「きつくきつく我の鋳型をとるように君は最後の抱擁をする」 俵万智

 さよならを告げられたのは、桜の花がほころびかけた、まだ春浅い三月の末だった。

 「ごめん。新しい相手が出来た。別れて欲しい」

 そう言って彼はうなだれた。まるで判決を待つ罪びとのように。

 恋はいつも理不尽だ。片方がどれほど想っても、すがってもどうにもならないことがある。恋を失う痛みは、もう二度と誰かを想うことをやめたくなるほどで。

 「ごめん」

 謝って欲しいわけではなかった。しかし、だからといってどうして欲しいのかは自分でもわからなかった。あえて言うならば彼が今口にした言葉が「嘘」であるということだけだった。

 だから私は微笑んだ。

 「わかった。しょうがないね」

 と。

 本当は、叫びたかったけれど。

 私の言葉に、彼は驚いたように顔を上げた。おそらく彼は、私が泣くかもしくはわめくかと言うことを覚悟していたのだろう。安堵とともに、わずかに失望の色がその瞳ににじむ。

 それは、愛されている者の、想われていることを知っているが故の傲慢な想い。

 「別れましょう。でもその前に」

 条件が一つ。

 「最後にもう一度だけ抱きしめて欲しいの」

 私がそう言うと、彼は少し戸惑った様子だったが、腕を伸ばして、私を抱きしめた。

 私も彼の背中に腕をまわす。これが最後だとは信じられなかった。この腕が、他の誰かのものになるなんて。もしくは、すでに誰かのものだなんて。

 と、彼は、何を思ったのか、私を抱く腕に力をこめた。

 「え、ちょ、ちょっと…」

 それはまるで、一番初めに私を抱きしめたときのような激しさだった。どこにも行かせまいとするかのような。愛おしくて、切なくて、どうしようもない、というようにきつくきつく彼は私を抱きしめた。

 さよならは笑って言うつもりだった

 本当はわかっていたから。さよならが来ることを。

 だから、私は静かに静かに準備をして。最後のときを待っていた。最後の時には、抱きしめてもらおう、と。それだけを望んで。泣くまいと、笑おうと。

 でもダメだった。

 ぷつん、と糸が切れた。

 あふれてくる感情を抑えきれず、彼のシャツをぎゅっと握った。こみあげてくる嗚咽を、歯を食いしばってガマンする。こんなときでさえ、私は声をあげて泣くことができない。

 「ごめん」

 もう一度彼はそう言った後付け加えた。

 「愛していたよ」

 「うん。知ってる」

 私を抱きしめる腕の強さは、彼の心のうちにまだわずかに残る、私へ愛情の強さなのだろう。

 きつくきつく、まるで心のうちに私の鋳型をとるように、彼は私を抱きしめる。

 それがいつか、別の人をだきしめることで消えてしまうとしても。

 ぴったり同じでない以上、彼の心に私は残る。

 それでいい、と今は思った。
最終更新:2007年04月26日 20:59