『見習い君主の混沌戦線』第11回結果報告(後編)
カルタキアに駐留する従騎士達は、魔境浄化と並行する形で、食料、医療、医療、教育、娯楽など、様々な分野において住民達の生活も豊かにするための手助けを続けてきた。
そして現在、カルタキアの北西岸の一角に、新たな施設の建設計画が進行しつつあった。それは「結婚式場」の建設である。これは、以前に出現した「ロードス島」の魔境の報告書の中に記されていた「縁結びの神殿」の情報に着想を得たソフィアの発案であり、カルタキアの若者達の結婚・出産を奨励すると同時に、いずれは「風光明媚な結婚式場」として海外からの来客を招こうという思惑もあった。
「まぁ、確かにカルタキアの海は綺麗だし、それなりに需要はあるだろうね」
結婚式場の「本堂」の窓から海を眺めながらそう呟いたのは、ヴァーミリオン騎士団の
ユーグ・グラムウェル
である。彼はエーラムで得た様々な異界の結婚式場の知識を、カルタキアの人々に伝授していた。
「ユーグさん、頼まれていた造花、これくらいの数でいいですか?」
式場の装飾担当の女性が、色とりどりの造花が入った籠を抱えながら、ユーグに対してそう問いかけてきた。この造花の技術も、かつてエーラムを訪問した異界人の投影体によって伝えられたものらしい。
「あぁ、うん。そうそう、こんなカンジ。この調子で、数と種類をどんどん増やしてほしい。出身地域によって、どんな花を結婚式に飾りたがるかも違うみたいだしね」
古今東西、花は大半の結婚式場において重宝される装飾品である。出来れば生花であることが望ましいが、カルタキアの気候に合わない花もあるし、来場者に合わせて様々な文化・風習に合わせるためにも、短期間ですぐに入れ替えられる造花の方が都合が良いのだろう(魔法が使えれば、その辺りも色々と融通は効くが、カルタキアではそうもいかない)。
「数って、最終的にはどれくらい必要なんでしょう?」
「全体の間取りが確定しないと決めにくいけど、多ければ多いほど、選択肢は広がる。あと、花だけじゃなく、葉っぱやツタも沢山欲しいな。出来れば、壁一面が隠れるくらい」
「それも、どこかの地域の風習ですか?」
「いや、それはむしろ、カモフラージュ用に欲しいんだ。建物の構造上、そう簡単に取り外せないような装飾でも、一部の人達にとっては結婚式場として不適切に思えるかもしれないから、来場者に応じて、そういう装飾を隠すためにね」
ちなみに、この手法もまた異界の結婚式場の風習である。ロードス島のターバ神殿がそうであったように、どの異界においても宗教施設が結婚式場として用いられることが多かったが、複数の宗教や宗派が混在する国においては、このような形で特定の宗派の聖章などを隠すことで宗教色を一時的に隠すといった手法を用いることで、一つの施設で様々な客の需要に対応しようとする試みは為されていたらしい。
「なるほど、宗教問題は色々と面倒なことになりかね……」
女性がそう呟きかけたところで、彼女の視界(ユーグの背後)に「一人の人物」の姿が映り、彼女は青ざめた顔を浮かべながら絶句するが、ユーグはそんな彼女の様子を一切気にせず、そのまま話を続ける。
「そうなんだよねー。異界の神様を信仰する人達への配慮とかも考えた方がいいだろうし、その辺りは慎重にしないと」
ユーグがそこまで言ったところで、彼の背後から「少年」の声が聞こえてきた。
「確かに、無用の争いを避けるための工夫は大切だと、僕も思う」
振り返ると、そこにいたのは星屑十字軍のレオノールであった。彼はこのカルタキアにおける聖印教会信徒の声を反映するために、今回の結婚式場の建設に協力している。
つまり、今回の案件において、もっとも気を使わなければならない存在なのだが、そんな彼に対して、ユーグは臆せずそのまま声をかけた。
「じゃあ、スケジュールの都合で入れ替えが間に合いそうにない時は、聖印教会の聖章や聖像を、上から蔦のカーテンとかで隠しちゃってもいいかな?」
露骨に無礼かつ不躾なその言い草に、装飾担当の女性は血の気が退いたような表情を見せるが、レオノールは笑顔で答える。
「構わないよ。そもそも聖章も聖像も、それ自体が重要な訳じゃない。あくまでも大切なのは、それぞれの心の在り方なのだから」
異教との共存の可能性について問われた場合は明言を避けることが多いレオノールだが、この点については特に迷うこともなく即答した。そもそも現在建設中に式場は全ての人々に対して開かれたカルタキアの公共施設である以上、一人の異邦人のすぎないレオノールには、式場の運営方針について深く介入する権限はない。
無論、「異界の神(=投影体)」を崇める風習の人々にも配慮するという方針に対して嫌悪感を示す信者もいるだろうが、それなら無理にこの施設を用いず、独自に自分達の礼拝堂で挙式すれば良いだけの話である。レオノールがそこまで割り切れる気性だということを理解した上での発言だったのかは不明だが、ユーグの言葉で場が険悪な雰囲気にならなかったことに、装飾担当の女性は安堵の溜息をついていた。
そんな彼等の前に、また別の従騎士が姿を現した。金剛不壊の
スーノ・ヴァレンスエラ
である。彼もまた、この結婚式場の建設計画に協力していた。その手には、建設工事全体の工程表が握られている。
「思った以上に多くの協力者が集まってくれたおかげで、今日予定していた作業はもう概ね終わったようです」
彼がレオノールにそう報告すると、横からユーグが口を挟む。
「なんか、自分達の結婚式場を自分で作るんだって張り切ってる人達が多いみたいだね」
「そうだな。既に挙式の予約を入れている市民もいるようで、絶対に期日までに完成させるという意欲に溢れている。とはいえ、資材搬入の都合もある以上、ここでペースを早めてもあまり意味がないのだが」
そんな二人の会話を聞きながら、レオノールは笑顔で答える。
「じゃあ、今日の工事はここまでとしようか。既に『お相手』がいる人達も多いなら、今は少しでも一緒にいる時間を増やしてあげた方がいいだろうし」
この少年君主が「男女の関係」についてどこまで理解した上でそう言っているのかは不明だが、ひとまずその方針にはユーグもスーノも同意する。その上で、スーノはユーグに問いかけた。
「ところで、カエラ提督は今、どこにいるか知っているか?」
「あー、確か、見晴台の建設現場の方に行ってるんじゃなかったかな」
「そうか。では、今からそちらにも報告に向かうことにする」
スーノはそう言って、彼等の元から立ち去っていく。もっとも、スーノがここでカエラの元へと向かう背景には、もう一つ「個人的な裏事情」も存在していたのだが。
「さて。では、僕達も今日のところは帰ることにしよう。ユーグ君、装飾担当の人達には君の方から……」
レオノールがそう言いかけたところで、彼は自分の背後に「不気味な気配」を感じ取る。
(この力……、間違いなく「魔境そのものの混沌核」と同等か、あるいは……)
彼は振り向きざまに背後に向かって、全力で《聖弾の印》を放つ。すると、そこには「漆黒の鎧を着た、眼鏡をかけた男」の姿があった。
男は間一髪のところでその聖弾をかわしつつ、冷や汗を流しながら語りかける。
「さすがは、今のこの街で最強の聖印の持ち主。まともに食らっていたら、いかにこの魔王ディアボロスと言えども、危なかったかもしれん」
「そうか……、君が領主さんの言っていた『ゴキブリのような生命力の男』だね。聞いていた姿とはちょっと違うみたいだけど、『僕達の世界』に合わせてくれているのかい?」
「結果的に『よく似た世界観』ではあるようだが、それが偶然かどうかは分からない。ただ、『他の私』が統べる世界よりも親和性が高いのであれば、『私の世界』に侵食された方が、この世界の者達にとって幸せなのかもしれぬぞ」
意味不明な言葉を並べながら、「魔王ディアボロス」と名乗ったその男は、レオノールに対して問いかける。
「勇者よ、私と手を組まぬか? 私の世界の侵食を見逃すなら、世界の半分をお前にやろう」
「どういう意味かな?」
「私はこの世界に『人類の敵』として君臨する。勇者であるお前は、私を倒そうとする人類を率いて、私との間で互いの駒を駆使した『ゲーム』を楽しむのだ。悪くないだろう?」
「なるほど。君は『ゲームの世界の魔王』なのか。だとしたら、それは『君達の世界』でやってくれ。ここは『ゲームの世界』じゃない」
レオノールはそう言って二発目の《聖弾の印》を打ち込もうとするが、その発動前に目の前から「魔王ディアボロス」は姿を消す。
「なるほど。これが彼女が言っていた《瞬間退場》という能力か」
彼はそう呟きつつ、呆然と今のやりとりを眺めていたユーグに声を掛ける。
「悪いけど、ちょっと『残業』に付き合ってもらえるかな?」
おそらく拒否権は無いのだろうと判断したユーグは、彼と共に結婚式場を走り回り、「魔王ディアボロス」の行方を探すことにした。
******
一方、本堂でそんなことが起きているとは露知らず、第六投石船団のカエラは、本堂の隣に建設中の(披露宴会場となる予定の)建物の屋上にて、北東に広がるカルタキアの近海を眺めながら建築士の話を聞いていた。
「いかがでしょう? 二人の愛を祝福する場として、ロマンティックな雰囲気を醸し出すには最高の景観かと思うのですが」
建築士にそう尋ねられたカエラは、困った表情を浮かべていた。
(それを私に聞かれても、正直、返答に困るのだが……)
カエラがこの施設の建築の任務を依頼されたのは、指揮官達の中で唯一の「妙齢の女性」だから(アストライアは性別不詳)、という事情なのだが、実際のところ、公私の全てをハマーン女王エドキアに捧げた身であるカエラにとっては、「結婚」という儀式自体が自分とは縁遠い概念であるため、何が正解なのかが分からない。
「……私は、このカルタキアの町並みは美しいと思っている。我が故郷ハマーンに勝るとも劣らない程にな」
「は、はぁ……、そう言って頂けると、恐縮ではありますが……」
「その町並みを築いたのがお前達なのだろう? ならば、お前達の美的感覚を私が疑う道理もない。このまま自分達の感性を信じて、建設を続けていけば良いだろう」
「……過分なお言葉、ありがとうございます!」
彼女の返答は何の答えにもなっていなかったが、ひとまず建築士はその言葉を受けて安堵したようである。
そこへ、工程表を手にしたスーノが現れた。
「カエラ殿、本日計画されていた建築作業は全て完了しました。本来の終業予定時刻よりも早いですが、レオノール殿から終業の許可を頂きましたので、今から少し、個人的な相談事をさせて頂いてもよろしいでしょうか?」
スーノのその言葉に対して、カエラは概ねその意図を察した上で、建築士を帰宅させ、スーノと二人でその場に残ることにした。
「さて、相談事とのことだが……、リズの件か?」
「はい。私は、この遠征が終わったらリズを自国へ連れ帰るつもりでいます。ゆくゆくは妻に迎え入れよう、とも考えている」
先日の巨大魔獣の魔境での一件の後、カエラの部下であるリズはスーノとの間で「男女としての交際」を始めた。この件についてはカエラもリズから報告を受けており、今回のカルタキア遠征が終わった後にスーノの元へ行きたいという彼女の意向も聞いていたのだが、カエラにとってリズを含めた第六投石船団の面々は「エドキアから預かったハマーンの財産」である以上、他国の従騎士の元に嫁ぎたいと言われたところで、そう易々と受け入れられる話ではなかった。
「リズの負債については私が買い取ります。まだ国庫を自由に動かせる身ではない以上、予約という形にはなりますが。利息をつけるならばそれでも構わない」
スーノのその言葉に対して、カエラは溜息をつきながら答える。
「金の問題ではない。リズはまだ自分のことを『金で買われた身』としか思っていないようだが、ただ金で買っただけの奴隷に、従属聖印を授ける筈も無かろう」
カエラはそう前置きした上で、話を続ける。
「私は、将来のハマーンを担う君主を育てるために、リズ達をこの地に連れてきた。そして、この地での戦いを通じて、彼女達は確かに君主として成長した。経験は金で買えるものではないし、相応の経験を経た君主を一人育てることがどれほど大変なことか、語るべくもあるまい」
実際、スーノ自身もまた、この地での戦いを通じて大きく成長した身である以上、そのことはよく分かっている。そのことを理解した上で、スーノは改めて問いかけた。
「貴殿は『部隊を抜けるなら国益を損なわずにそれを為せ』とリズに言ったそうだが、具体的に何が貴殿の言う国益にあたるのか、私に分かるはずもない。だが、貴殿がリズを手放す対価として私に何かを求めるのならば、私は手放しでそれに応じましょう。……無論、『君主同士が行う交渉』として妥当な範囲でですが」
真剣な表情でそう語るスーノを目の当たりにして、彼の熱意が本物であることを実感したカエラは、ハマーンの将軍の一人として、改めて真顔で彼に対して語りかけた。
「現在、我がハマーンは、ハルーシアが盟主を務める幻想詩連合から離脱した上で、アルトゥーク条約に加盟している。このアルトゥーク条約の設立理念が何か、知っているか?」
唐突に話のスケールが大きくなったことにスーノはやや戸惑いつつ、自分の答えられる範囲で率直に答えた。
「我々ハルーシアの大工房同盟に対する中途半端な姿勢に業を煮やした東方の君主達が、今は亡きアルトゥーク伯ヴィラールの遺志を継ぎ、新たな旗印の下で皇帝聖印の実現を目指すために設立した組織、と伺っています」
幻想詩連合と大工房同盟の対立の歴史は数十年に及ぶが、数年前に一度、その戦いに終止符が打たれようとしたことがあった。
それが「連合盟主アレクシス・ドゥーセと同盟盟主マリーネ・クライシェの結婚式」である。二人はかつてエーラム留学中に恋に落ち、両陣営の主要人物達を六年がかりで説得し、結婚への道を開いた。そして両者の父親達の持つ聖印の統合によって皇帝聖印が実現する筈であったが、結婚式場に現れたデーモンロードによって二人の父は惨殺され、聖印も失われ、両陣営はその責任を互いになり付け合い続けた結果、再び両陣営間の戦争の時代へと突入することになった。
マリーネの側は既にアレクシスへの愛は冷め、連合打倒による皇帝聖印実現に向けて動き出しているのに対し、連合盟主アレクシスはマリーネへの未練を捨てきれず、それ故に同盟との戦いに対して煮え切らない態度を続けている、というのが世間一般の認識である。そして、そのアレクシスの中途半端な外交姿勢が災いして、それまで連合の友好国だったダルタニアが同盟へと寝返り、そして、連合随一の名将と謳われていたアルトゥーク伯ヴィラールは命を落とした。現在のアルトゥーク条約に参加する君主の大半は、そのヴィラールと盟友関係にあった者達である。
「設立経緯自体はその通りだ。では、その『アルトゥーク伯ヴィラールの遺志』とは何か、知っているか?」
「そこまでは存じておりません。ただ、ヴィラール卿は我がハルーシアの国主であるアレクシス陛下の最大の理解者の一人であったと、ラマン艦長は語っていました」
だからこそ、そのヴィラールの意志を継ぐと宣言した者達がなぜ連合を離脱したのか、多くの人々は理解出来ずにいる。それはアルトゥーク条約に加盟している者達の大半も同様なのだが、この点について、カエラはエドキア経由でその真意を聞かされていた。
「ヴィラール卿の本懐は、連合盟主アレクシス・ドゥーセと、同盟盟主マリーナ・クライシュの愛を成就することにあった。そして、アルトゥーク条約の設立者であるテオ・コルネーロは、その遺志を実現するために、両者と対等な立場に立って両者の和解を実現するために、アルトゥーク条約を設立した。これが真相だ」
唐突に語られたその説明に、スーノは困惑した表情を浮かべる。
「そんなことが、本当に……?」
「不可能だと思うか?」
「……それは、分かりません。ただ、マリーネ卿には既にその意志が無いのでは?」
「表向きはそう振る舞っているが、ヴィラール卿は『それは彼女の本意ではない』と考えていたらしい。そして、エドキア様もアルトゥーク条約に参加しているということは、その憶測に同意しているのだろう。私が知る限り、エドキア様ほど『愛』に精通した人はいない。あの方がそう判断されたのであれば、私はその御意思を信じる。それが私の、エドキア様への愛だ」
その判断が妥当かどうか、ということ以前に、そもそも「他人の愛」のために軍事同盟を設立するという姿勢自体が(最終的にそれが「皇帝聖印の実現=世界からの混沌の消滅」に繋がる可能性があるとはいえ)常軌を逸しているようにも思える。少なくとも、まだ「愛」という感情に目覚めたばかりのスーノにとっては、あまりにも荒唐無稽すぎて、容易には飲み込めないだろう。
「では、アルトゥーク条約の設立理念は『愛』ということなのですか?」
「そうだ。そしてハマーンという国家自体もまた、『エドキア様の愛』と『エドキア様への愛』で成り立っている。だからこそ、あの方にこの件を相談すれば、おそらくは手放しで歓迎なさるだろう。特に対価をお求めになるとも思えない」
カエラはそう答えると、その表情と声色から、スーノは彼女の本意を概ね理解した。
「しかし、主君がそのような寛大な方だからこそ、あなたは忠臣として、純粋な国益の損失を許す訳にはいかない、ということなのですね」
「あぁ、その通りだ。しかし、私の許可があろうと無かろうと、エドキア様が許すと言ってしまめば、私はあの方の意志に従うしかない。だから、そもそも相談する相手が間違っているのだ。私のことなど気にせず、最初からエドキア様に上申すれば良い。そのためには一度、リズにはハマーンに帰ってもらう必要があるが、それすら許さないほど狭量な男ではなかろう?」
微妙に目線をそらしながらそう語るカエラに対して、スーノはあえて彼女の瞳を真正面から見据えながら、こう告げた。
「あなたはそれで良くても、リズはそれでは納得しないようです」
「ほう?」
「リズは貴殿に深い恩義を感じている。だからこそ、貴殿との間で遺恨を残すような形での除隊は避けたいと考えています。国主からの命令でやむを得ず、ではなく、貴殿にも心から納得してもらった上でハマーンを去りたい、と考えているのでしょう」
「……虫のいい話だな。人の心を動かすことがどれだけ難しいか、ということくらい、今の彼女ならば分かっているだろうに」
カエラは再び溜息を付きながら、改めてスーノへと視線を戻し、彼のことを「同僚の部下」ではなく「異国の君主」と見做した上で語りかける。
「貴殿はハルーシア貴族の御曹司だと聞いている。リズは下賎な傭兵の娘だ。貴族令嬢としての振る舞いはおろか、敬語もろくに使えない。仮に貴殿がその気だとしても、貴殿の実家の者達は、彼女を新たな一族の一員として迎え入れると本気で思っているのか?」
「時間はかかるかもしれませんが、必ず説得してみせます」
「説得出来なかったら、どうする? せめて愛人の一人として引き取る形にするか?」
なお、ハマーン女王エドキアには男女問わず幾人もの愛人が存在しており、カエラもまたその一人である。その大半はアルトゥーク戦役で命を落としたが、その後も彼女は(新たに契約した契約魔法師も含めて)新たな愛人を囲い続けている。そのような女王に対して、カエラの中で嫉妬心があるのか否かは不明だが、少なくともカエラ自身は「愛人」という文化を否定する立場ではない。しかし、そんな彼女に対しても、スーノは強い口調で明言する。
「状況次第で何らかの方策を考える必要があるでしょうが、少なくとも、リズ以外の妻を娶るという選択肢は、私にはありません」
「そこまで断言出来るほど、貴殿はリズのことを理解しているのか? まだ付き合い始めて間もない関係であろう?」
「確かに、まだ彼女の全てを理解出来ている訳ではありません。しかし、これから理解を深めていきたいと考えています」
「では、参考までに聞くが、これまで他の女性に同じような感情を抱いたことはあるか?」
「ありません」
はっきりと即答したスーノに対して、カエラは内心で「そうだろうな」と呟く。
(おそらくはリズにとっても、これが「初恋」なのだろう。互いにそれ以外の「選択肢」を知らないからこそ、相手のことを唯一絶対の存在だと思い込んでしまう。だが、その想いが成就するほど、男女の関係というものは甘くない。しかし……)
改めてカエラは先刻の自分の言葉を思い出す。
(……「それ」を実現するためにエドキア様が戦っている以上、私がその想いを踏みにじる訳にもいかない。この男が「本気」なのだとしたら、たとえその「本気」が一時の情念によって燃え上がってるだけの衝動だとしても、それを否定する権利は私にはない)
彼女はスーノに対して、語気を強めながら問いかける。
「おそらく、リズもまた貴殿と同じ気持ちなのだろう。彼女もまた、貴殿のことはまだ理解しきれていないだろうが、それでも理解したいと思っている。そんな彼女と、今この瞬間の感情だけでなく、過去も未来も全て含めて、本気で向き合うつもりはあるのか?」
「過去」という言葉が告げられた瞬間、スーノの中に「カルタキア来訪以前の過去の自分の所業」が思い浮かぶが、ここで彼はほんの少しだけ間を開けた上で、改めて断言する。
「あります」
カエラは、その「ほんの少しの間」から、彼の返答が脊髄反射ではなく、きちんと自分の中の「何か」と向き合った上での返答であることを確信する。
「ならば、ハマーンの将として、貴殿に求める代償は一つだ」
「それは?」
「『幸せになること』だ」
再び面食らったような表情を浮かべるスーノに対して、カエラは語り続ける。
「連合と条約の垣根を超えて二人の君主が結ばれれば、それは『陣営を超えた愛の成就』を目指すアルトゥーク条約にとっての有力なプロパガンダの一つとなる。将来有望な一人の君主を失うことに対して、これ以上に国益に叶う代償はないだろう」
「つまり、アルトゥーク条約の理念の実現のための『見世物』になれ、と?」
「そう理解してもらって構わない。仮に正妻として迎え入れることが出来なくても、『唯一無二の恋人』として生涯を共にするという意志を大々的に喧伝すれば、それだけでも十分に効果的な印象を人々に与えることが出来る。そうなれば、貴殿達以外にも、内心で他陣営の従騎士に心惹かれている者達が同様に動き出すかもしれない。そんな空気は広がれば、両陣営の盟主にも、一定程度の影響を与えることが出来るだろう」
能天気な楽観論のようにも思えるが、古今東西、君主同士の国際結婚は和平実現のための常套手段である。そして、数ヶ月前には条約盟主のテオ・コルネーロもまた、あえてマリーネの中に眠った「本心」を呼び起こすために、彼女の目の前で自身の恋人との愛を見せつけるという行為に及んでいた(それがマリーネの心境にどのような影響を与えたかは不明だが)。
「私とリズの結婚に、そこまで大きな効果があるかどうかは分かりませんが、元より私は、リズを幸せにするつもりで……」
そこまで言いかけたところで、カエラは遮るように言葉を挟む。
「勘違いしてもらっては困る。私が求める対価は『リズを幸せにすること』ではなく、『二人で幸せになること』だ」
「私にとっては、リズを娶ること自体が『幸せ』です。ですから、その二つの間に違いはありません」
「貴殿がそう思っているとしても、それが周囲に伝わらなければ『見世物』としての意味がない」
「では、どうしろと?」
「幸せそうに笑え。それが、貴殿へ求める代償だ」
堅物で禁欲的な気性であるスーノは、あまり人前で笑うことはない。リズと二人きりでいる時に、彼がどんな表情でリズと向き合っているのかは不明だが、少なくとも、リズと付き合いだして以降も、彼の表情そのものに大きな変化は見られない。
「とはいえ、いきなり笑えと言われても困るのは分かる。私も『作り笑顔』は苦手だ。一方で、リズはいつでも、幸せな時は本気で幸せそうな笑顔で笑うことが出来る。そんな彼女だからこそ、貴殿も彼女に惹かれたのだろう?」
「それは、確かに……」
「だから、彼女の十分の一でも、百分の一でもいい。少しでも幸せな感情を表に出せるようになれ。そして、彼女と本気で向き合った上で、『自分は幸せになっても良い存在だ』と心の底から思えるようになれ。そうすれば、無理して作り笑いを浮かべなくても、自然と笑えるようになるだろう」
カエラはスーノの過去のことは何も知らない。ただ、明らかに彼が「何らかの重い業」を背負って生きてきたであろうことは、彼が醸し出す雰囲気から、うっすらと察していた。
「……貴殿の御意向は理解しました。『見世物』になることの是非も含めて、改めて、リズと話し合うことにします」
スーノはそう告げた上で、カエラの前から退散した。そんな彼の後ろ姿を眺めながら、彼女はふと、先刻の建築士に問われた件を思い出す。
「……リズの意見も、聞いてみる価値はあるかもしれないな」
彼女がこの地で結婚式を挙げるかどうかはともかく、少なくとも今の時点で「理想の結婚式」への具体的なイメージを抱ける可能性があるとすれば、自分よりはリズだろう。彼女はそう判断した上で、リズの元へと向かうことにした。
******
それから数刻後、レオノールとユーグは、結婚式場の近くの海岸に『異空間への入口』と思われる空間の歪みを発見する。そして、おそらくその先に存在する魔境には「これまでの魔境とは根本的に異質な何か」が潜んでいることを実感する。
「これは……、早めに手を打たなければならない気がするね。とはいえ、従騎士の大半はまだ遠征から戻って来ていないし……」
レオノールはそう呟きながら、ユーグに伝える。
「とりあえず、僕が先行して潜入してみる。式場の人達には、一刻も早く避難するように告げてほしい。あと、カエラ提督にも、出来ればこっちに来てもらうように伝えてほしい」
「わかりましたー」
ユーグがそう言って式場へと戻り、レオノールは「空間の歪み」へと足を踏み入れる。
「今回は『本気』を出さなければならないかもしれないな」
それから数刻後、星屑十字軍の面々は「レオノールとの心の繋がり」が途切れ、全員が独立聖印化する。更に、この日の夕刻には、ユーグとスーノもまた、それぞれの上官との従属関係が断ち切られることになるのであった。
☆合計達成値:219(193[加算分]+26[今回分])/100
→生活レベル1上昇、次回の最終クエスト(FE)の達成値に59点加算
カルタキアの訓練場にて、第六投石船団の
リズ・ウェントス
は、いつになく真剣な表情で、聖印を用いた弓の訓練に明け暮れていた。
(今のままやとアカン。もっと強大な魔物を倒せるようになるには、聖印の力を高めんと……)
そんな彼女の前に、(スーノとの対談を終えた後の)カエラが現れる。
「随分と気合が入っているようだな。いつもより、心が矢に乗り移っているように思える」
意外そうな顔でそう告げるカエラに対して、
「あ、カエラ様。どうも、おおきに」
「男に骨抜きにされていないかと心配だったが、杞憂のようで安心した。しかし、これから貴族の貴婦人になろうと目論んでいる者が、なぜそこまで聖印の訓練に精を出す? 嫁いだ後も、ただの良妻には収まらず、君主として彼を支えるつもりなのか?」
「え? あ、いや、まぁ、その、そこまで話が進んでる訳やないんやけど……、その前に、まず、聖印を育てんとあかんなと思うてな」
「ほう?」
「カエラ様には、ここまでウチを育ててくれた恩義がある。せやから、せめて聖印を返す前に、少しでも多くの混沌を浄化吸収して、大きな聖印にしてから返さへんとあかんな、と思うたんよ」
リズとしては、それが自分に聖印を預けてくれたカエラに対しての恩返しのつもりであった。カエラが「ハマーンの将軍」として、ハマーンの国益を損ねるような結婚には同意出来ないという旨をリズは聞かされていたため、せめて「聖印の総量」だけでもプラスになるように、という配慮である。
「別に、聖印を返す必要はない」
「え?」
「カルタキアにお前達を連れてきたのは、聖印の総量を増やすためではない。『聖印を扱える君主』を増やすためだ。お前の聖印が仮に騎士級聖印にまで成長したところで、それを返した上でお前がハマーンを去るようでは、私に課せられた使命が達成出来たとは言えない」
「そ、それはそうかもしれへんけど……、せやったら、どないすれば、ハマーンに迷惑をかけずに除隊出来るん?」
「その件については、先程、スーノと直接話をした上で、高度な政治的取引に基づく『交換条件』を提示した」
「こ、高度な政治的取引……?」
「スーノにそれが払えるかどうかは分からない。かなりの難題をふっかけたからな。少なくとも、私が彼の立場だったら、払えるかどうか分からないほどの厳しい条件だ」
嘘は言っていない。実際、カエラ自身もまた(ある意味でスーノに近い気性だからこそ)彼にとってそれが「それなりに難しい課題」であろうと推測している。
「そ、そんな……、それって、ウチが代わりに何か頑張ることで、どうにか出来へんの?」
「代わりに、というより、そもそもスーノがその対価を払えるようになるかどうかは、お前次第だろうな」
「ウチ次第……?」
「詳しい話は本人に聞くことだ。スーノがその課題を実現出来るようになったら、私としても反対する理由は何もない。その上で、君主として彼を支えるつもりがあるなら、その聖印も嫁入り道具として持っていけばいい」
「え? でも、ウチの聖印はカエラ様の従属聖印で……」
「その点については、どちらでも構わない。私との従属関係を維持したままハルーシアに行くことをスーノが許すなら、別にそれでも構わん。ただ、正式に輿入れすることになる段階になったら、さすがに解消することをスーノの実家から要請されるようになるだろうが、それもそれで構わない。お前一人分の聖印を手放すに足るだけの条件を、こちらは提示したのだからな」
あまりにも好都合すぎる話を聞かされて、一体どれほど重い条件を課せられたのか、リズは不安に思えてきたが、それが自分次第でどうにか出来る可能性のあるというのが、彼女にとってはせめてもの救いではある。
「……分かった。ほなら、その件はスーノに聞いてみる。それはそれとして、カエラ様、ウチの鍛錬にちょっと付き合うてもろてもええかな? もう少しで、何か掴めそうなんや」
返すにしても、持っていくにしても、聖印を鍛えておくことに越したことはない。そう考えたリズに対して、カエラも素直に応じる。
「あぁ、そうだな。先程から少し見ていたが……、リズ、お前は少し、弓の技術にこだわり過ぎのように思える」
「こだわり……?」
「お前は今まで、聖印の力をあまり使わずに戦ってきた。違うか?」
「……せやね。この聖印は、いずれ返さなアカンもんやと思うてたから、あんまり頼らんようにせんとな、っていう思いはあったわ」
「それ自体は悪いことではない。聖印に頼るようになる前に、生身の人間としての技術を先に伸ばそうとすることは、君主として成長する上でも重要なことだ。ただ、その基礎訓練の期間が長すぎたせいか、今もまだアーチャーの聖印の力を『弓の技術』の強化に使おうとしているように思える」
「え? それやとアカンの?」
「アーチャーの聖印の力は、弓の技術そのものとは無関係だ。実際、《光弾の印》は弓以外の射撃武器、たとえば投石機などにも用いることが出来る。つまり、武器の技術とはまた別の次元で『狙った対象を撃ち抜こうとする心』を射撃物に込めるのが《光弾の印》だ」
実際、彼女達が所属する第六投石船団は、その名の通り、投石機(カタパルト)を搭載した小型船の艦隊であり、カエラは「陸戦では弓、海戦では投石機」という形で武器を使い分けているが、そのどちらにも同じように《光弾の印》を初めとする聖印の力を込めて戦っている。
「なるほど、確かに……」
「その意味では、一度、弓以外の飛び道具に触れてみた方がいいかもしれないな……」
カエラはそう言いながら周囲を見渡すと、訓練場の端に、片手で掴める程度の白い球体が転がっているのを発見する。おそらく、何らかの球技に用いる小道具だろう。
「あれを使ってみるか……」
そう言いながらカエラは白球に近付くと、その近くに革製の大きな手袋のようなものが二つ落ちているのを発見する。おそらく、これらもまたその「球技」のための道具であろうと推測した彼女は、その革手袋の一つを装着し、もう一つをリズに手渡した上で、その白球を互いに相手に向かって投げ合うという投擲訓練を始めることにした。
「リズ、これが『聖印の力を込めた投擲』だ」
カエラは大きく左足を挙げ、ダイナミックな投球フォームで《光弾の印》を込めて白球をリズに向かって投げ込む。聖光をまとったその剛球は、一直線にリズに革手袋へと向かって吸い込まれていく。リズは革手袋越しに、その聖印の威力を感じ取っていた。
「これが、《光弾の印》……」
当然のことながら、カエラの《光弾の印》を身体で受け止めたのは初めてである。もしこれが弓か投石機の一撃だったら、良くて大怪我、下手したら即死である。リズはその力を実感しながら、全力でカエラに向かって投げ返す。しかし、「物を投げる腕の筋肉」はあまり日頃は使わないため、カエラの手元まで届かず、ワンバウンドでの返球となってしまう。
「あれ……?」
「もう少し、筋力を付けた方が良いかもしれんな。最悪、矢も弾も尽きた時は、その辺りに落ちている石を投げ込む技術も必要になる」
カエラはそう呟きつつ、リズの球が落ちたところまで移動して、再びリズに向かって軽く投げ込む。その距離で二人はしばらく会話を交わしながら、キャッチボールを続けることにした。
「カエラ様……、やっぱり、怒ってはる?」
「あぁ、怒っているさ。自分の不甲斐なさにな。ハマーンを支える君主を育てる筈が、異国の男にかっさらわれた。指南役としての自分の無力さが腹立たしい」
「いや、その、ウチはカエラ様に不満があった訳やなくて……」
さすがに気まずそうな様子のリズに対して、カエラは淡々と語り続ける。
「ただ強い戦力を求めるだけなら、傭兵を雇えばいい。命懸けでハマーンのために尽くしたいと思える君主を育てるために、私はお前達に従属聖印を渡した。その気持ちが届かず、ハマーンよりも異国の男を優先する心がお前の中に目覚めてしまったのなら、そんな従属君主を抱えていても意味がない」
その言葉に対してリズは心を痛めつつも、改めてカエラを見据えて、白球を握り締めながら言葉を絞り出す。
「カエラ様。ウチは別に恩義を忘れたんとちゃう」
彼女はそう呟きながら、カエラに向かって大きく振り被った。
「《愛する人をずっと支える》って決めたんや。この想いは変わらへんし、カエラはんにも負けるつもりは、ない!」
リズがそう叫ぶと、彼女の右手に光が宿り、そのまま振り下ろされた掌から投げ込まれた白球は、光の弾丸の如き勢いでカエラの元へと飛び込んで行く。
「……それでいい」
その白球に込められた《光弾の印》の力を受け止めつつ、カエラはそう呟いた。そして次の瞬間、彼女の元に、ユーグからの伝言を頼まれた結婚式場の建設員が駆け込んで来る。
「カエラ様! 大変です!」
「どうした?」
「結婚式場の海岸に魔境の入口が出現し、現在、レオノール様が御一人で先行調査に向かわれている、とのことです」
「なんだと!?」
一瞬の困惑の後、カエラは事前にソフィアから聞かされていた「あること」を思い出す。
「そうか……、領主殿の『嫌な予感』が的中した、ということだな」
「え? どゆこと? 何があったん!?」
状況が掴めないリズを置いてけぼりにしたまま、伝令役の建設員はカエラに声をかける。
「出来れば、カエラ様にも援軍に来てほしい、とのことでしたが……」
「是非もない。すぐに向かおう」
カエラがそう言って走り出そうとするところで、リズが問いかける。
「あの、カエラ様、ウチは……」
「お前はまず、スーノと合流した上で、『今後のこと』について語り合え。それが、今のお前が先に解決すべき問題だ」
カエラはそう言い残すと、再び結婚式場へと向かって走り出す。
(そういえば、見晴台の件、リズの意見を聞くのを忘れていたな……)
彼女は内心でそんなことを思いながら、自分自身に《嚆矢の印》を用いつつ、全力で現場へと向かうことになる。
リズを含めて全ての第六投石船団の面々の聖印が「カエラの聖印」との関係を断ち切られ、独立聖印化するのは、それから数刻後のことであった。
******
その頃、星屑十字軍の
ユリム
は、自室で剣を片手に瞑想しながら、これまでの戦いを振り返っていた。
(京の魔境でも、江戸の魔境でも、随分と投影体達に翻弄させられた。やはり、投影体達の中でも「人型の投影体」の方が、厄介な存在なのかもしれないな……)
厳密に言えば、江戸の魔境で主に戦った相手は「河童」であったが、彼等の思考はそこまで人間と大差なかった。一説によれば彼等は「人間の子供が妖怪化した姿」とも言われている。その意味では広義の「人型の投影体」に含まれるであろうし、最後の決戦で戦った力士達の大半も、より「人間」に近い投影体であった。
(そういえば、カルタキアの畑を荒らしていた「イナゴ型の投影体」もまた、異世界人によって生み出された存在だったな。奴等を生み出した黄巾賊が治めるという栃木の魔境には行かなかったが、そちらもかなりの苦戦を強いられたと聞く)
もともとユリムは、故郷を戦乱で失った身である。だからこそ、人間同士の争いを好まないレオノールの率いる星屑十字軍に加わった。その彼が「京」「江戸」「栃木」という「異界から投影された人間の街」由来の投影体とばかり戦うことになったのも、どこか皮肉な話である。
だが、いくら相手が人間型の投影体であろうとも、それがこの世界の人々に害を及ぼす存在である限り、「戦わない」という選択肢は彼の中にはない。
「例え、自分が『生きているだけで戦乱を巻き起こすような存在』だとしても、それが『他者を助けるための力』を捨てる理由にはならない。そもそも、『そうした戦乱すらも踏みつぶせるような力』を持てばいい」
彼はそう決意した瞬間、普段は帽子で隠している右目が、大きな光を放った。
「この力は故郷の再興なんてもののためじゃない。そう、《降りかかる火の粉に対抗する力を手にする》ための力だ」
ユリムの中でその決意を言葉にした直後、彼の右目に聖印が出現し、まるで彼の右目そのものが輝いているかの如く、まばゆく輝き始める。そして、ユリムは自分の中に新たな《破邪の印》が宿ったことを実感していた。
「あー……、後で眼帯か何かもらってくるか……」
鏡を見ながら、彼はそう呟く。だが、その次の瞬間、彼のその聖印に想定外の異変が発生した。彼の聖印の本来の持ち主であるレオノールとの繋がりが、唐突に断ち切られたのである。
「……何が、起きた?」
彼はすぐさま部屋を飛び出し、他の者達へと事情を確認しに行く。だが、この地に残っていた他の星屑十字軍の面々もまた、状況を理解出来ずに困惑しているのみであった。
******
時を同じくして、ユリムの同僚である
リーゼロッテ
もまた、レオノールとの聖印の繋がりが途絶えたことに気付いていた。だが、彼女の場合、他の者達とは「驚き」の内容がほんの少しだけ異なっていた。
「……このタイミングで?」
***
ここで時は少し遡る。通日前、リーゼロッテはレオノールと「自分の今後の身の振り方」について相談していた。
「私は、このまま星屑十字軍にいるべきではないと考えています」
リーゼロッテがそう考えた理由は、自分の価値観と聖印教会の教義との乖離である。もともと入団した時点から、彼女はそのことには気付いていた。それでも軍医として、自分に出来る仕事をこなしてはきたが、このカルタキアでの日々を過ごす中、徐々にその齟齬が大きくなっていくのを実感し、そして先日「メサイア」の聖印に覚醒した際に、入団以前のことを思い出したことで、やはり自分の居場所はここではないのではないか、という想いがより一層強くなったのである。
「もちろん、今はまだ魔境との戦いの最中である以上、このカルタキア遠征は最後まで星屑十字軍として戦わせてもらうつもりです。ただ、その後は、出来れば離籍させて頂きたいのです」
強い決意を抱いた表情でそう訴えるリーゼロッテに対し、レオノールはいつもと変わらぬ穏やかな笑顔を浮かべたまま問いかける
「とりあえず、抜けた後、どうするつもりなのか、教えてもらえるかな?」
「まだ、はっきりと決めている訳ではありませんが、以前のように一人の『流れの医者』となるか、あるいは、受け入れてもらえるのであれば、我々と同様にこの地に遠征に来ている部隊のいずれかに移籍するという選択肢も考えています。とはいえ、いずれにしても私個人の勝手な都合であることは重々承知しておりますので、無理を通すつもりはありません。軍の規律として離脱を認める訳にはいかないと仰られるのであれば、今まで通りに星屑の軍医として働き続ける所存です。ただ……」
リーゼロッテは少し間を開けた上で、話を続ける。
「……先刻申し上げた通り、私の価値観は、おそらく今後どこかで聖印教会の教義と衝突する可能性が高いです。それならば、いっそ聖印をお返ししてでも、軍を抜けるべきなのではないかと」
彼女がそこまで告げたところで、レオノールは問いかける。
「確かに君であれば、仮に聖印が無くても『一人の医者』として拾ってくれる部隊はあるだろうね。でも、それでいいのかい? 今まで君主として積み上げてきたものを失うことになるけど」
「構いません。私にとって『聖印』はあくまで手段であり、目的ではありませんから」
「じゃあ、君の目的は?」
「人を助けること、です。《聖印がなくても人を助けたい》というのが、私の率直な思いです」
リーゼロッテがそう宣言した瞬間、彼女の中に眠る聖印が少しずつ変化を始める。この時点で彼女はそのことに気付いていなかったのだが、彼女の聖印と繋がった状態にあるレオノールは、かすかにその気配を感じていた。
「君の聖印は、まだ君に捨てられたくないようだよ」
「……どういう意味です?」
さすがに意図を理解しかねた様子のリーゼロッテであったが、レオノールはその問いには答えないまま、話を続ける。
「君にとって『聖印』があくまで手段にすぎないというのなら、僕にとっての『組織』も同じだよ。星屑十字軍のみんなは、僕にとって家族のような存在だけど、大切なのは志を同じくすることであって、組織そのものを維持することじゃない」
レオノールはそう前置きした上で、星屑十字軍の総帥としての見解を語り始める。
「今の君の目的が『人を助けること』なのだとしたら、たとえそれが聖印教会の教義に反することであったとしても、僕の志と何も変わらない。だから、僕としては今のままでもいいんだけど、いずれ他の仲間の誰かと衝突する可能性があるのなら、確かに、離籍した方がお互いのためにも良いのかもしれない。『人と人との争いを避けること』が僕達の信念である以上、『どうしても相容れられない相手』とは、一定程度の距離を保つことも必要だろうからね」
実際のところ、リーゼロッテの価値観のどの部分が聖印教会の教義に反するのか、という点については彼女は語っていないのだが、レオノールも詳しく聞き出そうとはしなかった。わざわざこんな相談を持ちかけてきた時点で、彼女の中ではそれは重要な問題なのであろうし、聡明な彼女がそう判断したのであれば、それは「早とちり」や「勘違い」ではなく、真剣に熟考した上での結論であり、動かし辛い事実なのであろうとレオノールは考えていた。
「では、認めて下さるのですか?」
「あぁ。結果的にそうすることによって、君がより多くの人を救えるようになるのなら、僕としては止めるつもりはない。ただ、他の部隊に移籍するとなると、少し問題があってね」
レオノールはやや悩ましい表情を浮かべながら、話を続ける。
「このカルタキアでの戦いが始まる前に、指揮官同士の間では『従騎士の引き抜きは禁止』という取り決めが交わされているんだ」
どの指揮官も、自分の従属君主達を育てることを目的にこの地に来ている以上、それは当然の話であろう。
「それは……、カルタキア遠征が終わった後、誰かに勧誘された訳でもなく、従騎士自身が個人の判断で移籍するのも禁止、ということですか?」
「まぁ、そこの線引は難しいからね。さすがに遠征直後に移籍という形になると、色々と禍根を残す可能性もある」
「なるほど。では、やはり、私は流れの医者に戻る方が無難のようですね」
「確かに、それでもいいんだけど……、君が一人の独立君主になるのなら、別に『旅』に出なくてもいいんじゃないかな」
「……というと?」
「たとえば、一人の医者としてこの地に残って、この地の診療所や公衆浴場や学校で働き続ける、という道もあるんじゃないかな。別に、この街に住む全ての君主が幽幻の血盟に入らなきゃいけない、という訳じゃないだろうし」
実際、このカルタキアには、どの部隊にも属していない君主もいる(以前、レオナルドを刺した『謎の少女』もその一人である)。そして診療所も入浴施設も学校も、その設立にリーゼロッテは深く関わっている。彼女が独立君主としてこの地に残ってくれるのであれば、多くの街の住民は歓迎するだろうし、ソフィアが異論を挟むこともないだろう。
「その上で、しばらくこの街で働いた後に、改めて幽幻の血盟に入りたいと思えば、その時点で領主さんと交渉すればいいし、旅に出たいと思ったなら、その時点で旅に出ればいいさ。君としても、もうしばらく、この街の行く末を見守りたいんじゃないかい?」
レオノールにそう言われたリーゼロッテは、これまでに街で出会った人々のことを思い返しながら、自分の中の素直な気持ちに向き合い始める。
「……確かに、それが認められるのであれば、私としてもそれが一番望ましいのですが、本当に『独立君主』として離籍しても良いのですか?」
実際、リーゼロッテとしても聖印を返上することは覚悟していた。
「さっきも言った通り、君の聖印はまだ、君の身に宿っているように見える。聖印は唯一神様からの授かり物である以上、その聖印自身の意志を尊重すべきだと僕は考えているよ」
果たして本当に「聖印」そのものに意志があるのか、リーゼロッテには分からないし、レオノールもどこまで本気でそう信じているのかは分からない。
「ただ、『君』と『聖印教会』との間で『価値観の齟齬』があるとしても、さっきの話を聞く限り、『君』と『僕』の間では志は変わらないと僕は思っている。だから、星屑十字軍からは離籍した上で、『一個人』として僕との繋がりを残してくれるのであれば、僕としてはその方が嬉しい、というのが本音ではあるけどね。やっぱり、『家族』との繋がりが途絶えるのは寂しいから」
つまりは、星屑十字軍や聖印教会という組織とは無関係に、一個人としてレオノールとの従属関係を維持するという道もある、ということらしい。もっとも、その場合は(本人達の意志がどうであれ)周囲の者達からは「聖印教会の一員」とみなされる可能性は高くなるだろう。
「……分かりました。寛大な御意向に感謝致します。聖印の件に関してはカルタキアの魔境浄化が完了した後に、改めて相談させて頂きます」
リーゼロッテはそう告げて、ひとまず彼の元から去っていく。聖印の扱いについてはひとまず保留としたものの、身の振り方については概ね固まり、彼女の中で改めて「一人の医者」としての覚悟が定まったところで、彼女はようやく、自分の聖印が「メサイア」として更なる力を手に入れていたことに気付く。
(そうか……、これが「誓い」を力に変えるということか)
彼女は改めてそう実感しつつ、かつて仕えていた国のことを思い出しながら、天に向かって語り始めた。
「エーレンフリート様、クリストハルト師、ジェレミア、ヤコフ、ペトラ、そして、ユイ。やっと、私は貴方達に恥じない働きができそうです」
それは、かつての彼女の主君と、彼に仕えていた契約魔法師、邪紋使い、そして地球人の投影体の名である。そして、いずれも今は既に故人となった者達であった。
「貴方達が私を戦火から逃がしたのは、希望をつなぐためだと、やっとわかった気がします」
その上で、彼女はようやく「ただのリーゼロッテ」から脱して、「本来の自分の名前」を名乗れるようになる。
「私はリーゼロッテ、フロンゲルマイン王国のリーゼロッテ。私は、いつまでも貴方達を誇りに思います」
***
その後、彼女は診療所や公衆浴場の人々に、遠征後もこの地に残るという方針を密かに告げて回りつつ、新たに習得した《救難の印》を用いた治療にも取り組むようになっていた。そんな矢先に、唐突にレオノールとの「関係」が途切れたことに、リーゼロッテは違和感を感じる。確かに、レオノールはリーゼロッテの聖印を独立させても良いとは言ったが、彼女自身がまだその点について結論を出す前に勝手に関係を断ち切るとは考えにくい。おそらく彼の身に何か異変が起きたと考えるのが妥当であろう。
「……どうやら、これが『星屑十字軍としての私』の最後の仕事になりそうですね」
彼女は改めて聖印を掲げつつ、ひとまず同僚達が集まっているであろう市内の礼拝堂へと向かうことにしたのであった。
******
その日の夕刻、幽幻の血盟の
ローゼル・バルテン
は、リズ達が去った後の訓練場で一汗流した後、家族のことを思い出していた。
「私はずっと、父の言われる通りに生きてきた……」
彼女の父は、自分に弓の訓練しかさせなかった。訓練で的を外せば義兄に殴られ、持っていた絵本のほとんどは別の義兄に燃やされ……。何より、屋敷に住む全ての人間が向けてくる、温度の無い目線。この世界にお前の居場所などない、と言われているようだった。
「思い出すのはまだ怖いけど……。私はここで変われたんだもの。いろんな任務に行って、いろんな人と出会って、協力して、高め合って……」
時には街造りに手を貸し、時には街を投影体から守り、時には魔境に足を踏み入れた。その過程で、ローゼル自身は確かに変わった。冷ややかな家族しか周囲にいなかった環境とは異なり、この街を守るという同じ目的のために戦う他の従騎士達との交流を通じて、彼女は君主として、これまで抱くことが出来ずにいた明確な「自意識」を抱くようになっていた。
「……肯定してくれる人、助けてくれる人をただ待つだけだった、以前の私じゃない」
彼女はそう呟きながら、決意を固めたように、立ち上がって空を見上げる。そして、遠く離れた故郷の家族に対して語りかける。
「貴方たちの思うようにはならないわ。私は、やりたいことを自分で見つけたんだもの」
彼女は少し深く呼吸して、空の向こうに宣言するように叫ぶ。
「私は……、一人の君主として、ソフィア様と、皆と、カルタキアに住む人々を助けたいの!」
この瞬間、彼女の中で《自分で決めた、自分だけの君主道を歩む》という決意が固まり、そして自身の中に眠る聖印に何らかの「新たな変化」が起きたことを実感する。
ローゼルはその変化に気付いた瞬間、傍らに置いていた弓を再び手に取ると、素早く矢を番える。すると、彼女の手から弓矢に特殊な力が宿り、そこから放たれた矢は聖光を伴いながら、的に向かって一直線に飛び込んでいく。これまでに感じたことのない特殊な手応えを感じたローゼルの視線の先で、その的はあっさりと破壊された。
「これ、もしかして……」
ローゼルは、自分の放った矢に《光弾の印》の力が込められていたことに気付き、驚きながらも感極まったような驚いたような表情を浮かべる。
そして、自分が「君主」として新たな段階に達したことを確信した彼女は、改めて「自分で決めた、自分だけの君主道」をイメージする。
「……うん。今の私なら、彼に言える」
彼女が目指すべき君主道には、自らの傍らに立つべき人物がいる。今の彼女は、そのことをはっきりと自覚した。それはただ待つだけでなく、自分から伝えるべきことだと改めて確信した上で、「伝えるべき言葉」を明確化する。
「『私についてきて、私の執事になって』、って!」
だが、その次の瞬間、彼女は、自分の聖印に起きた異変に気付く。
「……え? ソフィア様!?」
自分の従属聖印から繋がっていた筈のソフィアとの関係性が断ち切られたことをローゼルは実感する。この時点でソフィアの身に何があったのかは分からないが、ソフィアが意図的にローゼルとの関係を断ち切った訳でない限り、同じ現象が他の従騎士達にも起きている可能性が高い。
「ということは……!?」
もし、この時点で「彼」の聖印も独立聖印化していた場合、「彼」の身に危険が発生する。そのことに気付いたローゼルは、すぐさま彼の宿舎へと向かって走り出した。
******
『お前の望みは何だ?』
幽幻の血盟の
ハル
は、部屋で一人、自問自答を繰り返していた。
「ローゼルさん、いえ、ローゼル様の執事となることです」
『なってどうする?』
「どうするも何も。そうあり続けるだけです」
『それができるとでも?』
「……」
ハルの中で、過去の記憶が蘇る。最初に彼が魔境で自力で混沌核から聖印を作り出した直後、彼の身体がその聖印に対して「謎の拒絶反応」を示した時のことを。
『自覚しているはずだ。聖印がお前を蝕むわけは、お前の中に混沌があるからだ。お前がきっと、人間と混沌の合いの子であるからだ。従属聖印へと聖印の「質」を落とすことで、一度はどうにかなった。しかしお前が成長して、聖印の力を”我が物のように”扱えるようになったとき、どんなリスクが有るか分かるか?』
「……いえ」
『事実、お前が力を少し覚醒させてからしばらく、お前はどこか上の空なときがあった。気付いていたのだろう? 自分の身体の違和感に』
この時点で、ハルの中では確かに「最悪の未来」が想起される。
「はい。多分、そういうことなのでしょうね」
『いずれ自壊しかねないその身を彼女に添わせることが、お前の言う恩返しとやらになるのか?』
「あの時」はローゼルによって助けられた。だが、聖印の規模が大きくなればなる程、「その危険性」は高まるだろう。一方で、聖印を成長させなければ、彼女の力になることも出来ない。
「……ですから、ぼくは誓います。《聖印の力を制御する》と」
「できなかった場合は?」
「ぼくが自滅したら、そこには『ほぼ浄化済みの混沌核』が残るはずです。それはそれで、ローゼル様の力になれましょう」
いつの間にか「問う心」と「答える心」は一体化し、ハルの中での明確な「覚悟」が定まった。そしてこの瞬間、彼の聖印は新たな輝きを放ち始める。
「これが、新たな力……」
ハルがそう呟いた瞬間、彼は自身の聖印に「もう一つの変化」が発生したことに気付く。
「…………ソフィア様!?」
この時、彼の同僚達の従属聖印にも同様の異変が発生していたのだが、ハルは他の誰よりもこの異変に対して敏感に反応する。彼の中で、ソフィアとの「心の繋がり」が途絶えたことで、彼の中の「何か」が、彼の身体を蝕み始めたのである。
「……ぼくは誓ったのです。必ずこの力を制御する、と!」
彼がそう呟きながら、自身の身体に対して《救難の印》を発動すると、彼の身体は一瞬、蝕まれる前の状態にまで戻る。だが、その後も再びその「何か」は彼の身体を侵食していくことになり、その度にハルは《救難の印》を自分に対して施し続ける。
「精神力が続く限りは、自力でどうにか抑えられます……、でも、あくまで対症療法でしかない。やはり、聖印そのものを制御出来るようにならなければ……」
苦悶の表情を浮かべながら、ハルの視界に、やがて、ローゼルの姿が映る。
「ハル! 大丈夫!?」
その声が聞こえた瞬間、ハルの中での「最悪の可能性」が頭をよぎり、心が揺らぎ始めた瞬間、彼の中の「何か」はこれまで以上に激しく彼の身体を蝕み始める。ハルはすぐさま《救難の印》を自分に対して続けざまに用いた結果、どうにか「侵食」を抑え込むことには成功したが、気力を使い果たしたハルは、その場に意識を失って倒れるのであった。
******
そしてもう一人、(原因は不明のまま)ソフィアからの聖印の繋がりを断ち切られた者がいた。幽幻の血盟の
フィラリス・アルトア
である。
「一体、ソフィア様の身に何が……」
自室で一人、動揺した表情を浮かべながら、彼女は数日前の出来事を思い出していた。
***
「聖印を返したい、か。そなたにしては随分とおかしなことを言いだすな」
「認めていただけないということでしょうか」
カルタキアの領主館の一角にある執務室。夜の帳はすでに下り、ランプの薄明かりによって辛うじて 2 つの人影を視認できるその場所で幽幻の血盟所属の従騎士フィラリス・アルトアは盟主ソフィア・バルカと対峙していた。
「認められぬな」
薄暗がりの執務室にソフィアの声は冷たく響く。その声に含まれているのは怒りか、失望か、それともそれ以外の何かなのか、過去の経験と今の生業から人の感情を読み取ることに関してある程度の自信を持っていたフィラリスにもそれは分からなかった。そんな彼女の胸中を知ってか知らずか、ソフィアはまた言葉を続ける。
「血盟の儀式でそなたがどんな考えを持って血を啜ったのかは知らぬ。だが、そこでそなたは確かに忠誠を誓うと口にした。言葉一つとはいえ、そう軽々しく無下にできるものではない」
「ソフィア様への忠誠があればこそ、私は今この場にいるのですよ」
ソフィアの言葉に応じながら、フィラリスは聖印を浮かび上がらせる。彼女がアーチャーとして覚醒していることを証明するそれは、薄暗がりの中で新たな光源として周囲を照らし出す。フィラリスの姿を、顔を、そして固く閉じられたまま開くことのない両の目を。
「なにせもう私にはこの聖印を使う力も意味もないのですから。この通りもう何かを見ることさえできませんので」
フィラリスの視力が失われたのは、彼女が常用していた痛み止めの副作用である。効果が強力無比な分、常用すれば薬が徐々に神経を侵し最終的には何も感じることができなくなると言われていた。だが、蛮族に傷つけられた身体の痛みと信じていた人々に見放された心の痛みを鎮めるにはそれを使い続けるより手がなかった。
(ようやく頼らなくても生きていけるような気がしていたのだがな……)
カルタキアまで流れつき安心できる主人に出会うことができたからか、それとも信頼できる同僚を得たからか、最近は使うことも稀になっていた痛み止め。しかし、毒は確実に蓄積されてフィラリスの身体を蝕んでいた。
「役に立たぬ者に与えておくよりも回収された方が有益でしょう」
「そうか。それで、言いたいことはそれだけか?」
「ええ、ですからもう従騎士としても……」
「役に立てない、役に立つ自信がないから聖印を返してしまおうと、そう思ったわけだな」
「ええ、その通りです。壊れた道具は役に立たず、役に立たぬのなら捨てるのが道理でしょう?」
フィラリスにとって、幽幻の血盟に所属するということは一つの道具としてソフィアに仕えるということだった。ただ能力を信じてもらえるならそれでいい、フィラリス・アルトアとして、 一人の人間として見てほしいなどという分不相応ことは望まない、そう考えることは彼女に大きな安心を与えていた。
「……いままでそなたがどこで何をしてこようと、深く追求するようなことはしなかった。それは、そなたが私の役に立つ従騎士だと考えていたからだ。そしてそれは今も変わらない」
一瞬の沈黙ののち、ソフィアが口を開く。決して語気が荒いわけでも、口調に激しさがあるわけでもない。だが、彼女の言葉は有無を言わせぬ力を持っていた。
「それは……」
「そなたの我儘を許すつもりはないということだ。そなたが道具だというのなら、捨てるかどうか決めるのは私であろう? 幽幻の血盟はまだそなたを必要としている。逃げずにしっかりと向き合え。そして私の下で責任を果たせ」
「……分かりました、夜分遅くに私のような者のために時間を取っていただきありがとうございました」
執務室の扉が開き、そして再び閉じる。執務室を後にしたフィラリスにいかなる心境の変化があったのかは分からない。だが数日ののち、彼女の持つ聖印は確かにより強い光を放つようになっていた。
***
ソフィアの言葉を思い出しながら、フィラリスは改めて聖印を具現化させる。今の彼女には、その「強く光輝くようになった聖印」は見えない。今のソフィアの身に何が起きているのかも分からない。今の自分が何を成すべきなのかも分からない。だが、フィラリスの中では一つだけ、既に定まっていることがあった。
「私は、《生きる》」
フィラリスは改めてそう呟きつつ、弩を手に取る。そして、見えないはずの瞳で何かを見据えながら、彼女は弩に《光弾の印》の力を込めると、彼女の中ではっきりと「何か」を射抜く光景が描かれていた。自分の中でそのことを確認した上で、彼女は静かに部屋を出て行った。
******
ヴァーミリオン騎士団の
ヴィクトル・サネーエフ
は、武装状態でカルタキアの街を警備しながら、ふと、広場で戯れている子供達の姿を目を向けた。そこでは三人の少女が、一人の少年を奪い合うように彼の周囲を取り囲んでいる。
「レム兄様! 次は私と一緒に遊びましょう!」
「ダメっす! 兄様は今から私と一緒にこの本を読むんすよ!」
「ソムもララァも、レムを困らせては駄目ですよ」
そんなやり取りを見つめながら、ヴィクトルはふと同郷の幼馴染のことを思い出す。肌の色も髪の色も雰囲気も、何もかもが違う筈なのに、なぜか彼女達の姿が被って見えたのである。おそらくそれは、今もヴィクトルの心の中に、彼女達との故郷での想い出が深く刻まれているが故の幻視なのだろう。
(なんだかんだで、一番過去を引きずっているのは、俺なのかもしれないな……)
ヴィクトルは内心で苦笑しつつ、改めて「今の彼女達」のことを思い返す。
(今はもう皆、それぞれに「外」で自分の生き方を見つけている。ただ、それでも……)
彼は自分の中で湧き上がる思いを具現化するかの如く、目の前に聖印を現出させる。
(……彼女達がいつだって帰ってこられるように、《故郷を守る》ために、この力を使いたい)
その想いがヴィクトルの中ではっきりと「誓い」に変わった瞬間、彼の聖印は、より一層「セイバー」としての特性を強く現す形状へと変わっていく。
(これは……、今の俺なら、もしかして……)
彼は槍を握っている自身の右手に「新たな力」が宿ったことを実感する。とはいえ、さすがに平和な町中でその力を使う訳にはいかない。どうしたものかと思っているところで、広場の子供達の元へまた一人、別の少女が駆け込んでくるのを発見する。
「レム! 今日は私と一緒に円卓ごっこをする約束でしょ!」
異界の騎士物語と思しき絵本を手に持ちながら少年に対して詰め寄るその少女を見て、ヴィクトルはなぜか「この地で出会った一人の従騎士」のことを思い出す。
(……そうか、俺は過去だけに囚われている訳じゃないんだな。ちゃんと「今」も、そして「未来」も見えているようだ)
彼は内心でそう呟きながら、改めて自分の聖印に目を向ける。だが、ここで唐突に、彼は自身の聖印に「もう一つの異変」が起きたことに気付く。
「……団長殿!?」
アストライアとの関係が途切れたことを、彼は実感したのである。ヴィクトルは、アストライア達が向かった筈の「天空の魔境」を見上げる。事前に聞いた話によれば、浄化作戦に失敗すると、文字通り「天が落ちてくる」ことになるらしいが、今のところ、空に異変は見られない。
「……故郷の前に、まず、この地を守らなければな」
ヴィクトルは改めて強く槍を握り締める。彼が手に入れた新たな《疾風剣の印》の力を戦場で発動させるのは、もう少しだけ先の話であった。
******
翌日。夜明け前の、まだ誰もいない訓練場にて、潮流戦線の
エイミー・ブラックウェル
は、自分に言い聞かせるように何かを呟いていた。
「どんな敵も捩じ伏せられる剣の腕だとか、戦況を思うがままに操れる軍略知識とか、きっとそんな才能は私にはありません……」
これまでのカルタキアでの戦いを通じて、彼女はそう実感していた。実際のところは、秘密結社の魔境でも、洞の魔境でも、魔獣の魔境でも、彼女の活躍が浄化の鍵になっていたのだが、彼女はあくまでもそれらは「仲間の協力」と「偶然の巡り合わせ」の結果であり、自分の殊勲を誇るような奢りは彼女の中には微塵も存在しなかった。
「……それでも、意志だけは絶対に負けない。諦めることも、投げ出すことも、屈することも、許しません」
実際のところ、その「意志の強さ」こそが、これらの魔境において「混沌の力」をその身に宿した状態でも戦い続けることが出来た最大の要因である。そして、意志の力の具現化体である聖印を持つ君主として、それは最も重要な素質であった。
「私を君主に選んでよかった……、君主として相応しいのは私しかいなかった、と。誰もがそう思うように。その為だけに私は生きる」
エイミーは断固たる決意と共に、聖印を掲げる。
「世界に、私を認めさせてやるのです。私は《誰もが認める名君になる》」
彼女がその言葉を口にした瞬間、彼女の聖印は形を変え、そして《破邪の印》が彼女の体の中に宿り始める。彼女はそのことを実感した上で、改めて口を開いた。
「まずは、カルタキアでの務めを果たし切ることが第一。そして……」
彼女がそう呟きかけたところで、彼女は馴染みのある人物の気配を感じ取る。そこに現れたのは、彼女の婚約者の
アイザック・ハーウッド
であった。
「アイザック、それは……」
彼の手には、一丁の「回転式拳銃」が握られている。
「先程、『N市』の魔境に入った時に、拝借してきました」
どういう経緯で手に入れたのかは分からない。現地の警察官から奪ったのか、盗んだのか、それとも(何らかの形で命を落とした)死体から拝借したのか。いずれにせよ、魔境で手に入れた投影装備を魔境の外で使うのは(一部の魔法師や邪紋使いでもない限り)暴発の危険がある以上、あまり推奨された行為ではない。
そして、その拳銃には五発の弾丸が込められていたのだが、彼はエイミーの目の前でそのうちの四発を抜き、残り一発だけが入った状態の弾倉を激しく回転させ、その銃口をエイミーへと向ける。
「貴女が真に『誰もが認める名君』たる資格があるのであれば、混沌の揺らぎでさえも、きっと貴女の味方をするでしょう」
傍目には、タチの悪い冗談にしか見えないだろう。だが、エイミーは理解していた。
「……本気なのですね?」
「はい。“あの時”の選択が偶然であったのか、それとも必然だったのか、私に教えてください」
彼はこれまでの人生において、あらゆる「選択」をコインやダイスに委ねてきた。その結果として、命を落とした者もいれば、救われた者もいる。“あの時”も彼は「選択」をコインに委ね、その結果、一組の姉妹の運命を大きく変えた。その後も、コインやダイスはアイザックに「彼女と共に生き続ける道」を示し続けた。
そして先日、アイザックは「自らの選択を後悔しない」という誓いを立てた。ある意味、ここで彼がこの拳銃に委ねようとしていることは、これまでの「選択」の集大成なのかもしれない。
エイミーが真剣な視線でアイザックを見つめる中、彼は引き金に手をかけると同時に、もう片方の手でコインを弾いた。そして、そのコインが示した面を確認した瞬間、彼はその銃口の向きを「自分」へと変える。
「!?」
あまりの一瞬の出来事にエイミーが驚愕する中、アイザックはそのまま自分に向けて引き金を四回引く。しかし、その拳銃から銃弾は放たれず、そして暴発することもなかった。
「……素晴らしい。やはり貴女には運命を味方にする力がある」
アイザックはそう呟きつつ、自分の中で新たな誓いを立てる。
《エミリアの為に生き、エミリアの為に死ぬ》
彼が心の中でそう決意した瞬間、彼の聖印は姿を変え、《光弾の印》の力がその内側に宿る。そして彼は改めてエイミーに対して傅き、こう告げた。
「貴女が覇道を征く為ならば、私の全てを躊躇うことなくお使いください」
それに対してエイミーが何か答えようとした瞬間、二人の聖印に異変が発生する。
「え……?」
「ほう……?」
今の彼等の「仮の主人」であるジーベンの聖印との繋がりが断ち切られ、二人の聖印が「独立聖印」と化したのである。潮流戦線の中では「外様」であるこの二人は、ジーベンとの間でそこまで深い繋がりがある訳ではない。だが、今のこの状況で彼(もしくは彼の聖印)に異変が起きたということであれば、さすがに静観していられる状態でもない。ひとまず二人は状況を確認するために、足早に訓練場を後にするのであった。
******
彼等と同じ潮流戦線の「外様組」である
マリーナ・ヒッパー
は、カルタキアの郊外の一角に位置する一つの岩の前に立っていた。それは、以前にマリーナが修行の際に用いた岩であり、その時に彼女が放った矢が突き刺さった跡も残っていた。
あれから、様々な魔境の浄化任務へと赴いた。その過程で様々な国の人々と共闘した。世界中から集った従騎士達の中には、様々な立場の人々がいる。それでも、この地の混沌を祓うという目的の下で、共に戦い続けることが出来た。祖国のしがらみも、因縁も、信念も、今この場にいる間だけは忘れて手を取り合うことが出来た。
彼女はそこに「意見や価値観の違う人間とも分かり合える可能性」を見出し、そして「分かり合うために努力する必要性」にも気付いた。その上で……、それができるなら、やりたいことができた。
「……私は、領に戻ることに賛成する。それが、一番良いと思う。」
現在、彼女の祖国では、複雑な国内対立をが発生している。彼女とカノープスとユリアーネが揃って祖国に戻れば、争いが再燃する可能性が高い。だからこそ、彼女達には「帰らない」という選択肢もあった。それが祖国のためなのかもしれない、という思いもあった。だが、マリーナは様々な迷いの末に、この結論に至ったのである。彼等と共に領に戻って、領をまた一つに纏めたい。元の「3人」に戻ったところを、見たい。
「……そのために、ここに来たんじゃないかな。他の国の、知らない人と協力して、戦う。同盟の人はもちろん、連合や条約、それ以外の人とも、手を取り合って、戦う。……それよりも、もうちょっとだけ、難しいだけだよ。うん。」
このカルタキアで多くの従騎士達が共闘出来たのは「魔境」という共通の敵が存在すると同時に、この地の利害と直接的に関係しない者達が大半だからである。従騎士が自身の聖印を強めるための「訓練場」としてカルタキアを利用し、結果的にそれがカルタキアの人々のためにもなる。そんな奇跡的な利害の一致が存在するから成立した共闘である以上、同じことが祖国で出来る保証はどこにもない。
しかし、それでもマリーナはそこに可能性を見出していた。少なくとも、それが自分の目指すべき道だという確信を得ていた。彼女は改めてその決意を弓矢に込めて、再び岩に向かって一射を放つ。そのたった一射に、彼女は自分の新たな誓いを刻み込んだ。
《カノンとユリアと共に領に戻る》
その想いは《光弾の印》として具現化し、明らかに前回より深く岩へと突き刺さる。まだ、岩を完全に破壊するには至らない。何事も、そう一足飛びには進まない。それでも、彼女の中の想いは間違いなく以前よりも激しく、鋭く、その岩を貫いていた。
だが、その直後、彼女の聖印に異変が発生する。現在の彼女の聖印の「預かり主」である筈のジーベンの聖印の気配の消失である。
「ジーベン様……!?」
彼女にとって、ジーベンはあくまでも「一時的な上官」であり、ジーベンとしても、この遠征が終わった時点で彼女の聖印を独立化させる予定だった。しかし、今はまだその時ではない。
「……多分、カノンも同じことになっている筈……」
マリーナはそう判断した上で、彼の宿舎へと向かって駆け出すのであった。
******
同じ頃、
カノープス・クーガー
もまた、自室で一人、刀を握りしめながら、これまでの日々を思い返していた。
カルタキアに来て以来、カノープスは常に魔境での戦いに身を投じて来た。街を守るための防衛任務にも、人々の生活を支援するための活動にも一切参加せず、ただひたすらに魔境調査と魔境浄化の任務だけを繰り返してきた。それは、常に最も危険な戦場にその身を置き続けようとすること、より正確に言ってしまえば、「死に場所」を求めるが故の行動でもあった。
彼の父が領主を勤める祖国では、カノープスと、その弟のシリウスのどちらを後継者にするかを巡る対立が発生している。カノープスは、このカルタキア遠征で自分が命を落とせば、故郷で無駄な争いが起きることはない、と考えていた。そのために、この地を自分の死に場所と見定めた上で、潮流戦線に身を置くことにしたのである。
だが、この地で様々な人々から多くのことを学んだ結果、少しずつ彼の心に変化が生じていた。カノープスは決して「死」を軽く見ていた訳ではない。だが、この地でそれぞれの想いを抱えながら必死で生き抜く人々との交流を経たことで、弟のために、故郷のために死を選ぶ、というのは「諦念」や「逃避」に過ぎないということに、カノープスは気付いたのである。
では、自分が目指すべき道はどこにあるのか。自分が本当に望んでいる未来は何なのか。幾度も自分の心に繰り返し問い続けた結果、彼はようやく彼は自分にとっての「理想の未来」をはっきりと思い描くに至る。
それは、シリウス派との争いを終わらせ、自らが「シリウスの騎士」として、彼の隣に立つ未来である。これまで分かり合えなかった人々とも(可能であるならば、自分のことを忌み嫌う義母とも)和解した上で、ユリアーネやマリーナと共に、領を支えていく未来を掴み取る。それが自分にとっての「理想の未来」だと、ようやく自覚したのである。
(そのために故郷へ……、クーガー領へ帰る)
彼はそう決意した上で、ゆっくりと目を閉じ、そして刀を深く握りしめる。
《故郷へ戻り、仲間と共に理想の未来を掴む》
その誓いは彼の手を通じて刀へと注がれ、そして彼の聖印は形を変えていく。この瞬間、カノープスはそこに《疾風剣の印》の力が宿ったことを確信するが、彼がその力を用いて試し斬りをおこなう前に、その聖印に起きた異変に彼は気付いた。ユリアーネやマリーナと同様に、彼の聖印もまた、予期せぬこのタイミングでの「独立聖印化」を起こしたのである。
「……どういうことだ!?」
いずれ返してもらう約束だったとしても、明らかにそれは「今」ではない。いくら故郷に帰る決意を固めたと言っても、こんな状況のまま帰れる筈もない。
困惑する彼の元に、やがてマリーナが駆け込んで来ることになるのだが、二人共、まだこの時点では事態の真相に気付けてはいなかった。
******
同じ頃、鋼球走破隊の
アルエット
は、宿舎の中庭にて自身の聖印の強化の訓練に励んでいた。
彼女の目の前には、いくつかの「魔境の影響を受けた物品」が並んでいる。パニッシャーとしての彼女の聖印の本質は「混沌の破壊」であり、彼女の聖印がその真の力を発揮すれば、混沌の力が宿った物品に対しての攻撃の威力が増す筈である。だが、彼女はなかなか思い通りにその力を発揮出来ずにいた。
(自分の願いに、向き合わなくてはならない)
聖印は自分の内面を具現化したもの。アルエットはそのことを改めて強く実感した上で、幾度目にもなる回顧に浸る。
(軌跡を忘れないための力が、なぜこの形になったのか……)
初めて聖印を手にしたときの誓い、それは「自分を手に入れること」であり、それこそが間違いなく彼女の願いであった。
(わたしが、私自身を勝ち取るためには、己との縁を確固たるものにするには……、その精神の具現が「他人がいつでも取り上げられるようなもの」であっていいのか……)
そう考えた時、彼女の中で一つの結論が導き出された。
(私は「この聖印」を捨てなければならないだろう)
今の聖印はあくまでも従属聖印という「借り物」である。これでは本当の意味で「自分」を手に入れたとは言えない。彼女はそう思えたのである。
(私が、自ずから立ち上がるためのよすがが、誰かのものであってはならないのだから)
そのことに気付いたアルエットは、今の自分が成すべきことを考え、そして一つの結論に至る。
《わたしは、この聖印を捨てるために、混沌をこの力で打ち払う》
彼女がその誓いの言葉を「自分の意志」で紡ぐと、その思いは淡い光となって、標的に宿る混沌を振り払った。それは、彼女の中に《破邪の印》が宿ったことの証であった。これから先、カルタキアでの投影体を相手とした戦いでは、大きな力になるだろう。
(もちろんこれでも、死ぬ可能性の方がずっと、高いけれど)
彼女は内心でそう呟きつつ、今後の自分の未来をはっきりと見据える。
(わたしは混沌核を勝ち得て、聖印を返上し、自ら勝ち取る)
現時点で世界に存在する聖印の大半は、1700年前に始祖君主レオンが混沌核から生み出した聖印から派生した聖印と言われている。だが、レオン以降にも(正確な人数は不明だが)「自力で聖印を生み出した人物」も存在する。彼女は「誰からも支配されない聖印」を手に入れるためには、それが必要であると考えたのである。
(そう、決めたんだ。契約書にない、己自身の意志で)
だが、彼女がそう決意した直後、彼女の聖印は想定外の形で「独立聖印」と化してしまう。
「隊長の気配が……、消えた?」
彼女の聖印を支配していた筈のタウロスの聖印の気配が、唐突に途絶えてしまったのである。何が起きたのか全く分からないまま、彼女はしばらく呆然とその場に立ち尽くしていた。
******
「俺は、何のために力を求めていたのだろう……?」
ヴェント・アウレオの宿舎の一角にて、
ラルフ・ヴィットマン
は「自分がここまで来た理由」について、思いを巡らせていた。
かつては名将と呼ばれた父が一度の敗戦で全てを失い、家族が散り散りとなった後、ラルフは下町で荒んだ生活を送っていた。その後、ジルベルト、コルネリオとの出会いを経て、共に船に乗り込み、ヴェント・アウレオの仲間と出会い、やがてカルタキアに来て、様々な任務に挑みつつ、色々な人々との鍛錬や交流を繰り返してきた。その過程においても彼は常に「力」を求め続けてきた。その根源にあるものは何か、と自分に問いかけた結果、彼は一つの結論に辿り着く。
「……そうだ、俺は『あいつら』を見返してやりたかったんだ」
それは、自分を「敗北者の子」として蔑んだ者達である。ジルベルトやコルネリオと出会う前、ラルフにとっての人生最大の逆境期に体験した屈辱こそが、今の自分の根底にある、ということを改めて実感したのである。
あの頃のラルフは、自分のことを蔑む者達に対して何も言い返せないまま、自分の存在そのものを否定するかのように、名前も捨て、全てに背を向けてひっそりと生きていた。そんな自分から脱却するために、ラルフは力を求めた。自分が堂々と自分の名を名乗れるような、「胸を張って生きられるような自分」になるこそこそが、ラルフの悲願だったのである。
「そのためには、今以上に強くならなきゃいけない。誰よりも強く畏れられなければ……。たとえ、それがこれまでの安寧に終わりを告げることになるとしても……」
ラルフは改めて自分にそう言い聞かせつつ、拳を握りしめながら、左目で自分の聖印をじっと見つめる。マローダーとしての道を示すその聖印の紋章は、まさに「強さ」を求める彼自身の心の象徴でもあった。
「俺は……、《誰よりも強くなる》」
確固たる決意を込めてその言葉を口にした瞬間、彼の聖印は形を変え、そしてラルフは自分の聖印に、一人で全てを薙ぎ払うための力である《暴風の印》が宿ったことを実感する。
「やはり、これが俺の生き方なんだな。これこそが、俺が望んだ……」
そこまで呟いたところで、彼はその覚醒したばかりの聖印から、奇妙な違和感を感じる。それは、ここまで自分を引き上げてくれた「恩人」との絆の消失であった。
「…………エイシスさん!?」
自分の聖印が突如として独立聖印化したことに動揺しつつ、ひとまず、この状況で今の自分がやるべきことは何か、冷静に頭を巡らせる。
「まずは状況を把握することが先決、だな……」
彼はそう呟きつつ、ひとまず(それぞれ別の魔境調査に出ていた筈の)二人の盟友が戻って来ているかどうかを確かめに行くことにした。
カルタキアは未曾有の危機に瀕していた。現時点で、カルタキアの内外には「五つの魔境」の存在が確認されている。その一つは、カルタキアに重なり合うような形で出現しつつある「21世紀の地球の都市・N市」が投影された魔境であり、このまま放置しておけば、いずれこのカルタキアの街がその魔境に完全に置き換えられることになるだろう、と言われている。
この「N市の魔境」の混沌核と目されているのが、ディアボロス(春日恭二)という名の投影体である。彼はこれまでに何度もカルタキア近辺に投影されたことのあり、領主ソフィアとは浅からぬ因縁の持ち主であるらしい。
また、このN市と同時並行で、カルタキアの南方には(そこに出現していた似て非なる魔境を吸収する形で)「平安京の魔境」が出現し、更に北方の海の先には「島の魔境」、上空の先には「宇宙の魔境」、そして沿岸部に発生した「空間の歪み」の先には「異空間の魔境」の存在が確認されている。これらの魔境ではいずれも「ディアボロス(春日恭二)とよく似た人物」が目撃されており、おそらくこれらはN市と連動する形で出現した魔境なのではないかと推測されてる。
この謎の現象の正体を確かめるべく、ソフィア、ラマン、アストライアは「宇宙の魔境」、エイシス、ジーベン、タウロスは「島の魔境」、カエラとレオノールは「異空間の魔境」へと足を踏み入れることになったのだが、そのまま彼等の消息は途絶え、そして従騎士達が彼等から受け取っていた従属聖印が、全て「独立聖印」と化してしまったのである。
指揮官達の身に何が起きたのか、従騎士達の間で不安と動揺が広がる中、やがて「一人の少女」が彼等の前に姿を現す。その少女は「ソフィアと瓜二つの姿」をしていたが、本人は「ソフィアではない」と称していた。
「私はソフィア・バルカの分身体のような存在。彼女と魂を共有しているが、彼女自身ではない」
少女はそう名乗った。自分の「分身体」を生み出す君主など聞いたこともないが、ソフィアに関しては誰もが「おそらく、ただの君主ではないだろう」と認識していたこともあり、大半の者達は「ソフィア様ならば、それくらいのことは出来るのかもしれない」と自分に言い聞かせて納得することにしたようである(なお、正確に言えば、彼女は「ソフィアがレネゲイド・ウィルスの力で生み出した従者」なのだが、さすがにその真実に辿り着けた者は誰もいない)。
その「分身体」の少女曰く、現在、「宇宙の魔境」へと踏み込んでいるソフィア達三人は、いずれも「聖印」を奪われた状態になっているらしい。
「三人が魔境の奥地へと踏み込んだ時点で、三人の聖印に寄生するような形で『影のような投影体』が出現し、三人の聖印をそのまま乗っ取ってしまった。今、三人は『聖印を持たない状態』で、自身の聖印を乗っ取った『影のような投影体』と戦っておるが、実力は伯仲しているようで、実質膠着状態にある。おそらく、他の五人もそれぞれの魔境で似たような状況に陥っておるのだろうな」
分身体の少女は、この「影のような投影体」の正体が、本質的にはソフィアと同種の存在(聖印のレネゲイド・ビーイング)であることを察していたが、それが分かったところで出現原理はよく分からないし、そのことを告げたところで混乱を招くだけなので、深くは語らない。ただ、N市や平安京に入った従騎士達の聖印に似たような現象が起きていないことから察するに、この「聖印の影のような投影体」は、騎士級以上の聖印でなければ発生しないと推測される。
つまり、これらの魔境内でまともに聖印を使えるのは従騎士達のみであり、彼等の手で魔境を浄化するしかない。そこで問題になるのが「従騎士の聖印で魔境を浄化出来るのか?」という点だが、これについて分身体の少女は以下のような見解を示す。
「N市以外の魔境に出現している『ディアボロスによく似た男』は、おそらく奴自身の混沌核を切り分ける形で生み出した分身体であり、奴らがそれぞれの魔境全体の混沌核である可能性が高い。そして、五つに分割されている分、それぞれの混沌核の規模自体はそこまで強大ではない。従騎士級の聖印でも浄化出来る見込みは十分にある」
なお、あくまでも彼女の推論だが、おそらくディアボロスは自分自身もしくはN市(あるいはレネゲイド・ウィルス?)を触媒とした上で、「N市と同じ世界における別の時代の空間」を召喚し、そこに自分自身の因子を埋め込むことで四つの「派生魔境」を生み出したのだろう。
ソフィアが語っていたところによれば、ディアボロスの根源的な欲望は「世界を築くこと」であり、過去にこの世界に出現した時も、この世界を「自分の世界」へと作り変えようとしていた。今回、彼は「五つの魔境」を同時に出現させている訳だが、これらの魔境を用いて何を企んでいるのかは不明である。この世界を五分割する形で支配しようとしているのかもしれないし、最終的には五つの魔境を融合するつもりなのかもしれない。いずれにしても、早急に浄化すべき存在であることは間違いないだろう。
果たして、これまで自分達を導いてきた指揮官達が不在のまま、従騎士達自身の手で魔境を浄化することが、本当に出来るのか。見習い君主達の、最後の戦いが始まる。
最終更新:2022年06月04日 23:47