た子達」とは、同じ孤児院の仲間達であり、この時点で彼等はグリンのことを必死に探し回っていたのだが、彼はそんなことは一切気にせず、この「偶然出会ったおねーちゃん達」と楽しく遊べればそれでいい、と考えていた(なお、彼には「ティリィ」という名の邪紋使いの保護者の少女がいるが、神聖学術院は邪紋使いや魔法師が足を踏み入れることを原則禁止しているため、今回は学外の宿屋で待機していた)。

2.3. 謎の蝶

「すみません、学長はちょっと急用で人体学部の方に向かわれまして……」

 月光講堂の近くの施設内の待合室でブランジェとの対談のために待機していたシェリアに対して、講堂から戻ったシャルルが申し訳なさそうな顔を浮かべながらそう告げた。

「そうなると、あまり長く待たせてもらっても悪いし、出直した方がいいですか?」
「……そうですね。もしかしたら、しばらく向こうに残る可能性もあるので」

 シャルルは詳しい事情までは聞かされていないが、少なくとも「倒れたサンドラを連れてブランジェが人体学部へ向かった」という話までは聞いている。「恋人」の身に異変が起きたとなれば、よほどのことがない限り、学長を呼び戻すのは難しいだろうと彼は判断していた。

「それなら、直接お会い出来るのは、もう少し先になりそうですね。要件だけは伝えておくので、こちらを渡して頂ければ」

 そう言ってシェリアは、その場で手紙を書き始める。

「どちらにせよ、しばらくはこの街に滞在しているので、時間がある時にでもお会いして頂ければ結構です」
「分かりました。滞在場所を教えて頂けますか?」
「はい、その宿の名前もこちらに書き記しておきます」

 そう言って彼女は手紙を書き終えた上で、ひとまず待合室から退出し、一旦その宿屋へと帰ることにした。

 *******

 その頃、エイル、タケル、ライザーの三人もまた月光講堂の隣の学務施設へと到着していた。彼等が面会を希望しているカダフィが所属する人体学部は、この「本部」に相当する地区からはかなり離れているが、外来客はまずこちらで来場者登録をするのが原則となっている。

「ここもなんだか、久しぶりな気がするな……」

 タケルが感慨深く呟く横で、エイルは淡々と外来受付の書類に記入している。

「ところで、休学はしばらく続けるつもりなのか?」
「そうだな……、まだちょっと色々探してみたいものもあるから」
「分かった。仮に何か失敗することがあっても、こちらの方でなんとかするから、好きな様にやるといい」
「ありがとう」

 そんな兄弟のやりとりをライザーは穏やかな笑顔を浮かべて眺める中、無事に許可証を得た彼等は、人体学部へ向かうことになった。

 ******

 一方、講堂の近くの広場を歩きつつ、まずは最寄りの経営学部へと向かおうとしていたラーヤ達の中で、グリンが奇妙な浮遊物に気付く。

「あそこに、すごくおっきな『ちょうちょ』がいるよ!」

 そう言って彼が指差した先には、小型の鳥と見紛う程の大きさの蝶が飛んでいた。それは明らかに「自然界に生息する蝶」ではない。無邪気に喜んで追いかけようとするグリンとは対照的に、ラーヤは警戒心を強める。

「お母様、あれ、普通の蝶じゃないですよね」
「……離れた方がいいわ」

 ウルスラがそう答えて聖印を掲げたところで、その大型の蝶が禍々しいオーラを放ちながら、ウルスラに向かって襲ってくる。

「三人共、離れて!」

 彼女が子供達に対してそう告げると、すぐさま彼等は言われた通りにウルスラから距離を取る。彼女のその声は近辺の人々の耳にも届き、その中には、人体学部へ向かおうとしていたエイル達の姿もあった。彼等もまた、その「声の主」の近くにいる蝶が危険な混沌の気配を漂わせていることに気付く。

「これは……、タケル!」
「行くぜ、兄貴!」

 彼等はそう言って、聖印を掲げながら駆け出し、一歩遅れてライザーもその後を追う(彼女もまた聖印を有してはいるのだが、そのことは極秘事項のため、この場では発動出来ない)。
 だが、彼等が到着するよりも早く、ウルスラに対して蝶が襲いかかる。彼女の聖印は防御に特化した聖印であったため、その蝶が繰り出す謎の鱗粉による毒素を弾き飛ばすが、長年混沌と戦い続けた彼女は、この毒素は子供が触れれば即死する程の危険な力であることを察知する。
 これは即座にこの蝶を浄化しなければならないと判断したウルスラであったが、彼女よりも、そして駆け付けようとしていたエイルやタケルよりも早く、その蝶に向かって一筋の光の矢が放たれた。その矢を放ったのは、一旦宿に帰るために学術院から退出しようとしていたシェリアである。彼女もまた、危険な混沌の気配を察知して、自身の聖印から作り出した犬狼に乗った状態から、弓矢で蝶を射抜こうとしたのである。だが、その矢は蝶には命中せず、寸でのところで避けられてしまう。
 しかし、エイルはこの瞬間「自分とタケルが蝶の元へ到着するよりも、彼女にもう一度矢を撃ってもらった方が早い」と判断し、自らの聖印の力により、遠方にいた謎の女弓手(シェリア)の周囲の時の流れを逆行させ、彼女に「第二射」を促す。即座にその意を察したシェリアは、今度は着実に蝶に命中させるために、より強力な聖印の力を込めて二連射を放ち、見事に蝶の体を貫くことに成功する。そして、蝶はその場で一つの混沌核へと姿を変えていった。

2.4. 不気味な混沌核

「この場に、学術院の関係者の方は?」

 目の前で蝶が混沌核へと変わったのを確認したウルスラは、周囲に確認する。混沌核を放置しておくと新たな混沌災害の危険が発生する以上、誰かが浄化する必要がある。当然、ウルスラにもそれは可能だが、混沌核の浄化吸収は聖印の成長にも繋がるため、その「功績」を獲得すべきはまず学内関係者であるべき、というのが彼女の判断であった。
 しかし、誰も手を上げない。シェリアとエイルは完全な「部外者」であるし、タケルとライザーは休学中の身である(しかも、ライザーは聖印を持っていることを表に出せない立場である)。そうなると、浄化吸収の優先権は誰にもない。しいて言えば実際に蝶を倒したシェリアであろうが、彼女もその点に関しては特にこだわりはなかった。

「関係者の方がいないなら、我々で浄化すれば良いでしょう」

 シェリアはそう言って、この場で聖印を持つ者達が同時に掲げて共同浄化することを提案する。実際、最大功労者である彼女がそれで良いというのなら、それが一番カドが立たない方針であろう。
 だが、皆がそれに同意して聖印を掲げようとしたところで、ウルスラはその混沌核から「奇妙な気配」を感じ取った。それが何なのかは分からないが、彼女の脳裏に「嫌な予感」が湧き上がる。

「待って!」
「どうかされましたか?」

 シェリアがウルスラにそう尋ねると、ウルスラは深刻な表情で皆に訴える。

「この混沌核、普通とは違うみたい。浄化しようとすると、何か嫌なことが起こりそう」

 ウルスラも、なぜ自分がそう思うのかは分からない。だが、彼女の発言には奇妙な説得力があった。この場にいるラーヤ以外の誰一人として彼女の素性も経歴も知らないが、彼女の立ち振る舞いから漂う歴戦の自由騎士としての風格が、ただならぬ雰囲気を醸し出していたのである。

「取り込むのはよくなさそう、ということか」

 エイルはそう言って、ひとまず掲げていた聖印を下ろす。しかし、だからと言ってこのまま放置して良い話でもない。
 そんな彼等が対応に困っているところへ、騒ぎを聞いた聖徒会会計のシャルルが、猫系と思しき正体不明の獣に騎乗した状態で駆け込んできた(彼もまた、聖印の力によって特殊な乗騎を作り出すことが出来る君主である)。

「皆さん! 大丈夫ですか!」

 既にその手には聖印が掲げられており、混沌核を発見した彼は、自らの聖印でその混沌核を浄化吸収しようとするが、その間にウルスラが割って入る。

「この混沌核を吸収すると、よくないことが起こると思うわ。普通とは違うもの」

 彼女のその発言は、シャルルにも確かに説得力のある言葉のように聞こえた。だが、それでも彼は聖印を掲げて混沌核へと近付く。

「それなら、なおさらその混沌核を浄化するのは私の義務です!」

 どちらにしても放置することは出来ない。その上で、仮にそれが「危険な行為」だとするならば、学外の人々にやらせる訳にもいかない以上、自分がやるしかない。それは、神聖学術院において特権的立場にある聖徒会役員としての当然の矜持であった。そして、彼がそこまでの覚悟の上で浄化吸収を敢行するのであれば、「客人」であるウルスラにはそれを止める権利はない。
 ウルスラが脇に退き、シャルルがその混沌核を吸収していくのを眺めながら、エイルはシャルルに対して頭を下げる。

「申し訳ありません」

 彼が謝るべき理由は何一つないのだが、おそらくそれは、自ら危険な行為を敢行するシャルルへの敬意としての意味を込めた謝辞なのだろう。

「で、この混沌核は、元は何だったのですか?」

 浄化を終えたシャルルがそう尋ねると、ウルスラが答えた。

「大型の蝶のようなものを発見しまして」
「蝶、ですか……」

 そう言われても、シャルルとしてはいまひとつ心当たりが無さそうな様子である。その上で、彼は神妙な表情を浮かべながら、この場にいる「聖印を掲げていた面々(エイル、タケル、シェリア、ウルスラ)」に対して、こう告げた。

「私は皆さんのことは『良識ある君主の方々』だと信じてはいますので、本当に『聖印を使わなければならない危険な状態』だったのだとは思いますが、一応、その時の状況を確認しなければならないので、学長立会いの下での事情聴取への協力をお願いします」

 学内での聖印の使用は「命の危険が発生した時」に限るという規則がある以上、シャルルとしては、その点に関して慎重に確認する必要がある。無論、彼等が言うところの「蝶」の正体を確かめるためにも、彼等の証言が必要となることは言うまでもない。

「それが必要なのは、こちらも理解しています」

 シェリアはそう答える。むしろ、学長と直接的に話をする機会が得られるのは、彼女としては好都合であった。
 エイル、タケル、そして(聖印を出してはいないが)ライザーも関係者および目撃者としてシャルルの意向に同意する一方で、ウルスラは一旦(先刻まで遠くに避難していた)ラーヤに視線を移す。実は彼女も自身の聖印を持ってはいるが、この時点では掲げていないので、今回の事件とは直接的には無関係である以上、任意同行の必要はない。

「私は、どうすればいいのかな?」

 彼女はそう言いながら、少し離れたところにいるエリーゼやグリンに視線を向ける。ウルスラはエリーゼの「お付きの人」に目配せした上で、ラーヤに提案する。

「せっかくの機会だから、あなたはあの子達と一緒に回ってきたらどう?」

 ラーヤは笑顔で頷き、エリーゼ達の方へと向かって走り出す。そして、ウルスラはシェリアやエイル達と共に、月光講堂の近くの施設内に位置する学長室へと向かうことにしたのであった。

2.5. 禁忌の選択肢

 その頃、学長であるブランジェは、人体学部に到着したと同時に、サンドラを背負ってカダフィの研究室のある建物へと直接駆け込んだ。今のサンドラが聖印教会の教義的に「不信心者」の烙印を押されかねない症状であることから、カダフィ以外の医師に見せることは避けた方が良いとブランジェは判断したのである。
 階段を駆け上がり、二階に位置するカダフィの研究室の扉を開けると、そこには、うだつの上がらなさそうな風貌の教員であるカダフィ(30歳後半)と、見覚えのない「赤毛の少女」の姿があった。机の上には謎の書類が山積みとなり、壁の棚には怪しげな薬が並び、そして脇には診療用のベッドが置いてある。

「おや、学長様ご自身が、このようなところに来られるとは……」

 息を荒げて駆け込んできたブランジェの鬼気迫る表情を目の当たりにしながらも、カダフィは淡々とした物腰で彼女に語りかける。

「背中に背負っているのは、サンドラさんのようですね。今、彼女はどのような状態に?」
「私が挨拶をしている時に、急にふらふらと外に出て、そこで倒れていたの。ひとまず、この状態を見て」

 ブランジェは焦燥した表情を浮かべながらそう言いつつ、意識を失ったままのサンドラを診療用のベッドに横たわらせた上で、左肩の部分の制服をはだけさせて、「聖印型の痣」をカダフィに見せる。すると、彼の目の色が変わった。

「これは……、かなり進行していますね。というか、私の研究のことまでご存知でしたか。まだ就任されたばかりの学長様が、そこまで把握されておられたとは」

 この病気自体が聖印教会の中ではダブー視されていることなので、カダフィがこの病気の研究をしているということも、あまり知られてはいない。ブランジェが生命学科(もしくは人体学科)出身の学長でなければ、彼の論文のタイトルだけを見ても、その意味を理解することは出来なかったであろう。

「何か、良くなる方法はないかしら?」
「今のこの症状を抑えること自体は、おそらく可能です。というよりも、大変不謹慎ながら、それが可能かどうかを確かめる機会が訪れたことを、私は喜ばしく思っています」

 研究者特有の好奇心に満ち溢れた本音を包み隠さず口にするカダフィに対し、ブランジェは憤りを感じながらも、ひとまず今は彼を頼るしかない以上、黙って彼の話を聞き続ける。

「とりあえず、私の精製した薬を処方させていただきます。これは特殊な病気ですので、学長様も、一旦この研究室からはお下がり下さい」
「そばにいることは、ダメかしら?」

 ブランジェは、サンドラへの愛が込められた鬼気迫る表情でカダフィに対してそう訴える。彼女のその圧力に押し切られる形で、カダフィもこの場は折れることにした。

「分かりました。では、そこで見ていて下さい」

 彼は学長に対してそう告げると、先刻から黙って傍に立っていた「赤毛の少女」に消毒薬を準備させ、サンドラの患部を丁寧に消毒した上で、棚の奥から取り出した「謎の薬」を幹部に塗り込む。すると、少しずつではあるが、痣の部分が薄まっていくのがブランジェにも分かる。

「どうやら、ここまでは成功のようだな……」

 カダフィが小声でそう呟くのを聞いたブランジェは、改めてサンドラの表情を確認すると、まだ意識は戻っていないものの、確かに先刻までに比べると表情が和らいでいるように見える。

「では、学長様、ここまでご覧になったからには、この機会に全てお伝えしておきましょう。この薬を使えば一時期的に症状を抑えることは出来ますが、完全に消し去るには、もう一段階必要です」
「それは、どのようなことかしら?」
「この神聖学術院の中の技術だけでは出来ません。我々が表向き手を組んではならない者達との協力が必要です」
「それは、どういうこと?」
「端的に言いますと、魔法師の力が必要なのです」

 神聖学術院の見解としては、先刻のエルリックの宣言にもあった通り、魔法師の存在そのものを原理的な次元で否定している訳ではない。だが、学内への魔法師の立入禁止を命じており、エーラム魔法師協会とも(少なくとも表向きは)相入れられない関係にある。

「どちらにしてもそれは、患者である彼女自身の意思の確認も必要でしょう。人によっては、そのような処方をされたことで激怒したり、最悪の場合、命を絶つ者もいます」

 実際、サンドラが(混沌の人為的利用を全面的に禁止している)日輪宣教団出身であることを考えれば、(今の彼女は月光修道会の方針に鞍替えしているとはいえ)まだ心のどこかで「魔法師の力を借りて命を永らえること」への抵抗感が残っている可能性はあるだろう。

「まぁ、ゆっくりお考え下さい。ただ、お若い学長様にこのようなことを申し上げるのもどうかとは思いますが、この世の中、『本音』も『建前』も、どちらも大事ではないかと私は思います。あなたにはあなたの立場がある。その上で、あなたが『表向きの建前』と『彼女の命』と、どちらを大切にするか、という問題です。無論、彼女の意思が最優先ではありますが」
「治す方法は、それしかないのね?」
「完全に治すには、です。発作が起きる度にこの薬を処方し続けるという道もありますが、今のところ、この薬を作れるのはおそらく私しかいない」

 つまり、カダフィの身に何かあった時のことを考えるならば、一刻も早くサンドラを完全に治すために魔法師の力を借りることが得策、ということになる。ブランジェ自身はもともと魔法師と手を組むことに対してそれほど強い抵抗感がある訳ではない。そして、今のブランジェの本音としては、たとえサンドラが反対しても、全力で説得して完治のために魔法師の力を借りるつもりでいた。更に言えば、出来ればサンドラが目を覚ます前に「彼女が反対すること自体が不可能な状態」のまま、独断で処方を決断したいとすら考えていた。ブランジェにとって、聖印教会の教義など、「恋人」の命に比べればその程度の価値でしかないのである。
 そんな中、シャルルからの伝言を携えた生徒がカダフィの研究室へと駆け込んで来る。

「すみません、学長はいらっしゃいませんか? 先刻、月光講堂付近で事件が起きまして、至急、学長室までお戻り頂きたい、とのことです」

 今のブランジェにとっては、学内で起きている事件などに関わっていたくはないというのが本音であったが、学長という立場上、無視する訳にもいかない。ひとまず伝令の生徒には「すぐに行く」と伝えて研究室から下がらせたところで、カダフィが再び口を開いた。 

「どちらにしても、まだサンドラさんが目を覚ますまではしばらく時間はかかるでしょうから、『そちらの問題』が解決してから、またお戻りになられれば良いかと。ともあれ、この件はご内密にお願いします」

 ブランジェはひとまずその提案を受け入れつつ、一つだけカダフィに対して確認すべきことを問い質す。

「この病気を治すことが出来る魔法師に、心当たりはあるのですか?」
「あります」

 カダフィは、はっきりとそう断言した。魔法師と繋がりがあるということは、神聖学術院としては(本来ならば)看過出来ない話だが、今のブランジェの本音としては、そんなことを咎めている場合ではない。

「しかし、詳しいことに関しては、学長様もお聞きにならない方が、お互いのためだと思います。このことが問題であなたが失脚されたとあれば、きっとサンドラ殿も心を痛めることになるでしょう。あなたは何も知らなかったことにした方がよろしいかと」

 カダフィのその提言に対して、ブランジェは色々と内心では葛藤しつつも、ひとまずサンドラの回復を待つという前提で、一旦学長室へと戻ることにした。

2.6. 学長と来客達

 ブランジェが中央施設へと到着すると、シャルルがすぐに出迎えた上で、学長室までの移動の間に一通り「蝶騒動」の顛末(ウルスラ達から聞いた話)を説明する。
 そして、ブランジェが学長室の扉を開くと、その中で待っていた面々の中に「見知った顔」が二人ほどいることに彼女はすぐに気付くが、最初に挨拶したのは(彼女とは初対面の)シェリアとウルスラであった。

「学長先生、お初にお目にかかります」
「はじめまして」

 二人がそう言いながら軽く一礼すると、タケルもその流れに乗るように、視線を合わせないまま挨拶する。

「オハツニオメニカカリマス」

 タケルとしては、何も言わずにいきなり去ったことで色々とバツが悪いので、別人を装いたいと考えているらしい(しかし、別に変装している訳でもないので、当然ブランジェには彼がタケルであると既に認識されている)。
 そんなタケルとは対照的に、ライザーは素直に「同じ学部の先輩」に対して丁重に挨拶する。

「お久しぶりです、故あって一年ほど休学しておりましたが、故あって戻ってきました」
「あら、ライザーちゃん、お久しぶりね」

 ブランジェはライザーの姉がサンドラであることは知っている。厳密に言えば、彼女の中ではライザーはサンドラの「弟」だと認識されているのだが、その点は大した問題ではない。

「お初にお目にかかります。エイル・ニカイドと申します。お噂はかねがね伺っております。昨年まで弟が世話になっておりました」

 エイルはそう言いながら、俯いたままのタケルに視線を向ける。

(空気読んでくれよ〜、気まずいんだよ〜)

 内心そう思っているタケルに対して、ブランジェも触れて良いものかどうか微妙な心境のまま、ひとまず声をかける。

「えーっと……、あなたは確か……」
「あぁ、まぁ、久しぶり、だな」

 顔を会わせたくなかったが、こうなってしまった以上、観念したらしい。そして、学長に対して本題を切り出す前に、エイルがシェリアに語りかけた。

「とりあえず、シェリア殿はもともと学長殿に要件があったのだったかな?」
「えぇ。とはいえ、こちらの要件より、先ほどの事件の方が早急に解決すべき問題だと思います。私の方は、後でお時間がある時で構いませんので。まず、さきほどの蝶についての報告を」

 シェリアはそう言って、この場にいる中で最初に蝶と遭遇したウルスラに声を掛ける。

「と言われましても、我々も先程報告したこと以上の情報は持っていませんので」

 実際、ウルスラは既に彼女の知っている全ての情報をシャルルに説明済みであり、その話は既にブランジェにも通達済みであった。そして、シャルルも既に周囲の人々から情報を得た上で、彼等の証言に信憑性があるということは確信している。
 その上で、現状のブランジェにはその「蝶」の件に関する心当たりはない。ただ、彼女の出身学部である生命学部では、様々な実験動物を飼育していることから、もしかしたらそこから脱走した蝶なのかもしれない、という憶測は立ったが(そして同様のことは同じ学部の後輩であるライザーも考えていたが)、確証がない状態で自分達の評判を落とすような憶測を語る必要もないため、ひとまずこの場はその点には触れずに、ひとまず彼等の証言を信用した上で、彼等の聖印使用に関しては「正当な措置」であったと認定する。
 その上で、まだ他にも危険な蝶(もしくはそれに類する何か)が飛び回っている可能性があるため、警戒を続けるという方針を示したところで、今度はエイルが「自分達にとっての本題」をブランジェに提示する。

「それはそれとして、我々の方も火急の案件がありまして……、この神聖学術院のカダフィ教授に面会をしたいと思って来たのですが、この方のことはご存知でしょうか?」

 ここで唐突に(先刻まで自分と密談していた)カダフィの名が出てきたことにブランジェは内心驚きつつも、平静を装いながら優雅な仕草で答える(なお、厳密に言えばカダフィは「教授」ではなくヒラ研究員にすぎないが、その辺りの学内の序列は説明が面倒なので、あえて訂正する必要もないと彼女は考えていた)。

「もちろん知っているわ。でも、カダフィ先生に何の御用件ですの?」
「なるべくこの件はご内密に願いたいので、出来れば別の席でお話ししたいのですが……」

 その様子から、エイル達にとってそれが先刻の蝶騒動以上に深刻な事態であることは、この場にいる者達全員が推察出来た。その雰囲気を最初に感じ取ったシェリアは、すっと立ち上がる。

「分かりました。では、私は一度退席することにしましょう。私の話はその後、ということで」

 彼女はそう告げると、学長の補佐官(職員)の手によって、学長室の隣の待合室へと案内される。シェリアも自分の要件がそれほど火急の案件だとは思っていないが、このまま流されてしまっても困るので、最初にこう宣言したのは「ひとまずエイルの話が終わったら次は自分の番」という意思表示でもあった。

「そういうことでしたら、私も席を外します」

 ウルスラもそう言って立ち上がる。彼女には今回の件以外で学長と話すべき案件もない以上、事情聴取が終わった時点でこの場に居続ける必要はない。
 ただ、彼女の中では「例の混沌核」を浄化吸収したシャルルのことが気がかりであった。

(彼をこのまま放置しておいて大丈夫なのかしら……)

 不安そうな視線を向けられたシャルルは、何も気付かぬままウルスラと共に学長室を退室する。
そして学内警備の任務に戻ろうとするシャルルに対して、ウルスラは声をかけた。

「邪魔はしませんので、私もご同行させて頂いてよろしいですか?」
「はぁ、まぁ、別に構いませんが」
「娘がお世話になるかもしれませんし、空いた時間で結構ですので、この学術院のことを教えて頂ければと思いまして」

 そう言ってシャルルの傍を歩くウルスラの意図をシャルルは測りかねていたが、ひとまず彼女が騎士として頼りになる存在であることは先刻の戦いの証言からも明らかであるため、シャルルは素直に彼女と共に施設の外へと踏み出して行った。

 ******

「お手数をおかけしてしまって、すみません。弟を通じてあなたのことは伺っておりますので、あなたのことは信頼出来る人であることは存じております。その上で、お話をさせて下さい」

 自分達とブランジェ以外が部屋から出て行ったのを確認した上で、エイルは自分達がこの神聖学術院を訪れた理由について語り始める。

「兄が倒れたということは、風の噂でご存知かもしれませんが……」

 エイルは一通り兄の病状について伝える。その話を聞いたブランジェは、それが現在のサンドラの症状と酷似していることにすぐに気付いた。

「あまり外聞のよくない話で恐縮なのですけれども、それについての研究をカダフィ教授がされていると聖印教会の者から聞き、出来ればお会いしたいと思いまして」

 ブランジェにしてみれば全くもって想定外の事態であるが、これはこれで色々な意味でサンドラの治療にも大きく影響しかねない案件である。だが、ひとまずそのことは悟られないように落ち着いた様相のまま、彼女は静かに答えた。

「それなら、カダフィ先生に、時間があるかどうか聞いてくるわ」

 そう言って、彼女は再び人体学部へと向かって行った。

2.7. 大司教の妹

 一方、学長室の隣に設置された待合室へと向かったシェリアは、そこで彼女にとって懐かしい知人の女性(下図)と遭遇する。


「あら? あなたは確か、ウィステリアの……」
「シェリア・ルオーネです。一応、今は司祭です。ユーミル大司教の妹君ですね」
「はい、ホーデリーフェです。その節はお世話になりました」
「同じ聖印教会の一員として、あなたや姉君にはこちらも助けられているので、お互い様です」

 彼女はホーデリーフェ・ベルウッド。神聖学術院の教養学部(アメジストの学部)に在籍する研究員であり、現ユーミル大司教ジークリンデの双子の妹である。数年前、ユーミルに里帰りしていた彼女がウィステリアとの国境付近で混沌災害に巻き込まれた際に、偶然近くを通りかかったシェリアに助けられたことがあった(当時のシェリアはバルレア北部のウィステリアを実質的な拠点として活動していた)。どうやら彼女も、学長に要件があり、この待合室で待機させられていたらしい。

「本日は、どのようなご用件でこの学術院にいらっしゃったのですか?」
「ここの学長先生にお話があったのですが……、隠されている話でもないですし、お話してもいいでしょう。以前、ブレトランドの南方のヴィルマ村近辺で起こった事件のことは、ご存知でしょうか?」
「えぇ。まぁ、うっすらとは」
「詳細は明らかにされてはいませんが、その事件に関連して、月光修道会のベスタティエ司教が、御高齢ということもあり、引退ということになりました。ですので、その後釜として月光修道会を代表すべき者は誰か、というお話をさせて頂こうかと」
「なるほど。確かに、そういう話であれば、現学長、もしくはそのお父君である副団長殿が関わってくる話でもあるでしょうね」
「えぇ。あるいは、ここであなたに会えたのは、私にとって幸運であったかもしれません」
「ほう?」
「私としては、あなたの姉君も有力候補の一人として考えていますので」

 確かに、それは当然の道理だろう。だが、その発言に対して、ホーデリーフェは露骨に難色を示した表情を浮かべる。

「うーん、さすがに、姉はそこまでの重責を務められるほどの器ではないかと……」

 とはいえ、先代のベスタティエも位階的にはあくまで「司教」なので、その意味では「大司教」であるジークリンデの方がむしろ格上である。

「それに、ユーミル大司教としての今の彼女も多忙の身ですから、修道会まで管理する余力があるかどうかも分かりません」

 ホーデリーフェの本音としては、ここで姉が月光修道会の指導者となった場合、ユーミル大司教との兼任が難しくなることで、自分が姉の後任として大司教に指名される可能性を恐れていた。彼女としては今の自由気ままな研究稼業が気に入っており、家督を継ぐ気はサラサラない。

「まぁ、多忙なのはウチの学長殿も同じなんですけどね。なんだかんだで、ここではちょくちょく色々な事件が起きているのですよ。『様々な技術』を内側に取り入れていることもあって」

 ホーデリーフェは、シェリアが「話の分かる人物」であろうと直感的に推察した上でそう語ったが、聞き様によっては不用意な発言である。こういった辺りの諸々の配慮の無さも彼女は自覚しているからこそ、自分は「責任ある立場」には向かないと考えていた。
 そして、シェリアにとっても当然この返答も想定の範囲内である。

「お忙しいなら、それはそれで仕方がないことです。だとしても、それならば他にふさわしい人は誰か、というご意見を伺わなければならないので」
「そうですね。私も私で、学長に用事はありましたので、ここでもうしばらく待つことにしましょうか」

 こうして、二人は(ブランジェが人体学部に向かっていることを知らないまま)待合室に残って学長を待ち続けることになるのであった。

2.8. 異変の予兆

 その間に、学内を巡回するシャルルと同行していたウルスラは、彼の業務の邪魔をしない程度に周囲を警戒しつつ、彼の様子を伺う。そんなウルスラの真意を測りかねていたシャルルは、当初は彼女の視線を気にして少々ぎこちない様子もあったが、やがて普通に巡回の仕事に専念するようになっていく。
 一見すると、その様子は特に先刻までと変わりなく普通に仕事をしようとしているように見えたが、そんな中、彼がとある建物の陰に入って、周囲の人々の視界から消えたタイミングで、一瞬だけ表情を歪めるのを、ウルスラは見逃さなかった。

「シャルル君、大丈夫!?」

 先刻までは敬語で話していたウルスラだが、危機感が募っていたせいか、子供を相手にした時のような口調になっていた(実際、ウルスラから見ればシャルルは半分以下の歳の子供である)。

「あ、すみません、ちょっと何か、胸のあたりが……、最近忙しかったから、過労かな……」

 シャルルは左胸の上部に手を当てながら、苦しそうな声でそう言った。

「油断はしないで。さっきの混沌核を吸収したことで、何が起こるか分からないんだから」

 ウルスラはブランジェやサンドラのような治療に関する一般知識は持っていないが、聖印を使って人々を癒す能力に関しては、少なくともシャルルよりは圧倒的に秀でている。長年各地を飛び回って多くの人々を救ってきた彼女の言葉には、(聖徒会役員とはいえ)一学生にすぎないシャルルには太刀打ち出来ないほどの、圧倒的な説得力が込められていた。

「そうですね……。そういうことなら、今から検診を受けてみた方がいいかな」
「えぇ。一度調べてみた方がいいわね」

 こうして、図らずもシャルルとウルスラもまた、人体学部へと向かうことになるのであった。

2.9. 気まずい再会

 ブランジェが去った後、エイル、タケル、ライザーの三人は、ひとまずそのまま学長室に残されていた。微妙な空気が広がる中、エイルはふとタケルに語りかける。

「せっかく戻って来たんだから、この期に知り合いには挨拶回りしておいた方がいいぞ」
「会いたくねえよ」
「いや、今はまだ一年だからいいが、これ以上間が空くと、余計に会いたくなくなるぞ。どうしても会いたくないならそれでもいいが、せめて伝言や手紙くらいは渡しておいた方が……」

 二人がそんな会話を交わしているところに、タケルにとって「今、一番会いたくない相手」が現れた。聖徒会副会長のオルタンス・アルカーナである(下図参照/ただし、今は銃を持ってはいない)。

「お客様、お待ちいただき申し訳ございません。とりあえず、お茶をどうぞ」

 彼女はそう言って来客達にソリュート産の紅茶を提供するが、目をそらしているタケルの横顔に気付く。

「あれ? タケルさん? 復学されたのですか?」

 タケルにとって彼女は「『想いを伝えられる自分』になるまで会いたくない人物」である。奇妙な沈黙が二人の間に流れると、やがてエイルが口を開く。

「ご対応いただき、ありがとうございます。彼の兄のエイル・ニカイドと申します」
「これはご丁寧に、ありがとうございます。聖徒会副会長のオルタンス・アルカーナです」
「彼は故あって休学していましたが、今回は家の事情でこちらに要件がありましたので……」

 エイルはそう言いながら、ふとタケルとライザーに視線を向ける。すると、この二人の「オルタンスを見る目」から、彼女こそがライザーの言っていた「タケルの心に決めた人」であろうことを察する。まだ子供だと思っていた弟にそのような「感情」が芽生えていたことに、エイルはなぜか奇妙な感動を覚えつつ、話を続ける。

「こいつにもこいつの思うところはあるかもしれませんが、信じて待っていて下さい」
「は? はい……」

 何を言われたのかよく分かっていない様子のオルタンスに対し、さすがにタケルもこのまま黙っている訳にもいかなくなったので、やむなく口を開く。

「……お久しぶりです」
「はい。お元気そうで何よりです」

 オルタンスはそう答えたが、それ以上の会話は続かない。エイルとしては、彼女から「学術院の中でのタケルの様子」を聞きたいという気持ちもあったが、さすがにそれは弟にとってあまりにも酷な拷問であることは分かっていたので、それ以上は口を挟まず、オルタンスはそのまま静かに退室していく。
 再び嫌な沈黙が流れる学長室の中で、ライザーが訥々と語り始める。

「あの方は、私と違って非常に美しく、私と違って非常に上品で、私と違って非常に素晴らしい女性です」

 あまりに唐突にそんな話を始めたライザーに対して、タケルは内心で首をかしげる。

(なぜこいつは、急にこんなことを……? またこのクソ兄貴のせいだな)

 一方、エイルはなんとなく彼女の今の心境を理解していたようで、答えにくそうな顔を浮かべながらも、なんとか言葉を捻り出す。

「いや、まぁ、そう自分を卑下したものでもないと思うが。そんなことを言ったら私も……、あ、いや、これ以上言ったら、卑屈合戦になってしまうから、やめておこう」

 こうして、学長室は再び気まずい空気に包まれていくのであった。 

3.1. 毒気漂う研究室

 ブランジェが再び人体学部のカダフィの研究室のある研究棟まで辿り着いたところで、彼女は二階に位置する彼の研究室の窓から、何やら不穏な気配を感じ取る。足を早めて階段を駆け上がり、研究室の前まで来た時点で、扉の向こう側から激しい物音を聞き取った彼女は、即座に扉を開ける。すると、研究室内では、カダフィおよび「赤毛の少女」と明らかに敵対的な雰囲気で退治している、密偵もしくは暗殺者と思しき「黒装束の男」の姿があった。
 その男の手には短剣が握られており、その手の甲には邪紋も刻まれている。聖印教会で育ったブランジェにとって、邪紋自体が馴染みの薄い存在だが、おそらくはその雰囲気から「影」と呼ばれる類の邪紋使いであろうということは推察出来た。
 黒装束の邪紋使いは短剣を構えつつ、点滴用の長い棒を武器代わりに構えたカダフィと対峙し、彼に守られるように後ろに控えた「赤毛の少女」は何か「呪文」のようなものを詠唱し始めている。そして、その傍らにはベッドに横たわったままのサンドラの姿もあった。
 ブランジェがこの状況に困惑する中、邪紋使いもまた突然の乱入者であるブランジェの出現に対して警戒心を強める。そして、おそらくこの場にいる中で最も現状を把握しているカダフィは、ブランジェに対して大声で叫んだ。

「学長! ここに入ってはなりません!」

 侵入者はその「学長」という言葉に驚いた表情を見せる。どうやら、彼はこの神聖学術院の内情についてはあまり知らないらしい。だが、その「肩書き」を聞いた彼は、困惑しながらもブランジェに対しては強い敵意も興味も示さず、あくまでも視線の焦点はカダフィに当てられていた。
 一方、入るなと言われたブランジェであったが、部屋の中にサンドラが無防備な状態で眠り続けている傍らで、正体不明の侵入者が敵対的な姿勢を見せているというこの状況で、その場から黙って立ち去る訳にはいかない。「呪文を唱えている赤毛の少女」のことも気になるが、現状において彼女はカダフィに守られている(彼と協力関係にある)ように見えたため、ひとまずは明確な不審者である邪紋使いの動きを止めた上で、話を聞く必要があると考えた。
 ブランジェは即座に懐から医療用ナイフを取り出し、そこに手持ちの毒を塗った上で、侵入者である邪紋使いに向かって斬りかかった。それに対して侵入者もまた同様に毒刃を取り出し、ブランジェに対して応戦する。二人の刃は互いの身体を切り刻み、互いに毒をその身に受けるが、毒の強さはブランジェの方が上回っていたようで、侵入者の方がより深く顔を歪ませる。

(この娘、本当に学長か!?)

 どう見ても学生しか見えない「学長と呼ばれている少女」が、自分よりも強力な毒を用いて斬りかかってきたことに、邪紋使いは困惑する。更にその直後、赤毛の少女の呪文詠唱が完了し、邪紋使いの周囲に毒霧が広がる。結果的にそれはブランジェをも巻き込む形になってしまったが、ブランジェはその直後に聖印を掲げて、この部屋の中にいる侵入者以外の面々全員の体内の毒と傷を癒す。
 そしてこの状況下で、赤毛の少女もまた密かに思考を巡らせる。

(さすがに研究室で爆薬を使う訳にはいかないと思ったけど……、ここで学長に戻って来られた以上、長引かせる訳にはいかない。だとすると、この状況での最善手は……)

 彼女はそこまで考えた上で、怪しげな薬瓶を取り出しつつ、全力で叫んだ。

「部屋から出て下さい!」

 彼女が「誰」に対して叫んだのかは分からない。そもそも、ブランジェにしてみれば、この「魔法師」の言うことを信用して良いのか分からずに、一瞬判断に迷い、その一瞬の間の間に、カダフィはすぐさま部屋の外へと走り去って行く。
 だが、ブランジェにはこの状況下でサンドラを残したまま部屋から出るという選択肢はあり得ない。かといって、彼女を担いで外に出るのは難しいと判断したブランジェは、その場で聖印による防壁を作った上で、サンドラを庇うように彼女の身体に覆いかぶさった。
 その直後、赤毛の少女が侵入者に向けて投げ込んだ薬瓶が巨大な爆音と共に破裂し、部屋全体に爆炎と爆風が広がる。炎と煙が研究室内を包む中、ブランジェは聖印の力でサンドラを守り抜く。幸い、彼女の作り出した防壁によって爆発の衝撃は大幅に軽減され、ブランジェ自身もそれほど深手を負うことはなかったが、爆煙が四散した頃には、その部屋の中には彼女とサンドラ以外誰も残されていなかった。

3.2. 容疑者の捕縛

 その頃、ブランジェから少し遅れて人体学部へと到着したウルスラとシャルルは、建物の一つから激しい爆音が響き渡るのを耳にする。
 何が起きたのか分からないまま困惑する二人であったが、ウルスラはその爆音の方角から、一人のズタボロの姿の黒装束の男が逃げて来るのを発見する。どう見ても、この学術院の職員や生徒とは思えない。
 ウルスラは反射的にその男に向かって駆け出し、既に爆発魔法によって満身創痍の状態にあったその男の前に立ちふさがると、強引にその身を組み伏せて動きを封じる。その直後にシャルルが駆け寄って、手持ちの拘束具を用いて即座に捕縛に成功した。

「ありがとうございます!」

 シャルルはそう言いながら黒装束の男を縛り上げつつ、爆音がした建物の方に視線を向ける。

「あの爆発は一体……」
「とりあえず、状況を見に行きましょう」

 ウルスラは彼にそう促しつつ、拘束されたまま黙秘を続ける黒装束の男を連行しながら、シャルルと共に建物へと向かって行く。

 ******

 二人が「爆音の聞こえてきた研究室」の前に辿り着いた時点で、扉が半壊状態になり、同様に駆けつけた周囲の職員達も入れない状態となっていた。ウルスラが強引にその扉をこじ開けて中に入ると、そこにはベッドに横たわったサンドラを心配そうに見守り続けるブランジェの姿があった。

「何があったんですか?」

 ウルスラはそう尋ねる。そもそも、なぜこの時点で(先刻まで来客達と学長室で対談していた筈の)ブランジェがここにいるのか、ウルスラにはまずそこから理解出来ない。

「私も、さっき来たばかりで分からないの」

 ブランジェはそう答えた。実際、彼女も自分が来る前にこの研究室で何が起きていたのかは、全く何も知らない。その上で、なぜ自分が今この場にいるのかについては、不用意に説明する訳にもいかない以上、今はこう答えるしかなかった。そして、ウルスラの隣に立つシャルルが、どこか顔色が悪そうな様相であることにブランジェも気付く。

「シャルル君、どうしたの? 体調が悪いの?」
「今は大丈夫ですけど……、この中で何があったんですか?」

 彼にもそう言われたブランジェは、ひとまず「話せる範囲」で事情を語り始める。

「私がカダフィ先生を訪ねたら、いきなりこの侵入者がカダフィ先生を襲っていて……」

 それに対して、ウルスラが拘束中の「黒装束の男」を突き出しつつ、問いかけた。

「さきほどの爆発は、この侵入者が? それとも、あなたが?」

 この状況において、その二人以外に誰が関与していたのかも分からないウルスラとしては、その二択以外の状況は想定出来ない。

「実はその現場にカダフィ先生の『助手』の方もいて、その人が『何か』を投げたらそれが爆発したんだけど、爆発が収まった時には、先生もその人もいなくなっていて、見つからないの。だから、まずは先生を探さないと……」

 ブランジェはそう言って、ウルスラがこじあけた扉から外に出ようとする。ブランジェとしては、カダフィからの事情聴取は他人(特に学外者)に聞かれない状況でおこないたかったので、この場から自分一人で立ち去りたかった。そして、幸いにもウルスラがその方針に同意する。

「学長先生は、その教授を探してきて下さい。私はこの侵入者から話を聞いてみます」
「では、その人のことは、よろしくお願いします。あと、シャルルくん……」
「はい?」

 ブランジェはシャルルを呼び寄せ、小声で彼にサンドラのことを委ねる旨を伝えつつ、彼女の病状をあまりに他人に広めないように、と通達した上で、小走りで部屋の外へと退室していく。

 ******

 そして学長が去ってしばらくした頃、サンドラが目を覚ました。

「え? あれ? ここは……?」

 サンドラの視界に広がるのは、半壊した研究室の中で、縄で縛られた状態の「見知らぬ侵入者」と、その侵入者を相手に尋問を続けている「見知らぬ女騎士」の姿であった。そんな中、唯一見知った存在であるシャルルが彼女に語り始める。

「サンドラ先輩、大丈夫ですか?」
「私はあの時、講堂裏で倒れて……、確か、研究室に……、そうか、あの研究室か! シャルル、一体何あったんだ?」
「それはこっちが聞きたい話というか、そもそも、どうしてサンドラ先輩、急に倒れたりしたんですか?」
「私もそれはよく分からないのだが……」

 二人がそんな会話を交わしている間に、ウルスラは侵入者の尋問を続けていた。

「とりあえず、何があったか話してもらおうかしら?」
「……俺がこの部屋に入って来たら、あの薬剤師の近くにいた『赤毛の女』が、おそらく錬成魔法を使って、何らかの薬を爆発させた。彼女が何者なのかは、俺も知らない」

 ウルスラ視点から見れば、そもそも「薬剤師」なる人物自体も知らないし、彼の証言がどこまで正確な情報なのかは分からない。ただ、この学術院の中に「魔法師」がいたとしても、そのことに関しては「世の中、そういうこともあるだろう」くらいの認識であった。

「それで、あなたの目的は何だったの?」
「ここの薬剤師の身柄の確保だ。彼を『こちら側』の陣営に連れてくる。それが無理なら殺す、それが俺の任務だ」

 さすがに「こちら側」の正体まで口を破ろうとはせず、ウルスラもそこは別に大して興味はなかったので、それ以上は問い詰めないまま、周囲に他に不審者が潜んでいないか、警戒を続けるのであった。

3.3. 来客達による捜索

 一方、人体学部で起きた爆発騒動の情報が届かないまま、学長室の面々はひたすらに待ち続ける時間が続いていた。

「おせーな、学長……」

 タケルは徐々に苛立ち始める。人体学部は確かに他の学部とはやや離れた場所にあるものの、教員一人を呼び出して連れて来るにしては、妙に時間がかかりすぎている。もしかしたら、何か他の用件に遭遇して戻れなくなっているのではないか、という可能性が浮上してくる。もともと今日は来客が多い日である以上、何か不測の事態が発生した場合、突然の飛び込み案件である自分達の事情を彼女が後回しにしたとしても、責められることではない。

「一応、話は通したし、私達も直接人体学部に向かった方がいいかもしれない……。ライザー君は、どう思うかね?」

 エイルがそう言いながらライザーに視線を向けると、微妙に彼女の顔色が悪くなっていることに気付く。

「おや、どうした?」
「すみません、ちょっと、緊張していたせいなのか、あるいは、長旅の疲れが出たのか……」
「軽度の疲労だと思って甘く見ていると大変なことになる。早めの体調管理は大切だ」

 過去にそれで幾人もの仕事仲間を失ってきたエイルだけに、その言葉は重い。そして、この学内における医療機関は人体学部に併設されている。彼女の身体の異変を確認するためにも、今から人体学部へ向かうべきではないか、という考えがエイルの中で高まってくる。
 そんな中、学長室の扉が開かれ、三人の女性が現れた。お茶菓子の追加を届けに来た副会長のオルタンスと、隣の待合室で待機していたシェリアとホーデリーフェである。

「学長は、今、どうされているかご存知ですか?」

 ホーデリーフェはエイル達にそう尋ねた。彼女とシェリアも、いつまで経っても学長が戻って来ないことに違和感を感じ、状況を確認するために(当初は待合室にお茶菓子を届けに来た)オルタンスと共に、学長室へと赴いたのである。

「人体学部に向かわれた筈なのだが、なかなか戻って来られないのだ」

 エイルがそう答えると、シェリアも表情を曇らせる。

「待つこと自体は構いませんが……、でも、さすがにそろそろ心配になりますね……」

 少なくとも、シェリア達は先刻、危険な「蝶」と遭遇している以上、何らかの危険な異変が学内で起きている可能性を考慮するのは当然である。ブランジェは聖印を有してはいるが、あくまでも「ほぼ回復専門の聖印」であり、戦闘能力には秀でていない。そして、思い出したかのようにオルタンスが呟いた。

「そういえば、昼の時点でサンドラさんも倒れて人体学部に運ばれたと聞きましたが、その後、どうなったのかは分かりませんし、さきほどシャルルも体調を崩して人体学部に行ったという話を聞きました」

 そこまでの話を聞いた上で、皆の中での不安は更に高まる。そしてエイルが決断した。

「とりあえず、我々も人体学部に向かうことにしようか。もし、入れ違いで会長が帰って来たら、我々は人体学部へ向かったとお伝え下さい」

 オルタンスにそう伝えた上で、エイル、タケル、ライザー、シェリア、ホーデリーフェの五人は、それぞれの乗騎(シェリアは犬狼、他の面々は馬)に乗って、人体学部へと向かった。

 ******

 五人が人体学部に到着すると、職員達も学生達も、先刻の爆発事故でザワついた様子が続いていた。状況がよく分からないまま、タケルは人々が視線を向けている一つの研究棟の二階の異変に気付く。

「兄貴、あそこの窓、割れてるな」
「あぁ。さっき見た地図によると、薬学科の建物のようだが……」

 ライザーから聞いた話によると、件のカダフィという教員は薬学科所属の筈である。

「学長先生が帰って来なかったことを考えると、あの建物で何かあった可能性が高いですね」

 シェリアがそう呟いたところで、隣のホーデリーフェが表情を曇らせる。どうやら、何か嫌な予感を感じ取ったらしい。

「どうかしましたか?」
「あそこには私の知人の教員がいる筈で……、まったく、何してるんだか、あの人は……」

 その会話にエイルも入る。

「あそこは誰の研究室なのですか?」
「カダフィ先生という人で、薬剤調合の専門家なのですが……、まぁ、ろくな人じゃないですよ、あの人は」

 その名が出たところで、エイルとタケルはビクッと反応する。何が起きたのかは分からないが、学長が戻って来ない理由がそこにあると確信した二人は、そのまま他の面々と共に研究棟へと足を踏み入れていく。
 研究室に到着した彼等は、その場に先刻遭遇したウルスラとシャルル、そしてまだ病床にあるサンドラと、拘束された状態の侵入者の姿を発見する(もっとも、エイルとシェリアは、ベッドの上の彼女が何者なのかは知らない)。ひとまずシャルルから事情を聞こうとする彼等であるが、彼も状況の全容は理解出来ていないまま、ブランジェと侵入者の話を総合した上で、分かる範囲の情報を伝えた。

「学長が言うには、カダフィ先生は、その『赤毛の助手の人』と一緒に、どうやらいなくなってしまったようで……」

 「赤毛の助手の人」の話が出た時点で、ホーデリーフェの表情が露骨に歪んだことに、シェリアは気付く。それは不安や心配というよりは、個人的な嫌悪感に満ち溢れた表情であった。
 一方、カダフィが行方不明と聞いたエイルは、困惑しつつもシャルルに更に問いかける。

「失踪ですか、困りましたね……。今はどなたかが探していらっしゃるのですか?」
「えぇ、学長が」
「学長自らが、御一人で?」

 常識的に考えれば、このような状況下で誰にも頼らず学長が一人で探し回るというのは、明らかに不自然ではある。確かに、彼女はエイル達に「カダフィに話を聞いてくる」とは言ったが、何があったにせよ、自分一人だけで探し出そうとするのは(事情を知らない者から見れば)奇妙な状況のように思えるだろう。いずれにせよ、「謎の蝶」に加えて「邪紋使いの侵入者」まで入り込んでいる現状において、エイルとしてはこのまま黙って彼女を待つ訳にもいかなかった。

「では、私達もよろしければ力を貸します」
「申し訳ございません、来たばかりの方々にいきなりそんなことを……」
「いえいえ、私も彼には要件がありますので」

 むしろエイルにしてみれば(サンドラの事情を知らない以上)、カダフィに最も切実な要件があるのは自分達である。万が一、カダフィの身に何かあったら、兄の病気を治せる機会は永遠に失われてしまうかもしれない。

「じゃあ、手分けして探しましょうか」

 ホーデリーフェがそう提案すると、タケルとエイルも頷く。

「確かに、その方が見つけやすいだろう」
「あぁ。ただ、連絡手段がない以上、一定時間後に集まる必要はあるだろうな」

 こういった時に、魔法杖による通信が使えない彼等の限界が露呈する。これが屋外であれば、見つけた時点で上空に聖印や戦旗を掲げるといった方法もあるが、屋内での探索においてはそれも難しい。

「では、見つかったにせよ、見つからなかったにせよ、一時間後にまたこの病室に戻って来ることにしましょう」

  ホーデリーフェは言って、彼女は一人で足早に階段へと向かって行く。それに対して、先刻の彼女の様子が気になっていたシェリアは、彼女の後を追うことにした。

「待って下さい。手分けして探すのは良いですが、私はここに来たのは初めてなので、出来れば一緒について行かせて下さい。そもそも、私はカダフィ先生の顔も知らないですし」

 その言い分に対して、ホーデリーフェは一瞬嫌そうな顔を浮かべながらも、了承する。確かにこの状況で、カダフィの顔を知っているのは彼女と(生命学部との単位互換制度の事情で何度か人体学部に来たことがある)ライザーしかいないので、手分けするにしても「二手」が限界であった。そして、今のホーデリーフェは聖印を持たない身である以上、何かあった時に君主であるシェリアがいた方が安全と言われたら、確かに反論は出来ない(なお、それに加えて、シェリアはそもそも方向感覚に難があるため、単独行動には向かない、と言う事情もあった)。
 こうして、シェリア・ホーデリーフェ組と、エイル・タケル・ライザー組に分かれた上で、それぞれ手分けしてカダフィとブランジェを探して学部内を捜索することになり、ブランジェとの行き違いを防ぐために、シャルル、ウルスラ、サンドラは、引き続きそのままカダフィ研究室に残ることにした。

3.4. 発見と合流

「先程のあなたの様子から察するに、何かご存知のようですが、出来れば、事情を聞かせて頂けませんか?」

 研究棟の外に出て、周囲に人があまりいなくなったところで、シェリアはホーデリーフェにそう問いかけた。その口ぶりは、既に何かを察しているようにも聞こえる。

(まぁ、どうせ「私と先生の噂」なんて、みんな知ってることだしね……)

 ホーデリーフェは内心でそう呟きつつ、多少言葉を濁しながらも、意味深な表情を浮かべながら語り始めた。

「私は、この学術院の中で研究助手のような立場にいます。カダフィ先生からは、非常によくしていただいて、『非常に親密な状況』にあった訳ですけれども……、最近、あの人、急に私に対してよそよそしくなって、『見たことがない赤毛の女の子』を代わりに使うようになって……」

 徐々に声色が刺々しくなっていくなっていくのを感じつつ、シェリアは話の本題を切り出す。

「その辺りの個人の事情に深く踏み込む気はありませんが、今回の件について、カダフィ先生に話を聞かなければならないのは事実です。もし、居場所に心当たりがあるのであれば……」
「一応、『あの人が都合が悪くなった時に逃げ込む場所』の心当たりは、確かにあります」

 ホーデリーフェはそこまで言った上で、少し間を開けて、平静を装いながらも怒りを込めた声色で、シェリアにこう告げた。

「もし私が、あの人に『とどめ』を刺しそうになったら、止めて下さい」

 彼女の中で、そもそも「とどめ」という表現が適切な状況にまで今の彼が追い詰められていると想定しているのか、あるいは、自分自身の手で「とどめを刺す寸前」まで追い詰めるつもりなのかは分からないが、ひとまずシェリアは頷く。

「分かりました。ここで新たな刃傷沙汰を起こして、話をややこしくする気は私にもありませんので」
「私も、そこまでする気はないんですけどね。ただ、彼の態度次第では……」

 彼女はそれ以上は何も言わなかった。そして、二人は人体学部の一角にある、あまり人の気配のない、古ぼけた建物へと入って行った。

 ******

 一方、エイル・タケル・ライザーの三人は、シェリア達とは反対側の方面を捜索する過程で、一人でカダフィを探すブランジェの姿を発見した。

「おや、学長殿ではないですか。教授を探しているという話でしたが、見つかりましたか?」

 エイルにそう声をかけられたブランジェは、自分一人でカダフィに接触する機会を逃してしまったことを悔やみつつ、その内心を隠しながら答える。

「それが、どこにも見つからないの」
「よろしければ、私も力を貸します。とはいえ、私達の方でも見つかっていないのですが」

 エイルのこの申し出に対しては、さすがにブランジェとしても断り切れない。悩ましい表情を浮かべるブランジェに対して、エイルは更に知っている情報をそのまま伝える。

「シェリアさんと、あとホーデリーフェさんという方も探して下さっているようなので、おそらく近いうちに見つかることでしょう」

 ブランジェはシェリアのことはよく知らないが、ホーデリーフェに関しては、以前に「彼女とカダフィの関係」が噂になり、教授会で問題視されたことがある、という噂話を聞いたことがある。もし彼女が噂通りにカダフィと親密な関係にあったのであれば、彼を発見出来る可能性は一番高いだろう。少なくとも、自分一人で探すよりは見つけやすいことは間違いない。

(仕方ない、方針転換ね……。皆で探した上で、身柄をこちらで拘束して、学園内の機密事項として、一対一で尋問する形にすれば……)

 彼女は内心でそう判断した上で、エイルに対してしおらしい態度で訴える。

「では、皆様、捜索をお願い出来ます?」
「分かりました」

 こうして、ひとまず「カダフィの医療技術を必要とする二人」は協力して彼を探すことになった。ただ、この時点で既に「薬」に関するある程度の情報を手に入れているブランジェは、内心ではエイルとは全く異なる思惑を抱いていたのだが、そのことを知る者は誰もいなかった。

 ******

 その間に、研究室に残っていたウルスラは、今度はサンドラから話を聞いていた。

「なぜ、倒れたのですか?」
「よく分からないのですが……、過労かと思います」

 シャルルと同じ反応である。学生がどういう事情で次々と過労になるのかはウルスラには分からないが、少なくとも今のサンドラからは、それほど体調が悪そうな様子は感じられない。また、ベッドから起き上がった時の彼女の立ち振る舞いから、彼女が自分と同じ「防御」に特化した君主であろうことは想像出来る。つまり、相応に身体を鍛えている筈の彼女が、多少の過労程度で倒れるとも考えにくい。だとすると、ここで一つの仮説が彼女の中で湧き上がる。

「この学内で『大きな蝶』を見たことはありますか?」
「蝶? ですか? 心当たりはないですが……、ただ、時々、奇妙な虫を学内で見たという話を聞いたことはあります」

 この学術院内の生命学部(エメラルドの学部)では、様々な生体実験をおこなっているため、多少奇妙な形状の虫が現れたとしても、それほど珍しくは思わないらしい。ただ、人体に危険を与えるよう生き物に関しては、本来は厳重に管理されており、そう簡単に脱走したりすることはない筈である。
 ウルスラはこの学術院の安全性に対する不安を募らせつつ、そのまま自分の仮説に基づいて質問を続けた。

「最近、混沌を浄化したことは?」

 ウルスラの中では、先刻のシャルルと同様に、「奇妙な混沌核」を浄化したことで彼女の身体に異変が起きたのではないか、という疑念が拭えなかった。

「最近は……、無かったと思います。最後に浄化したのは、一年前の聖印喰い騒動の時ですね」

 一年前となると、それが原因とは考えにくい。ひとまず現時点では、これ以上聞いても何か手がかりが見つかりそうにはなかった。

 ******

 そうこうしている中、シェリアはホーデリーフェに導かれる形で、人体学部の片隅に位置する薄汚れた建物へと辿り着いた。そのまま中に入ろうとするホーデリーフェに対して、シェリアが問いかける。

「ここは一体、何の施設なのでしょうか?」
「もう既に使われていない施設なのですが……、ここに、分かりにくい扉がありまして……」

 ホーデリーフェはそう言いながら、入口のすぐ左手にある階段の側面の壁を指し示す。確かに、そこには小さな扉があった。人が屈まないと入れないくらいの大きさであり、おそらくは掃除道具か何かを入れるための小型の倉庫ではないかと推測出来る。

「まぁ、その、色々な目的に使われるんですよ、逢引とか……、逢引とか……」

 彼女はそう呟きつつ、扉の前へと向かう。そして、その後に続いたシェリアも、扉の奥から「人の気配」がするように思えた。

「先生、そこにいるんですよね?」

 ホーデリーフェがそう語りかけると、扉が内側から開かれ、(シェリアは初対面なのでそうとは認識出来ないが)カダフィが現れた。その奥には「赤毛の少女」の姿も見える。「その二人の組み合わせ」に対して、ホーデリーフェは眉を顰めつつ問いただす。

「で、先生、何をやらかしたんですか?」
「いや、その、だな……、まず一つ言いたいのは、君はもう私の助手ではないし、私に関わる必要も義務も何もなくて……」
「私個人として義務があるかどうかではなく、一大学の職員として、色々と確認しなければならないことはありますので。いや、別に、奥の彼女のことは全く何も気にならないというか、別に奥の彼女はどうでもいいので、先生だけでも来てもらえませんか?」

 ホーデリーフェがそう語る背後で、シェリアは「カダフィと思しき男性の奥にいる少女」から、「魔法薬」の匂いを感じ取る。とはいえ、シェリア自身は魔法の力を用いることには肯定的な立場であり、その点について糾弾するつもりはないし、「男女三人の事情」についても、特に関心はないため、ひとまずは淡々と語りかけた。

「その辺りの関係について、私からとやかく言うことは何もありません。とはいえ、そちらの先生を探している方がいらっしゃるので、出来れば私としても、先生には一緒に来て頂きたいと思います」
「えーっと……、失礼だが、君は誰かな?」
「おっと、申し遅れました。本来はこの件に首をつっこむべきではないのですが、聖印教会のシェリア・ルオーネと申します。今回の件に関しては、学長先生やエイル氏の協力者と思って頂ければ結構です」

 カダフィはエイルのことは聞いていないし、彼女が学長とどのような関係にあるのかも分からないが、ホーデリーフェと一緒にいることから、少なくとも許可を得て入っている人であろうという前提の上で、ひとまず彼女のこともある程度信頼することにした上で、逆に問いかける。

「まず一つ聞きたいんだが、私の研究室は今、どうなっている?」
「爆発があった後、シャルル君が封鎖しています」
「そうか。いや、私も別に学長から隠れていた訳ではない。私を狙って来る者がいたから、ここに隠れていただけだ」
「では、ここから出る気があるのであれば、護衛程度なら私が務めましょう」

 シェリアがそう言うと、カダフィは彼女のその申し出に強い説得力を感じる。おそらくそれは「流浪の司祭」として世界各地の戦場を渡り歩いたが故に身についたカリスマ性なのだろう。ひとまず彼は「赤毛の少女」と共に小部屋の外に出て、そのままシェリアに護衛される形で、ホーデリーフェに従って自身の研究室へと帰還することにした。

 ******

 その後、エイル、タケル、ライザー、ブランジェの四人は、カダフィを見つけられないまま研究室へと帰還し、それとほぼ同時にホーデリーフェとシェリアがカダフィと赤毛の少女を連れて、同地へと到着した。
 部屋の扉を開いた直後、サンドラが目を覚ましているのを確認したブランジェは、即座に彼女に向かって全力で駆け寄った。サンドラは戸惑いながらも問いかける。

「学長……、私は、何がどうなって、こうなったのでしょうか?」
「分からないわ。多分、疲れが溜まっていたんだと思う。今は大丈夫?」
「はい、今はもう平気です」

 実際、サンドラの表情を見る限り、今はもう完全に平常時の顔色に戻っているように見える。どうやらカダフィの薬には確かに効果があるらしい、ということを確認しつつも、念の為、しばらく彼女にはそのまま休んでいてもらうことにした。
 その上で、カダフィは学長に対して「どうします?」と言いたそうな表情を浮かべつつ、反応を伺う。ブランジェとしては、ひとまずカダフィに対する「取り調べ」を、一対一の状態でおこないたいところだが、どの順番でこの状況を処理すべきか迷っている間に、先にウルスラがカダフィに対して声をかけてきた。

「とりあえず、何者かに狙われているということであれば、護衛は必要ですか?」

 ここまでの移動においてはシェリアが彼の護衛を務めてきた。シェリアとしてはこのまましばらく彼を守り続ける気がでいたが、「他人を守る能力」に関しては、同じ女騎士でもウルスラの方が一枚上手である。更に言えば、ウルスラにはラーヤの学内見学が終わるまで、特にやるべきこともない。シェリアがブランジェとの対話の時間を求めていたのをウルスラは知っている以上、ここは自分が彼の護衛を担当するのが一番適任であろうと考えたのである。

「あぁ、そうしてもらえると助かる。護衛は多い方が助かるからな」

 カダフィはそう答えた。実際のところ、彼自身は君主でも魔法師でもない以上、一人でも護衛が多い方が安心出来るのは確かである。ウルスラもまた、彼から見れば「得体の知れない女騎士」ではあるのだが、彼女からも「遍歴の騎士」として各地で人々を守り続ける過程で備わったオーラが感じられたようである。
 一方、ここまで黙って彼女達の動向を伺っていたエイルの脳裏には「謎の声」が響いていた。

《……聞こえますか?》
「ん?」

 エイルは周囲の誰も口を開いていないことを確認した上で、頭を抑えて顔をしかめる。

「どうした、兄貴?」
「いや、すまない。ちょっと立ちくらみが」

 どうやらエイルには、その声は何らかの幻聴のように思えたらしい。

《私の声が、聞こえますか? 我が前世よ》

 その声は確かに聞こえる。だが、エイルには全く心当たりのない声である。ましてや「我が前世」などという言葉に、心当たりなどある筈もない。

「すまない……、ちょっと仮眠を取らせてもらえるかな。さすがに働きすぎたようだ」

 あくまでもその声を幻聴だと判断したエイルがそう語ると、ひとまず(この中にいる唯一の人体学部所属の学生である)サンドラが答える。

「分かりました。では、こちらへ」

 そう言って、彼女はエイルを同じ建物内にある診療室へと案内することにした。タケルは心配そうな表情を浮かべつつも彼を見送る。

「とりあえず、こっちで話は聞いておくからよ」
「よろしく頼む……」

 そう言ってエイルとサンドラが去って行った上で、改めてカダフィは「自分が何者かに狙われて、彼等から逃れるために隠れていた」ということを皆に伝えると、ウルスラが当然の疑問を彼に対して投げかけた。

「狙われる心当たりは、何かありますか?」
「さぁな。私の力を必要とする者が、それだけ多いということだろう」

 ブランジェは彼のその言い回しに苛立ちを覚えつつ、ここで彼に自由に語らせると何を言い出すか分からないと判断した上で、「学長」として、その場にいる者達に対してこう言った。

「とりあえず、別室で事情聴取をさせて下さい」

 学内の問題ということであれば、確かに来客達には介入する権限はないし、聖徒会役員ですらないタケルやライザーも口を挟める立場ではない(そしてサンドラは既にこの場にはいない)。もう一人の「容疑者」である赤毛の少女はひとまずその場に残した上で、ブランジェはカダフィを連れて、現時点で使われていない研修室へと移動する。その上で、「護衛役」としてウルスラがその研修室の前まで同行した上で、扉の外から彼等を警護することになった。

3.5. 腐虫病

 研修室に入ったブランジェは、周囲の様子に誰も潜んでいないか確認しつつ、外で警護するウルスラにも聞こえないように、カダフィに対して小声で問いかけた。

「あの赤毛の魔法師について、どういうことなのか説明してくれますか?」

 ブランジェ自身は、魔法師の力を借りること自体に反対ではない。ただ、彼が既に学内に密かに招き入れていたということであれば、当然、その正体を確認する必要がある。

「私の研究というか、治療法確立のために、とあるツテで招き入れたエーラムの魔法師です」

 カダフィは、はっきりとそう断言した。そして、もはやこれ以上隠しても仕方ないと判断した上で、そのまま全てを語り始める。

「あの病気の正体は、厳密に言えば『混沌の病気』ではなく、『もともとこの世界に存在していた病原菌』が、『聖印の中』に入り込んで発症する病気なのです」

 「聖印に病気が入り込む」というその表現自体、普通の人が聞いても全く意味が分からない説明なのだが、カダフィはそのまま語り続ける。

「本来、あれは元々『腐虫病』と呼ばれるバルレアの風土病でした。その名の通り、虫の身体が腐っていく病気で、基本的には虫達の間で感染する伝染病だったのです。ところが、『その病気を患った虫』と『バルレアの瞳から発生する投影体』が、何らかの形で結びついて生まれた怪物が発生しました。独立した個体同士が融合したのか、交尾によって発生した混血体なのかは分かりません。ただ、なぜかは分かりませんが、その腐虫病の病原菌はなぜか混沌との親和性が高いようで、『混沌核そのもの』と融合したのです」

 混沌核と病原菌の融合という話は聞いたことがない。ただ、生命学部出身のブランジェは、病原菌を「生物の一種」として捉える解釈には馴染みがあるため、一つの可能性として十分にあり得る話のように思えた。

「そして、聖印がその混沌核を浄化する時に、『その混沌核の内側に入っている腐虫病の因子』を浄化出来ないまま聖印に取り込むことで、聖印の中に病原菌が取り込まれるということが、稀に発生するようです。それが聖印の中で徐々に増幅し、やがて身体に悪影響を与えるようになる。そして、その病原体が聖印の内側にあるが故に、何らかの形でその病原体を排除しようとしても、聖印がそれを守ってしまう。だから、純然たる医学・薬学の力でしか治せないのです」

 つまり、聖印が浄化出来るのはあくまでも混沌だけであるが故に、混沌核に取り込まれていた「アトラタン由来の病原菌そのもの」は消し去ることが出来ず、そして聖印そのものも本来は混沌から生み出されたものである以上、「混沌核と親和性の高い病原菌」を内側に取り込んでしまうこともある、ということらしい。この仮説自体、一部の原理主義的な教義解釈を掲げる聖印教会の信徒達に聞かせれば激怒させかねない内容であるが、ブランジェは黙ってそのまま話を聞き続ける。

「この腐虫病による症状を治す方法は、私は既に確立させました。腐虫病に感染した聖印を持つ君主の身体に腐虫病が出現した場合、身体に聖印の形をした痣が現れますが、その悪影響が身体全体に広がる前に、先程サンドラさんに対して処方したように、私の作った薬をその痣に塗り込むことで、症状をひとまず鎮めることは出来ます」

 実際のところ、それが本当の意味で確立されたのは、つい先刻、サンドラの症状が全快した瞬間である。つまり、ブランジェにしてみれば、恋人を実験台にされたようなものなのだが、あの状況では他に手が無かった以上、そのことを責める訳にもいかない。

「ただし、聖印の中にその病原菌が入っている限り、また再発する可能性があるでしょう。その病原菌を完全に排除する方法に関して、私の仮説が間違っていなければ、まず最初にやるべきことは……、聖印を割ることです」

 その発言は、聖印教会の信徒にとってあまりにも重い。君主によっては、その行為そのものを信仰上の理由から拒む人もいるだろうが、君主ならざる身であるカダフィは気にせずそのまま話を続ける。

「そして聖印が混沌核になった直後に、私の薬を『気体』の状態にして混沌核を覆い尽くす。そうすることによって、混沌核の内側に潜む病原菌を消滅させることが可能になります。しかし、これを実行するためには、まずその工程中の周囲の混沌濃度を下げなければならない。これが可能なのは魔法師だけ。君主の方々には出来ません。そして、薬を気体化することが出来るのは、魔法師の中でも錬成魔法師だけです。故に、錬成魔法が使える『彼女』が必要だったのです」

 そこまでの話を聞かされれば、確かにブランジェとしても納得は出来る。そもそも「薬を気体化して混沌核内の病原菌を消滅させる」などという行為自体が本当に可能なのかどうかは見当もつかないが、そのような仮説を思いついたのであれば、実際にやってみようと考えるのも、そのために必要な人材を(学術院としての倫理に反する手段を用いてでも)確保しようとするのも、学問を研究する身として理解出来なくはない。

「実はこの件に関しては、人体学部の中で、何度か提案はしたのです。この技術を確立するためには魔法師の協力が必要であるから、エーラムとの間で共同研究を進めることを認めてほしい、と。しかし、人体学部の教授会の賛同は得られませんでした。反対された理由は二つ。一つは、エーラムと手を組むこと自体への倫理的観点からの反対。もう一つは、この技術を外に流出させずに、神聖学術院の中だけで独占した方が、我々の経済的・権威的優位を保てるだろう、という戦略上の問題です」

 仮に完治する方法が確立されなくても、症状が発生し続ける度にカダフィが生み出した薬を使用し続けるだけでも君主の生命は守られる。その意味でも、聖印教会の教義に反してまで宿敵エーラムと手を結ぶ必要はない、と考えるのは、神聖学術院の教員達にとっては自然な発想である。もっと穿った視点に立てば、世界各地の腐虫秒に感染した君主達が、完治させることが出来ない状態のまま「一生、バランシェ産の薬がなければ生きられない状態」が続く方が、むしろ神聖学術院の地位向上に繋がるのではないか、と考える者もいたのかもしれない。

「そういう訳で、教授会からは私の提案は却下されてしまい、『魔法師の技術を借りずに完治させる方法を確立させるように』と言われたのですが、正直、どうしてもその技術を確立させる目処が立たなかったので、こっそり『彼女』を招き入れたのです。私の親戚の娘という名目で」

 実際のところ、カダフィがどのような人脈から彼女を招き入れたのかはまだ説明されていないのだが、ブランジェとしては、その点にはあまり興味はなかった。むしろ重要なのは、その方法で確実にサンドラの症状の再発を防げるのか、ということである。

「まだその仮説は、正しいとは立証されていないのよね?」
「そうです。その立証のための前段階として、病原菌そのものの強度を確認するために、生物学部の方々にご協力頂きまして、その腐虫病を、あそこで飼われている実験動物の昆虫達に投入した上での生態実験なども繰り返しているのですが、あまり公に出来無い研究ということもあって、正規の研究施設を使わせてもらえず、なかなか進捗もおぼつかない状態なのです」

 「昆虫」と聞いた瞬間、ブランジェの脳内では先刻のエイル達が語っていた「巨大な蝶」の話が思い起こされたが、ひとまず今のこの時点での本題からは外れる話題であるため、その点については何も言わず、彼の話を聞き続けた。

「先程の侵入者の背後にいる組織に関しては、色々な可能性があります。エーラムかもしれませんし、パンドラかもしれませんし、あるいはヴァレフールやグリースという可能性もあるかと」

 確かに、もし彼のこの仮説が正しいのであれば、その技術を求める勢力はいくらでもいるだろう。だが、この点に関しても、今のブランジェにとってはあまり関心のない問題である。

「なお、この病気には潜伏期間があります。聖印の中に取り込んだ上で、それがいつ病気として発現するかは個人差が大きいようで、はっきりとは言えません。そして、その聖印を従属聖印などによって受け取った人にも感染する可能性はあります。サンドラさんは、本学に来る前に日輪宣教団にいましたよね。日輪の方々は以前にバルレアに遠征に行っていた時期があった筈です。おそらくその時に感染したのでしょう。ただ、そこから先代学長を経由して、現聖徒会やあなたにも感染している可能性はあります。感染しているかどうかの検診は、私ならば可能です」

 入学前にサンドラが有していた聖印は、先代学長であるミリシーズに預けられ、その後、聖徒会書記となった際に再び従属聖印として受け取ったので、確かにブランジェや他の聖徒会役員の面々にも感染している可能性はあるだろう。だが、ブランジェは自分自身の感染の危険性よりも先に、まずサンドラの完治のための道筋を考えることで、既に頭が一杯になっていた。カダフィの話がひと段落したことを確認した上で、彼女はおもむろに口を開く。

「ひとまず、その仮説が立証されていないというなら、一度、『誰か』で試す必要があるわね」
「そうですね。彼女の同意があるなら……」

 カダフィがそう言ったところで、ブランジェは首を横に振る。

「一人、同じ症状で苦しんでいる方を知っているわ。まず、その人で試してみた上で、上手くいくようなら、次にサンドラちゃんでお願い出来ないかしら?」

 つまり、ブランジェの中では、自分の恋人に対して処方する前に、エイルの兄、すなわち「他国の国主」を「実験台」とする計画が湧き上がっていたのである。彼女がエイル達よりも先にカダフィと接触したいと考えていた最大の理由はここにあった。

「ほう? その人は、この学術院の人ですか?」

 その問いに対して即答すべきかブランジェが迷っていると、カダフィは付言する。

「何が問題かというと、魔法師の協力を得ることに同意してもらえるかどうか、ということなのですが……」

 ユージーン・ニカイドは唯一神への信仰心が強いことで知られており、契約魔法師も雇ってはいない。だが、ユーミルに魔法師が全くいない訳ではない。「男爵」にすぎない爵位で一国の国主を務めていることからも推定出来る通り、彼の傘下には独立君主も多く、その中には魔法師を雇っている者も皆無ではない。そして、ユージーンはそれらの者達を黙認出来る程度には魔法を許容出来る立場であるらしい。
 とはいえ、実際のところユージーンに対してその処方を用いることに関しては、ひとまずエイルに相談してみる必要があるだろう。

「同意するかどうかは分からないわ。ただ、説得してみる価値はあると思う」
「私としては、正直誰でもいいので、早く試してみたいのです。昆虫相手の実験には、もう飽きたので」

 相変わらず、他人の神経を逆撫でするような物言いのカダフィであるが、もはやブランジェはその点については耐性が出来たようで、彼のその発言を聞き流しつつ、話を続けた。

「私の案に協力して下さる代わりに、あなたの研究を私個人として裏から支援するというのはどうかしら?」
「それは非常に助かります」

 カダフィはそう答えたところで、ふと「あること」を思い出す。

「学長殿、実はこの話、『学長のお父上』も興味を示していて下さっておりまして、エーラム以外で『優秀な錬成魔法師』に心当たりがある、とも仰ってました。まぁ、私はまだエーラムの方が安心出来る気がするので、今のところ『そちらの筋』には頼っていませんが」

 その発言もまた、いくら「娘」が相手とはいえ、不用意に語って良い話ではないのだが、ひとまずブランジェはその点についても深くは追求せず、彼を連れて研究室へと戻ることにした。

3.6. 第四の主星

 一方、サンドラによって診療室へと案内されたエイルは、ひとまずベッドに横たわって養生していた。そしてサンドラが部屋を去ったところで、脳内に、再び「謎の声」が聞こえてくる。

《……聞こえていますよね?》
(幻聴ではない、というのか……)

 さすがにここまで聞こえ続けることに対して、エイルも認識を改め始める。

《ずっと前から、あなたに語りかけてはいたのですが……、おそらく近くに「同胞」が増えたことで、声が通りやすくなったのでしょう》
(同胞?)
《具体的に誰かは分かりませんが、「何か」が共鳴しているような気はします》
(なるほど。よくは分からないが、誰かが話しかけているということは、信じざるを得ないようだが、これは一体……)

 「謎の声」との間で「会話」が成立していることもあり、徐々にその「存在」をエイルが実感し始めたところで、「謎の声」は本題を語り始める。

《私はあなたの死後、星界という世界に転生した後、約2000年前にこの世界に投影されたものです。そして……》
(待ってくれ、ちょっと待ってくれ、話を書き取らせてくれ)

 エイルはそう言うと、おもむろにベッドから起き上がって、懐から紙と筆記用具を取り出す。彼はもともと、夢で見た内容を記録する習慣があるため、その時の要領で、「謎の声」の語る内容を書き記していく。彼(?)の話を要約すると、以下のようなことらしい。

  • 「謎の声の主」の現在の名は、天機星。
  • 天機星は元来は星界(Starry界)に存在する星。
  • 星界の星達は「他の世界の英雄」が死後転生した存在。
  • 天機星の前世は、アトラタン界のエイル・ニカイド。

 「星界」などという異界については、エイルは全く聞き覚えがない。もっとも、学者の道を志していたとはいえ、異界に関する本格的な知識に関してはエーラムがほぼ独占している以上、そもそも知らなくて当然の話ではある。また、「転生」という概念に関しても、この世界ではそれと混同されやすい「投影」という現象が発生していることもあり、それがどこまで現実性のある話なのかはよく分からない。だが、ひとまずエイルはそのまま黙って話を聞き続ける。

  • ある時、星界に破壊をもたらす「大毒龍」が現れた。
  • 大毒龍がどの世界から転生した存在なのかは不明。
  • 大毒龍は天機星を含めた108の星によって倒された。
  • 108の星は全てアトラタン界出身の星達であった。

 この辺りの話についても、それが「異界の話」である以上、エイルとしては信憑性のある話なのかどうか確認のがないまま、エイルは淡々と箇条書きを続けていく。

  • 大毒龍は過去に二度、アトラタン界に投影されている。
  • 1回目は約2000年前の大陸東部のシャーン地方。
  • その直後に108の星もアトラタン界の夜空に投影された。
  • 108星は大毒龍を倒すため、異界に転生した自分達を召喚。
  • 大毒龍は倒したが、ここで108星のうち100星は力を失う。

 約2000年前ということは、混沌爆発(カオティック・バン)によって発生した極大混沌期の初期の時代であり、アトラタン全土で大規模な混沌災害が多発していた時期だと言われている。この時代には強大な怪物達が世界各地に出現し、それを阻止するために尽力した異界の神々や英雄達の伝承も残っている。おそらく、天機星が語っているこの話も、その伝承の一つなのだろう。
 ちなみに、シャーン地方とは、アトラタン大陸東岸のシェンムと呼ばれる地域の北部を指す地名であり、現在はユーミルと同じく大工房同盟に所属するホアン・ヨースという君主が治めている。ホアンの爵位は侯爵であり、その傘下には1000万を超える人口を抱えているらしいが、ブレトランドからはあまりにも遠いため、その実態はエイルも正確には把握出来ていない。ただ、文化的にはブレトランド近辺の大陸西岸諸国とは全く異なる生活圏の人々であるらしい。
 いずれにせよ、ここに来てようやくアトラタン世界の話にはなってきたものの、遥か遠い昔の異国の話である以上、まだそれほど深く内容を実感出来る話ではない。だが、ここから徐々に話の本筋へと近付いていく。

  • 大毒龍の二度目の出現は約400年前のブレトランド。
  • 8星は英雄王エルムンドと七人の騎士に力を与える。
  • 残りの100星は隕石化されて大毒龍に叩き込まれる。
  • 大毒龍は倒されるが、100星はこの時点で完全に消滅。
  • 8星は夜空に残ったが、その輝きは常人の瞳には映らない。

 「英雄王エルムンドと七人の騎士(および一人の名を伝えられていない魔法師)」が「大毒龍ヴァレフス」を倒したという伝承は、ブレトランド人ならば誰でも知っている。ユーミル人のエイルにとってはあまり馴染みがある話ではないが、それでもその存在自体には聞き覚えがある。
 そして、いよいよここからが「本題」である。

  • まもなく大毒龍が三度目の投影を果たそうとしている。
  • 大毒龍を倒すには、108星の星核(スターコア)が必要。
  • 108星の前世は皆、今のこの時代に生きている人々。
  • 星の前世の人々には星核を作り出せる力がある。
  • 8星の前世ならば、夜空の8星を見ることが出来る。

 ここまでの話を聞いた時点で、ようやくエイルは一つの明確な「心当たり」に到達する。

(じゃあ、夜空を見るたびに見えていた「あの星々」は幻覚ではなかったんだな)

 エイルは確かに、昔から(彼自身はそこまで正確に把握してはいないが、厳密にいえば「聖印を受け取った時」から)「他の人には見えない星」が見えていた。ようやくその謎が解けたことで合点がいった彼は、そのまま天機星の話を聞きながら箇条書きを続ける。

  • 8星の前世は、8星の声を聞くことで星核を作り出せる。
  • 100星の前世は、8星の星核に触れれば星核を作り出せる。
  • 8星の前世は、他人が星の前世か否かを判別出来る。
  • 100星の前世が星核が生み出せば、夜空の星も蘇る。
  • 現時点で既に、100星のうち12の星が復活している。

 この話を聞かされたことで、確かに最近になって、夜空に見える星の数が増えていたことをエイルは思い出す。ここ最近は兄の不在で仕事量が更に増え、徹夜続きとなっていたので、疲れ目によって星が重なって見えていたのかと思い込んでいたらしい。

《今現在、あなたの他に、もともとあった八つの星の前世の人々のうち、三人は既に目覚め、星核を作り出しました。「最初の一人」は英雄王エルムンドから直接その力を受け取りましたが、「残りの二人」は天空の両星からずっと語りかけていたものの、なかなかその声が届かず、近くに「残り百人の同胞」の中の何人かが近付いて来た時に、ようやく声が通りやすくなった。つまり、今の時点であなたに私の声が届いたということは、既に今のあなたの近くにそういった方々が集まっているのかもしれません》

 普通の人が聞いても今ひとつ理解し難い話だが、エイルは自分の言葉でその状況を整理する。

(なるほど。何らかの周波が重なって、結果的に声が通りやすくなった、ということか)

 この反応から、どうやらエイル(自分の前世)が思っていた以上に理解力のある人物だと実感した天機星は、そのまま直接的に話を進める。

《では、まずは実際に星核を作り出すために、あなたの思い描く「理想の未来」を思い描いて下さい》

 星核は、自分自身にとっての道標であり、それが未来の姿としての星核へと繋がる。エイルはこの数年間を通じてずっと願い続けてきた「自分にとっての理想の未来の世界」の様相を、素直に思い描いた。

(人員が適切に配備され、皆が適切な時間だけ働ける社会を……)

 彼が改めてそう強く願った瞬間、その想いが結晶化し、青白い星核が生まれる。

(これが、私の願い……)
《これが百八個揃えば、大毒龍にも勝てる筈です。その上で、同じようにこの星核を作り出すことが出来る人物が誰なのかは分かりませんが、その人物が何らかの『力』を使っている場面に遭遇すれば、直感的に分かる筈です》

 ここで言うところの「力」とは、聖印もしくは混沌(魔法・邪紋・投影体)の力であることは、エイルにも概ね察しはついた。

《その上で、「聖印を受け渡す時」のような感覚でその人物に触れれば、あなたの「星核の力」を伝播させることが出来る筈です》
(なるほど。そちらの事情は分かった。こちらも、折を見て探してみることにしよう)
《分かりました。そちらも色々と立て込んでいるようですし、今は眼前の問題を解決することに尽力して頂ければ結構です。以前の事例でもそうでしたが、このような形で星々が集まる時は、何らかの立て込んだ事情が発生している時のようですし、それもやむを得ぬことでしょう》

 「以前の事例」とは、天機星の同胞である天魁星・天雄星・天威星の前世の者達(ノエル・ルキウス・ラスク)が星核を作り出した時の状況のことである(ブレトランド水滸伝1ブレトランド水滸伝2ブレトランド水滸伝3参照)。夜空に浮かび続ける8星は、星同士の間でそれぞれの状況を共有出来ているらしい(なお、彼等の語り口調が画一的なのは、彼等が本来用いている「星同士の間で用いられる意思疎通の手段としての言葉のような何か」を「人間の言葉」に翻訳する過程で「最も一般的な人間の口調」へと変換されているからである)。

(今度は、事前に連絡してくれるとありがたい)
《いや、連絡はしていたのです。その声が届かなかっただけなので。おそらく、今後はいつでも、私とあなたで意思疎通は可能となるでしょう》

 そんなやりとりを交わしつつ、エイルはひとまず「眼前の問題」の解決のために、再びカダフィの研究室へと戻ることにした。

3.7. 広がる危機感

 ブランジェとエイルがそれぞれの案件についての方針を確定させていた頃、カダフィの研究室へと帰還したサンドラは、その場に捕縛されたまま放置されていた侵入者を学内の警備施設へと連行するようにシャルルに依頼した上で、自分自身もまた学内警備の任務へと戻って行った(シャルルが体調不良かもしれない、ということはウルスラしか知らず、この時点で彼女は部屋の中にいなかったので、誰も彼を止める者はいなかった)。
 そして、彼等が去ってからしばらくした後、新たな人物が研究室に現れる。タケルと同じ歴史学部に所属するピーター・アルスターである(下図)。彼は元来は芸術学部の一員であり(ブレトランド水滸伝3に登場したレディオスの元学友でもある)、同学部の廃止後に歴史学部へと転じたものの、現在も一人で趣味の彫刻を続けている、変わり種の学生であった。


「あ、帰ってきたんだ」

 部屋に入って来ると同時に、彼はタケルと目が合い、思わずそう呟く。二人はそれほど親しかった訳でもないが、タケルが旅立つ直前の「聖印喰い騒動」の時に、ちょっとした関わりがあった(もっとも、互いに相手の事情をどこまで把握しているのかは定かではない)。

「あぁ、ちょっと用事があってな」
「カダフィ先生は、いない?」
「あぁ。今はブランジェと話をしているよ」

 そんな会話を交わすピーターの手の中には、「大きな虫籠」の取っ手が握られている。そして虫籠の中には、明らかに通常よりも大型のバッタが収納されていた。タケル達の中でその「巨大な昆虫」に対する「嫌な予感」が広がる中、ピーターは少し間を開けた上で、独り言のように呟く。

「そうか……、それは……、うん、どうなんだろうな……、うん……」
「何かあったのか?」
「いや、何かあったのかどうかは分からないけど、とりあえず、これを渡しておいて」

 そう言って、彼は虫籠をタケルに手渡す。

「あぁ、分かった」
「『他にも何匹か見つかったから、何とかした方がいいよ』って言っといて」

 もし、これが「あの蝶」の同類だとすれば、かなり危険な存在ということになる。それが何匹もいるのだとすれば、相当な一大事である。

「こいつ、どこにいた?」
「『山の上』の方」

 「山の上」とは、学術院全体の南西部の一角を指す言葉であり、タケルが日頃よく使っていた訓練場などが存在する。ちなみに、生物学部からも比較的近い区域である。

「分かった。ありがとう」

 タケルがそう言って虫籠を受け取ると、ピーターは淡々とした様子で研究室から出て行く。そんな彼と入れ替わりに、エイルが戻って来た。

「さすがに10分も寝ると、目も覚める……、おや、学長殿の姿が見えないようだが?」
「今、カダフィ先生と話をしている」
「そうか。では、しばらく待たせてもらうよ」

 彼がそう言ったところで、ふとタケルが持っている虫籠に気付く。

「おや? これは?」
「あぁ、それは、ピーターって奴が来て、置いてったんだ。カダフィ先生に渡してくれって言われてたんだけど……」
「これは……」

 エイルが改めてまじまじと虫籠の中のバッタの様子を覗き込む。明らかにそれは、混沌の力で大型化された存在のように思えた。タケルの近くにいたシェリアもまた、同様にその様子を眺めつつ、呟く。

「まずいですよね……」

 彼女もまた、先刻の「蝶」と遭遇している。彼女は遠くから射掛けただけだったので、間近で凝視した訳ではないが、自分の放った「聖印の力を込めた二本の矢」のうち、一矢は避けられていたことからも、尋常ならざる身体能力の持ち主であったことは間違いない。

「しかもさ、まだ他にもいたって言ってたんだよな……」

 タケルがそう呟くと、エイルも危機感を募らせる。

「それは、早急に対策を……、あ、いや、しかし、ここは私の管轄では……」
「大体の場所については、さっきピーターが言ってたんだけどさ。どうする?」
「とはいえ、大学の方に連絡をしなければ、我々で勝手に処置する訳にも……」
「でもさ、人を殺せそうな蝶が他にもいるのに、放置してていいのか? しかもこの、一般開放されている日に」
「そうだな……、臨時対応として手を出さざるを得ないか……」

 エイルはそう呟きつつ、もう一人の「学生」であるライザーに視線を向ける。彼女はまだ微妙に体調が悪いようで、少し虚ろな目をしているが、それでもどうにか気力を振り絞って答えた。

「そ、そうですね……。どちらにしても、私はユーミルの件に関しては部外者ですし、むしろこの虫の件の方が、私の専門に近い話ではあります。山の上の方面というのは、私の学部の管轄である可能性が高いので、ここは私が……」

 彼女はそう言って立ち上がろうとするが、明らかに本調子ではない。そんな中、ホーデリーフェが「また何か余計なことをしたんだろうな」と言いたそうな顔をしながら呟く。

「多分、これはカダフィ先生が研究していた実験が関連した話だと思う。さっきの彼は、所属は歴史学部なんだけど、『雑用係として雇ってほしい』と言ってフラっとやってきて、割と手際がいいから、先生は重宝してた」

 彼女がそう説明する中、この場に残っていた「赤毛の少女」は黙して何も語らない。エイルは悩ましい表情を浮かべながらバッタを眺めつつ、最悪の事態を想定し始める。

「対処療法にしかならないかもしれないが、ある程度は『掃除』をした方がいいだろうな……」

 彼がそう呟いたところで、ブランジェとカダフィ、そして護衛のウルスラが研究室に戻って来た。カダフィはタケルが持っている虫籠を見るなり、驚愕の表情を浮かべる。

「あれ? どうしたんだ、その虫籠? え? バッタ?」

 カダフィは思わず駆け寄り、虫籠の中身を凝視する。

「あぁ、今さっきピーターが、先生に渡してくれって」
「ほう? 特に『発注』はしてなかった筈なんだが」

 その発言の意図がよく分からないまま、隣にいたエイルが付言する。

「とりあえず、『山の上』の方で沢山外に出回っているらしいので注意した方がいい、と言ってました」
「何!? それはまずい! それはまずいぞ! それは……」

 カダフィの慌てた様子を見て、ブランジェはそれが先刻カダフィが話していた「生物学部に依頼していた実験」であろうと推察する。だが、外来の人々を目の前にしたこの状況において、彼にその話をさせるのも非常に外聞が悪いし、これから協力を申し出る予定だったエイル達との関係を悪化させてしまうかもしれない。

(どうしよう……、このままじゃ計画が……、でも、ここでまた私が彼を連れ出すのも明らかに不自然だし、それはそれで周囲に不信感を……)

 ブランジェが困惑する中、即座にその空気を読み取ったホーデリーフェが、唐突にカダフィの腕をがっしりと掴む。

「先生! 学長との面談が終わったなら、次は私とのお話です! よろしいですよね!?」

 有無を言わさず、そう言ってホーデリーフェは研究室からカダフィを連れ出そうとする。二人の関係に関する噂を知っている者が見れば、個人的な痴話喧嘩を始めようとしているように見えなくもないが、それでもこの非常事態で「何か事情を知っていると思しきカダフィ」を連れ出すこと自体、やはり不自然に思える。ましてや、その二人の関係について一切知らされていないウルスラの心象は最悪であった。

(この学校の警備はどうなっているの……? しかも、明らかに何か不祥事が起きたことを隠蔽しようとしている……?)

 少なくとも、娘の体験入学の付き添いで来たウルスラとしては、気が気ではない。そして、今も娘が学内のどこにいるか分からない状態で、危険な虫が跋扈していると聞かされたら、黙ってここに残る訳にもいかなかった。

「カダフィさん、すみません! 私はやらなければならないことが出来ましたので、護衛は『そちらの方』にお願いします!」

 無理矢理連れ去られていくカダフィに対して、ウルスラはシェリアを指差しつつそう告げると、即座に廊下へと飛び出し、そのまま階段へ向けて走って行く。娘が心配であることも当然だが、聖印を持った者が自衛のために撃退し、それを吸収してしまう可能性も十分にある。ウルスラはまだその実験動物の正体を知らないが、それでも「自分の直感に基づく疑念」を捨てられる要素は見つかっていなかった以上、その点についても当然危惧していた。
 そして、護衛を託されたシェリアは、そのままカダフィとホーデリーフェの後を追う。一方で、まだ微妙に顔色が悪いライザーは、ウルスラの後を追って走り出した。

「待って下さい! 山の上へ行くなら、ご案内します。私の学部の問題でもあるので!」

 実際、現状においてウルスラはこの学内の地理について殆ど何も知らない。反射的に駆け出してはみたものの、ライザーの案内は確かに彼女にとって必要だろう。
 そして、体調不良を押して必死で走り出すライザーの後ろ姿を目の当たりにしたエイルは、タケルに視線を移す。

「タケル、お前も行っていいぞ。面倒臭い話は私が聞いておく」
「じゃあ、そっちは頼んだぞ、兄貴」

 そう言ってタケルもまた彼女達を追って駆け出して行く。そして、ブランジェはエイルとの対談のために、彼を「先刻までカダフィと密談していた研修室」へと連れ出す。その結果、この研究室には、赤毛の少女だけが一人取り残されることになる。

(とりあえず、「あの二人の問題」は、「あの二人」の間で解決してほしいな……)

 彼女はそう思いつつ、カダフィを連れたホーデリーフェ(とそれを追うシェリア)が走り去って行った方向を眺めていた。

3.8. 同床異夢

「話を聞きたいのは山々ですが、それどころではなさそうですね」

 研修室へと案内されたエイルにそう言われたブランジェは、ひとまず、爆発の件に関しては「侵入者が暴れた際に機材が破裂して起きた事故だった」と説明した上で、「虫」に関しては「学内で管理を厳重にして調査をする」という方針を提示する。エイルにとっては、これらの問題は直接的には自分達には無関係なので、特にそれ以上の説明は要求しなかった。

「その上で、病気の話ですが、先程カダフィ先生に尋ねたところ、解決策がある、ということでしたわ」
「なるほど。それは朗報です」
「ただし、そのためには『三点』理解していただきたいことがありますの」
「では、要点を教えて下さい」

 エイルはそう言って、筆記用具を取り出す。

「まず一つは、この病気を治す方法の理論は確立されているものの、まだ誰もそれをおこなったことがないから、大きな危険性があり、失敗・成功の責任は私達には負えない、ということ」
「つまり、理論段階のため実証実験はこれから。臨床実験をこれからおこなうことに同意してほしい、ということですか?」
「そうですね」
「了解です。病気の治療に失敗したことに関して責は問いません。そちらを頼る以外に方法がないのですから、それはやむをえないことです」

 現時点でエイルは「他の患者(サンドラ)」がいることを知らない。もし、そのことを知った上で、自分の兄を「実験台」に使おうと考えていることが知られたら、話は全く変わってくるだろうが、ひとまずその点に関してはブランジェは隠蔽に成功した。

「二つ目は、この治療法には魔法師の力を伴う、ということ」
「特殊な技能を持つ部外者の立会いが必要、ということですね……」

 しかもその「特殊な技術」は、神聖学術院においてもユーミル国内おいても「不認可の治療法」ということになるが、その点に関しても仕方がないとエイルは割り切る。彼の中では、「宗教上の教義」よりも「兄の命」の方が遥かに重要であった。

「……分かりました。その点も了解です。で、最後の一つは?」
「三つ目は、魔法師の力を頼るということからも分かる通り、私達にとってこの研究は秘密裏に進めているものであり、他国に対して、何の利益もないまま、おいそれと協力は出来ません」
「確かに、そうでしょうね。私に出来る範囲であれば協力はします」
「政治的に何かを要求する訳ではありませんが、それなりの経済的対価を支払って頂きたい」

 ブランジェとしては、先刻のカダフィの話を受けた上で、人体学部の教授会を納得させるには相応の金銭的利益が必要であろうと考えた上での提案であった。その点については、エイルも一定の理解を示すものの、一つの保留条項を提示する。

「それについては、術後の経過を見た上で判断、ということでよろしいですか? 治療をおこない、無事に回復したことを確認した上で、10年間かけて分割払い、という形にして頂きたいのですが、よろしいですか?」

 実際のところ、治療が成功するかどうかは分からない。一時的に回復したように見せても、それがすぐにまた再発するようでは意味がない。そのことを理解させる上での牽制の意味を込めた上での提案なのであろう。そして、この点に関してはブランジェにとってもむしろ好都合である。あくまでもエイルが「一時的な対処療法」ではなく「長期的に有効な治療」を求めているのであれば、「魔法師の力を借りた上での完治療法」の実験台となってもらうには、極めて望ましい状況と言えよう。

「分かりました。ただし、そのお金は公に出来るものではないので、形式としては……」

 ブランジェが何らかの裏金送金の手段を提案しようとしたところで、先にエイルの方から妙案を提示する。

「それについては、幸い、ここには私の家族が在籍しておりますので、彼への『仕送り』という名目でお送りする、という形でお願いします。ただし、病状が再発した場合、そこで『仕送り』は中止させて頂きます。こちらとしても一国の主の命を賭けるのですから、そこは納得して頂けると幸いです」
「分かりました」
「で、治療に関しては、どちらで? 兄をこちらに移送させた方がよろしいですか?」

 整備的には、こちらの方が整っているだろう。だが、ブランジェとしては何らかの想定外の混沌事故が起きた時のことを考えると、「学外での出来事」という形にした上で、知らぬ存ぜぬを貫き通したい、と考えていた。

「そもそも、病人をここまで輸送するのも難しいでしょうし、ユーミル内で『魔法師が介在することが黙認されている地域』でおこなうのはどうかしら?」
「では、ユーミル国内の病院で、口裏合わせが出来そうなところを探しておきましょう」
「よろしく頼みますわ」

 ブランジェはにっこりと笑顔を浮かべる。そんな彼女に対してエイルは右手を差し出した。

「分かりました。これからも良い付き合いが出来ることを期待していますよ」
「えぇ、わたくしも」

 そう言って二人は握手を交わす。こうして、ブランジェは「実験台」と「資金源」を手に入れ、エイルは「兄を治せるかもしれない手段」に辿り着いたことで、ひとまず安堵の表情を浮かべる。その上で、ひとまず二人もまた「山の上」の状況を確認するために、現地へと向かうことにしたのであった。

 ******

「……そういう訳で、彼女は魔法師なんだ。私の研究上、どうしても彼女が必要だった。そして、これは神聖学術院の教員として『危険な橋』である以上、君を一緒に渡らせる訳にはいかない。だから、君を私の元から遠ざける必要があったんだよ」
「それで?」
「いや、まぁ、その、それだけなんだが……」
「あえてそのことを私に教えたのは、どうしてなんですか?」
「それはまぁ、ほら、この状況だし、もう本当のことを話すしかないかと……」
「別に、私にまで言う必要はないんじゃないですか?」
「え? いや、だって、君が私をこうやって連れ出したのは、君が話を聞きたがっていたからじゃないのか? だとしたら、さすがにもう隠し続ける訳にはいかないし……」
「私があなたを連れ出したのは、あの場であなたが余計なことを言って、学外の人達に学内の恥を晒すのを防ぐためです。それ以上でもそれ以下でもありません」
「あぁ、なるほど……、そうか、それは、気を使わせてしまって、悪かったね」
「で、あなたとしては、脅されて仕方なく白状した、というだけなんですか?」
「脅された、とは思ってはいないよ。ただ、私が何も言わずに君を遠ざけたことに関して、君はきっと怒っているだろうなと思ったから、この機会に本当のことを伝えるのも、それはそれで悪くないとは思ったんだ」
「えぇ、そりゃあ、怒ってましたよ、あの時は。でも、今はもう『あの時の私』とは違いますし、別に今更本当の理由を聞きたいとも思ってませんでしたよ」
「そうか、じゃあ、何の意味もない自供だった訳だね……」
「誰もそんなことは言ってませんが」
「え?」
「聞きたいとは思っていませんでしたけど、聞いたことに意味があるかどうかは別問題です」
「どういうことだ?」
「あなたが、どういう気持ちでそれを私に伝えたのか、が問題なんです」
「どういうも何も、この状況になったら伝えないと解放してくれないと思ったから伝えた訳で。まぁ、それは私の勘違いだったみたいだけど……」
「本当に、それだけですか?」
「……何が言いたいんだ?」
「私があなたをこの状況に追い詰めなければ、あなたの中に『私にそのことを伝えたい』という気持ちは湧き上がらなかったんですか?」
「そりゃあ、まぁ、君への罪悪感はあったと言えばあったし、いずれ時が来たら、君にも伝えた方がいいのかもしれない、とは思っていたよ。実際、君にも真実を知る権利はあるだろうと思ってはいたから」
「伝えた上で、どうしたかったんですか?」
「……さっきから、何を言っているんだ? さっぱり話が見えない。君らしくもないよ、そんなまどろっこしい言い方は」
「えぇ、そりゃあ、私らしくもなくなりましたよ。『昔の私』とは違うんですから」
「それが、私のせいだと言いたいのかい?」
「ご自由に解釈して下さい。いずれにせよ、あなたが私に『真実』を伝えたことに『罪悪感』以上の意味がないのなら、もう何も言うことはありません。学長からお呼び出しがあるまで、ここで私と一緒に軟禁されてて下さい」
「軟禁、なのかい? 今のこの状況は?」
「私はそのつもりです。扉の外のシェリアさんは護衛としてあなたを守っているのでしょうけど、私としては、あなたを狙う刺客よりも、あなたがこぼす失言の方が怖いです」
「なんだか、すまないね。巻き込まないようにするつもりが、結局巻き込むことになってしまったようで」
「私が勝手に巻き込まれに行っただけです。これから先は、相手が巻き込まれたくないと思っているかどうかを判断した上で、巻き込むかどうかを決めて下さい」

3.9. すれ違う星

 ライザーの案内でウルスラとタケルが「山の上」に到着した時、既にそこでは虫籠と虫取り網を手に飛び回っている学内の警備員達の姿があった。彼等を率いているのはシャルルである。どうやら彼もまた、ピーターから「巨大な虫」の話を聞いて、ウルスラ達よりも先に駆けつけていたらしい。
 ウルスラ達は彼から予備の虫籠と虫取り網を受け取り、カナブン、カマキリ、コオロギ、トンボなど、次々と発見される「巨大な昆虫」を次々と捕獲していく。ライザーはやはり体調が悪いようで本調子ではなかったが、主にタケルの見事な網さばきによって、次々と捕獲されていく。
 そんな中、再びピーターが彼等の前に現れた。

「あ、そっちもやってたんだ」

 そう言った彼の虫籠には、巨大なクワガタが捕獲されている。

「多分、もういないんじゃないかな、この大学構内には。『外』に逃げた分がいるかどうかは分からないけど」

 いつも通りに彼が淡々とそう語る中、やがて、エイル、ブランジェ、そして(ブランジェから話を聞いて同行することになった)サンドラが到着する。

「タケル、そちらの方はどうだ?」
「こっちは大量だぜ」
「こちらも有意義な話し合いが出来た。おそらく、兄の病気は治療が可能なようだ」

 エイルとタケルがそんな会話を交わしている中、ウルスラは真剣な表情で、学長であるブランジェに問いかける。

「それで、この虫は結局、何なのですか?」

 これに対して、ブランジェよりも先にライザーが割って入った。

「おそらく、今回もウチの生物学部が引き起こした失態ではないかと思われます」

 ライザーが所属する生物学部は様々な動物実験を恒常的におこなっている関係上、時折様々な問題を引き起こすことがある。そのため、学内の人々の間ではやや感覚が麻痺しているところがあるのだが、彼女のこの言い回しは、学外者であるウルスラにはあまりにも非常識に聞こえた。

「今回『も』!? 学長、この学術院には、こんな危険なことがよくあるのですか!? しかも、こんな沢山の外来の人達が来ている時に!?」

 ウルスラにそう問い詰められたブランジェは、平静を装いながら答える。

「これは、管理責任者を問い質す必要がありますね……」
「管理責任者は、あなたではないのですか!?」

 確かに最終的な責任は学長にあるが、現実問題として、彼女の預かり知らぬこともある。彼女がどう答えるべきか迷っているところで、横からピーターが口を挟んだ。

「そうは言っても、虫達そのものはおとなしい生き物なので。普通はそうそう人を襲うことはない。ただ、彼等にも防衛本能はあるから、自分に危機が迫っていると感じた時は、襲ってくることもあるだろう。たとえば、聖印を持っている人が自分に対して敵意を持っていると感じれば、本能的に対抗はするかもしれない」

 確かに、今のところ「虫に襲われた被害者」は、ウルスラ以外には存在しない。だが、聖印を持っていることが彼等の防衛本能を呼び覚ますというのであれば、今も学内のどこかで見学を続けているであろうラーヤが標的となる可能性も十分にあり得る、という話でもある以上、ウルスラとしては学長を問い質さずにはいられない。

「そもそも、明らかに『普通の生き物ではないもの』が脱走することが、この学校ではよくあることなのですか!? いくら混沌に寛容な学校とはいえ、こういうことを平然とやっているのですか!? 」
「この件に関しては、後日、関係者を集めて査問会を開いた上で、管理体制を見直しますので……」
「分かりました。それが、そちらの回答ですね」

 明らかに不信感を抱いた表情を浮かべながら、ウルスラはブランジェに対してそう言い放つ。そんな中、聞き覚えのある声が彼女の耳に届いた。

「こっちでまたおっきい虫がいるって聞いたんだけど、どこ?」

 その声の主は、先刻ウルスラ達にお菓子を配っていた少年・グリンである。彼の手には虫取り網が握られており、その傍らにはラーヤとエリーゼの姿もあった。

「あ、お母さん!」

 そう言ってラーヤが駆け寄ろうとするが、ウルスラは娘の安全が確認された喜び以上に、今のグリンの発言によって湧き上がった不安の方が上回っていた。

「また!? 他にもどこかで虫を見たの!?」

 鬼気迫る表情でグリンに対してそう詰め寄るウルスラだったが、グリンはそんな彼女の威圧感をも全く意に介さぬまま、呑気な口調で答える。

「いや、そうじゃなくて、そこのお兄さんが『おっきなバッタ』を虫籠に入れてたから、ここにいるのかなと思って」

 そう言ってグリンはピーターを指す。ちなみに、グリンの虫取り網は学内の売店で購入したものらしい。
 一方、ラーヤは楽しそうな表情でウルスラに語りかける。

「お母さん、あのね、私、あちこち見てきて、とりあえず、歴史学部と国家学部のどっちにしようかな、って迷ってるんだけど……」
「分かったわ、ラーヤ。歴史も、国のことも、私が教えてあげるから」
「え?」
「ここは、思ったよりも危険な学校だったわ。悪いけど、こんな危険な場所には長居しない方がいいわ」
「え? えぇ……、そんな……、せっかく、この子達とも仲良くなったし、私……、やっと同世代の友達が出来ると思って……」
「お願い! ここだけはやめて! あなたを危険な目に遭わせたくないの!」

 不審な侵入者。謎の爆発。危険な虫の脱走。それらの隠蔽。娘を預ける環境としては、あまりにも危険すぎるとウルスラは判断したのである。日頃はラーヤの意志を何より尊重しようとするウルスラであったが、さすがに今回は母としての危機感の方が強まっていた。

「分かった、お母さんがそう言うなら……」

 俯きながら悲しそうな顔でそう呟くラーヤの横から、グリンが声をかける

「じゃあさ、マージャ村に来ない?」

 唐突にそう言った彼に対してラーヤは驚くが、ウルスラはそれ以前の問題として、横にいた二人にも忠告する。

「とにかく、ここは危険だわ。この学校は危険だから、一刻も早くここから出た方が……」
「あぁ、うん。サービスで貰えるお菓子はもう全部貰ったから、別にもういいかなって」

 グリンがそう答えたところで、遠方から一人の少女(下図)の声が聞こえてきた。


「あ! グリン! やっと見つけた!」

 彼女の名はニコラ。グリンが暮らしているマージャ村の孤児院の最年長(13歳)であり、今回の神聖学術院見学の引率役である。彼女は息を荒げながら、グリン達の元へと走り寄って来た。

「すみません、多分、この子が迷惑かけたと思いますが、申し訳ございませんでした」

 勝手にそう決めつけて謝るニコラに対して、ウルスラは少し冷静さを取り戻した口調で、逆に恐縮しながら答える。

「いえいえ、こちらこそ、娘とよくして頂いて……」

 そんな二人の「保護者」同士の会話の横で、グリンはラーヤにニコラのことを紹介する。

「そうそう、この人がね、僕と同じマージャ村の孤児院にいる人で、他にも、僕と同い年くらいの子供達がいっぱいいるよ」

 楽しそうにそう語るグリンの様相から、ラーヤも少し興味を示し始める。

「ラーヤ、じゃあ、そこに行ってみましょうか」

 ウルスラがラーヤにそう言うと、彼女は嬉しそうに頷く。ウルスラとしては、とにかく一刻も早くこの地から立ち去りたかった。その上で、ラーヤには「もっと安全な場所」で友達を作ってほしいと思っていたので、この提案は渡りに船である。
 一方、もう一人の見学者であったエリーゼは、そんな彼等の様子を見ながら、少し残念そうな口調で付き人に対して語る。

「そっかぁ。じゃあ、私も帰ろうかな」

 エリーゼ自身は少しこの学術院に興味を抱き、ラーヤと一緒に入学しようと盛り上がっていたのだが、彼女が取りやめたことで、急に気持ちが冷めてしまったらしい。
 こうして、子供達はそれぞれの保護者に連れられる形で、学術院を後にすることになった。去りゆくウルスラに対して、エイルは最後に改めて軽く声をかける。

「先刻もお話しした通り、私はユーミルにて宰相を務めております。もし今後、ユーミルに立ち寄ることがあれば、ご連絡下さい。少しは便宜を図ることが出来るかもしれません」
「では、縁がありましたら、その時はまた」

 そう言って、ウルスラとラーヤはエイル達の前から立ち去って行った。いずれ彼女は再び彼等と出会う時が訪れることになるのだが、その「星の邂逅」がいつになるのかを知る者は、まだ誰もいない。

4.1. 修道会の事情

 その後、学術院全体としての公開講座の予定を全て終え、ブランジェとサンドラが人体学部へと戻ってきたところで、シェリアはカダフィの警護をサンドラと交代し、研修室へと場所を移動した上で、ようやく念願の「ブランジェとの会談」にこぎつけることになった。

「さて、もう随分と顔を合わせはしましたが、改めまして。月光修道会のシェリアと申します。このような忙しい中で、別件の用事を持ち出すのは申し訳ないのですが、あなたにお伝えしたいことがあって、参りました」
「それは、どのようなご用件ですの?」

 シェリアは改めて、月光修道会のベスダティエ司教の失脚の旨をブランジェに告げる。

「……という訳でして、この学園は月光修道会が運営している訳ですが、その月光修道会自体の代表者が現在不在という形になっています。そのため、次の代表者を選出するため、各地の有力者を回っているのですが、その有力な候補の一人目があなた、ブランシェ・エアリーズ学長です」
「つまり、あなたは私に月光修道会の代表になれと仰るの?」
「なれとは申しません。あなたも御多忙なようですし、現実的に出来ない、ということもあるでしょう。ですが、その場合は、他に誰がふさわしいか、あるいはふさわしい候補を認めて頂きたいのです。私の個人的なプランとしましては、あなたに出来ないようであれば、このままユーミルに渡り、ジークリンデ大司教に話を持って行くつもりですが」

 ブランジェにしてみれば、あまりにも唐突に降って湧いた案件であり、どう答えれば良いのか、全く見当もつかない。そもそも、今はサンドラの治療のことで頭がいっぱいで、それどころではない、というのが本音であった。
 しばらく沈黙が続いた後、改めてシェリアが口を開く。

「長い間代表者が不在という訳にはいきませんので、数ヶ月間も待つ訳にはいきませんが、だからといって、今この場で答えを出せと言う訳でもありません。数日はこの街に滞在するので、少しお考えいただければ幸いです。もちろん、その間に何か事件が起きた場合は、同じ聖印教会に所属する身として、出来る限りのお手伝いは致しましょう」

 「月光修道会の代表」という立場がどれほど多忙なのかはブランジェには分からないが、いずれにしても、学長との兼任は難しいだろう。シェリアもそのことは理解していたので、無理なら無理で出来れば誰か推薦してほしいと考えていたところだが、基本的には学術院内で生活しているブランジェには、それほど広い人脈がある訳でもない。

「そうね。私も今は学長として忙しいですし、学内で起きる事件への対応もありますから」
「まぁ、そうでしょうね」
「ですから、あなたの仰る、ジークリンデさんを推薦させて頂きたいです」
「分かりました。ではそのお言葉、ジークリンデ大司教に届けさせて頂きましょう」

 ブランジェとしても、ユーミルとの友好関係を示したい、という思惑もある以上、それが最善手であるように思えた。彼女がシェリアの用意した推薦状を記入し終えたところで、シェリアは改めて、もう一つ気になっていたことを問いかける。

「では、月光修道会の件はそれでいいとして、もう一つは単刀直入にお伺いします。一体、この学園で何が起きているのでしょう?」
「それは今はまだ調査中のことが多いですし、今の私の口からどうこう申し上げることは出来ません」
「分かりました。調査中ということでしたら、こちらからも少し協力させて頂きましょう。一つ、気がついたことがあるので……」

 シェリアは少し間を開けて、ブランジェの反応を伺いながら、話を続ける。

「……カダフィ教授の近くにいたあの女の子、何者かは知りませんが、混沌を操る特殊技能者のような気配を感じましたよ。お気をつけ下さい」
「ご忠告して下さり、ありがとう。気をつけておくわ」

 涼しい顔でブランジェはそう答える。実際のところ、シェリアも別に学術院内に魔法師がいたとしても別に構わないと思っている立場なので、それ以上のことは何も言わなかった。

 ******

 シェリアとの対談を終えた後、ブランジェは改めてカダフィを呼び出した上で「ユーミルに赴いて、ユージーン・ニカイドを相手に『錬成魔法を用いた上での完治療法』を試みる」という方針を提示する。さすがに一国の国主を実験台にするという発想にはカダフィも驚いたが、それを聞いて尻込みするような男でもなかった。むしろ、自身の編み出した医療技術が一国の命運を左右するという状況に対して、静かな興奮を覚えていたようにも見える。
 ただ、治療対象が男爵級聖印の持ち主となると、当初のカダフィの想定には無かった問題点が二つ浮上してくる。まず第一に、仮に混沌濃度を下げたとしても、男爵級聖印を割って作り出した混沌核内の病原菌を気体化薬で抹消するにはかなりの時間がかかるため、治療が完了する前に強大な投影体が出現する可能性は高い、ということである。そして、仮にその投影体が友好的な投影体であったとしても、最終的にユージーンに聖印を返さねばならない以上、どうしても討伐せざるを得ない。そのためには、それなりの戦力を用意しておく必要があるだろう。
 もう一つの問題は、男爵級聖印を割ることで生まれた混沌核から再び聖印を作り出すには、まず誰かがその混沌核を浄化する必要がある、ということである。出来れば男爵級以上の聖印の持ち主がおこなうことが望ましいが、ユーミル国内にユージーンと同等の聖印の持ち主はいない以上、エイルとタケル、更に出来ればあと数人の君主達の聖印の力を合わせることで共同浄化をおこなうしかないだろう。更に言えば、そこから「浄化で得られた分の聖印の欠片」を集めてユージーンの聖印を作り直す都合上、その共同浄化に参加するのは「聖印を持ち逃げしない」という意味で信頼出来る人々でなければならない。
 この二つの問題を解決するためには、ユーミル男爵領内の騎士達が総力を挙げて協力するのが理想だろう。だが、魔法師の力を借りる都合上、あまりこの計画にユーミルの君主達を参加させたくはない。かといって、(アントリアを含めた)異国の君主の力を借りるのも色々な意味で難しい。そうなると、現時点でブランジェが最も気軽に動員出来る戦力は、他ならぬブランジェ自身である。だが、出来れば彼女だけでなく、あと一人は騎士級以上の聖印の持ち主の協力があった方が望ましい、というのがカダフィの目測であった。
 一応、聖徒会の面々に依頼するという道もあるが、さすがに魔法師との協力に同意してくれるかどうかは分からない。エイルやタケルと共に行動しているライザーにしても、元々日輪宣教団出身であることを考えると、姉を助けるためのこの計画をそのまま打ち明けて良いかは微妙なところであるし、そもそもライザー自身がまだ本調子とは言えなさそうな体調である。
 つまり、現状において最も望ましいのは「神聖学術院にもユーミルにも所属していない、信用が置ける君主」ということになる。そうなると、父であるアントリア騎士団副団長アドルフの人脈を頼ってアントリア騎士を誰か派遣してもらうか、もしくは流浪の君主に依頼するという形になるだろう。後者に関しては、まさに今この地を訪れているシェリアが、今後はユーミル大司教であるジークリンデへの会談のためにユーミルへと向かう予定であると言っていたため、その意味では最も頼みやすい存在ではあるのだが、彼女が「混沌の使用」に関してどこまで許容出来る立場なのか、ということをブランジェは知らないため、迂闊に話を持ちかけるのは難しい。
 ブランジェは様々に思考を巡らせつつ、ひとまずは学内における腐虫病の状況把握のために、学長命令として聖印を持つ者達全員に「カダフィの検診」を受けるように布告を出した上で、その間に父アドルフに相談を持ちかけるべく、手紙を送った。幸い、今回の学術院の公開企画の関係で彼はバランシェの郊外に位置する来客者用の高級宿泊施設に滞在していたこともあり、すぐにその旨を伝えることに成功する。

 ******

 翌日、親子会談の機会に漕ぎ着けたブランジェは、ひとまず父に一通り「ユージーンの病状」と「魔法師の協力を得た上での再浄化計画」を話した上で、助言と助力を求める。アドルフは冷静に状況を確認した上で、まずは「再浄化作戦」に関する見解を述べた。

「男爵級聖印から生まれた混沌核を再び聖印化するのであれば、それ自体はユージーン殿の弟二人とお前がいれば大丈夫だろう。その混沌核から何らかの投影体が出現した場合のことを考えても、おそらくあと一人、お前と同格くらいの君主がいれば戦力的には事足りると思う。とはいえ、あまりこの情報を広げない方が良いのであれば、人員は慎重に選んだ方が良いだろうな」
「一人、心当たりはいるのですが……」

 ブランジェはそう答えつつ、シェリアのことを話す。今のところ、ブランジェの思惑としては「シェリアによるユーミル大司教ジークリンデとの会談に同席する」という名目で現地に行くという方針ではあったのだが、そのままシェリアにこの作戦のことを明かして良いかどうかについて、判断に迷っていたのである。
 その話を聞いたアドルフは、ひとまずシェリアに直接話を聞いてみることにした。

 ******

 その日のうちにアドルフがシェリアの宿を訪問すると、シェリアは意外そうな顔を浮かべながら彼を迎え入れた。

「そちらの方からご連絡があるとは……」
「月光修道会が大変なことになっているのであれば、私も他人事ではないからな」
「そういう意味では、あなたにもご意見をお伺いしなければいけなかったのですが……」

 本来、月光修道会内の立場を考えれば、ブランジェよりもアドルフの方が圧倒的に影響力は強い。ただ、彼はアントリア騎士団の副団長という「世俗権力側の重鎮」である以上、国の枠を超えた宗教結社としての月光修道会の後継者候補とは目されていなかった。
 その上で、彼は娘を後継者とする案に対しても、はっきりと断言する。

「まず、端的に言えば、ブランジェに月光修道会を任せるのは無理だ」
「でしょうね」

 その点に関しては、シェリアも既に本人にその意志がないことは既に確認済みであったし、それは彼女の中でも概ね想定通りの答えでもあった。。

「あいつはまだ学長に就任して一年足らず。正直なところ、今もまだ学生時代の延長線上の感覚で続けているようなものだからな。とてもではないが、まだ人々を束ねられる器ではない」
「とはいえ、一度、意見を伺い行かなければならなかった、という形式的な話もご理解頂ければ幸いです」

 実際のところ、立場的にはブランジェにも立候補する権利があることは確かである。その可能性を最初から排除した上で話を進める訳にもいかない、というのはアドルフにも分かる。その上で、アドルフは後継者問題についての持論を語る。

「ユーミルの大司教殿を推すという案には、別に私個人としては反対する気はない。ただ、あの地も人手不足の筈。そうそう気安く引き受けることは出来ないだろう」
「そうでしょうね。とはいえ、人手不足はベスダティエ司教の時代から変わりませんので。誰がトップであるにせよ、その下で私が忙しく走り回るだけですよ」

 実際のところ、他にも後継者候補は世界各地にいるので、シェリアとしては彼女もダメなら他を当たれば良いだけの話であるし、いざとなったらシェリア自身が後継者となる道もある。ただ、少なくとも各地の有力者達の意見を確認する前に、自ら立候補する気はなかった。
 アドルフは彼女のその辺りの事情を推察しつつ、自分にとっての話の本題を切り出す。

「さて、それはそれとして、当方としては一つ、貴女にお願いしたいことがある」

 アドルフはそう前置きした上で、「ユーミル男爵ユージーン・ニカイドの危機」について、娘から聞いていた話をそのまま伝え、その治療のために協力してほしいという旨を告げる。聖印教会内の事情に詳しいアドルフは、シェリアが過去に魔法師とも共闘して各地の混沌浄化に当たっていたという話を聞いていたため、そのことを理由に断られる可能性は低いと考えていたのである。

「とりあえず、我がアントリアの同盟国であるユーミルの危機を救うために、この計画に協力して頂けるのであれば、その見返りとして、私は月光修道会の後継者問題に関して『白紙の委任状』をあなたにお渡ししよう。あなたが『誰』を推薦したとしても、私はそれを支持する。それがたとえ『あなた自身』であっても」

 アントリアにおける実質的な聖印教会派君主のまとめ役であるアドルフにそう言われたシェリアは、素直に感服した表情を浮かべる。

「さすがです。交渉の仕方、人の喜ぶことの提示の仕方を心得ていらっしゃる」
「お気に召したようなら、何よりだ。不服がなければ、よろしく頼む」
「では、その旨、シェリア・ルオーネ、承りました」

 こうして、ユージーンの病原菌除去のための浄化計画に、四人目の君主が参戦することが決定された。なお、この時点でも、ブランジェの真の目的が「恋人を救うための人体実験」であることを知る者は、彼女自身とカダフィ以外には誰もいない。

 ******

 そして、この交渉と同時並行で進行していたカダフィによる「腐虫病検診」の結果、シャルルとライザーの体調不良の原因が同病であることが確定したことに加えて、シェリアの身体からもまた「陽性」の反応が示されることになる。
 どうやら彼女もまた、ウィステリア時代に遭遇した投影体を浄化した時に感染してしまっていたらしい。まだ潜伏状態が続いているだけで、本格的な発症には至っていないが(潜伏期間の長さは人それぞれで、シャルルのように即発症する者もいれば、サンドラやライザーのように数年後に発症する者もいる)、いずれにせよ、シェリア自身にとってもこの問題は無関係ではなくなってしまったようである。 
 一方、既にシャルルとライザーはカダフィから薬を処方してもらったことで症状は収まったものの、彼等とサンドラに関しては、カダフィの処方した薬がどこまで長期間にわたって症状再発を抑えられるかについては実証されていないということもあり、カダフィから再投与用の薬を受け取った上で、ひとまず今回の渡航計画には参加せず、それぞれ自室で安静に待機させた上で、エイル、タケル、ブランジェ、シェリア、カダフィ、赤毛の少女(錬成魔法師)の六人がユーミルへと渡航することになった。
 なお、赤毛の少女は自分のことを「リリー」と名乗っていた。おそらくは偽名だろうが、聖印教会に所属している君主達にとっては、彼女の真の素性を知ることに意味はなく、むしろ「謎の少女」のままでいてくれた方が色々と都合が良かったこともあり、誰一人としてそれ以上のことは詮索しようとはしなかった。

4.2. 完治療法

 数日後、ユーミルに到着した彼等は、まずユージーンに対してカダフィの薬を直接投与することで、彼を会話可能になった状態にまで回復させる。その上でカダフィは「すぐに『魔法師の力を用いた完治療法』をおこなわなければ、次に再発した時に命を落とすかもしれない」という(厳密に言えば正確とは言い難い)説明を施した結果、ユージーンは渋々彼等の方針を受け入れることに同意する。魔法師の力に頼ることも、一時的とはいえ聖印を割ることも、信心深いユージーンにとっては苦渋の決断であったが、他に方法が無いかのような説明をされてしまうと、その方針を受け入れざるを得ない。
 エイルはひとまず首都近辺の平原の一角に野戦病院を設置させ、そこにユージーンを移送する。国民の動揺を防ぐために、この計画は一般市民には極秘のまま進められたが、ユージーンの聖印が一時的に彼の身体から離れる都合上、一時的に彼の従属君主である者達の従属聖印が独立化してしまう(ユージーンが死亡したと誤解される可能性がある)ことから、彼等には「特殊な治療法をおこなう都合上、一時的に聖印を手放す」という旨を記した手紙を早馬で送った。
 こうして準備を整えた上で、エイル達六人がユージーンを取り囲んだ状態から、ひとまずリリーが混沌濃度を下げた上で、ユージーンは自らの聖印を破壊し、そこに生まれた混沌核の周囲に「気体化させた薬」を漂わせることで、混沌核状態のままその内側に潜む病原菌を弱らせていく様子を、カダフィが遠眼鏡を用いて確認する。彼にとっても、自分のこの理論を実証するのは初めてであったので、上手くいく保証はなかったが、自身の薬は思った以上に順調に混沌核内の病原菌を破壊し続け、やがて混沌核内の全ての病原菌の除去に成功したことを確認する。

「よし! これでもう大丈夫だ! さぁ、皆さん、この混沌核の浄化吸収を!」

 カダフィがそう叫び、四人の君主は聖印を掲げる。だが、この時点で既に混沌核は「収束」を始めていたことに、彼等は気付いていた。この段階まで至ってしまった混沌核は、もはや一度収束を完了させた後でなければ浄化は出来ない。そう判断した四人は、リリーに護衛させる形でカダフィとユージーンを避難させた上で、戦闘態勢を整える。
 そして四人が身構える先に現れたのは、一体の、巨大な像のような大きさの蟻の投影体であり、収束と同時にその巨大蟻は自分の周囲に子蟻(と言っても人間よりは大きい)の怪物を出現させる。どうやら、この巨大蟻は女王蟻のような性質を持っているようで、子蟻達は巨大蟻を守るように立ちはだかっている。この混沌核の元がユージーンの聖印である以上、たとえ友好的な投影体が出現したとしても、彼等にはそれを殺して浄化する義務があったのだが、幸か不幸か、この蟻達は出現と同時に目の前に立つ人間達を「捕食対象」と認識しているようで、今にも襲いかかろうとする雰囲気を醸し出していた。
 この難敵に対して、真っ先に動いたのはシェリアであった。おそらくこの子蟻達は巨大蟻の副産物であり、巨大蟻の混沌核を破壊すれば同時に消滅するであろうと判断した彼女は、聖印の力を込めた矢を巨大蟻に向けて二連射し、そのうちの片方が命中したところで、隣りに立つエイルが、彼女の光矢の威力を自らの聖印の力により増幅させたことで巨大蟻に大打撃を与え、そして巨大蟻の装甲がボロボロと剥げ落ちていく。
 更にエイルは、タケルとシェリアに聖印による加護の力を与えた上で、シェリアの周囲の時空の流れを歪めることによって再び彼女に光矢を放たせる。なお、この時点においてもエイルは一切の武器を手にしていない。彼は自分と兄の間での国主の座を巡る争いが起きることを避けるために、自分が武器を持って戦うことを自ら禁じているのである。それが、あくまでも補佐役として兄を支えるという確固たる意志の元で聖印の力を磨き続けてきたエイルならではの君主道であり、その意志の力こそが彼の聖印の強さの源であった。
 一方、立て続けにシェリアに矢を打ち込まれた巨大蟻は、怒り狂いながらその場で暴れ出し、周囲一帯に激しい地響きを引き起こすが、シェリアが聖印の力で大地の揺れを鎮めたことで、地割れの発生を防ぎ、四人は体制を整えた状態のまま戦線を維持することに成功する。
 そして、今度はタケルが聖印の力で生み出した光の翼を羽ばたかせて、子蟻たちを飛び越えて巨大蟻に対して直接拳で殴りかかった。その一撃で巨大蟻に的中すると、苦しみ悶える巨大蟻の周囲に子蟻達が一斉にタケルに対して襲いかかるが、それに対して後方からエイルとブランジェが聖印による防壁を作り出し、その防壁を突き破ってタケルに与えられた傷に対しては、更に二人がかりでタケルの傷を癒やし続ける。そして、この状況に業を煮やした巨大蟻は後方のエイル達に対して強烈な酸を吹きかけようとするが、それもまたブランジェによって生み出された光の壁によって完全に防がれた。
 そして、この時点で、エイルはタケルとブランジェが用いた聖印の力から、懐かしい気配を感じる。彼はタケルが聖印を使って戦う場面を見るのは初めてであるし、ブランジェとはそもそも知り合って間もない関係である。にもかかわらず、彼等の用いる聖印の力に既視感を感じたことから、それが「自分の魂と同調している来世(天機星)の中に刻まれた記憶」であろうと推察した(一方で、シェリアからはその力は感じられなかった)。
 その後も、蟻達は執拗に君主達に襲いかかるが、あらゆる攻撃はエイルとブランジェによって阻まれ(もしくは、命中して傷を与えてもすぐに癒やされ)、その間にタケルとシェリアによって着実に巨大蟻の身体は損傷していき、最終的にはシェリアの二度目の二連撃によって絶命し、その場に再び混沌核の残滓が浮かび上がる。
 その混沌の残骸を四人がかりで浄化吸収した上で、その「増加分の聖印の欠片」を一旦エイルに集め、エイル自身の手でユージーンに聖印を与え、即座にその聖印を独立化させることで、ようやく「ユーミル男爵ユージーン・ニカイド」は「五体満足な君主」としての本来の身体と聖印を取り戻したのであった。

4.3. 若き学徒達の未来

 その後、ユージーンは協力してくれたブランジェ達に深く感謝しつつ、彼女達を国賓として手厚くもてなすことを約束する一方で、エイルはこの場にいる面々に対して、先刻自分の中で感じられた「懐かしい気配」について説明した上で、自分の魂の中に入り込んでいる「来世の姿」としての「天機星」の言葉を、タケルとブランジェに対して伝える。

「……ということで、どうやら我々には使命があるらしいぞ」

 淡々とそう説明したエイルに対し、タケルもブランジェも当然困惑した表情を浮かべる。なお、この時点でこの話は近くにいたシェリアやユージーンの耳にも入っている。天機星は、なるべくこの情報は広げないようにと忠告してはいたが、エイルが大毒龍を倒すためにブレトランドに赴くとなれば、国主である実兄にそのことを伝えずに行く訳にはいかない。そして、聖印教会内において幅広い人脈を持つシェリアにも、今後何らかの形で協力を仰ぐ可能性がある以上、彼女に伝えておくことにも意味はある(そして二人共、そう易々とこの情報を広めたりはしないだろう、という意味でも信頼出来る人物でもあった)。

(兄貴、仕事のしすぎで、本格的に頭がおかしくなったのかな?)

 タケルが内心でそんな感慨を抱きながら心配そうな視線をエイルに向けると、その雰囲気を察したエイルは、目の前に「星核」を出現させた上で、タケルに向けてその星核を掲げる。

「まぁ、論より証拠だな。お前には、口で言うよりも、体験してもらった方が早いだろう」

 エイルはそう言いながら、その星核をタケルの胸にねじ込むように押し当てる。突然の行為にタケルが少し驚いた表情を浮かべると、彼は自分の身体の中に「何か」が入り込んで来るような感触を覚えた。そして、彼の心の中に「謎の声」が響き渡る。

《あなたの望む理想の未来を思い描いて下さい》

 この瞬間、タケルはようやくエイルの言っていた話が本当であることを実感するが、その上で、彼はこの「心の声」に対して、どう答えるべきか悩んでいた。

(それを見つけたいから旅をしているんだが、まだ見つけられていないんだよな……。ただ、なんだかんだで、俺の未来には、隣にライザーがいるんだろうな……)

 そんな述懐を抱きつつ、彼はライザーと共に歩んできたこの一年間の旅路を思い返す。

(でも、これまでも旅を続けてきて、色々なものに出会えたことは良かったな……。出来れば、これから先も気楽に色々なところに行けるような世の中になるといいな……。そのためには、平穏な社会が必要なんだろうな……)

 タケルの頭の中でそんな未来像が思い浮かんだ瞬間、彼の目の前に「星核」が現れる。それはエイルの星核とよく似た、青白い輝きを放っていた。この星の名は天傷星。別の世界に転生した先においても、流浪の徒手空拳の使い手として名を馳せることになる星なのだが、それはまた別の物語である。
 その様子を確認した上で、エイルは今度はブランジェに「星核を宿した右手」を差し出す。

「ブランジェ殿にも、出来れば受け入れて頂きたいです。友好の証として」

 彼女もまた、今の一連の流れの中で、確かに「星核」なるものが存在することを実感していた。そして、このあまりにも突拍子もない話が彼女の中であっさりと受け入れられたのは、もしかしたら彼女自身の魂が、無意識のうちにこの星核の存在に共鳴していたからなのかもしれない。

「ありがとう」

 彼女はそう言って、エイルの手を握る。すると、彼女の頭の中にも、同じように「理想の未来」を問う声が聞こえてきた。

(ひとまず今は、サンドラちゃんと楽しい恋人ごっこが出来れば、それでいいわ。未来は……、サンドラちゃんと楽しく暮らせる国が作りたいな)

 彼女がそう願うと同時に、彼女の目の前にも同じような光を放つ星核が現れる。この星核の名は天貴星。別の世界に転生した先においては、名家の主として仲間の無頼漢を匿い続けたことで知られる星となるのだが、それもまた別の物語である。

4.4. 口封じ

 一方、その頃、学長不在の神聖学術院では、カダフィの部屋に侵入した邪紋使いが、処分保留のまま密室で拘束され続ける状態が続いていた。当局側としては、彼の背後にいる組織が何者なのかを確認するために、自白毒などを用いた拷問を続けていたが、なかなか口を割ろうとはしない。だが、さすがに長期間の勾留で心が折れ始めたのか、何度か誘導尋問に引っかかりそうになったこともある。当局側は、あと一息で自白まで追い込めると意気込んでいた。
 そんな中、ある日の深夜に、一人の学生が密かに彼を勾留した部屋へと入り込む。その学生の名は、ピーター・アルスター。この学術院の動向を探るために、パンドラ均衡派から送り込まれた、地球人の投影体である。

「ちょっと君達は、派手にやりすぎたね。悪いけど、口を封じさせてもらうよ。万が一にも君が口を割ってしまったら、アストロフィから来てる子達が肩身の狭い思いをするからね。前途ある若者の未来を奪ってしまうのは可哀想だろう?」

 彼はそう呟きながら、椅子に縛られたままの状態で寝落ちている邪紋使いの心臓に、工具用の道具に見せかけた状態で常に携帯している暗殺針を突き刺すと、邪紋使いは意識を取り戻すこともないまま絶命する。
 ピーターが密かにパンドラ経由で調べた調査によれば、この邪紋使いの正体は、バルレア半島の西岸に位置するアストロフィ子爵領からの密偵である。アストロフィは幻想詩連合に所属し、邪紋使いを主力としてバルレアの瞳の攻略を目指す軍事国家であり、聖印教会への信仰を国是とする大工房同盟所属のユーミルにとっては不倶戴天の敵である。
 現在、そのアストロフィの一部においてもユーミル同様に腐虫病が蔓延しつつあり、その病気を治せる薬剤師が神聖学術院にいるという情報を得た彼等は、その薬剤師の身柄を確保するために密偵を送り込んだのである。アストロフィとしては、腐虫病の薬を敵対国であるユーミル(聖印教会/大工房同盟)側に独占されることを危険視するのは、当然の話であろう。
 なお、生物学部が管理していた実験虫達を解放したのも、彼の仲間の密偵である。それはカダフィの身柄確保のための揺動作戦であり、くしくもサンドラが病気で倒れたことで学内警備の指揮系統が乱れていたこともあって、そちらの作戦は想定以上の成果を上げられた(ただし、その虫達の中でも特に危険性の高い虫に関しては、事前にその動きを察知したピーターによっていち早く除去されていた)。だが、肝心のカダフィの身柄確保が、そのサンドラの発病に起因する学長の介入によって防がれてしまったのは、彼等にとってはなんとも不幸な巡り合わせである。

(君達には君達の事情があるんだろうけど、僕は今のここでの学園生活が気に入ってるんだ。バルレアでどれだけ人が死のうが、知ったことじゃない。僕の大切なこの「穏やかな学園生活」を、誰にも壊させはしないよ)

 ピーターは心の中でそう呟きつつ、誰にも気付かれないまま、その密室から立ち去って行くのであった。

4.5. それぞれの難題

「ユージーンを救って下さったことには感謝します。ですが、修道会の後継者の件については、さすがに無理です。私もこの国を放っておく訳にはいいかないので」

 ユーミル大司教ジークリンデ・ベルウッドは、シェリアからの申し出に対して、そう答えた。そして、その答えもまた、シェリアにとっては想定の範囲内であった。確かに現在のバルレアの緊迫した状況を考えれば、今の彼女にそれ以上の重責を負わせることは難しいだろう。
 一応、ジークリンデの中では(ホーデリーフェが危惧していた通り)、妹を呼び戻して彼女に大司教の座を与え、自分が月光修道会代表となる、という選択肢も考慮されてはいたが、妹がその方針に同意しないであろうことは想像出来たし、それ以前の問題としてジークリンデ自身が「世界中の同志達よりも、自国の安寧」を優先したいと考えていた。立場上、彼女は教皇直属の「世俗権力とは一線を画した君主」だが、半年前の大工房同盟会議にはユージーンの名代として出席したことからも分かる通り、実質的には「世俗権力寄りの聖職者」となりつつある。その意味でも、彼女は自分が「その器」ではないと考えていた。
 そして、こうなるとシェリアとしては、また別の候補者を探して世界各地を飛び回る必要がある。とはいえ、ここまでの交渉過程から、「守るべき土地と民」に縛られた者達では、現実問題として後任となることは難しいだろう、ということは彼女も実感していた。そうなると、必然的に「流浪の司祭」である自分自身が後継者となる道を、そろそろ本気で考えなければならないかもしれない。そんな想いを抱きつつ、ひとまずはバランシェの下町に残してきたノアと合流した上で、自分自身の聖印に内在する腐虫病の病原菌を除去するために、ひとまずはブランジェ、タケル、カダフィ、リリーと共に、ブレトランドへと戻ることにしたのであった。

 ******

 神聖学術院へと帰還したブランジェは、サンドラを説得した上で、彼女に「完治療法」を受けさせることにした。既に日輪の教義を捨て、「毒を以って毒を制す道」を受け入れていた彼女は、素直にその処方を受け入れる。
 ブランジェは聖徒会役員の面々にも事情を伝えた上で、彼等の目の前でサンドラに聖印を割らせて、カダフィとリリーの手による気化薬を用いた除去療法をおこなう。もし、この場で何らかの投影体が出現した場合は、役員の面々の協力によって殲滅する予定であったが、幸いにもサンドラの聖印はユージーンよりも規模が小さかった上に、一度ユーミルでの実証でリリーもコツを掴んでいたこともあり、彼女の混沌核から新たな投影体が収束する前に作業は完了し、サンドラは改めてその混沌核を浄化したブランジェの手によって従属聖印を授かることになった。
 同様に、シャルルもまた同じ手法で体内から完全に病原菌を除去する手術に同意する。彼は過去の経緯から、魔法師全般に対してあまり良い印象を持っていはいなかったが、自分自身が混沌の血を引く一族ということもあり、原理主義的に反対する理由はなかったため、彼の聖印からの病原菌の除去作業も、つつがなく成功に終わった(そして後日、まだ発症していなかったシェリアもまた、同様の処方を受けることになる)。
 その上で、改めてその技術を正しさを立証させたカダフィと、彼が密かに招き入れていたリリーの扱いに関しては、ブランジェの父であるアドルフを交えた学術院当局の協議の結果、ひとまずリリーの学内への逗留は認めた上で、今後はエーラム側にも段階的に「非公式の技術協力」を続けながら、薬の量産体制を測る、という方針で合意に至った。この過程でエーラム側にも一定の情報提供が必要となる以上、最終的には実質的にエーラムが技術を独占してしまう危惧はあるが、いつ再び誰にこの症状が発症するかも分からない状態である以上、今は着実に完治療法を確立させる方が優先という判断に達したようである。

 ******

 一方、もう一人の「陽性」患者であるライザーは完治療法を拒否して、今後は定期的にカダフィから薬を受け取り続ける、という道を選んだ。そもそも立場上、学内に聖印を持ち込むことが許される立場ではないので、その存在そのものを公にはしにくい、という問題もあるのだが、それ以前の問題として、彼女の中ではまだ日輪の教義を完全に捨てきれてはいなかった。自分にとって大切な存在である姉がその道を選ぶことは黙認出来ても、自分自身が魔法師の力を借りることは、彼女の中ではどうしても認められなかったのである。
 その上で、ライザーの中ではもう一つの大きな懸念があった。それは、彼女にとっての本国である神聖トランガーヌ内の君主達の間でも、同じ病原菌を持つ君主が内在している可能性である。ライザーの聖印は、日輪宣教団の創始者イザベラの娘ブリジット(現在のブレトランド支部長リーベックの妻)から受け取った従属聖印であり、その聖印が病原菌に感染していたということは、同じ病原菌が神聖トランガーヌの上層部内で潜伏している可能性は十分にあり得るだろう(彼等はかつてバルレアで大規模な混沌浄化作戦に関わったことがあり、サンドラの聖印もその時に感染していた可能性が高い)。
 おそらく彼等に対して、魔法師の力を用いた完治療法を勧めることは無理だろう。だが、カダフィの作り出した薬自体は純粋に「この世界の技術」で作り上げた薬なので、日輪宣教団の教義にも反しない。とはいえ、月光修道会という「異端組織」との間で彼等が素直に薬の入手交渉に応じるとは思えない。学術院側とすれば、日輪側がこの薬に依存せざるを得ない状態になるのであれば、強力な「弱み」を握れることになるので、同国に薬を輸出することに反対する声は出ないだろうが、誰がその仲介役となるのか、という問題が発生する。
 ライザーはこの状況に鑑みた上で、遂に自分の正体を学長や聖徒会役員の面々に明かした上で、自分が仲介役として神聖トランガーヌに薬を売り込みに行く役目を担いたいと申し出た。

「もしかしたら、このような話を持ちかけた時点で、私はかの国の人々に『裏切り者』とみなされて手打ちにされるかもしれませんが、その時はその時で、ただの半端者が一人消えただけだと思って、放っておいて下さい」

 決死の覚悟でそう語るライザーに対し、聖徒会の面々は彼女が身分と聖印を偽っていたことについては不問とした上で、彼女の提案を受け入れようとするが、実姉サンドラだけは反対する。

「いや、それならばむしろ私が……」
「姉上はダメです。姉上が帰ったら、確実に裏切り者扱いです。話も聞いてはもらえません。私なら、まだかろうじて許してもらえる立場にある」

 そう言われてしまうと、サンドラとしては確かに反論は出来ず、ライザーの申し出は学術院当局からも受理されることになった。その上で、彼女は一人で現地へと向かうために、タケルに別れを告げようとするが、当然、そんな話を聞かされたタケルが黙っていられる筈もない。

「俺も一緒に行く。お前だけが一人で危険なことをするのを、放っておける訳ないだろ」

 正直、ライザーとしても、彼がこう答えることは予想出来ていた。そして、彼のその答えを期待していた自分がいることも自覚していた。彼女はそんな自分の「弱さ」を内心で罵倒しつつも、彼と共に現地へと向かう方針を素直に受け入れる。
 現実問題として、ユーミル男爵の弟であるタケルという存在は、外交上の大きな切り札になる。もし彼をライザーと一緒に害するようなことになれば、聖印教会内において一定の影響力を持つバルレアの信徒達を敵に回す可能性もある以上、同行者としての彼の存在は、神聖トランガーヌ内の穏健派に対する牽制にもなる。こうして、本人達は無自覚のうちに、ライザーはタケルという強力な後ろ盾を手に入れた状態で、帰国の途へと就くことになるのであった。

 ******

 一方、ブランジェ達と別れてひとまずユーミルに残ったエイルは、自分の留守中にたまった諸々の作業を片付けつつ、今後また近いうちにブレトランドへと渡らなければならないことを想定した上で、自分が不在でも行政を機能させるための新体制の構築を急ぐ。
 その上で、今回は内密の旅路であったが、次に渡航する際には、アントリア内での行動を容易にするためにも、アントリア子爵代行であるマーシャル・ジェミナイとの間で会談の機会を持ちかけるのも必要もあるだろう、と考えていた(もっとも、最近はマーシャル自身があまり表舞台に登場していないため、一部では死亡説も流れているのだが)。
 そんな中、エイルの信頼する部下の官僚の一人が良縁に恵まれ、そろそろ結婚式を挙げたいという旨を聞かされる。どうやら縁組の話は以前からあったようだが、国主の重病という国難に鑑みて自粛していたらしい。エイルは素直にその部下の門出を祝福しつつ、不安が広がっていた首都の空気を払拭するためにも、大々的に挙式を勧める。あわよくば彼等が醸し出す幸せな空気が広がることで国主にもそろそろ身を固める気分になってほしいところではあるが、その話を持ち出すとヤブヘビになることは目に見えている以上、エイルはあえて何も言わずに、行政改革に向けての準備を淡々と進めるのであった。
 八つの光が揃うまで、未醒の星はあと四つ。夜空に希望が満ちるまで、未還の星は八十六。

タグ:

+ タグ編集
  • タグ:
最終更新:2021年08月30日 01:31