ソラがラクス邸を訪れてから、三週間近くが過ぎている。
彼女をめぐる喧騒は、ようやく収まりを見せつつある。最近では、テレビも新聞も雑誌もネットでも、ソラのことが話題にのぼることはほとんどない。
それはカガリが情報管理省にきついお灸を据えたためか、それとも大衆が単純に飽きやすく、続けて起こったオーブの有名芸能人の不倫スキャンダルに興味を移しただけなのか。
ともあれ騒動は沈静化しつつあり、アスランやメイリンも「もう大丈夫だろう」と判断したので、ソラはようやく帰宅できることになった。
彼女をめぐる喧騒は、ようやく収まりを見せつつある。最近では、テレビも新聞も雑誌もネットでも、ソラのことが話題にのぼることはほとんどない。
それはカガリが情報管理省にきついお灸を据えたためか、それとも大衆が単純に飽きやすく、続けて起こったオーブの有名芸能人の不倫スキャンダルに興味を移しただけなのか。
ともあれ騒動は沈静化しつつあり、アスランやメイリンも「もう大丈夫だろう」と判断したので、ソラはようやく帰宅できることになった。
「せっかく子供たちとも友達になったんだけれどね。ラクスもちょっと寂しがっている」
「まあ、家に帰れるのは良いことさ。今生の別れというわけじゃなし、いつでも遊びに来てもらえばいいんだから」
内閣府の一角で、キラとカガリは談笑していた。私用ではなくれっきとした公務であり、PGの活動に関係する会議が開かれたためだった。
ただしその会議も終わり、休息時間が訪れていた。二人は統一連合の重鎮という立場をしばし離れて、気さくに語り合っている。
「それで、ちょっと相談があるんだけど」
「何だ何だ? その顔からすると、楽しいことか?」
キラの申し出を、カガリは一も二もなく承知した。笑顔で話している二人の姿は、ただの仲の良い姉と弟にしか見えなかった。
「まあ、家に帰れるのは良いことさ。今生の別れというわけじゃなし、いつでも遊びに来てもらえばいいんだから」
内閣府の一角で、キラとカガリは談笑していた。私用ではなくれっきとした公務であり、PGの活動に関係する会議が開かれたためだった。
ただしその会議も終わり、休息時間が訪れていた。二人は統一連合の重鎮という立場をしばし離れて、気さくに語り合っている。
「それで、ちょっと相談があるんだけど」
「何だ何だ? その顔からすると、楽しいことか?」
キラの申し出を、カガリは一も二もなく承知した。笑顔で話している二人の姿は、ただの仲の良い姉と弟にしか見えなかった。
リヴァイブでの経験が活きて、今回のびっくりパーティーは、ソラにもなんとなく予測がついていた。
「ソラお姉ちゃん、お家に帰れることになって、おめでとう!」
元気な子供たちの声が、歌姫の館の中庭に響く。
笑顔でソラを迎えるラクスにカガリにキラ、そしてアスラン。はてはカガリに連れて来られたシラヒの姿まであった。もっとも、彼は仕事をどうしても抜けられなかったメイリンの代役というわけではない。
「年齢が近い人間がいた方が楽しいだろう。シラヒ、お前も来い」
「そうだね、じゃあ隊長命令で、君も出席」
と、キラのお供で会議に来ていたシラヒにもお呼びがかかったのである。
レイラからは、「キラ様のお供ですって…アンタじゃ分不相応よ! ああ、羨ましい妬ましい恨みがましい! その役目、あたしと変わりなさい!」と首根っこを掴まれて脅迫されたものの、統一連合主席とPG隊長直々の命令を無視するわけにもいかなく、レイラの突き刺さるような視線を背に、シラヒは本日のパーティーに出席と相成った。
(でも…結構かわいい、かも)
子供たちにもみくちゃにされがらも、笑顔で相手をしているソラをシラヒは眩しそうに見つめている。
「奇跡の少女」のことはシラヒも知っていた。世間の熱狂からは一歩引いた立ち位置で、特に関心を払っていたわけではないが、連日連夜何らかのメディアで報じられていたので、嫌でも顔と名前を覚えてしまっていた。
テロリストに捕まっていたせいか、どこか暗い印象を写真からは受けていたが、こうして見てみると、どこにでもいる普通の明るい少女に見える。
「じっくり眺めているだけじゃなく、男なら積極的にアタックしてみろ。この軟弱者」
いつの間にか隣に立っていたカガリが、悪戯っぽく笑いながらシラヒの耳元にささやく。酒も飲んでいないのに、シラヒの顔が真っ赤になった。
彼は、そのままアスランに背中を押されて、ソラと子供たちの輪の中に放り込まれてしまった。ぎこちなく相手を務めるその姿に、カガリとアスランはつい笑ってしまう。
キラとラクスは笑顔の戻ったソラの姿を楽しそうに見つめている。パーティーを開くことは隠していたのだが、ソラがあまり驚かなかったのが残念だと話しながら。
楽しい時間は、あっと言う間に過ぎていった。
「ソラお姉ちゃん、お家に帰れることになって、おめでとう!」
元気な子供たちの声が、歌姫の館の中庭に響く。
笑顔でソラを迎えるラクスにカガリにキラ、そしてアスラン。はてはカガリに連れて来られたシラヒの姿まであった。もっとも、彼は仕事をどうしても抜けられなかったメイリンの代役というわけではない。
「年齢が近い人間がいた方が楽しいだろう。シラヒ、お前も来い」
「そうだね、じゃあ隊長命令で、君も出席」
と、キラのお供で会議に来ていたシラヒにもお呼びがかかったのである。
レイラからは、「キラ様のお供ですって…アンタじゃ分不相応よ! ああ、羨ましい妬ましい恨みがましい! その役目、あたしと変わりなさい!」と首根っこを掴まれて脅迫されたものの、統一連合主席とPG隊長直々の命令を無視するわけにもいかなく、レイラの突き刺さるような視線を背に、シラヒは本日のパーティーに出席と相成った。
(でも…結構かわいい、かも)
子供たちにもみくちゃにされがらも、笑顔で相手をしているソラをシラヒは眩しそうに見つめている。
「奇跡の少女」のことはシラヒも知っていた。世間の熱狂からは一歩引いた立ち位置で、特に関心を払っていたわけではないが、連日連夜何らかのメディアで報じられていたので、嫌でも顔と名前を覚えてしまっていた。
テロリストに捕まっていたせいか、どこか暗い印象を写真からは受けていたが、こうして見てみると、どこにでもいる普通の明るい少女に見える。
「じっくり眺めているだけじゃなく、男なら積極的にアタックしてみろ。この軟弱者」
いつの間にか隣に立っていたカガリが、悪戯っぽく笑いながらシラヒの耳元にささやく。酒も飲んでいないのに、シラヒの顔が真っ赤になった。
彼は、そのままアスランに背中を押されて、ソラと子供たちの輪の中に放り込まれてしまった。ぎこちなく相手を務めるその姿に、カガリとアスランはつい笑ってしまう。
キラとラクスは笑顔の戻ったソラの姿を楽しそうに見つめている。パーティーを開くことは隠していたのだが、ソラがあまり驚かなかったのが残念だと話しながら。
楽しい時間は、あっと言う間に過ぎていった。
子供たちは昼寝の時間ということで部屋に帰された。残っているのはキラとラクス、カガリにアスラン、そしてシラヒとソラだ。
午後のやわらかい日差しに照らされ、さっきまでの喧騒が嘘のように、中庭は静かな雰囲気に包まれている。
女の子の扱いにあまり慣れていない(レイラとの日常会話はこの場合何ら役に立たなかった)ため、傍から見ていてもどかしい限りではあったが、それでもシラヒは懸命にソラとの会話にのぞんでいた。
午後のやわらかい日差しに照らされ、さっきまでの喧騒が嘘のように、中庭は静かな雰囲気に包まれている。
女の子の扱いにあまり慣れていない(レイラとの日常会話はこの場合何ら役に立たなかった)ため、傍から見ていてもどかしい限りではあったが、それでもシラヒは懸命にソラとの会話にのぞんでいた。
ふいにソラの表情が曇り、会話が途切れてしまったのは、シラヒの一言がきっかけだ。
「ああそうだ、ソラさん、この紅茶美味しいですよ。ぜひ飲んでみませんか? 」
「はい、ありがとうございます」
ソラは勧められた紅茶を一口飲んで、少し驚いた。柑橘系の甘さが口の中に広がったのだ。
「口に合わなかったかなあ? ラズベリージャムが入っているんですよ。ロシアンティです」
「ロシア……」
「キルギス……ソラさんがいたところの近くの飲み方らしいですね」
「ガルナハンの……」
ソラはもう一口、紅茶を口にした。口の中に淡い甘さが広がる。同時にガルナハンでの経験が頭の中に駆け巡った気がした。
自分の作った豆とジャガイモのスープをみんなが喜んで食べていたこと。
その後の硝煙の香り。
嘘に塗り固められた報道。
白銀の世界。
食べ物とも思えないものを口にしながら飢えをしのぐ人々。
……ターニャ……。
ソラのほほを一筋の涙が伝った。あまりに凄惨な世界。あまりに過酷な現実。あまりに悲しい別れ……。
ソラの涙はかれることなく流れ続け、いつしか口からは嗚咽が漏れ始めていた。
いきなり泣き出したソラにシラヒは仰天してしまった。あたふたしながら、周囲に視線を泳がしている。
(俺、何かとんでもないことでも言っちゃいました?)とその目が訴えているが、当然ながら他の面々もソラがなぜいきなり泣き出したか分かるはずも無い。
彼女をどう扱ってよいのか考えあぐねている中で、ラクスは一人、すっと立ち上がり、ソラのもとに歩み寄った。
「……つらいことを思い出したのですか?……」
ソラは答えられなかった。ガルナハンでの別れは、ソラにとって人生ではじめての「別れ」であり、ターニャとの別れは二度と会うことの出来ない「死別」であった。
二度とは戻らない時。それは後悔などという生易しい感覚ではなかった。
あえて言うのなら、それは憎しみだった。
人が人を殺さなければ殺される現実への。
人が人をだまさなければ生きていけない現実への。
そして、それを知っても何一つ出来ない自分自身への憎しみだった。
「……私……何も知らなかった……。何も出来なかった……。みんな……みんな必死に生きていたのに……」
ソラの口から、自分でも押さえきれない言葉がこぼれはじめた。いきなりこんなことを言っても周囲は戸惑うばかりだろう、ということは分かっているのだが、どうしても言葉が止まらない。
しかし、そんなソラの言葉を、ラクスは何も言わずに受け入れる。
「ソラさん……あなたはとても優しい子ですのね……」
ラクスはソラをいつくしむように見つめ、そっと手を肩に置いた。
「世界中の人々があなたのようなら、世界はすぐに平和になるのでしょうに……」
ラクスの手のぬくもりが肩を通して体中に広がっていくような感覚にソラは満たされていった。あまりにもやさしいそのぬくもりは辛い現実から守ってくれているように感じられる。
(……ターニャ……)
その大いなる守りに守られながら、ソラは泣き続けた。一生のうち、これほど人に甘えてなくことが何度あるだろうか。
何も出来ない自分が人に甘えることに嫌悪感を覚えながらも、ソラの涙はとめどなくあふれ続けた。
「……あそこには……ガルナハンにはこんなにおいしい紅茶なんてありませんでした」
泣きじゃくりながらソラは自然と語り始めた。
まるで、それは母親に悲しいことを報告する子供のようだった。
「食べるものもほとんど無くて……寝てるとすぐに戦いになって……」
「………」
「それでも、みんな必死に生きていて……明日死ぬかもしれないのに、私の作ったスープをおいしいって言ってくれて……」
ソラはとまらなくなる自分の思いをそのまま言葉にした。
「ラクス様……なんで……なんで世界はこんなに血みどろなのに、わたしはこんなところに、こんな人から優しくされていいんですか?」
ラクスはたまらなくなりソラを抱き寄せる。ソラもそれに逆らわず、その身を預ける。
キラもアスランもシラヒも押し黙っていた。
彼らにも思い当たる節があったからだ。戦いの日々に身を置き、その悲惨さを目の当たりにして続けて、神経をすり減らす日々。
人のぬくもりを求めたくとも、それすらかなわず、ただ戦うことで日々が過ぎていく。
その嫌な経験は皆が等しく持っているものだったからだ。
カガリなどは、すでに目を潤ませて、必死に涙をこらえている状態だった。
そしてラクスは、ソラに優しく語り掛ける。
「ソラさん……。あなたは……今のままのあなたでいてください」
ソラははっとした。
(ソラ―――あんたはそのままで居てくれ。そのままで―――)
あの人の言葉が頭の中に響き渡った気がした。
いつしか涙は止まり暖かなラクスのぬくもりに包まれたソラがいた。記憶はまったくないが、まるで母親の胸に抱かれている幼子の頃のような感覚だった。
(今のままの自分……)
何度も……何度もソラはその言葉を心の中で繰り返した。
「ああそうだ、ソラさん、この紅茶美味しいですよ。ぜひ飲んでみませんか? 」
「はい、ありがとうございます」
ソラは勧められた紅茶を一口飲んで、少し驚いた。柑橘系の甘さが口の中に広がったのだ。
「口に合わなかったかなあ? ラズベリージャムが入っているんですよ。ロシアンティです」
「ロシア……」
「キルギス……ソラさんがいたところの近くの飲み方らしいですね」
「ガルナハンの……」
ソラはもう一口、紅茶を口にした。口の中に淡い甘さが広がる。同時にガルナハンでの経験が頭の中に駆け巡った気がした。
自分の作った豆とジャガイモのスープをみんなが喜んで食べていたこと。
その後の硝煙の香り。
嘘に塗り固められた報道。
白銀の世界。
食べ物とも思えないものを口にしながら飢えをしのぐ人々。
……ターニャ……。
ソラのほほを一筋の涙が伝った。あまりに凄惨な世界。あまりに過酷な現実。あまりに悲しい別れ……。
ソラの涙はかれることなく流れ続け、いつしか口からは嗚咽が漏れ始めていた。
いきなり泣き出したソラにシラヒは仰天してしまった。あたふたしながら、周囲に視線を泳がしている。
(俺、何かとんでもないことでも言っちゃいました?)とその目が訴えているが、当然ながら他の面々もソラがなぜいきなり泣き出したか分かるはずも無い。
彼女をどう扱ってよいのか考えあぐねている中で、ラクスは一人、すっと立ち上がり、ソラのもとに歩み寄った。
「……つらいことを思い出したのですか?……」
ソラは答えられなかった。ガルナハンでの別れは、ソラにとって人生ではじめての「別れ」であり、ターニャとの別れは二度と会うことの出来ない「死別」であった。
二度とは戻らない時。それは後悔などという生易しい感覚ではなかった。
あえて言うのなら、それは憎しみだった。
人が人を殺さなければ殺される現実への。
人が人をだまさなければ生きていけない現実への。
そして、それを知っても何一つ出来ない自分自身への憎しみだった。
「……私……何も知らなかった……。何も出来なかった……。みんな……みんな必死に生きていたのに……」
ソラの口から、自分でも押さえきれない言葉がこぼれはじめた。いきなりこんなことを言っても周囲は戸惑うばかりだろう、ということは分かっているのだが、どうしても言葉が止まらない。
しかし、そんなソラの言葉を、ラクスは何も言わずに受け入れる。
「ソラさん……あなたはとても優しい子ですのね……」
ラクスはソラをいつくしむように見つめ、そっと手を肩に置いた。
「世界中の人々があなたのようなら、世界はすぐに平和になるのでしょうに……」
ラクスの手のぬくもりが肩を通して体中に広がっていくような感覚にソラは満たされていった。あまりにもやさしいそのぬくもりは辛い現実から守ってくれているように感じられる。
(……ターニャ……)
その大いなる守りに守られながら、ソラは泣き続けた。一生のうち、これほど人に甘えてなくことが何度あるだろうか。
何も出来ない自分が人に甘えることに嫌悪感を覚えながらも、ソラの涙はとめどなくあふれ続けた。
「……あそこには……ガルナハンにはこんなにおいしい紅茶なんてありませんでした」
泣きじゃくりながらソラは自然と語り始めた。
まるで、それは母親に悲しいことを報告する子供のようだった。
「食べるものもほとんど無くて……寝てるとすぐに戦いになって……」
「………」
「それでも、みんな必死に生きていて……明日死ぬかもしれないのに、私の作ったスープをおいしいって言ってくれて……」
ソラはとまらなくなる自分の思いをそのまま言葉にした。
「ラクス様……なんで……なんで世界はこんなに血みどろなのに、わたしはこんなところに、こんな人から優しくされていいんですか?」
ラクスはたまらなくなりソラを抱き寄せる。ソラもそれに逆らわず、その身を預ける。
キラもアスランもシラヒも押し黙っていた。
彼らにも思い当たる節があったからだ。戦いの日々に身を置き、その悲惨さを目の当たりにして続けて、神経をすり減らす日々。
人のぬくもりを求めたくとも、それすらかなわず、ただ戦うことで日々が過ぎていく。
その嫌な経験は皆が等しく持っているものだったからだ。
カガリなどは、すでに目を潤ませて、必死に涙をこらえている状態だった。
そしてラクスは、ソラに優しく語り掛ける。
「ソラさん……。あなたは……今のままのあなたでいてください」
ソラははっとした。
(ソラ―――あんたはそのままで居てくれ。そのままで―――)
あの人の言葉が頭の中に響き渡った気がした。
いつしか涙は止まり暖かなラクスのぬくもりに包まれたソラがいた。記憶はまったくないが、まるで母親の胸に抱かれている幼子の頃のような感覚だった。
(今のままの自分……)
何度も……何度もソラはその言葉を心の中で繰り返した。
はるか昔に、貧困の中に自らの身を置き、恵まれない者の救済に尽力した、聖女のような女性がいたという。
あるとき、かの女性が外国で寄付と援助を募るための講演をしたとき、その話に感銘した少女から一つの質問を受けた。
「私も、あなたのように生きたいです。どうしたら貧しい国の人たちを助けることができますか? 私もこの豊かな国を出て、恵まれない人たちを救いたいです」
しかし、その女性は少女に諭すように言ったそうである。
「身近にいる人を助けなさい。貴方の周囲に、いくらでも助けを求めている人はいます。遠くで苦しんでいる人よりも、最初に隣人に愛を与えることが先です」
あるとき、かの女性が外国で寄付と援助を募るための講演をしたとき、その話に感銘した少女から一つの質問を受けた。
「私も、あなたのように生きたいです。どうしたら貧しい国の人たちを助けることができますか? 私もこの豊かな国を出て、恵まれない人たちを救いたいです」
しかし、その女性は少女に諭すように言ったそうである。
「身近にいる人を助けなさい。貴方の周囲に、いくらでも助けを求めている人はいます。遠くで苦しんでいる人よりも、最初に隣人に愛を与えることが先です」
その女性の伝記は、ソラの愛読書である。孤児院の図書館にあったボロボロの本を、繰り返し読んだ。何度読んでも感銘を受け、女性の一言一句に引き込まれた。どちらかと言えば成人向けの伝記で、子供には内容の難しい箇所もあったが、時折辞書を見ながらも一生懸命に読み進めた。
恵まれた境遇で一生を終えることもできたはずの人生を何の迷いもなく捨て、進んで貧しい地域に身を置き、人種性別信条の一切にとらわれずにただ人々の救済に尽力した女性の一生に、ただ素直に感動した。
孤児院でもらう少ない小遣いを一生懸命に貯め、古本屋でようやくその本を手に入れ、自分だけのものにした日は、今でも鮮明に思い出すことができる。
ソラが看護師という職業を将来の目標に定めたことにも、その本は大きく影響している。
確かに、ソラも自覚している。この女性ほど自分は献身的にもなれないし、愛情あふれることもない。彼女のように多くの人を救うことはとてもできそうにない。
しかし大層な事を成そうとするのではなく、一人一人が少しずつ隣人のささやかな苦しみを救い、愛を与えること。それこそが大切なことだと説く女性の姿に憧れ、それを実践したいと思い、そのささやかな方法として看護師を志すようになったのだ。
恵まれた境遇で一生を終えることもできたはずの人生を何の迷いもなく捨て、進んで貧しい地域に身を置き、人種性別信条の一切にとらわれずにただ人々の救済に尽力した女性の一生に、ただ素直に感動した。
孤児院でもらう少ない小遣いを一生懸命に貯め、古本屋でようやくその本を手に入れ、自分だけのものにした日は、今でも鮮明に思い出すことができる。
ソラが看護師という職業を将来の目標に定めたことにも、その本は大きく影響している。
確かに、ソラも自覚している。この女性ほど自分は献身的にもなれないし、愛情あふれることもない。彼女のように多くの人を救うことはとてもできそうにない。
しかし大層な事を成そうとするのではなく、一人一人が少しずつ隣人のささやかな苦しみを救い、愛を与えること。それこそが大切なことだと説く女性の姿に憧れ、それを実践したいと思い、そのささやかな方法として看護師を志すようになったのだ。
ラクス邸に身を寄せるようになってから、この本のことをしきりに思い出していた。その理由が分からなかったソラだが、ようやく今日、ラクス邸を離れる日になって、原因を突き止めた。
「ここにも…あったんだ」
先日までは見落としていたが、無意識に存在を認めていたのだろう。目立たない場所の書架にひっそりと置かれた本は、紛うことなきソラの愛読書。かの聖女の伝記だった。
「そう言えば、最近はさっぱり読んでいなかったな」
懐かしい気持ちになりながら、頁を開くソラ。もっとも読まなくても、ほとんどの文章は頭に入っている。それでも本を手に取りその重さを感じ、活字を実際に見つめれば、改めて感慨深い気持ちになるから不思議なものである。
そこでようやくソラは気づいた。
「この本、だいぶ傷んでいる」
図書室の蔵書の中でも子供向けの絵本や雑誌やコミックは、孤児たちに乱暴に扱われるだけあってかなり傷みが激しい。しかし大人向けの本は、手入れが行き届いているうえに、もともと読む人間が少ないためもあってか、新品同様なものが多いのだ。
しかしこの本は、表紙のところどころがかすれ、頁のふちもボロボロで、お世辞にも綺麗とは言えない。
まだこの本は絶版になっていない。まさかクライン邸の蔵書が、ソラと同様に古本屋で入手したものであるということはないだろう。
不思議に思っているソラの肩を、不意に叩いた人物がいる。
キラだった。
「あ、キラ様、おかえりなさい」
ソラの挨拶に、にっこり微笑むキラ。
「ああ、ただいま。そういえば、今日でお別れだね。でも、いつでも遊びに来てほしいな。子供たちも、君のことが気に入ったみたいだし」
機会があればぜひ、と頭を下げるソラの手元にある本を見つけて、キラが笑顔のまま言った。
「それは…そうか、君もその本を読んでいたんだ」
「え、『君も』、ですか?」
怪訝な顔をするソラにキラは答える。
「うん、その本はラクスの愛読書なんだ。時間さえあれば読んでいる。そんなにボロボロになるまでね」
初めて知った事実に驚くソラに、キラはさらに続けた。
「前に僕にも勧めてくれたんだよ。ぜひ読んでみなさい、って。
この本をはじめに読んだとき、彼女は目の前の霧が晴れるような気がした、って言っていた。こんなに素晴らしい心を持ち、献身的に人々の平和に尽くした人がいたのだって。
しかもその人は、他人に自分の功を誇るでもなく、自分のなすべきことをしただけだ、それは貴方たちの誰もができるささやかな行為なのだと、優しく説いたんだって。
私は聖女だ、歌姫だともてはやされるばかりだけど、とてもこの人の足元にも及ばない。でも、せめて自分にできることをやって、彼女の一万分の一でも他人のためになる人生を送りたい。そう、本当に、目を輝かせながら言っていた。
まあ僕は正直に言って、読んだ後にとても立派な人だなあ、くらいしか思わなかったけど。よほど彼女は感銘を受けたんだろうね」
キラと別れた後、ソラはじっと手元の本を見つめる。
自分と同じ本をラクス=クラインが読んでいた。そして、同じような思いを抱いていた。
かつてのソラだったら、素直に感激していただろう。現に今でも、そういった気持ちはある。
いや、ラクス=クラインだけではない。キラ=ヤマト、アスラン=ザラ、カガリ=ユラ=アスハ。現在の世界の頂点に立つ四人と接する中で彼女が知ったのは、彼らもまた本当に世界の平和と人々の幸せを心から願い、未来を信じて努力してゆく誠実な人間であるという事実だった。
「ここにも…あったんだ」
先日までは見落としていたが、無意識に存在を認めていたのだろう。目立たない場所の書架にひっそりと置かれた本は、紛うことなきソラの愛読書。かの聖女の伝記だった。
「そう言えば、最近はさっぱり読んでいなかったな」
懐かしい気持ちになりながら、頁を開くソラ。もっとも読まなくても、ほとんどの文章は頭に入っている。それでも本を手に取りその重さを感じ、活字を実際に見つめれば、改めて感慨深い気持ちになるから不思議なものである。
そこでようやくソラは気づいた。
「この本、だいぶ傷んでいる」
図書室の蔵書の中でも子供向けの絵本や雑誌やコミックは、孤児たちに乱暴に扱われるだけあってかなり傷みが激しい。しかし大人向けの本は、手入れが行き届いているうえに、もともと読む人間が少ないためもあってか、新品同様なものが多いのだ。
しかしこの本は、表紙のところどころがかすれ、頁のふちもボロボロで、お世辞にも綺麗とは言えない。
まだこの本は絶版になっていない。まさかクライン邸の蔵書が、ソラと同様に古本屋で入手したものであるということはないだろう。
不思議に思っているソラの肩を、不意に叩いた人物がいる。
キラだった。
「あ、キラ様、おかえりなさい」
ソラの挨拶に、にっこり微笑むキラ。
「ああ、ただいま。そういえば、今日でお別れだね。でも、いつでも遊びに来てほしいな。子供たちも、君のことが気に入ったみたいだし」
機会があればぜひ、と頭を下げるソラの手元にある本を見つけて、キラが笑顔のまま言った。
「それは…そうか、君もその本を読んでいたんだ」
「え、『君も』、ですか?」
怪訝な顔をするソラにキラは答える。
「うん、その本はラクスの愛読書なんだ。時間さえあれば読んでいる。そんなにボロボロになるまでね」
初めて知った事実に驚くソラに、キラはさらに続けた。
「前に僕にも勧めてくれたんだよ。ぜひ読んでみなさい、って。
この本をはじめに読んだとき、彼女は目の前の霧が晴れるような気がした、って言っていた。こんなに素晴らしい心を持ち、献身的に人々の平和に尽くした人がいたのだって。
しかもその人は、他人に自分の功を誇るでもなく、自分のなすべきことをしただけだ、それは貴方たちの誰もができるささやかな行為なのだと、優しく説いたんだって。
私は聖女だ、歌姫だともてはやされるばかりだけど、とてもこの人の足元にも及ばない。でも、せめて自分にできることをやって、彼女の一万分の一でも他人のためになる人生を送りたい。そう、本当に、目を輝かせながら言っていた。
まあ僕は正直に言って、読んだ後にとても立派な人だなあ、くらいしか思わなかったけど。よほど彼女は感銘を受けたんだろうね」
キラと別れた後、ソラはじっと手元の本を見つめる。
自分と同じ本をラクス=クラインが読んでいた。そして、同じような思いを抱いていた。
かつてのソラだったら、素直に感激していただろう。現に今でも、そういった気持ちはある。
いや、ラクス=クラインだけではない。キラ=ヤマト、アスラン=ザラ、カガリ=ユラ=アスハ。現在の世界の頂点に立つ四人と接する中で彼女が知ったのは、彼らもまた本当に世界の平和と人々の幸せを心から願い、未来を信じて努力してゆく誠実な人間であるという事実だった。
でも、何なのだろう。ほんのわずかなしこりが胸の奥に、消えずに残るこの感覚は。
その違和感は、ソラを捕らえて離すことはなかった。
この後もずっと…
その違和感は、ソラを捕らえて離すことはなかった。
この後もずっと…