私が思い出す彼の瞳は、いつもどこか遠くを見ている。
遠くの世界にいる、手の
届かない彼女のことを想っているのだ。
私と一緒にいるときでさえも、時折彼の気持ちはふらふらと彼女のところへとさまよい出てしまい、私をいらだたせた。
今、彼はどうしているのだろう。まだ、彼女を追いかけているのだろうか。
彼の言葉を借りて言えば……
「女王のように美しく、気高く、悪魔のように残酷である」素数という、彼女を。
柔らかな日差しが、街を包んでいる。木々は紅葉し始め、風は少しずつ冷たくなってきていた。
もうすぐ秋が訪れる。
郵便局へ向かう途中、近道をするために公園を通っていると、広場のほうで、猫がニ、三匹のんびりと日向ぼっこをしていた。
ふと、彼のことを思い出した。
彼は動物が好きだった。一緒に歩いているときに、猫や犬を見かけると必ず立ち止まって私を呼び止めた。
「みてごらん、猫だよ」
とか
「犬がいるよ」
とか言って、必ず(それが飼い主のいるものでないならば)なでるか、ちょっとおちょくって遊ぶか、手にもっている食べ物を与えるかしたものだった。
私は小さくため息をついた。彼と最後に会ってから、もう十年の歳月が過ぎている。大学三年生のころ、彼はその優秀さを認められてアメリカのある有名な大学へ行ってしまった。病に苦しむ人の助けになりたいと看護婦を夢見ていた私は、もちろん一緒に行くわけにもいかず、別れを選択したのだった。
それからの彼の消息は知らない。私自身もさまざまな理由で、今は大学からは遠く離れた場所に来てしまっていた。
あの時別れを選んだことを後悔はしていない。彼の夢を邪魔するわけにも、私自身の夢をあきらめるわけにもいかなかったのだ。けれど、時折何かの拍子に思い出してしまう。こんなふうにちいさな動物を見かけたときや、子供の相手をしているときに。野球の試合をラジオで聞くときに。そして、さまざまな数字を見るときに。
彼を思い出す。
もう一度ため息をついて、私は郵便局へと向かった。
お昼過ぎの郵便局はすいていて、用事はすぐに済んでしまった。
出口へ向かおうとした矢先、聞き覚えのある名前が耳に飛び込んできた。
彼の名前だった。
心拍数が一気に跳ね上がった。振り向こうにも、別人だったときの落胆を思うとなかなか振り向くことが出来ない。けれど確かめたい。数学を愛し、小さなものを愛した彼なのかを。そして、彼だったのならば…
思いきって振り向き、ざっと目を走らせる。背広姿の男の人が、椅子をひいて局員の前に座ろうとしていた。何気なくその人は顔をあげ私のほうを見た。
彼だった。私が愛し、10年の歳月が経っても忘れうることの出来ない彼が目の前にいた。
驚きのあまり立ちすくむ私に、彼は懐かしい、ちょっと照れたような笑顔で私言った。
「久しぶりだね。こんなところで会うなんて」
公園のベンチに座って、私たちはいろんなことを話した。
彼は今、母校の大学で研究員をしているということだった。こっちには研究発表のために来たらしかった。アメリカでの大学の話も聞かせてもらった。10年分年は取っていたけれど、数学の話をするときのあの瞳のきらめきは少しも変わっていなかった。そして、猫を見つけたときの反応も。
「結婚したんだね」
私の左手に光る指輪を見つけて、彼が言った。
「ええ。三年前に」
見合いで出会った夫だった。優しく、子煩悩な人だ。
「実はもう、二児の母親よ」
「そうか…」
「あなたは?」
「僕はまだだよ。数学の女神を追うのに一生懸命なんだ。数学さえあれば僕は他に要らないんだ」
そのセリフを、私はとても彼らしいと思った。
「会えてよかったよ」
「私もよ」
心の中に残っていたさまざまな思いが、秋の日差しに溶けていくのがわかった。
「さよなら」
「さよなら…もうあえないかもしれないけど」
「そうね…元気でね」
「うん」
手を振って、彼は雑踏の中に消えていった。
優秀な彼はこれからさまざまな研究をするだろう。地道にひたすらに、誠実に数学の女王に尽くすのだろう。
「頑張ってね」
もう見えない背中に語りかけて、私は家へと向かった。
愛する者たちのいる、私がいるべきあの場所へ。
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このお話は「博士の愛した数式/小川洋子 作」の二次小説です。原作者・出版社とは何の関わりもございません。
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最終更新:2006年08月13日 19:12