「バルレアの魔城」外伝『めぐりあい』

1-1、男爵の思惑

 ユーミルの騎士、グリップス・フォルク(PC⑤)は、バルレアの魔城(元・バルレアの瞳)に対する最前線の街を治めるエクレール・グライスナーの従属騎士である(バルレアの魔城2参照)。自分の主君であるエクレール達が、魔城の攻略に向けて本格的に指導しつつある中、彼とその部下の兵士達だけは、ユーミル男爵ユージーン・ニカイドの密命により、魔城とは反対側に位置する東海岸の港町マルムへ向かっていた。
 ユージーンは、魔城攻略のための三国協力体制の結成には賛同の意を示していたが、それはあくまでも「最終的にユーミル(聖印教会)が魔王の混沌核を浄化・吸収すること」が大前提であり、そのための「秘策」をグリップスに託していた。以下は、彼が預かった密書の内容である。

「あなたには、魔城攻略のための別働隊として、下記の方々と合流した上で、少し遅れて魔城に向かって頂きます。エクレール隊や他国の軍隊による先遣隊を露払いとした上で、極力、体力を温存させながら進軍して下さい。おそらく、魔王の混沌核を浄化するには、子爵級以上の聖印が必要となります。しかし、現在のこのバルレアにおいて、それに相当する聖印を持つ者はアストロフィ子爵のみ。だが、彼はまだ幼い。彼が従軍することはないでしょう。それ故に、誰が魔王を倒したとしても、その混沌核を浄化することは出来ない。吸収しかけたところで、おそらく混沌核に取り込まれて、第二の魔王となることは必定。そこで、あなたは同行した部隊の人々と共に、その『第二の魔王』を討ち、下記の協力者の一番下に書いてある人物に混沌核を吸収させ、堂々と凱旋して下さい。なお、この作戦の全容を『彼女』に伝える必要はありません」

 その下に書かれている「協力者一覧」のうち、一番上に書かれている「アステリア・ロジー」という名には、グリップスには見覚えがあった。それは、数年前に戦争に巻き込まれて命を落とした自身の妻リリィの実妹である。アステリアはノルドの騎士であり、どうやら今回の計画には、ユーミルと同じ大工房同盟に所属する北の大国ノルドが関わっているらしい。
 だが、彼女の聖印は(グリップスの記憶にある限り)騎士級であり、今回の計画の「軸」となる人物ではない。最終的に混沌核を吸収する役割を担う人物としてユージーンに呼ばれたのは、その協力者一覧の一番下に書かれていた「クレア・シュネージュ」という人物である。彼女は、治める土地を持たない流浪の自由騎士であるが、世界各地の混沌災害を浄化して回っていることで有名な人物であり、その聖印は既に子爵級以上とまで言われている。
 彼女は聖印教会の一員であるため、今回は同じ信徒であるユージーンからの個人的な要請に応じる形で、魔城攻略に協力することになったらしい。その上で、彼女から「魔王を倒して得た分の聖印」を受け取る交渉は、ユージーンが担当するという。
 グリップスは今から向かうマルムの街で、クレア、およびアステリア率いるノルド軍と合流する予定である。だが、今の彼にとっては、国家元首であるユージーンの思惑など、どうでもいい。ユーミルの騎士として、立場上やむなく彼の従っているだけで、混沌核を巡る諸国間の争いにも、さほど興味はなかった。ただ、これ以上、魔城や魔王を放置しておく訳にはいかない、その決意だけを胸に秘めて、彼は自身の部隊を率いて、港町へと向かうのであった。

1-2、海洋王の思惑

 一方、バルレアと海を挟んだ先の半島を支配する「海洋王」ことノルド侯爵エーリクは、自身の配下であるアステリア・ロジー(PC①)とその契約魔法師であるロロナ・リンドウ(PC②)を拝謁させ、バルレアへの出兵命令を下した。

「大工房同盟のユーミルから、支援要請があった。『瞳の混沌核を吸収した魔王』を倒すのに協力して欲しい、とのことだ。正直、儂はあのユージーンという男は好かん。だが、これはノルドにとって好機でもある。奴等は我等の兵力を利用する気だろうが、状況によっては、こちらが奴等を出し抜いたところで、文句を言われる筋合いはない。もし、狙えそうな機会があれば、お主がその混沌核を吸収しろ」
「分かりました」

 主君からの勅命に対し、アステリアは短くそう答えた。彼女は21歳。先祖代々ノルド公爵に仕える名門騎士家の女当主である。彼女には、やや歳が離れたリリィという姉がいた。本来は、リリィがロジー家を継ぐ筈であったが、数年前、リリィがユーミルの騎士グリップスと駆け落ちしてしまったことで、アステリアが彼女の代わりに後継者の地位に就くことになったのである。
 当初は、いずれリリィが帰って来ると信じて、「姉が戻るまでの繋ぎ役」のつもりで聖印と所領を引き継いだアステリアであったが、リリィがバルレアで諸国間の戦争に巻き込まれて命を落としてしまったため、結局、そのままアステリアが正式にロジー家の当主となり、現在に至る。

「これは大陸進出への足がかりになりますね」

 アステリアの傍らで、彼女の契約魔法師であるロロナはそう言った。ロロナは浅葱の系譜の召喚魔法師である。歳は18。若くして魔法大学を卒業して、アステリアが家を継いだ直後に彼女と契約を交わしたエリート魔法師である。ロロナは幼い頃に実家が滅ぼされていたこともあり、エーラムへの帰属意識が非常に高く、契約相手であるアステリアへの忠誠心と同等以上に、世界を管理するアカデミーの一員としての使命感が強い。自分自身の感情よりも、アカデミーや契約相手の利益を優先する彼女は、あらゆる意味で「模範的」な魔法師であった。
 そんな二人に対して、海洋王は更に話を続ける。

「その結果、お主が魔物になったとしても、自我が残っているならば、以後もノルドの将として扱う。もし、身も心も奪われたなら、その時は儂が責任を持ってお主を殺すためにバルレアに乗り込んでやろう」

 それに対して、アステリアは神妙な表情で頷く。色々な意味で危険すぎる任務ではあるが、自分を信頼した上で下した命令であるならば、主君のために全力を尽くすのが彼女の信念である。たとえそれが、どのような結末を招くことになったとしても。
 その彼女の決意を確認した海洋王は、具体的な作戦手順の説明へと移行する。

「ユーミル軍とは、ユーミル東岸の港町マルムで合流する手筈になっている。現地までの航路はファントムという『運び屋』に依頼した。信頼出来る男だから、船旅は奴に任せておけばいい。そして、現地で合流するユーミル軍の指揮官は、グリップス・フォルクという騎士らしい」

 その名を聞いて、アステリアは複雑な表情を見せる。

グリップス殿、ですか」
「そういえば、お主とは縁のある男だったな」
「えぇ。ウチの姉さんの夫だった人ですね」

 アステリアが呟くようにそう答えると、横からロロナが彼女に問いかける。

「では、その人物の人となりを聞いても良いですか、マイロード。もしかしたら、我等を先方に立たせ、自軍の力を温存させるような人物かもしれません」
「多分、彼はそういう人ではない人です。ただ、彼の『上』、すなわち『依頼主』がそのような人物である可能性は、考慮した方が良いでしょう」
「なるほど。差し出がましいことを申し上げました。すみません、指揮権が相手側にあると聞くと、出来る限り用心すべきだと思うので」

 そんな二人のやりとりを眺めながら、エーリクは改めてアステリアに釘を刺す。

「お主もお主で、色々と思うところはあるだろうが、まず何より大事なのは、我がノルドにとっての繁栄だ。そのために必要な最善手が何かを考慮した上で、状況に応じて、高度な柔軟性を保ちつつ、可能な限り臨機応変に対応しろ」
「了解しました。いずれにせよ、この剣はあなたのために振るわせて頂きます」

 そう言ってアステリアが愛用のハルバードを掲げると、エーリクは満足そうな表情を浮かべる。
「それでいい」

 海洋王は頷きながらそう言うと、二人に早速出立の準備を命じるのであった。

1-3、南方への船出

 翌日、アステリアロロナがノルド南方の港町へと向かうと、一人の精悍な風貌の船乗りが二人を出迎えた。

「今回、ユーミルへの案内を担当することになった、ファントム・レインロード(PC③)だ」

 彼は32歳。ノルド海軍の一員ではないが、ノルド候エーリクの御用達の船乗りの一人である。もともとは傭兵だったが、思想的な理由から傭兵団と相容れずに袂を分かち、海運業へと転身した。実はその身には邪紋が刻まれているが、その邪紋の「性質」の都合上、日頃は隠している。腰には細剣を差しているが、実はこれも自分の正体を隠すための「偽装武器」であった。

「あなたがファントム殿ですね。陛下から話は伺っております」

 アステリアがそう言うと、隣のロロナが先んじて自分達の自己紹介を始める。

「こちらのお方が、アステリア・ロジー。今回のユーミルへの援軍を率いる将です。私はロロナ・リンドウ。契約魔法師を務めさせて頂いております」
「一通りの話は聞いている。ユーミルまでの航路に関しては自信を持って届けさせてもらうつもりだ。ただ、その途上での海難事故などへの対応はこちらの領分だが、もし、他の国との間で何か揉め事が起きた時は、こちらは自分の身を守ることに専念させてもらう」

 あくまでもファントムは中立の船乗りであり、どこの国からの依頼でも受ける立場である。だからこそ、特定の国に肩入れすることも、特定の国からの恨みを買うことも、あまり望ましい話ではない。そのような事情は、アステリア達も理解している。

「今回はユーミルからの依頼に基づく出兵ですので、そういった問題は起きないと思いますが、万が一何かあった時は、ユーミルの方にでも迷惑料をせびればよろしいかと思います」

 あっさりとそう言ってのけたアステリアに対して、ファントムは「話が分かる相手」だと思ったのか、笑顔を見せる。

「本当か? まぁ、何事も無ければ、それが一番だがな。そこまで気張らずに行こうや」

 それに対して、ロロナも穏やかな笑顔で応じる。

「えぇ、そうですね。ぜひとも快適な旅路をお願いしたいものです」
「勿論だ。とはいえ、ここ最近、あの辺りの海は荒れ気味ではある。おそらく大丈夫だろうとは思うがな」

 ファントムは呟くようにそう言いながら、二人とその部下の兵達を愛船「エーギル」へと乗船させる。こうして、アステリアに率いられたノルドからの遠征軍は、バルレアの友邦ユーミルを救うための船旅へと向かうことになるのであった。

1-4、港町の軍港

 ユーミルの港町マルムを守護するユーミル海軍の中に、アンドリュー(PC④)という名の一人の船員がいる。聖印教会の影響力の強いこの地においては極めて珍しい事例だが、彼は「妖精界」の投影体である。無論、この国でそのことを表に出す訳にはいかないため、彼は「人間」のフリをして、一兵卒としてこの地で生活している。妖精界には様々な種族がいるが、彼は背中に羽が生えていること以外は、あまり人間と変わらない風貌のため、その羽を隠している限りにおいては、その正体を察知されることはまずない。
 アンドリューは、元来は妖精界の中でも「貴族」と呼ばれる上流階級の出身であった。しかし、悪を許せない実直な性格故に、友人のジョンと共に、宮廷に蔓延る悪行を告発しようと試みたことで、逆に他の貴族達の謀略によって宮廷を追放されてしまう。その後、残された財産でギターを購入し、楽士としての第二の人生を始めたところで、この世界に投影された。
 この世界には友人のジョンも同時に投影されてきたが、今は生き別れてしまっている。だが、基本的にアンドリューは楽観的な性格であり、きっとジョンは今も無事にどこかで生きているだろうと信じて、この地でひっそりと暮らしていた。
 そんな彼に対して、マルムの領主が一つの命令を下した。

「まもなく、男爵様の密命を受けたグリップス殿がこの地に到着される。そして、今日の夜にはノルドの方々も到着する予定だ。そこで、お前にはグリップス様達の接待係を命じる」

 唐突な指令であるが、アンドリューは即座に、自分に求められている役割を理解した。

「接待ということは、宴会の準備などを進めておけば良いですか?」
「そうだ。お前、そういうのは得意だろう?」

 アンドリューは日頃から、海軍の中においてもギターを片手に兵士達を相手に歌を聴かせるなど、「宴会盛り上げ要員」としての兵達の間でも有名な存在であった。

「分かりました。それで、その方々の好みそうな食べ物や曲の傾向は分かりますか?」
「そうだな……、グリップス様に関してはよく分からんが、ノルドの人々も一緒にもてなすということになると、大量の酒が必要だろう。あと、一部には『腐ったニシン』を食べるなどという味覚がおかしい人々もいるというが……、まぁ、そこまで配慮してやらんでも良いだろう」

 領主にそう言われたアンドリューは、ひとまず海軍御用達の港の酒場へと赴き、会場を確保した上で、顔馴染の楽士や吟遊詩人達に声をかけて歓待の手筈を整えつつ、しばらく使っていなかった自分のギターの弦を調律する。
 そうこうしているうちに、やがてグリップス率いる西方からの兵団がマルムに到着した。

「ようこそお越し下さいました、グリップス殿。長旅ご苦労様でした。歓待の準備を進めておりますので、他の方々がご到着されるまで、こちらの宿舎でお休みになって下さい」

 アンドリューがそう言って彼等を宿舎へと案内すると、グリップスは粛々と彼に従う。ただ、この時グリップスは、水平線が広がる海の方角から、強い混沌の気配を感じていた。そんな彼の心配そうな表情にアンドリューは気付く。

「どうしました?」
「海の方で、何か異変が起きているような……」

 そう言われたアンドリューも海を注視したところ、確かにいつもよりも混沌濃度が高くなっているように感じる。

「ここのところ、海難事故が時々起こっているので、その前兆かもしれませんね」

 アンドリューはそう呟きつつ、ひとまず今はまだ何か対策を講じるべき事態でもないと判断し、そのまま彼等を宿舎へと案内し、宴会の準備へと戻るのであった。

1-5、大渦潮

 それから数時間後、マルム近海の混沌濃度は更に高まっていた。それに気付いたマルムの領主は、アンドリューグリップスを呼び出す。

「これだけ混沌濃度が高まると、海上に巨大な魔物か何かが出現するかもしれません。間も無くノルドからの援軍が到着する予定ですが、出来ればノルドの方々が到着する前に海路の安全を確保しておきたいので、グリップス殿にも御助力を頂きたい」

 つまりは、投影体の出現に備えて、海上警備に手を貸してほしい、ということである。グリップスは、二つ返事で答えた。

「私で良ければ」
「では、グリップス殿の部隊には、アンドリューの船に乗って頂きます。アンドリュー、混沌濃度の上昇の中心地と思われる、あのあたりの海域までお連れしろ」
「分かりました。では、今から船の準備を進めます」

 アンドリューがそう言って、グリップス達を港に駐留する船の一つへと案内する。これまで内陸勤務が長かったグリップスは、あまり海戦に慣れているとは言えなかったが、どのような状況であれ、混沌災害が起ころうとしている時に、自分が何もせずにいるという選択肢は、彼の中ではありえなかった。

 *****

 一方、バルレアに近付きつつあるノルド艦隊も、進行方向の海域で混沌濃度が極端に高まっていることを察する。

「これは、荒れるな……」

 帆船「エーギル」の甲板に立つファントムが、海の様相を注視しながら深刻な表情でそう呟くと、隣にいたロロナが問いかける。

ファントム殿、この海域では、このような現象はよくあることなのですか?」
「全く無いということはないが……、ここまで荒れることはまずないな」

 最近、この地域で海難事故が頻繁に起きているという話はファントムも聞いていたが、これまで彼自身が遭遇したことはなかった。そして、ここまで混沌濃度が上がるほどの事態だとは、ファントムは想定していなかった。
 そんな彼に対して、今度は反対側にいたアステリアが問いかける。

「では、この海域では混沌災害が起きたことはないのですか?」
「少なくとも、私がこの海域で仕事をするようになって以降は、記憶にない」

 実際、この内海は本来は混沌濃度が低い海域である。故に、いかに海難事故が起きているとは言っても、それが本格的な混沌災害によるものだとはファントムは考えていなかった。
 想定外の事態が発生しているということを察したロロナは、アステリアに進言する。

アステリア様、ひとまず兵達に厳戒態勢を取らせましょう。もっとも、慣れないこの船上で、彼等がどこまでの戦力になるかは分かりませんが……」

 ノルドは海の民として知られているが、ロジー家はノルドの中でも内陸地方の一族であり、海戦にそこまで秀でている訳ではない。だからこそ、今回の内陸(「瞳」の跡地に出現した魔城)での任務に抜擢されたのであろう。
 アステリアはそんなロロナの意図を察した上で答える。

「それでも、最低限自分の身は守れるように、警戒してもらう必要はあるでしょう」
「分かりました。では、休憩体制から警戒態勢に移行してもらいましょう」

 ロロナがそう言って部隊長に連絡しようとした時、彼女は、海の上に「人影」が浮いているのに気付く。ロロナは、その人影に見覚えがあった。
 ロロナの見間違いでなければ、その「海上に浮かんでいる人物」の名は、アルベリッヒ・リンドウ。数年前から行方不明となっていた、ロロナの兄弟子に相当する元素魔法師である。彼は君主と契約せぬままアカデミーの研究員として活動していたが、数年前に「バルレアの瞳」の調査に向かったのを最後に、消息を絶っていた。ところが、最近になって、バルレアの近辺に彼らしき人物を見たという噂が流れていたのである。

「き、緊急退避! 弓兵、前方の魔法師と思しき影に対して射掛けろ! あれはまずい!」

 ロロナは血相を変えて、そう叫んだ。アカデミーの方針としては、消息不明となった魔法師は、エーラムに仇為す「闇魔法師」となった疑惑がある以上、たとえ同門であっても、発見と同時に敵認識されても文句は言えない。だが、それでも相手の言い分を聞かずにいきなり攻撃するというのは、よほど危険な相手の場合のみの対処法である。

「どうしました?」

 アステリアがそう問いかけると、ロロナは声を荒げながら答える。

「あの人物には見覚えがあります! 彼は、元素魔法師だった筈です!」
「元素魔法師? ということは……」

 高位の元素魔法師の中には、天変地異とも呼べるほどの自然現象を自力で引き起こすことが可能な者もいる。そして、ロロナの記憶が確かならば、アルベリッヒには「海の民」であるノルドにとっての天敵とも言うべき「大渦潮」を生み出す魔法を習得していた筈である。
 ロロナは緊急詠唱で魔獣ペリュトンを呼び出そうとするが、その直前に彼女達を乗せていた「エーギル」の船体が傾き、体勢を崩してしまったロロナは、詠唱を終える前に甲板に倒れ込む。どうやら彼女の想定していた「最悪の事態」が発生してしまったようである。アルベリッヒと思しき魔法師の足元から大渦潮が出現し、彼女達を乗せたエーギルと、反対側から近付きつつあった(アルベリッヒとグリップスを乗せた)マルムの軍船を巻き込む形で広がっていったのである。
 アステリアはハルバードを船に突きつける形で身体が海へと投げ出されるのを防ごうと試み、ロロナはそんな彼女にしがみつくが、その直後にエーギル号の船体自体が崩壊し、アステリアが突き立てていた甲板は、一瞬にして「ただの木片」と化してしまう。そのまま二人は海に投げ出され、そしてファントムもまた、他の船員達と共に渦潮へと飲み込まれていった。

「船と運命を共にする……、そんな最期も悪くはないか……」

 穏やかな笑顔を浮かべながら、壊れゆく「相棒」と共に、ファントムは渦潮の流れに身を任せていく。そして渦潮の反対側の海域では、アンドリューグリップスもまた、同じように荒れ狂う海流の中へと飲み込まれていくのであった。

2-1、海底魔境

 それから数時間後、アステリアは目を覚ました。彼女の視界に最初に映ったのは、見知らぬ天井であった。

アステリア様、ご無事ですか?」

 彼女の契約魔法師の声がアステリアの耳に届く。どうやら彼女達は、見知らぬ部屋の見知らぬベッドの上に、寝かせられていたらしい。その周囲には、彼女達の他に三人の男性が、同じようにベッドに横たわっている。

「あ、あぁ、ロロナか。ここは一体……?」
「すみません、私も今起きたばかりで……」
「どこかの屋内ですか?」
「そうですね。どうやら、病室のようですが……」

 二人がそんな会話を交わしている中、部屋の中にいた三人の男性のうちの一人が目を覚ます。

「はっ! ここはどこだ?」

 ファントムである。そして、彼の叫んだ大声に反応して、その隣にいた男性もまた目を覚ます。それは、アステリアにとって見覚えのある人物であった。

ファントム様? それに、そこにいるのは……、グリップス様?」

 彼女の記憶が間違っていなければ、それは紛れもなく「自分の故郷から姉を連れ去ったユーミルの騎士」の姿であった。彼が答える前に、ロロナが彼に問いかける。

「あなたが今回援軍を要請された、指揮官のグリップス様ですか?」

 起きたばかりで困惑した状態であったが、その男は答える。

「あぁ、そうだ。だが、このようなことになってしまって……」

 グリップスは、大渦潮の中で自分と共に海に投げ出されていった部下達を思い出しながら、気落ちした表情を浮かべる。そして、同じような心境のロロナが更に問いかけた。

「我々は、航海の途中で『謎の元素魔法師』の作り出した渦に飲み込まれてしまっていたのですが、あなた様はどうしてここに?」
「こちらも海の異変に気付いて、それをどうにかしようとしたのだが……」

 どうやら、お互い、ここがどこかは分からない状態であるらしい。それは、アステリアファントムも同様であった。ただ、彼等は「本来の装備」を外され、いずれも「病院用の寝具」と思しき衣服を着させられている。少なくとも、誰かに助けられたことは間違いないようである。
 一方、残り一つのベッドで横になっていたアンドリューは、この時点で既に目を覚ましていた。しかし、今着ている服のまま起き上がると、「羽」の存在が露見してしまうと判断した彼は、ひとまず寝返りを打つふりをしながら、服の下で羽を体に巻きつけるような形での「偽装工作」に専念していた。そんな彼の正体を知らないグリップスは、ひとまずアステリア達に対して彼のことを「ユーミル海軍の一兵士」として紹介する。
 そんな中、部屋に設置された唯一の扉を開けて、彼等の前に、白衣を着た「奇妙な風貌な人物」が姿を現した。その人物は、人間の成人男性と同等の体格で、人間と同様の服を着て二足歩行で歩いてはいたが、その服から覗き出ている「顔」も「手」も「足」も、紛れもなく「犬」のそれであった。おそらく、 何処かの異世界 の投影体であることは、一目で分かる。

「気付いたようだね、招かれざる来客諸君」

 彼(?)はそう言うと、やや面食らった表情の四人(と寝たふりを続けているアンドリュー)を眺めながら話を続ける。

「私の助手が、外回りの最中に、死にかけていた君達を見つけてしまってね。見捨てることも出来ずに、連れ帰ってきてしまったのだ」

 まだ困惑した状態ではあったが、ひとまずアステリアが最初に問いかけた。

「私達の他に、ここに連れてこられた人は?」
「いない。屍は他にも流れていたがな。生きていたのは君達だけだ。ということは、つまり、君達は『ただの人間』ではないようだな」

 ここがどこかは分からないが、あの大渦潮に巻き込まれて海に投げ出された時点で、大抵の人間は生きてはいないだろう。相手が何者であろうとも、現状でそのことを否定する気もないアステリアは、そのまま質問を続ける。

「私達の武器はどこにありますか?」
「それは『お上』が今、預かっている」
「お上? ここは、あなたの部屋ではないのですか?」
「いや、ここは私の診療所だ」

 そう言いながら、その「白衣を着た犬」は、窓を開ける。すると、その窓の外に奇妙な光景が広がっていた。一見すると、それは「やや暗い空」のようであったが、よく見ると、その「空」に「魚」や「鯨」が飛んでいるように見える。更に困惑を深めたアステリアが、改めて問いかけた。

「ここは、どこなのですか?」
「君達の言葉で言うなら『魔境』だ。海底に築かれた、『陸上で迫害された我々投影体』のための城でもある。この魔境を作り出した地球人達に伝わる伝承になぞらえて、我々は『龍宮城』と呼んでいる」

 「魔境」と聞いて皆が表情を強張らせる中、今度はロロナが口を開いた。

「龍宮城……、聞いたことがあります。そこでは、この世のものとは思えない贅を凝らした料理が並び、美姫達が住み、そこで極楽浄土を過ごせる代わりに、そこを出た直後に全ての精気を吸い取られるという……」

 訥々と語るロロナに対し、アステリアが不思議そうな顔を見せる。

ロロナ、その話をどこで?」
「アカデミーにいた頃に、書物で読みました」

 それは、かつてこの世界に出現した地球人が伝えたと言われる伝承をまとめたものだが、どこまで正確な話なのかは、ロロナにも分からない。

「アカデミーと言えば、あなた、あの元素魔法師のことを知っていたようですね」

 契約相手にそう言われたロロナは、表情を歪ませながら答える。

「はい、確認は出来ませんでしたが、おそらく、彼はアルベリッヒ・リンドウ。エーラムを数年前に出奔した、私の兄弟子です」

 ロロナの記憶にある限り、アルベリッヒは典型的な研究者気質の魔法師であり、特に高邁な理念や野望も抱かず、淡々と自分のペースで研究を進めることを生き甲斐とする人物であった。それ故に、君主と契約することもなくアカデミーに残っており、その立場に不満を抱いている様子もなかった。だからこそ、彼が消息不明となった時点で、多くの人々は、何らかの形で命を落としたのであろうと予想していた。彼が闇魔法師となってアカデミーに反旗を翻すなどという可能性は、殆どの人々は想定すらしていなかったのである。
 そしてこの時、その名に聞き覚えのある人物が、ロロナ以外にこの場にもう一人いた。グリップスである。彼の記憶が確かならば、数年前、ウィステリアの依頼でバルレアに来ていた瞳の調査隊の隊長が、アルベリッヒという名であった筈である。彼等はユーミルとの国境付近の「瞳」を調査していた時、運悪くユーミル側の警備兵達と遭遇してしまい、しかも彼等を率いていたのが、魔法師の存在そのものを邪悪と断じる過激思想の指揮官であったため、問答無用で虐殺されてしまったらしい。
 北部国境を守る領主達の判断により、(ウィステリアやエーラムとの関係悪化を防ぐために)その事実は闇に葬られたが、グリップスは以前にとある任務で共闘することになった北部出身の騎士から、密かにその話を聞かされていたのである。ユーミルの騎士として、本来ならばその事実を外に漏らすことが許されないことはグリップスも分かっていたが、それ以上に「人として守るべき倫理」があるように思えたグリップスは、神妙な表情を浮かべながら、その事実をロロナに伝えた。

「……ということです。我がユーミルの者達が、不条理な形であなたの兄弟子を一方的に殺してしまったようです。申し訳ない」
「そうですか……。申し訳ございませんが、あなた個人の謝罪を受け入れる訳にはいきません。これは『地上』に戻った後に、リンドウ家に報告した上で、改めてユーミルに通告があることでしょう。なので、本家の判断を確認するまで、あなたの謝罪を受け入れる訳にはいきません。リンドウ家に連なる者として」

 ロロナは淡々とそう答えた。とはいえ、もともとユーミルとエーラムは不仲なので、おそらくエーラムが謝罪や賠償を要求したところで、無視される可能性が高い。それに対して、エーラムが何らかの強硬手段に出るかどうかは、その時点での国際状況に鑑みた上での判断となるだろう(それは当然、魔城の攻略作戦の結果にも大きく左右されることになるのだが、遠征軍が実質的に崩壊した現状では、今の彼等には何とも予想の仕様もない)。だが、いずれにしても、グリップスが聞いた話が間違っていなければ、アルベリッヒは死んだ筈である。ならば、あの海域に現れた「彼」は何者なのか、現状では確かめる術はない。
 そして、そんな会話を交わしている中、白衣を着た(医者と思しき)犬の投影体は、ロロナの「地上に戻った後に」という発言に対して、こう告げる。

「いやー、申し訳ないんだがねぇ、あんた達を陸に帰すって訳にはいかないんだな。さっきの話から察するに、(グリップスを見ながら)あんた、ユーミルの人なんだろ? ユーミルの君主様ってのは、俺達投影体のことを忌み嫌っているからな。そういう者達に、この龍宮城の存在を知られる訳にはいかないんだ。迷い込んでしまった者達に危害を加えるつもりはない。だから、お前さん達が、この龍宮城で一市民として暮らしたいと言うのであれば、お偉いさん達も許可を出すと思うが、地上に帰すということになると、そう簡単には認められんだろう」

 確かに、グリップスが「信仰心の強い、模範的なユーミルの騎士」ならば、間違いなく帰国と同時にこの龍宮城を「人類への脅威」としてユージーンに報告するだろう。魔境の住人として、グリップスのことを警戒するのは当然の話である。

「しかし、私にもやらなければならないことがある。申し訳ないが、戻らせて頂きたい」

 グリップスはそう訴えるが、それに対して白衣の犬医者が残念そうな顔で首を振る。実際のところ、グリップスにはそこまでの信仰心も忠誠心もない以上、自分の命の恩人に「この魔境の存在を黙っていろ」と言われれば、誰にも伝えずに自分の胸にのみ秘めておくつもりではあったが、そのような個人の心情を初対面の人間が見抜ける筈もない。
 ちなみに、ノルドに関しては基本的に「投影体であろうと魔物であろうと、王に従うならばノルドの民として迎える」という方針ではあるが、それはつまり生殺与奪の権利が王個人の判断に委ねられているということでもあり、どちらにしても慎重にならねばならない相手であることには違いないだろう。
 そんなノルドの騎士であるアステリアは、率直な疑問を口に投げかける。

「そもそも、『投影体の城』であるこの地に、我々が居続けることが出来るのですか?」
「過去に『投影体ではない者が偶然この海域に迷い込んで、そのまま暮らし続けた事例』はある。だが、『地上への帰還を認められた事例』は、少なくとも俺は知らない。『脱走しようとして殺された事例』はいくらでもあるがな」

 それに続いて、今度はロロナが口を挟んだ。

「そもそも、私達がここから出ようとしても、海の底から地上まで出る術がありません」
「まぁ、そうだろうな」

 ここがどれくらい深い海の底なのかは分からないが、ロロナには水中での呼吸を可能とする術を持たない。仮にそれが可能であったとしても、「混沌の力で守られた魔境」の外に出た途端、「自然法則」としての水圧で潰されてしまうだろう。
 ロロナの中では、アカデミーの一員として、このような魔境の存在をエーラムに報告しなければならない、という使命感が湧き上がっていたが、現実問題として「魔境の住人」の協力を得なければ地上には戻れないであろうことは予想出来ていた。それ故に、彼女は「まだベッドに横たわっているもう一人の『ユーミルの兵士』と思しき人物」を見て、一計を案じる。

「なるほど、確かに、我々『力を持つ者』が警戒されるのは仕方がないことでしょう。しかし、『彼』は一般人です。彼だけでも帰すという訳にはいきませんか?」

 アンドリューを指差しながら、ロロナはそう訴える。彼女としては、とにかく誰かを「地上」に戻すことで帰還への道を開こう、と考えていたようである(なお、ファントムも自分が邪紋使いであると名乗ってはいなかったが、海洋王が推薦した人物ということもあり、ロロナは「おそらく『ただの人間』ではないだろう」と察していた)。
 だが、そんな彼女の「一般人」という言い分に対して、その犬医者は首を傾げる。

「俺はな、他の投影体よりも『鼻』が効くんだよ。むしろ、あんたらの中で、こいつが一番俺達に近い『匂い』がするんだがな」

 そう言って犬医者がアンドリューに顔を近付けると、アンドリューはなおも寝たふりを続けながら、彼にだけ聞こえる程度の小声で訴える。

「黙っていて下さい。ユーミルの騎士の前で正体を明かす訳にはいかないんです」

 その態度からなんとなく事情を察した犬医者は、改めて四人を見渡してこう告げる。

「まぁ、何はともあれ、俺はただの医者だ。そのうち、『お上』のお偉いさんが来るだろう。その時にまた交渉するなり何なりしてくれ。俺に出来るのは、傷を癒すことだけだ」

 淡々と彼がそう言うと、アステリアはここでようやく「まず最初に言うべきこと」を言い忘れていたことを思い出す。

「何はともあれ、助けて下さったことには感謝します」
「それなら、ウチの『助手』が戻って来た時に、彼女にも礼を言ってくれ。あんたらを背負って連れて来てくれたのは、彼女だからな」

 犬医者がそう言って、一旦部屋を去っていく。ここでようやくアンドリューは目を覚ました(ふりをした)。

「皆さん、無事だったんですか?」

 白々しく彼がそう言うと、改めて彼等はそれぞれに自己紹介を(それぞれの教えられる範囲で)始めるのであった。

2-2、城下町の様相

 それからしばらくして、犬医者は再び病室に戻って来る。

「お役人さんが来たぞ」

 そう言って彼が一人の人物を連れてくる。その「お役人さん」の風貌は普通の人間のように見えたが、アンドリューはその人物に見覚えがあった。

(ジョン……!?)

 それは確かに彼の友人のジョンである。驚いた表情を浮かべるアンドリューであったが、ジョン(と思しきその人物)の方は、アンドリューを見ても何の反応を見せないまま、淡々と五人に告げる。

「今からお前達の取調べだ。ついて来てもらおう」

 その声も、確かにジョンの声である。ますます困惑するアンドリューであったが、そんな彼に対して、ロロナが声をかける。彼女の目には、アンドリューがこの状況に不安を感じているように映ったらしい。

「大丈夫です、アンドリューさん、一般人の方は、私が守ります。こんな投影体ばかりの場所で不安でしょうが」

 そう言われたアンドリューは、ますます自分の立場を明かしにくい状況になってきたことを実感する。もっとも、他の一般兵や船員達が全滅したと思しき状況において、彼一人だけ生き残っているのは明らかに不自然ではある。だが、今のロロナは、それ以上に「自分達の兵士が全滅した」という事実への失望感の方が強かったため、彼の正体に関心を向けるほどの心の余裕がなかった。

「遺体を弔うことすら出来ないとは……、なんと無力なんだ」

 彼女はそう呟きつつ、他の四人と共に診療所を出ると、建物の外に広がる「龍宮城」の景色に圧倒される。そこには美しく整備された「城下町」が広がっており、多種多様な投影体達が「市民」として生活している光景が広がっている。そんな街並みの「上方」に視線を向けると、一定の高さまでは「空間」が広がっているが、その更に上に「深海」が広がっていることが分かる。どうやら、何らかの混沌の力によって、深海の一部を切り取る形で「城下町」が投影されてきていることは間違いないらしい。

(いくら投影体の力でも、このような空間を作り出せるとは……)

 ロロナの中に、好奇心と恐怖心が織り混ざった感情が広がる。この空間が、誰かの力によって意図的に生み出されたのか、純粋に混沌の力によって無作為に発生した代物なのかは分からない。いずれにしても、アカデミーの一員として、なんとしても地上に戻ってこの事実を報告しなければ、という決意を改めて強めていくのであった。

2-3、龍宮城の女王

 やがて彼等は、そのままジョン(と思しき人物)に連れられてこの城下町の中核に位置する「天守閣」に相当する建物へと案内されると、そのまま建物内の大広間へと連れて行かれる。彼等の真正面には、豪奢な装飾が施された椅子が一脚用意されており、おそらくそれはこの城の「主」に相当する人物のための席なのであろうことは予想出来た。
 そして、部屋の反対側から、その席へと案内される形で、ヴェールをつけた一人の女性が現れた。その姿を見たアステリアは、彼女が「自分の見知った人物」と酷似しているように見えて、思わず声を出す。

「お姉ちゃん……、ですか?」

 その声に最初に反応したのは、その女性ではなく、グリップスであった。彼もまた、その女性から醸し出されている雰囲気が「かつての自分の妻」に似ていることに気付く。

「リリィ、なのか?」

 そう言われた彼女がヴェールを外すと、その見た目は、確かに生前のリリィと瓜二つである。ただ、正確に言えば、グリップスと出会った頃のリリィよりもやや若い。故に、グリップスはまだ確信を抱ける段階ではなかったが、アステリアは怒りの表情を浮かべながら、自らの聖印を発動させつつ、リリィに殴りかかろうとする。
 それに対して、咄嗟にグリップスと、彼等を監視していたジョン(と思しき人物)がそれぞれ間に入った。

「お待ちください!」
「何をする、この狼藉者!」

 だが、その前にロロナアステリアを後ろから羽交い締めにする。

アステリア様、ここで暴力を振るうのはまずいです!」
「外野は黙ってて! 私は、私は、この人に、言いたいことが!」

 そう言ってロロナを振りほどこうとするアステリアに対して、その女性は何かを悟ったような表情を浮かべながら口を開く。

「やはり、あなたはアステリアなのですね。そして、そこにいるのは、グリップス様?」

 それは、確かにアステリアグリップスの記憶にあるリリィの声であった。彼女は周囲の人々に対して、こう告げる。

「ジョン、そして皆さん、申し訳ございませんが、ここは席を外してもらえませんか?」

 彼女が「彼」のことを「ジョン」と呼んだことで、アンドリューは改めて彼が「自分の友人」であるという「確信」を抱く。だが、そんな「リリィによく似た誰か」からの申し出に対して「ジョン」は承服しかねる様子であった。

「しかし、このような狼藉者を前に、あなた様を一人にする訳にはいきません!」

 「ジョン」がこの「リリィによく似た誰か」の部下なのであれば、それは当然の反応であろう。彼女もそのことを察したのか、諦めた表情を浮かべる。

「分かりました。あなた方に聞かせて困る話でもないですし、このままお話ししましょう」

 彼女はそう告げた上で、改めてアステリアグリップスに対して語り始めた。

「私の名は、リリィ・ロジー。しかし、私は『あなた方が知っているリリィ・ロジー』ではありません。私は『この世界とは別のアトラタン』からこの世界に出現した、投影体です」

 通常、投影体とは、この世界に存在する混沌核が、『異世界の存在』を投影することで出現する。故に、大抵はこの世界の理(ことわり)とは相反する存在が出現し、結果的に混沌災害などが発生することが多いのであるが、今、五人の目の前にいる「リリィと名乗る女性」の見た目は、この世界のアトラタン人と全く変わらない。そして、見た目も声も仕草も、アステリアの記憶にある「若い頃のリリィ」そのものである。

「私は最初、『少しだけ過去の世界』に来たのかと思っていました。しかし、この世界は私が知っていた世界とはところどころ少しずつ違う。そのことに関して、異界のことに詳しい人々に相談してみたところ、『私のいた世界』と『この世界』は、『よく似た別の世界』であるらしい、ということが分かりました」

 アステリアグリップスが半信半疑の表情を浮かべる中、ロロナが口を開く。

「アカデミーで聞いたことがあります。この世界から分岐して出現した『並行世界』なるものがどこかに存在し、その並行世界からの投影体がこの世界に出現する可能性もある、という説を。しかし、あまりにも似た世界からの投影は理論上、かなり難しいとも言われています」

 実際、ロロナはその実例を聞いたことはない。あくまでも「アカデミーの一部でのみ流通している仮説の一つ」にすぎない話である。その彼女の説明を補足するように、その「自称:リリィ」は話を続ける。

「はい。実際、そのような事例は私以外に見たことがありません。しかし、私がそれを確信したのは『あなた』が『この世界にいる私』と、ノルドから駆け落ちしてくるのを見た時です。それは、私が経験した『あなたと駆け落ちした時期』よりも、数年遅い時期の出来事でした」

 彼女はそう言いながら、グリップスをじっと見つめる。

「私はこの世界にも『あなた』がいるのではないかと思って、あなたを探していました。しかし、『この世界のあなた』のそばには、既に『この世界の私』がいた。『この世界』の中の『私』の居場所は、『この世界のあなた』のそばにはないのだと理解した私は、これまでずっと、あなたの前に姿を現すのを控えていました」

 その話を聞きながら、アステリアは歯を噛みしめつつ、問いかける。

「つまり、あなたは『お姉ちゃんだけど、お姉ちゃんじゃない』ということですね?」
「はい。しかし、あなたのその反応からして、この世界の私もおそらく、あなたを納得させられないまま、家を出てしまったのでしょうね」

 その発言に対してアステリアが改めて拳を握り始めたところで、再びロロナが止めに入る。

「堪えて下さい! ここで彼女を殴れば、ますますここからの脱出は困難になります!」
「それは分かってる! 分かってるけど……!」

 アステリアの中では、自分の責任を全て放棄して、「継ぐべき家」と「守るべき故郷」を捨てた姉を許せない気持ちがある。彼女が、その「姉」本人ではないと分かっていても、彼女が「元の世界」で同じ道を歩んだと聞かされると、やはり、自分の中で抑えられない気持ちが湧き上がってくる。
 そんなアステリアに対して、ジョンが改めて警戒を強める中、リリィは「ユーミルの騎士」であるグリップスに対して、話を続ける。

「君主であるあなたであれば分かると思いますが、私は投影体なのです。今のあなたの立場からすれば、浄化すべき対象……。私だけでなく、この龍宮城全てが……」

 だが、それに対して先に答えたのは、グリップスではなく、アステリアであった。

「私自身はそうは思いませんけどね。私はあくまで、我が『主君の剣』であるだけですから。主君に言われない限りは浄化するつもりもありませんし、主君が斬れというならば、躊躇なく斬ります。たとえ私の姉の投影体であろうとも。『私の姉の投影体』は『私の姉』ではありませんし。姉には言いたいことが山積みですし……」

 アステリアが自分の中で湧き上がる複雑な感慨を織り交ぜながら語り続けた結果、微妙に話の本筋が分からなくなりつつある中、リリィがふと思い出したかのように問いかける。

「『この世界の私』も、一緒にここに来ているのですか?」
「こちらの世界のリリィは、もう……」

 グリップスがそう答えると、リリィは特に驚いた様子もなく淡々と頷く。

「そうでしたか。やはり、私の『予見』は当たっていたようですね」
「予見?」
「私がここで『このような地位』にいるのは、私に『予見能力』があるが故なのです。私がここに来たのは、地上にいた頃に、勘のいいロードの方に投影体だと気付かれてしまったからなのですが……」

 実際のところ、彼女がどのような「地位」にいるのかは聞かされていないが、ここまで仰々しい形で「謁見」の機会を設けられていること(そして犬医者が「お上」と呼んでいたこと)から察するに、おそらくその立場はこの「龍宮城」の城主かそれに類する立場なのであろう。だが、そのことを確認するよりも前に、彼女の話に割って入るようにジョンが口を挟む。

「いえ、それは違います。見つかったのは私です」

 彼はそう言うと、それまで背中を覆っていたマントを外し、その下にある「羽」を見せつける。それは紛れもなく「アンドリューの友人のジョン」と同じ紋様であった。

「私がこの羽の存在を、地上のロードに気付かれてしまった時、リリィ様は私を逃がそうとした結果、リリィ様も投影体であることが発覚してしまい、追われる身となったところで、この龍宮城の『案内人』に助けられたのです」

 どうやらジョンとリリィは地上で同じ町に住んでいて、互いに協力関係にあったらしい。そして、この龍宮城には、「地上で行き場を無くした投影体」を龍宮城へと導くために地上に潜伏している人々が存在し、その者達のことを「案内人」と呼んでいるのだという。
 その後、リリィは当初は「一市民」としてこの地で暮らしていたが、彼女は「よく似た別世界の住人」という特殊な投影体であるが故か、この世界の未来をある程度予想出来る能力を備えていたらしい。それが「元の世界の自分」との精神的な同調によるものなのかどうかは分からないが、実質的には時空魔法師の能力に近いものであるという(それ故に『この世界のリリィ』の死も薄々予想出来ていたようである)。
 そして、その能力は混沌濃度の高い地域においてより正確に発現されるらしい。そのため、この「魔境」の近辺で起きる混沌災害を予想出来ることから、この龍宮城における「巫女」的な存在として重宝されるようになり、やがてこの龍宮城の先代の「女王」の(混沌の自然蒸散による)消失に伴い、実質的にその後を継ぐことになったのだという。
 その話を聞いたアステリアは、ようやく落ち着いた表情を浮かべる。

「なるほど。つまり、場所は違えど、私と同じことをしている、ということですね?」

 「民を守るために力を使う」という意味では、(それが「聖印」の力か「混沌」の力か、という違いはあるにせよ)確かに今のリリィもまた「領主」のような存在であるとも言える。

「そうですね。あなたへの償いにはならないでしょうが……」
「勿論それはそうですが、これだけの魔境がもたらす混沌災害がこの海底の中だけで収まっていることを考えれば、あなたがやっていることは、ユーミルだけでなく、ノルドにとっても有益なことです」

 アステリアがそう言うと、ロロナもそれに同調して頷く。ロロナはアカデミーの一員として、この魔境の存在を「上」に報告する義務はあると考えているが、結果的にこの「龍宮城」の存在が混沌災害の拡大を防いでいるのであれば、必ずしも「即討伐」の対象とはならないだろう。いずれにせよ、ロロナの中では、その判断を下すのは自分ではない。あくまでも「アカデミーに、伝えるべき情報を伝えること」までが、彼女の仕事である。
 そんな思惑を巡らせるロロナの傍らで、アステリアはそのまま話を続ける。

「陛下に代わって、そのことはお礼を申し上げます。ですが、『あなたが元いた世界の私』があなたのことをどう思っているかは分かりませんが、少なくとも私は、あなたの振る舞いに怒っています。確かに、意中の人と一緒になりたくてそのような行動を起こす人がいるという話は聞いたことがあります。私には幸いにして、そういった人は一人もいませんが。とはいえ、何の断りもなく、勝手に出奔されるのはどうかと思われます」
「それに関しては、弁解の仕様もありません。本当にごめんなさい」

 リリィがそう言って頭を下げると、グリップスもそれ以上に深く頭を下げる。

「『このリリィ』ではないが、『こちらのリリィ』があなたに責務を背負わせることになってしまったのは、私の責任だ。償いきれないことではあるが……」

 「異界の姉の投影体」と「実姉の夫」に素直に謝られたアステリアは、ひとまず拳を収める。

「まぁ、いいですよ。私も、結果的に今の地位を得られたことに、感謝している気持ちもあります。『あなた』がそう思っているということは『この世界のあなた』もそう思っていたのでしょう。それが分かっただけでも、私は、満足、です!」

 自分に言い聞かせるようにそう言ってはいるが、やはりまだ納得しきってはいない、というよりも、気持ちの整理が出来ない状態のようで、やや語調は荒れており、その握りしめた拳の内側からは、まだ聖印の光が微かに漏れた状態であった。

2-4、緊急事態

 そんな会話が繰り広げられている中、突然、伝令兵と思しき人物が「謁見の間」に現れた。

「ただ今、『結界』の外で、奇妙な混沌災害が発生したようです!」

 彼がそう叫ぶと、リリィは怪訝そうな表情で問い直す。

「結界の外? それは、この近くですか?」
「はい、この城の物見櫓から見える距離です。」
「おかしいですね……。私の予見では、そのような未来は映らなかった筈……。この結界の近辺で起きる混沌災害であれば、ほぼ常に事前に予見出来ていた筈なのですが……」

 その伝令兵曰く、この龍宮城を囲む結界の外側(=深海)でいくつもの混沌核が集約し、「意思疎通の出来ない、危険な投影体」が次々と出現しつつあるらしい。その報告を聞いたリリィは、凛とした態度でその場にいる人々に通達する。

「分かりました。では、ただちに警備隊の方々を派遣して下さい。皆様はあちらの応接室の方へ。今後どうするかということは、後々お話しします。今は緊急事態ですので」

 そう言って、五人を別室に案内しようとするリリィであったが、そんな中、ロロナアステリアに小声で囁く。

アステリア様、ここは彼等に協力して、混沌災害を沈めるのがよろしいかと。彼等に我等の『力』を見せつければ、こちらの要求も通りやすくなるかもしれません」
「えぇ、私もそう思っていたところです」

 アステリアはそう返した上で、リリィに対して進言した。

「私達の武器を返して下さい。私がその投影体を蹴散らしてきましょう」

 自信ありげにそう宣言したアステリアであるが、直後にジョンが言い放つ。

「他は知らんが、『お前』は絶対に信用出来ん!」

 当然の反応であろう。主君に対して殴りかかろうとする者に武器を与えることなど、彼としては承服しかねるのは当たり前である。たとえ、それが主君(とほぼ同じ身体と人格の持ち主)の実の妹であろうとも。
 だが、そんなジョンを制して、リリィは真剣な表情で頷いた。

「分かりました。しかし、今のままのあなた方では、この海域の外に出ることは出来ません。こちらに来て下さい」

 そう言って、彼女はアステリアロロナを、当初案内しようとしていた部屋とは別の方向へと連れて行こうとする。それに対して、残りの三人も次々と口を開いた。

「あんたを港町まで届けるのが俺の仕事だからな。ここは手伝ってやるよ。ただし、俺がここでやったことは『上』には伝えないでほしいがな」
「私も、『戦うこと』は苦手だが、『守ること』くらいは出来る」
「一応、私も、仮にもユーミル海軍の一員ですから、お手伝いはしたいと思っています。まぁ、その、大したことは出来ませんが……」

 アンドリューは、この状況においてもまだ「一般兵」を装っていたが、アステリアファントムは、本当に彼がただの一般人なのか、やや疑念を感じ始めていた。
 ともあれ、五人はリリィによって城内の「武器庫」へと案内され、それぞれの武装を返還される。それと同時に、リリィは彼等に一つずつ、奇妙な混沌の気配をまとった「石」を手渡した。

「これは『気泡丸(きほうがん)』と言って、この石の周辺に自動的に『酸素』を発生させる魔法道具です。この石を身につけていれば、一定の大きさの『気泡』を作り出し、周囲の水圧をも跳ね返すことが出来る筈です。この大きさであれば、それぞれが持ち手一人分の身体を覆うには十分な大きさでしょうから、水中でも問題なく戦うことが出来ます。ただし、効果はそれほど長くは持ちませんから、気泡が小さくなり始めたら、すぐにこの城まで帰還して下さい」

 魔法師であるロロナを初めとして、誰一人としてそのような魔法道具の存在を聞いたことがない。おそらくは異界からの投影装備、あるいはそれを独自に改良して作られた代物なのであろう。もしかしたら、この城を取り囲む気泡自体が、これと同じ原理によって成り立っているのかもしれない。
 どこまで彼女の説明が正確なのかは確かめようがないが、少なくとも、リリィが自分達を罠に嵌めようと考える動機はないと判断した五人は、素直にそれを受け取り、「城」の海域へと向かう。ロロナとしては、どさくさに紛れて海上まで逃げるという選択肢も考えてはいたが、この気泡の効果時間内に地上まで辿り着けない可能性があると考えて、ひとまずここは素直に「魔物退治」に専念することにした。

2-5、巨大蛸と船少女

 城の外に出た五人は、リリィの言っていた通り、自分の周囲に自分一人を包む程度の「気泡」が広がり、自分を守ってくれていることを実感する。その上で、彼等が『伝令兵が言っていた方角』へと向かうと、そこには「巨大な蛸のような何か」が四体ほどうごめいていた。それぞれが、大型の鯨をもしのぐほどの大きさであり、明らかにこの世界で自然発生した生き物ではない。
 そして、その四体のうち、奥にいる一体の蛸の幾本かの足が、一人の「人間の少女のような誰か」に絡みついているのを彼等は発見する。その「少女」はその蛸の足から逃れようと必死で抵抗を続けており、蛸足で身体の大半が隠れているため、何者かはよく分からないが、その周囲には(現在のアステリア達の周囲と同じように)「気泡」が発生しているため、おそらくは龍宮城の住人であろうことは推測出来た。
 ロロナはひとまず、その少女を狙わないように別の二匹の蛸に照準を絞った上で、まず自身の魔力を高めるために混沌濃度をあえて上げつつ、自らの傍らにリャナンシーを出現させる。そしてそのリャナンシーの力を借りて、水中に「真空」を作り出すことで、そこに向かって激しく巻き起こる水流の勢いを利用して、蛸達に大打撃を与える。

「さすがに、海の中でこれを打つのは初めてです」

 本来、この魔法は空気中に真空を発現させた上で風圧で敵を粉砕させることを目的に編み出された技術なのだが、どうやらそれは水中においても有効であるらしい。これは彼女にとっては、新鮮な発見であったと言える。
 一方、ファントムは、少女を抱えている蛸に向かって、懐から取り出したダガーを投げ込むと、そのダガーは水圧をもろともせずに一直線に蛸の身体へと突き刺さり、蛸は苦しみのあまり悶え始める。しかし、それでもまだ少女からその足を離そうとはしない。どうやら、少女の身体はその巨大蛸の足の吸盤で、完全に固定されているようである。

「俺も、水中でダガーを投げるのは初めてだ」

 彼はそう呟くが、そもそも、そのダガーの投げ方自体が、明らかに「普通の人間」の動作ではない。おそらくそれは邪紋使い、その中でも「影(シャドウ)」と呼ばれる系譜の邪紋の能力であろうことを、その場にいる者達は推察する。
 一方、ロロナに呼び出されたリャナンシーは、召喚主の魔法詠唱を手伝った上で、自らも前に出て蛸に接敵しようとしたが、気泡丸の効果範囲がロロナの周囲に限られているため、このままでは前に出ることが出来ない。かといって、魔法師であるロロナが彼女と一緒に接敵するのは、さすがに危険すぎる。

「石をもう一つ貰っておくべきでしたか……」

 ロロナは後悔しつつ、やむなくリャナンシーに、蛸に向かって火矢を打つように命じると、リャナンシーは命令通りに正確な一撃を放つが、水中ではその炎の矢は蛸に届くことなく、ロロナの気泡の外に出た直後に、あっさりと海水によって消火されてしまう。
 命令通りに任務を遂行しようとしたにもかかわらず果たせなかったリャナンシーが気落ちしているのを横目に、今度はアステリアがハルバードを振り上げて、ロロナの魔法で重傷を負っていた手前の蛸のうちの一体に斬りかかる。長柄を真上へと振り上げた時点で、その突先は気泡の蛸にまではみ出て、水圧の影響を受けることになってしまったが、彼女はかまわず強引にそのままハルバードを手前の蛸に向かって振り下ろした結果、蛸は一瞬にして脳天から一刀両断される。
 この状況において、グリップスはひとまず一歩前に出て皆を守れる体勢に入る一方で、隣にいた(既にロロナの魔法で深手を負っていたもう一体の)蛸はアステリアに襲いかかるが、グリップスが守るまでもなく、その蛸の一撃をアステリアは華麗に避ける。その直後、アステリアは自分の身体に何か「特殊な力」が働いたことを実感したと同時に、本能的にその自分を襲ってきた蛸に向かってハルバードで反撃し、あっさりと斬り伏せる。
 この時、アステリアは自分にかけられた「特殊な力」の正体にすぐに気付いた。それがティル・ナ・ノーグ界から投影された妖精の能力であり、その力の発生源が、彼女の後方で「何も出来ずに待機しているフリ」を続けているアンドリューだということに。

(あなた! やっぱり投影体!?)

 アステリアが目線でアンドリューに訴える。それに対して彼はグリップスを指差しながら、

(ユーミルの人がいるから、言えないんですよ〜)

とジェスチャーを交えながらアイコンタクトで伝えようとする(しかし、それが伝わったかどうかは定かではない)。
 また、それに気付いた者がもう一人いた。ロロナの呼び出したリャナンシーである。大型魔法を使って気力を使い果たしたロロナが気付け薬を飲みながら次の魔法の発動に備える中、その傍らで何も出来ずに歯ぎしりしていたリャナンシーは、思いがけず「同郷の男性」を見つけたことで、目の色を変える。

(誘惑しがいがありそうな人ね♪)

 リャナンシーが舌舐めずりしながらアンドリューを見つめる傍らで、そんな様子に気付くこともなくファントムが放った二撃目のダガーが再び「少女を抱え込んでいた蛸」に直撃すると、蛸は完全に絶命し、その足で拘束されていた少女は、ようやく自由を取り戻す。
 ここで、初めて少女はその姿をはっきりと五人の前に表す。黒髪で、後ろ髪の中の一房だけを長く伸ばした、やや小柄なその少女の背中には「帆船の模型のような何か」が、まるで体から生えているかのように密着していた。そして、その「帆船」の形状は、どことなく、ファントムの乗っていた愛船エーギル号とよく似ている。

「あれは……」

 呆然とした表情のファントムが思わず声を上げると、その少女もまた同じような表情を浮かべながら、同じような声色で呟く。

「ファン……トム……、さま?」

 明らかに、彼女は自分のことを知っている。そしておそらく、自分も彼女のことを知っている。だが、彼女が何者なのかは分からない。その特殊な身体の形状は、異界の物品が擬人化した存在である「オルガノン」に似ているが、ファントムが知る限り、「エーギル」はあくまでただの「船」だった筈である。あるいは、ファントムがそう思っていただけで、「彼女」はずっと、船長であるファントムのことを騙し続けていたのであろうか?
 困惑するファントムに代わって、アステリアがその少女に近付き、生き残った残りの蛸から彼女の身を守ろうとして声をかける。

「大丈夫ですか?」
「あ、ありがとうございます」

 少女は素直にそう答える。少なくとも、彼女はアステリア達に対して敵意を抱いているようには見えない。
 一方、残った一体の蛸に対して、目の前にいたグリップスが殴りかかるが、やはり「守り」に特化した聖印の持ち主である彼では、傷を与えることは出来ない。それに対して、蛸はグリップスに巻きつき、その身体を絞り潰そうとするが、彼は防壁の印の力で、その圧力を全て弾き飛ばす。

「私には効かぬ!」

 グリップスがそう叫ぶ。その身はまだ蛸に拘束されたままではあったが、この蛸が自分を攻撃対象とみなしている間は、他の者達に危害が及ぶことはない。結果的に、グリップスの力が最も活かせる状況が組み上がっていた。
 そんな中、オルガノンと思しき少女は、ファントムへと近付いてきた。

「やはり、ファントム様なのですね」
「エーギル、なのか?」
「えーっと、私は『エーギル』なのですが……」

 その少女が、どう説明すれば良いか分からずにまごついている中、ファントムはひとまず三本目のダガーを「グリップスと対峙していた蛸」に放ち、止めを刺すことに成功する。グリップスファントムに礼を言いつつ、周囲を見渡すが、ひとまずこの周辺の海域からは、もう「危険な投影体」と思しき気配は感じられなかった。

2-5、それぞれの正体

「『先程』は目を瞑っておられたので分からなかったのですが、やはり、あなたはファントム様だったのですね」

 危機的状況を脱したことを確認した「身体から『船』を生やした少女」がそう言うと、ファントムは「先程」の意味がよく分からないまま、ひとまず黙って頷く。そのことを確認した上で、彼女は改めて自己紹介をする。

「私の名はエーギル。先程までファントム様達を乗せていた帆船エーギルが、ヴェリア界という異界へと流れ着いた後に、『数年前のこの世界』に投影されてきたオルガノンです」

 可能な限り端的に分かりやすく伝えようとして彼女はそう説明したが、それでも「よく分からない話」であることには違いない。とはいえ、彼女はそれ以外に説明の仕様がない存在なのである。
 ヴェリア界を経由してこの世界に擬人化されて出現するオルガノンという存在は、投影体の中でも特に謎が多い。直接的な「投影元」となるのはヴェリア界であるが、彼女達はそれ以前に何処かの世界で「廃棄」された物品である。一般的には、それは「アトラタン世界以外の異世界の廃棄物」であることが多いが、理論上は「アトラタン世界の廃棄物」がヴェリア界経由でこの世界にオルガノンとして投影されることも、確かにありえる話であろう。
 もっとも、この「エーギル」と名乗る少女の本来の出身世界が「このアトラタン世界」なのか、「龍宮城のリリィ」のように「別のアトラタン世界」なのかは分からない。ただ、仮に「このアトラタン世界」で先刻沈没した「エーギル」が彼女の前世だとしても、それがヴェリア界を経由した結果、沈没よりも前の時代に出現すること自体は別におかしくはないだろう。ヴェリア界はこの世界とは時間の流れがおそらく異なる以上、どの時代に誰が出現する可能性もありえる話である。
 エーギル曰く、彼女は数年前にこの世界に投影されてきた後、地上で出会った「案内人」の紹介で龍宮城に招かれ、犬医者の助手となり、龍宮城の近辺で怪我をした人々を彼の元へ連れ帰る役割を担ってきた。そして半日ほど前、「すごく嫌な予感」を感じた彼女は、ファントム達五人が渦潮状の海流に流されて瀕死の状態で水中を彷徨っていたところを見つけて、犬医者の元へと連れていったらしい(おそらく、彼女が感じたのは「かつての自分自身が壊される予感」だったのであろう)。
 なお、彼女は「オルガノン」である以上、「船」の姿に戻ることも出来るが、ここで実体化すると船体の大半が気泡の外に出てしまうので、基本的に水中にいる間は「人間形態」を保っているらしい。そして、その状態で龍宮城の周囲を哨戒している間に、先刻の巨大蛸と遭遇してしまったようである。彼女は助けてもらったことに改めて感謝する一方で、ファントムもまた「お互い様だな」と笑顔で答える。思わぬ形で「相棒」と再開出来たこの状況に、ファントムはまだ微妙に戸惑いながらも、素直な嬉しさを噛み締めていた。
 一方、アステリアは戦闘中に感じた違和感を確認すべく、アンドリューにこう言った。

「帽子とコートを外して下さい」

 さすがにこの状況下で隠し続けることは不可能と思ったアンドリューが、やむなく黙って言われた通りにすると、そのコートの下から、ジョンと同じような羽が現れた。

「あなたの立場上、正体を隠さなければならなかったのも分かります。しかし、このような場に来た以上、あなたが『何が出来る人』なのかを、早めに明かしてほしかったです」

 アステリアとしては、色々な意味で「危機的な状況」である以上、共同戦線を組むための情報は共有すべき、という認識であった。それに対してはアンドリューも特に反論することも出来ず、バツが悪そうな顔を浮かべながら沈黙を続ける。そんな彼に対してアステリアはそれ以上何も言わず、今度はファントムへと矛先を向ける。

ファントムさんもです。なぜ今まで明かさなかったのですか?」
「まぁ、明かす理由もなかったからな。とはいえ、俺達『影(シャドウ)』は『相手に気付かれないことを前提にした戦法』を用いる都合上、極力話したくはなかったんだ」

 敵を騙すにはまず味方から、ということであろうか。あるいは、そこまで信頼出来る味方だとは思われていなかったのだろうか。いずれにせよ、無頼の運び屋として、そう簡単に自分の全てを他人に晒け出せる訳でもない、ということはアステリアにも分かる。それに加えて、彼等を弁護に入る者もいた。

「私がいましたし、話にくかったのでしょう」

 グリップスである。ユーミルの主流派が奉じる聖印教会の教義においては、邪紋使いも投影体も、存在そのものが「人間社会に害を及ぼす(可能性のある)悪」である。グリップス自体はそのような教義には共感していないが、アステリア以外は彼とは初対面である以上、警戒するのは当然の話であろう。

「まぁ、いいでしょう。ところで、そこのリャナンシーさん? その手に持っているものをゆっくりと下ろして下さい」

 アステリアは、ロロナの呼び出したリャナンシーに対してそう言った。どうやら、巨大蛸を倒した時点で、力を使い果たしたロロナはいつの間にか気を失っていたようで、リャナンシーが彼女を片手で抱え持っていた。アステリアにそう命じられたリャナンシーは、ロロナを、ゴン、と海底に無造作に落とす。それに対して、アステリアは呆れ顔を浮かべた。

「あなた、召喚主に対して、なんという扱いをしているのですか?」
「私が『私を呼び出すための触媒』をどうしようと自由では?」

 どうやらこのリャナンシーは、ロロナのことをそのように認識しているらしい。召喚主が気を失っている状態で自律的に(しかも、召喚主を蔑ろに)行動するという時点で、本来であれば、「人類に害をもたらしうる投影体」として、エーラムに危険視されてもおかしくない存在なのであるが、それを管理すべきロロナ自身が気を失っていてその事実を認識していないため、その事実はエーラムには伝わっていない。

「あなたは海底にいても役に立たないのですから、出てこないで下さい」

 アステリアにそう言われたリャナンシーは、先刻の戦いで自分の火矢が水中で無効化してしまったことを思い出し、しぶしぶ姿を消す。アステリアはそれを確認した上で、今度はエーギルに視線を移す。先刻までの彼女とファントムの会話については、一応、話半分に聞こえてはいたが、まだアステリアの中では、今ひとつ整理しきれていなかったらしい。

「で、そこのあなたは、エーギルさん、ですか?」
「はい。えーっと、言っても分かってもらえるかは分かりませんが、先程まで皆さんを運んでいたのは『私』です。そして、その私が壊れた後、ヴェリア界と呼ばれる世界に流れ着いて、人の形を得て数年前にこの世界に投影されたのが、私です」

 改めてそう説明すると、いつの間に目を覚ましたのか、ロロナが割って入る。

「なるほど。先程は『並行世界からの投影体』、今度は『同じ世界から転生したオルガノン』ですか。実に興味深い事例ですね」

 完全に彼女の意識は回復しているようである。そんな彼女に対して、彼女が寝ている間のリャナンシーの態度の件を伝えようとする者は、誰もいなかった。

3-1、災厄の原因

 その後、彼等はエーギルと共に龍宮城へと帰還する。どうやら彼等はジョンによって遠方から監視されていたようで、城に到着すると同時に姿を現したジョンが声をかけた。

「我が同胞を救ってくれたことには感謝する。だが、お前達を信用した訳ではない」

 なおもアステリアへの警戒心を抱き続ける彼ではあったが、さすがに「女王の妹(のような存在)」ということもあってか、ひとまず「客人」として遇することにしたようで、彼等には城内の客室をあてがうことにした。
 その客室の準備が整うまで、エーギルに案内される形で城の応接室へと向かった五人は、そこで改めて今回の一連の事件、すなわち「アルベリッヒと思しき誰か」と「巨大蛸」の発生要因について、エーギルを交えて話し合うことになった。
 エーギル曰く、この海域の上方、すなわち地上に近い方面において、混沌濃度の揺らぎが発生することは、ここ最近しばしば発生していたらしい。しかし、あくまで海面に近い海域の話であって、これまで龍宮城には直接的な被害が及ぶことはなかったので、特に調査しようとはしなかった。
 だが、どうやらエーギルが彼等五人を龍宮城に迎え入れて以降、その「混沌濃度の揺らぎ」が、徐々にこの龍宮城にも広がりつつある、というよりも、その「揺らぎの原因と思しき混沌核」が、龍宮城に向かって近付きつつあるとエーギルは感じているらしい。おそらくはその「揺らぎ」が先刻の巨大蛸という「危険な投影体」の出現をもたらしたことは想像出来る。そして、その「混沌の発生源」が龍宮城から離れた海面に近い海域であったからこそ、リリィの「予見」の範囲外となってしまっていたのだと考えれば、辻褄も合う。
 ここまでの状況から察するに、その「揺らぎの原因と思しき混沌核」は、帆船エーギルを沈めた「アルベリッヒと思しき誰か」である可能性が高い。しかし、ロロナの認識では、彼女の兄弟子であるアルベリッヒは、あくまでも「人間」であり、「魔法師のフリをした投影体」などではなかった筈である。しかも、彼は元素魔法師であり、ロロナのような召喚魔法には通じていなかった筈なので、恒常的に混沌核を保持した状態の投影体を従属体として召喚することは出来ない。
 ただ、ここでロロナは「強い魔力を操る能力を持つ者が命を落とした後、極稀に『残留思念』としてこの世界にとどまり続けることがある」という話をアカデミーで聞いたことを思い出す。ただ、そのような「残留思念」が出現する要因も、その行動原理も場合によって様々ではあり、一概に特定することは難しいらしい。
 ロロナがそのことを皆に告げると、まずファントムが口を開いた。

「我々がここに来てから、『彼』の気配がこちらに近付いているのならば、我々の中にその原因があるのでは?」

 ロロナとしても、その可能性は十分にありえると考えていた。ただ、仮にあの魔法師が「アルベリッヒの残留思念」だったとして、問題は誰が彼のターゲットなのか、ということである。ロロナの記憶では、アルベリッヒが大渦潮を発動させた時、彼の視線は「ノルド軍」と「ユーミル軍」の両方をターゲットにしていたように見えた。そのことを皆に伝えると、アステリアは思案を巡らせる。

「私達、ノルドとユーミルの両方に敵対し、船を沈めた後も私達を狙う理由、ですか……」

 ちなみに、この海域に最も詳しいアンドリューが以前に海軍の面々から聞いた情報によると、ここ最近起きた海難事故は、全て「各国の要人」を乗せた船であったという。その話を聞いたアステリアの中で、一つの仮説が思い浮かんだ。

「聖印か!」

 この世界における「要人」と言えば、その大半は「聖印」の持ち主である。そして、アンドリューは聖印教会の者達に殺されている。「聖印」そのものに対して強い憎悪を抱いた状態で命を落としたとすれば、その残留思念が「聖印を持つ者」に対して敵意を抱いてもおかしくはないだろう。そう考えれば、アステリアグリップスがこの龍宮城に拾われたことで、それまで龍宮城には向かっていなかった「敵意」が、こちらに近付きつつあるのも納得出来る。

「この仮説が正しいかどうかは分かりませんが、何はともあれ、『私達』が狙われているのは事実です。まずはこの城の『主』に話を聞いてもらうべきでしょう」

 アステリアはそう言った上で、エーギルに改めて、リリィへの再謁見の機会を作ってもらうことを依頼する。その傍らでロロナは、リリィにこの仮説を告げた場合の「彼等」の反応を想定しながら、エルフ界から特殊な「霊薬」を召喚し、それを服用することで、「次の戦い」に向けて、自らの力を回復させるのであった。

3-2、記憶と信頼

「なるほど。それは確かに、筋が通った仮説ですね。ということは、つまり皆さんをここにとどめ置くことが、危険を招いていると?」

 アステリアが提示した「仮説」に対して、リリィはそう言って頷く。

「えぇ、その可能性が高いでしょう」

 ロロナがそう答えると、リリィの傍らに立つジョンは、アステリアグリップスに鋭い視線を向けながら、皮肉めいた口調で言い放つ。

「つまり、『この二人』を殺せば全て丸く収まる訳ですね」

 彼がそう言うと、即座にロロナはリャナンシーをその傍に呼び出し、臨戦態勢に入る。先刻、エルフの霊薬を用いて力を回復させたのは、この状況を想定した上での下準備であった。無論、ジョンとしても即座に彼等に斬りかかることをリリィが許すとは考えていないため、本気で二人をこの場で殺そうとした訳ではなかったのだが、それがこの状況を解決する最善の道だと彼が考えていたことは、その視線と声色から伺える。
 そんな中、ここまであえて積極的に動こうとはしなかったアンドリューが声を上げる。

「待ってくれ、ジョン!」

 ユーミルの将であるグリップスにも自らの正体を明かしたことで、これ以上隠し続ける理由がなくなった彼は、思い切って「旧友」にそう訴えた。

「なんだお前は? 馴れ馴れしい!」
「覚えてないのか?」
「覚えて……? 何の話だ? 確かに俺には元の世界の記憶はないが……」
「一緒にこの世界に投影されてきたじゃないか、アンドリューだよ」

 アンドリューとジョンがこの世界に出現した時点では、二人共「投影前」の妖精界での記憶は持っていた筈である。だが、アンドリューとはぐれて以降、何らかの理由で記憶を失ってしまったのかもしれない。

アンドリュー……? 聞き覚えが、あるような、ないような……」
「この曲、覚えていないか?」

 そう言って、アンドリューがギターを取り出すと、ロロナの呼び出したリャナンシーが、そっとアンドリューの肩に手を置く。

「そうよ、思い出して」

 彼女はアンドリューともジョンともこれまで面識はなかった筈であるが、どさくさ紛れにこの二人を魅了しようと考えたのか、ロロナに命令された訳でもないにもかかわらず、自らの「相手の生命力を奪う代わりに才覚を与える能力」をアンドリューに付与する。その力を与えられたアンドリューが、いつも以上に冴えた指さばきで美しい旋律を奏でると、ジョンはそのギターの音色に惹き込まれ、そして徐々にその表情を変化させていく。

「その曲は……、俺の故郷の曲……。俺の友が歌っていた……、そうだ、お前は、俺の友! 共に宮廷を追われた……」
「そうよ! あんなに苦労した仲じゃない!」
「とりあえず、あんたは黙ってなさい!」

 関係ないのに割って入ろうとするリャナンシーをアステリアが引き剥がすと、曲を弾き終えたアンドリューが改めて訴える。

「そうだ。お前と一緒にあいつの横領事件を暴こうとして、逆に宮廷を追い出された俺だよ!」

 そこまで言われて、ジョンは完全に記憶を取り戻した。

「……俺は、どうして忘れてしまっていたんだろう……?」
「色々あったんだろう。思い出してくれたなら、俺はもう気にしないよ」
「分かった。俺はお前のことは知っている。確かにお前は、誰かを陥れるような奴じゃない。それに関しては、俺は確信している」

 ジョンがそう断言すると、アンドリューは安堵した笑顔を浮かべながら、改めて訴える。

「今まで、俺は自分の正体を隠して、お前を探していた。ここにいるのは、そこで世話になっていた人達なんだ。命を奪うのは、やめてもらえないか?」
「……少し、考えさせてくれ」

 ようやく心を通わせた二人がそんなやりとりをしている一方で、ロロナはリリィに対して、改めて「交渉」を始める。

「リリィ殿、我々を力づくで排除するというのならば、我々はそれに抵抗しなくてはなりません。その時は、あなた達にも少なからぬ被害が出ることでしょう。しかも、この城に近付きつつある『謎の脅威』が、我々を目指しているのではない可能性もあります。もしそうだった場合、我々を排除した後に、その戦いでの傷が言えないまま、その脅威に対抗しなければならなくなるでしょう。ならば、我々をその『謎の脅威』に向かわせ、我々の力を用いてその脅威に対抗する方が得策では?」

 ロロナとしても、最初から本気でリリィ達と戦う気はない。だが、戦いを避けるための交渉カードとして、自分達の自衛力を見せつける必要がある、そう考えた上でのリャナンシー召喚であった(そのリャナンシーが、ここまで勝手な行動を取るとは考えていなかったようであるが)。

「私も同感です。私の個人的感情を抜きにしても、こちらとしては、あなた方に危害を加えるつもりは毛頭ありません」

 彼女はあっさりとそう断言した上で、まだ困惑した状態のジョンに対して、こう告げる。

「ジョン、あなたがこの龍宮城のことを心配して下さっているのは分かります。しかし、あなたにとって『そこの彼』が『信頼出来る友』であるのと同じように、私にとっては『この二人』は、『信頼出来る妹』であり、『夫』であったのです」

 アステリアグリップスを指しながらそう語る彼女に対して、ジョンは複雑な表情を浮かべつつ、自分の考えをまとめながら答える。

「分かりました。私はあなたに命を助けられた身です。あなたがそう言うなら、私もあなたを信用しましょう。それに、私が彼等を殺そうとした場合、『もう一人』敵が増えそうですし」

 彼はそう言いながら、この部屋の隅で自分に向かって密かに戦闘態勢に入っているエーギルに視線を向ける。そんな彼女に気付いたファントムが、改めてアステリアに対して言った。

「俺達は、一度交わした契約は必ず守る。それが不本意な形で想定外の事態が起きてしまった場合でも、それを遂行するために、最後まで付き合うつもりだ」

 ファントムとしては、「相棒」であるエーギルがこの龍宮城にいる以上、無理して地上に帰らなくても、彼女と共にこの地に残るという道も無くはない。だが、最終的にどのような立場に落ち着くにせよ、アステリアロロナに地上に戻る意思がある限り、彼女達を助けなければならない。それが運び屋としての彼の矜持であった。

3-3、癒しのひととき

「分かりました。では、今後、皆さんをどうするかは、その『脅威』を排除した後で考えることにしましょう。その上で、おそらく先程の戦いでは不自由が多かったと思うので、こちらも切り札を出します」

 リリィはそう言うと、懐から、かなり大きな気泡丸を出す。

「これがあれば、エーギルの『真の姿』が丸々入る程度の範囲を『地上と同じ空間』にすることが出来ます。おそらくこれがあった方が、皆さんとしては戦いやすいでしょう」

 もし、アルベリッヒの正体が「幽霊」だった場合、相手は水中でも自由に行動出来る可能性が高い上に、元素魔法師であれば水流を自在に操ることも可能なので、アルベリッヒと対峙することを想定するなら、確かにその気泡丸があった方が無難であろう。
 ただ、この五人がアルベリッヒを探しに行った場合、まだ彼の狙いが「聖印」とは限らない以上、入れ違いで城が襲われる可能性があるため、彼等に支援役として貸し出せる要員はエーギル一人が限界である、とリリィは告げるが、その点についてはアステリア達も異論はなかった。
 その上で、リリィはその気泡丸を誰に渡すか迷いつつ、ひとまずグリップスに預けた。アステリアに渡すとまたジョンが微妙な顔をするだろう、という危惧が彼女の中にあったが故の選択だったが、ジョンの中では、リリィがグリップスに対して特に強い信頼感を抱いていることが、一人の男として、それはそれでどこか不機嫌であった(とはいえ、立場上、その感情を表に出す訳にもいかなかった)。

「とはいえ、皆さんも先刻の戦いに続いての連戦となると厳しいでしょう。ここは、『彼女』の力を借ります」

 リリィは近くに侍っていた部下の一人に命じると、城の奥から「丸い缶に手足が生えたような少女のオルガノン」を呼び出した。そのに書かれた文字を見た瞬間、アステリアが驚愕の声を上げる。

「そ、それは、我が故郷の、ニシンの塩漬け!?」
「ワタシを、食べてくれるの?」

 缶の少女はそう言うと、自らの身体をパカッと開けて、そこから不気味な外見の「ニシンの塩漬け」を取り出す。そこから香ってくる匂いは、アステリアロロナ以外の三人にとっては「嗅いだこともないほどに強烈な腐臭」であった。
 アンドリューはジョンに対して「ナニコレ?」というような視線を送るが、彼は目を合わせようとしない。

「こ、これは、ダメなんです! 私は遠慮します!」

 ロロナは鼻を塞ぎながらそう叫ぶ。食物のオルガノンには、その「本体」を誰かに食べさせることによって体力や気力を回復させる能力があることは、召喚魔法師であるロロナは当然知っている。そしてノルドで赴任中の彼女にとって、この食べ物がノルド人にとっての伝統的な食物の一つであり、決して「毒」ではないことも分かっている。だが、それでも彼女は、これを口にする気にはなれない。理屈で分かっていても、味覚と嗅覚がどうしても受け付けないのである。
 そんな彼女をよそ目に、アステリアは素直に美味しそうにその漬物を食べる。一方で、これが本当に食べ物なのかと疑っていたアンドリューも、恐る恐る食べてみると、その独特の風味が彼の嗜好に直撃したようで、そのまま喜んで食べ続けるのであった(なお、グリップスファントムは、先刻の戦いであまり力を使わなかったため、食べる必要はなかったようであるが、食べる必要があったとしても、食べる気になったかどうかは定かではない)。

3-4、「妹」の想い

 その後、五人(とエーギル)にはひとまず休養の時間を与えられた。アステリアロロナは、出撃に向けての準備を進めつつ、帰還後のことについて頭を悩ませる。

アステリア様、どうにか地上に帰還出来る可能性は見えてきましたが……」
「それ以上は言わないで下さい。私も分かっています。兵を失った今の我々では、援軍として役に立たないでしょう。ここは一旦、ノルドに帰って報告するしかないですね」

 今回の任務失敗で彼女達にどのような処罰が下されるかは分からない。仮に許されたとしても、連れてきた自領の兵達はほぼ全滅した以上、領地の立て直しに奔走することになるだろう。

「君主としての役割については、その通りです。しかし、アステリア様個人としては、どうなのでしょう? せっかく出会えた姉と、再び別れてもよろしいのでしょうか?」
「確かに、彼女は『姉の投影体』ではありますが、『姉の投影体』でしかありません。私の姉は死にました。彼女は私の姉ではないので、私がここに留まる理由はありません」
「了解しました、マイロード。では、次の決戦に備えて休んでおいて下さい。もしかしたら、次の決戦の後、『我々だけ』で離脱を目指す可能性が出てくるかもしれません。その時に備えて、今は休養をお取り下さい」
「分かりました」

 ロロナの言わんとすることは理解しつつ、アステリアはひとまず彼女と別れた後、もう一度、個人的にリリィに話をするために、城の使用人に案内してもらう形で彼女の私室へと向かった。

「お姉ちゃん、いますか?」

 アステリアが扉の前でそう問いかけると、中からリリィが出てきた。その表情は、やはりどこかバツが悪そうな様子である。

「あなたには、本当に、いつもいつも迷惑かけてばかりよね……」

 俯きがちにそう言ったリリィに対して、アステリアは、今度は拳を握ることもなく、穏やかな口調で語り始める。

「いえ、いいんです。『あなた』が私に頼んだことは、『あの魔法師の排除』だけ。それだけです。『あなた』は『あなた』です。『私の知っている私の姉』ではありません。ですが、一つだけ聞かせて下さい」

 そう断った上で、アステリアは問いかけた。

「あなたは、幸せでしたか?」

 それに対してリリィは少し間を開けつつも、はっきりとした口調で答えた。

「正直に答えていいなら、幸せだった。彼と一緒にいた時も、今ここにいる時も。私にその幸せを享受する権利がないことは分かっているけど……」
「あ、いや、それ以上は言わなくていいです。あなたが幸せだったなら、私としてはそれでいいんです。私だって、故郷の領土を支えられていることは幸せなんです。あなたが気に病むことはありません。あなたが幸せだったら、それでいいんです。では、これでお別れです。ありがとうございました」

 そう言って、アステリアは部屋から去って行く。そんな「妹」の背中を、複雑な思いでリリィは見送るのであった。

3-5、「夫」の想い

 その後、扉を閉めて一人になったリリィであったが、その直後に、再び扉を叩く音が聞こえる。アステリアが何か言い忘れたことがあって戻ってきたのかと思い、扉を開けると、そこにいたのはグリップスであった。

「すまないな、夜に来てしまって」

 そう言われた彼女は、少しためらいつつも、彼を部屋の中へと招き入れる。すると、扉を閉めると同時に、彼はおもむろに問いかける。

「まずは、すごく個人的なことだが、君にこんなことを聞くのは重荷を背負わせてしまうかもしれないが、一ついいか?」
「はい」
「私は、許されていいのだろうか?」
「……それは、『この世界の私』をあの子から奪ったことですか? それとも、『この世界の私』を守れなかったことですか?」
「『君』を守れなかったことだ」

 それに対して、リリィは言葉を選びながらも、率直な自分の気持ちを伝える。

「『守ろうとしてくれた方』には、どんな罪もないと思います。ただ、それでもまだあなたの心に『闇』が残るというのであれば……、『この世界の私』のような悲劇をまた起こさないように、『この世界を導くロード』になって下さい」

 リリィは、自分の方こそ彼に対して「重荷」を背負わせようとしていることを自覚しつつも、そのまま語り続けた。

「私は、この世界では投影体です。本来、この世界にいるべき存在ではありません。そして、ユーミルの騎士の妻であった私が、このような形で魔境の主であることが、私には許されないことだということは重々分かっています。ですから、この城の女王としては、この城の秘密を守ってほしいと思っています。しかし、討伐されても仕方のない存在だと思っている自分もいます。だから、何が正しいのかは分かりません。そもそも投影体とは、何のためにこの世界に現れたのかも分かりません。ただ、今の私には、私を慕って、この世界での『かりそめの命』を託してくれている人達がいる。それはジョンもそうだし、エーギルもそうだし。だから、私としては……」

 彼女自身、自分の中でまとまっていない気持ちを伝えようとしているが故に、どうしても言葉がまとまらない。だが、そんな彼女に対して、グリップスは優しげな笑顔を見せる。

「それだけの言葉が出てくるということは、君は、幸せなんだね」

 その笑顔に、「かつて自分を愛してくれた『元の世界のグリップス』の笑顔」を重ね合わせた彼女は、思わず顔がほころびそうになるが、それを必死で堪える。「この人が愛していたのは、『私』ではなく、『この世界の私』なのだ」と自分に言い聞かせながら。

「今の私には、守るべきものがある。かつてあなたは、私達家族を守ることが自分にとっての幸せだと言ってくれた。今の私にはそれが分かります。たとえ今の私が、あなたから見て『許されない存在』なのだとしても」
「君は、少し考えすぎではないかな。君は君の進みたいように進めばいい。この城が誰かに攻撃された時に、君がこの城を守るというのであれば、守ればいい。その時は『どこかのロード』が助けに来るかもしれない。どこかの……、どこかのね……」

 グリップスの中では、仮にこの後、地上に戻ったとして、ユーミルの国主や上官達がそれを止めようとするなら、いつでもユーミルを見限る覚悟が出来ていた。
 その覚悟を胸に秘めつつ、グリップスは部屋を出て行こうとするところで、もう一度だけリリィに向き合い、そして何も言わずに彼女を抱きしめ、リリィも黙ってそのまま彼に身を委ねる。この瞬間、ほんの一瞬の瞬間だけ、二人は、世界の枠を超えた「グリップス」と「リリィ」の関係になれた、そんな気がしたのであった。

3-6、「友」の想い

「今、いいかい? アンドリューだけど」

 そう言って、アンドリューはジョンの部屋を訪ねた。そんな彼に対して、ジョンはまだどこか気まずい表情を見せる。

「すまなかったな。お前のことを、忘れてしまっていて……」
「いや、それは仕方がない。はぐれた後に何があったかはお互いに分からないし、俺達にとって、知らない世界に来てしまっていた訳だからな。ところで……、ジョン、君は、元の世界に帰る気はあるか?」

 そう問われたジョンは、どう答えれば良いか迷いつつ、自分の中の気持ちを全て語り始める。

「正直、記憶を取り戻すまでは、そもそも興味はなかった。そして、今、ようやく記憶を取り戻した訳だが……、こちらに来てから色々な人達に聞いたところ、そもそも俺達は『帰れる存在』ではないらしい。元の世界には今でも『元の世界の俺達』がいて、『その俺達』と『今の俺達』は、厳密に言えば同じものではないそうだ。『今この世界にいるリリィ様』も『元の世界にいたリリィ様』とは違う、また別の個体。だから、俺達のことを『元いた世界にいる本体の影』と呼ぶ者もいる。だが、仮に『影』だとしても、今の俺達は今の俺達として、今の人生を生きている。だから、そもそも『帰る』ということが出来る訳ではない」

 このことを理解している者は、アトラタン世界でも極僅かである。殆どの投影体はこのことを理解出来ていないし、そのことを説明されても、素直に納得出来る者ばかりではない。ジョンがこの事実をあっさりと受け入れることが出来たのは、彼の中で「元の世界」の記憶が消えていたことで、望郷の念がそもそも無かったから、という事情もあるだろう(逆に言えば、魔法師すら殆どいないユーミルで隠れ住んでいたアンドリューが、そのことを知らないのも無理はない)。

「そして、もし仮に『帰る』ことが出来たとしても、今の俺は、リリィ様の元を離れるつもりはない。あの方から受けた恩を、俺はまだ返せていない」
「なるほど」

 アンドリューは素直にそう反応しつつ、しばらく頷きながら窓の外を見る。

「元の世界に帰れないことは分かった。そして、君がここに居続けるつもりなのも分かった。君と同じように、俺もこの世界に来てから色々な人達に受けてきた恩もあるから、気持ちは分かる。だからこそ、俺は今、これから『ここ』にずっといるべきか、『今世話になってるところ』に戻るべきか、迷っててな」

 マルムの領主や海軍の同僚達のことが、彼の頭の中をよぎる。あの大渦潮という混沌災害の結果、彼等の中で、無事に生き残った者がどれくらいいるのか、それも彼の中では心配の種であった。とはいえ、彼等はアンドリューの正体を知らない。グリップスのように、アンドリューの正体を受け入れた上でも受け入れてくれる者達かどうかは定かではない。

「今いるところは、俺達のような『他の世界から移された影のような存在』をあまり快く思っていない人達が多くて、息苦しいんだ。翻ってここは、そういう存在にとっては理想郷のようなところじゃないか。とはいえ、地上の世界で生きていく上で受けた恩を返さないまま去るのも心苦しくてな」

 アンドリューはそこまで言ったところで、しばらく黙り込みながら、これからどうすべきか考えた上で、一つの提案を申し出る。

「そうだ、俺が地上に出たとして、君と連絡を取り合う方法はないかな?」
「つまり、お前は、地上に戻りたい、ということか?」
「そうだ。君のように『恩を受けた人に、ちゃんと恩を返そう』と思ったからな。だが、今後も俺一人だけで密かに生きていくのも、それはそれで息苦しくてな」

 「恩人への義理」と「友との繋がり」を両立する道はないかと思ってそう提案してみたアンドリューであったが、それに対してジョンは、とある妥協策を発案する。

「それなら、むしろ『この龍宮城の一員となった上で、地上に戻る』というのはどうだ? 地上の各地には、俺やリリィ様のように『地上で迫害されていた投影体』を龍宮城に連れてくる『案内人』の役目を担っている者達の一部が潜伏している。お前に、その役を担ってもらう訳にはいかないだろうか?」

 無論、それは「どちらの側」にとっても危険な任務である。地上で反混沌原理主義者に殺される可能性もあるし、逆に、案内人が裏切って龍宮城の情報を誰かに漏洩する可能性もある以上、相応に信頼出来る者でなければ、任せることは出来ない。

「今のお前であれば、俺達を裏切ることはないと十分に信用出来る。そして、あのユーミルでそんな危険な任務を担ってくれる奴は、そうはいないだろうしな」
「確かにな。今は俺はユーミルの港町で海軍の一員として働いているから、その意味ではうってつけだろう。君に何も出来ないまま、ただ上に帰るのも忍びないし、そういうことなら、引き受けさせてもらう」
「そうしてくれると俺も助かるし、きっとリリィ様達にとっても大きな力になるだろう。よろしく頼む」

 ジョンがそう言うと、二人はようやく、心から安堵した顔で互いの手を握る。その上で、ジョンは一つ釘を刺した。

「ただし、連れて来るのは『和を乱さない投影体』だけな」

 投影体とは、元来はそれぞれに全く異なる世界から出現した者達である以上、この世界の理に合わない存在も多い。そのような者達が、この世界の中で寄り添って「自分達の居場所」を築くためには、どうしても一定の「妥協」が必要になる。その妥協を良しとしない者達を受け入れることは、この龍宮城を内側から崩壊させることになりかねない。

「それは重要だな、確かに」

 アンドリューもそのことは分かっているだけに、素直に納得する。実際、ここ最近、隣国ウィステリアでは「ダンボール教」と呼ばれる新教宗教を起こしている「異界の神」の投影体がいるとも言われているが、そのような神格級の投影体に対しては、特に注意が必要であろう。絶対的存在である「神」そのものが実在しているという意味では、聖印教会と同等以上に危険な存在となりかねない。

「俺達も『差別』はしたくはない。だが、申し訳ないが『区別』はさせてもらう。現実問題として、全ての投影体が共存出来る訳ではないしな」

 ジョンにそう言われたアンドリューは、この世界に「投影体達の居場所」を築くという行為の難しさを改めて実感しつつ、その実現のために、これから先の自分出来ることが何なのかを、改めて考えさせられるのであった。

3-7、「船長」の想い

ファントム様、よろしいですか?」

 そう言って、ファントムの客室を訪ねてきた者がいた。エーギルである。本来ならば、出撃前に身体を休める必要があるのは、ファントム達よりも(巨大蛸相手に一人で戦っていた)エーギルの方なのだが、彼女としては、どうしても出撃前にファントムに話したいことがあったらしい。

「こちらからも色々と言いたいことはあったが……、まぁ、お前は俺の船だからな。お前が言いたいことは、大体分かる」

 ファントムがそう言うと、エーギルはおずおずと問いかける。

「どうして、すぐに私の言うことを信じて下さったのでしょうか? 『同型の船』もいない訳ではないですし、そもそも、今の私の見た目は『こんなの』ですし」
「多くを語る必要はないだろう。『俺の船』だからな」

 敬愛する船長にそう言われたエーギルは、少し照れながら笑顔を見せる。

「ありがとうございます。ところで、この戦いが終わった後、どうなさるおつもりですか?」
「ひとまず、あの二人を『外』まで送り届ける契約があるからな」
「それは、私も『あなたの船』として、協力させて頂きます。ただ……」

 エーギルは、やや申し訳なさそうな表情を浮かべる。

「私はその後も、出来ることならば、今の『地上と海の間の運び屋としての仕事』を続けたいと思っています」

 どうやら彼女は「犬医者の助手」としての仕事に加えて、地上の「案内人」によって導かれた「地上で迫害されていた投影体」を龍宮城へと連れて行く役割も担っているらしい。

「その仕事は、今も私一人でやっている訳ではないのですけど、それでも、私がいなくなると、困る人も出てきますし……。ですから、こんなことをお願いすることは出来ないとは思うのですけど……、そんな私の『船長』に、もう一度なって頂けませんか?」

 そんな彼女の申し出に対して、ファントムはあっさりと答えた。

「それを受けるのは当たり前だろう。船と運命を共にすることが出来なくて、何が船長だ」
「でも、船が船長の運命を決めてしまうのは、やはり、筋が通らないことなのかもしれません」
「お前がここに来てから受けた恩もあるだろうし、お前はそれに報いなければならないだろう。俺も『影(シャドウ)』の邪紋使いとして、そういうことは分かる。それに、仮にそうなったとしても、俺達のやることは、これまでも、そしてこれからも、そう変わることではない。ただ、ちょっと仕事が増えるだけさ」

 実際、ファントムはこれまでも、ノルドなどからの公的な任務とは別に、「表で言えない仕事」をこなしてきたことはいくらでもあった(その背景には、彼が「影」の邪紋使いだから、という事情もある)。そこにもう一つ「裏稼業」を加えることくらい、彼の中では造作もないことであった。
 その決意を聞かされたエーギルは、パッと表情が明るくなる。

「ありがとうございます! やっぱり、あなたは私の船長なんですね!」
「分かっているさ。お前は『俺の船』だからな」
「これからもよろしくお願いします、船長」
「あぁ、頼りにしているさ」

3-8、「魔法師」の想い

 こうして、四人の遭難者達がそれぞれの「縁者」と語らいを交わす中、これから自らの縁者(兄弟子)との決戦に挑もうとしているロロナは、一人、竜宮城の城下町を散策していた。
 特に目的もなくブラブラと歩いているフリをしながら、様々な住民達を相手に世間話をもちかけつつ、この城の『防備』や『戦力』を確認する。やはり、色々な投影体が混在しているだけあって、仮に近隣の君主が(何らかの「水中に潜る技術」を用いて)この空間を浄化しようとしても、相当な苦戦を強いられるであろうことが予想される。

(アカデミーの評価としては「Sクラス」の危険度の魔境ですね。アカデミーでもかなりの戦力を割かない限り、ここを攻略することは出来ないでしょう)

 そんなことを実感しながら、彼女はふと、自嘲気味に今の自分を省みる。

(まったく、他の者達は、それぞれの信念や自らの望みのために行動しているというのに、私が考えるのは、まず『アカデミーの意向』ですか……)

 ロロナの中にも「普通の人生」に憧れる気持ちがない訳ではない。だが、それが「無いものねだり」であることも分かっている。故郷を失い、リンドウ家に拾われ、若くして契約魔法師に選ばれる栄誉を勝ち取ってきた自分の人生に悔いはない。ただ、仮に「今とは別の人生」を歩むことになったとしても、それはそれで、また実りある人生だったのかもしれない、という気持ちも彼女の中にはある(あるいは、それは「別のアトラタン世界のロロナ」が歩んでいる道なのかもしれないが、そこまでは彼女には分かる術もない話であった)。
 一方、彼女の傍らではリャナンシーが、どこか退屈そうな表情でロロナに連れ添っている。彼女としては、アンドリューやジョンを誑(たぶら)かしに行こうかとも考えていたのだが、城に戻って以来、あまりにも重い局面が続きすぎて、結局、その機会を逸してしまっていたのであった。

3-9、決戦

 こうして、それぞれの想いを心に秘めながら、五人は「船」の状態となったエーギルに乗り込み、彼女が感じる「強い混沌の気配を感じる方面」へと向かうことになった(本来のエーギルは潜水艇ではないが、気泡丸を装着した状態であれば、水中でも上下左右自由に移動出来るらしい)。
 なお、この時、ロロナは「現在の自分の位置(および水面までの推定距離と方角)」を細かく確認していた。いざとなったら、自分達だけでも地上へと脱出するための経路を把握しておくために。
 そんな中、やがて彼女達を乗せた(船状態の)エーギルの周囲に、突然、激しい大渦潮が発生する。それは紛れもなく、海上で彼女達を襲った時と同じ現象であったが、「オルガノン化したエーギル」は、その激しい水流に押し潰されることなく、渦潮の中でも船体を崩さずに航行し続ける。どうやら、ヴェリア界を経由してこの世界に再出現したことで、今の官女は「ただの船」とは異なる特殊な力を手に入れているらしい。
 そして、その大渦潮の発生源と思しき方角には、深海にもかかわらず水圧に潰されることもなく平然と(水中に「浮かぶ」ような姿勢で)こちらを眺めている一人の魔法師らしき人物が現れる。アルベリッヒである。

「そこにいるのは、ロロナか?」

 明らかに聞き覚えのある、しかしどこか生気が感じられない声でそう言われたロロナは、淡々と問い返す。

「こんにちは。あなたが我々を水の底に沈めた投影体ですね?」
「投影体? この私が? 何を訳の分からんことを。俺はお前の兄だぞ。いや、エーラムを捨てた今の俺が、そのように言うのもおかしいか。俺は全てのロードをこの世界から消す。その決意を胸に、この海で全てのロードと戦い続けてきた」

 どうやら彼自身は、自分のことをまだ「人間の魔法師」であると認識しているらしい。ただ、投影体であるかどうかはともかく、明らかに今の彼からは「生きている人間」の気配が感じられない。何らかの「霊的存在」であることは、ほぼ間違いないようにロロナには思えた。一応、それでも彼の「正体」を確認する必要があると考えた彼女は、更に問いかける。

「あなたにお聞きします。あなたはいつ頃から『そのような活動』を始めたのか、記憶はございますか?」
「もう随分昔だな……、いつのことだったか?」
「では、あなたがなぜそのような行動に至ったのか、その理由を覚えていますか?」
「この世界は邪悪なロード達がはびこっている。そのロード達を倒さなければ、この世界に平和はこない」
「そう思うに至った何かしらの理由があったのだと思います。それを覚えていますか?」
「邪悪なロード達に『俺達』は殺された」

 アルベリッヒがそう答えると、彼の周囲に、幾人かの魔法師達の姿が出現する。おそらくそれは、彼と共にバルレアへの実地研修に向かっていた魔法大学の若い学生達の亡霊であろう。

「なるほど。一人ではなく、幾人かのゴーストの群体でしたか。これは実に珍しい事例です」
「そこをどけ、ロロナ。そこにいると、お前まで巻き込んでしまう」
「お断りします。世界の混沌に関する全ての情報を集め、それに対処するのが我々アカデミーの役割です」
「そうか、ならば仕方がない。そこの邪悪なロード達と共に、海の藻屑と消えるがいい」

 ロロナの奥にいるアステリアグリップスを見ながら、アルベリッヒはそう言い放ち、何らかの魔法の詠唱を始めるが、それよりも先に動いたのはロロナであった。彼女は、彼とのこの問答の最中に、彼の周囲に特殊な防御壁のような何かが張り巡らされていることを見抜き、その強度が混沌濃度に依存しているであろうと推測した上で、アルベリッヒよりも先にまずこの海域の混沌濃度を下げることで、その結界を弱体化させたのである。
 だが、アルベリッヒはそのことに気にもせぬまま、エーギルの周囲に発生している「巨大な気泡」の内側へと入り込んだ上で、乗っていた五人全員を巻き込む形で火炎魔法を放とうとする。水中とは異なり、この気泡の内側であれば確かにそれは強大な破壊力の魔法となりうる。しかし、それに対してグリップスは自らの盾をその場に立てた上で、聖印の力によってその火炎をその盾の方角へと収斂させることで、自分一人でその火炎魔法を受け止めた。

「私はこれまで『仕事』のために守ってきた。だが今は、仲間を守りきり、やらなければならないことが出来た。ここで倒れる訳にはいかない!」

 そう叫んだグリップスがアルベリッヒの魔法に耐えきると、次の瞬間、ロロナは傍らに立つリャナンシーと力を合わせて、全身全霊を込めて巨大な「真空」を作り上げ、気泡内に入り込んでいたアルベリッヒの周囲の魔法師見習い達の亡霊を、その門から発せられる圧倒的な風圧によって、一網打尽に消し去ることに成功する。
 更に、ファントムが自らの姿を瞬間的に影化した上で、アルベリッヒの不意を衝く一撃でその防備を削りながら深手を与えると、その直後にアステリアが、炎と風の力をまとったハルバードを振りかぶり、そこにアンドリューが妖精界の力を加えた上で、アルベリッヒに向かって振り下ろした結果、彼の霊体は真っ二つに切り裂かれ、その内側にうごめいていた混沌核も、一瞬にして粉砕された。

「なおもまだ我が前に立ちはだかるか、聖印よ……」

 アルベリッヒはそう呟きながら、静かに消滅していく。そんな兄弟子の残留思念が消滅していく様子を、ロロナは何も言わずに、ただ黙って見送るのであった。

4、エピローグ

 戦いを終えた後、エーギルは彼等を龍宮城に連れ戻す。ロロナは彼女に、一瞬だけ海面の様子を見に行かせてもらえないかと交渉したが、さすがに受け入れられなかった。
 そして、無事に帰還した彼等に対して、リリィは深く感謝した上で、静かな決意を秘めた瞳で、こう言った。

「色々考えたのですが、もう、この城のことを隠し続けるのは、限界なのかもしれません」

 リリィとしては、全ての投影体を敵視するユーミル(聖印教会)との共存は不可能だと感じつつも、「自分達の存在を許容出来る地上の勢力」に対しては、自分達の存在を無理に隠し続けるよりも、自分達が「陸」に対して敵対するつもりはない、ということを伝える方がお互いのためなのではないか、という考えに至ったらしい。

「つまり、外に対して国交を開く用意がある、と?」

 ロロナにそう問われると、リリィはきっぱりと頷く。

「はい。全ての国に対して、という訳にはいきませんが、ノルドであれば……」

 リリィはノルド出身であるため、ノルドの国風はよく分かっている。海洋王エーリクは、相手が魔物であろうとも、自分達の利益になる存在であれば、「浄化」よりも「利用」を選ぶ。無論、「搾取」や「略奪」の対象となりうる可能性もあるが、交渉次第では同盟可能な勢力であると彼女は考えていた。

アステリア様、これは今回の失態を挽回するチャンスです」

 ロロナが嬉々としてそう告げる。確かに、ここでこの龍宮城という「強大な海底勢力」を味方につければ、今後のこの地域の制海権確保だけでなく、対岸地方への勢力拡大という点においても、極めて大きな足がかりとなるだろう。兵士を失い、作戦に失敗したという事実は覆せないが、今後の交渉次第では、それ以上の成果を得ることが出来る可能性もある。
 だが、ここでリリィは、ロロナアステリアも全く想定していなかった「重大な問題」の存在を明かす。

「それに、どちらにしても皆さんが外に出た時に、この城の事情を説明する必要があると思います。というのも、この龍宮城は、外の世界とは『時間の流れる速度』が違うのです」
「ほう?」

 ロロナの中に「嫌な予感」がよぎる。だが、次の瞬間にリリィが発した言葉は、その予感を更に上回る「最悪の情報」であった。

「龍宮城内において一日が経過している間に、外の世界では約十日分の時が流れています」

 彼等がこの地に漂流してきてから、少なく見積もっても一日、下手したら二日近い時は既に経過していた計算になる。

「早く、我々を地上に返して下さい!」

 ロロナは叫ぶ。さすがに、10日以上も「行方不明」の状態が続いていたとなれば、これはただ事では済まない。当然、アステリアも狼狽する。

「これ以上国許を放置するのはさすがにまずい! 陛下に何と申し開きすれば良いか……」
「とりあえず、昨日私が街で入手したこの特産品を献上すれば……」

 二人が顔面蒼白で取り乱す中、リリィは落ち着いた口調でこう言った。

「私自身が赴いて、エーリク様に説明致します」

 彼女はノルドの名門貴族の出身であり、「元いた世界のエーリク」とは面識がある(そして「この世界のエーリク」もまた、当然「この世界のリリィ」とは面識があった)。確かに、それが話をまとめる上でも、一番確実な方法だろう。アステリアはその申し出にやや困惑しながらも、冷静に考えれば他に道はないと判断し、同意に至る。

「分かりました。ただ、外を歩くときは変装して下さい。さすがに、あなたが生きていた、となると、混乱が起きます」
「そうですね。陛下に会う時以外は、顔を隠すことにしましょう」

 また、龍宮城の面々としても、さすがに彼女一人で地上に行かせる訳にはいかないため、ジョンを始めとする護衛兵達は同行するつもりであり、その点についてもアステリア達は同意した。
 一方、グリップスもまた、この事実を聞かされたことに驚愕し、そのまま呆然としていた。

「ということは、きっともう魔城の攻略作戦も……」

 彼としては、ユージーンの思惑が崩れてしまったことについては、今更どうとも思っていない。ただ、恩義ある主君のエクレールや、その仲間達がこの間にどうなってしまったのかについては、やはり気がかりであった。
 そんな彼に対して、リリィは伏し目がちに告げる。

「申し訳ないですが、ユーミルには私が赴く訳にはいきませんので……」

 さすがに、投影体である彼女がユーミルに言って事情を説明する訳にはいかないことはグリップスにも分かっている。

「そうですね。ユーミルに対しては、私が申し開きをしましょう。それで許してもらえるかは分かりませんが……」

 グリップスとしては、さすがに真実を語る訳にはいかないので、どこか大陸の対岸にでも漂着していたことにするしかない。それで許してもらえないのであれば、いつでもユーミルを捨てる覚悟は出来ていた。
 そして、アステリア達の向かう先が「ユーミル」ではなく「ノルド」に変更されたため、彼女達はリリィと共に彼女の直属の護衛艦によってノルドへと帰還することになり、ファントムとエーギルは、その代わりにグリップスアンドリューを連れて、ユーミルの港町マルムへと向かうことになるのであった。

 ******

 ノルドに帰ったアステリアロロナは、上陸と同時に、自領に対して「自分達の帰還」を告げる手紙を送った上で、まずはリリィを伴ってエーリクとの会見に臨んだ。
 死んだと思っていた二人が「謎の投影体」を連れて帰ってきたことにエーリクは困惑しつつも、リリィの顔を凝視した上で、はっきりと断言する。

「にわかには信じられんが、この儂が臣下の顔を見忘れる筈がない。お主は確かにリリィだ。たとえ『他の世界のリリィ』だとしてもな」

 その上で彼は、リリィからの「同盟交渉」に対しても、前向きな姿勢を示す。

「お主達が我等に手を貸すつもりでいるならば、お主達を征伐する理由は今のところはない。ただし、少しでも『よからぬ動き』を見せれば、その限りではないぞ」

 エーリクはそう釘を刺した上で、ひとまずリリィ達を龍宮城へと帰還させる。そして、アステリアロロナに対しても、今回の遠征失敗の件については、この「想定外の土産物」を拾ってきた功績に免じて、不問に付すことにした。
 だが、アステリア達にとって本当に大変なのは、これからである。彼女の国許では、アステリアロロナも死亡したと思われ、まさに二人の葬儀を始めようとする直前であった。上陸直後に手紙を送ったおかげで、正式に後継者が定まる前にその生存が知らされたことで、周辺の氏族達のロード達が、彼女の所領を巡って「不穏な動き」を始めるのも防ぐことが出来たものの、それでも領民達は混乱した状態が続いている。
 そんな中、所領に帰ると同時に、二人は周囲に対して改めて諸々の布告に奔走する。

「この地の領主であるアステリア様はご存命です。くれぐれも、勝手な動きはしないで下さい!」
「皆さん、今すぐこの葬儀の準備を片付けて下さい! そして、今すぐ我が領の立て直しのためにご協力下さい!」

 今回の遠征を通じて、直属の兵士達の大半が失われた以上、まずは徴兵と練兵が最優先事項となる。軍事国家ノルドにおいて、兵を準備出来ない君主など、何の役にも立たない。ロロナが龍宮城から持ち帰った異界の品々を売りさばくなどして資金を確保しながら、一刻も早く、再び前線に復帰出来るだけの戦力を整える必要があった。

 ******

 一方、グリップスアンドリューは、ファントムが指揮する「エーギル」に乗って、まずは龍宮城から、ほぼ垂直に浮上する形で海面上に出た上で、そこから「何事もなかったかのように」マルムへと向かうことになった。その途上、アンドリューは恐る恐るグリップスに懇願する。

「お願いですから、私が投影体であることは黙っていて頂けませんか?」
「そんなことを漏らすつもりはないよ」

 グリップスとしては、龍宮城で見聞きしてきたことをユーミルの上層部に漏らすつもりは毛頭ない。状況次第ではエクレールにだけは話すことになるかもしれないが、それでも、あえてアンドリューのことまで彼女に説明する必要はないだろう。
 そして、エーギルが無事にマルムに到着すると、マルムの領主は驚いた表情で彼等を迎える。どうやら彼自身は、あのアルベリッヒによる襲撃の際、乗船は壊されたもののかろうじて港に流れ着いて無事だったらしい。

グリップス殿、ご無事でしたか。アンドリューも、そして船長殿もご無事なようで何よりです。それにしても、あの時、私の目には、貴殿の船は渦潮に巻き込まれて沈没したように見えたのですが……」
「何を言っているのですか? まぁ、船が沈んでしまったら、それと運命を共にするのが船長というものではありますが、幸い、私もエーギルも無事です」

 ファントムは飄々とそう語る。実際のところ、船員は軒並み命を落としているため、彼等だけが生きている状況は明らかに不自然ではあるのだが、ひとまずは「対岸に流れ着いたところから、三人で必死に船を動かしてユーミルまで帰還した」と言い張り、マルムの領主もそれ以上は追求しなかった。
 その上で、領主はユーミルの現状について語り始める。グリップスは、自分が不在の間に何が起きていたのか、主君であるエクレール達のことを心配しながら、黙って彼の話に耳を傾けるのであった(その内容はバルレアの魔城4を参照)。

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最終更新:2017年08月07日 11:47